Career shift

朝日健太郎 / Asahi Kentaro   元ビーチバレー選手|現在:

コンプレックスは力になる ビーチバレー・朝日健太郎(中編)

Profile

 

朝日 健太郎(あさひ・けんたろう)
1975年熊本県生まれ、鎮西高校在学中に日本代表招集。以来、法政大学在学中、サントリー在職中にわたり日本代表として活躍。2002年ビーチバレーボールに転向。北京五輪、ロンドン五輪に出場し、日本男子史上初の勝利を挙げる。引退後、NPO法人理事長に就任。フォーバルにて6人制バレーボール監督就任。早稲田大学大学院にて学び、スポーツ産業の育成を通じた経済発展への問題意識を得る。2016年参議院選挙にて初当選

 コンプレックスは力になる

小松:
朝日さんは政治家として、色々な矜持や考えを持って活動されていますが、その覚悟はどこからきたのでしょうか。 室内のバレーボールから、ビーチバレーに転向した時の何百倍も重い決断だったと思います。

朝日:
はい、アスリートから政治家への転身って、実は自分の中では、「自分で未来を開拓していく」という意味に置いては、バレーボールからビーチバレーに転身した時と、あまり変わらないんですよ。自分の道を切り開いて行く、という意味では。

小松:
今までバレーボールもビーチバレーも全身全霊でやってきた。そのステージが政治に移った、ということですね。

朝日:
僕って、行き先が見える道よりも、どうなるかわからないイバラの道を切り開いて行くのが性分にあっているのかもしれません。これは是非伝えたいのですが、僕ってすごく勉強ができたんですよ学生の頃は……って、ここは笑ってください(笑)。

東:
いやいや、本当にとても賢い方だと思います。

朝日:
お世辞でも嬉しいです(笑)。実は僕って、学生時代は普通に勉強して進学しようと思ってたんです。でも最後の最後で、本当にギリギリでバレーボールの道を選びました。あの感覚って、今でも変わってないなって。多くの人が選ぶ、勉強して進学して社会人になる、という道よりも、あまりやらないバレーボールの道の方が面白いんじゃないかって思ったんですよ。

東:
そのマインドは、バレーボールからビーチバレーへの転向時も同じで、「誰もやったことがないから止めておこう」ではなくて、「誰もやったことがないなら自分がやってみよう」ということですよね?

朝日:
まさしくそうです。実はそれって、元をたどると、僕の運動能力が低いことに関係しているのかもしれません。

東:
日本代表の朝日さんが運動能力が低いだなんて、冗談でしょう?(笑)。

朝日:
いやいや、これは本当で。だからそのコンプレックスが競技の道を選んだ原動力なのかもしれませんね。下手だから、能力が低いから努力しなくちゃっていう問題意識を小さい頃から持っていたのかもしれません。

小松:
スポーツと人生の関わり方を紐解かせてください。朝日さんはずっとバレーボールだけをやっていたんですか?

朝日:
バレーボールは中学に入った時です。それまではサッカーでした。

小松:
厳しい部活だったんでしょうね。

朝日:
いやそれが、そんなにハードな部活動ではなかったんですよ。もしスパルタでやらされていたら、嫌気がさして辞めていたかもしれませんね(笑)。

小松:
熊本はバレーボール、強いですからね。

朝日:
はい、強豪校多いんですよね。それで僕は体が大きかったからスカウト受けて、鎮西高等学校という、バレーボールの強い高校に通いました。その高校にスカウトされるまで、親には偏差値の高い高校に入って、国立大学目指すって周囲には言ってましたから、突然バレーで推薦されて行くと決めたので、周りは驚いていました。

小松:
朝日さんの出られた鎮西高校は、春高バレーの常連校ですよね。

朝日:
はい。そういう流れなので、本格的にバレーボールを始めたのは、高校に入ってからなんです。

東:
ご家族はスポーツに対して熱心だったんですか?

朝日:
いや、それが全くないんですよ。スポーツやれとか、そういう教育受けたことないんですよ。

小松:
高校時代の練習は、中学と違ってタフだったでしょうね。

朝日:
最初がとても大変でしたね。自分が選んだ道なんですけどね(笑)。今に境遇が似ているかもしれません。中学の時は週に2、3日しか練習してなかったのが、高校に入ると年に1日しか休みがなくなるという(笑)。バレーボールの練習ばかりの生活に変わりました。

バレーボールからビーチバレーにシフトした時も、政治家になった時も、とにかく最初はギャップを埋めるために本当に必死でした。

小松:
バレーボールからビーチバレーへのシフトチェンジをニュースで聞いた時には、とても驚きました。

朝日:
自分でも、大胆だなと思いました(笑)。結局自分はバレーボールで大成しなかったなと思ったんです。高校は全国大会に出て、大学に進学して、代表に選んでいただいたんですが……。

東:
いわゆるエリートコースだったわけですよね。どうしてそういう気持ちに?

