2025.01.24

アスリートとして、政治家として ビーチバレー・朝日健太郎

Profile

朝日 健太郎(あさひ・けんたろう)
1975年熊本県生まれ、鎮西高校在学中に日本代表招集。以来、法政大学在学中、サントリー在職中にわたり日本代表として活躍。2002年ビーチバレーボールに転向。北京五輪、ロンドン五輪に出場し、日本男子史上初の勝利を挙げる。引退後、NPO法人理事長に就任。フォーバルにて6人制バレーボール監督就任。早稲田大学大学院にて学び、スポーツ産業の育成を通じた経済発展への問題意識を得る。2016年参議院選挙にて初当選

ビーチバレーを通して気づいた、日本の海の素晴らしさ

小松:
私たちは、様々なアスリート・インタビューをお届けしていますが、今回はとりわけ劇的なキャリアを積まれている方です。

バレーボールとビーチバレーで活躍され、オリンピックにも出場し、なんと今は参議院議員という職業に就かれています。

朝日健太郎さんです。

朝日:
ありがとうございます。よろしくお願いします。

議員をやらせていただいておりますが、経験を一つ一つ積み上げて、勉強する毎日です。

東:
今回の企画は、オリンピックやパラリンピックに出場したようなトップアスリートの「その後」の人生にフォーカスを当てています。

夢の舞台に立った後にも人生は続きますが、その後の人生をアスリート達はどういう思いで送っているのか?

また、人生100年時代と言われる中で、アスリート以外の方々についても、仕事を引退してからの人生を考えなければならないようになりました。

様々な舞台で活躍する方々全てが、その後の人生を生きるためのエネルギーが湧いてくるようなインタビューにしたいと考えています。

朝日:
素晴らしい企画です!

小松:
朝日さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、自由民主党所属の参議院議員が「C」、フォーバル男子バレーボールチームの監督が「A」、NPO法人日本ビーチ文化振興協会理事長や日本バレーボール協会事業本部運営委員・ビーチバレーボール事業本部企画競技部長のお仕事は「B」、解説者などのメディア出演は「D」と全ての領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

小松:
まず最初に、多くの方が聞きたいテーマから(笑)。オリンピック・アスリートから政治家へ転向されましたが、どのようなターニングポイントがあったんでしょうか?

朝日:
正直、かならずしも政治家を志していたわけではないんですよね。

ただ、競技を引退してから立候補させて頂くまでの間は、約5年ぐらいあったんです。

その間に活動させていただいたNPOの経験が一番大きかったです。

東:
NPOの活動もされていたんですね。

朝日:
はい、僕は競技を離れて、NPO活動を軸にやらせていただいたことで、結果的に政治家になるチャンスを頂いたのかなと思います。

小松:
なぜNPOの活動と政治が結びついたのですか。

朝日:
僕が従事していたNPOというのが、海辺の利活用の運動をしていた団体なんです。

海洋国家である日本、海辺をもっと活用していこう、という趣旨で、行政や役所もバックアップしてくれました。

その活動を通して、行政の方ともお付き合いさせていただいたんです。

僕はそのNPOでの活動をしながら、国会議員の方々や地元の議員の方々とも人脈が拡がりまして、コミュニケーションも生まれたんです。

そこから僕のスポーツアスリートとしてのキャリアとかビジョンを政治の方々に伝えられることができたんです。

東:
なるほど、朝日さんは、ビーチバレー選手でしたから、そこから湾岸やビーチでの活動をするNPOにつながった、ということですね。

小松:
朝日さんと、日本ビーチ文化振興協会との出会いを教えてください。

朝日:
この団体の先代理事長が、もともとビーチバレー日本代表の監督をされていた瀬戸山正二さんだったんです。

この団体の設立ですが、設立前に役人のみなさんが、日本の海岸を考え直そうという運動をしていて、公共工事でコンクリート使って護岸作って守っていくだけではダメですよね、という話があったんです。
海や海岸って本来もっと、人に憩いを与える場所ですよね、と考えた役人のみなさまが知恵を絞って、元アスリートで日本代表監督だった瀬戸山さんを招聘して勉強会をしたんですよ。

そこで瀬戸山さんは、「海外では海辺の文化がとても進んでいるのに、日本では海水浴でしか使われてないじゃないか!」って啖呵を切ったんです。お役人さん相手に(笑)。

小松:
瀬戸山さん、勇ましい。

朝日:
確かに僕たちは、実際試合で世界中の海岸を回って、その素晴らしさを知ってますからね。

日本の海岸は文化にしていかないとだめだ、と瀬戸山さんは大演説をしたんですよ。

そうしたら役人のみなさんも、官民でうまく連携して何かできるだろうか?と考えて、この団体が生まれんたです。

小松:
朝日さんは、ここにはボランティアで参加をされて?

朝日:
はい、最初の頃はまだ現役の選手でしたからね。

僕は選手として監督に呼ばれて色々なイベントに旗振り役として参加させていただいたんです。

東:
どんなことをされたんですか?

