2025.01.24
元オリンピアンとしてできること 元ボブスレー日本代表・桧野真奈美
Profile
桧野真奈美(ひの・まなみ)
1980年北海道帯広市生まれ。小中学校時代はスピードスケート選手。高校からは陸上に取り組んでいた。スピードスケートと陸上競技人生では何度も怪我をし入院と手術を繰り返す生活を送る。19歳の時にボブスレーに出会い、アジア人の女子として初めてのオリンピック出場を果たす。2006年トリノオリンピック、2010年バンクーバーオリンピック日本代表。全日本選手権8連覇。オランダチームにも加わり競技生活を送った。現在は北海道帯広市の社会医療法人北斗北斗病院に所属。
東:
今回は、2006年のトリノ、2010年のバンクーバーと二度のオリンピックに出場した元ボブスレー日本代表の桧野真奈美さんにお話を伺います。
小松:
桧野さんはバンクーバーオリンピックを終えて現役を引退された後、日本オリンピック委員会のナショナルコーチアカデミー(2012年)と国際人養成アカデミー(2013年)を修了。
2015年には東さんと同じ早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程でトップスポーツにおけるマネジメントを学び、2017年にはサンフランシスコに本部を構えるWABN(The EY Women Athletes Business Network)が実施しているメンタリングプログラムの第3期生として、世界のエリートアスリート25人のうちの1人にアジアから唯一選出されるなど様々な分野でたゆまぬ自己研鑽を続けてこられました。
東:
青年版国民栄誉賞である日本人間力大賞や、日本人間力開発協会理事長賞特別賞など輝かしい受賞歴もありますね。
小松:
現在は故郷・帯広の「社会医療法人北斗 北斗病院」に在籍しながら、若手の育成、講演活動、スポーツ教室の開催に力を入れていらっしゃいますが、桧野さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、現役時代からサポートを受けていた北斗病院での仕事は“B”の領域、ボブスレーの指導者としての活動は“A”、講演活動は“C”の領域ということになるでしょうか。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
東:
元々はスピードスケートの選手としてキャリアをスタートした桧野さんですが、どのような経緯でボブスレーのオリンピアンとなり、どのように“その後”のキャリアを築いてこられたのかについて、多角的に伺っていきたいと思います。
INDEX
現役時代の繋がりが、引退後に役立っている
小松:
早速ですが、現在の桧野さんの主な活動をお教えくださいますか?
桧野:
はい、現在は全国各地での講演やアスリートに対する教育のサポート、競技団体の合宿への参加や、所属先がなく、困っている選手に所属先を探すお手伝いをするといった活動に主に携わっています。
小松:
北斗病院ではどのような業務をなさっているのでしょうか?
桧野:
総務課に所属しているのですが、いわゆる“総務”の仕事ではなく、帯広市の社会福祉協議会と連携して、これまでの経験や体験を市民の皆様に話したりする“サロン”を運営しています。
サロンでは私が今までスポーツを通じて学んだ経験をお話ししたり、栄養で気をつけていた事例や、海外の生活で知った日本との違いなど紹介しています。
一方的に話すだけではなく、参加している皆様の様々な心身の悩みなどをお聴きしたり、病院の先生と一緒にアドバイスをしたり、みんなで体操をしたりしています。
小松:
病院の患者さんではなく、市民の皆様に、なんですね。
桧野:
はい、北斗病院の患者さんだけではなく、市民の方々が対象です。
全国各地の市町村同様、帯広市でも高齢化が進んでいますので、市全体の健康寿命を伸ばすことを狙いに活動をしています。
東:
病院としてはCSRの一環として位置づけられているのでしょうね。具体的にはどのようなことをなさっているのでしょうか?
桧野:
そうですね、病院に通わず元気で過ごせるようにすることが一番大切だと思うので、日常生活の中で膝や腰を痛めないようにするためには何に気をつければ良いのかとか、雪道で転ばないようにするためのコツとか、怪我なく健康に過ごすための方法を伝える活動をしています。
東:
病院が患者さんを増やさないようにするための活動をしているなんて、素敵ですよね!
小松:
とても素晴らしい理念をお持ちだと思います。
次に、北斗病院に所属することになったきっかけを教えてくださいますか。
桧野:
現役時代に私がお世話になっている方に鎌田一理事長をご紹介いただいたのがきっかけで、競技資金のスポンサードも含めて、所属させていただきました。
現在も所属をしながらスポーツに関わる様々な活動をさせていただいています。
小松:
北海道女子大学短期大学部をご卒業後、すぐに北斗病院へ?
桧野:
いいえ、新卒の頃は何の実績もなかったですから、契約社員として帯広市役所で働かせてもらいました。
東:
初めは市役所で勤務なさっていたんですね。どのような部署で、何の仕事を?
桧野:
最初は、土木課に所属して勤務していたのですが、いただいたお給料を貯めては海外遠征に行って、戻ってきたらまた働いて遠征費用を貯めて、という生活を3年間続けました。
年上の男性ばかりの職場で若い女性が珍しかったこともあり、とても可愛がっていただきました(笑)。

小松:
後に詳しく伺いますが、その間には2002年のソルトレイクシティオリンピックにボブスレー競技の日本人女子としては初めての出場が決まっていたにも関わらず、大会直前に選手団の人数調整のため白紙になったという事件もありましたね。
桧野:
はい、当時は本当に辛くてかなり落ち込みましたが、あの経験があったからこそ応援していただいている方々の存在により感謝することが出来るようになったと思います。
東:
以前、帯広に伺った際に桧野さんの後援会の皆様とご一緒させていただく機会があったのですが、財界、政界などそれぞれの分野でご活躍なさっている錚々たる方々で、桧野さんのことを心から大好きなのがひしひしと伝わりました。ああいった方々とはどうやって知り合ったのでしょうか?
