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萩原美樹子 / Hagiwara Mikiko   元バスケットボール選手|現在:

バスケ「非エリート」の戦い方 元バスケットボール日本代表・萩原美樹子

Profile

 

萩原美樹子(はぎわら・みきこ)
元バスケットボール日本代表。アトランタオリンピックで活躍後、日本人として初めてアメリカ女子プロバスケットボールリーグ・WNBAでプレー。現役引退後はアテネ五輪女子日本代表アシスタントコーチ、早稲田大学女子バスケットボール部ヘッドコーチを経て、現在はWリーグ(女子バスケットボール日本リーグ機構)理事と、U-16、U-18、U-19女子日本代表ヘッドコーチを務めている。

 日の丸を背負うのに必要なこと

小松:
今日は、元バスケットボール日本代表の、萩原美樹子さんをお迎えしております。

萩原:
よろしくお願いします。

小松:
萩原さんは現在、アンダーカテゴリーの日本代表チームのコーチをなさっていますね。そういう若い選手たちを育てるのは、コーチとしての喜びも大きいですか?成長の過程が目に見えるでしょうね。

萩原:
はい、面白いですね。今日本代表になっている選手たちも、そのほとんどがアンダーカテゴリーの日本代表を経て、上に上がっていきますからね。子どもたちの成長を見守る母親のような気持ちですよ。

東:
いえいえ、選手にとってみれば、お母さんというより、頼りがいのあるお姉さんのような存在だと思いますよ。

萩原:
ありがとうございます(笑)。

小松:
生活を共にして、長い間一緒にいると、単に技術を教えるだけでなく「人間としても豊かに成長して欲しい」と願われるでしょう。

萩原:
はい、そうですね、技術だけでなくて、内面まで踏み込んで指導したり、伝えたりすることはよくあります。

小松:
アンダーカテゴリーとはいえ、日の丸を背負って戦うというのは同じですよね。プレッシャーも人一倍大きい中で戦う時に、重圧に強い選手とそうでない選手はいますよね。コーチはそういうプレッシャーとの戦い方も見ているのですか?

萩原:
はい、そうですね。本当に色々なパーソナリティーを持った選手がいます。アンダーカテゴリーに関しては、最終的に12名のエントリー枠を争うことになるのですが、気持ちが強い選手でなければ、選考を勝ち抜いていけない側面があります。必ずしも技術的には突出して優れていなくとも、「絶対に残りたい! 日の丸をつけて戦いたい!」と強く思っている選手が最後に選ばれていく印象がありますね。

東:
技術的に優れているというだけでは、日本代表選手として戦えない部分もありますよね。

萩原:
もちろんバスケットは身長が高い方が有利な競技なのですが、中には身体的には恵まれているのに、気持ちが少し弱いと感じる選手もいます。そのような選手は、代表としてのトレーニングを重ねていく中で変われなければ、多少身体的、技術的には劣っていたとしても、将来は日の丸を背負って戦いたい、それに誇りを感じると強く思っている選手に淘汰され、最後まで残れないことも多いですね。

小松:
ご自身がそういう道を歩まれてきたから、選手としての立場と、コーチとしての立場と、両面でのメンタリティーが理解できるのではないですか。

萩原:
いえ、私はアンダーカテゴリーの頃は無名で、日本代表にはほとんど縁がありませんでした。高校の時もインターハイに出場出来るかどうかの成績でしたし。

小松:
萩原さんの出身校は福島県立福島女子高校(現・福島県立橘高校)。県内有数の進学校ですよね。

東:
それほどの進学校であれば、卒業の際には大学を始め様々な選択肢があったと思いますが、高卒で実業団選手となる道を選ばれましたよね。なぜ、そのような選択をしたのか教えていただけますか。

萩原:
当初はある程度強い大学に進んで、バスケを続けようと考えていました。私は背が高かったので、トップクラスの強豪校でなければ、使ってもらえる大学があるのではないかと。どこに進もうかと考えている間に実業団のトップチームである共同石油から声をかけていただいたんですね。そういう流れで1989年に共同石油のバスケットボール部に入りました。

東:
その時の萩原さんの選択は、とても本質を突いているなと感じました。
今回のインタビュー企画は、表彰台に立ったアスリートの、その後の人生にフォーカスを当てて、お話を伺っています。
まもなく2020年に東京オリンピック・パラリンピックが開催されるわけですが、それまでは雇用やトレーニング環境など様々な面で恩恵を受けているアスリートが、オリパラが終わった後、自らを取り巻く環境や世の中の視線が変わった時に、その後の人生をどう生きていけばよいのか? というヒントになれればと考え、始めたんですね。

萩原:
面白い企画ですよね。私はJALの機内誌「スカイワード」で、小松さんが連載されていたアスリートのインタビューが大好きでした。なので、この取材を受けられ、本当にうれしいです。

