2025.02.15

見知らぬ誰かに知られる怖さ シドニー五輪競泳銀メダリスト・田島寧子

Profile

元水泳選手(個人メドレー)、元女優・タレント。2000年シドニー五輪400m個人メドレー銀メダリスト。1981年5月8日神奈川県鎌倉市生まれ。1歳でベビースイミングを始め、持ち前のセンスと努力で小学4年生でジュニア五輪杯(JOC)に初出場し、その後もトップ選手として活躍。東京立正高に進学後、南光スイミングスクールに通いながら高校の水泳部にも所属。1998年世界選手権400m個人メドレーで日本記録をマークし、銅メダルを獲得。同年12月にバンコクで開催されたアジア大会400m個人メドレーで金メダル、4✕200mリレーで銀メダルを獲得。2000年日本体育大学進学。同年4月日本選手権400m個人メドレーで4連覇。シドニー五輪日本代表に選出され、400m個人メドレーでその後14年間やぶられず日本最古の記録となる4分35秒96の日本記録をマークし、銀メダルを獲得。日本人メダル第一号となった。競泳での日本選手のメダル獲得はバルセロナ五輪の女子200m平泳ぎで優勝した岩崎恭子以来二大会ぶりで、試合後のインタビューで金メダルが獲得出来なかった悔しさを吐露した「めっちゃ、悔し~い」というコメントは2000年の流行語大賞トップテンに選ばれ、ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー2000を受賞した。2001年7月現役引退。大学も中退し、タレントに転身。ドラマ、バラエティなどで活躍する一方でスポーツを通じたボランティア活動や水泳教室も開催した。
2007年3月にシドニー五輪後の社会経験不足を理由に休業。現在は総合人材サービス企業アデコ株式会社の正社員として勤務している。

※2019年5月31日インタビュー実施

東:
さまざまな競技のアスリートたちが現役生活を終えた後、どのようなセカンドキャリアを過ごしているかをご紹介する「表彰台の降り方」。

今回はシドニー五輪競泳400m個人メドレー銀メダリストの田島寧子さんにお話を伺います。

田島さんは1歳の時にベビースイミングを始め、小学4年の時ジュニア五輪杯(JOC)に初出場し、中学3年の時に同大会で200mと400m個人メドレーの二冠を獲得。

1997年には短水路W杯でも二冠達成という成績を残されました。

小松:
高校進学後もスイミングスクールに通いながら高校の水泳部にも所属。

インターハイや国体、世界選手権で好成績を残し、シドニー五輪では銀メダルを獲得。

インタビューでは銀メダル獲得の喜びではなく金メダルを逃した悔しさを吐露し、その時に発した「めっちゃ、悔し~い」という言葉が2000年の流行語大賞トップテンに入ったほど世間の注目を集めました。

その後、2001年に20歳の若さで田島さんが選手を引退された時は多くの方が驚かれたと思います。

東:
田島さんは引退後、大学を中退して女優に転身。現在は総合人材サービス企業アデコ株式会社の社員としてお仕事をなさっています。

水泳からは離れたお仕事という印象ですが、田島さんの現在の活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめて考えると、Cの親会社以外への勤務になりますね。

小松:
田島さんには現在の活動を始め、これまでの人生におけるいくつかのターニングポイントについてお話をお聞きしたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

友達が繋いでくれた縁をきっかけに人材サービス業界へ

田島:
“表彰台の降り方”と言われると、シドニー五輪の表彰式で表彰台から落ちてしまい怪我をしたことを思い出してしまいますね(笑)

東:
そんなこともありましたね(笑)この企画を思いついた際に絶対にお話を伺いたいと思ったのが田島さんと岩崎恭子さん(バルセロナ五輪競泳金メダリスト。“表彰台の降り方“第1回ゲスト)でしたので、本日は非常に楽しみです。

まずはお仕事について伺いたいと思うのですが、田島さんが現在お勤めのアデコに入社されたきっかけは何だったのですか。

田島:
2001年に水泳選手を引退した後、2006年頃まで芸能事務所に所属して女優として活動していたのですが、自分がやりたい方向性とのズレを感じたんです。

小松:
どのようなズレがあったのでしょう?

田島:
私は女優になりたくて芸能界に入ったのに、女優としての仕事以外にバラエティなどにもたくさん出演しなくてはならず…。

自分のやりたいことを見つめ直すためと、社会人としての経験が不足していたので引退して社会に出て働くことにしました。

東:
なるほど。事務所としては田島さんの明るいキャラクターを活かすためにバラエティ番組などにキャスティングしたのでしょうが、“やりたいこと”と“求められていること”にギャップがあったのでしょうね。

田島:
女優を引退後に友人に相談したところ、とりあえず人材派遣会社に登録に行きなさいとアドバイスをもらって。

友人からは登録すれば自分に何ができるのかを見極めて、向いている仕事を紹介してもらえるからと言われていたのですが、当時、派遣という働き方にネガティブな印象をもっていたこともあり、正直なところ少し不安でしたね。

東:
たしかに当時は人材派遣という制度や派遣社員に対してマイナスのイメージがあったかもしれません。

田島:
その時、友人が「ここは安心できるよ」と勧めてくれたのがアデコだったんです。

友人の勤めている会社もアデコのサービスを依頼していたらしく、「実績もあるし、あそこなら大丈夫だから登録に行きなよ」と言ってくれたので、登録しに行くとその場に当時の支社長がやってきて、「うちで働きませんか?」といきなり言われて。

小松:
いきなりですか!

