2025.01.24

すべての人には「役割」がある 元パラアイスホッケー日本代表・上原大祐

Profile

上原大祐(うえはら・だいすけ)
1981年長野県生まれの元日本代表パラアイスホッケープレーヤー。トリノ、バンクーバー、平昌の3大会パラリンピックに出場し、2010年バンクーバーパラリンピックでは、準決勝のカナダ戦で決勝ゴールを決め、銀メダル獲得に貢献。
引退後はNPO法人D-SHiPS32を立ち上げ、大好きな子供達にスポーツを届けたり、自分が嫌だと思った事を次世代に残さないように商品開発などのアドバイザーとしても活動をしている。また、選手として支えられてた側から支える側として活動したく、HEROsアンバサダーや各地で新しい取り組みに力を入れている。

東:
今回のゲストは、元パラアイスホッケー日本代表の上原大祐さんです。

パラアイスホッケーとは、「スレッジ」と呼ばれるソリに乗り、両手に持ったスティックを巧みに操り、激しいぶつかり合いの中パックを奪い合いゴールを目指す、まさしく氷上の格闘技です。

小松:
19歳で競技と出会った上原さんは2006年・トリノパラリンピックに初出場。

2010年のバンクーバーパラリンピックでは準決勝のカナダ戦で価千金の決勝ゴールを決め、銀メダル獲得に貢献。

ソチパラリンピック出場権を逃し、2014年に現役引退を発表するも、2017年、平昌パラリンピック最終予選を前に電撃的に現役復帰。

予選突破に大きく貢献し、2018年の平昌パラリンピックで再び栄光の舞台に立つ、という競技人生を歩んでこられました。

東:
今回は、そんな上原さんの現在、そしてこれからのキャリアを多角的に伺いたいと思います。

現在の上原さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、NECオリンピック・パラリンピック推進本部でのパラスポーツ推進活動やインクルーシブデザインを取り入れた商品のアドバイザーは“B”の領域、2014年に立ち上げ、船長(代表)を務めるNPO法人D-SHiPS32(ディーシップスミニ)での障害をもつ子供のサポートや講演、パラアイスホッケーに触れてもらうための「スポーツキッズキャンプ」など“C”の領域でもご活躍なさっていますね。

小松:
東さんと同じく、アスリートによる社会貢献活動を推進する日本財団HEROsのアンバサダーも務めていらっしゃいます。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

どんな人にも役割がある

東:
パラアイスホッケー選手を引退された現在、どんな活動をされているのですか?

上原:
現在は、NPO法人D-SHiPS32での活動が中心になります。

この団体では、障害の有無に関わらず、子どもたちがスポーツを楽しめる環境をつくることを目的に「親御さんをサポートするプログラム」、「子どもたちにスポーツを届けるプログラム」、「社会問題を解決するプログラム」を元に活動しています。

小松:
活動を始められたきっかけは何だったのでしょう?

上原:
以前、スポーツの素晴らしさを伝える講演をした際に、障害のある子どもを持つ親御さんに「普通の生活をさせてあげることで精一杯で、スポーツをさせてあげるなんて、とても出来ません」と言われたことがきっかけです。

それを聞いた時に、私が幼い頃、障害を持つ私が、出来るだけ他の子どもたちと同じように過ごせるようにと何度も役所で母が頭を下げていたことを思い出したんです。

その時に、親御さんに余裕がなければ、子どもたちがスポーツに出会うきっかけすら出来ないことに気づき、「親御さんをサポートするプログラム」と「子どもたちにスポーツを届けるプログラム」を作成しようと思ったんです。

また、親御さんに余裕がないのは、社会そのものにも課題があるのではないかと考え、「社会問題を解決するプログラム」もつくったのが始まりです。

小松:
お母様が苦しんでいらしたことが原体験だったんですね。その辺りのお話ものちほど伺わせてください。実際に活動されて、何か変化のようなものはありましたか。

上原:
そうですね、障害者やその家族を取り巻く状況は少しずつ変わって来てはいますが、もう少し色々な仕掛けが必要かなというのが正直なところです。

東:
例えば、どのような仕掛けが必要なのでしょうか。

上原:
現在、最も力を入れているのは、スポーツや畑仕事を通じて障害者と健常者の交わる時間と場所を増やすことで、交流を深めるための活動をおこなっています。

小松:
スポーツのみならず、畑仕事も、ですか!