桧野:
帯広市役所とその後に働いた道立十勝エコロジーパークでの経験は大きいです。
出身高校の同窓会の会長が帯広市の商工会議所の会頭をされていたこともあり帯広の企業の皆様にも応援していただきました。
また、今現在所属している北斗病院は帯広でも最も大きな病院の一つで、鎌田理事長はグローバルにも活躍されており、多岐にわたるご人脈をお持ちです。
帯広の皆様には本当に多くの方にご縁をいただきました。
東:
なるほど。鎌田理事長には「病院の仕事をしなさい」と言われているわけではなく、今やっている活動を応援してくださっているそうですが。
桧野:
はい、おかげさまで本当にありがたい環境をいただいておりますので、この環境に甘えること無く、鎌田理事長、上司、同僚の皆さんに感謝の気持ちを忘れずに、今は自分にしか出来ないことに精一杯取り組みたいと考えています。
そして、いつか恩返しがしたいです。
小松:
桧野さんは様々な角度で地元の方々と密着した活動をなさっている印象を受けますが、これもアスリートとしてのキャリアのつくりかたの一つですよね。
東:
そうですね。現役時代から競技以外の方々と関わりを持ち、競技を応援してもらう中で自分自身のファンになってもらい、引退後にも応援してもらうという桧野さんのキャリアは成功例の一つだと思います。
桧野:
まだまだ成功なんてしていませんが、恵まれた今の環境とご縁には本当に感謝しています。
小松:
ボブスレーとは、現在どのように関わっているのでしょうか?
桧野:
昨年までは現場で選手に指導をしていました。昨年2月で閉鎖になった長野のボブスレーコースへ毎年選手を連れて行っていましたが、今シーズンは長野に行っていません。
また、お金がかかると言われている冬季オリンピック種目の中でもボブスレーは特にお金のかかる競技で活動資金を捻出するのが非常に大変なので、海外遠征のためのスポンサー集めも少しお手伝いしていました。
東:
ボブスレー、国内での練習で滑走するのにもお金がかかると伺いました。
桧野:
はい、コースによって違いますが、1本滑るのに4〜6千円、場所によっては1万円くらいかかることもあります。
小松:
ソリを運ぶのにもお金がかかりますよね。
桧野:
そうですね、例えばヨーロッパでW杯に出場した後、1週間空けてアメリカで試合というスケジュールだと、ソリの運搬費用だけでも片道100万円ぐらいかかりますし、チームで動く場合には当然チーム分の渡航費なども加わってきます。
東:
桧野さんはその活動資金の大部分を一人で集めていたそうですが、一体どのようにしてそれだけ多額のお金を集められたのでしょうか?
桧野:
普通に企画書を持って営業に回ったのですが、大変でした。
面と向かって「ボブスレーで五輪に出たいだなんて、お前のわがままのためにお金を出すヤツなんていない。馬鹿じゃないか?」と言われたり、目の前で企画書を破り捨てられたこともあります(笑)。

小松:
そんなひどい言葉をかけられたんですね…。
桧野:
その頃は、自分がボブスレーをやりたいと考えることはわがままなのかな、とか、応援してもらうこと、お金を出してもらうことって一体何だろう?って、日々葛藤しながら過ごしていました。
それでも、会社の同僚やこれまでに出会ってきた人たち、市民の皆様に「頑張って!」と応援していただき、沢山の方々のご協力とご支援のお陰で何とか活動資金を集めることが出来ました。
東:
合計で年間に約1500万円もの活動資金を集められたと伺っています。
メディアへの露出も少なく、国際的な競技レベルも高くないボブスレーという競技にこれだけの資金を集めたのは桧野さんの“人間力”あってのことだと思います。
桧野:
いえいえ。辛いこともありましたが、本当に良い経験になりましたし、一番は周りの方々との出会いに恵まれました。
ひとりでは出来なかったです。最後まで競技をすることが出来たのは、皆さんのお陰です。
小松:
現在はボブスレーだけではなく、様々なスポーツとの関わりがあるとの事ですが、どのような活動をなさっているのか教えていただけますか?
桧野:
はい、先日はウェイトリフティングのジュニア世代の選手たちにお話させていただいたのですが、JOCが実施している有望選手に対する研修会などで講師を務めたり、JFAこころのプロジェクトの夢先生として、全国の小中学生に夢をもつことの大切さを伝える活動などをしています。
小松:
オリンピックを目指す後輩たちに自らの経験を踏まえたお話をなさっているのですね。どのような内容のお話を?
桧野:
例えば、先日は目標の設定とそれを達成するための手順について話してきました。
私は小さな頃からメモを取る習慣があり、現役時代から現在に至るまで目標達成のために活用していますので、その方法を伝えました。
東:
目標達成の方法、具体的な内容を教えていただけますか?

桧野:
まずは目標を設定し、それを達成するためには何が出来るようにならなければいけないか、どうすれば出来るようになるのか、そして、どのような準備をして本番を迎えるべきなのか。
また、日々の練習の中で、調子がいい時はなぜ調子がいいのか、悪い時はどうして悪いのか?などについて書き留め、定期的に読み返すという方法です。
自らの考えを文字にして形に残すことは、やらなくてはいけないことを整理出来ますし、迷った時やスランプの時、落ち込んだ時やモチベーションが下がった時などに、客観的に自分を振り返り、基本に立ち戻ることが出来るようになりますから。
小松:
素晴らしいメソッドですね。このメソッドを身につけた後輩たちの活躍が楽しみです。
競技も仕事も地元に支えられている
小松:
先程もお話に出ましたが、東さんは桧野さんの地元である帯広市を訪れた際に、桧野さんが地元の方々に愛されている姿を垣間見られたそうですね。
東さんはどうして桧野さんがこれだけ多くの方々を惹きつけられるのだと思いますか?
東:
そうですね、桧野さんに初めてお会いしたのは早稲田大学大学院・平田竹男研究室の集まりだったのですが、第一印象は“純朴”でした。
こんなに純朴で、アスリートとは思えないくらい穏やかな雰囲気の人が、あの厳しいカリキュラムについていけるのかと少し心配になるくらいでした(笑)。
桧野:
当時は全然ついていけていませんでした(笑)。
東:
しかしその後、ゆっくりとお話を伺っていく中で、穏やかな雰囲気の中に秘められている様々な困難を乗り越えてきたからこその“強さ”や“温かさ”に気づき、“純朴”という印象は“誠実”や“聡明”に変化していきました。
いつでも明るく、常に周りを気遣いながら行動し、学び続ける姿勢を忘れずに様々な活動に取り組んでいる姿は本当に素敵だと思いますし、何か力になれることがあれば、という気持ちにさせられます。
皆さん、桧野さんのそういった人間性に惹かれて、様々な面でサポートをなさっているのではないでしょうか。
桧野:
本当にたくさんの方々に様々な面でサポートしていただき、感謝しかありません。
小松:
大学院にはどういった経緯で進まれたのでしょうか?
