2025.01.24
競技者としてではなく、「人」として生きる マラソン・有森裕子
Profile
有森 裕子(ありもり・ゆうこ)
岡山県出身。就実高校、日本体育大学卒業。バルセロナ、アトランタの両オリンピックの女子マラソンで銀メダル、銅メダルを獲得。
2007年の「東京マラソン 2007」でプロマラソンランナーを引退。02年アスリートのマネジメントを行う株式会社 RIGHTS.設立。
ハート・オブ・ゴールド代表理事、スペシャルオリンピックス日本理事長他を務める。
10年〈国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞〉を日本人として初めて受賞。
INDEX
その競技は、「生きる」につながるのか?
小松:
今回は元マラソン選手の有森裕子さんにお話を伺います。
有森さんはバルセロナオリンピックで日本女子64年ぶりの銀メダルを獲得、アトランタオリンピックでも銅メダルを獲得し、日本女子陸上選手として初めて2大会連続メダリストに輝いた名選手です。
東:
マラソン競技の実績のみならず、日本におけるプロランナー第一号(初めて肖像権の自主管理を宣言し、CMに出演)となり、自らアスリートのマネジメント会社「RIGHTS.」を設立するなど様々な面でも先駆者としてご活躍なさってこられました。
小松:
有森さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、国際オリンピック委員会(IOC)の委員や陸上競技連盟理事のお仕事は「B」、RIGHTS.の経営者や日本体育大学等の客員教授、タレントとしての活動が「C」、解説者などのメディア出演は「D」とそれぞれの領域で幅広くご活躍なさっていることが分かります。
東:
他にもNPO法人ハート・オブ・ゴールドの代表理事やスペシャルオリンピックス日本の理事長など、ここにはとても書ききれないほど様々な役職をお持ちになっています。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
東:
まず最初に有森さんにお伺いしたいのは、オリンピアンやメダリストの方々の「セカンドキャリア」についてです。
有森さんは選手として活躍され、その後セカンドキャリアについてどう考えて今に至っているのか教えてください。
有森:
そうですね、セカンドキャリアというのは、ネクストステージとも言い換えられますが、ネクストステージがあるかないかって、大切なことは本人が競技者である間に何を考えているか?ここが大事だと思うんです。
つまり、競技をしている時も「競技をしているのか」それとも「生きようとしているのか」どっちを考えているかによって大きくその後のキャリアって違うと思うんです。
小松:
もう少し詳しく教えていただけませんか?
有森:
はい、つまりですね、その本人が「何を考えて競技をしているか」が大切なポイントなんです。
そしてその競技をはじめたきっかけは自分の意思だったのか、人の導きだったのか、そして競技をしていく中で色々な人の出会いで色々なことが発展していって、発展していく中でその人本人も生き方を考えているのか?
ただ周りに言われるがままに競技をして、競技が終わったら、今までのことが頭から飛んでしまってしまうのか?そういう競技に対する考え方のスタンスで、セカンドキャリアって違うと思うんです。
東:
なるほど、面白いですね。
有森:
何かを考えて競技をしている人、そうでない人がいるとしますね。
両者がオリンピアンになったとしましょう。
でもオリンピアンになって金メダルを取ったとしても、考えてない人は競技人生が終わったらセカンドキャリアは微妙なものになるし、逆にメダルを取ってなくても、色々なことを考えている人は競技人生が終わっても素晴らしいセカンドキャリアを送れると思うんですよね。
そういうことを考えて現役時代競技をしていた人といえば、為末大さんなんか典型的ですよね。
人生において、本人がどこを求めようとしているのか、求める意思があるのかないのか、ここが大切だと思います。
ただ競技をやってはダメだと思うんです。
大切なのは、その競技が、「自分の『生きる』につながるかどうか?」なんですよ。
小松:
「自分の『生きる』につながるかどうか?」を考えて競技をする。
とても素晴らしく、斬新な発想ですね。
「生きるため」にスポーツをする

有森:
スポーツって何でやるんでしょう?オリンピックってなんでやるんでしょう?人は何で働くんでしょう?それって生きるためですよね。
死ぬまでに生きるという時間をどれだけ充実させて、健康で楽しく生きるため、その手段としてスポーツをしたり働いたり食べたりするんですよね。
全てはここに集約されるのかなって思った時、「生きるためにスポーツをするんだな」って私は思ったんです。
「生きるため」に「スポーツをする」この順番が大切で、この順番が違ってくると、物事は全然変わったものになるんですよ。
結果を出すために、ただ誰かの言うことを聞いてスポーツをする、ただ成績を残す、それではダメだと思うんです。
オリンピックも同じで、「オリンピックのためにどうする?オリンピックはどうあるべき?」ではないんです。
生きるためにオリンピックはどうあるべき?スポーツはどうあるべき?そこを考えることが大切で、それに多くの人に気づいて欲しいなと思っています。
小松:
どうしてそのような考え方が身についたのですか?