朝日:
イベントではビーチバレーやったり、理事をやっていたライフセービングのチャンピオン遊佐雅美は、ライフセービングの競技をやったり、海の安全教室をやったりしていました。

我々の思い描くような活動をコツコツとやり続けていました。

小松:
朝日さんは、現役生活をしながらこの活動をされていたのですね。

朝日:
はい、そうですね、2008年の北京オリンピックと、2012年のロンドンオリンピック、つまり僕のアスリートキャリアの最盛期の頃に、同時進行でこのNPOの活動をしていたということですね。

だから、僕としては、この両輪があったので、「引退とは何か?」ということに直面した時に、考えの整理がしやすかったと思います。

政治家は「ヒーロー」であるべきだ

東:
現役を引退されてから「次は何をやろう」と初めて考えたのではなく、もう一つの軸がすでにあったということですね。

小松:
現役引退後は、バレーやビーチバレーの指導者になるなど、色々選択肢があったと思いますが、そのNPOの理事に就任されて、早稲田大学の大学院であるスポーツ科学学術院にも行かれましたね。

朝日:
自らの人生の行方を考えていた時代ですね。成り行きではない進路を、自分なりに、悩みながらも、模索していました。

小松:
いつ出馬されたんですか?

朝日:
2016年です。東京でオリンピックがもう決まっていて、それも自分の今後の活動をどうするか?の引き金になりました。

4年後オリンピックが決まっていて、こんなチャンスに政界に出られる可能性があるなんて、なかなかこんな機会はないと思ったんです。

小松:
そして政治家にならないかと、自民党からのオファーがあった。

朝日:
はい、そうですね。

自分でいうのも恐縮なんですが、自分は選手と同時に、NPOの活動をしてきて、そのような活動が好きでしたし、周りにも「お前は人前で色々やるの好きだよな。政治家向いてるんじゃない?名前も朝日だし」とか言われたりして(笑)。

でも僕は全然自覚がなくて。最初お話をいただいた時は、自分なんてとても、と思ってお断りしたんですよ。

東:
最初は断ったんですね。

朝日:
心から望んでいたわけではないので、悩みましたね。でも最終的にはオファーを受けたんです。

小松:
決断した決め手は?

朝日:
そうですね、色々考えたんですけど、オリンピックも控えているし、現役を引退して5年経過するし、「次はなにをやろうかな?」って考えてた時期でもあったんですよ。

東:
日本では、政治家って「ヒーロー」のイメージは少ないですよね。

外国ってヒーローのイメージな政治家って多いですよね。

アスリートってヒーローが多いと思うので、アスリートから政治家になる人がもっと増えて欲しいと思います。

朝日:
ありがとうございます。

ただ、当選前は「政治家」というイメージは湧きにくかったですね。

でも選挙に出て政治に足を踏み入れるということへの抵抗は、意外と少なかったです。

小松:
私は政治家にインタビューをさせていただく機会も多いのですが、「政治家に休みなどない」と、1日も休まない方もいらっしゃいます。

国民との約束を守ることがすべて、とまさに公僕として生きている。

朝日さんの奥さんが「政治家だけはやめて」とおっしゃった気持ちもわかりますね。

個人としての生活は、失われますから。

東:
奥さんもアスリートでしたよね。

朝日:
はい、競泳選手でした。

それこそ岩崎恭子さんの良きライバルだったと思います、幼い頃から平泳ぎをやっていました。

活動の源は「胆力」

小松:
政治家というステージに立った時に、「アスリートでの経験が役に立った」と感じた時はありますか。

朝日:
胆力ですかね。アスリート時代に培った胆力が役に立っています。

選挙までの準備期間や選挙期間は短かったので、走り抜けられたのは胆力だと思います。

小松:
朝日さんが出馬した2016年、4月には熊本地震がありました。朝日さんの実家は熊本ですね。

朝日:
はい、そうです。被災地の支援活動にも参加していました。

僕は支援を通して、アスリートとしてできることもありますが、さらにそれに重ねて、政治家としての支援というカードも持つことができるのでは?と考えていました。

そうやって、色々なカードを足していき、できることを増やしていくのもいいなと考えたんですね。

小松:
朝日さんはプラス思考の持ち主ですね。

室内のバレーボールというフィールドからビーチバレーへの転向も、いろいろなカードを足して可能性を見出した結果でしょう。

国会議員への挑戦も、それまでの経験を活かせると信じられたからですね。

東:
周囲は朝日さんのことを、すごく応援していましたよ。

僕は朝日さんと早稲田の大学院の同窓生なのですが、自然とみんなで応援しようという話になりましたし、出馬が決まる前にも朝日さんは人柄がよく、弁がたつし爽やかだから政治家に向いているんじゃない?なんて話していましたから。