小松:
読んでくださっていたなんて、光栄です。

 「一極集中人生」の道へ

東:
アスリートは、身体が動くうちしかトップレベルで活動出来ないという宿命を背負っています。年齢を重ねたビジネスパーソンがビジネスを極めた後にトップアスリートとしてデビューするのは、なかなか難しいですよね。でも、アスリートは競技を極め、現役を引退した後でも勉強することが出来るし、ビジネスパーソンとしてビジネスを極めることも出来ます。萩原さんが高校卒業後の進路選択の際に、大学進学を選ばずに実業団に進むことを選び、「学業との両立」よりも、トップレベルで競技に集中する環境を選ばれたこと先見の明があったのだと思います。

萩原:
現在、Wリーグ(バスケットボール女子日本リーグ)の選手保有人数は1チーム16名なのですが、私たちの時代は特にルールが決まっておらず、今よりも多く選手を保有していました。25名程度在籍しているチームもありましたね。

小松:
随分人数に差がありますね。

萩原:
そうなんです。16名と少ない人数しか保有できず、選手寿命も延びているため、Wリーグはかなり狭き門となっており、私と同じく高卒でWリーグに挑戦するというのは相当難しいのが現状です。そうなると、多くの若く有能な選手がWリーグではなく、大学へと進むようになります。結果、大学のレベルが全体的に上がっているので、大卒で日の丸を背負うという選手が増えてきてはいるのですが、より若く伸び盛りの時期に国内トップクラスの選手とバスケット中心の生活を送るという選択肢が少ないという状況には憂いもあります。

東:
萩原さんがWリーグに進んだ1989年頃は、女性で30歳前後まで現役を続けている選手は珍しかったですよね。大学を卒業する22歳は新人ではなくベテラン選手の扱いで、25-6歳で引退する方が多かったように思います。

萩原:
そうですね、今より若い時期に引退し、別のキャリアに進んでいく選手が多かったです。

小松:
萩原さんは、高校を卒業され、大学に行かずに実業団でプレーをして、その後に大学に行かれて勉強しましたよね。通常逆の場合が多いと思いますが、どうしてそうしたキャリアを選んだのですか。

萩原:
はい、私が実業団に入り、オリンピックに出場できたのは、自らの強い意志によってキャリアを選択してきた結果というよりも、様々なめぐり合わせや“運”に恵まれた部分が大きかったと思います。
バスケットを始めた頃には、実業団やオリンピックはテレビで見るもので、自分がその舞台に立ちたいとすら思っていませんでした。中学を出たら高校へ進んで、大学を出て教員になり、バスケ部の顧問で指導できればいいな、位にしか考えていなかったんです。

東:
萩原さんのご実家は福島県。高校を卒業後に実業団へ進むということは、若くして故郷を離れることになりますね。それに対してご両親はどのような反応だったのでしょうか?

萩原:
生まれて初めて住み慣れた土地を離れるわけですから、自分としては相当な覚悟が必要だったのですが、家族に相談したらあっさりと「好きにしたら?」と言われました(笑)。私の父もバスケットの実業団選手だったので、「上のレベルでやるなら行くのが当然」的な部分があったのでしょうね。

小松:
萩原さんのお父さんもバスケット選手だったんですね。

萩原:
はい、1964年の東京オリンピックの日本代表候補選手だったんです。

小松・東:
お〜すごい!!

萩原:
父は当時とても強かった明治大学を卒業後、実業団チームの三井生命(現在は休部)でプレーしていたんです。身長も188cmと、当時にしては大きかったのですが、長男で家督を継がなければならないこともあり、数年で福島へ戻ったんですね。もしかすると、納得するまでバスケットを続けられなかった部分もあったのかも知れません。

東:
当時の日本人で188cmはかなり大きいですね。萩原さんはそのDNAを受け継いでるんですね。

萩原:
身長に関しては父の影響があると思います。

東:
お父さんは、自分が日本代表候補選手だったことを、娘である萩原さんに伝えていたんですか?

萩原:
いや、父からそういう話を聞いたことはないですね。私が勝手に昔の新聞記事を調べたり、しまってあったユニフォームを見つけたりして知りました(笑)。

 たくさんのポジションを経験すれば、様々な持ちがわかる

小松:
バスケット選手になったきっかけはお父さんでしょうが、実際はじめたのはいつですか。

萩原:
小学校4年生の時、学校のクラブ活動が初めてでした。私は父が大好きだったので、よくバスケットを教えて欲しいとお願いしていたのですが、当時仕事が忙しく、いつも疲れていた父は帰宅するとすぐに寝てしまうので、バスケを教えてもらう機会がなかったんです。

東:
小学生くらいのお子さんをお持ちの年代は、仕事が忙しいことが多いですからね。私も小学6年生の娘と3年生の息子を持つ父親ですので、その頃のお父さんの気持ちを考えると切なくなります・・・。
もともとポジションはフォワードだったんですか?