朝日:
あまり自覚がなかったんですね。自分がバレーボールでキャリアアップしているという感覚を持てなかったんです。

 自分の人生のゴールを模索した

小松:
鎮西高校でバレーボールに打ち込み、早くも日の丸を背負う時がやってきました。

朝日:
高校3年生でした。

東:
初めての代表チームはどういった印象でしたか?

朝日:
わ!中垣内祐一だ! という印象です(笑)。中垣内さんと同じ場所にいるって。ビビってました。まさか自分が日本代表に選ばれるなんて考えもしなかったですから。しばらく体が思うように動かなかったです。

小松:
当時の男子バレーの人気は、今以上にすごかったですよね。

東:
当時のバレーボール日本代表チームは多くのメディアに露出していて、アイドル的なアイコンとしても扱われていましたよね。

朝日:
男子バレーは、コンテンツという意味では、そういう側面もありましたよね。

小松:
日本代表の一員になって、達成感や満足感はありましたか。

朝日:
その点でいうと、僕は日本代表として4、5年やらせて頂いて、テレビでもたくさん取り上げていただいたんですが、最終的に心が疲弊してしまったんですよ。一生懸命前向きな気持ちになろうとしたんですが、どうしてもだめでした。そしてくたびれ果ててしまったんです。たくさんの人に1年中追いかけられて、大勢の人の前で試合をさせていただいて。最初は楽しかったんですけどね。高揚感に包まれて……。

小松:
ちょうど朝日さんが活躍されていた頃に、リーグの組織形態も変わっていきました。そういう面でも激動の時代でしたね。その中で、疲れ切ってしまった・・・・・・。

朝日:
はい、ですから、最近の若いトップアスリートを見ていると、心のケアは大丈夫かなと心配になるんです。テレビにたくさん取り上げられたりすることで、メディアを通してお客さんに注目されて、心を壊さないかなと心配なんです。今はSNSを通した意見などもありますしね。

ただ、僕らのころと違うのは、メンタル的なケアというのが昔に比べて結構細やかにアスリートに対して行われている、という事実もあります。僕らの頃はそういうケアは皆無でしたからね。「先輩たちがこれでやってきたんだ。お前らも同じようにやれ」という理屈で(笑)。

小松:
確かに昔は、頑張れ、我慢しろの精神論が当然でした。自分の心を見失った朝日さんは、どうやって新たな道を見出したのですか。

朝日:
そうですね、日本代表のユニフォームを着ておいて、こんなことを言うのは憚れるのですが、もうここにはいられないのかな、と考えた時はありました。そうすると選択肢としては、海外でプロになるか、辞めるか、ビーチバレーか。年齢的に25、6歳でしたから、辞めるにはちょっと早いし、あと辞めるほど甲斐性なかったんですよ。

小松:
ビジネスパーソンになる、という選択肢は?

朝日:
バレーボールを辞めて、会社員というのも考えましたけど……。

小松:
その時に、スポーツで、肉体を駆使して、再度チャレンジしたいという気持ちもあったのでしょうね。

朝日:
そこはぼんやりとしていて、とにかく現状から脱したい、という気持ちが強かったですね。とにかく辛かった。それが一番先だったと思います。ただ、日本代表のユニフォームを着たら、そんなことは言ってられなかったですけどね。最大限自分の実力を発揮しようとしました。

東:
バレーボール以外のいくつかの選択肢の中から、ビーチバレーを選んだと。

小松:
具体的にはどういうアクションを起こしたんですか?

朝日:
まず日本代表を辞退して、当時所属していたサントリーに退職を告げました。これは今でも覚えているんですが、当時のバレーの代表ってエントリー制だったんですよ。

東:
日本代表がエントリー制とは、どういうことでしょうか?