桧野:
当時お世話になっていた方に「選手や指導者など現場を強化する方策だけを考えていても、それを実現するための資金がなければボブスレーを発展させることは出来ない。
あなたはコーチングだけではなく、スポーツマネジメントを学ぶべきだ」と言われ、大学院の存在を教えていただいたんです。
確かに私は選手やコーチとして競技成績をあげるための方策は学んできましたが、今後、競技を支える立場になった時に、お金を集めることはもちろん、メディアを活用するなどの競技自体を発展させるための知識を学ぶ必要があると感じ、受験することを決意しました。
東:
僕も同じ動機です。ハンドボール選手として現役生活を続けていく中で、競技成績の良し悪しに関わらず、多くの企業チームが活動を休止していく姿を目の当たりにして、“強いだけ”のチームをつくることではなく、多くの人に愛され、人とお金が集まるチームであり、競技であることが必要だと感じ、恩師である平田先生の提唱する“勝利”と“普及”と“資金”のトリプルミッションを“理念”のもとに好循環させる方策を学びたくて大学院に進みました。
小松:
早稲田大学院の平田教授のもとには、桧野さんや東さんをはじめ、様々な競技のアスリートが理想と信念をもち、それを実現させるために集まっているのですね。
東:
はい、この3月にも元プロテニスプレーヤーの伊達公子さんや元バレーボール日本代表監督の植田辰哉さんが修了なさいました。
素晴らしい同窓生の方々に恥ずかしくないよう精進しなければならないといつも身が引き締まります。
小松:
それぞれに自らの関わってきた競技の現状を憂い、学び、実際に行動に移している高い意識をもった皆さんのようなアスリートが、日本のスポーツの未来を背負っていくのだと思います。
東:
さて、桧野さんのお話に戻りますが、帯広という街には桧野さんはもちろん、アスリートを応援するという文化が根付いているように感じましたが、何か理由はあるのでしょうか?
桧野:
そうですね、帯広には明治北海道十勝オーバル(帯広の森屋内スピードスケート場)というスケート競技におけるナショナルトレーニングセンターがあり、長野オリンピックのスピードスケートで金メダルを獲得した清水宏保さんを始め多くのオリンピアンを輩出しています。
市民の多くはそこで小さな頃からオリンピアンの姿を見て練習してきているので、オリンピアンやオリンピックを特別な人や場所ではなく、近所の仲間が出場する大会で、みんなで応援するのが当然という意識があるのかもしれません。
小松:
まさに環境が人をつくる、ですね。
桧野:
はい、また、市民の皆様に活動を知っていただく上で、地元新聞社にも多大なご協力をいただいていました。
幼い頃、私がスケート選手だった時から取りあげて下さっていた記者の方々が、ボブスレーに転向してからもたくさん記事にしてくださって。
ボブスレーは海外での試合が多く、なかなか会場に応援に来ていただくことは難しいのですが、シーズンが始まる前からことあるごとに取材に来て下さったおかげで、全国的にはなかなかメディアに取りあげられない私の活動を多くの市民の方々に知っていただく機会をつくっていただいたことが、活動資金を集める上で大きな助けになりました。
東:
市民の皆様や地元メディアがこぞって“おらが街のアスリート”を応援するという文化、とても素敵ですね。
北海道十勝地方が、全国でも有数の裕福な地域で、比較的娯楽が少ないということもお金のかかる冬季オリンピック種目を支援していただくうえでプラスに働いているように感じます。
小松:
ボブスレー選手を引退後、大学院でスポーツマネジメントについて学び、現在は病院に所属しながら様々な活動をされている桧野さんですが、競技人生の始まりはボブスレーではなくスピードスケートでした。
度重なる怪我や日本代表選考を巡る悲劇などに苦しめられながらも、諦めずにオリンピックの舞台を目指したお話についてお聞かせいただければと思っております。

桧野:
宜しくお願いします。
全てはボブスレーに繋がっていた
東:
桧野さんの競技歴から伺っていきたいと思います。
北海道の大自然の中で生まれ、多くのオリンピアンを輩出してきた帯広で育った桧野さんですが、最初に取り組んだのはボブスレーではなく、スピードスケートだったそうですね。
桧野:
はい、帯広は昔からスケートが盛んな地域で、私も小学1年生から競技としてスケートに取り組み始めました。
小松:
冬になると校庭に水を撒いてスケートリンクをつくるのだと伺いました。
桧野:
はい、帯広市内の小中学校では冬の体育の授業で小学生はスピードスケート、中学生になると男子はアイスホッケー、女子はフィギュアスケートに取り組むのが普通で、みんな自分専用のスケート靴を持っていますし、それぞれに専門的なクラブチームに所属したりもしています。
私はスピードスケートを選んだのですが、入ったクラブが数々のオリンピック選手を輩出している名門チームだったんです。
小松:
オリンピック選手、たとえばどなたでしょうか?
桧野:
私が所属していた頃には、長野オリンピックで金メダル&銅メダル、ソルトレイクシティオリンピックで銀メダルを獲得した清水宏保さんを始め、スピードスケートの日本代表選手の半数以上が所属していました。
実際にオリンピックで活躍している選手を間近に見ながらトレーニングする環境のおかげで、チームの誰もが“大きな夢”というよりも“現実的な目標”としてオリンピックを捉えていたように感じます。
東:
まさにエリートアカデミー、凄まじい環境ですね。
小松:
中学生になると陸上競技にもチャレンジなさいましたよね。走るのが得意だったのでしょうか?
桧野:
いいえ、全然得意ではないです(笑)。スピードスケートのトレーニングの一環として、陸上部で中距離走(800メートル)に取り組んでいました。
高校に進学してからは本格的に陸上競技を全力で取り組みましたが、友人関係も楽しんでいた感じでしたね。陸上一筋というわけではなく、放課後や休日にルーズソックスを履いて友達と出かけたり、ごく普通の女子高生としての生活も楽しかったです。(笑)。
小松:
ピアノにも取り組まれていたそうですが。
桧野:
はい、まだ幼稚園にいた5歳の時から18歳ぐらいまでレッスンに通っていました。
スケートや陸上に力を入れるようになってからは全然通えなくなってしまったのですが、それでも快く受け入れてくれる先生で、大好きでした。
スケートや陸上のトレーニングの合間に、大好きな先生の前でピアノを弾くことは良い気分転換にもなりましたし、そういうスタンスで続けさせてくれたことに心から感謝しています。
東:
なるほど、一つの競技に打ち込むだけではなく、様々な経験をされてきたことが、明るく穏やかで、ある意味ではアスリートらしからぬ桧野さんのパーソナリティーを形成したのかもしれませんね。
桧野:
そうですね。今振り返ると、スケートも、陸上も、ピアノも、経験してきた全てのことが、ボブスレーに、そして現在の私に繋がっていると感じます。

怪我を乗り越えて
小松:
桧野さんの競技人生を振り返る中で、最初の大きなターニングポイントとなるのが、高校3年生時の怪我です。
右膝前十字靭帯断裂という大怪我を負い、陸上やスピードスケートをトップレベルで続けるのを諦めることになるわけですが、その時のお話を聞かせていただけますか?