萩原:
小学生の頃はそれほど背が高くなかったので、ガードもやったりしていました。その後、少し背が伸びてセンターになったのですが、しばらくすると背が止まったので、その時の身長に応じて色々なポジションにコンバートされた後、また一気に背が伸びたので、高校時代は主にセンターでプレーしていました。
一応、全てのポジションの経験があったので、実業団時代にはチーム事情に応じて色々なポジションでプレーをしてきました。

小松:
マルチプレーヤーなんですね。

萩原:
まあ、そうですね。今もバスケット選手は、最初から大きかったという選手よりも、後で背が伸びたという選手の方が重宝される傾向がありますね。

東:
色々なポジションを経験していると、それぞれのポジションの人が何をしてほしいのか、どんな気持ちでプレーしているのかを理解出来ますからね。

萩原:
小さな頃から背の高い選手は、ゴール下にいて動かなくていいと言われることが多いのですが、そういう指導を受けてきた選手が途中から他のポジションで活躍するのは結構大変なんですよ。

小松:
高校時代は、インターハイにも、国体にも出場されたんですよね。高校の時に年代別の日本代表には呼ばれたのですか。

萩原:
全国から40名くらいが選ばれる第一次選考には呼ばれたのですが、そこ止まりでした。

東:
高校バスケの強豪チームは長時間練習するイメージがあるのですが、萩原さんの高校は何時間ぐらい練習していたのでしょうか?

萩原:
私の高校は2時間ぐらいでした。進学校だったこともあり、スポーツだけではなく、勉強もしなければいけないという考えでしたね。どんなことでも集中力を2時間以上継続するのは難しいと思いますので、理にかなっていたかなと思います。

東:
その練習量でインターハイに出場したのですから、高校時代から効率的なトレーニングが出来ていたんでしょうね。当時、福島県の高校の競技レベルは全国的にどのくらいだったのでしょうか?

萩原:
私たちの頃は東北地方でも弱いほうでした。高校の競技レベルは地域のミニバスケットボール(12歳以下で行われるバスケットボール)が盛んかどうかに左右されるのですが、福島県は私たちの時代ぐらいからミニバスが段々盛んになってきて、徐々にレベルが上がっている印象ですね。

小松:
高校の練習は、戦略的なトレーニングを取り入れていましたか。

萩原:
全然戦略的ではなかったです(笑)。当時珍しかった女性監督でしたが、ひたすら走ることで体力をつけ、プレーは自分たちで考えてやりなさい、というスタイルで、いわゆる戦術的な練習はやったことがありませんでした。ただ、運良く私の学年の前後に、市内の強豪中学の選手達が集まっていたため、チームは強かったんです。

小松:
そんな萩原さんですが、高校を卒業後、実業団チームの「共同石油」へ入ります。ここから萩原さんの激動の人生が加速していくことになります。

 憧れの選手と同じチームで

小松:
福島の高校のバスケ部で活躍し、実業団リーグのチームである共同石油に入部した萩原さん。ここからどのようにしてオリンピックへの切符を手に取るのでしょうか。萩原さんは共石に憧れの選手がいたんだそうですね?

萩原:
はい、竹山とよ子さんです。私が入ったときにはもう引退されていましたが。

東:
竹山さん、日本女子バスケット界のレジェンドですよね。1981年、82年のシーズンは連続してMVPも獲得されましたし、もちろん日本代表でも活躍なさっていましたね。

萩原:
竹山さんは前十字靭帯を切ったことで、腿の下から足首までをサポートする大きな装具をつけてプレーされていたのですが、その姿が衝撃的で、印象に残っていたんです。

小松:
憧れの竹山選手が所属したチームでプレーできる、という喜びがあったでしょうね。

萩原:
嬉しかったですね。試合の応援に来てくだったこともありました。本当に私の憧れの選手でしたから。初めてお会いした時はほとんど口をきけなかったですけど(笑)。

東:
憧れの選手の前では、誰でもそうなってしまいますよね(笑)

小松:
ところで、萩原さんは、共同石油では「オー」ってニックネームで呼ばれていたんですか?

萩原:
当時の共同石油の中村和雄監督につけられたんです。新人選手には「コートネーム(プレー中にお互いを呼び合うための短い名前)」をつけるのですが、まだ私が高校生で、大学に進学するか実業団に入るか悩んでいた時に、中村監督から電話がかかってきて、「お前のコートネームだけどな、『オー』っていうのはどうだ?」って言うんです。まだ共同石油に行くって決めてもいないのに(笑)。「オーっていうのは王様のオー」なんだけどな、なんておっしゃっていて、それが結局そのまま採用されたんですよね。

小松:
まだ入部するかしないか決まってない萩原さんに「王様」のオーだなんて、何か特別な意味があったのではないでしょうか。

萩原:
いやいや、全然! 単なる思いつきだと思います。中村監督は常に思いつきなんです。自分の直感をとても大切にする方なので(笑)。

東:
まだ入団もしていない高卒の無名選手に“王様”に由来したコートネームをつけた理由は何だったんでしょうね。

萩原:
いや、本当に単なる思いつきだったようなんです。ただ、中村監督は、全国的に有名な強豪校で活躍しているような、すでに完成された選手を集めるのではなく、インターハイに出たり出なかったりするような高校から、磨けば光るような選手を集めて、叩き上げのメンバーで日本一を目指すのが好きだったので、気に入ってもらえていたのかも知れません。
私の同期にも、インターハイに出たことのない選手が結構いました。

