2025.01.26
アスリートの力を介護に活かす ホッケー日本代表・小野真由美
Profile
小野真由美(おの・まゆみ)
1984年8月14日生れ。富山県小矢部市出身。
小矢部市立大谷中学校→富山県立石動(いするぎ)高等学校→天理大学→コカ・コーラウエストロジスティック(株)→SOMPOケア(株)
2008年北京オリンピックと2016年リオデジャネイロオリンピックへ出場。
アジア大会には5大会出場し、2018年のアジア大会で初優勝に貢献。
10歳でホッケーを始め、小矢部市立大谷中学校では全国優勝。富山県立石動(いするぎ)高校在学時にもインターハイや国体などで活躍する。2006年、天理大学4年時に主将として日本リーグ優勝。2007年から2017年まで、コカ・コーラウエストレッドスパークス(現コカ・コーラレッドスパークス)に所属し、三度の日本リーグ優勝に貢献。2017年2月~7月、オーストラリアWesley South Perth Hockey Clubへ留学。現在はSOMPOケア株式会社の広報部に所属しながら、日本代表選手として活動するとともに慶応義塾大学女子ホッケー部のコーチを務めている。
東:
今回は、ホッケー女子日本代表として2008年の北京オリンピックと2016年のリオデジャネイロオリンピックに出場なさった小野真由美さんにお話を伺います。
小松:
小野さんはリオデジャネイロ大会に出場した後、一度は選手を引退なさいましたが、2017年に再び現役に復帰。
2018年8月にインドネシア・ジャカルタで開催された第18回アジア競技大会では自身5度目の出場にして初めて金メダルを獲得。
現在、2020年の東京オリンピック出場を目指してトレーニングを重ねている女子ホッケー界のレジェンドです。
東:
現在はホッケー選手としての活動のみならず、SOMPOケアで広報部員として勤務する他、慶応義塾大学女子ホッケー部のコーチを務めるなど幅広いご活躍をなさっています。
小松:
現在の小野さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、現役選手としての活動とは別に、SOMPOケアでのお仕事が親会社以外勤務で「C」、慶應義塾大学女子ホッケー部のコーチが「B」の領域ということになりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
小松:
今回は、オリンピックを目指す“トップアスリート”としての生活から、現在携わっておられるお仕事の内容、未来へ向けた想いに至るまで様々なお話を伺ってまいります。
INDEX
自らのバリューを“広報”に活かす
小松:
最初に、現在小野さんが勤務なさっている企業でのお仕事について伺ってまいります。
まずはSOMPOケアがどのような会社なのかご説明いただけますでしょうか?
小野:
SOMPOケアは損害保険を中心に扱うSOMPOホールディングスのグループ企業です。
主な事業内容は有料老人ホーム・サービス付き高齢者向け住宅・グループホームの運営、居宅サービスで、私は広報部に所属して社内報の作成や広告塔としての業務を担当しています。
東:
2018年7月にSOMPOケア(旧SOMPOケアメッセージ)、SOMPOケアネクスト、ジャパンケアサービス、プランニングケアの4社が合併して出来た在宅介護から施設介護までをワンストップでご相談出来る「介護の総合ブランド」と言える企業ですよね。
小松:
超高齢化を迎えている日本において今後ますます必要とされ、伸びていく企業ですね。
続いて、小野さんのお仕事の内容について、もう少し詳しくお聞かせてください。
小野:
社内報については記事を執筆するためにお客様への取材をしています。
実際に施設を訪れて写真を撮影し、入所なさっている高齢者の方々から伺ったお話を元に文章を書いて記事にし、社内に広報しています。
東:
なるほど。“広告塔”としての業務はどのような内容なのでしょうか?
小野:
会社の運営する有料老人ホームで一日ホーム長を務めたり、メディアやご利用者様からの取材への対応などです。

小松:
オリンピアンであり、2020年の東京オリンピックを目指す現役のトップアスリートが介護施設を訪問したり、一日ホーム長を務めたりしていることはメディアバリューが大きく、会社の内外で企業や業界のイメージを向上させることに繋がりますね。
東:
自らの持つパーソナリティーで企業のイメージアップに貢献する。小野さんはアスリートを雇用する際に企業が求める“バリュー”をしっかりと提供なさっています。
日本の課題に直面出来る仕事
小松:
小野さんは一度引退する2017年までは10年間に渡り、コカ・コーラウエストレッドスパークス(現コカ・コーラレッドスパークス)に所属し、介護とは異なる業務をなさっていたわけですが、現在のお仕事の印象はいかがでしょうか?
小野:
日本が直面している超高齢化という課題に直面出来る仕事だと感じています。
現在の仕事に就く前にも、国の大きな問題だと認識はしていましたが、実際に高齢者の方々と触れ合っていく中で自分自身の意識が変わったと感じます。
東:
例えばどういった部分でしょう?
