2025.01.26
格闘技 フィットネスで健康なメンタルに 元総合格闘家・大山峻護
Profile
1974年4月11日生まれ。栃木県那須塩原市出身の元総合格闘家。5歳から柔道を始め、中学2年時に名門・講道学舎へ入門。シドニーオリンピック金メダリストの瀧本誠は同期生。国際武道大学を卒業後、京葉ガスにて実業団選手として活動。第28回全日本実業柔道個人選手権大会・男子81kg級で優勝するなど活躍しながら総合格闘技にも挑戦。2000年第7回全日本アマチュア修斗選手権ライトヘビー級で優勝し、プロ総合格闘家に転向。デビュー戦となった2001年2月にアメリカで開催された「King of the Cage」ではマイク・ボークに1Rわずか17秒でKO勝利。その後、PRIDEやK-1、HERO’Sなどに参戦し、最強一族と呼ばれたグレイシー一族からの二度の勝利をはじめMartial Combatライトヘビー級王座、ROAD FC初代ミドル級チャンピオンに輝くなど活躍。2014年に現役引退。現在は、エーワールド株式会社の代表取締役として、心と身体の健康やチームビルディングのための格闘技とフィットネスを融合したプログラム「ファイトネス」を様々な企業や学校で開催。格闘家のセカンドキャリアのロールモデルとなっている。
小松:
様々なアスリートの現役を終えた“その後の人生”に迫るインタビュー連載“表彰台の降り方。〜その後のメダリスト100〜”。今回は、総合格闘家としてPRIDEやK-1、HERO’Sなど数々のメジャーイベントでご活躍なさった大山峻護さんにお話を伺います。大山さんと東さんは旧知の仲だそうですね。
東:
旧知の仲と言いますか、大山さんは同じ大学の一つ年上の先輩で、格闘技ファンである私の憧れの選手でもありました。
十年くらい前に、元陸上選手の為末大さんが主催なさっていたアスリートの交流会で初めてご挨拶させていただいてから、大変お世話になっています。
大山:
いえいえ。僕の方こそ東さんには色々と助けられています。
小松:
お二人の仲の良さ、とても伝わります(笑)
東:
本当にいつも可愛がっていただいていて、頭が上がらないんです。
早速ですが、大山さんのキャリアを簡単にご説明させていただくと、5歳で柔道を始められ、弦巻中学から世田谷学園高校(弦巻中学&世田谷学園高校時代は講道学舎所属)、作新学院高校、国際武道大学と進み、社会人では実業団チームの京葉ガスに所属。
1998年には全日本実業団柔道選手権の81㎏級で優勝するなど数々の大会で活躍なさいました。
小松:
社会人4年目の2000年。子供の頃から「平成の三四郎」の異名を持つバルセロナオリンピック柔道金メダリスト・古賀稔彦さんに憧れて柔道に取り組んでいた大山さんの前に、新たなヒーローが現れます。
「IQレスラー」や「グレイシーハンター」と呼ばれ、日本における総合格闘技ブームを牽引した桜庭和志選手です。
東:
格闘技ファンの間では伝説となっている「PRIDE GRANDPRIX 2000決勝戦」での桜庭和志選手とホイス・グレイシー選手の試合を東京ドームで生観戦した大山さんは、全身が震えるほど心を奪われ、柔道の実業団選手という安定した立場を捨てて、総合格闘技に転向。
全日本アマチュア修斗選手権大会ライトヘビー級優勝などの実績を重ねた後、2001年2月24日にアメリカで開催された「King of the Cage」でプロデビューし、Martial Combatライトヘビー級王座(2010年)や初代ROAD FCミドル級王座(2012年)を獲得するなど、2014年に引退するまでに総合格闘家として数々の輝かしい戦績を残されました。
小松:
現役引退後には、格闘技の基礎運動とフィットネスの要素を融合させた「ファイトネス」という独自のプログラムを開発。
こちらのプログラムを事業とする会社を立ち上げ、経営者としての道を歩み始められました。
東:
現在、「ファイトネス」は、従業員のメンタルヘルスに大きな効果があるとの評判を呼び、超大手を始め様々な企業に研修として導入されており、大山さんの活動はセカンドキャリアで活躍するアスリートとして様々なメディアにも取り上げられています。
その他にも経営者やトップアスリートを対象にパーソナルトレーナーを務められたり、講演のお仕事もなさっていますね。
小松:
それでは、現在の大山さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめますと、パーソナルトレーナーのお仕事が「A」の領域、経営者や講演の講師が「C」の領域と主に2つの領域でご活躍なさっているということですね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
INDEX
引退後、目の前が真っ暗になった
東:
まずは現在のお仕事についてお聞かせくださいますか?