田島:
はい(笑)どこかの企業に派遣するつもりで登録したのですが、よかったらアデコで働きませんか?という提案をされました。

登録当日に支社長が出てきて、うちで働きませんか?と言われるなんて、怪しすぎるなと(笑)。

当時、新聞やTVのニュースで騒がれていたように、だまされてしまうのではないかと心配になりました。

東:
確かにそれは驚きますよね(笑)。

田島:
紹介してくれた友人に「どうしよう!」と相談の電話をかけたら、こんなチャンスは滅多にないから働いたほうがいいよと言われました。

小松:
破格の条件ですよね。なぜ支社長は田島さんを誘ったのでしょう?理由はお聞きになりましたか?

田島:
一つ目は世界を舞台に戦ってきたアスリートなら集中力があるだろうという事。

二つ目は、その年の2月いっぱいで支社にいる唯一のアシスタントが転職予定で、ちょうど後任を探していたタイミングだったこと。

個人情報を扱っている会社なので信頼できる人材を探していたようですが、水泳選手の田島寧子としての“名前”とポテンシャルを評価してもらえたように思います。

後に、大きな案件を手掛けることになる都内の支社へ派遣されることになりました。

小松:
信頼するお友達が繋いでくれたご縁ですね。

田島:
はい。私は学生時代をほぼ水泳のみに時間を費やしていたので、社会や会社のことを何も知らないまま社会に出てしまい、仕事といっても出来ることがほとんど無い状態でした。

普通なら採用してもらえなかったと思うんです。

社会で活躍するために役に立つことを勉強し、身につけるのが学校だと思うのですが、私は学校での時間の大半を水泳の合宿や遠征に使ってしまっていたので。

文化祭にも出たことがないですし、水泳以外の知識や経験が圧倒的に不足していました。

女優を引退するまで、アルバイトひとつやったことがありませんでしたから。

東:
トップアスリートの多くは競技のみに集中することを求められますものね。

田島:
名刺の受け取り方も渡し方も知らないし、電話の出方も分からない。そんな私を採用してくれた支社長や会社には心から感謝しています。

小松:
派遣社員としてアデコに入られて、現在は正社員だと伺いましたが、正社員になられたきっかけは何だったのでしょう。

田島:
結婚をきっかけに今後の働き方を考えるようになりました。派遣社員でも産休はとれますが、同じ職場へ復帰できるかどうかはわかりません。

先々のことを色々と考え、お世話になった支社長にもお力添えをいただき、社員の試験を受けて合格することができました。

東:
素晴らしいですね。

人間不信からの選手引退。塩素の匂いも嫌いになってしまった

東:
人と人の出会いやご縁は素敵ですよね。ご友人や支社長との繋がりのおかげで今の田島さんがあるのでしょうね。

田島:
今では人との繋がりに感謝していますが、オリンピックが終わった後に人が嫌いになってしまった時期もありました。

小松:
人が嫌いに?何か原因があったのでしょうか?

田島:
オリンピックが終わり、銀メダリストとして名前と顔が知られるようになってから、私の周りの世界が変わってしまいました。

例えば、夜中にいきなり知らない番号から電話が掛かってきて、「田島寧子さんですか?」と聞かれて、私が返事をすると「ウォーッ」という叫び声と共にいきなり切られたり、街なかで見ず知らずの人に心無い声をかけられたり。

東:
有名になったことで生じるマイナス面ですね。

田島:
オリンピックの後はそんなことがいっぱいあって、すごく怖かったです。

水泳を辞めたのも、これまで一番信頼を寄せていたものが一変してしまう出来事があり、人の恐ろしさを知ったからです。

人間不信になってしまい、人と距離をおきたい、怖いから近づきたくないと思うようになってしまいました。

小松:
そんな出来事があったとは知りませんでした…。これまで誰にも言えず、苦しかったでしょう。

田島:
あれだけ好きだった水泳と縁を切りたくなってしまいましたね。プールの塩素の匂いすら嫌いになったほど…。

自分が人生をかけて取り組んでいた競技をこんな形で嫌いになる瞬間がくるとは想像もしていませんでした。

東:
引退後も泳いではいたんですか?

田島:
しばらくは全然泳いでいませんでした。心がプールを拒絶しちゃっていたので…。

でも、10年ほど前、友達に誘われてとしまえんのプールに行って久しぶりに泳ぎましたね(笑)。

東:
競技用のプールではなく、としまえんですか!

僕も子どもを連れてよく行きましたが、速く泳ぐためのプールではなく、楽しく遊ぶためのプールだったから拒絶反応がおきなかったのかも知れませんね。

田島:
確かに(笑)そこから泳ぎへのリハビリが始まったかんじです。

小松:
その時は大丈夫だったんですか?

田島:
久しぶりに泳いでみた時に驚いたのが、魂が抜けるような感覚になったことです。

気持ちは昔のままなので現役のスピードで泳いでるつもりなんですが、体がついていかなくて。

魂だけが5メートルくらい先を泳いでいるんです。

東:
なるほど。あまりに久しぶりすぎて、肉体は衰えていても、魂はもっと速く泳げる頃の自分のままですものね。

田島:
実際には水をかいてもかいても進まなくて疲れるし、「あれー!?」って思いました。

小松:
現実とのギャップがあったのですね。面白い感覚ですね。

今がチャンス!20歳の時に思い切ってスイマーから女優へ転身

東:
水泳を辞めて芸能界に入り、女優に転身された時には大きな勇気が必要だったのではないですか?

