2025.02.11

「アジア最後のフロンティア」ミャンマーにかける岡本篤志のセカンドキャリア

Profile

1981年生まれ 38歳
2003年ドラフトで埼玉西武ライオンズ入団
2011年にはブルペンリーダーとして中継ぎで活躍
2016年9月28日引退試合を最後にユニフォームを脱いだ。
2017年に野球を広げる活動でミャンマーに訪問し、施設の子たちと野球をツールに交流してる中で、教育の素晴らしさから2018年9月に外国人紹介事業を立ち上げる。
現在はミャンマー人を中心に東南アジアの人材(IT、電気機械、建築土木)を企業に紹介している。
日本と東南アジアの架け橋になれるように奮闘中。

※2019年4月5日取材実施

岡本篤志が語る 現役引退から起業までに歩んだ2年間(中編)◀
岡本篤志が語る 13年間の現役生活とこれから(後編)◀

東:
さまざまな競技のアスリートたちが、現役生活を終えた後、どのようなセカンドキャリアを過ごしているかをご紹介する「表彰台の降り方」。

今回のゲストは、埼玉西武ライオンズの投手として活躍された岡本篤志さんです。

現在はご自身で株式会社LMKを設立され、経営者として第2の人生を歩まれています。

小松:
いつもプレーを拝見しておりました。ここまで活躍された方で、起業を選ばれる方はなかなかいらっしゃいませんよね。

今の時代はともかく、昔は解説とか、野球関連のお仕事を選ばれる方が断然多かったように思います。経営者になると決断されたときの想いもお聞かせ下さい。

岡本:
迷いましたけどね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
現在は、会社を経営されているということですが、どのようなお仕事をされていますか?

岡本:
今は経営者として、日本在住外国人ITエンジニアを日本企業に紹介する事業に携わりながら、ミャンマーで野球の普及活動をしています。

小松:
ミャンマーでは野球の指導をされていますか?

岡本:
ミャンマー現地でも仕事をしながら、たまに子供達を指導しています。

野球の方は、せっかく長い間やってきたということもあるので、これまでの経験を生かしたいと思い、現地の子供達を定期的に指導しているんです。

東:
個人的には、岡本さんは野球普及の視点が強いなと思います。

野球は、普及している地域がアメリカや東アジアなどを中心として、限られていることもあって、オリンピック競技種目に残れませんでしたしね…。

小松:
どんなに頑張ってもダメでしたね…。

「何をするか浮かばない」日々を変えた ミャンマー訪問

東:
まず現在は、会社を経営されているということですが、どのようなお仕事をされていますか?

岡本:
今は経営者として、外国人ITエンジニアを日本企業に紹介する事業に携わりながら、ミャンマーで野球の普及活動をしています。

東:
前はベトナムとかが多かったですけど、最近はミャンマーなのですね。

小松:
自らが代表をされているこの会社の取締役ということですかね?

岡本:
そうです。大変なことも多いですね。例えば日本との文化が違い。

面接のときに連絡がつかなくなったりすることがあったりとか、日本のルールを守るように指導するのは特に大変です。

東:
起業に至った理由を教えて下さい。

岡本:
現在の日本の制度では、留学生が持っている「留学ビザ」では、どんなに優秀でも1週間に28時間までしか働けません。働きたくても、アルバイトでしか働けていない現状があるんです。

なので、日本とミャンマーの間で人材の架け橋になって、優秀な方々に活躍していただけるような土台を作りたいと思い、2019年9月に会社で人材紹介免許を取得しました。

小松:
先日、講演会に行ったときに知ったんですが、最近は法律が変わって、地方銀行が人材業界にも進出しているそうですよ。地銀の事業の中核にしていく方針らしいですよ。

東:
利ざやだけで稼ぎにくくなっているので、元来の業務である地元企業のコンサル的な仕事にも取り組んでいるようですよ。地域経済を活性化させるため必要ですしね。

小松:
日本の人口はどんどん減っていくという、「先見の明」が起業のきっかけだったのですか?

岡本:
たまたま知り合いで、ミャンマーで仕事をされている方がいらっしゃいまして…。

引退したときに相談すると、「岡本さん、ミャンマーに行きませんか?」とお声がけいただきまして今に至ります。人材業の免許を取ったのも2019年の9月ですし、まだまだこれからなんですよ。

小松:
うわぁ、時流の最先端…。

岡本:
当時は、ミャンマーのことを殆ど知らなかったんですけども、「アジア最後のフロンティア」と言われているんですよ。

これから成長が見込まれる中国やインドの近くにあることも魅力ですね。「30億円市場」と言われているそうです。

小松:
ミャンマー、私が一番行きたい国です。政治的な混乱のイメージもありますが、治安は安定しているのですか?