桧野:
あれは、高校3年間の陸上部での活動の集大成となる試合を翌月に控えたある日、体育の授業でマット運動をおこなっていて、回転運動の際に膝を逆に回してしまい、靭帯を切ってしまったんです。
東:
陸上のトレーニング中ではなく、体育の授業中に…。悔やんでも悔やみきれなかったでしょうね…。
桧野:
あの時は、崖から突き落とされたような気持ちになりました。
スケートに比べれば、陸上ではそんなに良い成績を残せていたわけではありませんが、当時、私が一番大切に考えていたのが陸上で、高校生活を締めくくる最も大切な試合を前にこんなことで大怪我をしてしまうなんてと、情けなくて、悔しくて。
小松:
辛かったでしょうね。お気持ち、お察しいたします。
桧野:
でも、私はこの怪我を経験することで、大切なことを2つ学ぶことが出来ました。
東:
大切なことを2つ、それは一体なんでしょう?
桧野:
1つは、何不自由なく学校へ行ったり、ご飯を食べたり、友達と遊んだりすることは、決して当たり前ではないということ。
もう1つは、どんなに辛くても「今」やらなければ後悔するということです。
それまでの私はサボり癖があり、「まだ出来るけれど、残りは明日にしよう」と、トレーニングや宿題などのやらなければいけないことをよく先延ばしにしていたのですが、大好きだった陸上やスケートが、怪我によって一瞬で出来なくなってしまったことで、出来るうちにもっと真剣に頑張っておけば良かったと後悔したんですね。
この経験から、どんなに面倒で、嫌いなことでも、いつ出来なくなってしまうか分からないから、全てのことに感謝して、後悔のないよう「今」を大切に頑張らなければいけないということを学びました。
小松:
全てに感謝し、後悔のないように「今」を大切に頑張る。素晴らしい考えです。この後、ボブスレーと運命の出会いをするわけですよね。
桧野:
はい、高校卒業後、学校の先生を目指して北海道女子大学短期大学部(現・北翔大学短期大学部)へ進学したのですが、選手発掘テストをきっかけにボブスレーの世界へ足を踏み入れることになりました。
東:
選手発掘テスト、現在では各競技、全国各地で開催されていますが、当時は珍しかったと思います。受験したきっかけは何だったのでしょうか?
桧野:
きっかけは本当にたまたまなんです。
大好きな陸上やスケートを怪我で続けられなくなった時にボブスレーの選手発掘テストのお話を伺って、連盟の方に紹介された映画「クール・ランニング(1993年に公開されたカルガリーオリンピックに出場した南国ジャマイカのボブスレーチームの実話を元にしたコメディ映画)」を見て、これなら自分にも出来るかも知れないと思い、やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいいと考えて受験したんです。
東:
クール・ランニング、大好きな作品です!確かにあれを見ただけであれば簡単に出来るのではないかと思ってしまいますが、実際には…。
桧野:
全然違いますよね(笑)。
小松:
テストはどのような内容だったのでしょう?
桧野:
ボブスレーは瞬発力とパワーを求められる競技ですので、10〜20メートルという短い距離を速く走るとか、立ち幅跳び、ベンチプレス、スクワットや、200キログラムのソリを全力で押すといった内容でした。
結果、合格ラインを越えていたのかテスト終了後に声をかけていただき、そこから本格的にボブスレーを始めることになりました。
東:
いよいよボブスレー選手として始動したわけですね!初めてソリに乗った時の感想はいかがでしたか?
桧野:
そうですね、映画「クール・ランニング」の舞台は1988年のカルガリーオリンピックなのですが、当時はボブスレー連盟の資金に余裕があったのか、まずはカルガリーで経験を積んできなさいと言われて、いきなりカルガリーのボブスレーコースでトレーニングをさせていただくことになったんです。
不安と緊張の中迎えたトレーニング初日、最初に滑った選手が派手に転んで救急車で運ばれていきまして…それを見た瞬間「あ、これをやるのは無理だ」と感じました(笑)。
小松:
ものすごいスピードですものね。怖くはないのですか。
桧野:
天候とコースにもよりますが、ボブスレーは最高時速が150〜160キロのスピードが出る競技ですから、もちろん非常に怖かったですが、特に詳しい説明もなく、いきなりソリに乗せられて滑らされていました。
当然ながらソリをどう扱えばどう動くのかもわからない中で、せっかくカルガリーにまで来たのだからと1週間は頑張ってみたのですが、結局諦めてしまいました。
東:
無理もないですよね。
桧野:
ただ、ふと周りを見ると、同世代の他国の選手たちは、命を削るようなギリギリの滑りをしながらも、とても楽しそうだったんですね。
それを見た時に、「私、負けたな。」と思いました。他国の選手たちに対してではなく、私は自分自身に負けてしまったな、と。
この時の悔しい思いが、私が本気でボブスレーに取り組むようになった原点かも知れません。
運命の日に学んだこと
小松:
カルガリー遠征を経験し、本気で競技に向き合い始めた桧野さんは、その後、竹脇直巳さんという方との出会いで、飛躍的に成長なさいました。竹脇さんについてお話を聞かせていただけますか?
桧野:
竹脇さんはカルガリー、アルベールビル、リレハンメル、長野と4度のオリンピックに出場したボブスレーの名選手ですが、偶然、当時怪我をしていて海外遠征には行かず長野に残ってリハビリをしていた時があり、たまたま竹脇さんに声をかけていただきました。
2週間特訓指導をしていただき、竹脇さんのいう通りにすると、どんどんスピードが出て、どんどん記録が縮まっていき、当時ホームコースにしていた長野で女子のコースレコードを記録するまでになれました。
指導方法の大切さを感じるととともに「これがボブスレーか!」という感覚を掴めたように思い、当初の夢だった学校の先生になることは後回しにして、本気でボブスレーでオリンピックを目指すことを決めたんです。
東:
竹脇さんとの出会いとともに日本人としては初めてのボブスレー競技でのオリンピック出場を目指した桧野さん。
2002年のソルトレイクシティオリンピックで見事に出場権を獲得したにも関わらず、日本選手団の人数調整という理由で、大会直前にオリンピックへの出場が白紙になったという事件がありました。
振り返るのも辛いかも知れませんが、当時はどのような気持ちだったのでしょうか?
