2025.01.24
あの景色を、後輩たちにも ソフトボール・髙山樹里
Profile
髙山 樹里(たかやま・じゅり)
小学校1年からソフトボールを始める。名門・埼玉栄高校3年時には国体で優勝、その後、日本体育大学-豊田自動織機と進み、ともにエースとしてチームの勝利に貢献。また、数々の国際大会に出場し、アトランタ、シドニー(銀メダル)、アテネ(銅メダル)と3大会連続の五輪出場も果たしている。得意のライズボールを武器に上げた五輪通算8勝は、現在でも五輪最多勝記録となっている。2009年7月ボブスレー競技(女子2人乗り)でバンクーバーオリンピック出場を目指すことを発表。その後スケルトンに転向し冬季オリンピック出場を目指した。
現在は各地でソフトボール教室を行ないながらNPO法人ソフトボール・ドリーム理事、日本車椅子ソフトボール協会会長などの役職を兼務している。2017年愛知県で車椅子ソフトボールチームを設立し、自身は監督を務める。
INDEX
女性パラリンピアンの地位向上のために
小松:
今回のインタビューは、2000年のシドニーオリンピックで銀メダル、2004年のアテネオリンピックで銅メダルを獲得した、女子ソフトボール日本代表のエース、髙山樹里さんです。
東:
僕は髙山さんとは既知の仲でして。
本当に髙山さんは、さっぱりとした性格で、いい意味で、アスリートというよりは、僕にとって肝っ玉姉さんみたいな存在です。
姉御肌なんですよ。
小松:
現在の髙山さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、東海UNITED DRAGONS(車椅子ソフトボールチーム)の顧問は「A」、日本車椅子ソフトボール協会会長やトータル・オリンピック・レディス会の会長などのお仕事が「B」、タレントとしての活動が「C」、解説者などのメディア出演は「D」と様々な領域で幅広くご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
小松:
現役時代も、ユニフォームをお脱ぎになってからも、本当に精力的に活躍されています。
髙山:
いえいえ、そんなことないですよ。
でも確かに色々なことをやっていますよね。
色々なことやっていて、たまに自分が何をしているか、わからなくなる時があります(笑)。
小松:
今はどのような活動を?講演会などですか?

髙山:
私、喋るのが苦手なので、講演会はやっていないんですよ。
たまに子供たちにソフトボールを教える依頼を頂いたり、JOC(日本オリンピック委員会)のイベントに参加したりしています。
それと、車椅子ソフトボールの指導をしたり、TOL(トータル・オリンピック・レディス会)から頂くお仕事で日々忙しくしています。
東:
少々失礼なことをお聞きしますが、そのような髙山さんの活動はビジネスでやられているんでしょうか?
髙山:
いや、ほとんどボランティアなんですよ。
車椅子ソフトボールにしてもそうです。
本当にありがたい話なのですが、私が働いていた会社がスポンサーをしてくださっています。
生活ができるくらいのお給料はその会社からいただいています。
ソフトボールのアドバイザーという形で契約させていただいています。本当にありがたいです。
小松:
でもそれは、髙山さんが長きにわたり、ソフトボール業界に多大なる貢献をされてきたからですよね。
髙山:
いやいや、そんなことはないですよ。周囲の方に助けて頂いているだけです。
東:
改めて、TOLのことについてお聞かせください。
TOLの会長になられたのは2017年より少し前ですよね。柔道の杉本美香さんとか、仲の良い方と一緒に……。
髙山:
はい、TOLはオリンピックに出場した、女性選手の集まりです。
多くの女性オリンピアンの先輩たちが尽力してくだって、今では大きな団体になっています。
初代会長は小野清子、2代目木原光知子、3代目橋本聖子、4代目村山よしみ、とそうそうたる先輩方を中心に、女性スポーツ向上・社会教育の振興を目的に日々活動しています。
そして2018年10月から5代目としてこの伝統あるTOL会の会長として全力を尽くしたいと思っています。
東:
TOLでは、どういうお仕事をされているんですか?
髙山:
オリンピアンのOGの方々から会費をいただいて、1年に一回会報誌を作成したり、スポンサーを見つけイベントを企画・運営したりしています。
決して儲けはないですが、とにかく女性のオリンピアンたちは、こんな風に頑張っていますよ、ということをもっと世間に伝えたいんです。
オリンピアンで主婦になった方とかもいらっしゃるので、こういう会報誌を読んで「私も頑張ろう」って思ってくだされば嬉しいですし。
小松:
具体的にはどういった活動ですか。
髙山:
今まで約1,000名のオリンピアンの女性が参加してくれています。スポーツ文化の向上とか、体育の社会における振興を目的に活動しています。
具体的には年に1度の「TOL フォーラム」を開催したり、「TOLだより」を刊行したり、あとは、オリンピックの年に選定する「TOL オリンピアン賞」の授賞式をやったりしています。
小松:
女性アスリートたちのパワーは絶大ですね。
全国でスポーツ文化を広めるため、実技の講習イベントやセミナー、メディアにも積極的に出られています。
高山:
はい、TOLはとても素敵で面白い団体なんですよ。
1952年のヘルシンキ五輪に出場された先輩たちから現在のオリンピアンまで幅広い年代で活動しています。
その中で数年前にTOLたより(会報誌)でヘルシンキ特集をしました。
私も文章起こししたのですが、その中の話で、川で練習をしている時にメダカを飲んだらもっと速く泳げるんじゃないかと思って、メダカを飲んだエピソードとか(笑)。
今では想像できない事がたくさんあってとても面白かったです。
残念ですが、半分くらいの方はお亡くなりになられていますが、こういう話などはとても貴重なものだと思います。

東:
それは面白いですね(笑)。
小松:
話は変わりますが、高山さんは今でもユニフォームを着てマウンドに立つことがありますか。
高山:
ソフトボールで世界に挑戦することはなくなりましたね。
ただ、車椅子ソフトボールを通して競技には関わっています。
ソフトボールとの出会いと決意

小松:
車椅子ソフトボールですか。その競技との出会いは?