上原:
はい。例えば、会議室に障害者と健常者を集め、机と椅子を用意して、「はい、今から交流を深めてください」と言われてもなかなか難しいですが、スポーツや畑仕事を一緒にするとあっという間に仲良くなれるんです。

スポーツを進めていくには意思の疎通が必要ですから自然と会話が生まれますし、障害者と健常者が一緒に畑仕事を進めていくと、「私は掘れるけど運べない」「私は運べないけど掘れる」というような状況が生まれ、役割分担のために相手を思いやり、コミュニケーションがとられていくんですね。

東:
なるほど、確かにそうですね。

上原:
私は、このような経験を通じて、障害者も健常者も、何から何まで全て自分でやる必要はなく、お互いがお互いを思いやり、社会の中でそれぞれの役割を果たせばいいのだということを伝えていきたいと思っています。

また、障害児を持つ親御さんに向けては「たまには親の日。おやぽーと」という活動もおこなっています。

D-SHiPS32が誰でも乗り込むことの出来る船(SHIP)」だとしたら、この活動は「港(PORT)」。親御さんの待つ「港」と親御さんのサポートという意味を込めて「おやぽーと」と名付けました。

小松:
具体的にはどんな活動をしているのですか。

上原:
千葉県船橋市の商業施設“ららぽーと”に特別に設置されたスポーツやワークショップで子供達に楽しんで貰う場所で障害を持つお子さんを預かり、普段子どもにつきっきりでなかなかゆっくりと髪を切ったり、おしゃれをしてデートしたり出来ないというご夫婦に、私たちが代わりに子守をすることで自分の時間を過ごしていただくという活動です。

ところで、「きょうだい児」という言葉があるんですが、ご存知でしょうか?この言葉が嫌いだという方もいますが、ここではこの言葉を使わせていただきます。

東:
「きょうだい児」、初めて聞く言葉です。

上原:
障害を持っている子どもの兄弟姉妹のことを「きょうだい児」と呼ぶのですが、親御さんはどうしても障害のある子どものサポートに手がかかることが多いので、あまりかまってもらえなくて寂しい思いをすることはもちろん、親御さんのほうでもそれを気にかけているケースがありますので、ゆっくりと一緒に過ごす時間をつくってあげるということも大切なんです。

これらの活動を通じて、障害のある子どもをお持ちの親御さんのサポートをして、少しでも余裕をもって生活してもらえるようにしています。

小松:
それぞれの立場の方々に対する思いやりにあふれた素晴らしい活動ですね。

上原:
ありがとうございます。他には障害の有無に関わらず、家族みんなが一緒に交流出来るプログラムとして、キャンプも実施しています。

昨年は田んぼ遊びを開催して、私を含め参加者みんなで泥だらけになりました(笑)。

東:
参加者みんなの笑顔が目に浮かびます。最高の思い出になったでしょうね。

受け身の仕事はしない

小松:
こちらのNPO法人での活動と並行して、2016年からはNECに入社し、社員にもなられていますよね。

上原:
はい、NECではオリンピック・パラリンピック推進本部に所属し、主にパラスポーツの推進活動や、インクルーシブデザインの視点を活かした商品の開発に携わっています。

東:
商品開発もされているんですか!

上原:
はい、こちらの車椅子のクッションや、本日着ているスーツも私が開発に関わっています。他にもユナイテッドアローズとコラボレーションして、障害者向けの洋服をつくったりもしています。

小松:
どのような経緯で入社することになったのでしょうか?

上原:
NECに入る前は、グラクソ・スミスクラインというイギリスに本社がある製薬会社にお世話になっていたのですが、NPOの活動を進めていく中で色々と不便な点が出てきたので、2016年の3月に辞めることにしたんです。

ちょうど辞めたその日に、NECのオリパラ本部で講演をしたのですが、終了後の会食で「今日、会社に辞表を出してきたんです」とお伝えしたところ、それでは是非ウチに来てください!と誘われて、その場で入社を考えるきっかけをいただきました(笑)。

東:
ものすごいタイミングですね。

上原:
本当ですよね(笑)ただ、NECに入社することでNPOなどの活動に支障が出てしまうと本末転倒なので、私がある程度自由にやらせてもらえないのであればお断りしますとお伝えしました(笑)

小松:
入社させてください、と頭を下げたわけではないんですね。毎日、どのようなスケジュールで勤務なさっているのでしょうか?

