2025.01.24

社会を変えるのは、制度よりも「人」なんです 元パラリンピック競泳日本代表・河合純一

Profile

河合純一(かわい・じゅんいち)
1975年生まれの(43歳)の元競泳選手。バルセロナから6大会連続でパラリンピックに出場し、金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得。日本パラリンピアンズ協会会長、スポーツ庁スポーツ審議会委員、独立行政法人日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部開発課主任専門職、早稲田大学非常勤講師など様々な役職に従事している。2016年、IPC(国際パラリンピック委員会)パラリンピック殿堂入り。

東:
今回はバルセロナから6大会連続でパラリンピックに出場し、日本人最多の金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得した元パラ競泳選手の河合純一さんにお話を伺います。

小松:
河合さんは2003年に日本パラリンピアンズ協会を発足させ、会長に就任。2016年にはIPC(国際パラリンピック委員会)に選ばれ、日本から史上初めてパラリンピック殿堂入りを果たされました。現在はスポーツ庁スポーツ審議会委員、独立行政法人日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部開発課主任専門職、早稲田大学非常勤講師など様々な役職も務められています。

東:
生まれつき左目の視力がなく、わずかに残っていた右目の視力も15歳の時に失い、全盲となった河合さんですが、17歳で出場したバルセロナ・パラリンピックで銀メダルを2枚、銅メダルを3枚獲得したことを皮切りに6大会連続でパラリンピックに出場。大学卒業後には全盲で初の中学校教師となるなど様々な前例を打ち破ってきたキャリアの持ち主です。

小松:
三度にわたる国政への挑戦というご経験もなさっていますね。

東:
現在の河合さんを“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめるとするならば、“B”の競技団体運営と“C”の大学の非常勤講師ということになるでしょうか。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

2020年の先にある「根深い問題」

小松:
まずは現在の河合さんの活動について伺ってまいります。ちなみに今は泳いでらっしゃるんですか?

河合:
趣味で泳げる日には泳ぎますが、最近多忙であまり泳げる日がないんですよ。週1回は泳ぎたいんですけど、月1回ぐらいですね最近は。

東:
どなたかにご指導なさったりはしているのでしょうか?

河合:
競技の指導はしていません。

ただ、指導というわけではないのですが、今日も日本身体障がい者水泳連盟会長として、2019年度の強化育成選手へ話をしてきたのですが、まだまだ若い人たちは意識が低く、自覚が足りないな、という印象です。

もう少し本気を見せて欲しいなと、少々語気が荒くなりました(笑)。

小松:
でも若い選手たちは、河合さんの栄光の姿とその背中を追って頑張ってらっしゃるんでしょうね。

河合:
いや、今の若い子は僕のことなんて知らないですよ(笑)

東:
いえいえ、そんな事はないでしょう。ところで、現在、日本の健常者の水泳はコンスタントにとても良い成績を残していますよね。

次々にスター選手が現れており、非常にうまく育成システムが機能しているような印象を受けるのですが、パラ水泳はいかがでしょうか?

河合:
他のパラ競技に比べると、よくなってきている印象はあります。

ただ、本当に優れた人材を継続的に育てていくためには、短期間での結果を追い求めるのではなく、5年10年という中・長期的なスパンで考えていく必要があります。

また、競技以外の面においても、2013年にオリンピック・パラリンピックが東京で開催されることが決まってから5年半が経ちますが、良い方向へ変わった部分と、まだ変わっていない根深い問題があります。

僕は、その根深い問題を2020年までにどうやって解決するのかが、最も重要な課題だと考えています。

小松:
河合さんがおっしゃっている、「根深い問題」とはなんでしょうか?

河合:
例えば、東京オリパラに向けてどうするか、ではなく、東京オリパラが終わった後にどうするか?という問題です。

競技という面では、元々、トップアスリートはオリンピックやパラリンピックを一つの節目に活動している部分がありますが、2020年は地元開催ということもあり、更に多くの選手たちが東京オリパラを機に現役生活を終えることが考えられ、様々な競技で選手層が薄くなることが危惧されます。

また、現在は東京オリパラに向けて、国をあげてアスリートの活動を支援しようという機運が高まっていますが、果たしてそれが大会後にも継続するのかという点についての不安もあります。

東:
なるほど。ある意味、今の日本はオリパラ開催の影響による“スポーツバブル”、“アスリートバブル”のような状況だと言えるのかも知れません。

河合:
また、パラスポーツの振興という側面で考えると、2015年にスポーツ庁が出来たことで、国としてオリンピックとパラリンピックをともに盛り上げていくための活動を推進しているのですが、都道府県や市町村のレベルでは、健常者と障害者が連携したスポーツ活動を実施できているのかといえばそうではないことが多いんですね。