東:
「ビルマの竪琴」とかもありましたし、日本と関係が深い国ですよね。それだけの市場規模がありながら、まだまだ発展の余地があるのはなぜですか?

岡本:
ミャンマーの首都ヤンゴンは、国としては治安もいいです。

でも、国土のわりには人口が少なく、もともとは砂漠の国なので、インフラなどの流通網が整っていないところが課題ですかね。

今まさに、タイからミャンマーに道路を作っているところなんですよ。

人生を変えたミャンマーの子どもたちとの野球

小松:
なぜミャンマーに関心を持たれたのでしょうか?

岡本:
引退後は、海外で野球を普及させる活動をしようかなと、いくつかの国を見ていたところ、「ミャンマーはどうだ?」と声をかけてもらいました。

その当時は、人材事業をやるつもりはまったくありませんでしたね。

東:
ミャンマーにも野球場はあるんですか?

岡本:
首都のヤンゴンには一応野球場もあって、日本企業の駐在員の方などが楽しんでプレーされています。

岩崎亨さんという元国連職員で、「ミャンマー野球界の父」と呼ばれているんですけど、今から20年くらい前、子どもたちが大麻や犯罪に手を染めないようにと、野球場を手作業で整備され、野球の普及活動に尽力されたんです。

小松:
現役の時は、どんなことを考えられていましたか?海外に行かれた理由は?

東:
飲食店の経営や就職して営業職をされている方も多いですけども…。そのような道は考えられませんでしたか?

岡本:
現役時代は、引退後のことは特に考えていませんでした。「ただ海外に行ってみたい」という気持ちがきっかけですね。

さまざまな会社を調べているうちに、巡り合ったのがミャンマーです。

最初にミャンマーに行った時、孤児院施設で野球を教えたことがあるんです。

孤児院の子どもたちが仲良くなったり、健康的な生活するためにスポーツが取り入れられているのですが、僕がやっていたという理由で、その時は野球をすることになりました。

そこで、孤児院の子どもたちが明るく溌剌としている姿を見た時、人生で初めて「何かこの子たちにしてあげたい」と思ったんですよね。

もともとは自分のことばかり考えていて、そういう性格じゃなかったんですけど…(笑)。

ミャンマーの子どもたちは、言葉は通じていないんですけども、きちんと他人の目を見ながら話せるしっかりした子が多い。日本の小学生ではなかなか出来ないですよね。

実はこの孤児院は日本のNPO法人が応援していて、里親制度を導入しているんです。

将来子どもたちに日本の企業で働いてもらって、稼いだお金で生まれ育った施設の里親になってくれたら、きれいな循環できますし…。

子どもたちとのふれあいが、人材事業を始めるきっかけになりましたね。「じゃあ、人材しかないな」と。

小松:
施設に通いながら、子どもたちと野球をしたことがきっかけで、子どもたちのためのビジネスを立ち上げられる…。素晴らしい。子どもたちとは、日頃は、どのように関わられているんですか?

岡本:
いつも1週間くらい滞在しているんですが、何回か通っていると、僕のことを子どもたちが覚えてくれるんですね。

その施設は、野球以外にも、日本企業の皆さんのプログラミングや、アルビレックスシンガポールの皆さんがサッカーの指導をされるなど、教育体制が充実しているんです。

(教育の体制が)すごいなと思いながら、参加させていただいています。

岡本が描くミャンマーと日本の未来像

東:
発展途上国には児童労働の問題もあります。ミャンマーの施設にいる子どもたちは、働いているのですか?

岡本:
施設の子供達は学校に行っていますが、ミャンマーでの児童の労働は多いですね。
花で作ったニオイ消しや水、新聞を子どもたちが売っていたりするのは、よく見る日常の
光景です。

東:
発展途上国には、一生懸命頑張っても抜け出せないという状況もあるなかで、希望を与えたのではないかと思うんですよね。里親制度とかも、今始めて知りましたが、素晴らしいですし…。

小松:
UNICEFとかもやっていますよね。

何より素晴らしいのは、迷われている時に子どもたちと出会い、子どもたちの将来やミャンマーの未来、そして高齢化社会による労働力の不足という日本の課題もイマジネーション出来たということですよね。

東:
ミャンマーの明るい未来と日本の人出不足の課題を解決するという視点で仕事をされているのは素晴らしいですよね。

小松:
例えば日本語や英語を覚えたり、教育が受けられれば、さまざまなチャンスも広がりますよね?