髙山:
あれはたしか2010年だったと思います。
北海道にある北翔大学でボブスレーの練習していた時、車椅子ソフトボールに出会たんですよ。
「へえ、こういうスポーツがあるんだな」って最初は思っていました。
それで北翔大学の先生と交流をしていくうちに、「ソフトボールなら、わたしでできるならお手伝いしますよ」とお伝えしたのがきっかけで、あっという間に活動に参加し、2017年には自分のチームも作るようになりました。
東:
今はその車椅子ソフトボールを、パラリンピックの競技にする運動をされているとか?
髙山:
はい、その通りです。たくさん困難はありますが、ある程度形になってきているので、うまくいけばいいと思っています。
私をサポートしてくださっている豊田自動織機も応援してくれています。
車椅子ソフトボールに出会ったきっかけって、私の人生の扉がもう一度開いたような感じです。
私がオリンピックで経験したあの世界って、障がいを持っている方でも見える世界だって思っているんです。
小松:
自らが若かりし頃、技術を磨いて勝つためソフトボールに向き合っていた日々と似た感覚で、車椅子ソフトボールに向き合っているんですね。
髙山:
はい、そうですね。とても大変ですけど。
私は、東海UNITED DRAGONSというチームを持たせていただいて、そのチームを作り上げて、選手たちがパラリンピックにいけたらいいなって思っています。
そのためには、上手に世界とコラボレーションして、パラリンピックに参加できるようにするのが私の使命かなと思っています。
東:
みんなの力を合わせれば、可能だと思います。
TOLのメンバーも後押ししてくれると思います。
髙山:
2024年のパラリンピックには絶対行きたいんで!選手たちにもあの世界を見せたいですし、周りでサポートしてくださっている方々のためにも。
支えてくれる人たちのため
小松:
髙山さんを支え、スポンサードしてくださっている会社について教えてください。
髙山:
豊田自動織機という会社です。
日体大を卒業後の1999年に入ってから今まで、約20年近くお世話になっています。
私はソフトボール選手を辞めて、ウィンタースポーツやったり好き勝手やっていたんですが、どんな時も会社は暖かく私のことをサポートして下さって。
東:
なぜ豊田自動織機の社長さんは、そこまで髙山さんに好きにやらせてくださるんですかね?
髙山:
社長にも本当にお世話になっているんですが、今の会長にもお世話になっているんです。
なぜでしょうね?わからないんです(笑)。
本当に優しい会社で、その会長がいるから私は今生活ができているようなもんですよ。
競技を辞めてから、OLとして仕事をしていた頃があったのですが、OL業務をやりつつ、今まで通り、ソフトボール講習やTOLや車椅子ソフトなどのことをこなしていったら倒れそうになったんです。
このままでは本当に倒れる!!と思い、「会社辞める」って上司に言ったら、すぐ今の会長の秘書から電話がかかってきて、なんで辞めるんだ!って言われて。
思い切って私のやりたいことを話したんです。パラリンピックのこととかですね。
東:
会長のお名前はなんておっしゃるんですか?
髙山:
豊田鐵郎様ですよ(笑)。
社長は大西朗さんです。、大西社長も「お前すごくいい活動してるな!面白いじゃないか!」って言ってくださるんですけどね。

東:
活動も素晴らしいんですが、みなさん髙山さんを応援してくれているんですね。
多分髙山さんが車椅子ソフトボールではなくて、違う競技のチームを作っても応援してくれるんだと思いますよ。
それにしても、厳しい練習をくぐり抜けてきた髙山さんの口から、会社員の仕事が辛かったというのを聞くのがちょっと意外でした。
髙山:
とにかく、椅子にずっと座っているのが辛かったのかもしれませんね。
OL頑張ろうと思ってたんですけど、無理でした(笑)。半年で倒れちゃったんです。
ソフトボールを辞めて、ボブスレーの後に出会ったスケルトン(※ソリ競技の一種)も辞めて、1年社会人として頑張ろうって思って、その年の4月から正社員で働き出したんですが・・・・仕事と両立がとても大変でした。
私が所属していたのは、広報部だったんですが、本当に忙しくて、広報部の業務と今まで継続してやっていた講習会やTOL・車椅子ソフトの活動を行っていたら倒れてしまって、それから辞めました。
東:
デスクワークでOLやるよりも、髙山さんにはもっと他の使命がある、ということを暗示していたのかもしれませんよ。
小松:
ソフトボールの後、ウインタースポーツへ転向されたお話なども聞かせてください。
きっかけは開会式だった
小松:
東さんは髙山さんの現役時代、マウンドでの姿を覚えていますか?
東:
はい、もちろんです。ソフトボールの選手といえば髙山さん、というイメージです。
髙山:
いえいえ、そんなことないですよ。(笑)
小松:
ソフトボールをはじめたのはいつから?