朝日:
政治家になると、自分の中で抱えていた、解決するべき問題が解決できる糸口になるのかな?とは考えていました。

それこそ日本のビーチの問題とか、被災地の支援のこと、それと僕も経験していたのですが子育て支援のことや、バリアフリーのこととか。

その時に「解決しないといけないな」と考えていたことが、政治を通せば解決できるんではないか、と考えていました。

うん、政治はやる意味があるのかもしれない、って思っていたんです。

小松:
日本でも、オリンピアンが国会議員になられて、活躍されている方もいらっしゃいますが、朝日さんはアスリートから政治家へスムーズに転身できましたか。まったく違う世界ですが。

朝日:
自分には国会議員になるのははじめてですから、国会議員そのもののイメージが表面的なことしかわからなかったんですね。

経験したことのないことですから。なので、入り口の部分では少し焦りはありましたね。

小松:
バレーボール、ビーチバレーの代表選手から、政治家へ。まさに異色の活躍をされている朝日さん。

政治家としての面も伺いたいですが、朝日健太郎を築いてきたもの、についても迫りたいと思います。

コンプレックスは力になる

小松:
朝日さんは政治家として、色々な矜持や考えを持って活動されていますが、その覚悟はどこからきたのでしょうか。

室内のバレーボールから、ビーチバレーに転向した時の何百倍も重い決断だったと思います。

朝日:
はい、アスリートから政治家への転身って、実は自分の中では、「自分で未来を開拓していく」という意味に置いては、バレーボールからビーチバレーに転身した時と、あまり変わらないんですよ。

自分の道を切り開いて行く、という意味では。

小松:
今までバレーボールもビーチバレーも全身全霊でやってきた。そのステージが政治に移った、ということですね。

朝日:
僕って、行き先が見える道よりも、どうなるかわからないイバラの道を切り開いて行くのが性分にあっているのかもしれません。

これは是非伝えたいのですが、僕ってすごく勉強ができたんですよ学生の頃は……って、ここは笑ってください(笑)。

東:
いやいや、本当にとても賢い方だと思います。

朝日:
お世辞でも嬉しいです(笑)。

実は僕って、学生時代は普通に勉強して進学しようと思ってたんです。

でも最後の最後で、本当にギリギリでバレーボールの道を選びました。

あの感覚って、今でも変わってないなって。

多くの人が選ぶ、勉強して進学して社会人になる、という道よりも、あまりやらないバレーボールの道の方が面白いんじゃないかって思ったんですよ。

東:
そのマインドは、バレーボールからビーチバレーへの転向時も同じで、「誰もやったことがないから止めておこう」ではなくて、「誰もやったことがないなら自分がやってみよう」ということですよね?

朝日:
まさしくそうです。実はそれって、元をたどると、僕の運動能力が低いことに関係しているのかもしれません。

東:
日本代表の朝日さんが運動能力が低いだなんて、冗談でしょう?(笑)。

朝日:
いやいや、これは本当で。

だからそのコンプレックスが競技の道を選んだ原動力なのかもしれませんね。

下手だから、能力が低いから努力しなくちゃっていう問題意識を小さい頃から持っていたのかもしれません。

小松:
スポーツと人生の関わり方を紐解かせてください。朝日さんはずっとバレーボールだけをやっていたんですか?

朝日:
バレーボールは中学に入った時です。それまではサッカーでした。

小松:
厳しい部活だったんでしょうね。

朝日:
いやそれが、そんなにハードな部活動ではなかったんですよ。もしスパルタでやらされていたら、嫌気がさして辞めていたかもしれませんね(笑)。

小松:
熊本はバレーボール、強いですからね。

朝日:
はい、強豪校多いんですよね。

それで僕は体が大きかったからスカウト受けて、鎮西高等学校という、バレーボールの強い高校に通いました。

その高校にスカウトされるまで、親には偏差値の高い高校に入って、国立大学目指すって周囲には言ってましたから、突然バレーで推薦されて行くと決めたので、周りは驚いていました。

小松:
朝日さんの出られた鎮西高校は、春高バレーの常連校ですよね。

朝日:
はい。そういう流れなので、本格的にバレーボールを始めたのは、高校に入ってからなんです。

東:
ご家族はスポーツに対して熱心だったんですか?

朝日:
いや、それが全くないんですよ。スポーツやれとか、そういう教育受けたことないんですよ。

小松:
高校時代の練習は、中学と違ってタフだったでしょうね。

朝日:
最初がとても大変でしたね。自分が選んだ道なんですけどね(笑)。今に境遇が似ているかもしれません。

中学の時は週に2、3日しか練習してなかったのが、高校に入ると年に1日しか休みがなくなるという(笑)。バレーボールの練習ばかりの生活に変わりました。

バレーボールからビーチバレーにシフトした時も、政治家になった時も、とにかく最初はギャップを埋めるために本当に必死でした。

小松:
バレーボールからビーチバレーへのシフトチェンジをニュースで聞いた時には、とても驚きました。

朝日:
自分でも、大胆だなと思いました(笑)。結局自分はバレーボールで大成しなかったなと思ったんです。

高校は全国大会に出て、大学に進学して、代表に選んでいただいたんですが……。

東:
いわゆるエリートコースだったわけですよね。どうしてそういう気持ちに?