田島:
人間関係が原因で水泳が嫌いになり、引退したタイミングで声を掛けてもらい、全く違う人生が歩めるならそっちに行きたいと思ったのが芸能界に入った理由の一つです。

当時20歳だったので、「今がチャンスかな、飛び込んでしまえ!」と思ったんですよね(笑)。

こんな状況とはおさらばしたいという気持ちもありました。

軽い気持ちだったかといえば、その通りかもしれません。先々を考えてどうしたい、どうすべきかなど深くは考えていませんでした。

小松:
ドラマやドキュメンタリーに出演したり、バラエティ番組で雛壇に登ったりしたことはどのような経験でしたか?

田島:
本当に色々な経験をさせてもらって感謝しています。

年末の紅白歌合戦にも出演させていただいたり、それまでには考えられないような体験が出来て楽しかったです。

ただ、水泳や人間関係などに対する気持ちに整理がつかない時期に芸能界に入ってしまったことで、自分の中でも「私は、本当は何がしたいんだろう?」と迷う部分もあって。

その後、事務所の社長と相談して芸能界引退を選びました。休んでいた時期も含め、芸能界にいたのは実質六年くらいでしたでしょうか。

東:
当時、田島さんの女優になりたいという夢を応援してくれる人もいれば、そんな簡単になれるわけがないと揶揄する意見もあったと思いますが。

田島:
そうですね。ネットのネガティブな意見を見るとどうしてもショックを受けてしまいますよね。

特に、当時は20歳になりたてで、周囲の反応が気になる年頃でしたから。自分は鈍感なほうだと思っていたんですけど、ゆっくり、じわじわと深く内面を傷つけられたように感じ、とても辛かった。

未だに少しネットの意見を恐れていたりしますからね。

小松:
心無いことを書く人がいますものね。

田島:
でも、ネットを通じて良い出会いもありました。

人間不信になって引きこもっていた時期があり、オンラインゲームにハマっていたのですが、ゲームでつながった友人が、私が田島寧子と知らずに気軽に話をしてくれるのがとても楽しくて。

オリンピックの後にイタズラ電話が掛かってきたことをきっかけに携帯電話の番号を変え、友人の連絡先もほぼ削除して、電話帳のリストには10人に満たない人しか残っていなかったので、久々に友達ができたのが嬉しくて、舞い上がっていましたね。

自分のバックグラウンドを気にせず、くだらない話ができるってなんて幸せなんだろうと。

私がオリンピック選手であることや、銀メダリストであることなんて全然関係なく付き合ってくれました。その時の友人とはいまだに付き合いがありますよ。

東:
オリンピアンやメダリストである前に一人の人間として接してくれる人や場所を求めていたのかも知れませんね。

田島:
そうですね。だからネットやオンラインゲームって悪い面ばかりではないと思っています。私は本当に救われたので。

「田島寧子」という名前を背負うプレッシャー

小松:
現在、お仕事の時はお名前を使い分けていらっしゃるのですか?

田島:
そうですね。アデコでは現在の名字(山内)、オリンピック関係の仕事をする際には旧姓の田島を使っています。

学校で講演をさせていただく機会もありますが、シドニー五輪当時、まだ生まれてない子どもたちもいて。私のことを知らない世代も増えています。

東:
メダルを獲ったのは約20年前になりますものね。

小松:
女性たちの中には、結婚しても仕事をする上で旧姓を使い続けたいと仰る方もいますが、田島さんのお考えはいかがですか?

田島:
私にとって「田島寧子」の名前は結構重荷だったんです。

オリンピックに出て、帰国したと同時に世界が変わってしまったところがあって。

最初はすごく嬉しかったんですけど、私生活でも「握手してください」と言われることが増えたりして、自分の時間が急に持てなくなってしまったんです。

みんなが私を知っているという状況が怖くなってしまったんですね。あとは、みんなが求める田島寧子のイメージはドーンと明るい私。

テレビではそうかもしれないけれど、私生活では常にテンションが高いわけじゃないよって(笑)。

自分自身を演じなければいけないというのが辛くなってきていたんだと思います。

東:
それは悩ましいですね。

田島:
私から水泳をとったら何が残るんだろう?と考えることも多くなりました。

私という人間から水泳をとったら何もないじゃないかと。ましてや学校も推薦で入らせてもらっているし、遠征や合宿ばかりで勉強もしてこなかった。

このままじゃ、水泳を引退した後には何も残らないと思った瞬間、すごく怖くなっちゃったんです。

当時結婚願望は全く無かったのですが、早く苗字を変えたいと思っていました(笑)