有森:
海外の選手にはこの思考があるんですよ。
マラソン選手ひとつとっても、海外には実業団がありません。
もちろんマラソンランナーはいますが、医者であったりスーパーで働いている人であったり、生きるための職業を持ってます。
また、海外では生きるためにマラソン選手やってる、というスタイルで現実的に頑張っているアスリートってたくさんいるんですよ。
食べるため、稼ぐために走っているんですね。
それは全然私は悪くないと思うんです。
でも日本って、本当は生きるためにはお金が必要なのに、スポーツとお金を結びつけようとすると、「金の亡者」みたいに見られる傾向がまだまだ強いんです。
ある年代のスポーツのOB・OGの方はこの考えの人って多いんですよね。
小松:
スポーツ選手がお金の話をするのは禁忌。
そういう風潮ありますよね。
有森:
スポーツのプロ化に抵抗を持っていたり、セカンドキャリアでスポーツを教えるなんて、そんなのボランティアで教えればいいんだ、って考え方の人って意外と多いんですよね。
人に「スポーツ好きだからやってるんでしょ?」って聞かれると、「でも好きだけじゃ食べていけないですよね」って答えると、「冷めたこと言うな、夢がない」なんて言われるんですよね(笑)。
生きていくために、これだけのことをやって頑張れるって、すごいことですよね、って誰も言ってくれません。
本当は人間ってそれがすごいことなのに。
生きていくって考えただけで、何でも乗り越えられるし頑張れる、この人間のすごさを、なぜもっと多くの人が讃えないのかといつも考えているんです。
東:
スポーツって、感動のタダ乗りがすごく多いですよね。
オリンピックのレスリングとか柔道ってすごく人気ですよね。
多くの人がテレビで見ています。
でもお金を払って柔道やレスリングを見にいく人が多いかと聞かれると、はい多いですとは言えませんよね。
多くの人は、レスリングが好きなのでなくて、オリンピックが好きなのかもしれませんね。
有森:
それはありますね。マラソンの利点は、一般の人と競技者の人が交わることができる点ですね。
同じ大会、同じ日に、同じスタートラインに立って同じゴールを切れる、この競技ってマラソンだけですよね。これってオリンピックだとマラソンだけですよね。
柔道だって一緒に組めないし、だから一般の人にイメージが湧きづらいんですね。そこに興味を集めるには、お祭りのような面白さが合体しないと興味が生まれないのかもしれませんね。
マラソンは私とか一般のランナーが一緒になって参加できますからね。
しかも一般の方が私を抜いたりできるんですよ。
私結構抜かれるんですよね(笑)。
有森裕子抜けた!って盛り上がったりしてますよ(笑)。
そういう競技はなかなかないですよね。
メダルの原点

小松:
有森さんは私たち世代のヒロインです。
2つのオリンピックで戦う姿を同姓として仰ぎ見ていました。
とてつもない距離を懸命に走る姿と、秀でた能力を発揮するためのひたむきな努力。
それらを見せて頂いた感謝は今も胸にあります。
有森さんにとって、オリンピックに出場して勝つこと、それが生きることと分かった分水嶺はあったんですか?
有森:
実業団に入った時、私は押しかけで入ったんですね。
折しもその頃リクルート事件があったんですが、その頃に「走りたいなら誰もいい」という噂があったんですよ。
その時に「これなら拾ってもらえる!」と思って小出監督に熱心に当たって行ったんですね。
そしたら「根拠もないのにやる気があることに興味がある」って言ってくださって。
小松:
小出監督らしい言葉ですね(笑)。
有森:
まあそうですね(笑)。
あの頃は私メチャクチャだったんですよね。
押しかけて入って、1年目は箸にも棒にもかからなかったんですけど、1年後に大阪国際女子マラソンに出たんですよ。
陸上競技の世界に入った時に、「この世界は何が必要なんだろう?」って考えたら、頑張ったか頑張ってないかはどうでもよくて、成績、結果なわけですね。
いかに実績があるか、いかにいい成績を持っているか、いかに稼げているかが認められて試合に出れるんですね。そんな世界を自分は選んでしまったんですね。
極論言うと、人のことはどうでもよくって、自分の実績と向き合って、やるべきことをやる、やるべきことを考える。そんな世界なんですよね。
ふとその時、これって人間的にはいかがなものか、っていう思いもありました。
個人的には、人のことを気にしたり世話をするのは嫌いじゃないんで、でもそれを否定して、そこについて考えないで自分を律するのが苦しかったんですよね。
小松:
周囲のことより自分のこと、そういう状況に身を置いて葛藤されてたんですね。
でも考えているうちに、それは自分の問題だと気づいた。
有森:
自分の問題でしたね。
でも腑に落ちるように考えようとしてたんですがきつかったです。
ただ、その時に同級生のカズ(三浦知良選手)を見て、自分の状況なんて甘いなって思ったんです。
生きるためにみんなちゃんとやってるなって、できなかったらクビを切られるのは当たり前って世界で必死に生きてるなって。
私は実業団にいて色々な選手を見てて、中には結果を出していなくてもお給料もらえてて、さらに陸上部にいるだけで一定の手当をもらえたり、これはおかしいんじゃないのかなって思っていたんですが、そんなこと言える身分でもなかったですから。
まずは自分、自分が色々できるようになってから物申そうと考えたんです。
それには自分をまず整える、そして陸上は仕事、生きるための仕事って思いましたね。
小松:
有森さんの強さは、そうやって「考えて道を開くこと」だと私は思います。
メダルの本当の価値は、獲ってからの生き方にある

有森:
いや、コンプレックスが由来してるんですよ。
私身体能力がすごく高かったわけでもなかったし。
「想い」さえあればなんとかなる!ってことだけしか考えてなかったんです。
「気持ちさえあれば何でもできる!」って考えていたんです。
逆に能力があっても想いがなくて、結局何もできてない人をたくさん見てきたんで、人間的にそれはおかしいなぁ、って思ってたんです。
これって私、小さい時からそうだったんです。
勉強だけできる人とか、上に立つと人を見下したり意地悪する人をたくさん見てきて、「今にみてろ」って思っていた時期が長かったんですね。
その気持ちをエネルギーにして、自分を奮い立たせる力にしていました。
でも相手を貶める方向に使うのではなくて、自分を高める方向にそのエネルギーを使っていました。
小松:
そうした環境の中で育った有森さんは、周囲のアスリート達に、自らの哲学を伝えたりするのですか?