朝日:
はい、当時、バレーボール界では、日本代表に選出されている選手たちの中で「慣れ」とか「緊張感の欠如」というのがあって、低迷してたんですね。だから意志の再確認の「踏み絵」みたいなものをやろう、ということになったんです。

小松:
日本代表で戦いたい人間だけ名乗り出よ、ということですね。

朝日:
はい、そしてそこから選ぶ、ということになったんです。「では僕は手を挙げません」と決めたんです(笑)。

あの夜は忘れません。日本リーグの最終戦でしたが、僕らは決勝までいったんですよ。そしてその日の夜の23時59分がエントリーの締め切りだったんです。

試合が終わり、ホテルの部屋で、「あ、11時回った、エントリーどうしようかな」と悩んだんです。ワンクリックすればエントリーです。悶々としてました。一人で(笑)。そして散々悩んだ瞬間、クリックしませんでした。ああ、これで僕も日本代表と決別したんだなと。

 逆境を力にする

小松:
「あの朝日が日本代表にエントリーしなかった!」と、周囲は驚きませんでしたか。

朝日:
選考委員会を開催するころには、僕はビーチバレーに転向するってことになっていたので、エントリーしたかどうかはあんまり話題になりませんでした。この「自分からバレーボールを降りた」というのは自分の人生でとても大きかったですね。確か、2002年ぐらいだと思います。

東:
ビーチバレーに転向する他にも、一流企業であるサントリーで六大学卒の正社員として生きていく道もあったわけですが、もったいないとは思いませんでしたか?

朝日:
はい、お話をいただいていました。とてもありがたいことです。もちろん考えました。両親のことや、恩師のこと、もちろん今後のキャリアのことも考えて、悩みました。

小松:
どうやって暮らしていくか、家族を養っていくか、ということも考えたでしょう。

朝日:
はい。そこは、僕のプラス思考なんですけど、チャレンジをマネタイズしてやろう、って思ったんです。このキャリアチェンジというのを逆に活かして、そこにどうしたら価値をつけられるだろう、今考えれば浅はかですが、そんなことを考えていました。

そういう経験から、自分をマネージメントしてくれる会社に籍を置いたり、自分でも活動したりしてました。

小松:
そういう活動で生活は成り立ちましたか。

朝日:
ギリギリでした。貯金を切り崩しながら少しずつ。といっても蓄えすらあんまりなかったんですけどね(笑)。
ビーチバレーに活動を移してから、競技のレベルもそうでしたが、お金の部分でも実際は大変でした。なんでこんなにお金がどんどん減っていくんだろう、って(笑)。

小松:
バレーボールとビーチバレーでは、競技の環境が違いますよね。

朝日:
はい、下町のビーチバレー愛好家の方が強いんですよ(笑)。コテンパンでした、指さされて笑われましたよ「朝日健太郎に勝った!」って(笑)。すごく悔しかったですが、そんな状況が2、3年続きました。

小松:
バレーの日本代表選手が、そんな思いをする。つまりまったく違う競技だと言うことですね。

朝日:
はい、技術レベルが違います。動作的には同じなんですが、最初は全然順応できませんでしたね。

小松:
ビーチバレーが楽しくなった瞬間って、覚えていますか。

朝日:
そうですね〜、最初はボッコボコにやられていたんですよ。愛好家のみなさんに。でも1、2年後に、僕を笑った人たち全員に勝ったんですが、それが一番楽しかったです(笑)。

小松:
最初はぼろ負けですか。

朝日:
はい、1年目はただ負け続けて、2年目にようやく「あ、この相手は苦汁を舐めた相手だった」「この人には勝てなかった」という気持ちが沸き起こっていったんです。すると、勝ちたい、勝たなければ何も得られない、という気持ちが心の真ん中に出来上がっていきました。3年目になる頃、バレーボールの高校時代、日本代表時代を思い出しながら勝つことを目指して試合して、負けた相手チーム全てに勝ちました(笑)。

小松:
朝日さんは、バレーからビーチバレーという競技を選びましたが、他のジャンルは考えなかったんですか。

朝日:
他は考えられなかったですね。他のジャンルに行くというよりも、当時頭にあったのは、まずはバレーボール協会から出よう、という考えが1番にあったんです。

東:
なるほど。ちなみに、ビーチバレーでオリンピックを目指そうといった意識はいつ頃からでしょうか? 徐々に勝てるようになってきて、そういう考えも持ち始めたのではないですか?

朝日:
はい、まず国内である程度成績が出て、世界に出て、世界での戦い方がなんとなく見えたので、「これはオリンピックの可能性があるかもしれない」と考えていました。だいたい4年目ぐらいからでしょうか。

東:
バレーボールからビーチバレーに転向した自分の状況を客観的に見つめ直して後悔したりはしませんでしたか?