大山:
格闘技とフィットネスを融合したトレーニングプログラム「ファイトネス」を展開するエーワールド株式会社の代表取締役を中心に、パーソナルトレーナーや講演のお仕事もさせていただいています。
小松:
「ファイトネス」は、大山さんが考案した格闘技とフィットネスを融合させた新しいタイプのプログラムで、現在は様々な企業に研修として取り入れられているそうですが、どのような経緯で始められたのでしょうか?
大山:
2014年の12月に選手を引退した後、この先、何をして生きていけばいいのか分からず、目の前が真っ暗になってしまって。
このままだとダメになってしまうと思ったので、携帯電話のアドレス帳の中から、アドバイスをいただけそうな方々に片っ端から連絡して、色々なお話を伺って回ったんです。

東:
立ち止まって悩むのではなく、とにかく行動なさったのですね。
大山:
時間だけはたっぷりとあったので。格闘技関係者、経営者、ビジネスパーソン、医療関係者、教育関係者など、様々な業種の様々な立場の方々からお話を伺っていく中で、精神的な問題を抱えているビジネスパーソンが増えていることと、厚生労働省が今後、企業に対して“ストレスチェック”を義務付けていくとの情報をいただいて。
小松:
“ストレスチェック”とは、2015年の12月に改正された「労働安全衛生法」で、労働者が50名以上在籍する事業所で年に一度実施することを義務付けられた労働者のストレス状態を調べるための検査ですね。
大山:
はい。僕は、現役時代から週に一度、フィットネスジムの一角を間借りして、強くなるためではなく楽しむことを目的にした格闘技のスクールを十年間運営していまして。
東:
そちらのスクールが「ファイトネス」の原点ですよね。名前も同じでしたし。
大山:
そうですね。スクールを運営してきた中で、適度な運動をすることは心も身体も元気にすると肌で感じていたので、このプログラムを悩めるビジネスパーソンの精神的な問題解決に活用していただくことで、企業にお役に立てるのではないかと考えたんです。
小松:
様々な方々からお話を伺い、幅広い情報を集めた中から、ご自身の経験とスキルを社会問題の解決に活用してもらうことで、事業にしようと考えられたわけですね。
大山:
正直、最初はピンと来なかったんです。
現役時代に運営していたスクールは参加者もそんなに多くなかったですし、ビジネスとして成功出来るかは未知数でした。
ただ、引退後の暗闇の中でひとすじの光になったといいますか、まずはこれをとにかくやってみようと。
東:
引退後、初めて目標が出来たのですね。
大山:
やりたいことが見つかって、とても嬉しかったのを覚えています。

クライアントの課題解決に貢献する格闘技プログラム
小松:
「ファイトネス」のプログラムについてもう少し詳しく教えていただけますか?
大山:
ひとことで言えば、老若男女がゲーム感覚で格闘技を楽しめるプログラムです。
タオルや風船やうちわを使って体を動かすことを楽しみながら、知らず知らずのうちに格闘技の基本動作が身につくようなメニューから始まって、最後には両手にグローブをつけてもらってミット打ちをしていただきます。
東:
僕も何度か参加させていただいたことがありますが、お世辞抜きで本当に楽しいです!
格闘技をツールに身体を動かしながら、初対面の人とでも楽しくコミュニケーションをとることが出来るプログラムになっていますよね。
大山:
皆さん最高の笑顔で気持ちよく汗を流していただいています。
小松:
とても楽しそうですね!
こちらのプログラムは現役時代に考案なさったのでしょうか?
大山:
いえ、現役時代に運営していた「ファイトネス」のプログラムからはかなり内容を変更しています。現在のプログラムでは、格闘技を楽しんでもらうだけではなく、もっとコミュニケーションをとってもらえるように、もっと前向きな気持になってもらえるようにと、試行錯誤を続けています。
東:
ただ単に「楽しかった」で終わるのではなく、企業研修として導入していただいたクライアントが期待する効果を出せるように工夫なさっているのですね。
大山:
おっしゃる通りで、「ファイトネス」を導入いただいたクライアントにご満足いただけるように、参加者の皆様の「ストレス解消」だけではなく、「チームビルディング」や「メンタルタフネス」の面でも成果を出せるよう意識しています。
小松:
素晴らしいですね。評判はいかがなのでしょうか?
大山:
おかげさまで「同じ職場で働く仲間と一緒に体を動かす機会を持てて、結束力が高まった」や「自分には無理だと思っていたことに挑戦するメンタルが鍛えられた」、「前向きな言葉を発することや正しい姿勢でいることの大切さに気づいた」などのありがたい評価をいただいています。
東:
「ファイトネス」のプログラムは会議室や倉庫の一角などの狭いスペースで、特に運動するための服装に着替えなくとも実施出来る点も素晴らしいですよね。

大山:
そうですね。気軽に楽しんでいただけるよう、柔軟に対応させていただいています。
格闘家の第二の人生を輝かせたい
小松:
「ファイトネス」のもう一つの特徴として、大山さん以外にも現役の格闘家がインストラクターとして参加なさっている点があげられると思うのですが、こちらにはどのような意図がおありなのでしょうか?