小松:
大変な時代を過ぎて、旦那さまと出会って結婚し、今はトップアスリートの経験を活かしながら会社で活躍していらっしゃるのですね。

田島:
はい。競技のみに集中することで、私のような状況に陥る選手がいるとしたら、それはとても悲しい事だと思います。

選手一人ひとりが、みんなそれぞれの人生を歩んでいることを、選手自身にも気づいてもらいたいし、自分で道を選んでもらいたい。

それってどういうことなんだろう?どうしたら気づけるんだろう?と今から勉強し始めたところです。

東:
そういった想いが、現在取り組まれているアスリートのキャリア支援プログラムにもつながっているのですね。

田島さんが現在お勤めのアデコ株式会社は、アスリートのキャリア支援を行っているそうですが、そちらのお話を聞かせていただけますか。

田島:
はい、アスリートとして研ぎ澄まされた生活を送っていた選手たちが引退後、社会に出る時にどういった準備が必要なのかを知らないという状況は世界的にも課題になっていますが、アデコグループは“Athlete Programme(アスリートプログラム)”を提供しています。
※“Athlete Programme”は2019年6月より“Athlete365 Career+”にブランドチェンジしております。

小松:
どのようなプログラムなのでしょうか?

田島:
私自身、現役時代は水泳だけに集中していればいいと教えられてきて、いざ社会に出た時に「自分にはなにもない」ことに気づき、愕然としましたが、同じような状況に悩むアスリートは結構多いと感じています。

そうならないように現役時代から準備をするというのが「アスリートプログラム」の考え方です。

自分を知り、相手を知り、勝負に挑む。アスリートとしての経験を、社会に出たときにどう変換するかを学べるプログラムなんです。

東:
トップアスリートが競技に集中しすぎることによる弊害、近年問題になってきていますよね。

田島:
私自身も社会に出た時に右も左も分からなくて周囲の方々に迷惑をかけてしまい、選手時代とのギャップにも苦しみました。

だからこそ、このプログラムが日本にも必要だと感じ、グローバルと同様に日本のアデコでもその仕組みを導入しようと進めているところです。

小松:
なるほど。日本では導入を進めている最中なのですね。

田島:
はい。日本のアスリートたちもみんな危機感を感じていますが、選手に次のキャリアの話をするのは引退を考えることにも繋がるので、なかなか言いづらい部分があります。

ただ、アスリートには必ず引退する時が訪れますので、必要以上にネガティブに捉えるのではなく、ポジティブに未来を考え、準備をしておけば様々な選択肢をもつことにつながると伝えることが重要だと思います。

適切なタイミングで準備を進めるだけで、「現役」か「引退」かの2つから選ぶのではなく、他の選択肢が見えてくるはずです。

東:
一生現役選手でいられるわけではないですものね。田島さんがそのことに気づいたのはいつだったのでしょうか。

田島:
2015年に、当時スポーツ庁がおこなっていた“デュアルキャリア教育プログラム”の講師を育成するための研修会に参加させていただいたのがきっかけです。

選手がキャリアを考える上でどういったプログラムを開発すべきなのかを考え、検討する内容でしたが、関わった人たちがみんな熱くて非常に良い刺激を受けました。

様々な選手や指導者の方々の経験や考えを伺い、学んでいく中で私自身の経験も振り返ると当てはまるところがたくさんあって、なるほどそういうことなんだと納得した時に、このままではいけないと思いました。

小松:
研修に参加して、たくさんの人と交流する中で気づきを得たわけですね。

田島:
選手だった自分に負けないようにするのではなく、自分自身の歩んできた人生を愛してあげればいいんだって気づいたんです。

その瞬間、フッと楽になったんですよね。私は私なんだから、それを切り離したり、隠したり、否定する必要はないんだなと。

当時の私は30代前半だったんですが、もっと早くに気づけていたらと悔やみました。

講演等の収入がアスリートにそのまま入ってくる仕組み

東:
現在、田島さんは自らの経験を伝えるための講演活動も行っていらっしゃいますが、会社から許可を得る必要などはあるのでしょうか?

田島:
はい、会社がパラレルキャリア制度を設けていて、最終的に自己成長に繋がると認められれば、社外での活動や仕事が出来るようになっています。

小松:
その場合、収入を得ることも許されているということですか?

田島:
以前は、会社での仕事以外は「副業」と見なされて許可されていなかったのですが、アスリートプログラムの導入の担当部門の方が「これまでに田島さんが築き上げてきた自らの財産を活かした活動については、田島さん本人が対価を受け取るべきだ」と声をあげてくれました。

それによって、窓口として一旦会社は通すけれど、収入は会社からそのまま支払われるという形をつくっていただきました。

東:
素晴らしい!会社を通すことで変な団体からの依頼などもチェックしてもらえるようになって、最も良い形になったわけですね。

田島:
そうですね。そして、現在ではパラレルキャリア制度が整ったため、講演活動は会社を通すことも無くなりました。

しっかりとした制度を整えていただき、感謝しています。

初めてのトライアスロンに挑戦!

田島:
他にも会社には様々なチャレンジを後押ししていただいていて。

アデコではグローバル全体で行っているCSR活動として社員がスポーツを通して世界中の恵まれない若者を支援する団体に寄付を行う「Win4Youth(ウィンフォーユース」という取り組みをしています。

このプログラムでは、各国のアンバサダーがトライアスロンに挑戦するのですが、2019年の日本代表に私が選ばれたんです。

小松:
すごいですね!田島さん、トライアスロンの経験は?

田島:
ありませんでした。ただ、私が「初めてだけどトライアスロンに挑戦するんです」と言った瞬間に、たくさんの人たちが一斉にワーッと助けてくれたんです!