髙山:
子どもの頃、町内会のソフトボールチームがありまして、近所のお姉さんに誘われたのがきっかけで出会いました。
自分たちのチームは子どもの数が多かったので、男の子と女の子、それぞれチームがありました。
女の子のチームが女の子チームと戦うには、県大会に行かないと戦えなかったんですね。
だから普段は男の子のチームと試合をしていましたね。
小松:
最初からポジションはピッチャーでしたか。
髙山:
いや、最初小学校1年生の時は捕手や野手をやっていまして、ピッチャーやりはじめたのは小学校3年生からです。
私は子どもの頃、神奈川県の横須賀だったんですけど、結構当時はソフトボールのチームが多かったんですね。
横須賀にはたしか1チームしかなかったように記憶していますが、三浦市など他の市にも女の子のソフトボールチームがありました。
東:
小さい頃からソフトボール1本だったんですか?

髙山:
水泳もやっていました。あと小学校からスキーをやったり。親がスポーツ好きだったんですね。父が野球と柔道と陸上をやっていて、母が卓球をやっていたんですよ。
私には弟がいるんですが、弟はソフトボールをやったり、わんぱく相撲やったり、中学生からは柔道をやってましたね。
弟は柔道が結構強くて、2000年のシドニーオリンピックの時は、弟とオリンピックに行くというのが一つの目標だったんですよね。
彼はナショナルチームに入れて頑張ってたんですけど、当時は大きな存在がいました。
そうです、篠原信一さんです。
篠原さんには勝てなくて弟はオリンピックダメだったんですね(笑)。
小松:
ソフトボールという競技に集中し、全力を投じようと決意したきっかけは?
髙山:
私の頃は、ソフトボールがオリンピックの競技になかったので、水泳でオリンピックに行きたかったんです。
幼少期にTVで流れていた開会式を見て、私もこうやってオリンピック会場で歩きたいなぁ、って思ったのがきっかけです。
小松:
多くのオリンピアンやパラリンピアンを取材する機会がありますが、それぞれの選手には「トリガー」があります。
オリンピックを意識し、目指すトリガーです。
それが髙山さんの場合は、オリンピックの開会式の光景だったんですね。
髙山:
はい、ちょっと斬新ですね。でも開会式に出たかったんですよ(笑)。
教えられるよりも、自分の試行錯誤が成長につながる
東:
オリンピックとソフトボールがリンクしたのは、いつなんですか?
髙山:
それがまったくリンクしてないんですよ。
ずっと水泳に打ち込んでいたんですが、小学校5年生の時に、当時は水泳もソフトボールもやっていたんですが、ソフトボールの全国大会に選抜で選ばれて出場したんです。
ソフトボールをすると、水泳の記録が伸びない。
それがソフトボールへの分岐点かもしれませんね。
全国大会に呼ばれたので、水泳の記録が全然ダメになってしまったんです。
水泳に打ち込んでいた時は、スクールでは一番レベルの高いクラスで高校生と泳いだりしてました。
でも、水泳は好きだったんで、中学3年生の終わり頃までやっていました。
小松:
本格的にソフトボールの道を歩み始めたのは高校時代ですか?
髙山:
はい、本気で打ち込み出したのは、埼玉栄高校に入れてもらってからですね。
ご存知の通りあの高校はソフトボールの強豪校です。
もちろん中学生の時も、全国狙って練習してたんですが、「競技」という意味でソフトボールを意識しだしたのは、高校に入ってからですね。
自分はどうしたいのか?どういう風に投げたいのか?そういう意識が生まれたのが高校時代でした。
小松:
埼玉栄高校は、髙山さんをピッチャーとしてスカウトしたのですか?

髙山:
いや、それがですね、バッティングが見込まれて入ったんです。
一応ピッチャーやっていたから投げることはできるんですが、他にもいろんなポジションやってて、中学の時はピッチャー兼セカンド、みたいな掛け持ちだったんですよね。
最後はピッチャーをやってました。
でも高校ではバッターとして選ばれたんです。
でもね、私実はバッティングって嫌いなんですよね。面白さがわからないんです(笑)
東:
でも、バッターって爽快感ないですか?
髙山:
ただ手が痛いだけじゃないですか(笑)。
しかもバッターで打って走ってアウトになって、息切れしながらまたマウンドに行って投げる……、意味がわからない、本当に嫌いって思っていました(笑)。
でも、当たっちゃうから打順3番か4番だったんですよ。
東:
嫌な言い方ですね!(笑)みんな当てたくて必死なのに!
髙山:
高校はバッターで入ったんですけど、ピッチャーやっていた先輩が怪我をしてしまって、代わりに私が投げたことがあって、たまたま抑えられたんです。
そこから「髙山、ピッチャーもやったら?」って話になったんです。
高校のソフトボール部のピッチャーは、中学時代にエースで全国大会に行ったみたいな子がいましたからね、私なんて関東止まりで全国行ってませんでしたから。
でもいい意味で、ピッチャーとしては2番手、3番手でしたので自分の好きなように練習させてもらったんです。
それが徐々に良くなっていった、そんな感じですね。
小松:
そして髙山さんのピッチャーとしての才能が開花します。圧倒的な成績でしたね。
髙山:
実は、最初はたいしたことなくて。
私、ドロップ系のピッチャーだったんです。
といってもすごく落ちる感じでなくて、ナチュラルに落ちるボールというのかな。
スピードもその時は少し速くて、チェンジアップ気味のボールを投げていたんです。
でも、私にはこれといった球っていう決め球がなかったんです。
でも、高校の先生が、「これからライズボール、上がるボールの時代だから練習しなさい」って言ってくださって、ライズボールの練習をはじめたんです。
手取り足取り指導されることはなく、細かいところはあんまりこだわらずに、独自で考えて、ライズ回転が出来れば上がるはず!とにかく回転を意識してピッチング練習をしていました。
小松:
髙山さんの武器である魔球、ライズボールはそうやって生まれたんですね。
コーチから習ったわけではなく、自分で考えて身につけたなんて、本当に才能の塊です。
ライズボールを習得して、エースを不動のものにした髙山さんは、以前から投げていたドロップの技術も、独りで身につけたんですか?
