2025.01.26
スポーツで故郷に恩返しを 元フェンシング日本代表・池田めぐみ(旧姓原田)
Profile
1979年8月1日山形県南陽市出身。元フェンシング・女子エペ選手。日本代表として2004年アテネ大会、2008年北京大会と2大会連続でオリンピック出場。2006年ワールドカップ(バンクーバー)個人で2位。2009年に結婚し、一時休養後に復帰。2010年広州アジア大会団体で金メダルを獲得。2012年ロンドンオリンピック出場を目指していたが、2011年に乳がんが見つかり、現役を引退。現在は、山形県スポーツ協会でスポーツ指導員を務める他、様々な役職に就き、幅広く活躍している。
山形県立米沢興譲館高等学校→東京女子体育大学→筑波大学大学院
2003~2005年全日本フェンシング選手権大会女子 エペ 個人優勝
アテネオリンピック エペ 個人28位
北京オリンピック エペ 個人15位
広州アジア大会 エペ団体優勝
公益財団法人山形県スポーツ協会 スポーツ指導員
日本アンチ・ドーピング機構 アスリート委員/評議員
嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センター 理事
日本スポーツフェアネス推進機構
日本スポーツ協会 国体委員会 委員
日本フェンシング協会 アンチ・ドーピング委員会 副委員長山形大学 非常勤講師
東:
様々なアスリートの現役を終えた“その後の人生”に迫るインタビュー連載“表彰台の降り方。〜その後のメダリスト100〜”。今回は元フェンシング日本代表の池田めぐみ(旧姓原田)さんにお話を伺います。
小松:
池田さんは、筑波大学大学院修了後、山形県スポーツ協会(当時は山形県体育協会)の所属選手として、2004年アテネ大会、2008年北京大会と2大会連続でオリンピックへ出場。
2006年にバンクーバーで開催されたワールドカップでは個人2位、2010年広州アジア大会団体では金メダルを獲得するなど、日本代表選手として数々の国際大会でご活躍なさいました。
東:
引退後には、山形県スポーツ協会のスポーツ指導員を始め日本アンチ・ドーピング機構(以下、JADA)のアスリート委員や日本フェンシング協会のアンチ・ドーピング委員会の副委員長、山形大学の非常勤講師、様々な講演活動などの幅広いお仕事をなさっています。
小松:
現在の池田さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめますと、山形県スポーツ協会は選手時代からの所属先ですので親会社勤務、JADAや日本フェンシング協会などのお仕事が競技団体運営で「B」の領域、山形大学の非常勤講師や講演のお仕事は「C」の領域となりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
INDEX
地元・山形県のスポーツを活性化させる
東:
まずは現在の活動についてお話を聞かせてください。活動内容を伺いますと、“フェンシング”ではなく“オリンピアン”あるいは“アスリート”としての側面が大きな印象がありますが。
池田:
はい、山形県スポーツ協会のスポーツ指導員を軸に“フェンシング”というよりも“スポーツ全体”を対象にした活動をしています。
小松:
所属は山形県スポーツ協会ということですが、公務員の立場になるのでしょうか?
池田:
いえ、山形県スポーツ協会は公益財団法人で、そちらの契約職員として勤務しています。
副業が認められていますので、籍をおきながらも様々な活動をさせていただいています。
東:
どのような勤務体系で働いているのですか?
池田:
特にオフィスへの出勤は義務付けられておらず、業務や会議などの必要に応じてという形で私の裁量に任せて活動させていただいていますので、5歳になる息子をみながらSkypeなどを活用して基本的には在宅で働いています。
小松:
子育てをしながら、リモートワークをなさっているのですね。
具体的にはどのようなお仕事をなさっているのでしょうか?
池田:
スポーツ協会での主な仕事は、研修会や講演等の依頼に対応する業務です。
他にも選手の競技力向上をメインに各競技の普及発展を図るための戦略へのアドバイス、未来の日本代表を発掘・育成するスポーツタレント発掘事業「YAMAGATAドリームキッズ」などに携わっています。
東:
山形県内のスポーツ全般に関わられているのですね。
池田:
そうですね。他には週に一度の山形大学での非常勤講師と、サッカー協会の夢先生やJADAのTokyo2020のレガシープロジェクトであるPLAYTRUE2020に関わる活動もしています。

小松:
かなり幅広くお仕事をなさっていますが、現役時代と比べて収入に変化はありましたか?
