2025.02.07

仲間が集まる“場”をつくる 元ハンドボール日本代表キャプテン・永島英明

Profile

1977年大阪府生まれ。此花学院高校(現・大阪偕星学園高校)でハンドボールに出会い、3年時には全国大会でベスト8に進出するなど活躍。大阪体育大学では2年&4年生時に全日本学生選手権で優勝。日本ハンドボールリーグの三陽商会に入団後、チームの休部に伴いプロ契約選手として大崎電気オーソルに移籍。攻守の要としてチームに大きく貢献。日本代表としても3度のオリンピック予選、2度の世界選手権を始め数々の国際試合で活躍。2008年北京オリンピック世界最終予選に向けてはキャプテンとしてチームをまとめた。2013年に現役を引退後、2014年に株式会社HIHを設立。西麻布の飲食店などでの3年間の修業の後、2019年1月に東京の三軒茶屋に「広島焼き とこしえ」をオープン。広島県内および東京都内で数ある広島風お好み焼きを食べ歩き、日夜研究した自慢の逸品を振る舞っている。

東:
様々なアスリートの現役を終えた“その後の人生”に迫るインタビュー連載“表彰台の降り方。〜その後のメダリスト100〜”。今回は2008年に開催された北京オリンピック予選を日本代表のキャプテンとして戦った元ハンドボール選手の永島英明さんにお話を伺います。

小松:
永島さんは此花学院高校(現・大阪偕星学園高校)卒業後、大阪体育大学に進まれ、2年生と4年生の時に全日本学生選手権で優勝。

その後、日本ハンドボールリーグの三陽商会でご活躍されていましたが、2001年に三陽商会のハンドボール部が廃部したことに伴い、大崎電気オーソルに移籍。プロ選手としての契約を結ばれました。

13年間在籍した大崎電気オーソルでは鍛え上げたフィジカルを活かした攻守を武器に、東さんや宮﨑大輔選手らとともに日本ハンドボールリーグ、全日本総合選手権大会、全日本実業団選手権、国体などで優勝を果たしたほか、日本代表としても2度の世界選手権を始め各種国際大会を経験なさってきた日本ハンドボール界のレジェンドです。

東:
2013年に現役を引退後、2014年に主にスポーツ用品を取り扱う株式会社HIHを設立。2019年1月には東京の三軒茶屋に「広島焼き とこしえ」という飲食店をオープンするなど、現在は経営者・実業家として活躍しながら、日本サッカー協会が推進する「JFAこころのプロジェクト」の夢先生を始め全国各地の小中学校などへの講演活動にも取り組まれています。

小松:
永島さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめますと、株式会社HIHの代表取締役と「広島焼き とこしえ」のオーナー兼店長という「C」の領域と、講演の講師などの「D」の領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

 シンプルに“好きな場所”で“好きなこと”を

小松:
永島さんと東さんとは大崎電気オーソル、日本代表でともに戦ってきた仲間ですよね。

東:
はい。仲間でありながら、“ポスト”というポジションを争うライバルでもありました。

2001年から2009年まで9年間同じチームでプレーしてきましたが、年齢は僕のほうが1つ上にも関わらず、どちらが先輩なのか分からないような関係です(笑)

永島:
いやいや(笑)

小松:
仲良しなんですね(笑)続いて、永島さんの現在のお仕事についてお話を伺ってまいります。

現役を引退後、指導者などのハンドボールに関わるお仕事ではなく、経営者・実業家としての道を選ばれ、最近では「広島焼き とこしえ」という飲食店を三軒茶屋に開店(2019年1月開店。取材は2019年3月2日に実施)なさったわけですが、「とこしえ」というお名前の由来は何なのでしょうか?

永島:
「とこしえ」は、「永久(とこしえ)」。永島の「永」からです。

東:
お店を開店なさった三軒茶屋という場所には何かご縁がおありだったのでしょうか?

永島:
単純に好きなんですよね、三軒茶屋が。以前から飲み歩いていて、いい町だなと感じていたので、自分の店を出すならここだなと考えていました。

小松:
「広島焼き とこしえ」は、駅から少し離れた場所にありますが、広島焼きを始めとするお好み焼き系のお店は駅前や周辺にも結構あるように感じました。ライバルが多いのではないですか?

永島:
三軒茶屋には広島焼きのお店がうちを入れて4軒、お好み焼き屋だと8軒あります。

東:
めちゃめちゃ多いじゃないですか!飲食店の中でもライバルが多いお好み焼き屋を選ばれたのには、何か特別な理由があったのでしょうか?