髙山:
いいえ。ドロップは自然に投げていました。
中学時代に投げていたらドロップになっただけで、ドロップを学んで投げたわけではないのです。
東:
髙山さんのライズボールは凄かった。
細かく指導を受けるより、「ボールに回転がかかっていればなんでもいいじゃない」と考えて、あんまり細かいコーチのことを聞かずに技術を身につけられた、というのが本当に驚きです。
天才だと思います。

髙山:
いや、ただの天の邪鬼だったんです(笑)。
「これをやりなさい」って言われて、それをそのままやるのが嫌いだったんです。
それに自分の中で上手に変換しないとできない子どもだったんですよ。
必死に自分の中で変換して、「言われた通りにはできないけど、こうやってやればいいんだな」ってやって自分に合わせていたと思います。
でも最初は上がっているのもあんまりわからなかったんです。
それよりも私はコントロールが悪かったので、コントロールの練習を優先していました。
キャッチャーの構えているところに投げる練習ばかりしてて、ライズボールは二の次だったんですよ。
私は本当にコントロールが悪くて、それがコンプレックスだったんですね。
だからキャッチャーが構えているところに投げたいな、それを強く思っていました。
動く前に、まずは目標を決める
小松:
伺っていると、髙山さんはクリエイティブな発想で技術を磨いていますね。
誰かに教わるのではなく、自分自身で試行錯誤しながら、求めるスキルを完成させてしまう。
トップアスリートはたくさんいますが、こうした手法を確立している方は、異色だと思います。
髙山:
高校の時に、たとえば「目標がここだとしたら、それを達成するためにはどうしたらいい?それを達成するためには、どの段階で自分をどこまで高めればいい?」そんな考えが頭の中に細かくあったんだと思います。
小松:
まだ15、16歳ぐらいですよね。当時から考え抜く力があったのですね。
髙山:
すごく一生懸命だったことは確かです。
その頃、4年に1度ある世界ジュニア選手権大会というのが1995年に開催されることになっていたんです。
私は運良くその4年に1度のサイクルに入れて出場できるチャンスがあったんです。
そこに入るのが私の最終的な目標でした。
最終的には2番手か3番手のピッチャーとして選ばれました。
東:
1995年というのは、髙山さんが19歳、日体大に入られて1年生の時ですね。

髙山:
はい、ピッチャーって実は命がけで、ソフトボールって高校まではボールがゴム製なんですが、大学に入ると革製になるんです。
ボールが変わると全然違って、高校まで調子良かったのに大学に入ってダメになってしまう、というピッチャーって結構いるんですよ。
私は逆に良くなったパターンだったんですけどね。
東:
大学の頃のお話も聞かせてください。
代表になる、ということ
小松:
髙山さんも東さんも、日本代表を経験されていますね。
日の丸を背負うという、その感覚を教えてください。
東:
僕は最初に選ばれた時は、単純に嬉しかったんですけど、キャプテンに選んでいただいた時は「責任重いな」と感じましたね。
僕はエリートでなくて、雑草といいますか、期待されていないところから上がっていったタイプなんで(笑)、代表のキャプテンになって、ハンドボール界ではこれ以上立場的に上はないかもな、って思った時に怖くなってしまって、とにかく必死でした。
髙山:
私はジュニアの時は、「あ〜代表なんだ〜」って、結構ぽわーんとしている感じでしたね(笑)。
代表に入った時は、喜びよりも苦しみの方が多かったかもしれませんね。
私が入れるってことは、それ以上に入りたくても入れない選手がいるわけじゃないですか。
ということは、その落ちてしまった人たちも納得してくれるプレーをしなくちゃ、代表失格だと思っていましたから。選ばれる苦しみはありました。
小松:
代表に選ばれる喜びとともに、苦しみがあった。それはジュニアの頃からですか?
髙山:
はい、そう思っていました。私が選ばれたってことは、落ちた子もいるんだ、そう思った時に怖いな、思いましたね。
小松:
そして髙山さんは大学時代にアトランタ五輪を戦う日本代表のメンバーに選出されました。選ばれた時の気持ちはいかがでしたか。
髙山:
やっぱり選ばれて嬉しいのは一瞬で、怖かったです。大学生だったし、何を言われるかわからなかったし。先輩たちがどう思っているのかって。
でもアトランタ五輪は本当に正直大変な思いが強かったです。
気持ちとしては「やった、念願のオリンピックの開会式に出れた!」それだけかな(笑)。
一番下っ端だったんで、道具も一人で管理しないといけませんでしたから。
連絡係とか洗濯もやりました。
東:
本当に、日本のあの軍隊的発想ってなんでしょうかね?みんなでやればいいのに、っていつも思うんですよね。
そして髙山さんはピッチャーとして登場して、4位になりましたね。
髙山:
まさか自分が開幕で投げるなんて思ってもいなかったんです。
実はそれって、デーブさん(大久保博元さん)の一言だったんです。
試合直前までピッチャーが決まってなくて、キャッチャーが呼ばれて、4人のピッチャーの中で安定しているのは誰だ、って話になって、「樹里です」ってことになり、私が投げることになったんですよ。

小松:
デーブ大久保さんは、臨時コーチでしたか?