東:
健常者と障害者が連携したスポーツ活動とは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。

河合:
現状、多くの県において、健常者のスポーツはスポーツ推進局やスポーツ振興局、障害者のスポーツは福祉部や福祉局が扱っていて、一つの所轄や機関が取りまとめて活動しているわけではありません。

まとめて活動しているのは、47都道府県のうち、おそらく10程度に過ぎないのではないでしょうか。

都道府県のレベルですらこのような状況ですから、市区町村レベルではこの差がより顕著なんです。

小松:
とても衝撃的な事実ですね……。

以前、オリンピックは文部科学省、パラリンピックは厚生労働省とそれぞれ別の省庁に担当されていたものが、2015年にスポーツ庁が出来たことを機に1つにまとめられたのではなかったのでしょうか。

河合:
形としてはそうなんですけどね。

マニュアルだけでは自己保身を生む

東:
地元でのオリパラ開催に向けて、国をあげて取り組んでいるものだと思っていたのですが、都道府県、市区町村レベルになると、まだまだ改革が必要なんですね。

河合:
はい、スポーツ庁ができて3年が経過しましたが、まだまだ道半ばです。

小松:
そうでしたか。現在、河合さんはそのような状況を変えるために、様々な発言や提言をなさっているということですね。

河合:
そうですね。組織を変えることはなかなか難しいものですが、最終的に動くのは「人」ですから、法律や体制を整備するよりも組織を構成するメンバーの意識と行動を変えることが大切なんです。

例えば、障害者差別解消法という法律が2016年に制定されているのですが、「民間は努力義務だから結果を出さなくてもいい」と自らの都合の良い解釈しかしていない人や組織も多いですし、どうにか抜け道を見つけて潜り抜けようとしている場合もあります。

象徴的なのが2018年に起きた国による障害者雇用の水増し問題ですね。

省庁や地方自治体が障害者として認定されていない人間を障害者扱いし、雇用人数を水増ししていた問題で、約3700人の水増しがあったと言われています。

民間企業に「障害者をどんどん雇用をしましょう!」と言っておきながら、何をやっているのかと。

小松:
それは、詭弁と言わざるを得ないですね。私の友人の話なんですが、2007年の6月に、渋谷のスパ爆発事故の被害に遭いました。

彼女はその事故で下半身不随になってしまって以来、車椅子で生活していますが、社会全体がバリアフリーになることなんて無理だと理解しているそうなんです。

物理的にすべての環境をバリアフリーにすることは難しい。けれど、完全にバリアフリーでなくても、受け入れる側の意識が変われば、物理的にバリアフリーより生活しやすい社会になるといっていました。

ただ現実は、レストランを予約しようとしても「ウチはバリアがあり、車椅子のお客さんには迷惑がかかるので無理です」と言われることも多いそうです。

東:
障害者の方にしてみれば、単に面倒を避けるために断られているように感じてしまいますよね。

小松:
車椅子の人にご迷惑をかけてしまうから、と言って排除しているにすぎませんね。

河合:
盲導犬や補助犬関係でもそのような話はよく聞きますし、スポーツジムやスポーツクラブもそうです。

バリアがあるとか、十分なサービスを提供できませんので、お一人ではご遠慮くださいと言われることも多いです。

東:
例えば、スイミングクラブで競泳のパラリンピック金メダリストである河合さんが、障害者の方はご遠慮ください、と言われて、泳がせてもらえない場合もあるということですよね。

河合:
一般の健常者の方よりは、溺れにくいと思うんですけどね(笑)。

東:
運営する側としてある程度のマニュアルが必要なことはもちろん理解出来るのですが、あまりにも多くの人達を一括りにした対応に感じます。

河合:
2018年には、とあるエンターテイメント施設で聴覚障害を持つ方が緊急時の避難連絡が聞こえないから危険だという理由で入園を拒否され、問題になりました。

障害者差別解消法では、店舗や施設側が、保護者や介助者が一緒にいないと入店を拒否する、ということは差別にあたるとしています。

確かに施設側にも安全かつ円滑に組織を運営するためのマニュアルが必要だと思いますし、全てを否定するつもりはありません。

ただ、どんなマニュアルも完璧ではないことを理解してほしいですし、一度作ると何年もそのままということも多いので、時代に合わせて見直し、アップデートする必要があると思います。

今後、超高齢化社会をむかえる日本においては、様々な団体がより人権意識を高め、障害者差別解消法など新たな法律に対応したマニュアル作りに取り組んでいかなければならないでしょう。