池田:
現役時代よりも、現在のほうが多いですね。
東:
現役選手の頃はどのようなお仕事を?
池田:
現役の頃は、競技に集中出来るようフェンシングを業務として、競技に関わる様々な費用を負担していただいていました。
小松:
いつから山形県スポーツ協会に所属なさっているのでしょうか?
池田:
2006年です。筑波大学の大学院を修了する時に、山形に戻って県のスポーツ指導員にならないかとのお話をいただいて、現役選手時代からお世話になり、引退後にも所属しています。
東:
スポーツ指導員について、もう少し詳しくお教えいただけますか?
池田:
スポーツ指導員は、もともとは1992年に山形県で開催された国民体育大会(以下、国体)「べにばな国体」の際にトップアスリートを招聘して、県内のスポーツを強化するために整備された制度です。
東:
べにばな国体、僕も高校2年生の時に出場しました!1回戦で負けましたけれど(笑)
当時は国体の開催県が天皇杯・皇后杯を獲得するためにトップアスリートに教員などの立場を用意して招聘し、県の代表選手として活動してもらうことも多かったですが、そちらの一環ということですね。
小松:
国体は、日本スポーツ協会・文部科学省・開催地都道府県の三者共催で、毎年各都道府県の持ち回りで開催するため、競技会場などのインフラが整備されるとともに優秀な選手や指導者が全国各地にバランスよく配置されることにも繋がりますよね。
池田:
そうですね。私の恩師も東京都出身なのですが、こちらの制度を利用して招聘され、国体終了後に指導者として山形県の教員に採用された方なんです。
小松:
何という方なのでしょうか?
池田:
元フェンシング日本代表の小原秀樹先生です。山形県立米沢興譲館高等学校時代に小原先生から学んだ技や戦術が、後々まで私を支える武器になりました。

東:
べにばな国体をきっかけに優秀な選手であり指導者が山形県で活動するようになり、後に池田さんというオリンピック選手を生んだわけですね。
小松:
そして、その池田さんが、現在は後進の育成を始めとする山形県内のスポーツの発展に貢献なさっている。素晴らしい恩返しをなさっていますね。
アンチ・ドーピングを教育・啓発する意味
東:
続いて、JADAでのお仕事についてもお聞かせください。
どのようなきっかけでJADAに関わることになったのでしょうか?
池田:
筑波大学大学院から面識のあった河野一郎先生(日本アンチ・ドーピング機構理事長)にお声がけいただいて、2001年に設立された当初から関わり始め、アンチ・ドーピングの普及・啓発を担うアスリート委員会が発足した2005年から正式に委員として活動をするようになりました。
小松:
JADAアスリート委員会では、どのような活動をなさっているのですか?
池田:
JADAアスリート委員会は年3回開催され、スポーツの未来を創る「ロールモデル」アスリートとして、バルセロナオリンピック柔道銀メダリストで現在日本大学准教授の田辺陽子委員長の下、アテネオリンピックハンマー投げ金メダリストの室伏広治さんなどと一緒に、夏季・冬季・オリンピック・パラリンピック・男女比などが考慮された合計15名で、アウトリーチ活動や、国内外においてスポーツの価値・チカラを発信するプロジェクトの参加、未来のスポーツを担う人材を育成する等、クリーンなスポーツの未来を創るための活動を行なっています。
東:
日本人アスリートはアンチ・ドーピングの分野では、非常に高い評価を得ているそうですね。
池田:
そうですね。ただ、日本はドーピング違反件数が他のスポーツ先進国に比べて少ないので、自分には関係ないと思っている日本人アスリートが多いという現状もあると思います。
違反が少ないという背景には、日本人の倫理観や道徳の部分の影響もあったように感じていますので、今後はなぜドーピングがいけないのかという事だけではなく「なぜ違反をしないのか」という視点を、可能な限り明確化・具体化したいと考えています。
また、ドーピングから守りたいスポーツの価値を可視化する事で、最大化を目指し、アンチ・ドーピング教育の質を今以上に高めて、世界へ広めていきたいと思っています。
小松:
海外ではドーピングの害についてトップ選手ほど理解し、クリーン性のアピールに取り組んでいますものね。ある選手は「知らなければ自分を守れない」とも言っていました。
また、2018年1月に発覚したカヌーの日本代表候補選手がライバル選手の飲み物に禁止薬物を混入させた事件も衝撃的でした。
東:
この事件、もちろん許される行為ではありませんが、禁止薬物を混入してしまった選手が良心の呵責から自ら不正を告白しましたよね。世界的に見るとかなり珍しいケースだと思うのですが…
池田:
海外では、自白するなんてありえない話ですよね。「クリーンな日本でそんなことが起こるのか?」といった驚きの声が海外から聞こえてきました。
この件を受けて「一度開けたボトルには口をつけない」のが世界のスタンダードであることを日本のアスリートは自覚し、今まで以上に身の周りの事に気を付けなければいけないですね。
小松:
まさに日本人ならではの事件だったわけですが、前代未聞の事態として世間に大きな衝撃を与えましたよね。
池田:
今回のケースでポイントになるのが、後になって、いくら「他の選手が入れました」と告白しても、出場した大会の成績は抹消されてしまうということなんです。
例えそれがオリンピックの最終予選だとしても。取り返しのつかないことにならないようにアンチ・ドーピングのルールや、アスリートとしての役割と責務を知っておくことが非常に大切だと思います。
東:
自分の身は自分で守る。つけ入るスキを与えないよう行動するという部分も大切ですよね。

池田:
おっしゃる通りで、海外ではジュニアレベルの大会でドーピング検査があり、日本においても、国体で既にドーピング検査は実施されていますので、早ければ中学生、そして高校生もドーピング検査対象となる場合があります。
なので、若年層への教育・啓発活動にも力を入れているところです。
小松:
どのような活動をなさっているのでしょうか?
池田:
アンチ・ドーピングのルールに関して網羅している「PLAY TRUE BOOK」を活用して、なぜドーピングが悪いのか、ドーピング違反にならないために、アスリートとしてするべき適切な行動とは何か、などについて、自ら考え、理解し、行動に移してもらえるような教育活動を実施しています。
東:
アンチ・ドーピングのみならず、アンチ・ドラッグにもつながる素晴らしい活動ですね。
池田:
「PLAY TRUE BOOK」は、ロシア語に訳されたものが、ロシアでのアンチ・ドーピング教育に活用されるなど、世界的にも高い評価を得られていますし、日本のアンチ・ドーピングに関する教育プログラムや教育ツールを世界的に広げていくPLAYTRUE2020プロジェクトも進んでいるなど、この分野で日本が果たす役割は大きいのではないかと感じています。
小松:
過去のドーピングが明らかになることで、リスペクトしていたアスリートが全てを失ってしまうなんて、こんなに悲しいことはありません。
記録やメダルだけではない本質的なスポーツの価値を守るために、池田さんのようなオリンピアンが活動なさっていることはとても大きな意味があると思います。
東:
今回のインタビュー企画は、アスリートが競技生活を終えた“その後の人生”に迫るものですが、ドーピングは、何のためにスポーツをするのか、スポーツを通じてどういう人生を送り、どんな人間になりたいのかという、スポーツやアスリートの本質的な価値を考えるうえで非常に適したテーマなのではないでしょうか。
池田:
そうですね。日本と海外ではメダルを獲得した際の報奨が大きく異なる等、スポーツや勝負に対する価値観はそれぞれですが、大事にしなければいけないスポーツの本質的な価値は世界共通だと思いますので、日本人アスリートのクリーンさや教育活動によって、世界のスポーツ界に貢献出来れば素晴らしいと思います。
小松:
山形県スポーツ協会やJADAでのお仕事など、現在の活動についてお話を伺ってまいりましたが、フェンシングとの出会いから競技生活について聞かせていただきます。

東:
宜しくお願い致します。
池田:
宜しくお願いします。
小松:
山形県スポーツ協会やJADAでのお仕事など、現在の活動についてお話を伺ってまいりましたが、フェンシングとの出会いから競技生活について聞かせていただきます。
オリンピックに出たい!
東:
まずはフェンシングを始めたきっかけから聞かせていただけますか?
池田:
フェンシングを始めたのは高校からです。中学生の頃は陸上部に所属して三種競技(走高跳、100m、砲丸投の記録を得点に換算し、3種目の合計得点を競う中学生を対象とした混成競技)に取り組んでいました。
山形県大会と東北大会で優勝していたのですが、中学を卒業する時にやめてしまったんです。
小松:
なぜ、東北大会で優勝するくらいの実力があったにも関わらず陸上をやめられたのでしょうか?
池田:
このまま陸上を続けていてもオリンピックには出られないと感じたからです。
東:
中学生の頃からオリンピックを目指して競技に取り組まれていたのですか!