上原:
一応、週5日出社することになっているのですが、オフィスにはほとんど行けてません(笑)。

NECでの私の担当業務はパラスポーツの推進による企業ブランドの向上ですが、NPOでの活動とも重なる部分が多いので、必然的に社外での活動が増えますよね。

東:
ご自身のやりたいことと企業の求めているものが上手くマッチしている素晴らしい事例だと思います。

小松:
現在はNPO法人の代表として、そしてNECの社員として様々な活動をされている上原さんですが、そのキャリアに到るまでには、3度のパラリンピック出場を始め、多くの栄光と挫折を経験されてきました。

現在の上原さんを築き上げた波乱万丈のストーリーを伺います。

「ちょっと待っててね」が原点

東:
上原さんには「思い立ったらすぐ行動」という非常にアクティブなイメージがあります。

好奇心にあふれていて、様々なことにチャレンジしているように見えますが、その旺盛な好奇心や前向きな姿勢の原点はどこにあるのでしょうか?

上原:
幼い頃からとてもアクティブでしたね。

私は事故などではなく、生まれながらに二分脊椎という障害を持っており、脚が動かないのですが、小学生の頃は学校から帰るとすぐに友達と集まって、川で魚や蟹を獲ったり、木に登ってカブトムシを捕まえたりと、恵まれた自然環境の中で毎日泥だらけになるまで遊び回って、家に帰ると玄関で全裸にされてお風呂場に直行、という生活でした(笑)。

東:
脚が動かないのに泥だらけになるまで外で遊ぶとはすごいですね…
危ないから、とお母様から止められたりはしなかったのでしょうか?

上原:
一度もないですね。ずっと金魚のフンのように後をついてきていた弟の存在もあったのかも知れませんが、どれだけ泥だらけになって帰っても、毎日「いってらっしゃい」と笑顔で送り出してくれました。

私はパラアスリートの中でもフィジカルが強いほうですが、幼い頃の遊びの中で体幹が鍛えられたのだと思います。バランスよく放任してくれた母のおかげですね(笑)。

小松:
お母様、もちろん心配なさっていたでしょうが、素晴らしいですね。
ところで、上原さんが初めて車椅子に乗られたのはいつだったのでしょうか?

上原:
3歳の時、病院で乗ったのが初めてです。それまでは抱っことベビーカーでしたから、初めて自分の意思で動くことが出来るようになり、とても喜んでいたそうです。

ところで、少し話は逸れてしまいますが、私は車椅子で生活しているお子さんをお持ちの親御さんには「移動手段を車椅子だけにするのはやめてください」と伝えるようにしています。

というのも、車椅子に乗っているだけだと同じ筋肉しか使わないので、車椅子がないと移動出来なくなってしまう可能性があるんですね。

私は自宅では車椅子を使わず、這って移動するようにしていますが、そうすることで、車椅子に乗っているだけでは使わない全身の様々な筋肉が鍛えられるんです。

東:
なるほど、面白いですね。

小松:
幼い頃から「歩けない」ということが当然だった上原さんですが、自分は他の子どもと違う、ということに、成長する段階で気づきますよね。それはどんな経験でしたか。

上原:
私は「歩けない」ということにあまりネガティブな印象を持った記憶がないんですが、それは母のおかげなんです。

例えば小学生の頃、周りの友達が自転車に乗っているのに自分は乗れないということがありました。

その時に「私も乗りたい!」と無邪気に母に伝えたところ、普通であれば「大祐は脚が動かないから、車椅子には乗れても、自転車は乗れないんだよ」と言われてしまうと思うのですが、私の母は「できない」とは言わずに「ちょっと待っててね」と言うんです。

東:
「ちょっと待っててね」から、どのような行動をなさったのでしょうか。

上原:
まずは、どうすれば私が自転車に乗れるのか徹底的に情報収集してくれたんです。今から30年前の長野県でのお話ですから、当然インターネットなんてありません。

周囲の知り合いに片っ端から電話をしてありとあらゆる場所を探し回って、ついに隣の群馬県でハンドバイク(手で漕げる自転車)を見つけて、買ってきてくれたんです。

「はい、これなら乗れるよ」って。

母は、どんなことでも最初から「出来ない」と決めつけるのではなく、どうすれば出来るのかを調べて、出来るようになるために行動する人で、その姿に私は大きな影響を受けました。

小松:
お母様、素晴らしいですね。

人間は子どもでも大人でも「失敗したらどうしよう」という恐れや「出来なかったら恥ずかしい」というプライドがあるものですが、上原さんのお母様は、出来ない理由を見つけて諦めるのではなく、どうすれば出来るのかを考えて行動に移す人だったのですね。

