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萩原美樹子 / Hagiwara Mikiko   元バスケットボール選手|現在:

仲間の気持ちを背負った挑戦 元バスケットボール日本代表・萩原美樹子(中編)

Profile

 

萩原美樹子(はぎわら・みきこ)
元バスケットボール日本代表。アトランタオリンピックで活躍後、日本人として初めてアメリカ女子プロバスケットボールリーグ・WNBAでプレー。現役引退後はアテネ五輪女子日本代表アシスタントコーチ、早稲田大学女子バスケットボール部ヘッドコーチを経て、現在はWリーグ(女子バスケットボール日本リーグ機構)理事と、U-16、U-18、U-19女子日本代表ヘッドコーチを務めている。

 憧れの選手と同じチームで

小松:
福島の高校のバスケ部で活躍し、実業団リーグのチームである共同石油に入部した萩原さん。ここからどのようにしてオリンピックへの切符を手に取るのでしょうか。萩原さんは共石に憧れの選手がいたんだそうですね?

萩原:
はい、竹山とよ子さんです。私が入ったときにはもう引退されていましたが。

東:
竹山さん、日本女子バスケット界のレジェンドですよね。1981年、82年のシーズンは連続してMVPも獲得されましたし、もちろん日本代表でも活躍なさっていましたね。

萩原:
竹山さんは前十字靭帯を切ったことで、腿の下から足首までをサポートする大きな装具をつけてプレーされていたのですが、その姿が衝撃的で、印象に残っていたんです。

小松:
憧れの竹山選手が所属したチームでプレーできる、という喜びがあったでしょうね。

萩原:
嬉しかったですね。試合の応援に来てくだったこともありました。本当に私の憧れの選手でしたから。初めてお会いした時はほとんど口をきけなかったですけど(笑)。

東:
憧れの選手の前では、誰でもそうなってしまいますよね(笑)

小松:
ところで、萩原さんは、共同石油では「オー」ってニックネームで呼ばれていたんですか?

萩原:
当時の共同石油の中村和雄監督につけられたんです。新人選手には「コートネーム(プレー中にお互いを呼び合うための短い名前)」をつけるのですが、まだ私が高校生で、大学に進学するか実業団に入るか悩んでいた時に、中村監督から電話がかかってきて、「お前のコートネームだけどな、『オー』っていうのはどうだ?」って言うんです。まだ共同石油に行くって決めてもいないのに(笑)。「オーっていうのは王様のオー」なんだけどな、なんておっしゃっていて、それが結局そのまま採用されたんですよね。

小松:
まだ入部するかしないか決まってない萩原さんに「王様」のオーだなんて、何か特別な意味があったのではないでしょうか。

萩原:
いやいや、全然! 単なる思いつきだと思います。中村監督は常に思いつきなんです。自分の直感をとても大切にする方なので(笑)。

東:
まだ入団もしていない高卒の無名選手に“王様”に由来したコートネームをつけた理由は何だったんでしょうね。

萩原:
いや、本当に単なる思いつきだったようなんです。ただ、中村監督は、全国的に有名な強豪校で活躍しているような、すでに完成された選手を集めるのではなく、インターハイに出たり出なかったりするような高校から、磨けば光るような選手を集めて、叩き上げのメンバーで日本一を目指すのが好きだったので、気に入ってもらえていたのかも知れません。
私の同期にも、インターハイに出たことのない選手が結構いました。

東:
多くの無名だけれども磨けば光る選手を育ててきた中村監督には、萩原さんがチームの王様として君臨する未来が見えていたようにも感じますけどね。

小松:
強い選手を集めてチームを作るのではなく、入部した選手を育てて、共石のバスケを築き上げていく。まさに名将ですね。

東:
他競技でも、完成された選手を集めてチームを作るタイプと、未完成な選手を育ててチームを作るタイプ、外国人選手を活用するタイプなど、コーチによって様々なチームづくりのスタイルがありますよね。

 現役プロ選手と「仕事」とのかかわりの問題点

小松:
共石時代は練習時間はどれくらいでしたか。高校の2時間とは違ったでしょう?