朝日:
あまり自覚がなかったんですね。自分がバレーボールでキャリアアップしているという感覚を持てなかったんです。

自分の人生のゴールを模索した

小松:
鎮西高校でバレーボールに打ち込み、早くも日の丸を背負う時がやってきました。

朝日:
高校3年生でした。

東:
初めての代表チームはどういった印象でしたか?

朝日:
わ!中垣内祐一だ!という印象です(笑)。中垣内さんと同じ場所にいるって。

ビビってました。まさか自分が日本代表に選ばれるなんて考えもしなかったですから。

しばらく体が思うように動かなかったです。

小松:
当時の男子バレーの人気は、今以上にすごかったですよね。

東:
当時のバレーボール日本代表チームは多くのメディアに露出していて、アイドル的なアイコンとしても扱われていましたよね。

朝日:
男子バレーは、コンテンツという意味では、そういう側面もありましたよね。

小松:
日本代表の一員になって、達成感や満足感はありましたか。

朝日:
その点でいうと、僕は日本代表として4、5年やらせて頂いて、テレビでもたくさん取り上げていただいたんですが、最終的に心が疲弊してしまったんですよ。

一生懸命前向きな気持ちになろうとしたんですが、どうしてもだめでした。

そしてくたびれ果ててしまったんです。

たくさんの人に1年中追いかけられて、大勢の人の前で試合をさせていただいて。

最初は楽しかったんですけどね。高揚感に包まれて……。

小松:
ちょうど朝日さんが活躍されていた頃に、リーグの組織形態も変わっていきました。そういう面でも激動の時代でしたね。その中で、疲れ切ってしまった・・・・・・。

朝日:
はい、ですから、最近の若いトップアスリートを見ていると、心のケアは大丈夫かなと心配になるんです。

テレビにたくさん取り上げられたりすることで、メディアを通してお客さんに注目されて、心を壊さないかなと心配なんです。今はSNSを通した意見などもありますしね。

ただ、僕らのころと違うのは、メンタル的なケアというのが昔に比べて結構細やかにアスリートに対して行われている、という事実もあります。

僕らの頃はそういうケアは皆無でしたからね。「先輩たちがこれでやってきたんだ。お前らも同じようにやれ」という理屈で(笑)。

小松:
確かに昔は、頑張れ、我慢しろの精神論が当然でした。自分の心を見失った朝日さんは、どうやって新たな道を見出したのですか。

朝日:
そうですね、日本代表のユニフォームを着ておいて、こんなことを言うのは憚れるのですが、もうここにはいられないのかな、と考えた時はありました。

そうすると選択肢としては、海外でプロになるか、辞めるか、ビーチバレーか。

年齢的に25、6歳でしたから、辞めるにはちょっと早いし、あと辞めるほど甲斐性なかったんですよ。

小松:
ビジネスパーソンになる、という選択肢は?

朝日:
バレーボールを辞めて、会社員というのも考えましたけど……。

小松:
その時に、スポーツで、肉体を駆使して、再度チャレンジしたいという気持ちもあったのでしょうね。

朝日:
そこはぼんやりとしていて、とにかく現状から脱したい、という気持ちが強かったですね。

とにかく辛かった。それが一番先だったと思います。

ただ、日本代表のユニフォームを着たら、そんなことは言ってられなかったですけどね。

最大限自分の実力を発揮しようとしました。

東:
バレーボール以外のいくつかの選択肢の中から、ビーチバレーを選んだと。

小松:
具体的にはどういうアクションを起こしたんですか?

朝日:
まず日本代表を辞退して、当時所属していたサントリーに退職を告げました。これは今でも覚えているんですが、当時のバレーの代表ってエントリー制だったんですよ。

東:
日本代表がエントリー制とは、どういうことでしょうか?

朝日:
はい、当時、バレーボール界では、日本代表に選出されている選手たちの中で「慣れ」とか「緊張感の欠如」というのがあって、低迷してたんですね。

だから意志の再確認の「踏み絵」みたいなものをやろう、ということになったんです。

小松:
日本代表で戦いたい人間だけ名乗り出よ、ということですね。

朝日:
はい、そしてそこから選ぶ、ということになったんです。「では僕は手を挙げません」と決めたんです(笑)。

あの夜は忘れません。日本リーグの最終戦でしたが、僕らは決勝までいったんですよ。そしてその日の夜の23時59分がエントリーの締め切りだったんです。

試合が終わり、ホテルの部屋で、「あ、11時回った、エントリーどうしようかな」と悩んだんです。ワンクリックすればエントリーです。悶々としてました。一人で(笑)。

そして散々悩んだ瞬間、クリックしませんでした。ああ、これで僕も日本代表と決別したんだなと。

逆境を力にする

小松:
「あの朝日が日本代表にエントリーしなかった!」と、周囲は驚きませんでしたか。

朝日:
選考委員会を開催するころには、僕はビーチバレーに転向するってことになっていたので、エントリーしたかどうかはあんまり話題になりませんでした。

この「自分からバレーボールを降りた」というのは自分の人生でとても大きかったですね。

確か、2002年ぐらいだと思います。

東:
ビーチバレーに転向する他にも、一流企業であるサントリーで六大学卒の正社員として生きていく道もあったわけですが、もったいないとは思いませんでしたか?