永島:
昔からお好み焼きが好きだったので、大好きなお好み焼きを食べながら、美味しいお酒を飲んで、仲間と楽しくハンドボールが見られる店があったらええやん!という至ってシンプルな発想です。

小松:
なるほど。広島焼きやお好み焼きのお店はたくさんありますが、ハンドボールと一緒に楽しめるお店は“オンリーワン”ですものね。

 “つかみ”が大切

東:
ハンドボールに関わる仕事には携わっていますか?

永島:
オファーがあれば、試合の解説やハンドボール教室の講師をするぐらいですね。

小松:
講演活動もなさっていますよね。とても好評を得ていると伺いました。

永島:
2020年に東京オリンピック・パラリンピックを控えている中で、登壇させていただく機会も増えてきていますね。

小松:
講演ではどのような内容をお話しになるのでしょうか?

永島:
ひとことで言えば“夢”についてです。

“夢を持つことの大切さ”をテーマに、ハンドボール選手として経験してきたこと、感じたこと、いまも意識していることなどについてお話しをさせていただいています。

東:
現役中は、あまり積極的に表に出て活動するタイプではなかったですよね。コート以外では目立ちたがらないというか。

永島:
確かに現役時代は講演などを進んでやるタイプではなかったですね。オファーがあっても断ったりしていましたし。

小松:
講演をなさる際に、何か意識なさっていることはありますか?

永島:
“つかみ”ですね。野球やサッカーであればクラスの中に何人か経験者がいますが、ハンドボール経験者はほとんどの場合“ゼロ”で、ハンドボールという競技自体すら知らない場合が多くて。

まさにアウェーなんですね。

東:
ハンドボールをプレーしている子どもたちに向けてハンドボールを指導するのではなく、“ムラ”を出て、ハンドボールを知らない一般の子どもたちを対象に講演をした際に、改めてハンドボールや自分自身の知名度の低さと競技人口の少なさという“現実”を感じさせられますし、自分自身が子どもたちに何を伝えられるのかという本質的な価値に向き合うことになりますよね。

永島:
最初は苦労しましたが、アウェーの中で子どもたちの気持ちをグッとつかむためにしてきた勉強や工夫が今でも役に立っています。

東:
以前は自らが“ハンドボール日本代表のキャプテン”だったということもほとんど言わなかったように思うのですが、現在では積極的にPRしているように感じます。何か心境の変化があったのでしょうか?

永島:
それも“つかみ”の一つになると気づいたからです。うちの店は全面ガラス張りですが、通りから店内でハンドボールの映像が流れているのを見えるようにするためです。

例えば、潜在的にハンドボールに興味がある方がいて、ふと通りがかった時にハンドボールの映像が流れているお店があって、気になってのぞいてみると元ハンドボール日本代表キャプテンの店長がいて、選手のユニフォームが飾ってあったり、壁にたくさんのサインが書かれていたら興味を持ってもらえますよね。全てが“つかみ”のためなんです。

小松:
確かにお店の前を通りがかるだけで気になりますよね。

東:
今、お話いただいた“つかみ”は、何も知らずにお店を通りがかった方々に向けたものだと思うのですが、ハンドボール界に向けた“つかみ”としては、柳川正典さんをパートナーとして招き入れたことも大きいのではないでしょうか?

永島:
そうですね。

小松:
柳川正典さん、どういった方なのでしょう?

東:
柳川さんは“ハンドボーラーの聖地”と呼ばれていた居酒屋の店長をなさっていた方です。

ご自身は全くハンドボールには関わりのない人生を送ってこられていたのですが、息子さんがハンドボール部で、自らが勤務している居酒屋にハンドボール女子日本代表の選手が来店したことをきっかけに交流を深めて、お店に日本代表選手のサイン入りユニフォームを飾ったり、ハンドボールの専門誌を並べることで、全国各地のハンドボールファンがこぞって訪れる“聖地”になったんです。

小松:
ハンドボーラーの聖地!