大山:
若い世代の格闘家には、引退後に僕と同じような不安な思いをしてほしくなくて。「ファイトネス」の活動を通じて、自らの技術で人に喜んでもらう経験をして、現役時代から引退後のキャリアをイメージしておくことが出来れば、安心して競技に打ち込めるようになりますから。
東:
大山さんが切り拓いたマーケットを、格闘家のセカンドキャリアの選択肢の一つになさっているんですよね。
大山:
今後、引退していく格闘家たちが社会で活躍するための道をつくり、第二の人生を輝かせることが出来るように、もっと「ファイトネス」をビジネスとして確立させていきたいと考えています。
小松:
ご自身のみならず、全ての格闘家のセカンドキャリアを輝かせるために、現役選手のうちからともに活動し、背中を見せられているのですね。
東:
他にも経営者やトップアスリートを対象にしたパーソナルトレーナーや講演のお仕事もなさっていますよね。
大山:
そうですね。経営者の方々のモチベーションや自らを限界まで追い込む力はトップアスリートと通じる部分があるように感じます。
小松:
講演でも、大山さんの幾度も挫折を乗り越えてきた波乱万丈の人生は、世代を問わずに好評を得ているそうですね。
東:
大山さんの格闘家人生は本当にドラマチックですから…
「ファイトネス」を始め、パーソナルトレーナーや講演活動などセカンドキャリアを中心に伺ってまいりましたが、大山さんの格闘家としてのキャリアについてのお話を伺ってまいりたいと思います。
小松:
楽しみです!
宜しくお願い致します。

大山:
こちらこそ宜しくお願いします。
小松:
格闘技とフィットネスを融合したトレーニングプログラム「ファイトネス」を展開するエーワールド株式会社の代表取締役を始め、パーソナルトレーナーや講演活動などセカンドキャリアでのご活躍を中心に聞かせていただきましたが、大山さんの格闘家としてのキャリアについてのお話を伺ってまいりたいと思います。
東:
日本に“バブル”とも言えるほどの格闘技ブームが訪れていた2000年代前半の大きな渦の中で奮闘してきた大山さん。
波乱万丈の格闘家人生の始まりは、柔道からでした。
ヒーローになりたい
小松:
大山さんは5歳の時に柔道を始められたそうですが、きっかけをお教えいただけますか?
大山:
小さな頃、ウルトラマンや仮面ライダーなどのヒーローが大好きで、「あんな風に強くなりたい!」と思って始めたのがきっかけです。
その後、成長するにつれて、憧れの対象がアントニオ猪木さんやタイガーマスクさん、前田日明さんなどのプロレスラーや、柔道家の古賀稔彦さん(バルセロナオリンピック柔道男子71kg級金メダリスト)に変わっていきましたが、常にヒーローになりたいと思って柔道に打ち込んでいました。
東:
中学2年生で、憧れの古賀さんも在籍なさっていた東京都世田谷区にあった柔道の私塾“講道学舎”に入門して、後にシドニーオリンピックで金メダリストとなる瀧本誠さんたちと切磋琢磨する日々を過ごされましたね。
大山:
切磋琢磨といいますか、自らの才能の無さを見せつけられる日々でしたね。
僕の同期には、瀧本の他にも後に井上康生選手や鈴木桂治選手としのぎを削った小斎武志や、UFCでも活躍した吉田善行など凄まじい選手が揃っていて。
もちろん練習には一生懸命取り組んでいましたが、漠然と自分のポテンシャルではどれだけ努力しても届かない世界があるということを感じさせられました。
小松:
講道学舎は日本全国から将来有望な柔道家が集まるエリート養成私塾でしたから、想像を絶する環境だったのでしょうね。
大山:
特に同級生で同階級だった瀧本には、まざまざと才能の差を見せつけられました。
東:
そんなに凄かったのですか?
大山:
天才ですね。絶対に敵わないと思っていました。

独特の寝技に活路を見出す
小松:
その後、大山さんは高校時代に講道学舎を離れ、地元栃木県の作新学院へ転校。国際武道大学に進学後、寝技に活路を見出して、国内トップレベルの選手に成長なさいましたね。
大山:
国際武道大学の恩師・柏崎克彦先生(1981年マーストリヒト世界選手権金メダリスト。
幻のモスクワオリンピック代表)が柔道界のみならず格闘技界全体で“寝技の代名詞”と呼ばれる達人だった影響で、旧ソ連の軍隊格闘術“サンボ”にも取り組ませていただいて。
大学時代は肘の骨折や肩の脱臼などの怪我に悩まされ続けていて、全然結果を出せていなかったのですが、当時はあまり世間に知られていなかった“飛びつき腕十字固め”などサンボ独特の関節技を武器にするようになってから勝てるようになってきて。
大学4年生で初めて全日本学生体重別選手権に出場することが出来たんです。
東:
初めての全国大会では個人戦で見事に決勝戦に進出。相手は講道学舎の同期生である瀧本誠さんでした。どのような気持ちだったのでしょうか?