萩原:
はい。覚悟はしていましたけど、高校でのバスケットとの向き合い方とは全然違いました。高校の頃のバスケットはあくまで生活の一部でしかなかったのですが、実業団では生活の中心になり、「バスケットのために生活をする」という環境に変わりました。体育館と寮が廊下1本で繋がっていて、24時間いつでも体育館でバスケットが出来るという環境の中、本当に朝から晩まで、寝ている時と食事をしている時以外はずっと練習をしていました。しかも、食べるのも寝るのもバスケットのためという意識で(笑)。

小松:
社内では仕事もされていたんですか。

萩原:
はい、オフシーズンに週2回ほど会社に行って、午前中に仕事をしていました。

東:
どんなお仕事をされていたんですか?

萩原:
最初は人事部に配属されました。ただ、会社も週に2回、午前中だけ出社する社員に重要な仕事を任せることは出来ないですよね。だから書類のコピーをしたり、ハンコを押したりという簡単な業務を担当していました。

東:
なるほど。企業スポーツでよくあるパターンですね。僕は、このパターンは誰の得にもならないと思うんですよね。仕事を与える側も、週に2回だけ来る人のためにそれでも出来る仕事を探さなければならないので余計な仕事が増えますし、仕事をする側としても、その仕事をやったからといって、決してスキルアップにつながるわけではないという。

萩原:
会社の広報活動の一環として、「ウチの部署の○○さんは、仕事はしないのですが、今度日本一を決める大会に出場するんですよ」と伝えることで、社内も社外も盛り上がります、という位置づけをするくらいしかないですよね。

東:
僕は、企業スポーツを運営していく中で、選手と職場をもっと上手に関わらせる方法があると思うんです。一般の社員からすると、自分と同じようにフルタイムで働いている同僚が、労働時間外で練習して、会社を代表して試合に出場しているのであれば応援したくなるでしょうが、ほとんど職場に顔を出すことも無く、たまに出社してくると余計な手間がかかる選手に、試合に出場するので応援してください、と言われたとして、果たしてどういう気持ちになるのかなと。

萩原:
実業団選手を企業でどのように活用するのかについては、現在ではWリーグに所属する様々な企業が色々なやり方を試していますが、昔は深く考えられていなかったのかも知れません。

 得点王、そして夢の舞台へ

小松:
話は変わりますが、萩原さんは1993年に得点王になりますね。しかもその後立て続けに4年連続。得点王は狙っていたのですか。それともチームが勝利するのを優先して、その結果の得点王だったのでしょうか。

萩原:
個人の成績を突き詰め、得点王になることを目指していたわけではなく、私のポジションが得点を獲る役割だったので、チームが勝利するために自分の仕事を全うした結果、得点王になったという感じです。ちなみに私のポジション、バスケットをよくご存じない方に説明する時には、漫画「スラムダンク」で言うところの流川楓くんのポジションだと伝えます(笑)。

東:
それはわかりやすいですね(笑)。

小松:
バスケットや東さんのハンドボールもそうですけれど、個人が手にできる様々な賞がありますね。中でも「得点王」というのは誰にもわかる、非常に明確な栄誉ですよね。

萩原:
確かにそうですが、私が得点王を獲っていた頃には、チームは勝てていませんでした。当時はシャンソン化粧品の全盛期で。

小松:
絶対王者・シャンソン化粧品にどう立ち向かっていくか、という時代でしたね。

萩原:
おっしゃる通りです。シャンソン化粧品に勝つことを目標に日々厳しい練習をしていましたし、得点王になるよりも、とにかく優勝したかったですね。

小松:
シャンソン化粧品との戦いに挑んでいた萩原さん、日本代表としては20年ぶりにアジア予選を突破し、1996年のアトランタオリンピックの出場権を獲得。本大会では7位に入賞します。

萩原:
選考方式が変わり、アジア枠が2から3に増えたという幸運にも恵まれましたが、アジア予選を勝ち抜き、オリンピックに出場するという経験は長いバスケット人生の中でも特別なものになりました。

東:
萩原さんのキャリアの中でも全盛期だったのではないかと思います。日々充実して楽しかったのではないですか?