池田:
オリンピックへの思いは、5歳の頃にテレビで1984年に開催されたロサンゼルスオリンピックの入場行進を見て「私もここに行きたい!」と強烈に感じたのが始まりです。
無理矢理テレビの中に入ろうとして家族に叱られていたくらいで(笑)
成長するにつれて、オリンピックにはテレビの中に入るのではなく、スポーツで結果を出して出場するものだと理解して、父親が学生の頃にやっていた陸上競技に取り組むようになったんです。
小松:
中学では東北大会で優勝なさっていたわけですから、そのまま高校でも続けるという選択肢は無かったのでしょうか?
池田:
同じ山形県の一学年下に、後に走り幅跳びで北京オリンピックに出場する池田久美子(現・井村)選手がいて、合同合宿で一緒に走る機会があったのですが、めちゃめちゃ速くて。
本能的に「これは敵わないな」と感じて、陸上でオリンピックに出場することはあきらめて、中学まででやめることにしました。
東:
なるほど。陸上にはあくまでオリンピックに出場するための手段として取り組まれていたわけですものね。
池田:
もちろん陸上も楽しかったですし、私の夢はオリンピックの開会式で入場行進をすることでしたので一生懸命に取り組んでいたのですが、無理かもと思った瞬間、不安になってしまって、挑戦をする前からダメだと決めつけて、夢に蓋をしました。

フェンシングとの出会い
小松:
中学を卒業後、日本最古の公立高校であり、山形県内でもトップクラスの進学校である山形県立米沢興譲館(こうじょうかん)高等学校に進学なさいましたね。
池田:
最初は自転車で通える近所の高校へ進学しようと思っていたんです。興譲館は父親の母校で、2歳年上の姉も通っていたのですが、あまりにも自宅から遠かったので。
東:
どのくらい遠かったのですか?
池田:
自宅の最寄駅である赤湯までが自転車で20分。電車で学校の最寄駅の米沢まで30分。さらにそこから学校まで自転車で30分で、冬場だと片道約2時間かかるんです。
高校3年間、往復4時間かけて通うのはきついなあと迷っていたのですが、父親に相談したところ「将来の選択肢を広げるためには進学校に進んだほうがいい」とアドバイスをくれて。
確かにそうだと納得して興譲館への進学を決めました。
小松:
池田さんのお父様はお医者様ですから、将来はそちらの道に進んでほしいとの思いもあったのかも知れませんね。
池田:
あったと思います。
東:
高校で、数ある競技の中からフェンシングを選んだ理由は何だったのでしょうか?
池田:
姉がフェンシング部だったこともありますが、直接のきっかけは顧問の先生に誘われたからです。
小松:
元日本代表選手の小原秀樹先生ですね。
池田:
はい。入学したばかりの頃に突然教室に入ってきて「原田(旧姓)めぐみって、いるかあ〜?」と廊下に連れ出されて「フェンシング、やってみないかあ〜?」と誘われたんです。
東:
いやいや、モノマネされても似ているかどうか分からないですから(笑)
小松:
小原先生に直接スカウトされたのですね。
池田:
そうなんです。私の陸上競技での成績を知って「フェンシングをやらせてみたい!」と思ったそうで。最初はあまり乗り気じゃなかったんです。
フェンシングはもちろん、特にスポーツをやりたくて高校に入学したわけではないですし、「全身タイツみたいでかっこ悪い」とも思っていましたから(笑)
小松:
メタルジャケットが全身タイツに見えていた(笑)
池田:
そうなんです(笑)ただ、小原先生との会話の中でフェンシングがオリンピック種目だと聞いて、運命を感じたんですね。
陸上競技を辞めて、オリンピックに出場したいという夢に蓋をしてからは、父親のような医師になりたいとも考えていたのですが。
東:
オリンピックへの夢が再びよみがえったわけですね。フェンシングを始めてみて、いかがでしたか?
池田:
最初は「剣を使うって何なの?」から始まって、半年くらい経った時に面白さが分かり始めて、夢中になりました。

小松:
どんな部分が面白かったのでしょうか?