東:
多くの無名だけれども磨けば光る選手を育ててきた中村監督には、萩原さんがチームの王様として君臨する未来が見えていたようにも感じますけどね。

小松:
強い選手を集めてチームを作るのではなく、入部した選手を育てて、共石のバスケを築き上げていく。まさに名将ですね。

東:
他競技でも、完成された選手を集めてチームを作るタイプと、未完成な選手を育ててチームを作るタイプ、外国人選手を活用するタイプなど、コーチによって様々なチームづくりのスタイルがありますよね。

 現役プロ選手と「仕事」とのかかわりの問題点

小松:
共石時代は練習時間はどれくらいでしたか。高校の2時間とは違ったでしょう?

萩原:
はい。覚悟はしていましたけど、高校でのバスケットとの向き合い方とは全然違いました。高校の頃のバスケットはあくまで生活の一部でしかなかったのですが、実業団では生活の中心になり、「バスケットのために生活をする」という環境に変わりました。体育館と寮が廊下1本で繋がっていて、24時間いつでも体育館でバスケットが出来るという環境の中、本当に朝から晩まで、寝ている時と食事をしている時以外はずっと練習をしていました。しかも、食べるのも寝るのもバスケットのためという意識で(笑)。

小松:
社内では仕事もされていたんですか。

萩原:
はい、オフシーズンに週2回ほど会社に行って、午前中に仕事をしていました。

東:
どんなお仕事をされていたんですか?

萩原:
最初は人事部に配属されました。ただ、会社も週に2回、午前中だけ出社する社員に重要な仕事を任せることは出来ないですよね。だから書類のコピーをしたり、ハンコを押したりという簡単な業務を担当していました。

東:
なるほど。企業スポーツでよくあるパターンですね。僕は、このパターンは誰の得にもならないと思うんですよね。仕事を与える側も、週に2回だけ来る人のためにそれでも出来る仕事を探さなければならないので余計な仕事が増えますし、仕事をする側としても、その仕事をやったからといって、決してスキルアップにつながるわけではないという。

萩原:
会社の広報活動の一環として、「ウチの部署の○○さんは、仕事はしないのですが、今度日本一を決める大会に出場するんですよ」と伝えることで、社内も社外も盛り上がります、という位置づけをするくらいしかないですよね。

東:
僕は、企業スポーツを運営していく中で、選手と職場をもっと上手に関わらせる方法があると思うんです。一般の社員からすると、自分と同じようにフルタイムで働いている同僚が、労働時間外で練習して、会社を代表して試合に出場しているのであれば応援したくなるでしょうが、ほとんど職場に顔を出すことも無く、たまに出社してくると余計な手間がかかる選手に、試合に出場するので応援してください、と言われたとして、果たしてどういう気持ちになるのかなと。

萩原:
実業団選手を企業でどのように活用するのかについては、現在ではWリーグに所属する様々な企業が色々なやり方を試していますが、昔は深く考えられていなかったのかも知れません。

 得点王、そして夢の舞台へ

小松:
話は変わりますが、萩原さんは1993年に得点王になりますね。しかもその後立て続けに4年連続。得点王は狙っていたのですか。それともチームが勝利するのを優先して、その結果の得点王だったのでしょうか。

萩原:
個人の成績を突き詰め、得点王になることを目指していたわけではなく、私のポジションが得点を獲る役割だったので、チームが勝利するために自分の仕事を全うした結果、得点王になったという感じです。ちなみに私のポジション、バスケットをよくご存じない方に説明する時には、漫画「スラムダンク」で言うところの流川楓くんのポジションだと伝えます(笑)。

東:
それはわかりやすいですね(笑)。

小松:
バスケットや東さんのハンドボールもそうですけれど、個人が手にできる様々な賞がありますね。中でも「得点王」というのは誰にもわかる、非常に明確な栄誉ですよね。

萩原:
確かにそうですが、私が得点王を獲っていた頃には、チームは勝てていませんでした。当時はシャンソン化粧品の全盛期で。

小松:
絶対王者・シャンソン化粧品にどう立ち向かっていくか、という時代でしたね。

萩原:
おっしゃる通りです。シャンソン化粧品に勝つことを目標に日々厳しい練習をしていましたし、得点王になるよりも、とにかく優勝したかったですね。

小松:
シャンソン化粧品との戦いに挑んでいた萩原さん、日本代表としては20年ぶりにアジア予選を突破し、1996年のアトランタオリンピックの出場権を獲得。本大会では7位に入賞します。

萩原:
選考方式が変わり、アジア枠が2から3に増えたという幸運にも恵まれましたが、アジア予選を勝ち抜き、オリンピックに出場するという経験は長いバスケット人生の中でも特別なものになりました。

東:
萩原さんのキャリアの中でも全盛期だったのではないかと思います。日々充実して楽しかったのではないですか?