小松:
2020年にオリンピック、パラリンピックを迎えることになり、今その機運が来ていますよね。そんな今だからこそ、発言をして伝える必要があるんですね。

人間社会って、素晴らしい人もいますし、イマジネーションに溢れた人もいます。でもその逆も常にあります。今は日本人の意識を変える最大の機会だと思うんですよね。

そう考えると、東京オリンピック、パラリンピックって、メダルを獲るために開催するだけの大会ではないようにも思います。

東:
私の恩師である早稲田大学大学院の平田竹男先生も東京オリンピック・パラリンピックは単なるスポーツの国際大会ではなく、日本をバージョンアップさせるための大会に出来るとおっしゃっていました。

たとえば、世界と比較してバリアフリー化が遅れていて、英語を話せる人が少ないという日本のウィークポイントを、オリパラを機会に改善することで、2020年以降に活きるレガシーを残すことが出来るのだと。

東京オリパラを機会に障害者や外国人の方々とふれあい、様々な立場の方々に寄り添った考えを持って行動出来る人が増えれば日本は更に素晴らしい国になれると思います。

小松:
そこに理解あるマインドを持つ人が一人いるだけで状況が変わるということを考えると、やはり、制度よりも「人」が大切なのでしょうね。

河合:
はい。組織の中の一人一人が必ず改革を実現するのだという強い気持ちを持って仕事をしてくれれば、少しずつでも着実に状況は変わると思いますし、それを積み重ねること以外では組織を変え、社会を変えていく改革を実現することは出来ないと思います。

また、根本をたどると、障害者を始めとする様々な立場の人々に対する、想像力の欠如が原因なのではないかと思うので、どんどん発言していかなければとも感じています。

小松:
今の日本で問題となっている、障害者に関する様々な問題。これを河合さんは一つずつ解決していこうと尽力されています。

これには、河合さんが「パラ競泳」という競技に若い頃から関わってきたことが、大きく関係しているようです。

社会を改革しようと日々精力的な活動をしているその根底には、幼少の頃から続けてきた「競泳」という競技に大きなヒントがあるようです。

闇の中でもベストの選択を

東:
早速ですが、今の河合純一というキャリアを築いた根底にある「競泳」との出会いについて教えてください。

河合:
5歳の頃に、近所のスイミングスクールに通い出したのがきっかけです。

その後1年ぐらい通って25メートル泳げるようになって、「水泳って楽しいな」と感じるようになり、小学校3年生ぐらいからバリバリ泳ぐようになりましたね。

東:
河合さんは生まれた時から左目の視力がなく、右目だけ少し見えるか見えないかという状態でしたよね。ご両親もそれを理解しているのに、なぜ水泳をやらせたのでしょうか?

河合:
右目は0.1ぐらい見えていたので、他人との接触が少ない水泳ならできると思ったのではないでしょうか。水泳だけではなく、小さな頃は割となんでもやっていました。

あまり上手ではなかったですがソフトボールもやっていましたし。

その頃は、自分が周りの人より見えにくいという意識がなかったんです。

何せ、生まれた時から右目が0.1しか見えず、一度も両目がはっきり見えることを経験していないわけですから。

後に「他のみんなにはもっと遠くまで見えているらしい」ということが徐々にわかってくるのですが、それまでは自分の状況が不便だとか不自由だなんて考えもしなかったです。

それが子供の強みかもしれませんね。

小松:
目の症状は、それからどうなったのでしょう。

河合:
中学に入る前ぐらいから、徐々に視力が低下していきました。医者から明確に言われたことはありませんでしたが、だんだん見えにくくなっているな、とは感じていましたね。

小松:
そして、15歳の時にわずかに残っていた右目の視力も失い全盲となり、東京にある筑波大学付属盲学校高等部に進学されますね。

河合:
はい。当時、私は静岡に住んでおり、東京の盲学校の情報を入手するのは非常に難しかったのですが、母方の叔父や、中学校時代に担任だった先生が協力してくださったおかげで。

この頃(1990年)はインターネットも全く普及していませんでしたのでとても助かりましたし、ここで大きく人生が変わったと思います。

小松:
中学時代から水泳の才能を発揮されていたんですか。

河合:
いえ、中学時代は、県大会で決勝に残るぐらいのレベルで、水泳がただ好きなだけの選手でした。負けず嫌いではありましたけどね。

東:
そんなどこにでもいる選手だった河合さんが、盲学校在学中の1992年にバルセロナパラリンピックに出場し、銀メダルと銅メダルを獲得します。当時は17歳ですが、一体どのような変化があったのでしょう?

河合:
中学卒業時に親元を離れ「東京へ行く」という選択をしたことが全ての始まりでした。

15歳で全盲になり、将来について色々と悩んだ結果、東京の盲学校へ進むのが自分にとってベストの選択ではないかと考え、受験し、進学出来たことで様々な可能性が広がりました。

あの時、東京に出てきていなければバルセロナにも行けなかったと思います。静岡にいた頃はパラリンピックの存在自体を知りませんでしたから(笑)

小松:
高校には水泳部があったんですか?