池田:
陸上競技は自分との戦いですが、フェンシングは相手との戦いで、なかなか思うようにいかないところがたまらなく面白くて。
前世は決闘を仕事にしていたのかもと思うくらい戦うことが好きで、高校時代はフェンシング一色の日々を過ごしました。
東:
小原先生の指導との相性も良かったそうですね。
池田:
小原先生は「ああしろ、こうしろ」と指図することも「どうして出来ないんだ?」と怒ることもなくて、常に「どうすればいいと思う?」と、生徒に問いかけて、自ら考えさせるように指導してくださいました。
私は納得出来るような説明がなかったり、意味が分からないのに指図をされるのが大嫌いなのですが、小原先生は目先の結果だけを見るのではなく、将来を見据えた指導をしてくれたので、心身ともに日々成長出来ていることを実感出来て、とても気持ちよく過ごせました。
小松:
素晴らしい指導者に巡り合えたのですね。
池田:
高校時代に様々な角度から「フェンシングだけが人生じゃない」ことを学べたのは小原先生のご指導のおかげですし、現在にも非常に活きています。
東:
小原先生の薫陶を受けた池田さんは、高校3年生時のインターハイで4位入賞という好成績を残したことで、東京女子体育大学からスカウトされたそうですが、お父様からは猛反対されたそうですね。
フェンシングで食べていけるのか?
池田:
京都でのインターハイを終えて、山形に戻った後に大学から「返事をください」と催促されて、小原先生も交えて家族会議をしたんです。
当時は反抗期で親とあまり口も利いていなかったのですが、進学に関してはそういうわけにもいかないですから「オリンピックを目指すために東京女子体育大学に進学してフェンシングを続けたい」と伝えたところ大反対されて。「一体何を考えているんだ?!」と。
小松:
怒られたのですか?
池田:
怒るというより、呆れられました(笑)
東:
確かにインターハイ4位は素晴らしい成績ではありますけれど、オリンピックに出場するにはまだまだ遠いですからね。

池田:
優勝しているならまだしも、全く見えないですよね。
東:
また、オリンピアンになれたとしても、医師であるお父様からすれば「フェンシングでは食べていけないだろう?」とも考えられたのでしょうし。
池田:
同じことを言われました。体育の教員免許を取得出来ることも伝えたのですが、それでも納得してはもらえなくて。
小松:
ご両親としては、医学部のある大学に進んで、医師の道を選んでほしかったのでしょうか?
池田:
そうでしょうね。私自身、インターハイが終わるまでは、理系の大学への進学を考えていましたし。
でも、インターハイで4位になれた時に「このままフェンシングを続けていれば、オリンピックに行ける!」と直感したんです。
せっかく夢に見た未来への道筋が見えてきたので、もう少し頑張りたいと思って説得を続けたのですが、なかなか許してもらえず、家の空気も殺伐としてしまいました。
東:
この先の人生を大きく左右する選択ですものね…僕も娘を持つ父親ですので、娘の幸せを一番に願う池田さんのお父様が安定した生活を望む気持ちも分かるような気がします。
池田:
いよいよ大学への返答期限が迫ってきた時に、父が条件を出してきたんです。
一つは大学院に進むこと。もう一つは必ずオリンピックに行くこと。この二つの約束を守れるのなら、東京女子体育大学でフェンシングを続けてもいいと。
小松:
娘の夢を応援すると同時に、フェンシングとは違う道も選べるようにしっかり勉強もしなさいという条件ですよね。
池田:
当時の父は、自分の中の「こうあるべき」を私に押し付けていたという気持ちがあったのだと思います。
でも、話し合いを続けていく中で、私のフェンシングにかける想いが本物だと伝わったからなのか、心配してくれたからなのか…単に納得したのでは癪に触るから条件を出したようにも感じますけどね(笑)
東:
いえいえ。お父様の深い愛情を感じます。
小松:
その後、東京女子体育大学に進学なさった池田さんは、大学一年生で20歳以下の日本代表に選ばれ、世界ジュニア選手権に出場。
前十字靭帯断裂などの怪我に苦しみながらも、大学4年生で日本代表に選ばれるなど順調に夢への道を歩み続けます。
東:
世界の壁を乗り越えるために単身欧州に渡って武者修行をし、いよいよ夢のオリンピックに出場したお話から伺ってまいります。
小松:
楽しみです!宜しくお願い致します。

池田:
宜しくお願いします。
小松:
フェンシングとの出会いから日本代表選手になるまでのお話を伺いましたが、最終回となる今回は、世界の壁を乗り越えるために単身欧州に渡って武者修行をし、いよいよ夢のオリンピックに出場したお話から伺ってまいります。
後悔しないように
小松:
家族の大反対を押し切って、大学院に進むことと、必ずオリンピックに行くことを条件に東京女子体育大学へ進学なさった池田さんは、大学4年生で初めて日本代表に選出。
本格的に世界と戦うことになったわけですが、当時は高く厚い壁を感じられたそうですね。
池田:
日本代表選手になることで、ようやくオリンピックを現実的な目標として捉えられる立場にはなれたのですが、世界では全く歯が立たなくて。
もっと強くなるためには“本物”に触れなければいけないと考えて、大学を卒業した後に一年間アルバイトをして貯めたお金と親から援助してもらったお金でハンガリーに渡って、武者修行をすることにしました。
東:
どうしてハンガリーだったのでしょうか?