岡本:
今の仕事を始めたのは、子供たちの出会いが大きかったですね。

ミャンマー語は、日本語とほぼ同じ文法なので、覚えやすいと思いますし、少しでも可能性が広がってくれたらいいという想いでやっています。

まだインフラやIOTなど、環境的にまだまだな部分があるのは事実ですけども、建築系のエンジニアは比較的優秀な方が多いので、その辺りから広げていこうかなと思っています。

小松:
将来的には日本に残って仕事をしたり、ミャンマーに残って自国のリーダーとして国を発展させていくこともできますものね。

東:
これからの時代は、安い人材を使ってビジネスで収益を上げるというような、損得勘定だけではうまくいかない。

岡本さんのように教育や人材育成など、ミャンマーに夢や希望を与えるような取り組みは素晴らしいですよね。

東:
会社についてお伺いします。

社長をされている株式会社LMKはライオンズ、明治大学、海星高校と所属されたチームの頭文字だそうですね?

現状はこちらの会社から収入を得ているという認識で良いのでしょうか?

小松:
ご自身のルーツのチームを社名に…。キュンとしちゃいますね。

岡本:
現在は、LMKからの事業収入がほとんどですね。事業としては、僕1人がなんとかやれるぐらいの収益しか、まだ出せてない状況です。

現役時代と比較すると、今は収入も落ちていますが、これから事業を拡大していきたいと思ってやっています。

東:
現時点の収入だけで食べていけていますか?講演など他のビジネスはやっていらっしゃらない?

岡本:
講演はたまにやっています。まだ、これからビジネスを作る段階なので、現役時代に稼いだ資金も使いながら、ビジネスに取り組んでいます。

小松:
現役時代の貯蓄を持ち出しながら事業をされていた時代もあったということですかね?

岡本:
そうですね。それは覚悟していました。35年間、ずっと野球しかしてこなかったので、当たり前だと思いながらやっています。

小松:
ご家族はどのような感じでしたか?

岡本:
妻は、「好きにすれば?」という感じですかね。現役生活の終盤に結婚して、かれこれ6〜7年。「起業する」と言ったときは、不安もあったと思います。

でも、あんまり不満を言うこともなく、今では、僕の会社の経理もしてくれていますし、本当に妻には感謝していますね。

東:
引退後はどんな生活をされていましたか?

岡本:
起業したのが2018年9月。引退後の2017年は、現役時代にお世話になっていた社長の皆さんに連絡して、ビジネスの話を聞いたりしていました。

周囲に起業家がいらしたわけではなかったのですが、サラリーマンは合わないと思ったので、起業に向けて一歩づつ準備してきましたね。

小松:
素晴らしいですね。企業の方もスターと会えて嬉しいですよね。どんなお話をされたのですか?

岡本:
「どうやって起業したか?」とか、「社長としての考え方」、「社員への接し方」とか…。

小松:
一歩ずつ歩まれて来たのですね。

東:
なかには、引退後に知人の会社に就職し、「ミスマッチ」が合っても辞められない、心身病んでしまうという方も中にはいるので、(岡本さんの起業という選択は)賢明な判断ですよね。

元プロ野球選手が「外の社会」で感じたこと

小松:
引退した時に野球界に残る選択はなかったのですか?

岡本:
球団に残るという選択肢もいただきました。スコアラーとかで、野球をグラウンドの外から勉強するようなポジション。

生活の保証はされていたのでしょうけど、やりたいことではなかったので…。「超一流」選手なら、そちらの道でも良かったのですけども…。

東:
岡本さんは超一流ですよ!

岡本:
野球をやっていて、いいことばかりではなかったんです。怪我をして投げられない時期や、嫌な想いをしたこともありましたし…。

僕は、自分のことを細く長くやっていた選手だと思っています。

名のある超一流選手ではない僕が、一度しかない人生で、ずっと野球界にしがみつくことに疑問を感じたこともありましたね。

野球界はシーズンごとの契約社員みたいなところもあるので、社会に出るタイミングを後ろ倒しにしているだけかもしれない。

それならば、「外の社会に出たい」と思いました。

小松:
引退後の選手がずっとチームにいられる保証があるわけではないですものね。そこも冷静に判断されたのですね。

現役時代にやっておきたかったこと

東:
日本企業は、基本は終身雇用。世界的に見ると優しい環境も多い。雇用者の人生を考えすぎて、世界での競争力がなくなっていると非難されることもあります。

プロの世界で過ごされてきた岡本さんは、どのようにお考えですか?