河合:
はい。偶然、僕が高校に入学する1年前に、水泳の指導者が赴任してきて水泳部が創部されたばかりでした。

小松:
入部当初から、河合さんの記録ならパラリンピックを目指せると言われていたのでしょうか。

河合:
いえ、どうすればパラリンピックの代表に選ばれるのかすら、よくわかっていませんでした。

1991年当時は、厚生省がパラリンピックを担当し、障害者スポーツが完全に福祉の分野に棲み分けされていた頃で、世間的には障害者の自立支援のための福祉活動としてスポーツを実施しよう、というような立ち位置でしかありませんでしたから。

東:
勝敗を争う競技スポーツというよりも、リハビリテーションに近い扱いだったのでしょうか。

河合:
そうですね。競技というよりは、国際交流のツールとしてスポーツを使っているという位置づけで、勝敗は二の次という面もありました。

当時はパラリンピックへ参加するための費用を国が3分の2、地方自治体が3分の1負担することになっていましたが、地方自治体によってはパラリンピックに関する予算をほとんどつけておらず、どれだけ競技成績が良い選手でもパラリンピックに参加出来ないという場合もありました。

東:
競技成績ではなく、そういった事情が優先されていたんですね。

夢の舞台から学んだことと、新たな目標

河合:
バルセロナパラリンピックには、東京都から10名の選手が出場したのですが、そのうちの5名が水泳選手でした。予算の少ない他の自治体であれば、出場は難しかったかも知れません。

小松:
もし河合さんが静岡に残ったままだったら?

河合:
出場すら出来なかったでしょうね。

東:
高校時代は寮生活だったそうですが、親元を離れての生活はいかがでしたか?

河合:
そうですね。高校時代、3人部屋での寮生活の日々は、自立心を養い、障害を受け入れるマインドを徐々に培ってくれた貴重な時間だったと思います。

小松:
過去の河合さんの記事を拝見すると、視力がだんだん弱くなっている時、なんとかこの視力で留まらないか、症状が進行しないで欲しいと思う気持ちと、やっぱり受け入れなくてはいけないのかなと思う気持ちと、葛藤があったとつづられていました。

そんな青年期に、水泳は河合さんの生きる活力になっていたのでしょうか。

河合:
バルセロナパラリンピックに出場することで、自信を持てたことは大きかったですよね。

小松:
バルセロナでメダルを取った時はどういう気持ちだったんですか?

河合:
もちろんとても嬉しかったのですが、最初に銀メダルを獲った後、もっといい色のメダルが欲しいと思い頑張ったのですが、結局金メダルが獲れなくて悔しかったことのほうが印象に残っています。

また、日本での障害者の水泳大会にはすごく暗いイメージがありましたが、パラリンピックはまさに「お祭り」で、1ヶ月前に同じ静岡県出身の岩崎恭子さんが金メダルを獲得した同じ会場で自分も泳げたことや、開会式の雰囲気を味わえたのはとても刺激的でしたし、素晴らしい経験になりました。

小松:
10代に経験された、上京、出会い、そしてバルセロナ。

これが河合純一さんを形作ったんですね。このステップを駆け上がり、バルセロナで悔しい思いをし、その経験が次に繋がったのでしょうか?

河合:
はい、バルセロナでの悔しさが次への原動力でしたね。

東:
喜びよりも悔しさのほうが大きかったと。バルセロナパラリンピックに出場し、メダルを獲得して帰国した後、周りの目や反応は変わりましたか?

河合:
パラリンピックの報道はほとんどされていない時代でしたから、あまり何も変わりませんでした(笑)。

日本では新聞ですら取り上げていませんでしたし、パラリンピックという言葉すら9割の人が知らない時代でした。

東:
世界的な大会で素晴らしい結果を残したにも関わらず、ほとんどの人に知られていない。その知名度の低さには、悔しい思いもなさったのではないでしょうか。

河合:
バルセロナのあるスペインではパラリンピックが非常に盛り上がっていて、これぞパラリンピックのあるべき姿なのだと感じていたのですが、日本におけるパラスポーツやパラアスリートの価値はまだまだそういうものなのだろうと諦めていました。

小松:
バルセロナの後、河合さんは1996年のアトランタ、2000年のシドニー、2004年のアテネで金メダルを獲り、2012年のロンドンに出場なさった後、現役を引退されますよね。

その後、日本におけるパラリンピックの注目度が変わってきている実感はありますか?