朝日:
はい、お話をいただいていました。とてもありがたいことです。

もちろん考えました。両親のことや、恩師のこと、もちろん今後のキャリアのことも考えて、悩みました。

小松:
どうやって暮らしていくか、家族を養っていくか、ということも考えたでしょう。

朝日:
はい。そこは、僕のプラス思考なんですけど、チャレンジをマネタイズしてやろう、って思ったんです。

このキャリアチェンジというのを逆に活かして、そこにどうしたら価値をつけられるだろう、今考えれば浅はかですが、そんなことを考えていました。

そういう経験から、自分をマネージメントしてくれる会社に籍を置いたり、自分でも活動したりしてました。

小松:
そういう活動で生活は成り立ちましたか。

朝日:
ギリギリでした。貯金を切り崩しながら少しずつ。といっても蓄えすらあんまりなかったんですけどね(笑)。

ビーチバレーに活動を移してから、競技のレベルもそうでしたが、お金の部分でも実際は大変でした。なんでこんなにお金がどんどん減っていくんだろう、って(笑)。

小松:
バレーボールとビーチバレーでは、競技の環境が違いますよね。

朝日:
はい、下町のビーチバレー愛好家の方が強いんですよ(笑)。

コテンパンでした、指さされて笑われましたよ「朝日健太郎に勝った!」って(笑)。

すごく悔しかったですが、そんな状況が2、3年続きました。

小松:
バレーの日本代表選手が、そんな思いをする。つまりまったく違う競技だと言うことですね。

朝日:
はい、技術レベルが違います。動作的には同じなんですが、最初は全然順応できませんでしたね。

小松:
ビーチバレーが楽しくなった瞬間って、覚えていますか。

朝日:
そうですね〜、最初はボッコボコにやられていたんですよ。愛好家のみなさんに。

でも1、2年後に、僕を笑った人たち全員に勝ったんですが、それが一番楽しかったです(笑)。

小松:
最初はぼろ負けですか。

朝日:
はい、1年目はただ負け続けて、2年目にようやく「あ、この相手は苦汁を舐めた相手だった」「この人には勝てなかった」という気持ちが沸き起こっていったんです。

すると、勝ちたい、勝たなければ何も得られない、という気持ちが心の真ん中に出来上がっていきました。

3年目になる頃、バレーボールの高校時代、日本代表時代を思い出しながら勝つことを目指して試合して、負けた相手チーム全てに勝ちました(笑)。

小松:
朝日さんは、バレーからビーチバレーという競技を選びましたが、他のジャンルは考えなかったんですか。

朝日:
他は考えられなかったですね。他のジャンルに行くというよりも、当時頭にあったのは、まずはバレーボール協会から出よう、という考えが1番にあったんです。

東:
なるほど。ちなみに、ビーチバレーでオリンピックを目指そうといった意識はいつ頃からでしょうか?

徐々に勝てるようになってきて、そういう考えも持ち始めたのではないですか?

朝日:
はい、まず国内である程度成績が出て、世界に出て、世界での戦い方がなんとなく見えたので、「これはオリンピックの可能性があるかもしれない」と考えていました。

だいたい4年目ぐらいからでしょうか。

東:
バレーボールからビーチバレーに転向した自分の状況を客観的に見つめ直して後悔したりはしませんでしたか?

朝日:
最初の1、2年は自分の姿を見て見ぬ振りをしました。直視したらビビって怖くなりそうだったので。

お金もないし、将来も保証されていないし、どうしよう?と思ったんです。

そしてなぜか、体重が増えたんですよ(笑)。

小松:
自分自身の肉体管理ができていなかった。

朝日:
一生懸命練習していたんですけど、我流でやっていたので、アスリートとしての強化にはまったく繋がっていなかったんでしょうね。

夜のお付き合いという名の下に呑んだくれていました。

それを、寮から解放されてストレスを発散しているだけだ、と自分を許したんですよ。

それも一因だった。「これも仕事のうちだ」と自分で自分に言い訳をして、食べて呑んで、夜中まで出歩く。もちろん新鮮な体験で楽しかったんですよ。

でも睡眠不足のまま午前中の練習へ行ったり、乱れた食生活を続けたり。そういう状態で練習してもね、結果は出ませんよね。

それで、このままではマズいなと思って、ようやく危機感を覚え、生活を改善していきました。

モデルケースがないからやる

東:
ビーチバレーに転向した頃はどちらにお住まいだったんですか?