私はこんなにも多くの人に支えられているのだと改めて実感し、びっくりしました。

思い返せば入社当時、社会人としての知識が全くなかった私に対して「タジー、それはだめだよ、そうじゃないんだよ」と優しく諭してくれた先輩方や、人間不信気味だった私を無理やりみんなの前に引っ張りだして連れ回してくれる友達に支えられました。

今更なんですが、繋がりに本当に感謝しています。改めて人と人との繋がりって強いものなんだって実感しましたね。

東:
未経験なのに、思い切りましたね!「Win4Youth」のイベントはどちらで開催されるのでしょうか?

田島:
本番は、スペインで行われる予定で、現在はトレーニング中です。国内でも練習を行っています。

小松:
田島さんなら水泳で一気に差を広げられそうですよね。

田島:
いえいえ、問題は水泳の後なんです。陸上で重力がかかるとだめなんですよね。ペンギン状態で、ペタペタ、というかんじ(苦笑)。

水泳が終わったら、どんどん抜かされていくイメージしかなくて…。

東:
水泳選手で陸上のスポーツが苦手な方、多いですよね(笑)

小松:
でも、未経験のトライアスロンに自らエントリーしたわけですよね。それはなぜですか?

田島:
実は昨年も「Win4Youth」の担当者から「チャレンジしてみない?」と声を掛けてもらっていたんです。

その時は、トライアスロンをやるだけで大会会場のスペインに行けるんだったら行ってみたいなと軽い気持ちでした。

一応エントリーシートにはもっともらしい動機を書いて、社長面談を受けたのですが、我ながら内容が薄っぺらで(笑)

東:
動機がスペインに行きたいからというだけですものね(笑)

田島:
また、現地でコミュニケーションをとるために英語ができないとだめなんですが、英語はできませんと。案の定落ちました(笑)

小松:
それから1年後に再びエントリーなさったのですね。

田島:
面接時に社長から「来年もう1回チャレンジしてみてよ、東京オリンピック前だしさ」と話をしてもらい、本気で頑張ってみようかなという気持ちになったんです。

その時から、私が頑張る理由ってなんなんだろう?私がアンバサダーになったらどんなふうに貢献できるんだろう?と、色々考え始めました。

まずは田島寧子の名前と実績が会社にとって強みになるなら、自分を使って広告宣伝としても貢献出来るのではと気づいたんです。

会社にとっては他社にはない点をPRできるはずだと。

東:
重荷に思っていた“名前”を会社に貢献するために使おうと思えるようになったのですね。

初めての挑戦で見えた新たな世界

田島:
もう一つは私自身が乗り越えなきゃいけない壁なのかなという思いもありました。

これまで、水泳以外の運動は苦手で「好きじゃないから」と言って避けてきたんですが、自分の中でやる理由、やらない理由を考えてみた時に、オリンピアンとして、銀メダリストとして無様なことはできないというプライドの高さが邪魔をしていることに気づいたんです。

その時に無様な田島だっていいじゃん!と思えて。

無様でかっこ悪い姿を見せるのが嫌だと言って挑戦しない自分より、上手く出来なくても何かに挑戦して、足掻いている自分のほうが絶対にかっこいいはずだと。

東:
わかります!かっこ悪い姿を見せられる人って、めちゃめちゃかっこいいですよね!

小松:
大きな気づきですね。

田島:
会社での経験や過去に学んだ過程で色々培ったからこその気づきだと思います。

周りの目を気にせずに足掻いてみてこそだし、本気でやってみて、ダメだったらダメでもいいんです。

それで新しい世界が見えると信じていますから。今回の挑戦はそれを証明する良いチャンスだと思っているんです。

東:
これからの時代、失敗を恐れて挑戦しないことのほうがリスクになりますよね。ビジネスにもつながるお話だと思います。

田島:
はい、ビジネスとスポーツは一見すると別物ですが、会社としてグローバルにトライアスロンのイベントに取り組んでいるということはビジネスに通じる理由があるはずだとも感じました。

それを日本の社員の方々にも伝えられたらと思い、改めて今年エントリーすることにしました。

小松:
今年はどのようなことをエントリーシートに書いたのでしょうか?

田島:
色々なことを書いたのですが、最も特徴的だったのは“あなたがアンバサダーに選ばれたら何をしますか?”という質問に対して「オリンピックのメダルを首から下げて就業します!」と回答したことですね。

解答例で「ピンクの靴を履いて就業する」という一文があったので、私も何か面白いことを書かなければと思って(笑)。

東:
田島さんにしか書けない回答ですよね(笑)代表に選ばれた後、実際にやられたのでしょうか?