東:
それまではハンドボール選手のユニフォームや専門誌が飾ってあるお店なんて聞いたことも無かったので、最初は単に珍しいということもありましたが、柳川さんがお店を訪れたハンドボール経験者や関係者を撮影して、写真をリアルタイムにどんどんFacebookにアップしたことで全国各地のハンドボーラーの同窓会や交流の場となっていって。

柳川さんのお店に行けば、世間ではなかなか出会えないハンドボールが大好きな仲間たちや、場合によっては現役選手にも会えるし、お店を訪れて柳川さんのFacebookに写真を掲載してもらうことがある種のステータスになるという唯一無二の“コミュニティ”になったんです。

小松:
柳川さんは全国のハンドボールファンのハブになられている方なのですね。それで、お店をやるならその方をパートナーにと。

永島:
単なる飲食店ではなく、仲間が集まるコミュニティをつくりたいと考えていたので、どうしても柳川さんと一緒にやりたくてお誘いしました。

“場所”と“資金”と“人”の3つが揃わなければ“店”は出来ないのですが、これまではお金はあったけれど、人も場所も見つからなかったんです。

逆に人はいるけどお金がないというときもありましたし。

でも、今回、柳川さんという素晴らしいパートナーがいて、お金も積み重ねてきたものがあって、やりたいなと思える場所にも恵まれたので、とてもいいタイミングでした。

東:
場所を決めるにあたっても簡単ではなかったそうですが。

永島:
たまたま見つけた場所だったのですが、ここだ!というインスピレーションを感じて。

ただ、問い合わせてみると、居抜き物件だったので譲渡額もかなり高額、競合も大手を含めて6社あるということだったんです。

小松:
普通に考えるとかなり難しい条件ですが、どのように交渉なさったのでしょうか?

永島:
交渉というか、提示されたそのままの金額を即現金で持っていったんです。

小松:
他が検討している間に即決して、現金で支払ったんですね!
凄い交渉力ですね。

永島:
交渉力というか“覚悟”ですよね。

確かに高額ではあるけれども、どうしてもこの場所でやりたかったですし、ここでやれば絶対流行る。店を流行らせれば一瞬でペイ出来ると信じていました。

東:
頭では考えられても、相当な“覚悟”がなければ、なかなか実行出来ることではありませんよね。

 地元のお客様に愛される店になるために

小松:
その後、2019年の1月にお店をオープンなさって、現在ではなかなか予約もとれないくらいの人気店になっていらっしゃいますね。

永島:
ありがたいことに三軒茶屋周辺のお客様を始め、ハンドボールはもちろん異なる競技のアスリートや、引退後に知り合った経営者の方々など様々なジャンルのお客様にいらしていただいています。

東:
アスリートが現役引退後に飲食店を経営する際に、友人や知人の来客のみをあてにしてしまった結果、失敗してしまうという事例も伺うのですが、「広島焼き とこしえ」がこれだけ幅広い層のお客様に来店いただけている要因は何なのでしょうか?

永島:
おっしゃるとおりで、知り合いだけに集客を頼るお店になるのが怖かったので、友人知人のみのプレオープン期間を1ヶ月設けたんです。

最初に身内や仲間が来てくれるのは分かっていたので、地元のたまたま通りがかったお客様に、新しい店が出来たけれど満員で入れないという状況を「プレオープン」ということで納得してもらうとともに、興味を持ってもらえるようにしました。

小松:
なるほど。単に満員で入れないのではなく、プレオープンだからということであれば不満も出ませんし、実際にオープンしたら行ってみたいと思いますものね。

永島:
地元の三軒茶屋のお客様に愛され、いらしていただけるような店でなければ、長い目で見て上手くはいかないと思っていたので、そこはかなり気を遣いました。

最初は身内に届きすぎないようにSNSでの告知も控えていましたし。

東:
SNSでの告知についても緻密に計算されていたんですね。

永島:
最初はSNSよりも、地元である三軒茶屋の方々の口コミを大切にしておいて、グランドオープンの際にSNSで一斉に公開しました。

そこで、僕個人のつながり、柳川さんのつながり、ハンドボールファン、地元三軒茶屋の方々という幅広いチャネルのお客様へリーチすることが出来たことが現在につながっていると思います。

小松:
現在はSNSでご紹介してもよろしいのでしょうか?