桧野:
オリンピックへ参加出来ないと知ったのは長野での最終合宿中で、ソリも送って、あとはソルトレイクシティへ向かうだけという状況でしたので、突然の出来事に初めは何を言っているのか理解出来ませんでした。
東:
そんなに直前のタイミングで…あまりに残酷ですよね。
桧野:
正式に参加出来ないことを通告されてからは、悲しみ、悔しさ、怒りなどやり場のない感情を抑えきれずに、3日間泣き続けました。
様々な事情もあって、なぜこのようなことになってしまったのかを応援してくれていた家族や友人にさえ伝えられずに本当に苦しみましたが、これを乗りこえた「決意の日」が、私の競技人生における最大のターニングポイントとして、深く心に刻まれることになりました。
小松:
桧野さんの「決意の日」とは、いつだったのでしょう?
桧野:
2002年の2月21日です。
オリンピックに出場出来ないことが正式に決まったことを受けて、以前から痛めていた膝を手術をすることにしたのですが、偶然にも本来出場するはずだったオリンピックの試合当日に手術をすることになったんです。
小松:
そんなに運命的なことが…。
桧野:
当日、手術が終わり、麻酔が切れた頃に時計を見たらちょうど試合が始まる時間で、テレビには、本当であれば私と戦っているはずの選手たちが映っていて、私はそれを泣きながら見ていました。
最初は私もここにいたはずなのに何で今こんなところで満足に身体も動かせないんだろうという悔し涙だったのですが、メダルを目指して全力で戦っている選手たちの姿を見ているうちに、すごいなという感動の涙に変わり、次には4年後は私もテレビに映っている側にいたいと思うようになり、泣くのをやめて「次のトリノオリンピックには絶対に出場する」と決意したんです。
東:
ライバルたちの姿を見るうちに涙の意味が変わり、泣くのをやめて、決意したんですね。
桧野:
はい。私の競技人生の中では、競技そのものや、オリンピックの舞台ではなく、この病床での決意の瞬間が一番印象に残っています。
あの日の決意があったから何があっても諦めずにオリンピックを目指すことが出来ましたし、この経験をしたからこそ途中で選考に漏れた仲間の事や、オリンピックへ行きたくても行けなかった人の気持ちは絶対に忘れてはいけないんだ。ということを知りました。
小松:
色々なことに巻き込まれ、様々な試練をベッドの上で引き受けて、それでも桧野さんは次に進む決意をされたんですね。本当に生涯忘れられないですよね。

桧野:
絶対に忘れられない日ですね。
最初は「なぜ自分が巻き込まれなきゃいけないんだ」と人のせいにしていたのですが、あの日からマインドが変わり、「中途半端な成績では選んでもらえない」と考えるようになりました。
出場出来るかどうかの天秤にかけられるぐらいの実力ではダメなんだと。
また、私は3日間泣き続けることで気持ちを整理出来たのですが、今度は応援してくれていた方々が私を思って泣いてくれて。
それまでも応援してくれていることに感謝してはいたのですが、本当に辛い時に一緒に涙を流してくれる方々の存在を知って、改めて一人で競技をしているわけではないんだなと実感しました。
小松:
どんな選手にも良い時と悪い時があり、悪い時を乗り越えていくことこそが大切なのだと思います。
例え金メダルを獲って英雄になったとしても、怪我をしたり、チームと軋轢があったり、コーチと別れたり、人生には色々なことが起こります。
それでも、もう一度頑張ろう!と思えるか思えないかの違いが、その後の結果につながっていくのだと思います。
桧野:
そうなんですよね。あと、どんなに強い人でも、私は、人は一人では何も出来ないのだと思います。
人は誰もが弱い部分を持っており、人生には「もうダメだ!」と思える瞬間が時々訪れますが、真っ当に生きていれば、必ず誰かがサポートしてくれると思います。
自分が変われば周りも変わる
東:
続けて、「決意の日」の後の桧野さんの物語を聞かせてください。
小松:
2006年のトリノオリンピック目指す中で、当時、女子のボブスレーの強豪国であるオランダ人コーチ・Rob Geurts氏の指導を受けることになりましたが、どのようなご縁があったのでしょうか?
桧野:
アメリカで開催されたワールドカップの際に同じ宿舎になったことがきっかけです。
当時、私はアジアから唯一ワールドカップに出場していて、技術・戦術コーチを帯同していないたった一人の選手でもあったのですが、道具のメンテナンスをしていた時に「何か手伝うことはないか?」と声をかけてくれたのがRobでした。
その後、会話を交わしていく中で親しくなり、これまでに私が知らなかった様々な技術を教えてもらいました。
小松:
例えばどんな技術だったのでしょうか?
桧野:
より速く滑るためのライン取りや最新の道具などについて、具体的かつ即効性のあるアドバイスをもらいました。
Robと話せば話すほど、日本のボブスレーがかなり世界に取り残されていることを実感し、危機感を抱いた私はRobを通じてオランダ代表チームにお願いして合宿へ帯同させてもらったり、Robに日本代表の臨時コーチ務めてもらったりしました。
ここで教わった技術や知見が私や日本代表の技術を著しく向上させてくれました。
東:
それが、2006年のトリノオリンピックへの初出場につながったわけですね!
桧野:
そうですね、他にも国際連盟の方々が強力にバックアップしてくださって。
当時、日本のボブスレーのレベルは本当に低かったので、Robとの出会いをきっかけに、もっと世界の情報を知らなければ強くなれないと思い、国際大会などの機会があるごとにあらゆる海外のコーチや関係者にまだ拙かった英語で片っ端から質問して回りました。
あまりに積極的だったので、「お前は本当に日本人か?」と疑われたこともありましたけど(笑)。
小松:
ものすごい行動力ですね。「決意の日」が桧野さんの行動を変えたのですね。
桧野:
その時に「自分が変われば周りも変わる」ということを学びました。
これまでにも同じ機会はあったのですが、何も行動しなかったことによって情報を得られず、レベルアップすることが出来なかったのを、自ら積極的に行動することで、日本の方々はもちろん、海外の方々も助けてもらえるようになり、どんどんレベルアップすることが出来るようになりました。
チャンスはいつでも、どこにでも転がっていて、それを活かすのも、無駄にするのも自分の行動次第。本気で動いていれば必ず周りはサポートしてくれるということに気づいたんです。
小松:
その後、トリノとバンクーバー、二度のオリンピックに出場を果たされることになるわけですが、夢の舞台に上がった感想はいかがでしたか?