朝日:
最初は神奈川に住んでました。

小松:
練習はどこでされていたんですか。

朝日:
神奈川県の江ノ島にある普通の公共のコートです。

すごく恥ずかしかったのは、大会があっても、控室ないので着替えはその辺でしますし(笑)。

食事は「どこで食べればいいんですか?」って聞いたら、「何言ってるんですか、ここで食べればいいじゃないですか?」って言われて、「お客さんいるのにここで食べるのか……」なんて思ってました。

バレーボール時代ではありえない話だったので、戸惑いましたよね(笑)。

東:
毎日大変だったと思います。辞めようとは思いませんでしたか?

朝日:
それは一度もないんですよ。プレー自体はなかなか上手くいかなかったですが、競技以外のことを並行して考えていたからかもしれませんね。

たとえば資金的な面で、営業活動などして、スポンサーが1つ決まれば少し前向きになりますし。

ビーチバレーをしながら、色々な違う活動も並行してやって、自分の人生におけるキャリアにプラスになるようなことをやっていました。

そういう活動を通して、自分の生活や人生のバランスを取っていたんでしょうね。

東:
スポーツって、費用対効果を明確に説明することが難しく、なかなかマネタイズ出来ないですよね。

小松:
スポンサーを見つける、協賛のメーカーをつけるなどは、普通、広告代理店やマネジメント事務所が行いますが、それを個人で実行したんですね。

社会と繋がるアスリートになる。そこにはもちろん責任や社会的使命も生まれます。代表を離れてそんな活動を一人でやる胆力には感服します。

朝日:
いえいえ、今ではみんなやっていますよ。でも、当時は少なかったかもしれませんね。自分はモデルケースがない、過去に事例がない方向に人生の歩みを進めちゃうんですよ(笑)。

モデルケースが見えると、なんとなく未来が見えてしまいますからね。

小松:
朝日さん、アドベンチャー体質ですよね。冒険者の気質をお持ちなんだと思います。普通なら、成功者をお手本として、それに沿って歩んでいくでしょう。

朝日さんのような前例を求めないチャレンジャーは稀です。どこに割れ目があるかわからない、氷河を歩くようなものですから。

朝日:
モデルケースがないキャリアに憧れているんですよ。無謀でも、ついそっちの方向に行ってしまうんです(笑)。

小松:
そして朝日さんは自分を緻密に分析して、それを言語化して人に伝えられる力をお持ちです。

ビーチバレーを経た、その後の朝日さんの人生について聞かせてください。

航海図がない道をゆく

東:
朝日さんの発言で、「モデルケースのない道を歩く」というのが、とても印象的でした。

朝日:
ありがとうございます。これからって、人生100年時代と言われますよね。

これは人類初の時代に突入するとも言えます。先行きのわからない時代とも言えますね。

そんなモデルケースのない時代、指南書を見てもどう生きたらいいのかわからないんです。

小松:
朝日さんがオリンピック出場を果たしたビーチバレーはペア競技です。2人で行うスポーツって初めてだったと思うのですが、どうでしたか?

朝日:
はい、2人でやるのって最小人数でやるチームスポーツですよね。2人で過ごす時間が多かったですし。

人間同士のバランスを取るのがすごく難しかったですね。もちろん人間同士ですから、上手くいかない時もあります。衝突する時もあります。

でも、ある時オリンピックの選手村で、あるペア選手にいい話を聞いたんですよ。

東:
どんな話でしょう?

朝日:
その人に「何年もペアを組んで、よく続けられますね?秘訣はなんですか?」って聞いたんです。そしたら「相手を許すことです」っておっしゃったんですよ。

東:
「相手を許す」ですか……。いい言葉ですね。

朝日:
はい、僕らはペアで苦労したんですよ。だんだん会話も無くなっていって、でも試合には淡々と勝っていき、という状態だったんです。

だから、全部は上手にいきませんでしたが、「許す」という言葉がその頃支えになっていました。

小松:
ビーチバレーで2度のオリンピックを経験するわけですが、目指す過程ではどのような心境でしたか。

朝日:
1回目の北京オリンピックへ目指すのは、モチベーションが高かったのですが、2回目のロンドンを目指す時が、正直しんどかったです。

でも「次のオリンピックでは負けたブラジルに勝ちたい!」と思ったら、貪欲に情熱を傾けて競技に集中できました。

でもなかなか成績が伸びず、ペアの関係性も悪くなって、一度ペアを解消したんです。

東:
多くのトップアスリートがオリンピックを区切りに様々なことを決断すると聞きますが、この時、朝日さんもその後の人生について考えたりもしたのでしょうか?