永島:
是非!どんどんやっていただきたいです(笑)

東:
今後、このインタビュー記事をきっかけにお店を訪れる方がいらしたら、僕も嬉しいです。

さて、「広島焼き とこしえ」を中心に、現在のお仕事について伺ってまいりましたが、ハンドボール選手であり、トップアスリートとしての永島さんについてもお話を聞かせていただこうと思います。

小松:
楽しみです!宜しくお願い致します。

永島:
宜しくお願いします。

小松:
“美味しいお好み焼きとお酒を楽しみながらハンドボールが見られる”をコンセプトにした「広島焼き とこしえ」のオーナー兼店長としてのお話を中心に伺ってまいりましたが、永島さんのハンドボール選手・トップアスリートとしてのご経験について聞かせていただきたいと思います。

 プロハンドボール選手になる

小松:
まずはハンドボールとの出会いについてから聞かせていただけますか?
競技を始められたのは此花学院高校(現・大阪偕星学園高校)へ入学なさった後ですよね。

永島:
はい、中学生の頃は野球をやっていて、進学時に大阪市内の野球の名門高校のスポーツ推薦を4校受験するも、全て失敗してしまって。

野球はもちろんスポーツはもう諦めようと思っていたところで、ハンドボール部の顧問を務めていた北川雄士先生に声をかけられたのをきっかけに始めました。

東:
北川雄士先生、名将ですよね。その後、長身と身体能力を活かしてぐんぐんと頭角を現した永島さんは、高校3年時には激戦区・大阪を制して全国大会に出場。

全国大会でもベスト8の成績を残して、名門・大阪体育大学に進みました。

小松:
大阪体育大学では2年生と4年生の時に全日本学生選手権で優勝。

23歳以下の日本代表にも選ばれ、文字通り学生界を代表する選手となり、卒業後には日本ハンドボールリーグ(以下、JHL)に所属する三陽商会に入団。

若くして日本代表候補に選ばれるなど順調にご活躍なさっていましたが、入団3年目の2001年に転機が訪れましたね。

永島:
そうですね。景気の悪化による影響で、三陽商会がハンドボール部を休部させることになったので、プロ契約選手として大崎電気オーソル(以下、大崎電気)に移籍することを決めました。

東:
ここから僕は同じチームで過ごさせていただいたのですが、永島さんや同じく三陽商会からプロ契約選手として移籍してきた岩本真典さん(JHL通算最多得点記録(1079点)を保持する名選手であり、監督としても大崎電気を何度も日本一に導いた)、中川善雄さん(元日本代表キャプテン。

現在はJHL・トヨタ自動車東日本レガロッソ監督)によってチームのレベルが一気に引き上げられたのを覚えています。

小松:
永島さんたちはどのようにチームのレベルを引き上げたのでしょうか?

東:
永島さんを始め、三陽商会から移籍してきた3名のプロ選手は、競技面ではもちろん、意識の面で変革を起こしてくれました。

当時の大崎電気は新旧交代の狭間で、一部リーグの最下位を争うような弱小チームだったのですが、ウォーミングアップに行うサッカーからでも徹底的に勝負にこだわるプロフェッショナルな姿勢を見せられ、僕たちにもそれを求められたことで、チームとしても個人としても一つ上のステージに引き上げてもらったように思います。

永島:
三陽商会では選手を引退した後、正社員としての立場が保証されていましたが、プロ契約選手になったからには何の保証もありませんし、結果が全ての世界ですから意識は変わりますよね。

東:
永島さん自身の意識の変化については、プロ契約選手になったこともそうですが、その頃に出会い、かつてパートナーだった山本聖子さん(元レスリング世界チャンピオン)の影響も大きかったのではないですか?

 世界を広げてくれた存在

永島:
確かに彼女の影響はとても大きかったです。競技に取り組む姿勢、考え方、努力の質と量、全てが凄まじくて、アスリートとして次元が違う存在でしたから。

また、ここまでやってもオリンピックには行けないのかという厳しさも間近で感じましたし。

小松:
当時、山本聖子さんが戦っていた女子レスリング55kg級は、吉田沙保里選手や小原日登美選手など世界最高峰のレベルの選手が揃っていた最激戦区でしたからね…

東:
当時は山本聖子さん本人はもちろん、山本さんの周りにいらっしゃる方々との出会いや交流が永島さんを磨いたのかなと感じることがしばしばありました。

決して上から言うわけではありませんが、プレーやフィジカル面はもちろん、発言の内容から立ち居振る舞いに至るまでものすごいスピードで成長していたので、驚くとともに自分も負けてはいられないと発奮しました。

永島:
その頃はハンドボールのコミュニティだけで過ごしていると自らの進歩がないと感じていたんです。

一緒に食事をしていても、あの時はああだったとか、こうしていればよかったのにとか、過去の話題になることが多くて。

反省するのはもちろん大切だと思いますが、そうではなくて、単に過去を振り返って思い出話をしたり、愚痴をこぼしている時間は勿体無いし、楽しくないなと。

小松:
もっと未来志向で、前向きな話がしたいと。

永島:
そうですね。過ぎ去った時間の話よりもこれからの話をしていたほうが楽しいですし、有意義なので、可能な限りハンドボール以外の世界の人たちとコミュニケーションを図るようにしていました。