小野:
そうですね、高齢者の方々の目線に立って様々なことを考えられるようになりましたし、困っていそうな方がいらしたら声をかけられるようにもなりました。
仕事を進めていく中で高齢者の方々と触れ合い、不便なことを知ることが出来たので、以前は少し恥ずかしい気持ちもあってなかなか声をかけられないこともありましたが、現在は困っていそうな方がいらしたら自然にお声がけし、対応することが出来るようになりました。
小松:
これまでとは異なるお仕事をなさったことで視野が広がり、“気づき”が生まれ、行動することが出来るようになられたのですね。
東:
介護施設やサービスの充実を始め、高齢者にとって過ごしやすい環境を整備することは、現在の日本が抱える最も重要な社会課題の一つであることは間違いありません。
もちろんビジネスとしても大きな注目を集めていますし、多くの企業やNPOが事業として展開しようとしていますが、なかなか上手くいかない面もあるようです。
そんな状況の中、SOMPOホールディングスグループのような大企業だからこそ実現出来ることもあると思いますので、大変なことも多いとは思いますが、非常にやりがいのあるお仕事なのではないでしょうか?
小野:
そうですね、大きな企業だからこそ出来る部分も正直あると思います。
SOMPOケアは関東と関西に研修施設を所有しており、そこで実習をしたり、必要な資格取得を支援してもらえる制度が充実していますし、今後は外部にも開放していくビジョンもあるようです。
小松:
充実した施設や研修制度を自社で独占するのではなく、外部にも開放することで介護やヘルスケアビジネスの市場全体を広げようとなさっているのですね。
小野:
はい、2019年2月には介護サービスの現場に“ICT”や“ロボット”、“センサー”などのテクノロジーを活用し、「人間」と「テクノロジー」の共生による新しい介護のあり方を創造するプロジェクト「Future Care Lab in Japan」を始動し、国内外の最新テクノロジーの実証などを行う研究所も開設しました。
東:
介護サービスの現場は、最もテクノロジーを活用出来る領域の一つですよね。
様々な事務作業に“ICT”を活用し、力仕事は“ロボット”に、高齢者自身も気づけないような身体の変化の把握は“センサー”に任せて、人間にしか出来ないことを介護士が担うようになっていけば、より魅力的なビジネスになり、多くの人が集まるのではないでしょうか。
小松:
利用者ご自身が感じても、介護スタッフに伝えられないような生理現象とか体の変化をセンサーで示せるようにもなりますよね。
そういうテクノロジーによって介護事業はどんどん変わっていくと思います。
今は敬遠されがちかもしれませんが、もっと受け入れられるようになれば、介護の現場が大きく変わってきますね。

小野:
おっしゃるとおりで、介護の現場では人がコミュニケーションをしたほうがいい部分と、人とコミュニケーションするのが恥ずかしい部分とがあるので、うまく組み合わせて進めていくことが大切だと思います。
応援者を増やす
東:
また、介護のお仕事では直接的な顧客である高齢者の方々はもちろん、ご家族の方々など幅広い世代の様々な立場の人々と接することによって人間の心理を洞察、理解することを求められますよね。
小野:
そうですね、常に何が望まれていて、何が助けになるのかを考え、相手を思いやらなければならない仕事だと思います。
東:
そういった部分も含めて、僕はアスリートが仕事を続けながら競技に取り組む“デュアルキャリア”を進めていく上で、介護に関わる仕事に大きな親和性を感じています。
小松:
チームメイトや対戦相手の心理を洞察、理解するスキルや経験を身につけられる仕事としての親和性ということですか?
東:
もちろんそれもありますが、現役のアスリートが介護現場で勤務し、高齢者やそのご家族の方々と接することで自らと競技を知ってもらい、ファンになってもらえれば、会場に足を運んだり、ファンクラブの会員になってもらえるのではないかと。
介護施設の顧客である高齢者の方々は経済的に余裕のある方も多いですから、そのような方々に時間とお金を遣ってもらえるようになれば、競技の普及にもつながるのではないかなと思います。
小松:
アスリートの持つ強いフィジカルと高いコミュニケーション能力を活かしながら、競技の普及にも繋げられるわけですね。
東:
はい、応援して貰える人を増やすことが出来る仕事なので、様々なシナジーを生めるのではないでしょうか。
小野:
これまであまり考えたことがありませんでしたが、確かに親和性が高いかも知れませんね。
東:
いつも施設でお世話になっている方がオリンピックを目指して頑張っている現役のトップアスリートだったとしたら、僕なら絶対応援に行きますし、ファンクラブにも喜んで入会すると思います。
小松:
2020年、東京オリンピックの試合会場に小野さんを応援するために介護施設のお客様が多数駆けつけるのが楽しみですね!