髙山:
はい、臨時コーチで来てくださっていて。
しかもデーブさんは自腹で来てくださってたんですよ。
デーブさんがいなかったら私、あの時本当にヤバかったかもしれません。
チームの中は派閥ができていましたし、私は派閥の外で、かばってくれる人もいませんでしたし。
あの時は本当に最悪でした。
小松:
オリンピックを経験した髙山さんは、大学を卒業し豊田自動織機ソフトボール部へ。
選んだポイントはどこでしたか。
髙山:
はい、あのチームは、外人バッテリーでしたしピッチャーがたくさんいました。
しかもエースがいて、これはいいな、ここにしようって決めたんです。
だって一人のエースで投げてたら練習試合まで全て投げなくちゃいけないですよね。
だったら2番手3番手でもいいからそこで投げて強くなって、そこからナショナルチームを目指そうと思ったんです。
宿敵アメリカのエースピッチャーはどう準備しているかも見えましたし、外人キャッチャーはどういうイメージで組むのかもわかりましたし、たくさん自分はここで練習できるなと思って、この環境を選んだんです。
東:
その環境を選んで周りの反応はどうでした?
髙山:
「あのチームに行ったら投げられないぞ」って言われたんですけど、私は国際大会で活躍するために練習したいと思ってましたし、それにはあのチームだなって思ってました。
ピッチャーがたくさんいるのが本当によかったですね。まあ他にも色々ありましたけど……。
恩師との出会い
小松:
色々な経験を積み、自身が思い描くシナリオの通りに練習し、そして代表で恩師・宇津木監督と出会います。
髙山:
宇津木監督は、すごく面倒を見てくださったんです。
監督が言ってらしたんですけど、私には他のピッチャーにない独特な「間」があるらしくて、監督はそれが良かったみたいです。
あと、「お前は何考えているかわからない」って言われたことあるんですね。自分ではわかりやすいと思うんだけどなぁ、って感じるんですけどね(笑)。
監督が言ったことをちゃんと理解して、それに対して動ける駒を作らなくてはって監督も思ってらしたでしょうし、ピッチャーでも、計算のできるピッチャーが必要だったんでしょうね。
先発、中継ぎ、抑えのどこでもいけるって思ってくれて、私を選んでくれたんだと思います。
東:
アトランタではメダルにあと1つ届かず4位でした。宇津木監督もその時コーチで入られていましたよね。どういう気持ちでしたか?
髙山:
私も悔しかったですけど、宇津木監督もそうとう悔しかったと思いますよ。アメリカに全然歯が立ちませんでしたし。
小松:
次のシドニー五輪に向けてはどんな練習をしていきましたか。何かを特別に強化しましたか。
髙山:
死に物狂いで練習していました。だって目をつぶって開けたら朝ですよ。
そんな日が本当に毎日続いていましたね。
私的には1秒か2秒ぐらいしか寝てない感覚、そのぐらい毎日ヘトヘトでした。ずっと走りっぱなしでしたし。
小松:
宇津木監督の新体制で、チームに変化はありましたか。
髙山:
本当に色々変わりましたね。後輩たちも先輩たちもみんなで一丸となってチームを作ろうって。
道具のこともみんなで協力しました。
私たちはミズノさんがスポンサーとして道具を提供してくださっているのですが、ミズノさんと道具の話を直接したり、サポートしてくださっている人たちに感謝を持ちながらチームを作っていきましたね。
本当のチームらしさが生まれた
東:
後輩たちには、どういう指導をされたんですか?
髙山:
私は一番下の年代から代表だったので、裏方的な仕事を一緒にやっていた同い年のキャッチャーがいて、彼女と二人で色々やってました。
表から見えるような仕事は後輩たちにやらせて、そうすれば周りからは「あいつらは仕事やってるな」って見られますよね。
でも私たちは昔からやってる仕事をこなしてました。それぞれが「できる仕事をやる」そんな環境を作ってましたね。

東:
代表のエースは偉そうにしているんじゃないか?って思ってる人もいるのではないですか?
髙山:
いやいや、全然みんな一緒です。エースとかピッチャーだから物を持たないなんてNGですよ。
もちろん重たいものを投げる手で持ち続けるのはあんまりよくないですよ。でもやれることってあるんです。エースだって神様じゃないですから、みんな同じチームですから。
でもね、ピッチャーって恵まれているんですよ。周りが気をつかってくれて、周りが色々な仕事を自分より多めにやってくれたりして。
支え合ってチームってできてるんだな、って思いましたね。
小松:
そうやって宇津木監督の指導の元、チームが変わっていったんですね。エースピッチャーとして、宇津木監督は髙山さんにどんな指導をされてたんですか?
髙山:
エースだなんて思ってないですよ。ジャパンに来るピッチャーなんて、みんなエースですからね。
小松:
宇津木監督とコミュニケーションは密にとっていましたか?