上原:
はい、この時の経験が現在の私のパーソナリティーを形成した原点だと思います。

パラアイスホッケーとの出会い

小松:
お母様の影響でとてもアクティブに過ごされていた上原さん、パラアイスホッケーを始めたきっかけは何だったのでしょう。

上原:
2001年、大学2年生の時に、エムウェーブ(長野市オリンピック記念アリーナ)で行われていたパラアイスホッケー日本代表の強化合宿を見学しにいったのがきっかけです。

関係者の方に勧められて初めてソリに乗ってみた時に、「あ、これ自分にメチャメチャ向いてる!」って感じたんです。

過去に車椅子バスケをやってみた時には、今ひとつピンと来なかったのですが、ソリに乗ってみたらすごくスムーズに滑れて。これだ!と思いましたね。

東:
運命の瞬間ですね!

上原:
はい。実は高校時代にも1998年の長野パラリンピックに向けて、ホッケーをやらないかと誘われていたので、気にはなっていたんです。

小松:
どなたに誘われていたのでしょうか?

上原:
私の使用している車椅子の販売代理店の社長がパラアイスホッケー選手で、その方に誘われていました。

当時も興味はあったのですが、練習会場が自宅から片道1時間半の場所にあるスケートリンクで、朝4時に練習がスタートするため、夜中の2時には自宅を出なければならず、家族に迷惑をかけないよう車の免許を取得してから始めようと考えていました。

小松:
初めて車を運転出来るようになって、いかがでしたか。

上原:
世界が変わりましたよね。初めてみんなと同じ行動範囲になれたので。

母が買って来てくれたハンドサイクルも結局は行った先に車椅子がないと降りられないので行動範囲は狭いままでしたし、高校になると周りがバイクに乗りだしたりもしたので。

小松:
そこからホッケーの世界にのめり込むのですね。代表入りしたのはいつですか。

「地面が揺れた」夢の舞台

上原:
2001年、19歳で競技を始め、2003年、21歳の時に初めて代表チームに選ばれました。

東:
競技を始めて2年で代表に選ばれるなんてすごいですね!

上原:
はい、当時はとても生意気で、2002年のソルトレイクシティーパラリンピックに出場する先輩たちを成田空港まで見送りに行った時に、「今度は僕が見送られる側になりますから!」と言って送り出したのを覚えています(笑)。

東:
上原さんっぽいですね(笑)その言葉どおりに次のトリノパラリンピックに出場されたわけですが、世界一のスポーツの祭典を実際に体験してみていかがでしたか?

上原:
すごく楽しかったです。特に開会式が凄まじくて…。会場の外で待機している時から歓声で地面が揺れているのがわかるんですが、会場に入った瞬間、大歓声で会場全体が揺れるんです。

その空気感が最高に気持ちよくて、「もう一度これを味わいたい!」と思いました。

東:
オリンピアン・パラリンピアンの方は皆さん口を揃えて開会式の素晴らしさを伝えてくれます。同じアスリートとしてその経験が出来なかったことを悔しく思うとともに羨ましく感じますね。

世界最強チームでの経験

小松:
トリノパラリンピックを目指す中でアメリカでもプレーなさいましたね。

上原:
はい、2004年から2006年の間にNHLチーム同名の「シカゴ・ブラックホークス」という世界最強のパラアイスホッケーチームに所属して、試合のたびに日本から移動、一週間ほどの合宿を経て、大会に出場していました。

東:
世界最強のチーム、所属するきっかけは何だったのでしょうか?

上原:
日本代表とシカゴのクラブチームが親善試合をした際に、一緒にプレーしないかと誘われたのがきっかけです。

東:
一緒にプレーしないかと誘われただけで海外に挑戦するとは凄いですね!

小松:
アスリートが国境というボーダーを超えて、別の国でプレーするのは、ものすごく覚悟が必要かと思いますが、上原さんはそんなボーダーを軽く超えていきますよね。

上原:
いや、ただ面白そうだから行っただけなんですよ(笑)。私以外にも4,5名の日本代表選手が同じようにシカゴでプレーしていましたし。

東:
そうだったんですね。ブラックホークスではサラリーを得ていたのでしょうか?