岡本:
プロ野球選手としては、なるべく人生の中で長く野球をやりたいと思っていました。いつまでも出来る仕事ではないことはわかっていたので…。

入団後や怪我に苦しんだ時期を思い返すと、「プロ野球選手として13年間(実働12年)も過ごすことが出来てよかった」という想い、それ以上に「もっと、ああしておけばよかった」という想いがありますね。

東:
もし今、岡本さんが現役時代に戻ったら、どんなことをしますか?

岡本:
僕は身体が大きいわけでも、特別すごいボールがあるわけでもないので、もう少し頭を使って野球をすると思いますね。いろいろ考えたほうが、僕の場合は結果が残せていたので…。

もちろん、当時は色々考えながらやっていましたが、引退してみると、もっと出来たなとか、気持ちの弱いところを改善できたなとか。

プレーしている時間以外でも、新聞や経済誌、そしてニュースなどに日頃から触れておけばよかったなとか、思うことはありますね。

東:
野球中心の生活から一転、プロ野球の外にある社会に出ると変わることもありますよね?

岡本:
世間の誰もが知っているような選手ならばいいですけど、社会に出ると、僕が野球選手だったことを知らない方に会うこともあるんです。

はじめましての時は、「元プロ野球選手」という肩書は役立つという印象ですね。挨拶を終えたら、その先はもう選手ではないですから。

そういう考えで、引退後はさまざまな人と会ってきました。もし、「野球選手だから仕事が出来なそう」とか思われたら、やっぱり嫌ですしね。

小松:
スポーツファンは、「野球選手が野球だけをやっているからこそ好き」というところはありますよね。

東:
そのイメージは罪ですよね。イチローさんや大谷翔平選手が、多くの人に称賛されるのは、野球だけを必死にやっているから。

もし野球で失敗していたら、その後の人生は大変なことになってしまうでしょうし。全体的に見たらレアケースですよ。

社会が、アスリートをスポーツ界に押し込めてしまっているという印象も受けますが…。

小松:
やはり、起業家になってからは、「野球以外のことを学びたかった」という想いが強いということですかね?

岡本:
引退してからは、そのように思いますね。もう少し社会のことを選手時代から学んでおきたかったという想いはあります。

その点、スポーツ界で言うと、サッカー選手の本田圭佑さんは凄いと思いますね、ACミランの10番を背負いながらも、ビジネス界にも足を踏み入れていてね。

周囲のサポートはもちろん受けていると思いますけれども…。

この間、とあるベンチャー企業に行ったら、出資者に本田圭佑さんの名前がありまして、凄さを感じました。本田圭佑選手は、色んなベンチャー起業に足を運ぶみたいですしね。

東:
昔はプロ選手になると、外車を買えとか、いいところのマンションに住めとか、色々言われたり、若い選手が、契約金を全部使って外車を買ってしまうとかもありましたけども…。