髙山:
はい、かなり頻繁に取ってましたよ。
静岡で合宿が多かったんですけどね、みんなでお風呂一緒に入るんですけどね、必ず監督も温泉に1時間ぐらい入ってるんです(笑)。
どんどん選手が来るので、なかなか出られないから、露天風呂の岩のところに座って、ずっと選手と話をしてました(笑)。
私は道具片付けるから一番最後で、「おせーな!」って言われてましたよ(笑)。
東:
お風呂で戦術の話なんかをしてたんですか?
髙山:
違います。くだらないことしか話してないです。彼氏いるのか、とか(笑)。もちろんソフトボールの話もしましたけどね。
データにこだわることの大切さ
東:
練習中のコミュニケーションはどうでした?
髙山:
そうですね、テクニックというよりも、普段の練習をしていて、次の対戦相手が決まりますよね。
そして監督は私たちの練習を見ながら、次の試合ではこういう使い方をしたいから、こういう練習をして欲しいって選手たちに指示を出すんですよ。
それが理解するのに結構時間がかかるんで、監督に聞きにいったりしてましたね。
逆に私からも、「こういう状況の時に投げてみたいのでお願いします」みたいな話をしたりしましたね。監督はそんな要望を、全部は無理ですが、サラリと呑んでくれるんですよ。
あとは、個人で作ったデータにはこだわってましたね。
小松:
対戦相手のを、自分で集めていたのですか?
髙山:
はい、自分のデータは自分で作っていました。
たとえばカナダの選手だったら、対戦した時に自分の投げた感覚と、チームメイトが撮影してくれた自分のピッチングを折り合わせながら、このバッターに対してはこういう戦略で、というのを積み上げていくんです。
小松:
そのデータの集積がメダルに繋がっていくんですね。
髙山:
2年かけて世界選手権があり、その2年後にオリンピックがあるので、その2年と2年データを持ってオリンピックに行ったんですね。
東:
髙山さんの頭の中には、対戦相手のデータは全部入っているんですか?

髙山:
私だけでなくてキャッチャーも、対戦相手のデータはすべて入ってます。
キャッチャーの山田美葉とはすごく仲が良かったんです。同級生だしジュニアから同じだし、今でも仲良くしてますよ。
東:
ちょっと話が変わるんですけど、ソフトボールのデータの取り方って、ハンドボールのゴールキーパーと似てるんですよ。
彼らも3人ぐらいでチームを組んでデータを取っています。
各チームのキーマンに対しては特に詳細で、あのチームの彼はこういう場面ではこういうシュートを打ってくるから絶対に止めよう、などと分析しています。
やっぱり最後は「練習」
小松:
監督の存在、チームの雰囲気、データの集積、それが集まった時にメダルに手が届くんですね。
髙山:
はい、そしてとにかく練習です(笑)、本当にキツかったですあの時は。あんな練習したの人生でなかったです。
東:
ソフトボールの宇津木さんと、シンクロの井村さんは世間では怖いっていうイメージがありますよね(笑)。
髙山:
私は井村さんの方が怖いと思いますよ(笑)、宇津木監督実は優しいですから(笑)。
どちらの方も、選手のために厳しく指導するのは変わらないと思いますけどね。
それに、オリンピックの時って、選手よりも辛いのは監督だと思います。
シドニーオリンピックときの宇津木監督なんて「負けたら全て私の責任だから、みんなは頑張っていってこいよ!」って言ってくれて、こんな監督いない!素敵!って思っていました。
小松:
今でも思い出す一番厳しい練習は?
髙山:
一番辛かったのはちょうどこの時期(1月)にやっていた日本代表のトレーニング合宿ですかね。
10日間休みなし。まず1時間アップでずっと走るんですよ。
そしてキャッチボールやってすぐアメリカンノックがはじまります。
東:
アメリカンノックってなんですか?
髙山:
サードからファーストに投げて、ファーストに走って、ボールを受け、それをホームベースまでボールを持って走り、サードに戻るんです。
そして5本終わったら次はショートのポジションからファーストへ5本。
今度はファーストからサードに投げサードからホームに5本。
セカンドからサードに5本。
それが終わったら次は外野に行きます。レフトからライト、ライトからレフトという感じで球場全体を一周するんです。
しかもノーエラーじゃないと終わらないし、15人ぐらいしかいないからずっと走りっぱなしだし。
もう意味がわからない(笑)。
東:
うわーそれはキツいですね。
小松:
そのきつい練習の最中にも、「これが次の勝利に繋がるんだ」という思いになるのですか?
髙山:
いや、無心ですよ。でもピッチャーの私は「これって野手の気持ちも考えられるな」って思っていたのと、トレーニングの一環だとしか思っていなかったです。
東:
でも髙山さんは無意味など思ったことはやらないんですよね?その練習の中に何か意味を見出したんでしょうね。
髙山:
そうですね。あと独特のトレーニング体操があるんですよ。
2人1組で馬跳びやったり、長座姿勢で足開いてグーパーってやって20回交互に飛んだり、馬跳びして下を膝をつけないでくぐるとか、腹筋とか色々ミックスして、それが何100回って続くんです。
東:
それもキツいですね。
髙山:
アップが終わって、キャッチボール、そしてさっきのアメリカンノックをやって、個人ノックもあって、それからノーエラーノックっていうのがありました。
ピッチャーからスタートして、順番に野手全員にノックし、、エラーしたら最初から、というノックです(笑)。
またエラーした本数を練習の最後に、
エラーした分「連帯責任だ」と言われて走らされたこともあるんですよ(笑)。
シドニー五輪へ
小松:
想像を絶する練習をこなし、いよいよオリンピックの舞台へ。
東:
シドニー五輪で日本女子ソフトボールは銀メダルを獲りましたね。
とても素晴らしい結果ですが、金メダルでなかったということに対して、髙山さんはどのように捉えていらっしゃいますか?