萩原:
全然楽しくないですよ(笑)。上達して、試合に活かせることが増えていくのは嬉しかったですが、厳しい練習で心身ともに毎日追い込まれていましたし、勝手に辞めるわけにはいかないからやっていた、といいますか、使命感ですよね。もちろん、根本の部分で好きじゃなければ続けられなかったとは思いますが。
ただ、日本代表のメンバーとプレーするのは楽しかったです。実業団ではライバルで、敵に回すと嫌な相手ばかりなんですけど(笑)、味方にすると頼もしくて。そういう選手達と日の丸を背負って一緒に戦えたのは本当に素晴らしい経験でした。

東:
日本代表では、同じ共同石油の選手と普段は別のチームでプレーしている選手、どちらと過ごすことが多かったですか?

萩原:
違うチームの選手達でしたね。新たな人間関係が築けて、仲良くなりましたよ。

東:
僕もそうでした。それぞれに異なるチームごとのフィロソフィーを話し合うのも楽しいし、他チームの選手たちのコート外の面を知ることが出来るのは日本代表ならではですよね。

萩原:
監督の声のかけかた一つでも、チームによって全然違ったりして、勉強になりますしね。

小松:
日の丸を背負ってオリンピックに出る。日本代表は重圧でしたか。

萩原:
オリンピックに出られることになった時には、大きな重圧を感じました。幼い頃にテレビで見ていたオリンピックが、まさか自分ごとになるなんて思っていなかったので・・・。

小松:
実際のプレーはどうでしたか。

萩原:
オリンピックに向け、当時はまだ珍しかったメンタルトレーニングにも取り組み、万全を期して臨んだ予選リーグ。初戦の相手はロシアだったのですが、相手がどうこうではなく、選手全員があがりまくってしまい、全く自分たちのプレーが出来ませんでした。

東:
どのようなメンタルトレーニングに取り組まれていたのでしょうか?

萩原:
瞑想や呼吸法、そして「自己へ指示をする確認書」を書き、壁に貼ったりする“アファメーション”などです。いかに平常心で試合に臨むか、その訓練をしてきたはずなのに、いざ本番となった時には舞い上がってしまい、地に足がついていませんでした。冷静に考えれば、オリンピックもアマチュアの草バスケットもルールやコートの大きさは同じで、何か変わったことをする必要はないのに、私たちが勝手に「オリンピックなんだから」と、特別な気持ちで臨んでしまったのが悪い方に出たのだと思います。2戦目からは落ち着いてプレー出来たのですが、もったいなかったですね。

小松:
現在は、試合中にデータ分析をするアナリストが帯同しますが、当時アナリストはいたのですか。

萩原:
いえ、当時はアシスタントコーチがアジャストやスカウティングも兼務していて、アナリストはいませんでした。

東:
ご家族はオリンピックの会場には応援にいらしていたんですか?

萩原:
母が応援に来てくれました。父はどうしても抜けられない仕事で来られなかったのですが、母が、父の書いた手紙を持ってきてくれました。私がオリンピックの舞台に立っていることを誇りに思っている、というような内容が書かれていたのを覚えています。

東:
自らも実業団のバスケット選手としてプレーしていたお父さんの気持ちを思うと泣けてきますね(涙)

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 「日本人初」への挑戦

小松:
そしてオリンピックで入賞をした後に、萩原さんは次なるステージへチャレンジします。オリンピックの翌年、1997年に発足したWNBAに挑戦するため、アメリカへ行かれるんですよね。