萩原:
全然楽しくないですよ(笑)。上達して、試合に活かせることが増えていくのは嬉しかったですが、厳しい練習で心身ともに毎日追い込まれていましたし、勝手に辞めるわけにはいかないからやっていた、といいますか、使命感ですよね。もちろん、根本の部分で好きじゃなければ続けられなかったとは思いますが。
ただ、日本代表のメンバーとプレーするのは楽しかったです。実業団ではライバルで、敵に回すと嫌な相手ばかりなんですけど(笑)、味方にすると頼もしくて。そういう選手達と日の丸を背負って一緒に戦えたのは本当に素晴らしい経験でした。

東:
日本代表では、同じ共同石油の選手と普段は別のチームでプレーしている選手、どちらと過ごすことが多かったですか?

萩原:
違うチームの選手達でしたね。新たな人間関係が築けて、仲良くなりましたよ。

東:
僕もそうでした。それぞれに異なるチームごとのフィロソフィーを話し合うのも楽しいし、他チームの選手たちのコート外の面を知ることが出来るのは日本代表ならではですよね。

萩原:
監督の声のかけかた一つでも、チームによって全然違ったりして、勉強になりますしね。

小松:
日の丸を背負ってオリンピックに出る。日本代表は重圧でしたか。

萩原:
オリンピックに出られることになった時には、大きな重圧を感じました。幼い頃にテレビで見ていたオリンピックが、まさか自分ごとになるなんて思っていなかったので・・・。

小松:
実際のプレーはどうでしたか。

萩原:
オリンピックに向け、当時はまだ珍しかったメンタルトレーニングにも取り組み、万全を期して臨んだ予選リーグ。初戦の相手はロシアだったのですが、相手がどうこうではなく、選手全員があがりまくってしまい、全く自分たちのプレーが出来ませんでした。

東:
どのようなメンタルトレーニングに取り組まれていたのでしょうか?

萩原:
瞑想や呼吸法、そして「自己へ指示をする確認書」を書き、壁に貼ったりする“アファメーション”などです。いかに平常心で試合に臨むか、その訓練をしてきたはずなのに、いざ本番となった時には舞い上がってしまい、地に足がついていませんでした。冷静に考えれば、オリンピックもアマチュアの草バスケットもルールやコートの大きさは同じで、何か変わったことをする必要はないのに、私たちが勝手に「オリンピックなんだから」と、特別な気持ちで臨んでしまったのが悪い方に出たのだと思います。2戦目からは落ち着いてプレー出来たのですが、もったいなかったですね。

小松:
現在は、試合中にデータ分析をするアナリストが帯同しますが、当時アナリストはいたのですか。

萩原:
いえ、当時はアシスタントコーチがアジャストやスカウティングも兼務していて、アナリストはいませんでした。

東:
ご家族はオリンピックの会場には応援にいらしていたんですか?

萩原:
母が応援に来てくれました。父はどうしても抜けられない仕事で来られなかったのですが、母が、父の書いた手紙を持ってきてくれました。私がオリンピックの舞台に立っていることを誇りに思っている、というような内容が書かれていたのを覚えています。

東:
自らも実業団のバスケット選手としてプレーしていたお父さんの気持ちを思うと泣けてきますね(涙)

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 「日本人初」への挑戦

小松:
そしてオリンピックで入賞をした後に、萩原さんは次なるステージへチャレンジします。オリンピックの翌年、1997年に発足したWNBAに挑戦するため、アメリカへ行かれるんですよね。

萩原:
オリンピックの後に、アメリカで女子新しいプロリーグが発足するというお話は聞いていましたが、当初、私のビジョンにアメリカでのプレーはありませんでした。私を含め、多くの日本代表選手はオリンピックで全力を出し切った結果、燃え尽きてしまい「次の目標」を見つけることが難しい状況だったように思います。引退してしまう選手もいましたしね。

東:
世界中で最もバスケットが上手い女性を集めて発足したWNBA。萩原さんはセレクションで選ばれたわけですが、WNBAに挑戦したいと熱望しながらかなわなかった選手もいましたよね。

萩原:
はい。日本代表でともに戦ってきた仲間が、トライアウトを受けたけれどダメだったという話を聞き、選ばれなかった選手の気持ちを考えると、誰もが与えられるチャンスじゃないと思い、アメリカに行くことを決めました。

東:
仲間の気持ちを踏みにじることはできないですもんね。

萩原:
当然仲間も応援してくれましたし、「日本を背負う」と同時に、仲間の気持ちも背負って挑戦すべきだなと。

小松:
入団したのは、サクラメント・モナークスですね。サクラメント暮らしはどうでした?

萩原:
日本での生活とは全然違いましたね。練習さえしっかりとしていれば、他は何をしていても構わないという環境で、日本のように何十時間も練習をしないので、自由な時間が増えました。あとは、練習内容が日本とあまりに違ったことにもカルチャーショックを受けました。

東:
サクラメントのチームはどういうチームだったんですか?