有森:
言うんですけどね、多くの人は「現役の時にそんなこと考えている余裕がない」って言うんです。
でも、やってもないのにそう言うのが私的にはダメかなと思うんですよね。
昔は「不器用だからプレイだけに没頭したい」というのはありましたげど、今の時代はそれでは通用しないですよね。
小松:
有森さんは、自ら築き上げたマインドで栄光を勝ち取ってこられた。でも、それは永遠ではない、と?
有森:
勝ち取ったものも、気を抜けばなくなりますし、それだけで一生勝ち取ったものを掴み続けられるかというと違いますよね。メダルを獲ったからそれでOKには全然なりませんし。
メダルというのは、金とか銀とか銅ってありますけど、それが本当の価値を産むのは、それを獲った後にどう生きるかにかかってると思います。
獲った後の生き方次第で、それがただの金属のメダルで終わってしまう場合もありますし。
だからメダルを獲ることが目的なのは違うと思うんですね。
もちろん一つの証明ですけど、メダルをどう活かして生きていくか、そこにその人の本質が問われると思います。
常に「今とその先」を考える
小松:
常にその「自分」に戻るわけですね。
有森:
はい、私なんて世界で知らない人もたくさんいて、「私メダリストです」っていっても「え?それで?」と思う人の方が圧倒的に多いでしょう。
だから今の有森裕子は何を示せるか、今の自分とはどういう人なのか?っていうのが全てで、そう思って生きていかないとダメだと思います。
「ここまでやったから大丈夫!」というのは絶対になくて、ネクストステージというのは常にやってくるんです。
小松:
有森さんがマラソンという競技に向き合っていた時、二つの軸があった。肉体面で取り組まなくてはいけないことと、有森裕子という人間としての道を作ること。
有森:
はい、そうなんですね。
今振り返ると、「あの時ってすごく我慢してて大変だったんですけど、解放された瞬間もあったな」っていうのがないんですよ。
我慢した覚えがあんまりないからですかね。
好き嫌いでなく、「できるか、できないか」で選んだ陸上
小松:
我慢を我慢と思わない。
そこが有森裕子というマラソンランナーが誕生した理由かもしれませんね。
話は変わりますが、有森さんは中学時代バスケットをやられてましたよね。
バスケットからなぜ陸上に転向したのですか。その当時のことをお聞かせください。
有森:
小学校の時にポートボールをやってたのがきっかけなんです。
小学校の先生から、「なんでも好き嫌い関係なく、できることを継続しなさい」って言われた言葉が響いて、当時ポートボールが好きだったんですけれど、中学に入ってバスケに触れて、ああ、これなら続けられると思ったんですね。
でも私は不器用なので、団体競技はすごく苦手だなってことに気づき始めたんです。チームプレーはできなくて前しか見えない(笑)。
でも一番自分ができたことは、しつこく守ることだったんですね。
シュートする相手にピッタリくっついて守ること。これは得意だったんですね。でも得意だったんですけど、自信にはつながらなかったんですよ。
じゃあ他にどんな競技があるのかな、って思っていたんですけど、なかなか見つからなくて。
それできっかけだったのが、運動会の800メートル走だったんです。
小松:
800メートル走って、乳酸が肉体を駆け巡る辛い距離ですね。
有森:
そうです。辛いからだれもやりたがらなかったんですね(笑)。
それで、じゃんけんで誰が走るか決める、みたいな話になったんですけど、「私走るからじゃんけんしなくていい!」って言ったんです。
小松:
それはどうしてですか?
有森:
走るのか好きとか、そういうことではなかったんですよね。
好きとか嫌いで物事を選んだことってなくて、できるのか、できないのか、そして「できたらどうなるのか?」ということをとても大事にしていたんです。
そんな価値基準で、800メートル走っていうのは、すごくわかりやすかったんです。
自分にとって、できた!ってことを感じられたんですよ。
東:
あの辛い800メートルでそう思えたんですか。
有森:
はい、そうなんですよ。
でもきついことが嫌いじゃなかったんですね。
できるならなんでもOKっていう考えなんです。
800メートル走ってみんなやりたがらないから、運良く中学時代3年間勝ち続けることができたんです。
そして高校に入った時に、「これはもう陸上部しかない」ってことで好き嫌いでなくて、自分ができて自信になること、と思い陸上部に入りました。
実は私の高校の陸上部ってとても強かったんで、経験がほとんどない私なんて入れなかったんですけど、顧問の先生を半年ぐらい追いかけ回してやっと入れたんですね(笑)。
でも周りの選手はとても強いので、国体やインターハイも出れず、駅伝も補欠でしたし、でも恩師が私を辞めさせなかったんです。
自分でいうのもなんですが、私の姿勢、つまり諦めない、しつこい、とにかく全力っていう姿勢が、「今は何にもならないかもしれないけど、将来それがお前の武器になる」って言ってくれて。
「いつかお前の前のやつが落ちたら、それがきっかけでお前は前に行ける」って言ってくれたんですよ。そういう可能性を言ってくださったんです。
それで、その恩師は、なんの実績もない私に、日体大を推薦してくださって書類を書いてくださったんです。
小松:
恩師の先生の先見の明ですね。日体大時代のお話も聞かせてくださいませんか?
辞める理由がないなら辞めない

有森:
大学時代も大変でした。
日体大の学生たちは、みんな特待生とか第一推薦で入ってきてますからね。
さらにみんな顔見知りみたいで、私になんてだれも話しかけてくれなかったんです。
またそこで「強い人たち性格悪いなぁ、こんな人たちに負けるもんか」ってコソ練が始まったんです(笑)。
東:
コソ練ってなんですか?