また、今後、競技生活を続ける上で介護のお仕事をしながら“デュアルキャリア”を歩むことが多くの選手の選択肢に入るようなロールモデルにもなっていただきたいです。

東:
アスリートの強みを活かし、日本が抱える社会課題の解決に貢献するとともに、介護施設で働くことで競技の普及発展に貢献するモデルを確立出来ると素晴らしいですよね。
崖をのぼる
小松:
現在はSOMPOケアでのお仕事をしながら現役選手として活動なさっている小野さんですが、リオデジャネイロオリンピック終了後には、一度選手生活にピリオドをうたれています。
引退してから現役復帰までは、どのくらいの期間があったのでしょう?
小野:
2016年12月に引退し、2017年の年末に復帰したので、約一年です。
東:
なるほど。一年間休んで、復帰して一年が経過したということですね。
※2019年2月13日に取材
小野:
そうですね。早い!(笑)
小松:
一度引退なさってから復帰するまでに最も苦労なさったことがあればお教えいただけますか?
小野:
あっという間に筋肉が落ちてしまったのには驚きました。一時は大分痩せてしまったのですが、復帰後に7kgの増量に成功しました(笑)
小松:
引退後に太るのではなく、筋肉が落ちることで痩せてしまったのですね!
いかに激しいフィジカルトレーニングに取り組まれていたのかが分かりますね…
東さんも引退なさってから痩せられましたか?
東:
僕は引退後に大学院に入学したのですが、痩せたというか、勉強のしすぎでやつれました(笑)
筋肉はつけるのには多くの時間と努力を必要とするのに、落ちる時はあっという間なんですよね。
小松:
フィジカル面一つとってみても、トップアスリートの世界を一度離れて、再び戻ることは並大抵の覚悟で出来ることではありません。
崖を登るような気持ちだったと思いますが。
小野:
正直なところ、現在も葛藤している状態です。環境も以前とは違いますから。
東:
現在は特定のチームに所属していないとのことですが、トレーニングはどのようになさっているのですか?
小野:
主に東京都北区の味の素ナショナルトレーニングセンターで、フィジカル面を中心に取り組んでいます。
小松:
ホッケーのトレーニングは日本代表チームでしか出来ないのでしょうか?
小野:
はい。日本代表チームのアンソニー・ファリー監督からは、もっとホッケーの練習量を増やすようにと言われているのですが、なかなか難しいのが現状です。
東:
チームメイトとの年齢差も大きいと伺いましたが。
小野:
最年少の選手は18歳。私とは15歳離れているのでギャップはありますが、それも楽しむようにしています(笑)
小松:
SOMPOケアでのお仕事と現役ホッケー選手としての二足の草鞋で2020年東京オリンピックを目指している小野さん。
ホッケーとの出会いから引退、復帰に至るまでのお話を伺ってまいります。

東:
ホッケーとの出会いから日本代表としてオリンピックに出場し、引退し、復帰に至るまでを伺ってまいります。
小松:
小野さんがトップアスリートとしてどのようなご経験をなさってきたのか。まずはホッケーとの出会いから聞いていきたいと思います。
ホッケーの街・小矢部
小松:
小野さんが最初に取り組んだスポーツはサッカーだったそうですが、どのようにしてホッケーに出会ったのかお教えいただけますか?
小野:
はい、小学生の頃に父と兄の影響でサッカーを始めたのですが、高学年になるとサッカーを続けられる環境が無くなってしまって…
東:
何があったのでしょう?
小野:
私が入団していたスポーツ少年団では、4年生までは男女混合でプレーすることが可能だったのですが、5年生になると女子だけがプレーするチームへ行かなくてはならず、面白くなくなっちゃったんです(笑)
その頃、私の友だちは男子ばかりで、髪型も男の子のようでしたから、女子だけの世界には馴染めなかったんですね(笑)
小松:
現在の小野さんからは想像もつかないです!
東:
なでしこジャパンでご活躍なさった澤穂希さんは、小学生の頃に地元に女子サッカーチームが無く、年上の男子ばかりの中でプレーを続けたことで、実力を向上させていったそうですが、女子のみのチームが存在していたことが、逆に小野さんをサッカーから遠ざけることになってしまったのですね。
小野:
そんな時、たまたま「人数が足りないから一緒にやらないか」と誘われて初めてホッケーをプレーしたのですが、スティックでゴールにシュートする爽快感に一気に魅せられました。
また、私が生まれ育った富山県小矢部市は全国でも有数の“ホッケーの街”で、小学校にホッケーのフルコートがありましたし、選手のレベルも高かったので、女子だけのチームでも楽しかったんです。
進学予定だった中学校に女子サッカー部がなく、女子ホッケー部があったこともあり、五年生からホッケーに専念することにしました。
小松:
その後は、小矢部市立大谷中学校4年生時に全国大会で優勝、富山県立石動(いするぎ)高校ではインターハイで準優勝、国体で優勝と大活躍なさいますが、当初は大学でホッケーを続けるつもりは無かったそうですね。
小野:
はい、ホッケーは高校で一区切りをつけて、国立大学に進んで体育の教員になりたいと考えていたのですが、日本代表チームの選考会に出てみないかというお話をいただき、合格してしまったことでやめられなくなりました(笑)
東:
合格してしまったという感じだったのですね(笑)
小野:
最初にお話をいただいた時には大学受験に専念するためにお断りしようとしたのですが、「次の世代の選手のためにも是非経験してきてほしい」と後押しされて、そういう目的ならばと参加したところ…人生における大きな分岐点でした(笑)
小松:
進学先には天理大学を選ばれましたね。何か理由はあったのでしょうか?