大山:
瀧本は中学、高校と僕の階級で日本一になっていましたし、講道学舎時代には天と地ほどの実力差があった選手と日本一を争う舞台で戦えたことは大きな自信になりました。
結果、敗れてはしまいましたが、この大会で準優勝したことで実業団の京葉ガスからお声がけいただいて、社会人として柔道を続けられることになりました。
小松:
京葉ガスへは、柔道のみを業務とする契約で入社なさったのでしょうか?
大山:
はい、実業団選手として入社しました。
東:
京葉ガスは大きな会社ですから収入も安定していたと思いますし、入社2年目の1998年8月には第28回全日本実業柔道個人選手権大会・男子81kg級で優勝するなど競技面でも活躍。
選手を引退した後には一般社員として勤務出来るとても恵まれた環境だったと思うのですが、なぜ、プロ格闘家に転向しようと考えたのでしょうか?

桜庭さんのように
大山:
2000年5月に東京ドームで開催された「PRIDE GRANDPRIX 2000決勝戦」での桜庭和志選手とホイス・グレイシー選手の試合を観たことがきっかけです。
小松:
グレイシー柔術の創始者であるエリオ・グレイシーの三男であるヒクソン・グレイシーに二度に渡り敗れたプロレスラー・高田延彦選手の弟子である桜庭和志選手が、前年11月に五男・ホイラーを撃破したのに続き、それまで無敗を誇った六男のホイスと90分を超える激闘の末、勝利。
グレイシー・ハンターとして一躍脚光を浴び、格闘技というジャンルを超えて世間に名前を轟かせ、日本に本格的な総合格闘技ブームを到来させた伝説的な試合ですね。
大山:
はい。僕はこの試合を東京ドーム最上段の席から観ていたのですが、全身に鳥肌が立つくらい感動して、強烈にあのリングに立ちたいと思ったんです。
リングの中で、桜庭さんのように多くの人々に感動を与えられるようなファイターになりたい。
この日から僕のヒーローは桜庭和志選手になりました。
東:
観客席で観ているのではなく、桜庭選手のように会場のど真ん中のリングで戦いたいと。
大山:
あと、このまま会社にいた場合の自分の未来が見えてしまったんです。
ゾッとしましたよね。京葉ガスで働きながら柔道を続けていれば、何の心配も無く暮らしてはいけますけれど、子供の頃から憧れていた“ヒーロー”には決してなれないことに気づいてしまって。
それから、PRIDEのリングを目指して、まずはアマチュアの総合格闘技大会に出場するようになりました。
小松:
総合格闘技大会への出場、会社は認めてくれたのでしょうか?
大山:
いえ、そこは内緒で(笑)ただ、最初はこっそりと出場していたのですが、結果を残すことで少しずつ格闘技専門誌などに取り上げられるようになって。
2000年に第7回全日本アマチュア修斗選手権ライトヘビー級で優勝した後に、アメリカで大会に出場してみないかと声をかけられて、会社を辞めて、プロ格闘家になることを決断しました。
東:
プロデビュー戦となったアメリカでの「King of the Cage」では、120kgの巨漢・マイク・ボーク選手に勝利。
1Rわずか17秒、パンチ一発でのKO勝利を飾った大山さんには一躍大きな注目が集まり、PRIDEからのオファーで大舞台での日本デビュー戦が決まりました。
小松:
大山さんが憧れていたヒーロー・桜庭和志選手のPRIDEでの連勝を止めたヴァンダレイ・シウバ選手との対戦ですね。
大山:
はい。僕がプロ格闘家になるきっかけとなった桜庭さんをPRIDEのリングで初めて倒した相手と戦えるという信じられないくらいの幸運に恵まれたのですが、このチャンスをものにすることが出来ず(1R・TKO負け)、ここから僕の周囲の期待を裏切り続ける格闘家人生がスタートしました。

茨の道をゆく
東:
周囲の期待を裏切り続けるという言い方は厳しいですが、当時の大山さんには本当に大きな期待が集まっていました。
格闘技界はヴァンダレイ・シウバに敗れた桜庭選手に代わる新たな日本人のスター選手を求めていましたから。
ただ、当時のPRIDEのリングには世界最高峰のレベルの選手が集まっていましたし、ファイターには、ただ勝利するだけではなく、面白い試合をして観客を楽しませた上で勝利しなくてはならないという厳しいミッションが課せられていました。かなり苦しい試合が続きましたよね。
大山:
デビュー二戦目となったヴァリッジ・イズマイウ戦で絞め落とされて、右目が網膜剥離に。復帰戦となったヘンゾ・グレイシー戦では勝利したにも関わらず、消極的な試合展開をバッシングされてしまって。
小松:
グレイシー一族に勝利したのにバッシングを受けたのですか?!