Jリーグが始まったばかりの頃、日本人選手が外車を買うのを見て、外国人選手が「その外車、買った瞬間に価値半減。

引退後どうするの?資産価値にならないけど…。」と戸惑ったという話も聞いたことありますし。まるで、「アリとキリギリス」の世界ですよね。

小松:
つい最近まで、「夢を見せないといけない!」と言って、外車を買ってしまうサッカー選手が多くいました。

岡本:
若い選手が、先輩にディーラーを紹介されたりしますものね。だいたい1回は、そこで買います。

小松:
契約したら一気に大金を手に入れる野球選手が、まず勉強すべきは資産運用ですよね。引退後の資金があれば、自由でもいいじゃないですか。

東:
日本のプロスポーツのなかでも、プロ野球は特別ですよね。プロに入るだけで高額所得者になったと日本全国にバラされているようなものですからね。

岡本:
僕の実家にもいろいろな企業から電話が来るらしいですよ。きちんとした運用ができるといいんですけど…。

本当は、スポーツ選手の資産運用に関するビジネスを考えたんですが、引退後すぐにいきなりお金の話をしたら、怪しいじゃないですか。

選手の信用も無くしてしまうかもしれないですしね。

東:
確かに、良かれと思っていても、日本人は「お金の話をするのは嫌らしい」と捉えがちですからね。

でも、現役時代から資産を運用しておけば、将来の人生設計にも役立ちますし、岡本さんみたいに、すぐにやりたいビジネスで起業できたりもしますからね。

岡本:
最近のプロ野球選手は、年金も殆どないんです。

誰でも入れる年金基金に加入しているだけ。

それでは、将来設計に何も役に立たないので、きちんとした海外の金融商品を使った資産運用なども、将来的にはやりたいなと思っています。

小松:
コンサルティング的なことも視野に入れていらっしゃるのですね。現在は金銭的に緊迫したリスクを取って、情熱を持って経営者の道を歩まれているわけですが、ミャンマーでの子どもたちとの出会いから会社設立まで、岡本さんの「カンの良さ」を感じるんですよね。

それは、起業家として欠かせないものなんですよ。

野球で培った「継続力と諦めない心」が経営者としても生きる

東:
目先のお金を稼ぐためではなく、ミャンマーの社会課題や未来を見据えて歩まれていらっしゃるのは凄いですよね。

自分の道を見つけられずに迷ってしまう元アスリートは以外に多いんですよ。

小松:
凄く可能性があると思いますよ。晩年は怪我もあって一軍で投げられない閉塞感もあったと思いますが…?ビジネスの世界では躊躇することはないないですよね?

岡本:
現役のときにも、色々言われることがあったんですが、自分に必要なものの精査はきちんと出来ました。

形は経営者ではありますけど、まだそのなかでは底辺で、勉強する身です。さまざまな手法を取り入れて、精査できるような土台を作っているという状況ですね。

今でも、現役時代と同じようにプライドは高いかもしれないですが、なるべく取っ払うようにしています。

他人の意見を聞き入れ、ビジネスモデルを参考にしながら、日々前進しています。

東:
野球という日本一のメジャースポーツで、孤独なマウンドも経験されたと思います。野球で培ったものは、経営に生かされていますか?

岡本:
これまで、ほとんど野球しかしてこなかった人生でした。でも、「辞めたいな」と思うことがあっても、野球を続けることが出来た。

「このままじゃいけない」という気持ちや、「諦めない心」は、ずっと大切にしてきたものなので、そこだけはビジネスにもリンクしました。

これまでに「経営者を辞めようかな」と思ったこともありましたしね。

東:
これまで野球で踏ん張ってきたから、頑張れば成功できると思えるんですよね。

岡本:
経営者としても、第三者の目線で冷静に精査することはまだまだありますよ。

この間もミャンマーの方との面談があって、コミュニケーションが噛み合わなかったことがあり、「自分の質問が合ってなかったから、コミュニケーションが出来なかったのかな?」とか、色々考えますね。

東:
現役選手だった頃は、そんなに緻密なコミュニケーションしてなかったじゃないですか。(笑)。

岡本:
「オラー」みたいな感じで投げていましたね。

小松:
いつ頃から野球を始められましたか?エースとして甲子園に出場されるという特別な経験もされていますが、その高揚感は、人生に役立っていますか?

岡本:
野球を初めたのは、両親いわく1歳頃だったそうです。おもちゃを与えても、ボールで遊んでいるような子供だったと話していました。

その後、海星高校で甲子園に出場しましたが、その時は、球場に入った時に武者震いしましたね。野球人ならば誰でも憧れる別世界という印象でした。

でも、この間、ミャンマーの球場に入る時も同じような武者震いを感じました。

事前に、球場を作った岩崎さんの本を読んだり、野球をしたいけけど、親の仕事の手伝いがあって野球ができない子がいるとか、凄い野球が好きだった子が病気で亡くなってしまった話とかを聞いていたので…。

国や規模などは違いますが、同じような「特別なモノ」を感じましたね。

東:
甲子園は完成してから100年くらい経ちますが、多くの球児たちの魂が籠もっているんでしょうね。

高校野球に出場している選手の純粋な頑張りには偽りがないですし、ミャンマーの子どもたちの姿と重なった部分もあるのでしょうか。

小松:
その後、明治大学野球部に入部されます。六大学の方は、独特なプライドがありますよね。最近は、駅伝、ラグビーと華やかですけど、どんな学生生活でしたか?