池田:
直近のシドニーオリンピックで金メダルを獲得したのがハンガリーの選手だったので。
世界一の選手と過ごせば強くなれるだろうと考えて、同じクラブチームに入るために現地の日本人会やハンガリーのフェンシング協会、クラブチームに連絡して、入学したばかりの筑波大学大学院を休学してブダペストのアパートに引っ越しました。
小松:
入学したばかりの大学院を休学して、単身海外に住んで武者修行をするなんて、考えることは出来たとしても、実際にはなかなか出来ないことだと思います。
池田:
後悔したくなかったんです。大学院での勉強はオリンピックが終わってからも出来ますし、後で振り返った時に、「あの時ハンガリーに行っていれば」とは絶対に思いたくなくて。
東:
もの凄い決断力と行動力をお持ちですよね。ハンガリーにはどのくらいの期間滞在なさったのでしょうか?
池田:
2003年の春から一年間、ブダペストのクラブチームに通って、ハンガリー代表チームとも練習させてもらいながら、オリンピック出場に必要なポイントを獲得するために欧州各地で開催されているワールドカップを転戦しました。
思うように勝てなかったり、怪我に苦しんだりと様々な挫折も経験しましたが、大きく成長出来たと思います。
テレビに入れた!
小松:
迎えた2004年、アテネオリンピックの開会式が開催されたギリシャ・アテネのオリンピックスタジアムにフェンシング日本代表選手として参加なさったわけですが、どんな気分でしたか?
池田:
オリンピックへの出場が決まってから、あの“テレビの中”にとうとう入れるんだ!と思うと、興奮してしまって。前日から鼻血が出そうでした(笑)
東:
5歳の頃にテレビでロサンゼルスオリンピックの入場行進を見て「私もここに行きたい!」と、無理矢理テレビの中に入ろうとして母親に叱られていた少女が、とうとう夢の舞台に立ったわけですものね…
池田:
スタジアムに入場した時のもの凄い歓声と桁違いの振動は一生忘れられないです。あの時、テレビの中で行進していた選手たちはこの風景を見ていたのだと思い、感慨深かったです。

小松:
ご両親も喜ばれたでしょうね。
池田:
両親は、それまで一度も私の試合を見に来たことがなかったのですが、アテネには応援に来てくれて。まずは一つ約束を果たせたと思いました。
“本質”を追求する
小松:
アテネオリンピックを終えた池田さんは、筑波大学大学院に復学なさって、研究活動をしながら4年後の北京オリンピックを目指すことになります。
大学院では、何を専攻なさっていたのでしょうか?
池田:
体育研究科体育方法学専攻の諏訪伸夫教授の研究室で、スポーツ行財政領域のリスクマネジメントを専攻しました。
東:
リスクマネジメントは、リスク(悪い事象が起こる可能性)を組織的に管理して、損失や事故の回避や低減を図るプロセスのことですよね。研究対象は何だったのですか?
池田:
研究対象はフェンシング選手としての自分です。
リスクマネジメントのメソッドをフェンシングに応用して、競技を続ける上での様々なリスクを想定し、それらを回避するための情報を集めて、実際に一つずつ潰していくことで、ハイパフォーマンスを獲得するために必要な行動を明確にすることが出来ました。
小松:
ご自身のパフォーマンスをどのように向上させるのかを研究なさったのですね!
東:
競技力を向上させるための方策をロジカルに研究してきたご経験は現在のお仕事にも役に立っているのではないでしょうか?
池田:
そうですね。大学院での研究を通じて身につけた情報収集やタイムマネジメントの方法、ネットワークの築き方などは、仕事を進める上での重要なコンピタンス(課題を解決する能力や技術)として現在でも役に立っていますし、何事においても“本質”を追求する姿勢を持てたことは人生の財産になりました。
小松:
“本質”を追求する姿勢、もう少し詳しく聞かせていただけますか?