有森:
「コッソリ練習」の略です(笑)。
当時はそういう環境だったから、とにかくやるしかなかったんですよ。
周りは才能ある選手が多かったし。
一人同い年ですごく強くてインターハイで優勝したりする選手がいたんですね。
でもその人練習してなかったんですね。
絶対そんな選手には負けたくないって思っていて、最終的に4年生の時に抜いて、とても嬉しかったのを覚えています。
小松:
大学時代を卒業し、社会人でも走り続けることになりますね。
有森:
本当は私、教員になるつもりだったんですよ。
大学時代にたいした結果も出してない私が、実業団なんて入れるわけがないんです。
でもなんとかなるかもしれないって思ったんです。
それで、インターハイやってる神戸に飛んでいったんです。
なぜかというと、そこには全国から実業団の関係者が来てて勧誘してるんですよね。
私が全国回らなくても、神戸にいけば色々な関係者に会えるなって思ったんです。
東:
すごい行動力ですね。
有森:
そこで、リクルートの人とコネクションができたんです。
そこから監督とつながって、私は岡山から千葉に行ったんですね。
1時間ぐらい話をしたんですけど、監督が「国体は何位?」とか「どんな賞を獲ったの?」みたいなことを聞いてきて、たいした結果を私出してないから監督は驚いて「よくその成績でここまで来たね」って言ったんですね(笑)。
後から聞いたんですけど、本当は監督、私をマネージャーにしようとしたらしいんです。
でも私のやる気をかって選手として採用したそうなんです。
当時リクルートは会社の状況が大変だったから、「今の我が社のピンチを救えるのは、やる気のある人だ」みたいな話になって、選手としてリクルートで走ることになりました。
小松:
リクルート陸上部のマネージャー候補が、やがて最も過酷なマラソンランナーになる。
どのような転機があったのですか?
有森:
きっかけだったのは、大学4年の時に見たソウルオリンピックの女子マラソンのロザ・モタ選手のゴールです。あのゴールは本当に衝撃的でした。
満面の笑みで彼女がゴールするのを見た時に、「マラソンってどんな競技なんだろう!?」って思ったんです。
あまりに素敵な笑顔だったんで感動しちゃったんです。
その感動を体験して、私も人を感動させられるステージに行きたい!って思ったのがきっかけです。
いつかそんなステージに立ちたい、って思いました。
小松:
それがオリンピックに出たいという気持ちの発端ですか?
有森:
いやいや、私にとって当時はオリンピックなんて夢のまた夢ですから。
まずは現実的な国体にどうやったら出れるか、それを考えていました。
なので最初はリクルートで1万メートルを選んだんです。でも結果が出なくて。
そんな時に、マラソンの小島和恵さんが引退されるニュースを知ったんです。
相変わらず性格の悪い私は「やった、これは私たちの時代が来る!」って思って、監督にお願いしてマラソンに転向させてもらったんです(笑)。
マラソンの方が、今から頑張れば力を発揮できると思ったんですね。
実際に距離を練習すればするほど、もともと持っていたタイムよりも、マラソンで出す同じ距離の通過タイムの方がいい結果が出せたりしたんです。
小松:
有森さんは、ご自身で、私はトップアスリートになれる、資質がある、と思ったことはありますか?
有森:
それはないですね。でも諦めない力っていうのは誰にも負けないと思います。
きついこと嫌いじゃなかったですし。
あと好き嫌いで物事を判断しないのがよかったのかもしれません。
あと、辞める理由がなかったんですね。
人によく「よく辞めなかったね」って言われるんですが、辞める理由がないからって、いつも言ってます(笑)。
銀メダルの裏側で
小松:
オリンピック出場という目標は、すなわち、メダル獲得という夢の入り口ですよね。
けれど、メダルは3つしかない。
金銀銅とそれ以外、というある意味残酷な世界ですよね。
そういう点を、有森さんはどう捉えていましたか?
有森:
私、金メダルを獲ろうと思ったことってないんですよ。
監督にバルセロナオリンピック前に言われたのは、有森は練習ができたから、8位には入るだろうって言われたんです。
本来なら11番目ぐらいのタイムだけど、練習ができたから8位には入るし、もう少し頑張れば5位には入れるかもなって言われて、なるほど、って思って出場したんです。
鈴木博美さんや高橋尚子さんは、走る前に監督から金メダル獲れるよ!って言われてたんですよね。
私、あの時金メダル獲れるって言われてたらどうなっていただろう、って実はちょっと悔しかったんです(笑)。
小松:
頑張れば5位に入れるって言われた有森さんが、実際はどんどんと順位を上げて、優勝争いを繰り広げます。
有森:
走っている時は色々なことがありました。私前々日まで実は足が痛かったんです。
それで悩んでたんですけど、当日の朝、コンタクトレンズを片方落としたんですね。
私とても目が悪いので、ほとんど見えない状態になってしまったんです。
当時スペアのコンタクトレンズもなくて。
結局、痛かったはずの足の痛みも目標も忘れ、コンタクトレンズも失くし、という状況でした。
でも給水と道が見えればいいって思ってスタートしたんですね。
東:
コンタクトレンズをなくしたことが、無心にさせてくれたんですね。
小松:
普通なら「なんでこんな日に!」と不運を嘆き、何かに八つ当たりするかもしれません。
けれど、有森さんは、集中力を高めるきっかけにしたんですね。
銀メダルを獲得した有森さんは、表彰台に立った時の感激、その光景を覚えていますか。
有森:
いや、それがですね。
あの当時、ちょうど1991年から始まった湾岸戦争の影響もあったりして、警備がすごかったんですね。
表彰は競技場だったんですけど、私メダリストなのにすぐ入れてくれなかったんですよ(笑)。
それで表彰台まで行くのに迷って、行くまで結構大変だったんです。
そんなことがあって、ようやくたどり着いたんで、そっちの方が印象的でした(笑)。
メダルかけた自分の姿って見えないじゃないですか。
だからかけてもらった時は実感わかなくて、ホテルに戻って鏡の前に立った時に、あ、メダル獲れたんだ、って実感が湧きました。
メダル、そしてその後……

東:
そしてメダルを獲って帰国しましたね。オリンピック前と世界が違いましたか?