萩原:
チームというか、リーグそのものが1年目で、全員にとってやることなすことが初めての経験でしたから、チームメイトやスタッフたちも「プロとはどうあるべきなのか?」と、戸惑い、迷いながら、試行錯誤の日々を過ごしていましたね。リーグ全体の運営も模索中で、ある日、リーグのチェアマンが選手を全員集めて、皆の前で「リーグが目指すところはどこだ?」なんて話し合ったり、NBAのように、WNBAもチームごとに選手組合を作ったほうがいい、とNBAの担当者が来て話したりしていました。アメリカっぽいなあと感じましたね。そんな風にまだまだ未完成な状態ではありましたが、どの選手も“世界一のリーグのプロフェッショナルプレーヤー”なのだというプライドを持って過ごしていました。

小松:
ところが、萩原さんは、入団1シーズン目の1998年に膝を負傷してしまいますね。

萩原:
はい、1シーズン目の途中でサクラメントからフェニックス・マーキュリーというチームに移籍をしたのですが、最後の試合で後十字靭帯を損傷してしまいました。それまでは大きな怪我をしたことがなかったので、あの時はちょっとびっくりしました。

東:
その怪我がきっかけで、日本に帰る決断を?

萩原:
直接のきっかけというわけではありませんが、当時、WNBAでは12名の登録選手以外の保有は厳密には認められておらず、登録選手以外はみな「故障者リスト」に入れられていたんですね。私もユニフォームを着られるかギリギリの立場で争っていたのですが、最終的には登録されずに「故障者リスト」に入り、チーム側から「これ以降登録されることはない」と言われたため、話し合いの末、日本に帰ることを選び、退団しました。このレベルの選手はレントゲンを撮ればどこかしら悪いところがあるもので、それを理由に故障者リストに入れておくことは十分可能でした。

小松:
それでも、WNBA発足の年にアメリカへ渡ってプレーしたのは、貴重な経験でしたね。

萩原:
はい、本当に。今でもWNBAは存続していますが、昔はアメリカの女子プロリーグは立ち上がっては消えてしまうことが多かったんです。でも、WNBAはNBAと競合するのではなく、NBAのオフシーズンに開催するなど、バスケット好きの観客が分散しないよう様々な工夫がされています。

東:
Bリーグに対するWリーグも学ぶ点があるように思いますね。

小松:
日本に帰る決断をした萩原さんは、次なる人生の目標に向けてチャレンジすることになります。スポーツの第一線で活躍された選手が、どう道を切り開いていくのか。

 誰にも見向きされない存在の大切さ

小松:
日本人初のWNBAプレイヤーとして渡米してから約2年後、日本に戻られた萩原さんは、共同石油から社名を変えたジャパンエナジーに所属し、1999年、見事に全日本で優勝されますね。

東:
当時、世界一のリーグで活躍した荻原さんが凱旋する!と期待が集まっていましたよね。

萩原:
アメリカでは、サクラメントでもフェニックスでも思うような結果が出せなかったのは確かですが、これだけ頑張っているのにどうして使ってもらえないのだろうと納得のいかない気持ちが少なからずありましたし、フェニックスから契約解除された時には自信をなくし、落ち込みました。そんな苦しい時に、古巣のジャパンエナジーから復帰要請をいただけたことは、改めて自分のプレーを認めてもらえたようで本当に嬉しかったです。元々、最後は日本でプレーして終わりたいと考えていましたから、日本に帰ってきてジャパンエナジーで優勝することができて、幸せでした。

東:
そこで、やり残したことはないと、引退を意識し始めたのでしょうか。

萩原:
そうですね。引退する1年前くらいから引退の意向を伝えていましたし、周囲も受け入れてくれていました。最後の1年間は同じポジションの選手を育てるために、常に2人組で練習していました。

東:
しっかりと後継者を育成なさっていたんですね。引退後、進学も考えていたんですよね?勉強はどうされていたんですか。

萩原:
勉強は辞めてからでいいと思い、現役の間はバスケットに集中。引退後に1年間受験勉強をして、早稲田大学へ進学することになりました。

小松:
合格して手に入れた大学生活はどうでしたか?

萩原:
とても楽しかったです。30歳にして学生生活を体験することができて、何をしてもいいという生活を楽しむことができました。

東:
大学では、どのようなことを学んだのでしょうか?

萩原:
第二文学部で日本史を学びました。学部を卒業した後、大学院で友添秀則先生のスポーツ教育学を専攻しました。5年在籍しましたが修了できず一旦退学し、その後、スポーツ科学研究科のコーチング科学領域に入り直して修了しました。

小松:
萩原さんは早稲田大学院時代には、併せて大学のコーチも務められていますよね。コーチという役割は、ご自身にとって向いていましたか。

萩原:
最初にオファーをいただいた時には、あまり乗り気がしませんでした。バスケット以外のことをやろうと思って大学に通うことを決めたわけですし。

東:
なるほど。自らが希望したというよりも、求められてという感じだったのですね。もう一つ、日本代表チームへのコーチにはどういった流れで就任なさったのでしょうか?