上原:
いえ、プロ選手としての契約ではないので、サラリーは出ませんでした。

パラのカテゴリーのブラックホークス自体もプロのクラブチームではなく、当時も現在もパラアイスホッケーのプロリーグやプロチームは存在していないのが現状です。

東:
パラスポーツのプロリーグやプロチームを成り立たせるのは相当ハードルが高いでしょうね。

上原:
そうですね。ただ、金銭面はともかく、世界最強のチームで世界最高の選手たちと一緒にプレーする日々はホッケーを始めたばかりの私を飛躍的に成長させてくれましたし、同じくシカゴでプレーしていた他の日本代表選手たちの実力も大きく向上していたので、トリノでは絶対にメダルを獲れる!という自信と期待感にあふれていました。

小松:
迎えたトリノパラリンピック、結果は5位とメダルには届きませんでした。この大会、上原さんはどのような印象をお持ちですか?

上原:
個人的には初戦でハットトリック(3得点)を達成したりとまずまずの出来でしたが、チームとしては何もかもが初めてだったこともあり、パラリンピックの空気に飲まれ、思うようにいかない状況を立て直せないまま本来の実力を出せずに終わってしまったように感じます。

苦しい中で何とか結果を出そうと、集中を切らさないためにオフをなくしたり、他競技や他国の選手のとのコミュニケーションを制限されたりすることで、監督と選手の間がぎくしゃくしてしまったり、という悪循環にも陥ってしまいました。

東:
「絶対に勝たなければいけない」という思いが強すぎたのかもしれませんね。

「全力を尽くす」=「オフをなくす」や、「集中する」=「他者とコミュニケーションを取らない」に行き着いてしまったのでしょうか。

個人的はどんなことでも四六時中集中し続けることは不可能なので、オンオフをしっかりと切り替えることが良いパフォーマンスにつながるように思いますが。

上原:
私もそう思います。

東:
何かを我慢したり、厳しいこと、辛いことをすれば結果につながる、結果につながらなくとも言い訳になる、といった考えを改めることが、スポーツ界のみならず日本の社会全体の課題としてあるように感じます。

小松:
その後、上原さんは2010年にバンクーバーパラリンピックに出場。

準決勝のカナダ戦で伝説の決勝ゴールを決め、チームを銀メダルに導いた後、2013年に引退を決断されますね。現役に線を引こうというきっかけはあったのですか?

上原:
そうですね、パラアイスホッケー協会との関係悪化が最大の原因ですね。

バンクーバーの後、2012年にアメリカへ留学したのですが、「やる気がない」と見なされて除外選手になり、協会のホームページに「引退選手」として発表されたんです。

これまで引退した選手を発表したことなど一度もなかったでしょうと問い詰めたところ「これからは発表していく」と説明されたのですが、結局、私以外には誰も発表されていません。

東:
なぜそのような理不尽なことをするのでしょうか?より上達するためにアメリカへ留学することは上原さん個人のみならず、日本代表強化のためにも素晴らしいことだと思うのですが。

上原:
私もそう思うのですが、日本では自分たちのテリトリーの中で練習しないヤツはダメだ、みたいな文化というか風潮があるじゃないですか。

言うことを聞かないヤツ、コントロール出来ないヤツは外せ、みたいな。当時はそういう文化だったんでしょうね。今ではずいぶんと変わりましたけれど。

小松:
パラリンピックという華やかな舞台を通じて、栄光や挫折など様々な経験を重ねてきた上原さんですが、パラアイスホッケー以外のステージでもご自身のパーソナリティーを活かして幅広く活躍なさっています。そのあたりのお話もお聞かせください。

初めての社会人

東:
上原さんのパラアイスホッケー選手以外の部分についてもお話を伺わせてください。初めて就職なさったのは、「グラクソ・スミスクライン」とのことですが、どのような企業なのでしょうか?

上原:
グラクソ・スミスクラインは主に医療用医薬品の研究開発から輸入、製造、販売をおこなっている製薬会社で、馴染み深いところでは総合風邪薬・コンタックなども扱っています。

2006年、トリノパラリンピックが終了してから1週間後に24歳で入社しました。

東:
イギリス・ロンドンに本社を構える世界有数の大企業ですよね。いわゆる普通の就職活動をなさった結果なのでしょうか?