有森:
はい、そうですね。
オリンピックに行くまでが、選考問題で大騒ぎしたじゃないですか。
飛行機降りる前に、降りる時はメダルをかけなさいって関係者の人に言われて。
降りたら凄まじい数のフラッシュで。それを見た瞬間、私のメダルが防弾チョッキのように思えたんですよ。
このメダル獲らないで帰国したら、どういうことになっていたんだろうって、ものすごい怖くなったのを覚えています。
東:
オリンピックに出られる人、出られない人がいますね。
そして出られる人もメダルを獲れずに帰ってくる人もいれば、期待されていない人が獲って帰ってきて人生変わったりする、っていう話も聞いたことがあります。
有森:
選考で色々ありましたけどね、帰ってきた時にメダルを獲ったという現実がどういうことかを、あのフラッシュの雨で一気に感じました。
その後何かが変わるんだろうか、って思っていたんですが、経験したことないのでどうなるかなんて想像できなかったんですよね。
私自身はそれまで通りに接していたんですけど、私がちょっと意見や考えを言うと、「天狗になってる」「女王様気取り」みたいに周囲に思われるようになってしまいましたね。
別に私はわがままを言っているわけではなくて、普通のことを言っているはずだったんですけどね。
その時に、現在、第一生命女子陸上部監督の山下佐知子さんとか、スポーツライターの増島みどりさんが私と同じ考えで、気持ちを理解してくれたんですね。
周りはもっとメダルを獲ってきて喜んでくれると思ったのに、なんか面倒くさい存在になってしまったなと感じるようになってしまったんです。それで心も体もギクシャクしはじめてしまったんですね。
その後私はバルセロナで金メダルを獲ったエゴロワ選手の走りを見て、私に足りないものを研究して、ウエイトトレーニングとかしていたんですけど、色々なことが上手くいかなくなって、メダルを見るたびに泣いたりしてたんです。
メダルを見るたびに、私は見る時に、私はいつも笑っているはずだったのに、なんで泣いてるんだろう、なんでこうなるんだろうって考えるのがとても嫌でした。
でもこれって経験してないとわからないことだし、辛かったですね。
小松:
それでも有森さんは次のアトランタオリンピック出場を目指しました。
気持ちを切り替えられた理由はどこにありますか?
有森:
私は金メダリストでなくて銀メダリストだったし、故障もしてたし、周りともギクシャクしてたし。
そんな状況の中で思ったことは1つだけなんです。
オリンピックに出れるという肩書きをもう一度持ち、メダリストという肩書きをもう一度掴むことが、自分が悩んでいることに対する答えを出せるための必要条件、いやこれが絶対なんだって思ったんですね。
行きたいと思って行った、というよりも、行かなきゃいけないって思っていたので、練習は辛かったです。
こんな気持ちで毎日練習してましたから、周りにいる人も嫌だったでしょうし、相当私は機嫌が悪く、表情も悪かったと思います。
小松:
その結果、有森さんの思ったような結果になりましたか?
有森:
はい、あの時のゴールは本当に静かな喜びでした。
はしゃぐのではなくて、これで終わった、これで終われる。
あとは進むだけだって思ったんです。
やっとこれで私の話を人が聞いてくれる、言いたいことがたくさんあるんだって。
小松:
具体的にはどのような話しをしたのですか?
アスリートがこの社会でもっと生きられるために
有森:
まず、陸上連盟の会長に話をして、メディアに話をしました。
小松:
具体的にはどのような話題を?
有森:
色々な話をしました。
日本には選手に肖像権がないとかね。
あと、自分が持っているものを活かして行きたいのに、なんで日本のスポーツ選手は制限されるんだ、一般の市民にもなれないんですか、って話しました。
あと、なんで結果を出したスポーツ選手が仕事にならないのか?
小松:
アスリートがお金のことを語るのは憚られる、という風潮はどこから来たんでしょうね。
東:
武道家は物を欲しがってはいけない、みたいな文化が由来なんですかね。
有森:
日本固有の奉仕精神が関係しているんじゃないですかね?そこが海外とスポーツに対する理解が違うんだと思います。
小松:
有森さんは、スポーツ選手の権利を真に考えるため、行動を起こします。
2002年にアスリートのマネジメント会社「RIGHTS.」を立ち上げますね。
有森:
アスリートの生きる権利、そしてそれを守るように社会を促していきたいと思いました。
最初は私しかいなかったんですけど、少しずつ増やしていきました。アスリートの多くは、ビジネスになる環境にいない人が多いんですね。
そして日本という社会はアスリートにはお金を払わない、ということが多いんですよね。
プロとしての価値が認められていないんです。
だからアスリートして食べていきたいと思う人が減る。
マラソンなんて割りに合わないからやりたがらないんですよ(笑)。
東:
本当にアスリートというのは、コストパフォーマンスが悪いですよね。
有森:
社会も変わらなきゃいけないと思いますけど、アスリートも考え方やマインドを変えないといけないと思います。
競技は「生きるためにやらなくてはいけない」っていう考え方が広まってほしいですね。楽しさだけでやる期間ももちろんありますけど、でも生きるためにスポーツをするんです。
あとは自分が何に対して責任を持つかを考えた方がいいですね。
アスリートって、結構全部自分でやる、っていう期間が長い人が多いんですが、実はそれって異様なことなんだってことに気づいてほしいんですよ。
小松:
ところで、有森さんはバルセロナの銀メダルとアトランタの銅メダルをどうしていますか。