萩原:
私が所属していたジャパンエナジーは、紆余曲折を経て、現在JX-ENEOSサンフラワーズというチームになっているのですが、バスケット普及のためにチームOGを集めて全国の子どもたちに無料でバスケットのクリニックを実施するための部署があるんですね。そこに所属して、お給料をいただいて土日に子ども達に指導していたところ、アテネオリンピックに向けて活動する女子日本代表チームのアシスタントコーチのお話をいただいたんです。当時、コーチと言われてもどのような仕事をするのかピンときていなかったので、「監督と選手の橋渡しをするお手伝いならできます」とお伝えしたところ、それでも構わないとおっしゃっていただけたので。

東:
アトランタ以来のオリンピックを目指す日本代表チームにとって、萩原さんの経験が必要だと判断されたのでしょうね。

萩原:
アジア予選突破やオリンピック、WNBAでの経験に加えて、ほとんどの主力選手が私の後輩だったということもあったのかも知れません。

小松:
現役選手の頃、「将来は監督やコーチの座に就きたい」という考えはありましたか。

萩原:
当時は全くなかったです。そういう気持ちになったのは本当に最近なんですよ。

東:
どのようなきっかけで、指導者をやりたいという心境になったのでしょうか?

萩原:
最初は指導者は選手よりも大変なんだろうなと思って尻込みしていたんです。アシスタントコーチは、その名の通りヘッドコーチの補佐役で、選手の指導はもちろんチームによっては移動のバスを運転したり、諸々の雑用や取材の対応までする場合もありますし。

東:
コート上だけではなく、裏方として様々な仕事があるんですね。

萩原:
コーチになってみて初めて気づいたのですが、チームにとって選手は花形というか前に出て目立つ存在ですが、コーチは誰にも見向きもされない存在なんですよね。もちろん無くてはならない仕事ではあるのですが、コーチの中でも全く目立つことのないアシスタントコーチという立ち位置を経験して「コーチってこういう存在なのか」と色々考えさせられましたね。この仕事って何が楽しいんだろう、って悩んだ時期もありました(笑)

東:
選手として華やかな舞台で活躍を続けてきた萩原さんだけに、ギャップも大きかったのでしょうね。

 バスケで「日本らしく」世界と戦う

小松:
そして2005年には、日本代表監督のオファーがあります。それは辞退されたんですね。

萩原:
ええ。まさかそんなオファーが来るなんて思ってもいませんでしたので、最初は驚きました。どうして私なんだろうって。アシスタントコーチの仕事にも、純粋に後輩達がオリンピックを目指すお手伝いがしたいという気持ちだけで取り組んでいましたので。周りからすれば、萩原はアシスタントとしてアジア予選を突破し、アテネオリンピックに出場するという結果を残したのだから次はヘッドに、と考えていただいていたようなのですが。

小松:
アシスタントコーチをやれば、次の目標はヘッドコーチなのだとばかり思っていました。

萩原:
もちろんそういう方もいると思いますが、私はヘッドコーチをやりたいとは考えていなかったですね。

小松:
私は萩原さんがコーチに向いていると感じていました。パフォーマンスはもちろんですが、ゲーム中の冷静さやコミュニケーションの能力、若手選手への包容力など、人に教えることが上手なのかな、って。

萩原:
向いているのか自分では分かりませんが、教えることは嫌いではないですね。

東:
時が経ち、2011年には早稲田大学でヘッドコーチに就任することになりました。どのような経緯だったのでしょう?

萩原:
はい、アンダーカテゴリーの日本代表でアシスタントコーチを務めている中で、ヘッドコーチという立場をどこかで経験しなくてはいけないな、と考えていた時に、母校である早稲田大学から女子バスケットボール部のヘッドコーチに、というお話をいただきました。

小松:
2011年というと、東日本大震災の年ですね。

萩原:
はい。震災当日は18歳以下日本代表の選考合宿があり、三河安城にいたので、あの揺れは体験してはいないのですが。

小松:
福島にある萩原さんのご実家は大丈夫でしたか?

萩原:
揺れは酷かったそうですが、幸い家族や親族は無事でした。

小松:
震災後には、現地へボランティアに行かれたんですよね。子どもたちにバスケを教えたそうですね。

萩原:
はい、私の妹の夫が福島県の新聞社で働いていて、そのつてで色々情報をもらい、子どもたちをケアするためのクリニックをやらせてもらいました。

東:
震災後、数多くのスポーツイベントが中止となったことが、多くの競技団体やアスリートが自らの存在意義やスポーツの価値を改めて考えるきっかけになったように感じます。僕が運営に関わっていたハンドボールの日本一を決める大会も中止になりました。全国各地で自粛ムードが蔓延する中、元陸上選手の為末大さんが様々な競技のアスリートに声をかけて「嫌な記憶は消せないのだから、楽しい記憶を足していこう」、「競技の仲間に声をかけて募金を集めよう」というアスリートならではの被災地を支援する運動が始まり、私もそちらに参加しました。日本のスポーツ界にとって大きなターニングポイントだったと思います。

小松:
人が絶望を感じた時、アスリートはそこから希望の光を作り出せる力があると思います。今、萩原さんは、日本代表女子ジュニアのヘッドコーチとして、指導者としてのキャリアを築いています。2020年の東京オリンピックに向かって、選手達のモチベーションはどうですか?