選手としての立場や実績は関係なく、永島英明という1人の人間として見てくれる方々とハンドボールやスポーツの枠組みを超えて付き合えたことで、思考の幅が広がりましたし、そこでの繋がりが現在の財産にもなっています。

東:
ハンドボール“ムラ”のメンバーとだけ過ごしていれば、リスペクトもされますし、自分の知らない話題も出ないので気楽ではあるでしょうが、なかなか成長は出来ないですものね。

当時は永島さんに大崎電気や日本代表のチームメイトもハンドボール“ムラ”以外のコミュニティによく誘っていただいて、そのおかげで僕も世界を広げることが出来ました。

小松:
永島さんがつくったコミュニティのおかげで、東さんやチームメイトも世界を広げられていたのですね。永島さんが山本聖子さんと一緒に過ごしていたのはいつ頃だったのでしょうか?

永島:
出会ったのは24、5歳で、ともにアテネオリンピックを目指していた頃ですね。
29歳で結婚して、37歳で離婚しました。

小松:
人生においては様々な出会いと別れがありますけれど、間近で素晴らしい影響を与えてくれる方と過ごせたのはとても幸せなことですよね。

永島:
素晴らしい時間を共有出来たことに感謝しています。

 ただ、オリンピックに出場するために

東:
少し角度を変えた質問をさせていただきますが、ハンドボールに取り組んで来た日々は、今振り返ってみて、自分の人生にとってどのような意味があったと思いますか?

永島:
なかなか難しい質問ですね…
ひとことで言えば“オリンピックへ挑戦した経験を持てた”という意味がありました。

小松:
ハンドボールに取り組んできたことで、オリンピックに挑戦出来たと。

永島:
そうですね。ただただオリンピックへ行きたいという思いでした。選ばれた人間しか見られない風景をどうしても見てみたい。僕にとってハンドボールはそのための手段でした。

東:
上手くなりたいとか勝ちたいではなく、オリンピックに出るためにハンドボールのトレーニングに取り組んでいたということですね。いつ頃からそのように考えられていたのでしょうか?

永島:
初めて日本代表の候補に選ばれた頃からですね。オリンピックに出場した経験を持つ選手やオリンピックを目指している選手たちと接している中で、こんなにも凄い選手達が必死で目指している“オリンピック”とは、どんなに素晴らしいものなのかと思い、興味を持ち始めたのがきっかけです。

小松:
その後、永島さんは、アテネ、北京、ロンドンと3度に渡りオリンピック予選に挑戦なさいましたね。

永島:
26歳で最初に挑戦したアテネオリンピック予選は、最大のライバルだった韓国と引き分け。得失点差で出場権を獲得することが出来ませんでした。

次こそが自分の全盛期だと切り替えて臨んだ4年後の北京オリンピック予選では“中東の笛”と呼ばれるアンフェアなジャッジに苦しめられるとともに、前代未聞のオリンピック予選のやり直しとなり、大きな話題となった代々木第一体育館での韓国との大一番にも敗れてしまいました。

※北京オリンピックアジア予選についてはこちらをご確認ください。

東:
代々木第一体育館に1万人を集めた韓国戦、僕はスタンドから応援していましたが、ものすごい雰囲気でした。あの試合のコートに立てたことも大きな経験ですよね。

永島:
確かにあの試合は人生の中でも貴重な経験でした。

小松:
その後、アジア予選2位として臨んだ北京オリンピック世界最終予選では、永島さんがキャプテンを務められましたが、欧州の強豪に惜しくも敗れてしまい出場権を獲得することは出来ませんでした。

次のロンドン大会に向けて、気持ちは切り替えられたのでしょうか?