岡本:
この頃は、少し野球が嫌になった時期ですね。夜間部の学生だったのですが、朝の9時半から午後まで全体練習で、その後学校に行く生活をしていました。

なので「あれ、思っていた大学生活と違うな?」と感じることもありましたね。

昼間部の学生の話を聞くと、キャンパスライフを充実させていて、羨ましく思うこともあって…。野球に集中できて、今思うと良かったんですけどもね。

小松:
岡本さんは三重県名張市のご出身とのことですが、どの辺りですか?

岡本:
奈良との県境ですね。めちゃめちゃ田舎です。明治大学は京王線のつつじヶ丘(今は府中)にあって、新宿や渋谷には行きやすいエリアでしたね。

「流され癖」で2軍生活 後悔が残る20代

小松:
そして大学生活を経て、西武ライオンズ(当時)にドラフト指名されました。

岡本:
「プロ野球に行きたい」と思って明治大学を選んだのですけども、大学では練習をサボるという矛盾もありました。

もし、人生をやり直せるなら、大学時代に戻ってきちんと野球に取り組みたいですね。

小松:
ずっと野球の生活をされていたということもあり、10代から20代前半は反抗したい気持ちがあったのでしょうかね?

東:
野球一筋で生活してきたわけですものね。

岡本:
そうですね。大学からプロに入った後は、野球が「仕事」になったわけですけども、人に流されてしまう癖が治らなくて…。

やらなきゃいけないことがあっても、先輩とかに誘われると、断りきれないことがありましたね。

東:
遊びの世界に誘ってくる人がいるわけですね。

小松:
そういうチームのグループ意識ってありますよね。

岡本:
当時の西武ライオンズは、1軍はそうでもなかったですが、2軍選手間にそういう文化が色濃くありまして。誘いを断りにくい状況でした。

最初の数年は、たまに1軍で、ほとんど2軍で過ごしていましたし、流されることは多かったですね。

東:
2軍選手もドラフトで多くの人の中から選ばれているのに、どうしてそうなるのでしょう?

岡本:
今は風土がかなり違うのですが、当時の僕らは自由が与えられていました。

決められたメニューをこなせば、後は自由で、帰りたければ帰ってもいいという状況でした。

今は、若い選手はガチガチに固められるので、かなり状況は異なると思いますけども…。

小松:
選手時代のどんな記憶が鮮明に残っていますか?

岡本:
無我夢中にプレーしていたので、例えば勝ったこととか、うまく言ったときの記憶があまりないんですよ。

たまにスコアラーに、「あの打者に投げたあの球種は?」とか冷静な口調で聞かれるんですけど、覚えていないくらいです。

逆に、スコアラーに言われてから、プレーしている状況を思い出したりとか…。だいたい記憶として残っている時は、結果が良くないことが多いですね。

怪我続きの選手生活を変えたコーチの言葉

小松:
それでも13年も選手生活を全うされて、立派ですよ。

岡本:
怪我もあったなかで、13年間もプレー出来たのは奇跡ですね。「クビになるかな?」と思っていた6年目に、股関節の疲労骨折というややこしい怪我をしてしまって…。

そこで野球に対する意識も変わったんじゃないかなと思います。

東:
股関節の疲労骨折、聞いただけでも治りにくそうですね…

岡本:
投げて左足をつくので、お尻の骨にひびが入ってしまいました。秋のキャンプで症状が出て、最初は「坐骨神経痛かな?」と思ったんですけど…。

痛みに強い方だったので、キャンプも脱落せずに終えたら、後に骨折だとわかりまして…。

骨がくっつくまで休むしかない状況だったので、その時は何も出来ずに辛かったですね。

翌シーズン、ある程度怪我は良くなったんですけど、痛みが出てしまう状況でした。

大卒6年目でキャリアの大半を2軍で過ごしていたので、「今年やらないとクビになるから練習したい」と南谷和樹コンディショニングコーチ(当時)に言ったんです。

そうしたら球団の前田康介本部長(当時)と掛け合ってくれて、「今シーズンは休め」と言って下さいました。そこで、意識が変わりましたね。

あのとき前田さんや南谷コーチのおかげで、その後の野球人生があったので、本当に感謝しています。

東:
もし、コーチと出会わなければ、どうなっていたでしょうか?

岡本:
無理して練習して、身体壊し、そのままクビになったでしょうね。

小松:
コーチや本部長のおかげで、6年で終わるかもしれない選手生活が13年になった。そこから全盛期ですものね。躍進が凄いですよね。

東:
なぜ治療に専念させてくれたのでしょうか?治れば活躍出来るという可能性を感じていたのでしょうか?