大山:
網膜剥離から復帰するにあたって、それまで支えたくれた方々への恩返しのためにも何としてでも勝利して恩返しをしたいと考えて、緻密な戦略を立てて判定で勝利したのですが、当日の会場では試合後に観客から大ブーイングを受け、メディアからはバッシングされ、格闘技ファンからは誹謗中傷を受けました。
東:
同じ日に行われたメインイベントのドン・フライ選手と高山善廣選手の試合が、お互いの首を掴み合い、ノーガードで殴り合うというPRIDEの中でも歴史に残るほどの盛り上がりを見せた試合だっただけに風当たりが強くなりましたよね…
大山:
最初は理解出来ませんでしたし、悩みました。網膜剥離を乗り越えて、グレイシー一族に勝利したのにどうして喜んでもらえないのか?
この試合の後、格闘技ファンの僕への熱は急激に冷めてしまい、周りからどんどん人がいなくなっていきました。
小松:
辛かったでしょうね…
大山:
今振り返ると、それまでの僕は大して実力もないのに対戦相手に恵まれたおかげでメディアにもよく出演させていただいていて、周りからちやほやされて調子に乗っていました。
でも、ヘンゾ・グレイシーとの試合のおかげで、伸びていた鼻も思い切りへし折られて、等身大の自分になることが出来ましたし、僕たち“プロ”が求められているのは、試合の勝敗ではなく、ファンの方々が自分には決して真似の出来ない戦い方や生き様を見せることなのだということを思い知らされました。
東:
ここから、大山さんのファイトスタイルは変わりましたよね。
大山:
次に同じような試合をしてしまえば、僕はプロ格闘家として生きていけません。
それからは、勝敗にこだわった戦略的な戦い方ではなく、勝っても負けてもKOで決まるような積極的な戦い方をするようにしました。
東:
当時のPRIDEは“競技”というより“興行”でしたので、求められるのは強い“だけ”の選手ではなく、面白い試合をして会場にお客さんを集められる選手、テレビ中継を観たいと思わせることが出来る選手でした。
口で言うのは簡単ですが、実際に戦う選手は大変ですよね。勝敗は関係ないと言われても、負け続ければ試合は組まれないわけですし。
大山:
そうですね…ただ、僕が憧れた桜庭さんは世界の強豪を相手に面白い試合をして勝つという離れ業を実現していましたし、もともと桜庭さんのようになりたくて、この世界に入ったわけですから。
次の試合では、ヘンゾ・グレイシーの弟であるハイアン・グレイシーと対戦したのですが、真っ向から戦った結果、右腕をへし折られて負けてしまいました。
勝利を最優先に戦略的に戦っていれば、結果は違ったかも知れませんが、後悔はしていませんし、何よりファンが喜んでくれたことが嬉しくて。
ここから、“大山峻護らしい戦い”をすることを最も大切に格闘技をすることに決めました。
小松:
それは、茨の道を歩むことにもなりますよね。
東:
おっしゃる通りで、大山さんはその後、ミルコ・クロコップやサム・グレコといった体格差のある選手にも真っ向勝負を挑み続けました。
満身創痍になりながら、再びの網膜剥離を乗り越え、大晦日の大舞台でK-1GPで三度優勝したピーター・アーツに勝利したり、Martial Combatライトヘビー級王座、ROAD FC初代ミドル級チャンピオンに輝くなどの実績を残し、記録にも記憶にも残るファイターとしてご活躍なさいました。
大山:
格闘技が最も盛り上がっていた時代に選手でいられたことで、現在でも多くの方におぼえてもらえているのはとても幸せなことで心から感謝していますし、どんな相手と対戦した時にも“大山峻護らしい戦い”を貫けたことはその後の人生における大きな自信になりました。
小松:
自分よりはるかに大きく強い相手にも臆することなく自分らしい戦いを貫き、“プロ”としての仕事を全うなさってきた大山さんの格闘技人生にも、終わりの時が訪れます。
大山さんが引退を決意なさったきっかけから伺ってまいりたいと思います。

大山:
宜しくお願いします。
小松:
自分よりはるかに大きく強い相手にも臆することなく自分らしい戦いを貫き、“プロ”としての仕事を全うなさってきた大山さんの格闘技人生についてお話を伺ってまいりましたが、大山さんが引退を決意なさったきっかけから聞かせていただきます。
“もういいだろう”という声が聞こえた
小松:
2001年にデビューして、2014年に引退なさるまでの14年間、プロ格闘家として活動なさってきたわけですが、いつ頃から引退を考えていらしたのでしょうか?