永島:
正直、アテネから北京を目指そうと思った時の気持ちとは違いますよね。

ロンドンオリンピックの時には34歳。おそらく最後のチャンスになるでしょうし、アテネから北京を目指した4年間で身体もボロボロになっていましたから。

東:
足首を中心に色々な場所に故障を抱えながらも、何とかごまかしながらプレーしていましたよね。

永島:
次第に蓄積したものが隠しきれなくなってしまい、走り方までおかしくなってしまって。心身ともに本当に厳しい状況で、モチベーションを維持出来なくなって、1年間は日本代表の活動を辞退しました。

小松:
日本代表で無くなるということは、永島さんにとってハンドボールを続ける意味を失うことにも繋がりかねないわけですよね。

永島:
そうですね。辞退している間も、次に日本代表の招集を断ったら二度と呼ばれないんじゃないかとかも考えていて。

本気でロンドンを目指すのであれば、早く1歩目を踏み出さなければいけないことは理解しながらも、なかなかその1歩目を踏み出せない状況が続いて。

東:
それでも、どうしてもオリンピックを諦められなかったのですね。

永島:
最終的には考えることすらやめて、己の運命に任せてみようと思ったんです。

自分の力を必要とされれば呼ばれるだろうし、そうでなければ仕方ないという気持ちでいたら、声がかかって。その時に初めて「よし、やろう!」という心境になれたんです。

小松:
色々な迷いが吹っ切れたわけですね。

永島:
もし、あの充電期間がなかったらロンドンは目指せなかったかも知れません。4年間は短いようで長いですし、予選までの間に引退する可能性もありましたから。

結局、ロンドン大会の予選にはチャレンジしたのですが、3度出場権を逃してしまって。

もう次は目指せないなと思って、引退を意識し始めた時に2020年に東京でオリンピックが開催されることが決まって…当時はどうしてこのタイミングなのかと悔しい思いをしましたよね。

東:
時代の巡り合わせではありますが、残酷ですよね。

永島:
世界選手権には2度出場したので、世界の舞台を経験することは出来ましたが、結局オリンピックには行けませんでしたし、最大の夢を叶えることは出来ませんでした。

ただ、後悔の残らないように燃え尽きることは出来ましたし、オリンピックの舞台を目指して、自分との約束をやぶらずに努力を積み重ねてきた日々は自信になりました。

この経験は次の夢に絶対つながると思っていますし、それこそが僕がハンドボールに取り組んできた日々の意味だと感じています。

小松:
ロンドン大会への出場が叶わず、オリンピックへの道を諦めた永島さんは、プロハンドボール選手としてのキャリアにピリオドを打つことを決意なさいます。

東:
現役引退後に永島さんがとった意外な行動から、「広島焼き とこしえ」のオーナー兼店長になるまでのお話を伺ってまいります。

永島:
宜しくお願いします。

東:
現役引退後に永島さんがとった意外な行動から、「広島焼き とこしえ」のオーナー兼店長になるまでのお話を伺ってまいります。

 新たなスタートのために

小松:
アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でオリンピックへの出場が叶わず、現役引退を決意なさったわけですが、セカンドキャリアに向けた準備などはなさっていたのでしょうか?

永島:
全くですね。シーズン最後の試合であるプレーオフの1ヶ月前に、今シーズン限りでの引退をGMに伝えたくらいで、他の選手には何も伝えていませんでしたし。

東:
周りからすると、突然の引退という印象が強かったですね。

永島:
タイミングですよね。ただ、今思えば、次の人生のスタートを切るためにも、自ら引退を決断出来たことはとても良かったと思っています。

小松:
競技を生業とするプロ選手が、チームから戦力外通告を受けるのではなく、自らの意志で引退を決断出来たことは幸せなことですよね。

永島:
本当、恵まれていますよね。

 “ゼロ”の自分で勝負する

東:
僕を含めた周囲は、引退後は指導者としてチームに残るのだろうと考えていたのですが、チームに残ることはおろか、指導者の道にも進まなかったですよね。

永島:
指導者としての自分をイメージ出来なかったというか、ワクワクしなかったんです。

小松:
ワクワクしなかった?

永島:
少し分かりづらいかもしれませんが、現役時代からハンドボールやチームという誰かがつくった枠組みの中で評価されている状況を息苦しく感じるようになってきていて。ずっと自分の中に“違和感”があったんです。

東:
ハンドボールの成績やチームの結果のみで、自分という人間を判断・評価されていることに対して違和感を感じていたということですか?

永島:
ずっと感じていたんです、何か違うなと。

引退した後に、指導者になってハンドボール界に残れば安定した立場と収入を得られるかも知れないけれど、全然ワクワクしないし、指導者をやっている自分を想像しても違和感しかなかったんです。

小松:
それで、ハンドボールとは異なるチャレンジをなさったわけですね。

東:
現役引退後、半年間に渡って東南アジアを旅行というか、放浪していたそうですが、それはワクワクするためだったのですか?