上原:
はい、いわゆる普通の就職活動をしました(笑)。

当初、私は特定の業界や企業ではなく“営業”という“職”にしか興味がなく、ありとあらゆる企業に対して「とにかく営業をさせてください!」とお願いしていました。

当然、「車椅子で営業は無理です」と言われ、何十社も落ちていたのですが、グラクソ・スミスクラインだけが「面白いね」と言ってくださり、採用に至ったんです。

面接時に「御社から製薬業界初の車椅子の営業がでますね」なんて話していたのですが、採用が決まった後に、「営業ではなく、人事に興味はありませんか?」と言われて。

「薬を会社に売るのが営業、会社をドクターや学生に売るのが人事。営業も人事もそういう部分では似ているよ」と話をされて、なるほどなあと。

東:
逆に人事という職業をプレゼンされたんですね!人事での仕事はいかがでしたか?

上原:
それがものすごく楽しくて。営業より向いていたのかも知れませんね。

小松:
グラクソ・スミスクラインでの仕事内容を具体的にお教えいただけますか。

上原:
はい、人事部で新卒にも関わらず新卒採用を担当していました(笑)。

業務内容は全国の大学や東京ビックサイトなどで開催される就職フェスでのプレゼンや面接、内定者の対応、インターンシップに参加している学生へのプログラム提供などで、アメリカに留学する2012年まで続けていました。

小松:
バンクーバーでの銀メダルを経て、ソチで更なる高みを目指すために再びアメリカへ。会社は許してくれたのでしょうか?

上原:
当然、許してもらえるとは思っていなかったので辞表を提出したのですが、社長が「いいよ大祐、休職して行って来なよ」って言ってくれたんです。

実はこの時アメリカへ行った目的は、アスリートとして競技力を向上させることだけではなく、子どもたちが自由にスポーツを楽しめる環境をつくるための方策を学ぶためだったんです。

2004年に渡米した時、アメリカには障害の有無に関係無く小さな頃から様々なスポーツに触れ合える環境があることを目の当たりにして、この環境を日本にもつくりたいと思って。

同じアメリカでも、2004年はシカゴで世界一のチームで世界一の選手と、2012年はフィラデルフィアで障害のある子どもたちと一緒にホッケーをしていました。

東:
フィラデルフィアでの生活はいかがでしたか?

上原:
住む家も決まっていないのに渡米して、ホッケーの用具や生活用品の入った60キロくらいの荷物を持ってさまよった末に何とかホームステイ先を見つけたり、その後、紆余曲折を経て一人暮らしをしたりしていたら、世界中の様々な国に友達が出来ました。

今なら世界のどこに行ってもホームステイ先には困らないんじゃないですかね(笑)。

小松:
探していたものは見つけられたのでしょうか。

上原:
そうですね。2004年にアメリカで障害のある子どもたちがスポーツに触れ合う姿を見て、日本でもこんな環境をつくりたい!と思ってから10年目の2014年。

2006年に就職して、初めて自分で稼いだお金で障害のある子どもたちにホッケーを体験させる活動を個人として続けてきたのですが、フィラデルフィアから帰国して、これらの活動を進めるためのNPO法人を立ち上げることにしました。

小松:
それが、NPO法人D-SHiPS32(ディーシップスミニ)ですね。

上原:
はい。このNPOでは障害者と健常者が時間を共有することで、誰もが挑戦できる社会づくりを目指しているんですが、活動を進めていく中で子ども達と関わることが増えていきました。

そんな中、出会った子ども達に「大祐さんのことを最近知ったから、氷の上でプレーしている姿を見たことがない、見たかったなあ」って言われたんです。

小松:
様々な経緯で協会と決別し、競技からも離れていた上原さんが、なぜ2018年の平昌パラリンピック予選の時に復帰したのかと不思議に思っていましたが、子ども達に自分の氷上での姿を見せるためにもう一度ユニフォームを着たということだったのですね。

子どもたちに自分の背中を見せたい

上原:
はい、そうなんです。その後、子ども達には内緒で復帰して、それがメディアで報じられた時に「子どもがとても喜んでいる」というご連絡を多くの親御さんからいただきました。

障害があっても出来るんだよ!ということを自らの行動で、子どもたちに挑戦する背中を見せることで伝えることが出来て、改めて復帰してよかったなと思いました。

東:
協会の反応はどうでしたか?現役復帰にあたって、揉めたりはしなかったのでしょうか?