田島:
もちろんやりました!みんな大笑いで写真を撮りに来てくれました。

小松:
田島さんがアンバサダーに選ばれたことで、周囲の方々も大いに盛り上がったのですね。

田島:
喜んでもらえて私も嬉しかったですね。

あとはトレーニングの為、ベルギーで合宿があったのですが、ミニトライアスロン練習時に、ギャラリーの子どもたちが1番で水辺からあがってきた私を、自転車で出発するまでずっと追いかけてきて、ウェアに書いてある名前を読んで「ヤスコー、ヤスコー!」と声援を送ってくれたのも忘れられません。

オリンピック以来の声援でしたね(笑)。

小松:
トライアスロンに挑戦することで、また違う世界が開けそうですね。

田島:
トライアスロンを始めて、ロードバイクに跨って坂を降りた途端に、あっ新しい世界だ!と感じたんです。

私は陸に上がったんだ!と。これからもそんな瞬間が待っているのかなと思うとワクワクしますね。何が起こるんだろうって想像するだけで楽しくなります。

 若い世代がアスリートの次の道を考えるきっかけに

東:
先ほど仰っていた「無様な姿を晒せない」という意識が新たな挑戦に踏み出せない要因の一つになっているという状況は、全てのアスリートが抱える課題のようにも感じます。

人生の中で一つ成功しているから、他のことで失敗することが恥ずかしくなってしまう。

元々、競技の中でたくさん失敗してきたはずなんですけれど。

田島:
経験の価値って、本来はそこですよね。出来ない自分を受け容れて、挑戦し、失敗と成功を繰り返して、出来るようになっていくのが成長だから。

挫折も栄光も全て同じ経験。

トップアスリートは10代で日本代表に選ばれたりしますが、まだ若く純粋な思考に成功体験が植え込まれてしまうと、このポジションに立って、この記録を出して、と競技で良い成績を残すことだけが生きる道になってしまい、それ以外のことを考えるのが悪のように感じてしまう。

小松:
本当にそうですね。そのサイクルはちょっと怖いですね。

田島:
若く純粋だからこそ、その道を進んでいけばいいのだと信じてしまうし、信じることは強い力なので、心が体を引っ張ってくれる。

でも、そこだけに焦点を置いて彼らを教育してしまうことは本当に怖いことだと思うんです。

何故なら誰もその後の人生の面倒を見てくれるわけではないから。私はそのことを身をもって知りました。

東:
難しい部分ではあると思います。正直、競技面では何かを捨てなければたどり着かない領域もあると思いますし。

小松:
信じていたものがなくなる日がくる、信じていたものが瞬間的なものだったんだよと伝えることが出来れば、この世界は永遠じゃないんだと気づけると思います。

だからその時が来る前に本を読んでおこうとか、企業とコンタクトしておこうとか行動するきっかけになるのでは。

田島:
はい、いつか選手を引退する日が来ることを理解した上で、競技を終えた後になりたいものがあったらどんな知識を入れたらいいとか、それに気づけたらいいんじゃないかなと思うんです。

東:
そのような想いをもって、アデコで“アスリートプログラム”を進めているということですね。

小松:
オリンピックを目指したトレーニングの日々は想像を絶するほど苦しいものだったと思います。

田島さんはそんな時、自分のキャリアや人生の意味はどこにあると考えていたのでしょうか?

田島:
不思議と小学生くらいから時が止まったままなんですよ。小学5、6年生の頃にタイムカプセルを埋めたんです。

その時に自分で書いたことを今でも覚えているのですが、「オリンピックで金メダル取って、綺麗な女優さんで、お金持ちになって、楽しく過ごしているかい?」という内容を未来の自分に宛てて書きました。

東:
小学生の頃から女優さんになりたかったのですね。

田島:
そうなんです。

中学生の時になりたい職業に関してのアンケート調査があって、「女優、イラストレーター、イルカの調教師」と書いて提出したら、先生に「うーん田島は、コレでいいか。お前ならどれかになりそうだもんな」と言われて(笑)。

小松:
なりたかった女優さんにもなって、自己実現をされたんですね。

田島:
それから、イルカも調教しました(笑)。

小松:
以前に田島さんがイルカの調教にチャレンジしている姿をテレビで見ました!さすがの身体スキルでしたね。

イラストレーターになる夢を抱いていたと仰いましたが、田島さんは美術もお好きだったんですか?

田島:
そうですね、小さい頃から美術が大好きでした。

学校自体にあまり行けなかったので出席した授業日数は少ないし勉強も好きじゃなかったんですけど、美術だけは「完成させたいから作品を家に持ち帰らせて」と先生に頼むくらいでした。

東:
表現することが好きで、中途半端が嫌いだったんですね。

田島:
そうですね。自分で何かを作り出すことは昔からすごく好きでした。

最近では私の娘が好きなティンカーベルの羽根と衣装を作って家族でコスプレをして遊園地に遊びに行ったこともあります。

そうそう、イラストレーターの夢も叶えたんですよ。

スイミングクラブのTシャツをデザインさせてもらったりとか、社内で水泳部を立ち上げ、部のロゴを作ったりとか。

やってきたことを振り返ると、結構、実現できているんですよね。

小松:
自己の表現において結実を成しているんですね。

母親になり、個人プレーからチームプレーへ

東:
産休を取ることを視野に入れて社員になられたと仰っていましたが、産休は取得なさったのでしょうか?