桧野:
トリノオリンピックの直前にも再び出場枠の問題に悩まされましたが、最終的にアジア女子初、日本女子初のボブスレー競技での五輪出場を果たすことが出来ました。
競技が始まり、コースに立った時に「決意の日」からの4年間の日々が走馬灯のように浮かんでは消えていき、「これがオリンピックか。諦めなくてよかったな」と思ったのをおぼえています。
その時に、辛かったことは良い思い出になり、お世話になった方々に対する感謝の気持ちで競技をスタートさせ、これを滑り終えたらボブスレーを辞めようと考えていました。
東:
自分に出来ることは全てやりきった。結果がどうであれ、ここで終わりにしようと思えたんですね。
桧野:
はい、そうなんですが、実際にはゴールした瞬間に「このままでは終われない」という気持ちになってしまって(笑)。
これまでにもオリンピック以外の様々な国際大会に出場してきたのですが、オリンピックは全くの別世界でした。
この舞台で勝つってどういう気持ちなんだろう、勝ちたい!という思いが湧き出てきたんです。
これまではオランダをはじめ様々な国の方々に色々な面で助けられながら、メダルを争う“競争相手”というよりは、下手くそだけど一生懸命頑張っている“仲間”のように扱われていたのですが、次は“ライバル”と思われたい。
オリンピックに出場することを目標とするのではなく、オリンピックで勝ちたい!という気持ちになり、もう一度4年後に向けて挑戦することを決めました。
小松:
夢の舞台で新たな目標が出来たわけですね。

東:
怪我や理不尽な代表落選を乗り越え、ついにトリノオリンピックという夢の舞台にたち、日本ボブスレー界の歴史を切り拓いた桧野さん。
4年後のバンクーバーに向け、さらなる競技力の向上を図っていく中で、活動資金の問題が大きく立ちはだかります。
ボブスレーのみならず様々な競技団体が直面する“お金”の問題に桧野さんがどう向き合ってきたのか。その辺りからお話を聞かせていただきます。
資金集めも競技のうちだった
小松:
夢の舞台であるオリンピックに出場した後、さらなる高みを目指し、競技力の向上と活動資金の獲得の両輪で奮闘なさってきたお話から伺ってまいります。
東:
早速ですが、トリノが終わってからバンクーバーに向かっていく中で、何か変わったことがあれば教えてください。
桧野:
はい、元々ボブスレーは多額の活動資金を必要とする競技なのですが、バンクーバーに向けての目標を「オリンピックに出場する」から「オリンピックで良い成績を残す」に変えたことで、これまでとは別次元の苦労をすることになりました。
小松:
どのようなご苦労があったのでしょう?
桧野:
単純に活動にかかるお金が増えましたよね。
例えばソリ一つとっても、トリノに出場した時には必要最低限の中古のソリでした。
それでも300万円程度のソリを使用していたのですが、バンクーバーに向けては、当時世界で主流だった約700万円のソリに変更しました。
東:
700万円!そんなに高額なんですね!!!
桧野:
あと、ソリの下についている「刃」のようなものがありますよね。
あれを「ランナー」と呼ぶのですが、ボブスレーではスキーにおけるワックスのように、天候やコースのコンディションに合わせてランナーを変える必要があります。
ランナーを1セット揃えるのには高いものは約100万円以上が必要で、試合になるとそれを何セットも用意しておく必要があるんです。
小松:
何をするにも多額の費用がかかるのですね…。
用具や遠征費以外にはどのような費用がかかるのでしょうか?
桧野:
本来、世界で勝つためには世界の最新情報を知るトップクラスの指導者に教わる必要がありますので、そちらの費用も必要になります。
通常であれば、年間契約で高額のフィーをお支払いする必要があるのですが、トリノの時にもお世話になったオランダ人コーチのRobが私や日本代表の現状を知ったうえで「私には1円も支払わなくていい。その分のお金を成績を上げるために使いなさい」と言って指導してくださったんです。
東:
Robさん、どうしてそんなに良くしてくれたのでしょうか?
桧野:
Robはオランダ代表で元々オリンピックに4度出場しているボブスレー選手だったのですが、現在は世界各国で某有名スポーツジムを経営している実業家で、お金には困っていないということと、ボブスレーをこよなく愛している方なので、弱小国ながらもボブスレーに懸けて必死にもがいている私たちに手を差し伸べてくれたのではないかと思っています。
小松:
ものすごいご縁に恵まれたのですね。
桧野:
本当、運がよかったです(笑)。
Robは、コーチとしての実力も素晴らしくて、技術的な面での指導力が高いのはもちろん、コーチと選手という立場にも関わらず、決して上からものを言わず、常に対等に接してくれるなど“個人の人格”を尊重したコミュニケーションで、誰からも慕われ、頼られていました。

東:
桧野さんとRobさんの個人的な友人関係のおかげで、費用をかけずに世界トップクラスの指導を受けられることになったわけですが、これまでのコーチから受けてきた指導との大きな違いがあれば教えていただけますか?
桧野:
そうですね、ボブスレーは100分の1秒を争う競技で、例えば1つのカーブを通り越す1秒足らずの間に複数回、何度もソリをコントロールしているのですが、感覚的な部分が大きく、言葉にして指導するのは非常に難しいんですね。
小松:
1秒間に複数回も…。想像を超える世界ですね。
桧野:
とはいえ、それぞれの指導者がもっている感覚を選手に伝えるためには言葉にする必要があるので、それが指導者の個性になっているんです。
例えば、以前に教わったアメリカ人のコーチであれば「お尻を意識して、お尻の感覚で!」と大きなイメージを伝える指導だったのですが、Robの場合は「右側に重心が30%かかったら、こうする」というようになるべく細かく具体的に数値をつかって伝えようとしてくれたので、やるべきこと明確でわかりやすかったんです。
東:
感覚的な技術を具体的に数値をつかって明確に伝えるスキル、スポーツはもちろん、ビジネスやアートの世界でも重要ですよね。
桧野:
はい。Robの指導を受けてからは、私自身が選手や子どもたちに指導する際にも、私の持っている感覚をそのまま伝えるのではなく、指導される側の選手がどんな感覚を持っていて、どんな言葉と数値を用いれば、最も伝わりやすいのかと考えるようになりました。
小松:
Robさんと過ごした日々は、選手としてだけではなく、指導者としての桧野さんにも影響を与え、大きく成長させてくれたのですね。
桧野:
そうですね。他にも活動資金を集めることの大切さについても改めてRobから学びました。
トリノの後、バンクーバーで良い成績を残すために現役を続けることにしたのだからもっと競技そのものに時間を遣いたい、活動資金を集める時間すらもったいないと悩んでいた私に「競技だけに集中したい気持ちはわかる。でも、この競技は色々な人に応援してもらい、お金を集めることに時間を割くことも、コースを早く滑走するのと同じくらい大切で、コースでのトレーニングも、活動資金を集めるための広報や営業活動も、全て含めたのが“ボブスレー”という競技なんだよ」と教えていただきました。
東:
競技の枠を超えた、人生における素晴らしいコーチですね。現在でも交流はあるのでしょうか?