髙山:
まあしょうがないですよね。
予選で全勝していたので、余計「金メダル」と言われましたが、アメリカに勝てなかったのは、日本よりもアメリカが「勝つ」という思いが強かったのだと思います。
私はアトランタから行かせてもらって、若手、中堅、ベテランという3段階踏ませてもらい、多くの経験をさせてもらいました。
この経験は今でも私の財産になっていると思います。
東:
後輩を育てていくのに、ご苦労されたんじゃないですか?
髙山:
今まで諸先輩方が私にやってくださっていたことを、自分がやらなくちゃいけないので、大変な部分はありましたが、そこまで負担ではありませんでした。
例えば、上野(由岐子)がチームに入ってきた時、宇津木監督は最初に私の側に置いたんですよ。
ずっと同じ部屋でしたし、上野と常に同じ行動をしてました。
小松:
同じエースとして、上野選手へのライバル心もあったのでは?
髙山:
みなさんそう言うんですけどね、私ってライバルっていう感覚ないんですよ。思ったこともないし、そのライバルを目指すっていうのもないんです。
それよりも、「自分自身がどうしたいのか?」と言う思いが一番強かったです。
だから上野が出てきたら、こいつを蹴落とそうっていうのもないし、逆にみんなで戦うんだから同じチームメイトだって思っていました。
もちろん違うチームだったら戦わないといけませんが、ナショナルチームでは同じチームですからね。
その後輩がちゃんとできる道筋を立ててあげるのが先輩の役割だと思っていますよ。
できないことをカバーしてあげるのが先輩だと思っています。
小松:
そして2004年、ベテランとして五輪に出場します。アテネがもたらしてくれたものは?

髙山:
夢の実現です。これは中学時代の柔道部の先生に言われたのですが、アトランタ五輪に出場した時「1回オリンピックに出れるのは、まぐれだから。
3回出たら実力だ。だから3回行かなきゃダメなんだ」って。
自分がベテランになるまで、その言葉が突き刺さっていたんですよ。3大会でなければ、と自分に言い聞かせていましたから。
東:
ちょっと待ってください(笑)。髙山さん柔道もやってたんですか?
髙山:
はい、中学3年の9月から初めて初段を取って、大学行って二段を取りました。黒帯が欲しかったんです。
球技から氷上のF1へ
小松:
髙山さんは、試合に向けてどう心を整えていますか。
髙山:
それが私ってあんまり集中力なくて、試合の直前まであまり何もやらないんです(笑)。
それがユニフォーム着て、グローブ持って、さあやろう、って思った瞬間切り替わるんですよね。
東:
ピッチングに集中している時と、そうでない時って自分でわかるんですか?
髙山:
はい、集中している時は、マウンドに立った瞬間、ホームベースまではすごく近くなるんです。
逆に遠いなって思った時は調子が悪い時ですね。
1球ずつ投げて、だんだん近づいている感じがする時もありますし、1球投げたら、「あ、今日はダメかも」っていう日もあります。
小松:
ピッチャーとしてオリンピックに3度出場されて、銀と銅の2つのメダルを獲り、周囲の評価も勝ち取ることができました。
そして、新たなチャレンジへのオファーが球技からウインタースポーツへ大転換をしました。
2009年の夏、日本ボブスレー・リュージュ連盟から招聘され、女子2人乗りのボブスレーで、2010年の冬季バンクーバーオリンピックを目指すことになります。
髙山:
はい、その時会社でも監督とコーチが変わって、私が試合に出ることも少なくなったんです。
4度目のオリンピックとなる北京大会も、私自身は目指していました。
けれど、ソフトボール協会からは声もかからなかった。
セレクションのエントリーを申し出ましたが、ついに連絡もなかったんです。
東:
そんなことがあったんですか。
髙山:
私も衝撃を受けていました。なんとか道はないかと悩んでいた時期でした。
結局、ソフトボール協会からの連絡はなく、道は閉ざされました。
その時、異例のオファーがあって、「もう一度日の丸を付けて戦う機会が得られるのなら、やってみよう」と、思い切って飛び込んでいった感じです。
小松:
ボブスレーという競技には、どういう印象を持っていましたか。

髙山:
実は競技自体を見たことなくて(笑)、私がパイロットと乗るボブスレーを見ても、これは一体なんだろう?と、思うほど無知でした。でも一度やったら結構面白かったです。
小松:
難しさはありましたか。
髙山:
はい、一番はコンビネーションですね。パイロットとの信頼関係がないとできないスポーツだなって思いました。
その後、2人乗りのボブスレーでなくて、1人でできるスケルトンを選び、練習を始めました。
東:
それはどういう経緯だったんですか?
髙山:
2009年の10月頃バンクーバー五輪の前に外されちゃったんです。
その時、スケルトン選手の中山英子さんに、スケルトンやりなよ、12月に大会あるから出れるよって言われて(笑)。
それからソリやヘルメットを色々なところから手配して大会に出ちゃったんですよ。そしたらすぐスケルトンの魅力にハマってしまいました。
その後会社に直談判して、スケルトンって競技があるけれどやらせてほしいって言ったらOKが出たんです(笑)。
メダルの先にある人生に向かって
小松:
今回のインタビュー企画のテーマは、オリンピアンの栄光とその後です。
オリンピックに出場し、脚光を浴び、メダルを獲ったアスリートたち。大舞台での注目は華々しいものですが、それは永遠には続きません。その後の人生を切り開かなければなりませんね。
髙山さんは、2009年に現役を引退されますが、その後の人生を切り開くことに、プレッシャーを感じたり、行く末を不安に思ったりしたことはありましたか?