池田:
シンプルに言えば、“何のため”にやっているのかを突き詰めるということですよね。
フェンシングでも、仕事でも、子育てでも、何かに取り組む時にはそこに必ず“目的”が存在します。
目的を達成するためには、失敗や間違いを恐れて行動しないのではなく、失敗や間違いを活かして前に進んでいくことが求められます。
大学院での研究を通じて、細かい部分を見るのではなく、まずは大きなビジョンを描いて、それを実現するためのストラテジー(戦略)を立て、実行計画に落とし込み、実際に行動していくというHOW TOを学ぶことが出来ました。
東:
多くのトップアスリートが、競技を通じて“本質を追求するスキル”を身につけていると思うのですが、言語化出来ている人は少ないように感じます。
池田:
同感です。もったいないですよね。言語化出来ればもっと多くの方々に自らの経験を共有することが出来るようになると思うのですが。
小松:
池田さんの高校時代の恩師である小原秀樹先生は、まさに言語化が出来て、本質を追求なさっている指導者だったように感じます。
小原先生のご指導を受けてきた影響も大きかったのではないですか?
池田:
おっしゃる通りです。
突然の引退
小松:
自らを研究対象とすることで、さらなるパフォーマンスの向上を実現させた池田さんは、2008年に開催された北京オリンピックに2大会連続で出場。
女子エペ個人で日本人過去最高の15位という成績を残し、翌2009年は結婚のため一時休養なさいましたが、復帰後に2010年に広州で開催されたアジア大会に出場。
団体での優勝に大きく貢献するなど選手としての全盛期を迎えました。当時、凄い選手が出てきたと胸が高鳴ったのをはっきりとおぼえています。
池田:
ありがとうございます。素晴らしい仲間やトレーナーにも恵まれて、満足のいく研究成果を残すことが出来ました(笑)
東:
三大会連続となるロンドンオリンピックに向け、順風満帆に過ごしていた2011年の夏。
病魔が、池田さんを襲いました。

池田:
7月に韓国で開催されるアジア選手権に向けて、自分のコンディションを客観的に把握するために、起床時の身長、体重、脈拍などを記録していたのですが、年明けくらいから何となくデータに違和感を感じていて。
大会に向けて調整していても、身体は重たいし、メンタルも上がってこない。おかしいなと思いながらも何とか大会を終えて、韓国から帰国するための飛行機の中で胸にしこりがあることに気づいて。
「やばい!」と直感しました。空港からそのまま病院に直行し、診察を受けたところ「乳がん」、しかも悪性だということが分かって、引退を決意しました。
小松:
当時、31歳。競技人生の集大成となったであろう3度目のオリンピック直前でしたから、ショックも大きかったでしょうね…
池田:
私自身は意外と早く切り替えられたんです。ひとしきり泣いたら、あとは「剣を握っている場合じゃない!命を拾いに行かないと!」みたいな(笑)
ただ、家族、特に父にとってはまさに青天の霹靂だったようで、私より落ち込んでしまって。生気が抜けてしまったようにガックリきていましたね。
東:
お父様のお気持ち、お察しします。
池田:
その後、父が勧める地元の先生に診察してもらったのですが、何とその先生が高校時代のフェンシング部の後輩のお父さんで。
色々な運命を感じながら、手術もその後のリハビリも無事に終えて、こうして元気に暮らさせていただいています。
小松:
現在でも、毎年検査はなさっているのでしょうか?
池田:
はい。もともと乳がん検診なども実施していた父に毎年検査してもらっています。
今年も宜しく!って(笑)
東:
なるほど!
父に…検査してもらっていると。
池田:
よく我慢出来ましたね(笑)
乗り越える力
東:
引退に際して、周囲の反応はいかがでしたか?
池田:
引退の理由を所属先に伝えたところ、病名などを発表するかどうかは私に一任すると言われて、最初は単なる体調不良を理由にしていたんです。
小松:
あまり触れられたくはない部分でしょうからね。
池田:
ただ、病名を公表することで伝えられることがあると感じたんです。
東:
何を伝えられると感じたのでしょうか?