上原:
実は、アメリカ留学から帰国した際に、協会から2014年のソチパラリンピックに向けて「やっぱり戻って来てほしい」という連絡があったんです。

もちろん最初は素直には受け入れられませんでしたが、諸々の経緯を含めて会社に相談したところ「もう一度代表に復帰して頑張ってみたら」と言ってくださったので。

ですから、協会に頼まれたから、が理由ではなく、私の活躍を楽しみにしている子どもたちとお世話になっている会社のために復帰したというのが事実です。

ブランクもありましたし、チームの中でコミュニケーションを取る際にも色々とありましたが、人生の節々で「○○を辞めて今日からは○○だ!」という瞬間を何度も経験してきているので、いい意味で割り切りながら取り組んでいました。

東:
強いですが、少し切ない強さですね。

2021年がスタートだ

小松:
来年、2020年はいよいよ東京オリンピック・パラリンピックが開催されますね。千載一遇の機会になりますが、何かアクションを起こそうと考えていらっしゃいますか?

上原:
多くのみなさんが2020年を「ゴール」だと思っていますが、私はその後にスタートする“アフター2020”を充実させるための準備期間だと思っています。

いかにここでしっかりとした準備をして、2021年をスタートできるかが今後の日本にとって非常に重要なポイントだと考えています。

小松:
それは具体的にはどのようなことですか+?

上原:
スポーツにまつわる環境についてもそうですが、障害者の方々が暮らしやすい世の中にするというバリアフリー環境の改善についてです。先日話題になったジャパンタクシーの問題も典型的だと思います。

小松:
ジャパンタクシーについては、多くの方が問題視していますね。

上原:
はい、障害者が乗りやすいようにと設計されたはずなのに、スロープを出すなどかなり多くの工程が必要で、タクシーを止めてから乗車するまでに15分から20分も待たなくてはいけないですし、スロープが横から出てくるので、東京のように狭い道が多い都市だと、その間後ろの車にも待っていただく必要があり、多くの方々に迷惑がかかるんです。

つまり、普段から「すみません、すみません」と言いながら生きている障害者の方々に、さらに「すみません、すみません」と言わなくてはならない機会を作っているようなものなんです。

本来、減らさなくてはいけないのに、増やしてしまっているんですよ。

東:
ジャパンタクシーの問題は、当事者である障害者の意見をきちんと聞かずにモノを作ってしまうという日本の悪しき習慣があらわれた例だと思います。

なぜ日本では、このような事態になってしまうのでしょうか。

上原:
様々な要因があるのですが、日本における“ユニバーサルデザイン”が、健常者が健常者の目線で想像してつくりあげた基準の項目でチェックされているからだと思います。

みなさん「障害者団体にヒアリングして作りました」なんて言うのですが、障害者団体も高齢化してきて、例えばスポーツのイベントなんて行ったことのない障害者団体のメンバーに聞いて「よくわからないけど、多分こうなんじゃない?」という意見を聞いても、全然当事者目線にはならないですよね。

つまり、車椅子に乗っている人のファンタジーと、健常者のファンタジーでつくられているんです。だからダメなんです。

小松:
それこそ上原さんが課題を見出し、解決方法を考えて対価をもらうということをやればいいと思いますが、いかがでしょうか。

上原:
はい、それについては、東さんも理事を務めている世界ゆるスポーツ協会の代表でもある澤田智洋さんと一緒に「一般社団法人障害攻略課」で活動していて、国土交通省へ意見陳述へ行ったりもしています。

東:
上原さんと澤田さん、最高のコンビですよね!さて、スポーツを取り巻く環境に目を向けると、2020年にオリパラが終わった後、それまでアスリートを雇用していた企業が雇用契約を打ち切るということも増えてくるのではないかと思います。

上原:
おそらく増えていくでしょうね。オリパラが終われば、そこまでスポーツやアスリートを盛り上げ、サポートする必要がなくなりますから。

私もNECと契約社員として契約しているのですが、雇用形態によってはリストラされてしまう可能性も否定出来ませんよね。

東:
当事者であるアスリート本人が己の強みを見出して、オリパラ終了後にも何かしらの価値を企業に提示できればいいですが、企業にとって「地元のパラリンピックに出場するから広告価値がある」という立ち位置だけでは、終わったら価値がなくなってしまいますよね。

上原:
本当にそうですね。

自分と周囲の人の「スペシャルな部分」を知ること

小松:
2020年が「ゴール」なのではなく、2021年が「スタート」だというお話が印象的でしたが、2021年からどんな社会にしていかなければいけないと思いますか?