小野:
ホッケーが強く、体育の教員免許を取得出来たからです。学生時代はとにかくホッケーを頑張って、卒業後には教員になろうと考えていましたので。
東:
天理大学は男女ともにホッケーの強豪として有名ですものね。
小野さん自身も四年生時に主将として日本リーグで優勝するなど数々の実績を残されましたが、教員免許は取得なさったのでしょうか?
小野:
はい。ただ、高校の教員免許は取得出来たのですが、中学の教員免許は持っていないんです。
中学の教員免許を取得するには介護の実習を受ける必要があったのですが、試合の関係で受けることが出来なくて。

小松:
そんな小野さんが現在は介護のお仕事をなさっているわけですから、人生は面白いですね。
名ばかりの「日本代表」
小松:
高校生で日本代表に選ばれた小野さんですが、代表チームでの生活は決して楽しいことばかりでは無かったそうですね。
小野:
日本代表といっても、高校生から大学3年生までビデオ撮影ばかりでしたから。
東:
そんなに長い間、下積みをなさっていたのですね…
小野:
技術的にもフィジカル面でも日本代表のレベルに達していないことは自分でも理解していたので、合宿に呼ばれることが不思議でした。
大会へ参加してもユニフォームを着るのはチーム全員での写真撮影の時ぐらいで、実際に試合が始まるとビデオを撮影したり、戦評を書いたりしているだけ。
いつもビデオタワーから先輩たちの戦う姿を見ていました。
小松:
日本代表として初めてゲームに出場なさったのはいつですか?
小野:
高校生の時に釜山で開催されたアジア大会ですが、出場時間はたった2分。
スタッフからすれば「一応出しとけ」みたいな感じだったと思います。「ボールを触ったかな?」くらいであっという間に終わってしまいました。
東:
常時試合に出場出来るようになったのはいつからですか?
小野:
大学三年生くらいからですね。
それまではピッチで輝いている先輩たちをビデオカメラ越しに見ながら「いつかこのコートにユニフォームを着て立ちたい」という気持ちで三年間屈辱に耐える日々を過ごしてきました。
この経験がなければ、ホッケーを続けてはいないと思います。
小松:
その時の悔しさが糧になっているのですね。
小野:
現在ではビデオ撮影は専門のスタッフの仕事ですから、私の経験したことは今の選手たちには味わえません。得難い経験をさせてもらったと思っています。
東:
日本代表として召集される選手は、当然それぞれのチームでレギュラーとして活躍しているわけですから、与えられる役割がビデオ撮影のみではモチベーションを維持するのが大変だったと思います。
また、小野さんが代表に選ばれていたのには現場の強化スタッフ以外の意向も働いていたとも伺いました。
若さとルックスの良さを協会に見込まれて、競技を代表する選手としてメディア露出の対象になっていたにも関わらず試合には出場出来ないと、チームメイトから面白く思われないこともあったでしょうし、何より自分自身が辛く悔しい思いをなさったのではないかなと。
小野:
そうですね。選手としての実力が伴っていないにも関わらずメディアに取りあげられることが多かったのは正直苦痛でした。
「どうせ試合に出られないビデオ係なんだから、もう、私を取り上げないでほしい!」 と思っていました。
本当に嫌でしたし、メディアの前ではいつも顔が強ばっていたと思います。私のメディア嫌いはそこから始まったのかもしれません(笑)

小松:
競技を代表するスター選手、アイドル選手だからこその苦悩を味わってこられたのですね。
チームをつくる
小松:
小野さんは2007年から2016年までコカ・コーラウエストレッドスパークス(現コカ・コーラレッドスパークス)に所属し、3度の日本リーグ優勝に貢献されていますが、元々強豪チームだったわけではないそうですね。
小野:
そうですね。当時、日本リーグに所属している女子ホッケーチームは4つありましたが、その中で最も弱いチームでした。
東:
なぜ、最も弱いチームを選択したのでしょうか?
小野:
練習環境が最も良いと感じたからです。
日本リーグに所属する4チーム全てから声をかけていただいたのですが、他のチームは2日に1回のペースでしか練習が出来なかったり、練習内容が納得のいくものではなかったため、ホッケーに集中するのであれば、コカ・コーラだと思い、決めました。
小松:
実際に入ってみていかがでしたか?