有森:
父が生前、お前のためじゃなくてこれからの子どもたちのために、ってミュージアムを設計して実家の近くに立ててくれたんですよ。
小さいんですけどね。
そこに飾っています。
東:
そういうミュージアムを通して、メダリストの価値というのを次世代の子どもたちに伝えるのって大切だと思います。
有森:
でもね、そういう意味では、金メダリストってもっと全然違うんですよ。
金メダルって狙わないと獲れないんです。
銀とか銅メダルって、金メダルを狙ったんだけど獲れなかった人が偶然に獲れたメダルっていうのかな。
タラレバの話ですけど、私も金メダルを獲っていたら人生変わっていたんだろうなとは思いますね。
競技者のメダルより、人間としてのメダル

小松:
その後、有森さんは、オリンピックを目指すところから離れて、別の道を歩む決断をしますよね。
有森:
はい、引退します。
私は自分の持っているものを活かして生きていきたいって思っていたんです。
2000年頃なのですが、シドニーを目指していたんだけどダメになってしまったんですね。
当時メンタルと身体がバラバラで、とても疲れてて、さらに周りを巻き込んで迷惑をかけていたんです。
こういう状況はよくないなって思い、その後2002年にアスリートのマネジメント会社RIGHTS.を立ち上げたんですね。
東:
ちょっと聞きにくい話なんですが、2000年に高橋尚子選手がシドニーオリンピックで金メダルを獲りましたが、その時はどう思いましたか。
有森:
これは雑誌「AERA」にも載ったのでお話しますけど、「こんな金なら要らない」って思ったんですね。
彼女の指導のされ方って、独特だったんですよ。
とにかく金メダルだけをひたすら目指すために、監督はとにかく褒めちぎってて。
そんなことまでしないと金メダルって獲れないんだったら、私はそんなメダルはいらないって思ったんです。
でもね、そういう風に思ってしまった自分に「おいおい、金メダル獲ったこともないのに、そんなこと思うのか」って思ってしまったんです。
普通なら高橋選手が金メダル獲ったら、そこで逆に燃えるのがプロフェッショナルだろうって思ってしまい、綺麗事な考えが出てしまった自分って、プロ失格だなって思ったんです。
東:
それはつまり、高橋選手が獲ったような金メダルの獲り方というのは、有森さんのおっしゃっている「生きること」に繋がってないから、ということですかね。
有森:
そうですね、「競技者としての金メダル」に見えたということです。
「人間としての金メダル」ではなくて。
でもね、プロだったら途中のプロセスよりも結果を優先するべきですよね?それで食べていくわけですからね。
そう割り切ってできればいいんですけど、私は「人間として」というのを優先するべきだった思った時から、ああこんな自分は、もう現役だめかなって思っちゃったんです。
練習一つとっても、転んだりすることが多くて集中してないな、って思ってましたしね。
さらに自分の気持ちがそういう状況だったし、人は巻き込めないなって思って、数年休んで会社を立ち上げたんです。
でも会社の仕事がスムーズに行かないと、今度は走りに逃げるんですよね。この状況もさすがにまずいなって思ったんです。その時自分に問いかけたんです。
「今どうしたいんだ?」って。
「走るのもいいけれど、走りに何を求めるのかな自分は?」って感じて。
世界記録を目指しているわけでもないし、オリンピックに行きたいわけでもないし。
そういう風に思っていた2007年の2月に開催された、東京マラソン2007を最後に現役を引退することに決めたんです。
小松:
有森さんはずっと自分の心の中で対話を繰り返していたんですね。
自己内対話をしていると、壁にぶつかった時とか道が二つあってどっちに向かえばいいだろうと悩んで時に、自分で決断することができますよね。
人に言われたことだけに頼る人は、決断することが苦手だと思います。
東:
言われたことをただやるだけ、っていう人って確かに多いかもしれませんね。
腑に落ちることだけをやる大切さ

有森:
私の場合は、自分で納得しないと動かない人なので、人に言われても納得しないとやらない人なんです。
だから監督にメニュー出されたとするじゃないですか。
そのメニューをやるんですけど、なんでこれをやる意味が腑に落ちないとやらないんですね。
でもそれが腑に落ちると、とことん全力でやるんです。
だから面倒臭い人といえば面倒臭いですけど(笑)。
不器用な部分なんですけど、そんな自分も嫌いじゃなかったりします。
東:
間違えても、自分が決めたことだから後悔がないですよね。
小松:
引退した後の仕事は多岐にわたっていますが、自分のやるべきことだと思えたことを続けているのですね。
有森:
そうですね。
やろうと選んだから続けられるのかもしれませんね。
自分がやりたい、自分がやると決めたことからは絶対にブレない。
だから逆にやりたくないことはやらないし、みんながやってるからやる、というのは無いですね。
小松:
自分自身の指針に沿って正直に。
有森:
はいもちろんです。
例えば私はバラエティー番組に出るのは悪いこととは思っていません。
だからといって、何でもかんでも……でももちろんありません。
自分の人生、自分の時間にはこだわりたい、という思いが強いので、時と場合によっては出れるものを選びます。
東:
世の中には働いている人がたくさんいて、自分の仕事を本当はやりたく無いけど、やらないと家族を食わせれられない、ということで日々みなさん働いている人が多いですよね。
有森さんは生きていて言い訳を作ったりしたことはありますか?