髙山:
オリンピックを通じて、人間の表と裏を見てしまったというのはありますよね。
それで少し人間不信になった時期もありました。
最初はもてはやすんですが、時期が過ぎるとサーっといなくなりますからね、メディアは特に。
でもその中でもサポートしてくださるメディアの方もいらっしゃいますよ。
今でもずっと応援してくれるメディアの人もいます。
まあ表裏って絶対ありますからね。
東:
お話を色々とうかがってきて、今は人生とても充実されてるんですね。
髙山さんって、交流会でもすごく人気なんですよ。
姉御肌だし、経営者の人に好かれるんですよね。
オリンピックでメダル獲ったのに、全然偉ぶらないし天狗にならないし。
髙山:
くだらない話しかしませんけどね(笑)。
小松:
メダルを獲り、栄光に包まれると、自分を見失ってしまう。そうした例は少なからずあると思います。
髙山:
私なんて、メダルをどこにしまったか覚えてないんですよね。探すのが大変なんですよ。
講習会で「メダル持ってきて」って言われるんですけどね、どこにあるんだろう〜っていつも考えます(笑)。
東:
旦那さんが探してくれるんじゃないですか(笑)。猛烈アタックを受けて電撃結婚した旦那さんです。
今はTOLの会長職や車椅子ソフトボールのチームのこと、いろいろな団体にネゴシエーションしたり、それこそ政治的なことを活動しなくてはいけない。
そういう時に結婚という人生の大きなターニングポイントを迎えられたわけですが。
髙山:
楽しいですよ。料理好きなんでお弁当も毎日作ってるんですよ。
小松:
髙山さんのそうしたエピソードからも、オリンピアンというプライドに縛られて生きてないことがよくわかります。
髙山:
じゃないと動けませんよね。プライドに固まっていたら動けないです。
だからちょっとぶっ飛んだ生活してるのかもしれませんね、シェアハウスしたりとかね。
いまだにそのシェアハウス在籍してますよ。時々行って、「部屋汚いから片付けろ」とか言ってますね(笑)。
東:
髙山さんが住んでいたシェアハウスって、「ゴリラハウス」という名前で呼ばれていますよね(笑)。
髙山:
でかいアメフト選手4人が住んでいたからゴリラハウス。
私、独身の頃、そこに参加して住んでたんです。
5LDKで部屋は一人一部屋なんですが、お風呂やトイレは共同。
でも、「姉さん、大丈夫ですか?」と、アメフト4選手がいつも気を遣ってくれていたので、とても快適でした(笑)。
小松:
ダイナミックなテラスハウスですね(笑)。
髙山:
ずっと愛知に住んでて、東京に仕事で来るとホテル住まいで、ホテル探すのも辛いし資金も大変だから、だったら部屋借りようってことになって、仲のいい友人が声かけてくれて、海外と同じ感覚で、男女が暮らすシェアハウスかなと入ってみたら、男だらけでしかもアメフトマンばっかりという(笑)。
小松:
新しいコミュニティに出会っても、髙山さんは人見知りをしない。持ち前の順応性が発揮されて、生活を豊かにしていますね。
髙山:
はい、このどんどんと広がっていく感覚がいいですよね。ソフトボールの業界というのは、言い方悪く言えば「箱」でしたからね。
小松:
「車椅子ソフトボールをパラリンピック」に、という想い、心から応援してます。
髙山さんがオリンピックの舞台でご活躍されたように、車椅子ソフトボールも世界に羽ばたくこと、信じています。
東:
みんなの力を合わせれば、可能だと思います。TOLのメンバーも後押ししてくれると思います。
髙山さんは代表の時、「私の体は自分の体でなくて国の体」だっておっしゃっているのを聞きました。
まさに今も同じ気持ちで、日本の車椅子ソフトボールを世界に羽ばたかせようとしているんでしょうね。
髙山:
はい、現役時代は、自分の体は自分だけのものでないって、本当にそう思っていましたからね。怪我しないようにして、右手を神様のように崇めいていました。
ドアを開けるのも左手使ったり、爪切りで爪も切ったことないですし。何十年もヤスリ使ってましたしね。本当に右手は大切にしていました。
小松:
そんな経験や体験も若い世代に伝えていらっしゃるんですね。折を見て応援に行きたいです。
髙山:
見たら驚きますよ!全く違う姿が見られますよ!!
それに車椅子ソフトボールの山なりのボールを打つ技術とかすごいですよ。
東:
さて、それでは改めて髙山さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、東海UNITED DRAGONS(車椅子ソフトボールチーム)の顧問は「A」、日本車椅子ソフトボール協会会長やトータル・オリンピック・レディス会の会長などのお仕事が「B」、タレントとしての活動が「C」、解説者などのメディア出演は「D」と様々な領域で幅広いご活躍をなさっています。
小松:
まずは2024年に車椅子ソフトボールをパラリンピックの正式種目にすることに注力しながら、女性アスリートの地位向上やさらなるご活躍のためにもますますご活躍いただきたいですね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
東:
今後のご活躍が楽しみです。今日はありがとうございました。
髙山:
ありがとうございました!
(おわり)

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。
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