桧野:
はい、今でも時々連絡をします。
現在は世界的に成功している資産家ですが、元々は貧しいところからボブスレーを始めた苦労人ですので、たまに会った時には靴下に穴があいていたりもします(笑)。
小松:
そんなチャーミングな部分もあるのですね(笑)。多くの方々に慕われているのがわかる気がします。
ところで、活動資金を集めていくうえで、トリノオリンピックに出場する前と後で、何か違いはありましたか?
桧野:
そうですね、オリンピックに出場出来るかどうかで資金集めは全く状況が変わります。
トリノの前のソルトレイクシティへの出場が決まる前、契約社員として市役所で勤務していた頃には個人でスポンサーを集めていて、お手紙を送ったり、電話をしたり、メールを送ったりと、一人ひとりにお願いをして回っていましたが、なかなか良いお返事をいただけず、本当に苦労しました。
しかし、オリンピック出場が決まってからは、世界がガラリと変わりました。
最終的に出場出来なくなったのでお返しをしたのですが、ソルトレイクシティオリンピックの時には、わずか3日間で数百万円もの支援金が集まり、“オリンピックに出場する”ということの持つ力の凄さを実感しました。
東:
日本人はオリンピックが大好きですからね。
個人的には多くの競技の場合、“スポーツ”や“アスリート”の持つ価値ではなく、“オリンピック”というブランドのみに注目やお金が集まっているようにも感じます。
桧野:
悪い意味で捉えてほしくないのですが、私はオリンピックに出ても出なくても、ボブスレーという競技には変わらない価値があると思っていますし、勝利のために取り組んでいる姿勢も変わりません。
しかし、オリンピックに出場したかしないかで周囲の環境がここまで変わるのかと本当に驚きました。
東:
まさに「勝利は最高のプロモーション」。
競技をビジネスとして成立させるためには、勝利した後のプロモーション方法、トリプルミッションでいうところの“普及”と“資金”を学び、実行することはもちろん重要ですが、まずは代表チーム、選手が“勝利”という結果を残さなければ世間は見向きもしてくれない、というのが現実ですよね。

心をどう整えるか?
小松:
競技レベルを向上させることと活動資金を集めることの両輪で、休む間もない競技生活を送られてきた桧野さんですが、そんな日々にも終わりがやってきます。
アスリートであれば逃れることの出来ない宿命、引退。
桧野さんが引退を決意なさった時のことをお教えいただけますか?
桧野:
2010年のバンクーバーが終わった時に「私に出来ることは全てやり尽くした」と感じたので、引退することにしました。
トリノの後には「次はもっと万全の準備をして戦いたい」と感じたのですが、バンクーバーに向けては、世界トップレベルのコーチの指導を受け、他の国に恥ずかしくないようなソリで、毎日“今日が競技人生最後の日”だという気持ちで後悔のないよう全力で過ごしてきたので、あと4年、今までのような生活を送ることは出来ないなと思い、引退を決意しました。
小松:
毎日を“今日が競技人生最後の日”という気持ちで過ごす、ですか。とても素晴らしいメンタルをお持ちだと思うのですが、何か特別なトレーニングはなさっていたのでしょうか?
桧野:
現役当時、コースを滑るのは1日2本のみと決めていました。
それ以上滑ると集中力が持続しないですし、海外のコースでは、ホームチーム以外にスピードの出るラインを知られないようにするためにあまり滑らせてくれないことも多いので、それに対応するためにも常に2本に集中してトレーニングするようにしていました。
東:
1日2本だとあっという間に終わってしまうように思うのですが、他にはどのようなトレーニングを積んでこられたのでしょうか?
桧野:
フィジカルトレーニングなどのコースを滑走する以外のトレーニングに加えて、メンタルトレーニングを7年間続けてきました。
ボブスレーはほとんど身を守るものがない2人乗りのソリに乗り込み、曲がりくねった氷のコースを猛スピードで滑走する大変危険な競技で、私のやっていた前列でソリをコントロールする“パイロット”というポジションは、自分はもちろん、スタート時にソリを力強く押して後ろに乗り込む“ブレーカー”の命も背負っているので、相手以前に自分自身の恐怖心とプレッシャーとの戦いなんです。
ですので、常に平常心を保ち、ベストパフォーマンスをするために自分がどんなパーソナリティーなのかを理解し、己を律する術を知っておくことが非常に重要になるんです。
小松:
まさに心身ともに自らをコントロールすることが重要な競技なのですね。メンタルトレーニングの内容についても詳しく聞かせていただけますか。
桧野:
はい、ソルトレイクシティオリンピックに出場出来なくなってしまった後、22-3歳の頃から引退するまで担当の先生のご指導を受けながら、成績や体調、気分の良し悪しについてノートに記録することで自らの状態を客観的に見られるようにデータを整理していました。
東:
自らの状態を客観的に見ることで、どのような効果が得られるのでしょうか?