朝日:
もちろんです。ロンドンの後には引退して、次のステップに行こうかなとは考えていました。

やっぱり社会に飛び出したい。

完全にアスリート、スポーツというのを一度シャットアウトして、新しい何を始めたい気持ちでした。

指導者という道もありますが、同じフィールドではなくて、外に出よう、そのことを考えていましたね。

個性を活かしてエキスパートに

小松:
ビーチバレー業界にいて、指導者になり、協会の役員になり、会長になる、という人生も選べたと思いますが、冒険者の朝日さんは、その道を進まなかったんですね。

朝日:
なんだか聞こえはいいですが(笑)、航海図がない道をぐしゃぐしゃと進んでいるんですよ。そう思うと怖いですよね、いつ何時失敗するかわからないですし。

東:
そういう人生を楽しめるメンタルをお持ちなんだろうなと思います。

だから朝日さんの周りには人が集まるのでしょうね。一つのコミュニティーから出ることで、新しいたくさんの人にも出会えるでしょうし。

小松:
朝日さんと東さん、お二人とも早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程を修了しているんですね。

東:
はい、僕は引退した直後の2009年に入学しました。

朝日:
僕も引退直後です。2014年でした。

スポーツ科学学術院で、トップスポーツマネジメントについて学びました。

競技人生の晩年、何をしようかと考えている時に、大学院に行くというのは、次のキャリアアップの手段としてはすごく有効だなと判断しました。

通っていた時期は違いますが、同窓の先輩には僕の所属事務所であるサニーサイドアップの代表・次原悦子さんなどもいらっしゃいました。

小松:
卒論はどんなテーマで書かれましたか。

朝日:
僕の卒論は「ビーチバレーの振興策」です。

東:
僕は大崎電気というハンドボールチームのマネジメント(トリプルミッション好循環)について書きました。

小松:
アスリートのフィールドから大学院生へ、そして次のステップで政治家へ。朝日さんが思い描くここからのロードマップを教えてください。

朝日:
ようやく参議院議員として3年目ですが、自分のポジションの取り方や、今後どういう道で、どういう風になっていきたいか、というのが見えてきました。

居場所もあるし、やりがいを感じています。政治家は、全方位的にやらないといけないので、今後の課題は、どの方向で自分の「色」を濃くしていくか、ですね。

小松:
個性や経験を活かし、「エキスパート」「プロフェッショナル」を目指していく、ということでしょうか。

朝日:
はい、何かプロフェッショナルなジャンルを作ることは大切ですね。やっぱり日本の湾岸や海岸について、もっと活動をしたいと考えています。

東:
湾岸や海岸とスポーツや観光を掛け合わせ、世間にPRするという点において、朝日さんぐらい総合的な知見や経験をお持ちの方ははいらっしゃらないように思います。

朝日:
いやいや、そんなことないですよ。実はみなさんご存知ないだけで、プロフェッショナルはたくさんいらっしゃいます。

小松:
アスリート時代は輝かしいキャリアを歩んで来られた朝日さんも、政治家に転向され手からは新人ですよね。政治家の1年目、雑巾掛けをする、とよく耳にしますが、どのようなことを?

東:
え?!そうなんですか?

朝日:
本当の雑巾掛けじゃないですよ(笑)。

小松:
どんな仕事もして汗をかきなさい、という意味ですよね。

朝日:
はい。我々若手というのは、国会という仕組みが円滑に動かすために、一兵卒として常にスタンバイしています。そして問題が起これば駆けつけて調整役をするのです。

それが俗に言う「雑巾掛け」ということです。

小松:
参議院議員1年目は、どのようなことに気づきましたか。

朝日:
様々な議論が飛び交って、発言力の強い国会議員の先生もいらっしゃいます。そしてその周囲のグループもあります。

そういうのを目の当たりにして、「政治は一人でできるものではないんだな」ということを痛感しました。議会でのバランスの取り方も大事だなと。

ですから、周囲を見て考えて行動することと、駅に立って市民のみなさまにお声がけするなど一人でやることと、この二軸で役割を全うしようと思いました。

小松:
今はどのような政策に力を注いでますか。

朝日:
今はそれこそ、ビーチや港湾に関することですから、海洋立国を目指す政策を中心に、スポーツ産業、子育て、教育といった文科行政に関わることですかね。

特にこの2つを軸に3年間活動させていただいています。

アスリートがもっと活躍できるための改革を

東:
そして、いよいよ来年は東京でオリパラが開催されます。

朝日:
はい、そうですね。

わかりやすい例ですと、東京オリパラに合わせて2020年限定で「山の日」「海の日」「体育の日」をずらすという特別措置法の改正案などがありますね。

こういうのは、法律できちんとやらないと混乱してしまいますからね。

あとはチケット転売問題をどうするか?などですね。

小松:
朝日さんが提案された課題点などはあるのですか。

朝日:
スポーツ政策において、議員1年目で強調したのは、アスリートに対する予算を増やして欲しいというよりも、アスリートが活躍する場をもっと広げられないか、ということです。

そのためにはアスリートの教育がもっと必要なのではないか?とずっと提案してきました。

アスリートがキャリアを形成できるように、国が教育を支援することはできないか?と提案したりしていました。

東:
僕は現役選手を終えた後、早稲田の大学院で、現在東京オリパラ推進本部事務局長を務めておられる恩師の平田竹男先生からスポーツとビジネス、そして社会人としてどうあるべきかについて学びました。

そこで学んだことが今すごく活きていますが、朝日さんも同じなのではないでしょうか?