有森:
もちろん言い訳を作ることもありますよ。
特に今の状況とかね、ここ1、2年そうなんですけどね。語学をやらなくちゃいけないんだけど、色々な言い訳してやらないんですよね。(笑)
東:
なんでですかね?色々辛いことは、いままでたくさんやってきたのに。
有森:
これがですね、結構明確で、アスリートに多いらしいんですけど、明確なゴールがないものに弱いんですよ。
だから私にとっては、ゴールを設定することって大切なんですよ。
よっぽど切羽詰まらないかぎりやらない、というこの私の面倒臭い気質が今の自分を停滞させていると思いますね。
それはわかっているんですけど、見事に動かないんですよ(笑)。
東:
ゴールを決めていけばいいんでしょうね。
僕はアスリートの頃は、一年ごとに課題が設定されてたんですが、それを辞めて社会人として働き出したら、課題なんかは特に与えられなくて、さらに僕の仕事は数字がでるわけでもないから、評価がどうされるかも難しいんですよ。
小松:
今の有森さんは、とてもゆるやかに歩まれている。
これまでにない新鮮な経験をされているのかもしれませんよ。
有森:
どうなんですかね。
今できることしかやってないんですよ。
自分からやりたいと思うものにしか向かってないというか。
やれるものはやっているけど、「できないけどチャレンジしよう」っていうことをやっていないのが、
大きな問題なのかなぁと思っています。
そんな目標を見つけようとしているんですけど、私基本的に勉強が嫌いで、本当に勉強ってどうやっていいかわからないんですよ(笑)。
仕事として走ることとは?

小松:
有森さんは2007年の東京マラソンを最後に引退されました。その次の日はどうしていましたか?
有森:
朝練をすっぱりやめました。
東:
え、逆にそれまで毎朝朝練やってたんですか!?
有森:
やってましたよ。東京マラソンまではやらないと、と思ってましたから。
それでね、東京マラソン出る前の夜の話なんですけど、私自分の足に「もう終わるからね、もう痛くないからね、頑張ってきたんだね」って言って翌日走ったんですよ。
東:
ゲストランナーとかでは走ってますか?
有森:
はい、岡山だけやっているんですよ。
フルマラソンの仕事は辞めたからやりません。
練習という仕事もやりません。
パシッっとやめました。
小松:
有森さんは「走る」ということに、プライドを持っていましたか?
有森:
そうですね、私は好きだから走ってたんではないんですね。
好きでも嫌いでも無い、マラソンが仕事にならないといけないと思っていましたから。
だから3時間とか4時間で走ったりはしません。それは遊びですからね。
一般の人がすごいなぁ、っていつも感心するのは、休みにとかに早起きして走ったりしてるじゃないですか?あれって本当にすごいなって思うんですよ。
私は好きだから走るっていうのはないので。
東:
僕は好きで走るタイプではないんですが、この間初めて富士山マラソンを走りました。
僕にとって走るって補強運動なんですよね。
有森:
あと、自分との対話ができますよね。
東:
あと、仕事で運動するのではなくて、遊びでやるのって、やっぱり勝ち負け関係なく、スポーツって身体を動かすのが楽しいなって思いましたね。
有森:
私は今頑張る人を応援することをやっていますし、それをすることで元気がもらえるからやってるんですよね。
岡山マラソンは自分の地元で、アンバサダーをやってるんですけどね。
そこで走る仕事だけはやるって決めているんですよ。
タイムは5時間ぐらいかかってますけどね(笑)。
でもランナーとして仕事をするなら、練習という仕事をするから、それはやりたくなくて辞めたからやりません。
もう痛みを確認するのは嫌なんですよ(笑)。
小松:
有森さんと東さんは、自分のことを自分で紹介するとしたら、なんと言いますか?
有森:
私は、一生懸命生きてる不器用な人かな(笑)。
小松:
東さんは?
東:
僕はなめられないために頑張ってる人という感じです(笑)。
人にバカにされるのが嫌だったんですね。
生まれた地域が悪い地域だったとか、誰も僕のこと知らないとか。
今に見とけよみたいなことばっかりでしたんで。
人間のすごさ、を伝えていきたい
有森:
私はね、子どもたちにはいつもこう言ってるんですよ、「人間って、どんなものでも力にできるんだよ、そのことはすごいことなんだよ」って。
「こうでなきゃできない、ああでなきゃできない、これだと力にならない」みたいなヤワな生き物じゃないんだよ、って伝えているんです。そしてそのことをもっと多くの指導者は教えて欲しいですね。
「こういう能力がなきゃ」とか、「こういう体格でないと」とか「こんな育ちでなきゃ」とかそんなことは関係ないんですよ。
人間ってもっとすごいんです、パフォーマンスでなくて、もっと根本がすごいんです。そのことを教えて欲しいんですよ。
小松:
はい、本当にそうですよね。
しかもそれは、決してエリート街道まっしぐらの道ではなくて、本当に底から這い上がってメダリストになった有森さんが発するから、説得力があると思います。
2020年も「どんなことでも力にできる、そいの能力が人間には備わっている」と、子供たちに伝えられるといいですね。
東:
悩んでる人は多いと思うんですよね。一流大学じゃないからとか、僕はこんなにやってないからとか、それを全部有森さんは突っ切ってきたわけじゃないですか。
有森:
そうですね、ありがとうございます。
でもね、よく「有森さんはいい先生に出会えたからいい選手になれたんですよね」って言われることもあるんですよね。
確かにそういう部分もあります。
でもその先生と出会えて、よくなるか悪くなるかは、結局最後は自分自身なんですよ。
だから保護者の方には、これはまあ露骨には言えませんが、たしかに先生も大事かもしれませんけど、本人次第なんですよ、ってことを伝えたいですね。
東:
確かにそうですよね。
先生がすごいだけだったら、その先生の教え子が全員オリンピック出られることになりますからね(笑)
小松:
有森さんは、ご自身では不器用だとおっしゃいますが、引退後、とても軽やかに色々なジャンルで活躍されていますよね。
有森:
いやいや、まだまだこれからどうなるかわからないですよ。
色々やらせていただいているんですけど、とても勉強させていただいたなって思うのが、国連「国連人口基金親善大使」ですね。
小松:
どういう活動をされたか教えてくださいませんか?