河合:
そうですね。現役の頃には少しずつ認知度が増しているのかなあというぐらい印象でしたが、私が現役を引退した翌年の2013年に2020年の東京オリパラ招致が決まり、大きく風向きが変わりましたよね。

私が初めてパラリンピックに出場してから27年の時が過ぎ、今、オリパラを控えた東京がようやくあの時のバルセロナの盛り上がりに近づいてきた気がしています。

27年前に僕が感じたあの感動を、今の子どもたちと世界から日本を訪れるパラアスリートたちに体験してもらえるようにするのが2020年に向けた僕の目標です。

目標は、ロンドン五輪を超えること

小松:
河合さんが最後に出場したロンドンは、パラリンピック発祥の国・イギリスでの開催でした。他の都市と比べて、何か特別なものはありましたか。

河合:
イギリスの人たちからは、パラリンピック開催に対する誇りや、パラアスリートへの深いリスペクトを特に感じました。

そんなロンドンでの経験を2020年の東京に活かし、ロンドンを超えるような大会にしたいと思っています。

東:
東京オリパラを、ロンドンを超えるような大会にするには何が必要なのでしょうか?

河合:
オリパラ開催中にどれだけ前の大会を上回る盛り上がりを実現するのかも大切ですが、オリパラ開催後にどう社会が変わったのか?ということを明確にするのが重要だと考えています。

まだまだ表面的な部分を捉えられて、「スポーツが好きな人とスポンサー企業だけが、税金を遣ってお祭り騒ぎをしているのでしょう」という風に世間から思われている部分があると思います。

東:
はい、本当におっしゃる通りで、オリパラやスポーツが素晴らしいものだと感じている方だけではないと思います。

河合:
僕はスポーツ関係者として、そういう世間の視線を自覚しながら色々なことを解決していかなければ、オリパラを成功させることは出来ないと思っているんですね。

残念ながら、世の中には様々な原因で体育嫌い・スポーツ嫌いという方が多数いらっしゃいます。

そのような方々にも、スポーツやアスリートの価値を見直してもらえるきっかけになればと考えています。

小松:
今この時期って、オリンピック、パラリンピックに対する考え方を「耕す時」だと思います。インフラを造るだけでなくて、マインドを育て上げる時だと感じます。

東:
多くのメディアが、以前にくらべてパラリンピックのことを取り上げるようになりました。パラアスリートにとって、素晴らしい環境なのではないでしょうか。

河合:
そうですね。ただ、僕が現役の頃は、あまり報道されない分、余計なプレッシャーを感じることなく伸び伸びと競技に取り組めたことが良い結果につながったようにも感じます。

地元開催のオリパラは一生に一度だと思いますので、今の選手にはプレッシャーを力に変えて頑張って欲しいですね。

後輩たちに伝えたい「勝つためのメソッド」

小松:
話は変わりますが、私は河合さんが出場されていた2000年のシドニー大会に取材で行っていました。

当時水泳といえば、イアン・ソープが活躍していましたが、彼と同じプールで泳いでいたのが河合さんなんですよね。

どんな競技であっても、金メダルにたどり着くまでのメソッドや方法論がある。そういうことを報道でも伝えられたらと常々考えています。

河合:
オーストラリアはスポーツに対する考え方がかなり進んでいて、1981年にはオーストラリアスポーツ研究所が設立されています。

日本では2015年にスポーツ庁が出来、2019年の夏に新しいトレーニングセンターが完成するわけですが、オーストラリアに比べて30年以上も遅れているんですよね。

小松:
遅れていることを自覚するのは大切ですね。

河合:
はい、遅れていることを自覚し、現状をしっかりと認識したうえで、目指すべき方向とのギャップをどう埋めていくかが重要だと思います。

小松:
テニスだと、ロジャー・フェデラーがチェアテニスの国枝慎吾さんのことを語っています。

「僕がもっとも尊敬するグランドスラム獲得者は慎吾だ」と言って世界に向けて発言したんです。

これを通して私が思うのは、アスリートの方々は、オリンピアンもパラリンピアンも分けてないのではないですか。

東:
オリンピアンもパラリンピアンも、同じアスリートですからね。

小松:
これまでに圧倒的な結果を残されてきた河合さんが、自ら作り上げた競技で勝つためのメソッドを現在の強化選手に伝えることは出来ないのでしょうか。

河合:
そうですね。本気で伝えようとするならば、長い時間を選手とともに過ごさなければいけないのですが、僕はコーチの立場ではありませんし、そこに割ける時間もないのが現状です。