田島:
はい、取得しました。安静にする必要があったので、予定より少し早めに休みに入らせてもらったんです。

出産から1年間休んで、復職しようと思った時に保育所が見つからなくて困りました。

ギリギリまで認可保育所が空くのを待っていたのですが、空きがでなかったため、最終的に無認可の保育所に預けることになりました。

小松:
保育所探しで苦労されたのですね。キャリアを1年間休んで帰ってきて、職場はいかがでしたか。

田島:
出産前は営業の部署にいたのですが、ママさんが多く所属しているデータ整理をする部署から「うちに来ないか」と声を掛けてもらい異動しました。

営業は限られた時間の中で成果を出さなくてはいけないので、子育てと両立するのは難しい部分もあったのですが、新しい部署は出産を経験した先輩方ばかりなのでとても働きやすいです。

会社の仕事はもちろん母親としての心構えなどについてもいろいろと教えてもらっていて、とても助かっています。

東:
営業は数字に追われながら顧客の都合に合わせて働く必要がありますが、データ整理なら都合のよい時間に仕事ができますものね。さすが外資系企業。

田島:
ママばかりで就業時間が短い人も多いので、お子さんが体調不良の時に仕事のサポートをするなどお互いに色々なところでフォローし合っています。

復職後しばらくして、保育所通いを始めた子どもが風邪・インフルエンザなど病気のオンパレードが始まり、1週間出勤して1週間休んでという状況が続くことがありました。

有給休暇なんてあっという間になくなるし、本当に申し訳ない気持ちでいました。

その時にリーダーに呼ばれて「ごめんなさいじゃなくて、ありがとうでいいんだよ。できないものはできないんだから、全部やろうと考えずにまずは育児に専念しなさい。その後に帰ってきてからやれることをきちんとやる。それだけでいいのよ」と声を掛けてもらいました。

その一言で、考え方や行動が変わり自分も次にはサポートできるようにと気持ちを切り替えることができました。

小松:
先輩たちも同じような経験をしてきたわけですものね。温かいですね。

田島:
リーダーにそう言ってもらえた時、なんてありがたいんだろう、こういう考え方もあるんだと分かったんです。

水泳も個人競技ですし、今までの私はどこか個人の範囲でしか考えていないところがあったので、チームで仕事をするということを考えたことがなかったのかもしれません。

自分の業務範囲内で支障をきたしたらダメということしか考えてなかったんです。

全体の目標があってみんなで力を合わせてやっていることを、分かっているつもりではいたけど、心で理解していなかったんですね。

そこを気づかせてもらいました。

娘は私の金メダル。現役時代より充実している今

東:
現役時代と現在を比較すると、どちらのほうが充実していますか?

田島:
うーん、何を持って充実と言うんでしょうね。現役時代は勝つことには確かな満足感を得られていましたけれど、練習の日々は過酷そのものでした。

辛くて毎日泣いていましたし、筋肉痛で体が痛くない日はほぼない状況でしたから。一瞬の喜びのためにどれだけの地獄を味わってきたことか。

そんな日々の経験が特殊なものだということを社会に出て初めて知りましたから。普通ってこんな感じなんだと。

小松:
一般社会とのギャップを感じたのですね。

田島:
現役の頃と決定的に違うのは、今の私には娘がいることですね。娘は私にとっての金メダル。生まれた時にこの子は守らなきゃと思ったんです。

東:
私にも中学1年の娘と小学4年の息子がいますが、我が子の誕生は人生観を変えるほどの大きな出来事ですよね。ましてや母親はご自身の胎内で育て、出産するわけですから。

可愛くて仕方ないのではないですか?

田島:
今、小学2年生で心も体も大きく成長している過渡期で親として悩むことも多いですが、そういう意味では今のほうが充実しているのかもしれませんね。

小松:
輝かしい実績を残されたトップアスリートの方々に、現役時代と現在のどちらが充実していたのか伺うと、昔の方が充実していたと仰る方もいらっしゃるのですが、田島さんは現在の自分を肯定できているのでしょうね。

東:
ただ、僕が初めて田島さんにお会いした2014年頃に同じ質問をしたなら、同じ答えではなかったようにも思います。

田島:
そうですね、あの頃の私なら昔より今の方がいいと、無理をして言っていたと思います。

小松:
2015年にスポーツ庁の“デュアルキャリア教育プログラム”の研修を受講する前ですね。

東:
田島さん、初めてお会いした時にはここまでキラキラしていなかったように感じました。

慣れない営業のお仕事で数字に追われていた時期だからなのかもしれませんが、とても疲れているように見えましたし。

田島:
自分でも変わったなと思います。人って変わるんだなと実感しました。変わりすぎで自分自身びっくりするくらいです。

田島寧子だということを隠すように必死に働いていた自分と、今の自分を肯定してあげられる自分は全然違う。

きっかけは研修だったかもしれないですが、やっぱりすごく大きかったのは人との出会いだと思います。

目を瞑っていたら見えないし、知ろうとしなければ知らないままだし、聞く耳を持たなければ聞こえてもこなかった。

無理やりにでも私を引っ張り出してアドバイスをくれた友人、大切なことを教えてくれた先輩方がいて、本当に感謝してもしきれないです。

だから私はこの会社が大好きなんです。

小松:
人は一人で生きているわけではないですものね。様々なご縁に恵まれて、現在のキラキラ輝いている田島さんがいらっしゃるのですね。

水泳を経験したから、怖いものがなくなった

東:
自らがなさってきた競技にはどのような価値があると思いますか。

田島:
辛くても逃げない気持ちが育ったことですね。

逃げたくても逃げられない状況を経験してきたので、人生においてこれほど辛いことはないだろうと今は思えるんです。

辛いな、泣いちゃうな、と思う時はたまにあるけど、昔に比べたらそれほどでもないですね。

精神は辛いけど肉体は辛くないじゃんとか、肉体は疲れたけど精神は大丈夫じゃんと。だからこの先の人生で何も怖いものはないと信じていました。

小松:
苦しい道のりを歩んで来られましたからね。

田島:
あ、でも一つありました。出産です。これは負けました(笑)。想像を絶していたんです。でもそのぐらいですね。

実際には今も辛いことだって起こっているけど「大したことじゃないよ」と自分に言い聞かせることができるようになりました。

それだけ努力してきたし、水泳をやっていてよかったなと思います。メダルを獲れたことは別にしても、そういう心が養えたのは良い経験だったと思います。

東:
「あれに比べたら」を持っていることは、本当にアスリートの強みだと思います。現役引退後に困ったことはありましたか?