小野:
今は弱くても、恵まれた練習環境を活かして強くなっていけばいいと思っていたのですが、私が入った当初は大学生にすら勝てないようなチームだったので、とても苦労しました。
私を含めメンバーみんなが若かったので、色々とぶつかりながら少しずつ力をつけていきました。
厳しいこともたくさんありましたが、初めから強いチームに入って、当然のように勝つのではなく、自分たちで試行錯誤しながら成長し、勝利するという経験を二十代で積めたことは大きな財産だと思いますし、コカ・コーラを選んで本当に良かったと思っています。
東:
僕も大崎電気に入団した時は2部リーグとの入れ替え戦に出場するような弱小チームでしたが、最終的には日本一を九度経験することが出来ました。
負け続けているチームが勝ち続けるチームに成長していく過程を経験したことで、弱いチームと強いチームの違い、勝利に貢献出来る選手と出来ない選手の違いを知れたのは、競技のみならず人生における大きな財産となっていますね。
小松:
小野さんは、2008年北京大会と2016年リオデジャネイロ大会の二度オリンピックに出場なさっていますが、どちらも予選突破が叶いませんでした。振り返ってみて、どのような思いをお持ちでしょうか?
小野:
どちらも大会前は「これだけやってきたのだから勝てる!」という自信を持って臨んだのですが、ともに納得のいく結果を出すことが出来ず、自らに対する失望感が大きかったです。
特に二度目のリオデジャネイロ大会の後には「今まで何のためにやってきたんだろう?北京と同じことをまたやってしまった」と悔しいを通り越して情けなくなってしまいました。
東:
オリンピックでの経験から学んだことも多かったのではないかと思うのですが。
小野:
そうですね。北京では若手の立場でただただ周りについていけば大丈夫だったのが、リオでは年長者として背中を見せなくてはならない立場になり、普段は異なる環境でプレーしている選手同士でのチームワークの高め方や信頼関係を構築することの重要性などを学びました。
日本代表として活動する中で年齢を重ねるごとに立場や感じるものが変わっていったことは大きな経験だったと思います。
小松:
コカ・コーラ、日本代表とそれぞれ異なる環境での“チームビルディング”をご経験なさってこられたのですね。

「自分=ホッケー」で終わりたくない
東:
リオデジャネイロ大会終了後、「限界までやり切った」と現役引退を表明なさいました。
後悔はありませんでしたか?
小野:
大会前から「リオでホッケーは終わりにしよう」と決めていましたので後悔はありませんでした。
当時31歳で、次のオリンピックを目指すことは考えられませんでしたし、これで最後だと思っていたからこそ苦しいトレーニングに耐えることが出来たように思います。
小松:
トップアスリートはオリンピックが開催される“4年”というサイクルで競技生活に区切りをつけることが多いですよね。
引退後のことはイメージなさっていたのでしょうか?
小野:
まずは自分から“ホッケー選手”という肩書を取りたいと考えていました。
選手ではなくなった時に、自分に何が残っているのかを見極めないと、今後何をして生きていくべきなのかが見つからないのではないかと思っていました。
東:
なるほど、ホッケー以外の世界でどう生きていくのかをイメージなさっていたのですね。
小野:
はい。現役の頃から引退後の人生について考えておかなければと感じていました。
小松:
小野さんは正社員として勤務しながらプレーなさっていました。
例えば会社に残ってチームのコーチに就任するなどの道もあったのではないでしょうか?
小野:
そういうお話もいただきました。もちろん光栄なお話ですが、選手を辞めてすぐにコーチになるのは、他の選手に失礼だと思ったんです。
選手としては何十年もやってきていましたが、指導する立場としての経験はゼロです。何も学んでいない自分が教えるなんて出来ないと思いました。
東:
コーチをしながら勉強していくという考えはなかったのですね。
小野:
まずコーチングを学んでからでなければ指導する立場にはなるべきではないと考えていました。
コカ・コーラは日本のトップチームでしたから、それに見合った力のあるコーチでなければならない。
そのスキルがない状態では引き受けたくありませんでした。
小松:
引退後にトップチームの指導者に就任することは多くの選手が望む魅力的なキャリアだとも思うのですが、誘われたときに引き受けておかなければ、次のチャンスは無いかも知れません。
もったいないとは思いませんでしたか?
小野:
確かにもったいない部分もあったのかも知れませんが、それよりこれまでに積み重ねてきたものを一度手放して、何もなくなった自分を見てみたいという思いが強くて。
もちろんコカ・コーラに残ってコーチを務めたほうが安定はしていますし、素晴らしいキャリアだとも思いますが、とにかく次のステップに進みたいという気持ちのほうが強かったです。
東:
これまでに過ごしてきた環境にとどまることなく、ホッケー以外の世界で生きていく選択を先送りにしなかったと言うことですよね。
小野:
そうですね、覚悟をもって、自分の思いに素直に従って決断しました。
小松:
リオデジャネイロオリンピック後の小野さんのお話を伺っていると、これまで人生をかけて取り組んできたホッケーと距離を置きたいという気持ちが強いように感じるのですが、そのような気持ちをおもちになった理由は何なのでしょうか?