萩原:
オリンピックの後に、アメリカで女子新しいプロリーグが発足するというお話は聞いていましたが、当初、私のビジョンにアメリカでのプレーはありませんでした。私を含め、多くの日本代表選手はオリンピックで全力を出し切った結果、燃え尽きてしまい「次の目標」を見つけることが難しい状況だったように思います。引退してしまう選手もいましたしね。

東:
世界中で最もバスケットが上手い女性を集めて発足したWNBA。萩原さんはセレクションで選ばれたわけですが、WNBAに挑戦したいと熱望しながらかなわなかった選手もいましたよね。

萩原:
はい。日本代表でともに戦ってきた仲間が、トライアウトを受けたけれどダメだったという話を聞き、選ばれなかった選手の気持ちを考えると、誰もが与えられるチャンスじゃないと思い、アメリカに行くことを決めました。

東:
仲間の気持ちを踏みにじることはできないですもんね。

萩原:
当然仲間も応援してくれましたし、「日本を背負う」と同時に、仲間の気持ちも背負って挑戦すべきだなと。

小松:
入団したのは、サクラメント・モナークスですね。サクラメント暮らしはどうでした?

萩原:
日本での生活とは全然違いましたね。練習さえしっかりとしていれば、他は何をしていても構わないという環境で、日本のように何十時間も練習をしないので、自由な時間が増えました。あとは、練習内容が日本とあまりに違ったことにもカルチャーショックを受けました。

東:
サクラメントのチームはどういうチームだったんですか?

萩原:
チームというか、リーグそのものが1年目で、全員にとってやることなすことが初めての経験でしたから、チームメイトやスタッフたちも「プロとはどうあるべきなのか?」と、戸惑い、迷いながら、試行錯誤の日々を過ごしていましたね。リーグ全体の運営も模索中で、ある日、リーグのチェアマンが選手を全員集めて、皆の前で「リーグが目指すところはどこだ?」なんて話し合ったり、NBAのように、WNBAもチームごとに選手組合を作ったほうがいい、とNBAの担当者が来て話したりしていました。アメリカっぽいなあと感じましたね。そんな風にまだまだ未完成な状態ではありましたが、どの選手も“世界一のリーグのプロフェッショナルプレーヤー”なのだというプライドを持って過ごしていました。

小松:
ところが、萩原さんは、入団1シーズン目の1998年に膝を負傷してしまいますね。

萩原:
はい、1シーズン目の途中でサクラメントからフェニックス・マーキュリーというチームに移籍をしたのですが、最後の試合で後十字靭帯を損傷してしまいました。それまでは大きな怪我をしたことがなかったので、あの時はちょっとびっくりしました。

東:
その怪我がきっかけで、日本に帰る決断を?

萩原:
直接のきっかけというわけではありませんが、当時、WNBAでは12名の登録選手以外の保有は厳密には認められておらず、登録選手以外はみな「故障者リスト」に入れられていたんですね。私もユニフォームを着られるかギリギリの立場で争っていたのですが、最終的には登録されずに「故障者リスト」に入り、チーム側から「これ以降登録されることはない」と言われたため、話し合いの末、日本に帰ることを選び、退団しました。このレベルの選手はレントゲンを撮ればどこかしら悪いところがあるもので、それを理由に故障者リストに入れておくことは十分可能でした。

小松:
それでも、WNBA発足の年にアメリカへ渡ってプレーしたのは、貴重な経験でしたね。

萩原:
はい、本当に。今でもWNBAは存続していますが、昔はアメリカの女子プロリーグは立ち上がっては消えてしまうことが多かったんです。でも、WNBAはNBAと競合するのではなく、NBAのオフシーズンに開催するなど、バスケット好きの観客が分散しないよう様々な工夫がされています。

東:
Bリーグに対するWリーグも学ぶ点があるように思いますね。

小松:
日本に帰る決断をした萩原さんは、次なる人生の目標に向けてチャレンジすることになります。スポーツの第一線で活躍された選手が、どう道を切り開いていくのか。次回も楽しみです。
(つづく)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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