永島:
そうですね。15歳で始めて36歳で引退するまで21年間を費やしてきたハンドボールを終えて、これからはもっと色々な経験をして、様々な力をつけていきたいと考えた時に、まずは度胸をつけようと。

英語も出来ない人間が東南アジアを1人で回るとどうなるんだろう?と考えただけでワクワクして(笑)

小松:
素晴らしいベンチャーマインドですね。どちらに滞在なさったのですか?

永島:
フィリピンとインドネシアとインドです。

バックパッカーだったので、現地で購入したハンモックで寝て、財布や携帯電話を盗まれてしまったり、日本では決して出来ない色々な経験をさせてもらいました。

東:
かなり危険な経験ですね…

永島:
誰も自分やハンドボールという競技すらも知らない場所で、言葉も通じない中、幼い頃からドラッグに侵されているストリートチルドレンの現実を目の当たりにしたり、ものすごい桁数の貨幣の下三桁の金額で日々生活している方々と触れ合うことで、自分の鼻がへし折られるというか、改めて、世界の広さと己の未熟さに気がついて。

改めて、これまでのキャリアに囚われることなく、一人の永島英明という人間として“ゼロ”から新たなスタートを切る決意が出来た時間でしたね。

 36歳・元日本代表キャプテンのアルバイト

小松:
東南アジアから戻られた永島さんは飲食店でアルバイトを始められますが、これには何か理由がおありだったのでしょうか?

永島:
将来、飲食店を立ち上げたいという思いがあったので、実現するためには現場を経験しておくことが絶対に必要だと考えてです。

東:
とはいえ、葛藤もあったでしょう?

永島:
無いと言えば嘘になります。アルバイトですから、かなり年下の店長からトイレ掃除や皿洗いを「やっといてー!」と頼まれるんです。

最初は「日本代表キャプテンの永島英明が何でこんなことを…」と、思いながら働いていました。

小松:
それは無理からぬことですよね。頭ではわかっていても…

永島:
ただ、初めは見栄やプライドが邪魔をしていたのですが、当然ですが、飲食店においてはトイレ掃除も皿洗いもとても重要な仕事で、そこに気づけた時に、一つひとつの仕事がとても面白くなったんです。

最初は店長に言われたからトイレやお皿をきれいにしていたのが、お客様がつかう場面をイメージして、お客様に喜んでもらえるようにきれいにするようになると楽しく働けるようになりました。

そうなると、フロアなどでのお客様への「ありがとうございました!」も、口先だけではなく、心からの言葉になるんです。

この経験は現在にも活きていますし、あのタイミングでアルバイトをしておいて本当によかったなと思います。

東:
飲食店のアルバイトが、言われたことを言われたままやる“作業”から、なぜやるのかを自ら考え心をこめておこなう“仕事”に変わったのですね。

 ワインディングロードの先に

東:
引退後、「広島焼き とこしえ」を開店するまでの5年間には、飲食店でのアルバイトのみならず、様々な事業にチャレンジしてこられたと思うのですが、そちらのお話についても聞かせていただけますか?

永島:
色々と試行錯誤をしてきましたね。生活のためにもお金を稼がなくてはいけないですし、営業について勉強したいという気持ちもありましたから。

小松:
2014年に設立なさった株式会社HIHで、様々な事業をなさっていますよね。

永島:
そうですね。現在はオリンピックの公式サプライヤーでもあるドイツ製の「バウアーファインド」という歴史のあるサポーターの国内代理店が主な事業になります。

東:
永島さんが現役時代に愛用していたサポーターですよね。実際に使用していたトップアスリートが販売していると信頼感が違うと思いますが、事業は順調なのでしょうか?

永島:
ハンドボールでいえば、現在、日本ハンドボールリーグに所属している男女合わせて18チーム中、15、6チームの選手にバウアーファインドのサポーターを使用していただいていますし、バスケットボールなど僕が直接関わりのなかった競技でも使ってもらえるようになってきました。

サッカーチームにはまだあまり受け入れられていないですが、バドミントンやアメリカンフットボール、スキーなどにも地道にですが着実に浸透しつつありますね。

小松:
どんどん広がっているのですね!