小野:
これまでの人生でホッケーしかやってこなかったので、ホッケーしか知らないということが恥ずかしかったんです、実は…。
周りを見れば、同年代の人たちは結婚や出産、子育てをなさっていたり、社会人としてのキャリアを積んでいたりしていましたから。
私からホッケーをとったら何も残らないし、すごく差をつけられていると感じたんです。
それで、ゼロに戻ってホッケー以外のことを吸収したいと思ったんです。
小松:
ホッケーのコーチをしながら、というお考えはなかったのですか?
小野:
“両立”と言いますが、私は器用な人間ではありませんから絶対に中途半端になってしまうだろうと。
ホッケーを捨てなければ、何かを得ることが出来ないと思っていました。
東:
小野さんはホッケーしかやってこなかったと考えていたそうですが、実際にはホッケーのスキルだけを磨いてきたわけではなく、競技を通じて様々な経験を積み重ねてこられたと思うんですね。
日々のトレーニングの継続によって、自らのフィジカルを鍛え、技術を磨き、仲間と協力してチーム力を向上させ、日本一になったり、世界の舞台で戦うといった結果を出すために繰り返しトライ・アンド・エラーを繰り返してきたことは、全ての仕事に活かすことが出来る立派なスキルだと思います。

小野:
当時はそのような位置づけが出来ていませんでしたね…
小松:
現役を引退なさった小野さんはコカ・コーラを退職。
自らが目指す指導者になるべく、ホッケーの本場・オーストラリアへ留学なさいます。
オーストラリアでのお話から、再び現役に復帰し、仕事と競技を両立させながら東京オリンピックを目指している現在の生活について伺っていきたいと思います。
小松:
リオデジャネイロオリンピックを終え、現役を引退するとともに所属企業を退職。
2017年2月にオーストラリアの“Wesley South Perth Hockey Club”へ留学なさったところからお話を伺ってまいります。
ともに成長出来る指導者に
東:
オーストラリアを留学先に選んだ理由は何だったのでしょう?
小野:
ホッケーの強豪国であったことはもちろん、試合中に英語が話せなくて後悔した経験があったので、英語圏でホッケーの指導法とともに英語を学びたいと思って選びました。
小松:
どのような経験をなさったのでしょうか?
小野:
ホッケーは足にボールが当たると反則なのですが、私がディフェンスをしている時に相手の足にボールが当たっているにも関わらず反則と判定されずにゴールを決められたことがありました。
ビデオ判定をしてもらえばよかったのですが、英語が出来ないせいで上手く審判に伝えられず、結果、そのゴールのせいで負けてしまったことがあって。
英語が出来ていれば…と後悔する気持ちがあったので、留学するなら英語圏と思っていました。
東:
国際試合では英語を使えるかどうかでコミュニケーションの質が変わってきますものね。
小野:
また、純粋にホッケーを楽しむ風土があることも魅力的でした。
オーストラリアはホッケーがとても盛んな国で、ホッケーが人々の身近にあり、子どもからお年寄りまでプレーや試合観戦を楽しんでいますし、指導者が選手とフラットな関係でいることや、物事の伝え方に心を配り、選手とのコミュニケーションを大切にしているなど私の目指す姿にマッチしていたことも大きかったです。
小松:
最近ではずいぶん変わってきましたが、日本では指導者と選手が“上下の関係”にある“ティーチング”が主流でした。
オーストラリアでは指導者と選手が“フラットな関係”にある“コーチング”が行われていたのですね。
東:
コーチ(coach)の語源は“馬車”で、“望む場所まで運ぶ”という意味があります。
無理にやらせるのではなく、選手がなりたい状態になるための手助けをするような指導者になりたいと考えられていたのですね。
小野:
はい。また、オーストラリアではチーム数が多く、1つのチームがコートを使用出来る時間が短いため、一人ひとりの選手がオン・オフの切り替えが上手く、短時間で力を出し切ることに長けているとも感じました。
東:
海外の選手は“やらされている”という感覚の人が本当に少ないですが、これは仕事にも通じる部分があると思いますね。
海外では“やりたくないことはやらない”方が多いイメージがあります。
小松:
オーストラリアでの留学を終えた後には、慶應義塾大学女子ホッケー部のコーチに就任。
次のキャリアを展開なさいましたね。何故、このチームを選ばれたのでしょうか?
小野:
大学からホッケーを始めた初心者ばかりのチームだったからです。
私も指導者として初心者でしたので、お互いゼロからスタート出来る立ち位置がいいと思い、オーストラリア留学の前に「帰国後に指導をさせていただけませんか」とお願いをしていて、機会をいただけることになりました。
私とは別にOB・OGのヘッドコーチがいらっしゃいましたが、2017年に関しては全権を委任していただきました。
東:
初心者ばかりのチームでの指導はいかがでしたか?