大山:
引退の直前まで全く考えていませんでした。僕が引退を決めたのは2014年8月に開催されたパンクラスでの一慶選手との試合後なのですが、その試合の前までは一試合でも長く現役を続けたいと考えていました。
小松:
なぜ、一慶選手との試合後に引退を決められたのでしょうか?
大山:
心身ともに限界だったんだと思います。
これまではどんなにひどい負け方をしても「次こそは!」という気持ちが湧いてきていたのですが、初めてそれが無くなってしまって。自分の身体に「もういいだろう?」と言われた気がしたんです。
小松:
身体の声ですか…
大山:
これまで蓄積してきたダメージで、身体が壊れかけていることに気づいたんです。少し打撃を食らっただけで簡単に倒れるようになってしまって。
以前とは明らかに倒れ方が違ってきていて、これ以上続けたら完全に壊れてしまうだろうなと思い、試合に負けた日、妻に「これで終わりにしようと思う」と伝えました。
妻も以前から僕の身体を心配していたので「そうだね」と受け入れてくれて。
東:
格闘家の奥様は、愛する夫が毎回生きるか死ぬかの戦いをするわけですから、生きた心地がしないですよね。特に大山さんのファイトスタイルはまさに命を削っているわけですから。
大山:
それで、SNSで引退を表明したんです。ただ、表明した後に、これで正しかったのか分からなくなってしまって。
ファンはどんな逆境からも立ち上がる大山峻護を応援してきてくれたのに、本当にこれで終わってしまっていいのかと。
小松:
ずっと“大山さんらしさ”を大切に選手生活を送ってこられたわけですものね。
大山:
これまで応援してくれていた仲間からの「最後の試合だと分かっていたのなら見に行きたかった」という声もあったので、お世話になった方々に最後の姿を見届けていただくためにも、もう一試合だけ戦おうと思って、引退試合をさせていただくことにしたんです。

真っ向勝負の大団円
東:
僕は、引退試合をすることには反対だったんです。
小松:
どうしてですか?
東:
大山さんが壊れてしまうと思ったからです。
引退試合がセレモニーを兼ねたエキシビションのような試合であればいいですが、大山さんが選んだ対戦相手は桜木裕司選手という極真空手出身で、肘打ちや頭突きが認められた素手で戦う格闘技“パンクラチオン”の世界大会でも3位に入賞した経験のある最高に危険なファイターだったので。
大げさではなく、命を失ったり、後遺症が残るような取り返しのつかない結果になりかねないと思って、心配で仕方が無かったんです。
大山:
最後は“真っ向勝負”をしたかったんです。それが僕の格闘技人生のテーマでしたから。
後先を考えずに思いっきり殴り合って、いつどちらが倒れるか分からないような試合をして終わりたい。
桜木選手とならそんな試合が出来ると思って、対戦をお願いしました。
小松:
東さんは大山さんがご自身で引退を決意なさる前にも、身体を心配して引退を勧めようと考えていたそうですね。
東:
僕は格闘技が大好きで、大山さん以外の試合もたくさん観戦してきました。
その中で、壊れてしまったファイターも見てきましたが、大山さんの倒れ方はご自身が自覚なさる随分前から壊れかけのファイターの倒れ方でしたから。
何度か「もう引退したほうがいいです」とお伝えしようとしたのですが、結局言えなくて。
小松:
どうして、言えなかったのでしょうか?
東:
僕はファイターではありませんから。リングの上でやるかやられるかの命のやり取りをしたことがない人間が言えることではないと思ったんです。
他にも大山さんのルックスと身体能力を活かして、プロレスラーに転向したほうが長く現役を続けられるのではないかと思い、僕が運営委員を務めている日本スポーツ産業学会のセミナーにご登壇いただいた新日本プロレスの木谷高明社長(当時)をご紹介しようともしましたが、いつも優しい大山さんに「会う理由が分からない」と珍しく強く断られて。
怒らせてしまったなと反省したりしていました。
大山:
プロレスは命がけのエンターテイメントですし、プロレス少年だった昔から、今でもプロレスラーを心からリスペクトしています。
でも、現役の頃は総合格闘家として結果を残すことしか考えていなかったので、「何でそんなこと言うんだよ」と思っていましたね。
小松:
「うるさい!」みたいな(笑)
大山:
そうです(笑)
東:
迎えた引退試合の日。会場のディファ有明には、当時の最多入場者記録となる2,014名が集まりましたが、大山さんの応援団だけで約400名がいらっしゃいました。
小松:
400名とは凄いですね!東さんも会場に行かれたのですか?