現在のコーチ陣に伝えたことを選手達に伝えてくれればと思っています。

小松:
細かく伝えるのは難しいと思いますが、金メダルを獲るための練習やメソッドというのは、やっぱり過酷なものですよね。

河合:
そうですね。金メダルを獲るのにふさわしいクオリティや練習量があると思います。

どういう強度の練習を、どのくらいの時間やるのか。怪我をしないギリギリのところまで自らをどう追い込むのかが重要なんです。

メダルを21個獲ったから偉いだなんて僕は全然思っていないし、若い子に何かを押し付けることはないですが、ただ、僕は僕なりの「勝つためには何をしなければならないか」というメソッドを持っていますし、それがあったから勝ち続けられたという自負はありますので、そういう部分は後輩たちに伝えたいですね。

小松:
そんな努力を繰り返して、最終的に2012年のロンドンパラリンピックまで出場されました。

河合:
そうですね。もし、2016年に東京オリパラが開催されていたら、あと4年頑張ったかもしれませんが(笑)

東:
アスリートが今まで必死に取り組んできた競技を自ら終える決断をする時には、理由が必要ですよね。

僕は当初2007年度のシーズンを最後に現役を引退しようと考えていたのですが、翌年に生まれ故郷の石川県で日本選手権が開催されることになったので、お世話になった方々や両親への恩返しの意味も込めて、地元でプレーする姿を見せたいと思い1年延長しました。

小松:
体操の内村航平選手も、「2020年が東京でなければ辞めています」とおっしゃっていました。

河合:
自国でのオリパラ開催なんて、50年、100年に1度のチャンスですし、その時を競技人生のピークに近い年齢で迎えられるというのは、アスリートにとって奇跡的なめぐり合わせですので、現役のアスリートには後悔が残らないよう過ごしてほしいですね。

東:
河合さんは、現役スイマーとしてご活躍されながら、次の目標である「教育者」を目指して新しいキャリアを歩んでいくことになります。競技の世界から、どうステップアップをしたのか?

その辺りのお話を聞かせてください。

パラリンピアンの「お金」という現実

小松:
スイマーとしてトップポジションにいながら、大学受験をして1994年に早稲田大学教育学部に入り、教育者になるという夢も実現されました。水泳と学業、並行してやるのは大変でしたか?

河合:
僕が現役の頃には、パラ水泳のプロフェッショナル選手は日本に存在しておらず、大学を卒業したら引退するというのが普通だったんですよ。

パラリンピックに出たから、その先も続けようなんて正直思っていませんでしたし、金メダルを獲ってもそれだけで食べていけるとは思っていませんでした。

小松:
そうでしたか。

東:
金メダルを獲ったこと自体が、経済的な豊かさに繋がるわけではないですもんね。

河合:
そうなんです。当時、報奨金なんてものはパラリンピックにはありませんでしたから。

2008年の北京大会から、オリンピック選手の3分の1程度の報奨金が出るようになり、2018年の平昌大会からはオリンピック選手とほぼ同じ額の報奨金が支払われるようになりました。

東:
本当に最近ですね。

小松:
練習するための費用は支援してもらえたのでしょうか?

河合:
いえ、全て自己負担です。私の場合は学生でしたので、親が負担していました。年間に50~100万円程度かかっていたと思います。

小松:
教師という仕事に就いて、いかがでしたか。

河合:
はい、10歳頃からの夢だったんです。当時の担任の先生に憧れていただけなのですが(笑)、教師になってみて、先生って大変な仕事なんだと気づきました。

東:
全盲の方が中学校の先生をやるのは、日本で初めてだと伺いました。

河合:
でも僕からすると、全盲だから大変だ、というよりは、教師という仕事そのものが大変だなと思っていました。

教育でも「効率」を考える

小松:
その後、休職されて早稲田大学の大学院に行かれますよね。

河合:
はい。中学1年生から3年生までを担任させていただく経験を経て、教師としてもっとスキルアップするために勉強しなければと感じたのが大学院に入った理由です。

あと、目が見えなかったり、車椅子に乗っていたりの障害を持っている先生がもっと学校にいてもいいよなと常々考えていたので、障害をもつ教員志望者のロールモデルになるために、というのも理由の一つです。

東:
全盲の河合さんが出来るのだから、と勇気をもらった方も多かったのではないでしょうか。

河合:
また、僕の体は1つしかなく、複数の学校で同時には教えられないため、僕の考えを理解してくれる先生を育てていくことが重要だと考え、将来大学で志を同じくする教員を養成していくためにも、修士を取得しておいたほうが良いだろうと。

東:
河合さんは何の教科の先生なのでしょうか?

河合:
社会科です。

小松:
大学院ではどのような勉強を?

河合:
ざっくり言うと、世の中の方々にどうしたら障害を理解してもらえるのかについて学んでいました。

小松:
河合さんは、目的意識が明確で、ブレていません。

東:
先生の立場で直接生徒を教えるよりも、教員人生を通じて多くの生徒を教える立場である先生を育てたほうが効率がよいという考えも本質を捉えているように感じます。

河合:
はい、そうなんですが、本心を言うと、現場で子どもたちと直接ふれあっている方が楽しいんですよ(笑)。

でも、僕が現場に立っているだけではダメなんだって大学院の頃には思っていました。

小松:
点字は高校に行ってから学んだんですか?