朝日:
最初の1、2年は自分の姿を見て見ぬ振りをしました。直視したらビビって怖くなりそうだったので。お金もないし、将来も保証されていないし、どうしよう?と思ったんです。そしてなぜか、体重が増えたんですよ(笑)。

小松:
自分自身の肉体管理ができていなかった。

朝日:
一生懸命練習していたんですけど、我流でやっていたので、アスリートとしての強化にはまったく繋がっていなかったんでしょうね。夜のお付き合いという名の下に呑んだくれていました。それを、寮から解放されてストレスを発散しているだけだ、と自分を許したんですよ。それも一因だった。「これも仕事のうちだ」と自分で自分に言い訳をして、食べて呑んで、夜中まで出歩く。もちろん新鮮な体験で楽しかったんですよ。でも睡眠不足のまま午前中の練習へ行ったり、乱れた食生活を続けたり。そういう状態で練習してもね、結果は出ませんよね。

それで、このままではマズいなと思って、ようやく危機感を覚え、生活を改善していきました。

 モデルケースがないからやる

東:
ビーチバレーに転向した頃はどちらにお住まいだったんですか?

朝日:
最初は神奈川に住んでました。

小松:
練習はどこでされていたんですか。

朝日:
神奈川県の江ノ島にある普通の公共のコートです。すごく恥ずかしかったのは、大会があっても、控室ないので着替えはその辺でしますし(笑)。食事は「どこで食べればいいんですか?」って聞いたら、「何言ってるんですか、ここで食べればいいじゃないですか?」って言われて、「お客さんいるのにここで食べるのか……」なんて思ってました。バレーボール時代ではありえない話だったので、戸惑いましたよね(笑)。

東:
毎日大変だったと思います。辞めようとは思いませんでしたか?

朝日:
それは一度もないんですよ。プレー自体はなかなか上手くいかなかったですが、競技以外のことを並行して考えていたからかもしれませんね。たとえば資金的な面で、営業活動などして、スポンサーが1つ決まれば少し前向きになりますし。ビーチバレーをしながら、色々な違う活動も並行してやって、自分の人生におけるキャリアにプラスになるようなことをやっていました。そういう活動を通して、自分の生活や人生のバランスを取っていたんでしょうね。

東:
スポーツって、費用対効果を明確に説明することが難しく、なかなかマネタイズ出来ないですよね。

小松:
スポンサーを見つける、協賛のメーカーをつけるなどは、普通、広告代理店やマネジメント事務所が行いますが、それを個人で実行したんですね。社会と繋がるアスリートになる。そこにはもちろん責任や社会的使命も生まれます。代表を離れてそんな活動を一人でやる胆力には感服します。

朝日:
いえいえ、今ではみんなやっていますよ。でも、当時は少なかったかもしれませんね。自分はモデルケースがない、過去に事例がない方向に人生の歩みを進めちゃうんですよ(笑)。モデルケースが見えると、なんとなく未来が見えてしまいますからね。

小松:
朝日さん、アドベンチャー体質ですよね。冒険者の気質をお持ちなんだと思います。普通なら、成功者をお手本として、それに沿って歩んでいくでしょう。朝日さんのような前例を求めないチャレンジャーは稀です。どこに割れ目があるかわからない、氷河を歩くようなものですから。

朝日:
モデルケースがないキャリアに憧れているんですよ。無謀でも、ついそっちの方向に行ってしまうんです(笑)。

小松:
そして朝日さんは自分を緻密に分析して、それを言語化して人に伝えられる力をお持ちです。次回は、ビーチバレーを経た、その後の朝日さんの人生について聞かせてください。
(つづく)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

小冊子ダウンロード

タグ:, , , , , , , ,

RANKING

FACEBOOK

TWITTER

INSTAGRAM

小冊子ダウンロード

就活・取材に関するお問い合わせは、
お気軽にご相談ください。

ご連絡いただいた個人情報は、
お問い合わせの回答以外には一切利用いたしません。

お電話でのお問い合わせ

TEL.03-5738-8013

TEL.03-5738-8013

受付時間 平日10:00-17:00

『アスリート・ライブ』運営会社

株式会社アーシャルデザイン www.a-cial.com
TEL:03-5738-8013 FAX:03-5738-8015
電話受付時間 9:00-19:00(土・日・祝日除く)

CONTACT FORM項目は全て必須入力でお願いします。

お名前
お電話番号
メールアドレス
ご用件
メッセージ本文

プライバシーポリシーに同意する。