上原:
ひとまず、東京オリパラが終われば一旦スポーツやアスリートへの熱が冷めますよね。

その熱が冷めることを選手たちに理解してもらった上で、熱が冷めた時のために今から動きましょうということを2020年までに啓蒙していく必要があると思います。

東:
どのように動いていけばよいと思われますか?

上原:
まずは選手たち個人個人が自らの強みを理解することが大切だと思います。

パラスポーツはオフスポーツとかオンスポーツとも呼ばれるのですが、パラアイスホッケーであれば、脚は「オフ」ですが、腕がめちゃめちゃ「オン」なんです。

パラスポーツの原点は「オフ」の部分を受け入れた上で、「オン」の部分をどう活かしていくかということなのですが、競技以外でも自分の「オン」がどこなのかということを考えることが大切なんです。

小松:
自らの「オン」と「オフ」を理解することが重要なんですね。

上原:
はい。それと、日本においてはチームワークの良い強いチームをつくるためには、長い時間同じ環境で一緒の時間を過ごし、同じ考えを持つことが大切だという風潮がありますが、私は違うのではないかと考えています。

というのも、ジェネラリストで作るジェネラルチームよりも、スペシャリストで作るジェネラルチームのほうが強いと思っているんです。

スペシャリストとは、自らの強みを持ち、それを知っているということであり、また、周りの人の「スペシャルな部分」をちゃんと理解出来ているということなんですよ。

東:
なるほど、興味深い話ですね。

上原:
自分だけではなく周りのことも理解して、お互いにいい部分を使い合う。

そんな、スペシャリストで作るジェネラルチームが強いということを理解して、一人ひとりがスペシャルな部分を持っているという自覚を持ち、それらをマッチング出来ると、色々なものがもっと上手く動き始めるのではないかと。

小松:
今はどうですか?

上原:
全然。まだまだ足りないですね。

東:
上原さん、現在は何をしている時が一番楽しいですか?

上原:
子どもたちと戯れている時ですね。あとは新しいものを生み出している時。

障害者は不便を文句で届けてしまいがちなのですが、私はできれば不便をアイデアで届けたいなって思っています。

東:
不便をアイデアで届ける。素敵な言葉ですね。

上原:
私の軸となっている活動は「子ども」ですが、社会を変えないと子どもがハッピーにならないのであれば、軸は「子ども」であって、変えるべきなのは「社会」なんですよ。

子どもを変えるわけではないんです。だから企業や行政の力を使って、働きかけをしているんです。

小松:
そんな社会が2021年からスタートできるよう、私も力になります。

上原:
あとは、私が小さい頃に「嫌だな」と思っていたことを今の子どもたちに感じさせることほど無駄なことはないと思っているので、当時の私の「嫌だな」を解決して、次は今の子どもたちが成長した時に、自分が感じた「嫌だな」を次の世代の子どもたちに感じさせないような社会を作っていければと思っています。

東:
そんな風にどんどんみんなの「嫌だな」をなくしていければ、とても素晴らしい社会になりますよね。上原さんの今後の活動がますます楽しみになりました。

小松:
さて、改めて上原さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、“B”の領域であるNECオリンピック・パラリンピック推進本部でのパラスポーツ推進活動や障害者向け商品のアドバイザーと、パラアイスホッケーチーム・東京アイスバーンズで実施しているパラアイスホッケーに触れてもらうための「スポーツキッズキャンプ」があり、“C”の領域では船長(代表)を務めるNPO法人D-SHiPS32(ディーシップスミニ)での障害をもつ子供のサポートや講演、一般社団法人障害攻略課の活動などでもご活躍なさっていますが、社会課題の解決への情熱も感じますので、政治家への転身も考えられるのではないかと感じました。

東:
分かります!ルックスがよく、様々な分野の知識がある上に、弁もたちますので、コメンテーターなどのお仕事も向いているように思います。“D”の領域にも進出していけるのではないでしょうか。

小松:
今後、ますます活動の幅を広げられていきそうで、楽しみです。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
さて、それでは最後に、競技の名前をつかわずに、自己紹介をしていただけますでしょうか。

上原:
今の自分は、社会起業家・上原大祐、ですかね。

小松:
どんな問題を解決する社会起業家ですか?

上原:
私が感じた「嫌だな」という課題を解決する社会起業家です。

小松:
素晴らしいですね!お忙しい中ありがとうございました。

上原:
ありがとうございました!
(おわり)

次回は、元ボブスレートリノ&バンクーバーオリンピック代表・桧野真奈美さんです。3月25日公開!

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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