小野:
すでに他の誰かに指導され、ある程度出来上がっている選手を指導した場合と比較して、私の指導で何がどう伸びたのかが分かりやすく、指導者として選手とともに成長出来たのではないかと思います。

小松:
こちらのお仕事では収入を得ていなかったそうですが、どのようにして生活なさっていたのでしょうか?
小野:
アルバイトです。慶應義塾大学でのトレーニングは午前中だったので、指導を終えた後はアルバイトへ向かうという生活を送っていました。
東:
オリンピックに二度出場した元日本代表選手が、アルバイトをしながら無給でコーチのお仕事をなさっていたわけですね…
小野:
はい、フリーターでした(笑)
小松:
このフリーターの期間があったからこそ、次のキャリアが拓かれたわけですよね。
運命の出会いと再びの日本代表
東:
その後、小野さんはとあるイベントへの参加をきっかけに現役選手として復帰することになりますね。
小野:
はい、「SOMPOボールゲームフェスタ」という日本トップリーグ連携機構に所属するトップアスリートが、主に小学生を対象にボールゲームを通じて直接触れ合い、スポーツの楽しさ・魅力を再発見してもらうイベントに参加させていただいて。
通常であれば日本リーグ選手に声がかかるのですが、シーズン中で参加出来る選手がいなかったため、日本ホッケー協会から時間に余裕のある私にご連絡があり、参加することになりました。
東:
僕も何度か参加させていただいていますが、参加している子どもたち、保護者、アスリートなどイベントに関わるみんなが笑顔で楽しめる素晴らしいイベントですよね。
小松:
こちらのイベントはSOMPOホールディングスがトップスポンサーをなさっていて、この時に現在小野さんが所属なさっているSOMPOケアで当時代表取締役会長を務められていた奥村幹夫さん(2019年4月よりSOMPOホールディングスグループCSO取締役常務執行役員)に出会われたそうですが、どのようなきっかけだったのでしょうか?
小野:
イベントの前日に講師を務めるアスリートとともに奥村さんと食事をご一緒する機会があったんです。
その時に「東京でホッケーを広めたい」という私の思いを伝えたところ、「SOMPOケアでは休日にスポーツを活用したイベントの開催が増えているし、同じSOMPOホールディングスグループの損害保険ジャパン日本興亜が日本ホッケー協会のトップパートナーを務めている縁もある。もし、よければうちで働きながらその思いを叶えればいい」と言っていただいて。
東:
その場でSOMPOケアに誘っていただいたわけですか…凄いご縁ですよね!
小野:
失礼ながら初めは社交辞令だと思っていたのですが、その後改めてご連絡をいただいて、正社員として入社することになりました。
小松:
たまたま時間に余裕のあるお仕事をなさっていて、たまたま日本リーグのシーズン中で現役選手が参加出来なかったため呼ばれたイベントで、たまたまいらした奥村さんと出会い、お話出来たからこそのご縁だったわけですが、全てが繋がっているように感じます。
東:
まさに運命の出会いですね。
小松:
その後、小野さんは現役選手として復帰なさるわけですが、どのような経緯があったのかお教えください。
小野:
2017年12月に開催される日本代表選手の選考会の申し込み用紙がホッケー協会から届いたのがきっかけです。なぜか私にもメールが届いて(笑)
リオが終わって、一度はホッケーから完全に離れようと思っていたのですが、オーストラリアでの留学や慶應義塾大学でのコーチ、アルバイトでお金を稼ぐ経験をしてみて、改めてもう一度挑戦したいという気持ちになりました。

東:
地元でのオリンピックに出場出来るチャンスが少しでもあるなら挑戦したいのがアスリートの性だとは思いますが、不安はありませんでしたか?
小野:
全く不安が無かったといえば嘘になります。2020年には36歳になりますし、仕事はもちろん、結婚や出産のこともありますから。
悩みに悩んだ結果、一度きりの人生で悔いを残したくないと思い、奥村さんにご相談したところ「支援するので後悔のない生き方をしなさい」と言っていただけたので、日本代表の選考会へ挑戦することを決めました。
小松:
奥村さん、素敵な方ですね。選考会はいかがでしたか?