岡本:
聞いたことないですね。何も結果を残していなかったのに…。活躍は、怪我や体調よりも、気持ちが変わったことのほうが大きいですね。

中継ぎとして奮闘「ブルペンリーダー」としてチームを支えた日々

小松:
渡辺久信監督も、(2012年シーズンに)岡本さんをブルペンリーダーに指名して下さいました。

岡本:
そのシーズンは、中継ぎ投手が不足していたので、調子が悪くても使われていました。

勝ち試合の7・8回を投げる予定だったのですが、負け試合でも投げることが多くありました。防御率は7点台とかだったんですが、登板数は12球団トップでした。

でも、僕の誕生日である5月20日に打たれて、二軍降格を告げられます。

東:
それはまたエグい誕生日プレゼントですね…。

岡本:
結果がそれなりに出ていればいいですけど、そのシーズンは不調だったので、渡辺監督から「このままなら下に行ってもらう」と何回も監督室に呼ばれていました。

前年のシーズンで、ノーアウト満塁のピンチを抑えたことが何回かあったので、「なんで去年できたのに、今年はできないの?」と言われて…。

出来たことのほうが奇跡なんですけど、監督に言われたら、何も言い返せないですよね(苦笑)。

小松:
(満塁を抑えたことは)覚えています。ノーアウト満塁を抑えるなんて、なかなかできないですよね。随分高いハードルですね。

東:
今まで抑えてきたことを不思議に感じて欲しいですけども…。

岡本:
打たれた日の試合後、監督に呼ばれて「いよいよ二軍降格かな?」という思ったタイミングで、「お前は、自分のプレーに必死過ぎて責任感がなくなっている。

中継ぎキャプテンになって余裕を持ちなさい」と言われました。

キャプテン就任後はしばらく抑えていたんですけど、暴投で逆転負けした試合の後で、いよいよ降格を言い渡されました。

普通にできる投球が出来なかったからでしょうね。普段は優しい人なんですけども、監督の怒りを買ってしまったみたいで…。

小松:
ピッチャー出身の監督ですものね。ノーアウト満塁での登板は、どんな気持ちなんですか?

岡本:
あれ(無死満塁)は、抑えられるのは奇跡ですね。 ユニフォームをかすったら死球、ワンバウンドでキャッチャーが取れなくても失点になってしまいますし…。

2011年はシーズンは、「何でも楽しもう」と思ったんですよ。ノーアウト満塁で登板しても、
自分のランナーじゃないですからね。

自分の自責点はゼロなので、「失点しても、そんなこと知らんわ」という感覚でプレーしていました。それでうまくいったのかなと思います。

小松:
考えたら、ボールが手を離れないですものね。イップスとかはありました?

岡本:
僕は、イップスはなかったです。誰とでもキャッチボールできました。ブルペンではビクビクしていましたけども。ハートは強いです。

東:
岡本さん、基本はやんちゃですよね(笑)

小松:
お父様も野球をされていたのでしょうか?ご家族のなかで野球選手が誕生し、さぞかし喜ばれたでしょう?

岡本:
父は卓球をしていて、兄が野球をしていました。ずっと僕に野球させてくれたので、
最後の恩返しですね。

小松:
起業についても、何かおっしゃられていましたか?

岡本:
親父は企業の取締役をしていたこともあるんです。「俺は、起業は出来なかったからお前は凄い。でも、妻と相談しながらやりなさい」と言って、背中押してくれました。

 今からでも現役選手にやっておいてほしいこと

東:
日本において野球は非常に人気が高い「国技」のようなスポーツですけれども、岡本さんは野球にどのような価値があると思いますか?

岡本:
あれだけ多くの方々に見てもらえるスポーツなかなかないですし、技術一本でだけで勝負でき、精神力が強くなる。

この辺りは、野球だけでなく、今後の人生でも役立つのかなと思いますね。

そして、何より、野球が様々な人との縁つないでくれて、いろいろな人と仲良くなれた。

野球のツール活用としては、成功しているのかな?と思います。

東:
引退後に直面して困ったことは?ギャップはありました?

岡本:
(起業したので)お金が入ってこないとか、社会を知らなすぎることを知った怖さとかが自分の場合はありましたね。「こんなこと知らんのや」と何回も思いました。

引退後のことは、引退後2ヶ月位経った時に初めて考えたような感じでしたので…。
「何とかなるだろ」と思っていました。

東:
徐々に経営者らしくなっているように見えますが?