東:
“肉”をメインに据えた高級飲食店を共同経営なさっていたこともありましたよね。

永島:
はい。色々とありましたが、そこでの様々な経験が現在につながっていると思います。

小松:
様々な試行錯誤、紆余曲折を経たうえで辿り着いたのが「広島焼き とこしえ」なのですね。

永島:
結局、様々な経験をして、色々と考えて、実際に行動してみた結果、“お好み焼き食べてお酒飲んでハンドボールが観られるめっちゃ楽しい店”をやりたい!という結論が出たんです。

お好み焼きなら自分で焼けば料理人はいらないし、何から何まで全部自分の思い通りにやれます。

僕は、誰かにおんぶに抱っこではない形で“仲間が集まるコミュニティをつくる”という夢を叶えたかったんです。

東:
それが、永島さんにとって“違和感のない”生き方だったんですね。

 自分に正直に生きる

小松:
お話を伺っていると、永島さんは“違和感”があるかどうかをとても大切にして物事を判断なさっているように感じますが。

永島:
確かにその通りです。経営についてもそうですが、それぞれの分野にプロがいらして、色々と教えていただくこともあるのですが、どんなに凄い方からのアドバイスでも、自分に違和感があれば取り入れないようにしています。

人間関係でも同じですね。違和感のある人とは付き合わないようにしています。

東:
そこまで自分の感性にこだわる理由は何なのでしょうか?

永島:
自分に正直でいたいんです。自分の感性で選択したことなら、失敗しても自己責任ですから。お店に関しても、レイアウトからお酒の銘柄、お好み焼きの材料まで全部自分一人で決めました。

色々な方々から色々なアドバイスをいただきましたが、「ああそうですか」といって、ほとんど取り入れていません(笑)でも、結局はそれがめちゃくちゃ売れるんです。自分自身の感性で自信を持って選んだものが。

他人から「これは絶対売れるから売ったほうがいいよ」と言われたものなんて売れないんです。だって、自分が売れると思ってないんですから(笑)だから、僕はあんまり人の話を聞かないんです(笑)

小松:
自分が本当に好きなものを、自信をもって売る。ビジネスにおいて最も大切なことですね。

 後輩たちへのメッセージ

東:
今の永島さんはすごく輝いていますね。悩み、もがいている時期もあったような気がするから、余計に眩しく見えます。

永島:
悩みますよ、誰でも。すんなりとはいかないです。借金もすごかったですし、全てが上手くはいかないですけど…それでも、前に進むしかないですから。

小松:
いつでも順風満帆とはいかないですものね。

東:
ハンドボールの世界では、永島さんをプロ契約選手の第一世代とすると、これから第二世代、第三世代の選手たちが引退し、セカンドキャリアを迎えていくことになります。

彼らもきっと苦労すると思うのですが、何かアドバイスをするとしたら?

永島:
あまり安全なゾーンを選ばないことですね。一度きりの人生ですから、自分のワクワク感を大切にしたほうがいいと思うんです。

僕はワクワクするかどうかを大切にしていて、経営者になったらどうなるかと考えたら、ワクワクしたんです。ところが安全なゾーンばかり選んでいるとワクワクしない。

小松:
確かに最近では若い世代に安全志向が高まっているようにも思えます。

永島:
教員免許を持っているから教員になればいいとか、単に安定を求めるような生き方はやめたほうがいいんじゃないかなと。

アスリートがただ自分は選手として活躍したからコーチにでもなろうという選択ならやめたほうがいい。

コーチになりたい!監督になりたい!と思って頑張っているのなら良いですが、「指導者にならなれるから」とか「ハンドボールに関わる仕事でしか食べていけないから」で、キャリアを選ぶのはお勧めしません。

だって、ワクワクしないでしょう?

東:
ビジネスパーソンでも“やらなければいけないこと”よりも“やりたいこと”をやっている時のほうが輝いていますものね。

自分に正直に、違和感がないように、一度しかない人生をワクワクして過ごせるような仕事をしなければもったいないですよね。

小松:
さて、ここで改めて永島さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、株式会社HIHの代表取締役と「広島焼き とこしえ」のオーナー兼店長という「C」の領域と、講演の講師などの「D」の領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
今後も多店舗展開やアスリート雇用の拡大、東南アジアへの進出などますますのご活躍が期待されますね。

小松:
東南アジアの方々は粉物が大好きですから、きっと大成功なさると思います。

東:
それでは、最後にハンドボールという競技名を使わずに自己紹介をしてください。
永島英明はどんな人ですか?

永島:
何だろう…大阪出身の広島焼きの店の大将、ですかね。

東:
おお、大阪の人にも広島の人にも叱られそうな自己紹介(笑)

小松:
本日はありがとうございました。改めてお店に伺いますね。

永島:
お待ちしております(笑)
(おわり)

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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