小野:
私よりずっと若い選手たちとの争いでしたし、色々な意味で注目も集まってはいましたが、私がやるべきなのは純粋にホッケーをプレーすることだと考えていたので、それほど気にせずに過ごす事が出来ました。
不安だった体力面も意外と走れていたので、もちろん選ばれたいとは思っていましたが、それ以上に久々に高いレベルでホッケーをプレー出来たことが楽しすぎました(笑)
東:
結果は見事に合格。再び日本代表に選ばれると、2018年7月にはイングランドで開催されたワールドカップに出場し、13位。
同年8月にインドネシアで開催されたアジア大会では、自身5回目の出場にして初めて念願の金メダルを獲得するなど大活躍なさっています。
小野:
大活躍だなんてとんでもないです。金メダルを獲得したアジア大会では、私はレギュラーとしてではなく若い選手を休ませるための役割を担っていました。
一度引退する前の私であれば、どうしてもマイナスの感情がプレーや表情に出てしまい、チームが一つになるのを邪魔してしまったのではないかと思いますが、今は私にしか出来ない仕事があることに感謝するとともに誇りに思い、チームのために出来ることに全力で取り組もうと考えています。
小松:
初めて日本代表に選ばれた17歳の頃、ビデオ撮影ばかりで試合に出場出来ずに悔しい思いを噛み締めていた少女が、時を経て、様々な経験を重ねたことでこれだけ素晴らしい女性に成長なさったのですね。
東:
スポーツでも仕事でもずっと主役を張り続けることが出来る人間は稀だと思います。
大切なのは、主役であろうが脇役であろうが、それぞれの立場でどのようにチームや組織に貢献出来るのかを考え、実際に行動に移すことではないでしょうか。
小野さんはホッケーを通じて、それが出来る人間性を培ってこられたのだと思います。

背中を見せる
小松:
小野さんの現在の目標をお聞かせくださいますか?
小野:
高校生の頃から「こんな人になりたい」と憧れ続けてきた先輩がいて、今も追いかけています。
東:
高校時代からの憧れの先輩、いったいどなたでしょうか?
小野:
三浦恵子さんと、岩尾幸美さんです。
現在、お二人ともに日本代表チームのコーチとして活動していらっしゃいますが、現役当時のお二人は素晴らしい技術とメンタルを兼ね備えていて、日の丸を背負うにふさわしい姿を背中で伝えてくれていました。
今の私はまだ、若い選手たちに日本代表としての背中を見せられていないと思いますので、そんな背中を見せられるように一つひとつのプレーや行動を大切に過ごしていきたいです。
小松:
きっと、今の高校生たちもそんな風に小野さんの背中を見ていると思いますよ。
小野:
いやいや(笑)私なんてまだまだです。
東:
企業の広報のお仕事も担当しながら、年齢や所属チームが無いことを言い訳にせず、選手として東京オリンピックを目指して必死にトレーニングをしている姿や、オーストラリア留学の経験を活かしてコーチと英語でスムーズにコミュニケーションをとっている背中は憧れだと思います。
小野:
そんな言葉は一度も耳にしたことがないです(笑)
東:
直接本人には伝えないものですから(笑)
小松:
小野さんは、ホッケー界のみならず、アスリート全てのロールモデルになれると思います。
一度引退したとしても、もう一度チャレンジ出来ることを証明なさっていますし、企業で働きながら競技を続ける新たな形の一つとして、アスリートにとっても、アスリートを雇用する企業にとっても、理想的なモデルケースになっていけるのではないでしょうか。
小野:
このような機会をいただいた奥村さんやサポートをしてくれる職場の仲間、応援してくれているお客様を始め多くの皆様のためにも、そうなっていけるように頑張ります。
小松:
大変なことも多いと思いますが、是非やり遂げていただきたいです!
東:
さて、それでは改めて現在の小野さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめてみると、現役選手としての活動とは別に、SOMPOケアでのお仕事が親会社以外勤務で「C」、慶應義塾大学女子ホッケー部のコーチが「B」の領域ということになります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること
小松:
2020年の東京オリンピックの後には指導者はもちろん、ご結婚やご出産といったキャリアの選択肢も考えられますよね。
小野:
そうですね、以前は32歳で引退して、結婚したいなと考えていたんです。出産や子育てはある程度若いほうが良いのかなと思っていましたし。
でも、現役復帰について悩み、やりたいことを紙に書きだして整理してみたら、子どもが欲しい、結婚もしたい、選手としてホッケーも広めたいとなった時に、結婚や出産はオリンピックの後でも可能だと気づいたのでまずは悔いの残らないようにホッケーを優先しようと決めました。
他のことは相手がいないことには進まないですし(笑)
東:
相手はその気になればあっという間に見つかると思いますけどね(笑)
個人的には現役のアスリートが介護現場で勤務しながら競技を続けていくようなシステムを構築するようなお仕事にも是非取り組んでいただきたいと思います。
小松:
前編でお話したような、日本が抱える社会課題をアスリートとスポーツの力で解決するような仕組みをつくるお仕事ということですね。
東:
はい、小野さんならではのお仕事だと思いますので。
それでは、最後の質問になります。
ホッケーという競技名を使わずに、自己紹介をしていただけますか?
小野:
SOMPOケアで広報部の仕事をしている小野真由美です。
小松:
本日はお忙しいところ長時間に渡りありがとうございました。

小野:
ありがとうございました!
(おわり)
編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。
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