東:
もちろん僕もリングサイドで応援していました。試合はまさに大山さんが望んだ通りのいつどちらが倒れるか分からない、お互いの魂をぶつけ合うような真っ向勝負の殴り合いで、桜木選手がKOで勝利しました。
大山:
気持ちよくぶっ倒されましたね(笑)
東:
試合後も色々と思うことはあったんです。KOされているのにすぐに立って、挨拶をさせたら危ないだろう。担架ですぐに病院に運ばないと、とか。
でも、大山さんと僕では人間のスケールが違うんですよね。
結局、自分らしさを貫いた試合をした上で、引退の挨拶をした後、大山さんは応援に駆けつけた方々を全員リングに上げて、みんな笑顔で記念撮影をして、大団円を迎えたんです。
凄いな、敵わないなと思いましたね。
小松:
最後まで大山さんらしさを貫かれた格闘技人生だったのですね。

東:
後日開催された引退記念パーティーに桜木裕司選手が現れたのには度肝を抜かれましたけれどね。
そこで、これまで大山さんを応援してくれていた方々に「僕は引退しましたけれど、これからは桜木選手を応援してください!」と。
あれだけ殴り合って最後にKOされた選手とこんな風に付き合えるなんて…やっぱりファイターの気持ちは僕には分かりません(笑)
小松:
大山さんのお人柄、とても素敵ですね。
ご縁をつなぐ
小松:
前編で、最後の試合を終えてから、この先、何をして生きていけばいいのか分からず目の前が真っ暗になってしまって、色々な方々に連絡をしたところから「ファイトネス」を事業にしていくアイデアが生まれたことを伺いましたが、どのように事業を広げていかれたのでしょうか?
大山:
「ファイトネス」は、格闘技とフィットネスを融合させた運動プログラムを従業員のメンタルヘルスに活用していただくというこれまでに無かったサービスなので、自ら熱意を伝えないと絶対に上手くいかないと思って、名刺交換したことがある方とアポイントをとって営業に伺いました。
当時は資料のつくり方も分からず、格闘技雑誌に掲載された現役時代の記事のコピーを持参して「こういう者です。絶対に皆様を元気にしますから!」と。とにかく必死でしたね。
東:
営業活動は順調に進みましたか?
大山:
最初は苦労しましたよね。なかなか上手くいかない中で、現役時代に多くの方々に「何か困ったことがあったら声をかけてね」と言ってもらっていたので、仕事をもらえるかも知れないと少し期待をしていた部分もあったのですが、引退後に離れていってしまう人も多くて、「人ってシビアだな」と感じさせられました。
小松:
格闘技選手としては応援するけれど、ビジネスは別だと。
大山:
そうですね。今考えれば当然の話ではありますが、当時は寂しく感じましたよね。
おかげで甘えていた自分に気づくとともに「絶対に現役時代より輝いてやる!」と発奮することが出来ました。
東:
ずっと大山さんを応援し続けている人もたくさんいらっしゃいましたよね。
大山:
現役時代からずっと変わらぬ距離でい続けてくれる仲間たちには本当に感謝しています。
また、引退してすぐの頃に東さんが「現役時代には大山さんの周りにたくさん人がいて、僕に出来ることは何もありませんでしたが、引退後は僕が大山さんの力になります!」と言って、色々な人を紹介してくれたのも嬉しかったですね。
小松:
すごい愛情ですね。
東:
結局、大してお役に立てなかったのですが…
大山:
いやいや、あの言葉には救われました。
その後、「ファイトネス」は最初に友人の会社で試しにやらせていただいた後、3社目に三越伊勢丹ホールディングス(以下、三越伊勢丹)の研修に組み込んでもらえることになって。
小松:
いきなりそんな大手企業に導入されたのですね!どういった経緯だったのでしょうか?
大山:
僕は現役時代から人を繋ぐのが大好きで、ご縁つなぎの食事会などを良く開催していたのですが、その関係でたまたま三越伊勢丹の労働組合の方と名刺交換する機会に恵まれて。
「ファイトネス」を広げていくために、どうしても三越伊勢丹と仕事をしたいと必死でプレゼンをして、東京の研修に組み込んでもらえることになったんです。
東:
現役の頃から格闘技界以外の幅広いジャンルでご活躍の方々と接してきたことが活きたということですよね。三越伊勢丹での研修、反応はいかがでしたか?

大山:
嬉しいことに「社員のこんな笑顔を見たのは初めてだ!」と非常に高い評価をいただいて、全国の労働組合に展開していただけることになりました。
三越伊勢丹で実施しているという実績はとても大きくて、ここからどんどん「ファイトネス」は広がって、これまでの3年半で百社以上に導入していただいています。
小松:
厚生労働省の指導もあり、メンタルヘルスケアに予算を割く企業や団体は今後もどんどん増えていくでしょうから、時代にもマッチしたとても素晴らしいビジネスだと思います。
解き放たれた“呪縛”
東:
ファイトネスを始め、パーソナルトレーナーに講演、ご縁つなぎの会と毎日本当にお忙しい日々を過ごしている大山さんですが、現役時代と今ではどちらのほうが充実していますか?