河合:
そうですね、僕は習得するのに時間がかかりました。

今はテクノロジーが進化したおかげで色々と便利なツールもあり、必ずしも点字が必要なわけではありませんが、多くの視覚障害者が点字の恩恵を受けていますね。

選挙活動で気づいた、自分がやるべきこと

小松:
現在は早稲田大学で非常勤講師として、講義をしているんですか。

河合:
はい、東さんの恩師である平田竹男先生とパラリンピックに関する授業を行っています。

合計15回の講義を担当しているのですが、今年も6月と7月に授業をする予定です。

オンデマンドシステムを導入し、好きな時間にインターネットで講義を聴講した後に、授業で深掘りするスタイルを取っています。

小松:
そして河合さんは、政治の世界にも過去に出馬を何度かされましたね。政治でないと変えられないことがある、という思いもお持ちですか。

河合:
そうですね。3度出馬して、全て残念な結果に終わったので、もう選挙はいいかなと思いますけどね(笑)。

選挙を経験して感じたことは、政治でしか変えられないことはたくさんあるけれど、政治家になると自らのやりたい事だけではなく、より幅広い活動をしなくてはならなくなるということに気づきました。

僕の「社会を変えていきたい」という思いのベースにあるのはあくまでも「スポーツを通じて」あるいは「教育を通じて」であり、それを考えると、もちろん米中問題や消費税の問題、韓国との問題について僕なりに考えていくことも大切なのかもしれませんが、それよりも自分は2020年に向けての準備や、スポーツや教育を通じて社会を改革するための活動を優先することをやっていきたいし、それこそが己の使命かなとは思っています。

東:
少々失礼な質問かもしれませんが、河合さんはパラリンピックに何度も出場し、数々のメダルを獲り、輝かしい記録を残されてきたわけですが、選挙では3度出馬し、3度とも落選という結果に終わりました。

河合さんにしてみれば、大きな挫折だったのではないかと思うのですが、この経験から学ばれたことがあればお教えください。

河合:
そうですね。一人では何もできないんだな、ということを改めて実感させられましたね。

選挙というのは本当に幅広い人たちに出会い、関わり合うんですね。地域の市民や自治体、企業、政治家、本当に多種多様の方々と接してきました。

良くも悪くも色々な人がいる中で、偉い人に従うだけの人もいたり、貴賎問わずに信念をもって活動している人もいる。

様々な人間模様を目の当たりにして、自分が後悔なく生きるためにはどうすべきなのか? 改めてそんなことを考え、学ぶいい機会にはなりました。

東:
凄まじいご経験をなさったのだろうなという事が伝わります。

世の中の人に「目が見えなくても『できる』こと」を伝えたい

小松:
そして、2016年にはIPC(国際パラリンピック委員会)からパラリンピックの殿堂入りを果たしますね。これは日本人初です。今後はスポーツ庁の活動などでも、もっと活躍されることを期待しています。

河合:
今の仕事も似たような活動をしているんですよ。国の仕組みを作るとか、システムを変えていくという意味では、今僕がやっていることは割とそういう改革に近いんですよね。

小松:
河合さんは、バリアフリーに関する啓蒙活動もされていますが、河合さんの発言で、とても心に残ったことがありました。

それは、目の見える生徒にアイマスクをつけて、目の見えない人の感覚を学ばせるという体験を否定されていたことでした。

河合:
アイマスクをして体験させることで、「できない」とか「怖さ」ばかりを植え付けてしまうと思うんですよ。

もちろん、それを経験することで、目の不自由な人へのサポートを教える機会にはなると思うのですが…。でも本質ではないんじゃないかなと。

だって、東さんがスカートをはいたからと言って、女性の気持ちがわかるのか?という話と同じだと思うんですよね(笑)。

東:
なるほど(笑)河合さんも親しくされている、「世界ゆるスポーツ協会」の澤田智洋代表が普及につとめている「ゾンビサッカー」はご存知ですか?ゾンビのマスクを被り、視界を塞いだ中でサッカーをプレーするブラインドサッカーをゆるく、ポップにしたスポーツなんですけれども。
(※ゾンビサッカーについてhttps://yurusports.com/sports/zombiesoccer)

先程の河合さんの質問ですが、もちろん僕が単にスカートをはいたからといって、女性の気持ちがわかるようにはならないでしょう。

ただ、全てはわからなくとも、経験してみることで初めて気づくこともあるのではないかと思います。たとえば、妊娠した女性の気持ちを理解するために身体中に重りを着用するシミュレーションを経験すれば、電車の車内で妊婦を見かけた際にすっと座席を譲れるようになるのではないか、とか。