桧野:
トレーニングと試合の日々を送っていれば、勝つこともあれば負けることもありますし、体調が良い日も悪い日もあります。
モチベーションが上がらなかったり、スポンサー集めが上手くいかなかったり、良い結果が出たことに浮かれ過ぎたりと、様々な出来事が起こりますが、過去の自分の状況や、その時に何を考えてどう乗り越えてきたのかの経験を文字にして、データとして残してあれば、何かあった時にもそれらを見直すことで一喜一憂せずに済むんです。
小松:
なるほど、文字にして残すことで、過去の経験を最大限に活かすことが出来るのですね。
桧野:
はい、本当に落ち込んでいる時に他の誰かからアドバイスを受けても、一体私の何がわかるの?!と反発してしまうかも知れませんが、自らの経験談であればすんなりと受け入れられますから。
東:
とても分かりやすいです。アスリートのみならずビジネスパーソンの方々にもご活用いただける方法なのではないでしょうか。
桧野:
他にもオンとオフの切り替えについては意識して取り組むようにしていました。日本人はとても真面目なので、上手くいかなかった時に悩み、考えすぎてしまうことが多いんですよね。
もちろん、悩むこと自体は決して悪いことではないのですが、長い間悩み続けてしまうことは問題なんです。
以前、私が練習で良い滑りが出来なかった時に、ホテルに帰ってからも録画してもらっていた自分の映像を観ながら「何がダメだったんだろう?」とずっと悩み続けて、翌日になっても考え続けていたことがあったのですが、その時にはRobに本気で叱られました。
小松:
何と言って叱られたのでしょうか?
桧野:
考え過ぎ、思い詰め過ぎで目の前の1本に集中出来ていない。真奈美はオフの状態がなさすぎる。それでは良い集中が出来ず、良いパフォーマンスも出来ない。
一日中ボブスレーのことだけを考え続けることが必ずしも良いわけではない。真奈美の一番悪いところだ!と言われました。
東:
確かに外国の選手はオンとオフがはっきりしていますよね。やるときはやる、抜くときは抜く。
プレー中に何かミスをしたとしても、終わったことは変えられないのだから、次に取り返せば良いや、というような切り替えの早さを感じます。
桧野:
極端にいえば、一部の日本人アスリートが競技一筋、競技に人生全てを懸け、競技で勝利するために生活するというスタンスだとすると、Robを始めとする外国人アスリートたちの多くは、自分の人生を豊かに過ごすための要素の一つとして生活の一部に競技があるというスタンスなんですよね。
普段から一日中集中し続けて、競技会場に入り、いざ試合という時には心身ともに疲れ果てている状態で臨むのか、普段は明るくリラックスしていても、競技会場に入り、オンの状態になると誰も近づくことが出来ないようなオーラを放つくらい集中して臨むのか。
本当の意味で試合でベストパフォーマンスを出すための行動として、どちらが正しいのか、ということですよね。

東:
日本人と外国人の“仕事”に関するスタンスにも共通して言えることかも知れませんね。
自分にしか出来ないことで、自分の思うように生きる
小松:
ボブスレー選手として出来ることは全てやり尽くしたと感じ、引退なさった桧野さんですが、ソリを降りてからも様々な分野でご活躍なさっていますね。
これからはどのような活動をしていこうと考えているのでしょうか。
桧野:
私はボブスレーを始めとする様々なスポーツに育ててもらったので、恩返しの意味でもスポーツには携わっていきたいと思っていますが、スポーツ“だけ”の人間にはならないように意識しています。
幸いなことに現役を引退してからスポーツ以外の様々なジャンルでご活躍なさっている方々とご一緒する機会が増えましたので、出会った方々からどんどん学んで、自分を成長させ続けていきたいと考えていますね。
小松:
学び、成長し続ける人生、素晴らしいですね。ボブスレーとの関わりについてはいかがでしょうか?
桧野:
そうですね、ボブスレー女子日本代表はバンクーバー以降オリンピックに出場出来ていませんので、後輩たちにもあの舞台に立ってもらうためのサポートができたらいいな。と思います。
まだ形にはなっていませんが、いつか選手の競技環境を整えてあげることのお手伝いがしたいです。
選手たちが活動資金の営業活動に時間を割くことなく、全力で競技に集中してもらうことで、世界の強豪国と互角に戦えるような強い代表チーム、選手になってもらいたいです。
東:
なるほど。僕は桧野さんのおっしゃっていることとは異なる考えなのですが、桧野さんは現役の頃、たった一人で活動資金を集めていらっしゃいましたよね。
桧野:
はい。皆さんに協力をしていただきながらでしたが…。
東:
厳しい言い方になってしまうかも知れませんが、桧野さん一人が必死で集めてきたお金で代表チームが使用するソリを購入したり、海外遠征の旅費や宿泊費を支払ったり、外国人コーチを招聘する資金を捻出していたわけですから、桧野さんがいなくなってしまって、何も出来なくなってしまったのではないでしょうか。
以前に、Robさんから桧野さんが教えられたように、ボブスレーはお金のかかる競技だから、世界を目指すのであればトレーニングをして実力をつける以外にも活動資金を集めなければならないことを多くの選手が理解し、一人が1500万円を集めるのではなく、10人が150万円、100人が15万円を集めるようなシステムや文化をつくることが大切なのではないでしょうか?
桧野:
東さんのおっしゃる通りかも知れません。
東:
もちろん、簡単ではないと思いますが、そうしなければ、日本のボブスレーがコンスタントにオリンピックに出場し続けることは難しいのではないでしょうか。
そして、オリンピックに出場出来ないことが続けば、更に資金を集めるのは困難になりますよね。
僕は桧野さんにはボブスレーの後輩たちにお金をあげるのではなく、お金を集めるための方法を伝えてほしいと思います。
それは、企画書の作り方やプレゼンテーションの方法ではなく、どうすれば周りの人たちに愛され、応援してもらえるのかということではないでしょうか。
桧野:
私に出来ますかね(笑)。
東:
桧野さんにしか出来ません(笑)。
小松:
さて、それでは改めて桧野さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめてみましょう。現役時代からサポートを受けていた北斗病院での仕事が“B”、ボブスレーの指導者としては“A”、講演活動は“C”の領域での活動になりますが、“B”の領域で日本ボブスレー連盟の会長として、もっと上の立場で活動資金を集めたり、選手強化を推進していくことも求められるかも知れませんね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
東:
桧野さんの人間力があればどんな領域でも笑顔で活躍出来ると思いますし、今後どのようなキャリアを重ねていかれるのか楽しみです。
さて、それでは最後の質問になります。ボブスレーという競技名を使わないで自己紹介をしていただけますか。
桧野:
そうですね、目の前の興味があることにどんどんチャレンジして、失敗してもあきらめないで挑戦をしながらまた新しい夢を見つけて、自分の思うように生きてきた人、だと思います(笑)。
小松:
夢追い人ですね。素晴らしいです。
東:
本日はお忙しいところありがとうございました。

桧野:
ありがとうございました!
(おわり)
編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。
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