池田:
スポーツの“本質”です。私は“乳がん”という病気で、大好きなフェンシングを引退しなければならないという困難に出会いましたが、必ず乗り越えられると信じています。
なぜなら、これまでフェンシングというスポーツを通じて、様々な困難を乗り越えてきた経験があるからです。その時は確かに辛いですが、後々、乳がんになって、乗り越えられてよかったと思えるように人生を歩みたい。
そんな風に考えられるようになったのは、本気でスポーツに取り組んできたからです、と、この機会だからこそ伝えられるのではないかと感じて、引退会見を開くことにしたんです。
小松:
自らの引退会見を、フェンシングを通じて、剣で突いたりかわしたりするのが上手くなったのではなく、困難に挫けず乗り越えて、たくましく生きていくための“力”を身につけられたことこそが“スポーツの本質”だということを、多くの方々に伝えるための機会になさったのですね。
東:
また、若年層における乳がん検診の重要性について啓蒙する機会にもなったと思います。
先日、白血病にかかっていることを公表なさった競泳の池江璃花子選手のように、トップアスリートは大きな発信力をお持ちですから。
小松:
勇気をもって発信なさったことを心から尊敬します。

人生のリスクマネジメント
東:
引退後に直面した困ったことがあれば、お教えいただけますか?
池田:
特には無いんですよね。選手を引退したからといって、仕事が無くなったわけでもないですし。現役時代から幼稚園で先生をしたり、日本アンチ・ドーピング機構(以下、JADA)の活動に携わったりしていましたので。
小松:
もともとフェンシング一本に絞っていたわけではなかった?
池田:
私にとって、人生で頑張っていることの一つがフェンシングだったんです。
フェンシングだけで人生を豊かに出来るとは思っていませんでしたし、フェンシングしかやりたくないというわけでもありませんでした。
だから、突然フェンシングが出来なくなったからといって、特に困ることもありませんでした。もちろん、続けられるうちは続けたかったですが。
東:
アスリートはもちろん、ビジネスパーソンも一つの仕事だけに集中して生きていくことがハイリスクな時代になりました。軸となる仕事を持ちながらも、様々な活動をパラレルにしておくことが非常に重要だと感じますね。
池田:
人生のリスクマネジメントですよね。私は現役の頃から引退後もアンチ・ドーピングの活動は絶対に無くならないと思っていましたし、より重要視される時代が必ず来ると確信していました。実際にロシア問題(※注1)が起きて、世界的に注目度が増しましたよね。
自分の得意分野を軸に、今後どのような仕事が求められていくのか、また、その仕事に携わるためにはどんなスキルやネットワークが必要なのかを考えながら行動していくことが大切なのだと思います。
注1:ロシアが国ぐるみで競技選手のドーピングに関わってきたことが発覚し、同国選手がオリンピックや国際大会へ出場することが禁止となった問題。2016年のリオデジャネイロ・オリンピックでは陸上や重量挙げなどの有力選手を含む百名以上が出場禁止となり、パラリンピックではロシア選手団が全面的に参加停止とされる事態に至った
小松:
素晴らしい先見の明をお持ちですよね。さて、ここで改めて現在の池田さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめてみます。山形県スポーツ協会は選手時代からの所属先ですので親会社勤務、JADAや日本フェンシング協会などのお仕事が競技団体運営で「B」の領域、山形大学の非常勤講師や講演のお仕事は「C」の領域となりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
東:
ご自身でお話なさっているとおり、“スポーツ”を軸に幅広い領域でお仕事していることが分かります。
それでは、最後のお願いになります。フェンシングという競技名を使わないで、自己紹介をしてください。
池田:
まだ見習いレベルですが“楽しく生きる職人”になりたいです。どんな風に過ごせば楽しいのかを突き詰めて、家族や仲間たちと毎日笑顔で生きていきたいです。
東:
池田さんは、自分自身が楽しく生きているだけではなく、周囲も思いっきり楽しませてくれますから、すでに立派な職人だと思います。
小松:
本当に池田さんといると楽しいです(笑)
アンチ・ドーピングについても書いてみたくなりました。
池田:
是非お願いします!現在、アンチ・ドーピングに関してのメッセージ動画を作成中で、色々な方々にインタビューをしているのですが、言語化能力の高いアスリートがとても増えてきていますし、今後のスポーツ界にとっても大きなテーマになると思いますので。
東:
小松さんがどのようにアンチ・ドーピングについて書かれるのかもとても楽しみです。
本日はお忙しいところ貴重なお時間をありがとうございました。

池田:
こちらこそありがとうございました。
(おわり)
編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。
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