そういう体験の仕方として、ゾンビサッカーは目が見えない状況とはどういうことか?という経験をエンターテインメントとして伝えているとてもいい活動だと思うんですよね。

河合:
エンターテイメントとしての視点、とても大切だと思います。

目が見えないという状態に対して「怖い」、「難しい」という印象を先に抱いてしまい、視覚障害者について何も出来ない可哀想な人だ、というイメージを持たれてしまうことが問題なんですね。

先日も授業で実施したのですが、目が見えなくても、できることはたくさんあります。

たとえば、5円玉と10円玉は、目をつぶっていても触り分けられますよね。

靴も右と左を間違えずに履けますし、折り紙で飛行機を折るのもなんとかできそうです。

こういう風に、視覚障害者が「できないこと」よりも「できること」を見せていかなければいけないと思うんです。

視覚障害者のみならず、障害者の「できないこと」ばかりがフォーカスされることについて、私は問題意識を持ち、批判しているんです。

東:
障害を持っていても「できること」を経験し、それを人に伝えていく。その部分でも人っていうリソースは大切ですね。

河合:
やっぱり「人」なんですよね。たとえば有名進学校が何にお金を投資するかというと、教師なんです。

いい教師を引っ張ってこられれば、いい学校になるのだというお話を聞きました。カリキュラムありきではないんですよね。

小松:
金メダリストであり、教育者である河合さんは他者よりも注目を集め、ご苦労は多いかもしれませんが、発信を続けていただきたいです。

東:
この企画は、将来のキャリアに不安を抱えているアスリートやビジネスパーソンに、世界の舞台で活躍したトップアスリートでも、それぞれに悩みや不安を抱えながら、それらを必死で解決して生きている姿を伝えることで、改めて己のキャリアを振り返り、考えてもらうためのお役に立ちたいという気持ちで始めたのですが、同時に、オリンピアンやパラリンピアンの社会的な意義を感じてもらいたいとも考えています。

河合さんを始め、パラリンピアンの方々は、特にエンパワーメントする力が強いなと、この企画を通して感じています。

小松:
私もそう思います。
河合さん、最後に、競泳選手という名前を使わずにご自身の紹介をしてくださいますか。

河合:
そうですね、今は日本スポーツ振興センターの職員なんですけれど、あとはなんでしょう。組織委員会のアスリート委員とか、肩書きだけはたくさんあります(笑)。

小松:
それだけ様々なフィールドでご活躍されているということですね。今日は強化選手たちに厳しい話をしたなどの、リアルなお話も伺えてよかったです。

河合:
冒頭に少しの挨拶で大丈夫だと言われたのですが、珍しくスライドの資料まで作って臨んだのに、彼らは全然わかってないなと思って腹が立ってしまいました(笑)。

東:
河合さん、普段はニコニコしているんですけど、怒った時の顔はめちゃめちゃ怖いんですよね。きっと今日もそんな顔をしていたんだろうなと想像がつきます(笑)。

河合:
楽しくやろうと思って、しっかりとスライドを作ってきたんですけどね。全然積極性がなかったもので、つい(笑)。

東:
河合さんは、足音でどういう人かを判別出来るくらい、その場の空気から色々なことを感じ取れる人ですので、真面目に聞いているフリをしていても、実際には聞いてないことがわかってしまったのだと思います。(笑)

小松:
でも未来を担う選手たちですから、頑張って欲しいと伝えてください!

河合:
よく言っておきます。

小松:
さて、最後に改めて河合さんのキャリアを“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめるとすると、日本人最多である21個のメダル獲得という実績がありながらも、現役時代の競技スキルと最も関わりの深い“A”の領域ではなく、“B”の日本身体障がい者水泳連盟会長、“C”の日本パラリンピアンズ協会会長やスポーツ庁スポーツ審議会委員、独立行政法人日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部開発課主任専門職、早稲田大学非常勤講師など様々な分野で幅広く活躍なさっていることがわかります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
今後、東京オリパラが終了して、時間に余裕が出来れば、後進を育てるために“A”の領域で指導者を務めたり、政治家として“C”の領域での活躍、または日本における障害者に関する様々な事案における提言をしていく仕事という意味では“D”の領域でもご活躍出来るのではないでしょうか。

小松:
河合さんの、今後ますますのご活躍が楽しみです。
本日はありがとうございました。

河合:
僕もいい機会をいただきました。ありがとうございます。
(おわり)

次回は、元パラアイスホッケー・バンクーバーパラリンピック銀メダリスト・上原大祐さんです。3月18日公開!

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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