田島:
洋服のサイズがないことですね。肩幅がすごくて、腕がパンパンで入らないんです。

お店の人から「絶対似合いそうですよね、着てみましょうよ」と勧められてもやっぱり入らなくて、その時の心の折れようといったら(苦笑)。

小松:
そういうことすら、選手たちは現役を引退した後に経験するって知らないのではないでしょうか。

田島:
どこに行っても「良い腕だね」ってパンパン叩かれるんですけど、この腕もすごくコンプレックスでしたよ。

東:
アスリートへのハラスメントですよね。

田島:
みんなアスリートはハラスメントなんか気にしないと思ってるんですよね。でも、今では、それも笑い飛ばせるだけ余裕ができました。

昔だったらいちいちムカッとなっていたのに「私の腕すごいでしょ」って言い返せるようになりましたから。

やっぱり自分自身を認めて、なおかつ抱きしめてあげられる、そこまで行き着かないと分からないんですよね。

東:
失敗しないようにかっこつけているより、足掻いてる自分のほうがかっこいいという答えに行き着いたというのも素敵ですよね。

今までと全く違うことに挑戦したわけじゃないですか。周りも懸命に頑張っている人を応援したくなりますよね。

田島:
挑戦しようとしている人には手を差し伸べてくれる。人ってそういう優しさを持っていることに、今さらながら気づいたんです。

小松:
田島さんが30代で経験したことは、40代、50代を迎えた時にも、社会やアスリート、そして子どもたちにも貢献できるはずですよ。

田島さんのようになりたいというアスリートがアデコに入ってくる未来が実現できたら素敵ですよね。

アスリートたちが自分を見つめ直す時間を持てるように

東:
スポーツでは様々なことに挑戦できたけど、仕事や別分野の新しいことには挑戦できないアスリートに対してかけてあげられる言葉はありますか。

田島:
プライドが邪魔してるよ、ということですね。私自身も水泳の田島寧子の名前を傷つけることがなかなかできなかったので。

無様な姿を見せて「あいつはできないんだ」って誰かに言われることを恐れているんです。

たとえ無様な姿を見せたとしても10人いれば9人は応援してくれるのに、たった1人の心無い言葉を気にしすぎてしまう。

たった1人が100人にも1000人にも感じてしまう状態なんだと思います。

小松:
現在の田島さんの夢はなんですか?

田島:
なるべく私の経験を聞いてもらえる場を作っていきたいですね。もっと未来を見据えたやり方があるんだよとみんなに伝えていきたい。

そこが私の望みです。アスリートプログラムを日本でスタートすることで、選手たちにデュアルキャリアとセカンドキャリアを提供できるようになることが夢です。

東:
アデコでなら夢が実現できそうですね。

小松:
きっとまたみんなが応援してくれると思います。

田島:
現役時代には、自分の人生だと分かっているようで分かっていないところがあると思うんです。

そのことに気づけるものなら気づいてほしいし、オリンピックを目指す以外で何をしたいのかとじっくり考える時間を作ってほしい。

それが当然の世界になってほしいですね。未来を考えることによって下準備ができれば、引退か現役かという二つ以外にも選択肢を持てるはずなんです。

勉強しながら現役を継続することもできるし、引退した後にすぐ就職できるという自信もつけられると思います。

アスリートプログラムで、選手がもう少し自分と向き合う時間を作ってあげたいです。

東:
安心して現役生活を全う出来るような状況をつくることがアスリートやスポーツの価値を高めることにもつながりますよね。

それでは、最後の質問です。「競泳」や「水泳」という競技の名前を使わずに自己紹介をしてください。田島寧子さんはどんな方ですか?

田島:
私は喜怒哀楽が激しく、熱しやすく冷めやすいですが、これぞと思ったことにはとことん情熱を持ち続けていられる。そんな人間です。

小松:
田島さんは弾けるように笑うかと思えば、涙ながらに昔の思い出を語るようなとてもエモーショナルな方で、私もインタビューをしながら思わずもらい泣きしてしまいました。

本日は素晴らしい機会をありがとうございました。

田島:
ありがとうございました。

編集/佐藤 愛美(ライター)

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

アスリートエージェントとは?

アスリートエージェントは、アスリート・体育会&スポーツ学生に特化した就職・転職エージェントです。

創業以来、

といった業界でも高い数字を出しているのが特徴です。

就職の知識が全くない方でも、元競技者であるキャリアアドバイザーが手厚くサポートいたします。

履歴書の書き方から面接のアドバイスまで、スポーツと同じように「勝つまで」全力で支援させていただくのがモットーです。

利用は完全無料です。私たちと一緒に就活でも勝利をつかみ取りましょう!

無料自分に合う仕事を探す