岡本:
ビジネスの世界でも、スポーツと同じように成功や失敗を積み重ねていっていますね。
特に、外国人のスタッフが採用見送りになった時は本当にショックで…。

東:
自分自身の力で仕事をつくって生きていくという方向性で努力されているわけですけども、現役時代と比べていかがでしょうか?

岡本:
現役時代は、「野球」という場がありました。今は何もないところから、場作りをやっている状態。毎日充実していて楽しいです。

日々いろいろな人に会い、こういう考え聞いていて面白いなと思いながら過ごしています。

東:
まだ、経営をはじめて間もないので、しんどいこともあるでしょうけど、その分大きな伸びしろを感じていらっしゃるのでは?

現役を終えて悩まれているアスリートへのアドバイスがあればお願いします。

岡本:
今、経営者としての階段を上がっている最中ですね。無色な僕が、みなさんのさまざまな意見を取り入れながら、色を付けて染まっていく段階です。

徐々に自分の個性を出していけたら良いなと思います。選手が引退した後に思ったのは、「チャレンジする気持ちの大切さ」ですね。

僕は、現役時代は何も考えずに起業の道を進みました。

いきなり社長はハードルが高いかもしれませんが、野球以外の世界でも、野球で培った能力を生かせる場面はあるので、広い世界に飛び出る勇気を持ったらいいんじゃないですかね。

東:
野球選手時代に、ある程度の収入があるわけですし、資金を残しておけば、ビジネスにも取り組みやすいですよね。

岡本:
セカンドキャリアに必要なお金を作る仕組みを作りたいんですよね。給料や生活費、そして残ったお金を考えるという感覚が、スポーツ選手にはあまりない気はします。

小松:
でもお金の話をすると、どうしても「ブラック」に見られるような感覚はありますよね。

 人材ビジネスをして感じた日本社会の課題

小松:
ビジネスをされてみて感じた課題はありますか?

岡本:
外国人を下に見る企業が、まだまだ多いことですかね。

高齢化などでなくなりつつある日本の労働力を下げないために、外国人にお願いをして手伝ってもらっているというのが日本社会の現状だと思います。

でも、現状の立ち位置をわかっていない日本企業、わかっていないところもまだまだある。

外国人の方々は、給料と生活費を差し引いて手元に残る額を考え、働く国を決めているんです。

給料が高いだけでは選んでもらいにくい現状もあるのですが、日本人にはその感覚があまりないんですよね。

僕の支援させていただいているのは、スキルがある「高度人材」の皆さんなんですけども、
それでもひどい待遇の会社もまだまだありまして。

なかには時給80円の方とかもいらして、日本社会で受け入れる体制を整えないといけないと思いました。

小松:
え、ひどいですよね。最低賃金以下…。

東:
企業側が外国人労働者の皆様に対する考え方を変えていかなければいけないですよね。

これだけ人材のグローバル化が進んでいる中で、もっと成熟していかなければ日本という国全体が悪いイメージを持たれてしまいかねないと思います。

 夢はビジネス界での1億円プレーヤー

小松:
引退後の2ヶ月間は何も考えなくて、いきなり起業。引退してから起業を決めるまでの2ヶ月間は、何をされていらっしゃいましたか?

岡本:
芸能事務所に入っているので、「引退試合もしてもらったし、何かしらの仕事は来るやろ?」という感覚でした。

解説者の皆さんが沢山いらっしゃることとかは、まったく考えてなかった。もっと早く行動すればよかったと思いますね。

東:
セカンドキャリアでの今後の目標は何でしょうか?

岡本:
野球の世界では“一流”と言われている1億円プレーヤーになれなかったので、ビジネスの世界でそこを目指したいですね。

後は、ミャンマーを中心として外国人の人材を紹介し、日本企業とミャンマーの発展に貢献していけたらと思っています。

まだまだ、文化の違いなどで苦労することも多いですが、頑張っていきたいです。

東:
最後の質問です。野球という競技を使わず自己紹介して下さい。岡本さんはどんな人ですか?

岡本:
ミャンマーを中心とする外国人の就職を支援しつつ、ミャンマーの子どもたちとスポーツで触れ合っている人、ですかね。

東:
ミャンマーの子どもたちに生きがいや、やりがいを与えている人ですよね。
本日は長い時間ありがとうございました。

岡本:
ありがとうございました。

編集/瀬川泰祐(スポーツライター・編集者)

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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