有森:
途上国の人口問題に関する活動の親善大使なんですよ。
私が行ったのは、カンボジア、タイに入り、インド、パキスタン、エピオチア、ケニア、タンザニアとかを回りました。
衝撃的だったのは、ケニアでのエピソードです。
あっちで私のことを「親善大使」って紹介しても、ケニアの人たちは「へぇーそれで?」だったんですけどね、マラソンランナーって話したら「ユーアーラッキー」って言われました(笑)。
マラソンランナーって言ったほうが、こっちの人には反応いいなぁって。
その時は、世界記録持っていたポール・テルガト選手のような人がアンバサダーをやってて、一緒に活動してました。
私が今までやってきたことが、この社会で存在意義があることなんだなぁって思ったんですよその活動を通して。
走ることや、今まで自分がやってきたこと、本当にやっててよかったなぁって思いましたね。
「自分」で考える、「自分」で生きることが大切

東:
オリンピック選手パラリンピック選手、そこでメダルを獲った人というのは、一般の人にはそのブランドイメージはわかりやすくて強いですよね。
有森:
ないよりは絶対いいと思いますけど、逆にその肩書きを持ってるけど勘違いして潰れてしまう人も多いですよ。
アメリカやヨーロッパには、あちこちにいますからねメダリストは。
大切なのは「今の自分がどうか?」ってことを意識することです。
これは海外にいた時に気づかせてくれました。
東:
たしかに日本だと、どこに行っても「有森さん」って言われて有名な存在ですものね。
有森:
だから海外にいた方が楽でした。
東:
海外のアスリートって、存在価値とか社会的な立場ってどうなんですか?
有森:
小さな国なら違うと思いますが、アメリカみたいなメダリスト多い国は、よっぽどのスーパースターじゃないと騒がれないでしょうね。
でも海外って、何か大きなことを成し遂げた人に対するリスペクトはありますよね。
そしてそれに対して、アスリート本人もアスリートとしての意識が高いですよね。
でも日本の場合って、流行っていればすごく注目されるし、そうでなければ見向きもされない。
その流行り廃りで価値が評価されるのはちょっとおかしいなぁって思いますね。
小松:
日本のオリンピック選手もそうした風潮に巻き込まれていますよね。
有森:
そうですね。
だからとにかく「自分で考える、自分で生きる」ことが大切だってことなんですよね。○○の選手だった誰々とか、どこの大学とか、それは関係ないんですよ。
私ね昔、某大学で講演したことあるんですけど、その時に「大学名で生きるな。肩書きて生きてはダメ」って言ったんです。
どんな時代も、まず最初に肩書きよりも、自分の名前を堂々と言える生き方をするのがとても大切だと思います。
そんな話をしたら、教授のみなさんが苦虫を噛み潰したような顔をしてましたけどね(笑)。
たとえば東さんはハンドボール選手ですよね。
東:
はい。そうです。
有森:
多分今までは自分を語る時に「ハンドボールの日本代表でした」っていうのを最初に話すでしょ? そうじゃなくて、まずは自分の名前、そして競技を実はやってて、ハンドボールでという話をした方がいいと思いますよ。
東:
はい、とても勉強になります。
有森:
あと、クイズにするといいですよ。
毎年、春と夏に小学1年〜6年生を対象にしたキッズキャンプを行っているんですけどね。
もちろん私のことを知らない子ども達は多いんですね。
知らないのって私にとって最高なんですよ、何を植え付けようかなって(笑)。
知らないことの楽しさっていうのもあるんですよ。
子ども達に向かって「私ね、ちょっと足が早いんだよ」とか言うんです。
子どもたちはね、私に全然違う世界を求めてくるんですよね。
彼ら彼女らが感じたものを私に求めてくるんですよね。
それって私にもとても貴重なんです。
もともとある自分を子どもにぶつけるのではなくて、今の自分を子ども達に作ってもらっている、って言えばいいのかな。
だから私は子ども大好きなんですよ。すごく楽しいから。
もちろん、私のことを知ってもらっている人からも色々な価値をいただきますけどね。
知らない子ども達からも色々学んでますよ。
東:
有森さんのことを知らない人が増えてるって、本当時代流れるのって早いですよね。
有森:
そうですね。今大学生なんかも私のこと知らないですからね。
今だとあとはメディアのどのくらい出ているかは、結構認知度の高低に影響しますよね。
小松:
有森さんはメディアの影響力を意識し、発言をされていますね。
有森:
私あんまりテレビには出ないんですけど、出ると「観ました」って言ってくださるから、やっぱり影響力はありますよね。
あとはドキュメンタリーですね。
でもドキュメンタリーも時間の関係で、発言とかどんどんカットされちゃいますからね。
アスリートもテレビに出るなら、ちょっと少し考えて発言した方がいいですよね。
そして出るなら覚悟した方がいいですね。
テレビに出て「自分の言いたいことが放送されなかった」って思うかもしれないけれど、そうならない場合も多いですからね。
そういうのを覚悟できないんだったらテレビは出ない方がいいですね。
私もテレビはいい思いも悪いもさせてもらいましたから。
でも今は、全て自分の責任って思ってメディアも選んで出させていただいてますね。
小松:
改めて、有森さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、国際オリンピック委員会(IOC)の委員や陸上競技連盟理事のお仕事は「B」、RIGHTS.の経営者や日本体育大学等の客員教授、タレントとしての活動が「C」、解説者などのメディア出演は「D」とそれぞれの領域で幅広くご活躍なさっていることが分かります。
東:
現在でも多忙を極めておられるとは思いますが、2020年以降のスポーツ界のためにもスポーツ庁の要職に就任なさることや、政治の分野でのご活躍も期待したくなってしまいますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
小松:
今日は本当に色々なお話をありがとうございました。
有森:
いえいえ、こちらこそありがとうございました。
(おわり)

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。
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