大山:
今です!毎日楽しくてしょうがないです。
小松:
即答ですね(笑)
大山:
はい(笑)現役時代も、もちろん充実していましたが、色々な葛藤を抱えていました。
他のファイターと自分を比べて嫉妬したり、自己否定したり、ずっともがいていました。
仲間が試合をしていても、心から応援出来ないんです。勝ったらどうしようと。仲間だろうと他の選手の活躍なんて絶対に認められない。
口では「おめでとう」と言っても、本心では全然祝っていない。そんな自分が嫌いでした。引退して、呪縛が解けたんです。
東:
語弊があるかも知れませんが、大山さん、本来は格闘技に向いていないんだと思います。
大山:
ええー、そうですかね(笑)
東:
今のほうが、人を笑顔にするお仕事をなさっていて本当に生き生きとしていますし、殴るとか蹴るとか関節を折るとか、本当は好きじゃないですよね?
大山:
確かに、強いヒーローになりたかっただけで、人を殴るのが好きなわけじゃないかも(笑)
小松:
向いていないなんてことはないです!(笑)向いていなければ、ここまでの活躍は出来ないと思いますし。
ただ、ファイターなら感じて当然の他の選手への嫉妬に対して葛藤してしまう繊細な感性や、それらの感情を言語化出来る知性が、大山さんを苦しめていたのだと思います。
大山:
あの頃、悩んでいたことを最近やっと素直に話せるようになりましたよね。
東:
今が充実なさっているからこそ、過去のことを素直に話すことが出来るのでしょうね。
それでは、今後の目標を教えていただけますか?
大山:
一つは僕抜きでも「ファイトネス」が広がっていくような仕組みづくりを実現すること、もう一つはアスリートのセカンドキャリアの道を開拓したいと思っています。
僕もそうでしたが、多くのアスリートは引退後に突然「社会で泳ぎなさい」と言われても、泳げないんですよね。トップアスリートになればなるほど競技のことしか知りませんから。
東:
そこで悩んでいるアスリートは本当に多いですよね。
大山:
いきなり「泳ぎなさい」と言われても難しいので、企業を紹介しても辞めてしまう人が多い。ワンクッションおいて、時間を取って、教育しなければ、社会の波に溺れてしまうんです。
僕自身は引退後にとにかく動きながら、少しずつマインドを変えていって、アスリートとしての経験を武器にすることが出来たのですが、せっかく積み重ねてきた経験を活かせないアスリートも多いんです。
小松:
アスリートならではの並外れたメンタリティの強さや、向上心を活かせないままでいるわけですね。
大山:
再生すると言ったらおこがましいかも知れませんが、マインドをリセットして、新たな世界にマッチ出来れば、アスリートの持つポテンシャルは凄まじいと思うんです。
現在、その仕組みをつくるための基本的な教育の部分をご担当いただける方へのお声がけも始めています。
また、僕はファイトネスを広げていく過程で様々な企業との繋がりもあるので、マインドがリセットされたアスリート人材を企業に繋げていく事業も今年からスタートしたいと考えています。
東:
多くのアスリートのキャリアを救うとともに、労働人口の減少という社会課題の解決にも貢献出来るとても素晴らしい事業だと思います。
それでは、ここで改めて現在の大山さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめますと、パーソナルトレーナーのお仕事が「A」の領域、経営者や講演の講師が「C」の領域と主に二つの領域でご活躍なさっているということですね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
小松:
今後、ますます広がるであろう「ファイトネス」はもちろん、現在構想なさっているアスリートのキャリア支援事業を始め、ファイターやアスリートのセカンドキャリアのロールモデルとして、様々なジャンルでご活躍なさるのが楽しみです。
東:
それでは、最後のお願いです。
格闘技という言葉を使わずに、自己紹介をしてもらえますか?
大山:
“喜びを力に変える人”ですかね。みんなに喜んでもらえる仕事をしたい。それが全てです。
東:
現役の頃、大山さんと対峙していた人は、大山さんを倒そうと恐ろしい顔をしていましたが、今、大山さんと対峙している人は、大山さんに喜ばせてもらって素敵な笑顔をしています。
やっぱり、大山さんは格闘技には向いていなかったんだと思いますよ(笑)
大山:
最後もそれですか(笑)
小松:
本当ですね(笑)
東:
本日はお忙しいところ貴重なお時間をありがとうございました。
大山:
こちらこそありがとうございました。
定期的に女性限定の「ウーマンファイトネス」も開催しているので、小松さんも是非遊びにいらしてくださいね。

小松:
ありがとうございます!伺いますね。
(おわり)
編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。
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