朝日:
そうですね。

東:
また朝日さんは、元陸上選手の為末大さんと一緒にアスリートソサイエティーという、アスリートと社会を繋げるための団体を立ち上げたメンバーでもありますよね。

朝日:
為末さんもそうですし、東さんも同類だと思いますが、エッジの効いたアスリートというのは自然と集まってきますよね。世代も近いというのもありますけど。

小松:
引退を経て国会議員になった後も、アスリートがどう生きるべきか、どう才能を世の中に貢献していくか、は朝日さんの大きな主題ですね。

朝日:
はい。ありがたいことに政治家になり、アスリートが政治家になることで、僕自身でしか持っていない能力とか人脈を、みなさんの声とか抱えている課題解決のために反映させ、国のために貢献できるか?

これが自分にしかできない強みだと考えています。まだまだ磨きが足りなくて、毎日その強みをどう磨いていくか、今まさにその真っ最中です。

東:
朝日さんにお聞きしたいのが、アスリートは自分が必死で努力すれば、ある程度の結果はついてきますし、もしダメでも、納得できるのではないかと思うのですが、政治家は自分の努力だけではいかんともしがたい部分もあるように感じます。

「実力」や「実績」よりも「人気」に左右されることも多いというか。

僕は政治家になったことがないのでわからないのですが、納得がいかない部分もあるのではないでしょうか。

朝日:
政治には、「風」があるとよく言われます。

でも選挙に関してですが、選挙に強い人って、本当に毎日コツコツ地道な活動をしているんですよね。

そういう活動がジワーッと浸透して、選挙で結果が出るんですよ。

だからその時の政党の人気に左右されないんです。

だからコツコツ毎日活動を積み重ねるしかないんです。これをやらなかったら負けるんですよ。

小松:
政治の世界でも、アスリートが持つプレッシャーに負けない精神力も役に立っているんでしょうね。

朝日:
それはありますね。あと、やっぱり地道に正直にやることですよ。今はインターネットで色々調べられてしまいますから。

オリンピックの「後」を考える

東:
今日はアスリートから政治の世界に入られた、朝日さんの貴重なお話、今後の日本におけるスポーツと社会について深く考えさせられる素晴らしい機会となりました。

朝日:
それは嬉しいです。ありがとうございます。

東:
来年2020年は東京オリパラです。とても楽しみな反面、少々不安に感じていることもあります。

というのも、今のままだと、2020年が終わったら、セカンドキャリアに困るアスリートがたくさん出てくるのではないかと感じています。

日本企業の国際的な存在感や競争力が低下し、スポーツに対してお金を出さなくなってきた時に、競技のみに集中してきたアスリートに果たしてどんな居場所があるのだろう、と。

小松:
本来国民の希望であるアスリート自身が希望を失いかねない。そこは何としても回避したいですね。

東:
でも、朝日さんみたいな、世の中を引っ張れるアスリートがもっと出てくれば、日本のスポーツ業界にはまだまだ明るい未来があると思うんです。

今回の企画の趣旨はそこなんですよね。

小松:
改めて現在の朝日さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、自由民主党所属の参議院議員が「C」、フォーバル男子バレーボールチームの監督が「A」、NPO法人日本ビーチ文化振興協会理事長や日本バレーボール協会事業本部運営委員・ビーチバレーボール事業本部企画競技部長のお仕事は「B」、解説者などのメディア出演は「D」と全ての領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
今後は政治家としても、アスリートを代表する存在としても、ますます大きな存在となっていくでしょうね。
最後に、朝日さんにお願いです。競技名を使わずに自己紹介をしていただけますか。

朝日:
競技名を使わずということは、「元バレーボール日本代表」とか言えないということですよね。難しいな・・・(笑)。

僕は子供の頃から身長が高くてスポーツが好き、でも鈍臭かったので、スポーツに対してコンプレックスがありました。

でもそのコンプレックスを解消するために、スポーツに取り組むようになった結果がオリンピックにつながりました。

それで培ったキャリアを、今度はスポーツじゃない人生で活かしている、という真っ只中にいます。

これからは政治家としてはもちろん、自分の中に余白がいくつかあるので、そこを今後の人生でどうしていこうかな、と考えています。

東:
流石です!

小松:
議員会館での長時間のインタビュー、ありがとうございました。

朝日:
こちらこそ、ありがとうございました!
(おわり)

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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