萩原:
非常に高いですね。私が指導している若い選手たちも2020年に出場したいと必死に頑張っていますが、ちょっとまだ早いですかね(笑)2024年のオリンピックに出られそうな選手はいるんですけどね。年代に関わらず、いよいよ来年2020年に東京でオリンピックが開催されるという現実が選手たちのモチベーションを上げている感じがします。

小松:
日本の女子バスケットボールにはどのような特徴がありますか。チームカラーや選手たちの個性も含めて教えてください。

萩原:
とても真面目ですね。規律正しく頑張る、という。

東:
そこを活かしたチーム作りを?

萩原:
日本の強みの一つですからね。国際大会では必ず海外のコーチやメディアにチームの規律正しさを評価してもらえます。ただ、規律正しいことは良いことではあるのですが、日本代表がもう一つ先のステージに上がるためには、コーチの指示に従い、チームで決めたことだけをやるのではなく、場面に応じて選手一人ひとりが責任を持ち、臨機応変に自らの裁量でリスクを背負いながら試合を展開していける技術や哲学を身につけることが必要だと思います。アメリカでの経験が日本女子バスケットに不足している“個の強さ”に気づかせてくれました。

 女子バスケのプロ化に向かって

小松:
そして今では、Wリーグがだんだんと注目を集めています。

萩原:
色々と組織づくりで大変な部分はありますが、男子のプロリーグ・Bリーグが開幕したことで日本バスケット界にこれまでとは違った追い風が吹いているように感じます。これまでに積み重ねてきたものに加えて、この盛り上がりをどうWリーグの活性化につなげていくのかが重要だと考えています。

小松:
今後、女子バスケットはプロ化が進んでいくとお考えですか?

萩原:
そうですね、現実的には色々な問題がありますよね。現在、Wリーグは企業保有型のいわゆる実業団チームと地域密着型のクラブチームが混在していますが、後者のチーム運営についてはまだまだ金銭的に厳しい状況です。

東:
女子スポーツのプロ化は世界的にもかなり難しく、ほとんど成功事例が無いのが現実です。個別に見れば面白いのですが、同じ競技ルールでプレーする中で、男子と比べられてしまうと、どうしてもスピードやパワーの面で劣ってしまいますし。競技以外の面で、男子とは異なる魅力を伝えるようにしていくことが大切なのではないでしょうか。

小松:
今後、女子バスケットに本格的なプロリーグが誕生し、ジュニア世代から人生の目標として目指すことができる、というシナリオができたら素晴らしいですよね。
萩原さんはこの先、ご自身の人生をどのように展開していくのか、その方向は決まっていますか。

萩原:
まだトップリーグのチームでコーチを務めた経験がないので、一度持たせていただきたいな、とは思っています。2020年が終わるまでは様々なプロジェクトに参加しているので時間的に厳しいですが、その後については色々と考えています。

東:
萩原さんは、まずはトップレベルでアスリートとしてやれるだけやりきるという経験を積んだ上で、現役引退後に改めて学び直しをしたりと、本質的かつ先進的なキャリアを歩まれてきた方ですので、今後も多くのアスリートのロールモデルとなるような姿を見せてくれるのだろうなと思います。

小松:
元々は国語か社会の先生になりたかったという萩原さんですが、バスケットのコーチの先に、教師という目標もありますか。10代の選手を率いている今も、先生のような立場ですが(笑)。

萩原:
そうですね(笑)。今も、学校の教室で教えていないというだけで、やっている仕事は先生みたいなものですから、いつの日か学校で教えているかもしれませんね。教師という職業には今でもとても惹かれていますし。

小松:
人生の節目で進むべき方法を見定め、道を切り開いて来た萩原さんなら、何歳になっても、希望を叶えられると思います。

萩原:
ありがとうございます。

東:
さて、それでは最後に、この連載で必ずアスリートのみなさんにお願いしているのですが、バスケットボールという競技名を使わずに、自己紹介をしていただけますか。

萩原:
初めてですね、そういう質問は(笑)。難しいですね・・・。
福島県出身です。三国志がすごく好きで、身体は大きいのですが、実はスポーツよりも本や漫画が好きなインドア派の子どもでした。文化系で生きようと思っていましたが、それを選ばず今に至るのが私です、という感じかな(笑)。

小松:
萩原さんは真正な文系でもオリンピック選手になれることを証明しました(笑)。

東:
アスリートにも文系的思考、物凄く重要ですよね。理解にも実践にも、言葉に出来るというスキルがとても活きると思いますし。
本日はありがとうございました!
(おわり)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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