Career shift

初瀬勇輔 / Hatsuse Yusuke   元柔道選手|現在:

障害者雇用促進のリードオフマンが パラリンピックに再挑戦! 元パラリンピック柔道日本代表選手・初瀬勇輔

Profile

 

初瀬勇輔(はつせ・ゆうすけ)
1980年長崎県生まれ。北京パラリンピック・柔道日本代表。長崎県青雲高校から中央大学法学部を卒業後、大手人材派遣業テンプホールディングス(現パーソルホールディングス)のグループ企業・サンクス・テンプ(現パーソルサンクス)を経て、2011年に障害者雇用を創造する会社『ユニバーサルスタイル』を立ち上げ、独立。日本では希有な「障害者雇用コンサルタント」としての活動と並行して視覚障害者柔道の選手としても活躍。全日本視覚障害者柔道大会90キロ級、同81キロ級で合計10度の優勝を果たしたほか、2008年には北京パラリンピック90キロ級に出場。現在は、日本パラリンピアンズ協会や日本視覚障害者柔道連盟の理事としても活躍しながら、現役選手として、2020年の東京パラリンピック出場を目指している。

東:
今回は2008年北京パラリンピック柔道日本代表の初瀬勇輔さんにお話を伺います。初瀬さんは全日本視覚障害者柔道大会で合計10度の優勝を果たすなど、柔道選手として輝かしい戦績を収められた方ですが、選手としてのみならず、現在は全日本視覚障害者柔道連盟や日本パラリンピアンズ協会の理事も務められています。

小松:
また、2011年に設立した障害者雇用コンサルティング会社「ユニバーサルスタイル」を始めとする複数の企業の経営者と、2020年東京パラリンピックへの出場を目指す現役のパラアスリートでもあります。

東:
様々な分野でご活躍の初瀬さんですが、現在の活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、現役選手としての活動は別として、全日本視覚障害者柔道連盟などの役職は “B”の領域、ユニバーサルスタイルなどの経営者や講演活動などについては“C”の領域ということになりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

小松:
弁護士を目指していた初瀬さんが両目の視力を失ったのは大学2年生の時でした。その後、どのように視覚障害者柔道と出会い、現在のようなキャリアを築いてこられたのか。まずは現在の初瀬さんの活動から伺っていきたいと思います。

 2020年、もう一度パラリンピックの舞台に立つために

小松:
いよいよ来年に迫ってきた2020年東京パラリンピック、再びあの舞台を目指す一人としてどのような時間を過ごされていますか?

初瀬:
そうですね。実は昨年12月の試合に20キロ減量して臨んだのですが、負けてしまって(笑)。今年の6月に開催される予選で勝たないと東京パラリンピックに出場することは出来ないですね。

東:
20キロの減量とは凄まじいですね・・・
ユニバーサルスタイルをはじめ経営者としての仕事を務めながらですよね?

初瀬:
そうですね。弊社は年末が決算ですし、その頃に新しく鍼灸院をオープンする準備にも追われていたので簡単ではありませんでしたが、自分としては良い準備が出来たと思っていましたし、自信もあったのですが。実力不足でしたね。

小松:
会社のトップでありながら、トップアスリートでもあることは想像を絶する過酷さですよね。

東:
心身を鍛えるためにトライアスロンやボディビルなどに取り組む経営者アスリートの方は多いですが、己と向き合うだけではなく、不特定多数の対戦相手を研究しなければならない柔道は、必要になるエネルギーが非常に多いように感じます。

初瀬:
おっしゃる通りです。もちろん対戦相手の研究だけではなく、技術練習も必要になりますのでトライアスロンやボディビルなどの個人種目より相対的に時間がかかりますよね。

小松:
それも、世界最高峰の舞台を目指しているわけですから。パラリンピックへ出場出来れば2008年の北京パラリンピック以来になりますね。12年ぶりの出場を目指す挑戦になるわけですが、どのようなお気持ちでいらっしゃるのでしょう?

初瀬:
私の仕事がユニバーサルスタイルでの障害者の雇用促進であったり、日本パラリンピアンズ協会の理事としてパラスポーツの振興やパラアスリートの支援に関わる活動に携わっていることもあって、私個人が出場して活躍すること以外にも、パラリンピックをより盛り上げるにはどうすればいいか、その盛り上がりを障害者の暮らしやすい社会を築くことに繋げるにはどうすればいいのかということも考えながらチャレンジしています。

東:
一人のアスリートとしてだけではなく、様々な立場でパラリンピアンや障害者全体のことを考えて行動しているんですね。

初瀬:
東さんはご存じかと思いますが、パラリンピックを目指すパラアスリートの数はオリンピックを目指しているいわゆる健常者のアスリートと比較すると非常に少なく、競技に対するモチベーションや取り組み方はもちろん、置かれた環境にも大きな格差があるのが現実です。

東:
確かに代表争いの熾烈さは、目指している競技者数という点では違うのかも知れませんね。

初瀬:
誤解を恐れずに言うと、競技に費やしている努力の総量がかなり違う気がするんですね。もちろん障害者は様々な制約条件により、出来るスポーツの範囲や環境が限られている場合も多いので、競技者のみに原因があるわけではありませんが。

小松:
問題の本質はパラスポーツの裾野が広がりにくい土壌にあるように感じます。障害者がスポーツに取り組みづらい社会環境であるが故に競技人口が少なく、競争も限られている状況が生まれているのですね。

初瀬:
小松さんのおっしゃる通りで、2020年東京パラリンピックを機会に健常者・障害者問わず多くの方々に広くパラスポーツやパラアスリートの存在や現状の問題を知っていただくことで、障害者全体についてもっと興味を持ってもらい、日本の社会環境全体を変えていければ、それは素晴らしいレガシーになると思うんです。

東:
その思いを広く伝えるために、今回の挑戦があるというわけですね。

初瀬:
そうですね。やはり、2020年に最も大きな発信力を持つのは現役アスリート、中でもメダリストだと思いますので。以前に出場した自分本来の階級である90キロ級ではパラリンピックに出場は出来てもメダルを獲得するのは難しい。メダルを狙うのであれば66キロ級だということで、今回20キロの減量に挑んだんです。

小松:
20キロもの減量、どのように実現なさったのでしょうか?

初瀬:
細かく言えば色々とあるんですが、基本的には“食べずに練習する”ことですね(笑)。

小松:
“あしたのジョー”の力石徹のように、ですか?

東:
今の若者には“はじめの一歩”の宮田一郎のほうが馴染み深いかも知れません(笑)

初瀬:
どちらもよく分からないと思いますが(笑)、そうですね。もちろん、栄養士の方などにアドバイスをいただきながらですが。

東:
経営者としてのお仕事には影響は無かったのでしょうか?

初瀬:
そこは影響がないように必死でやりました。試合直前の本当にきつい時期には覇気がないとか、口数が少なくなって元気がないとは言われましたが。

小松:
改めて、ものすごいチャレンジに成功なさったのですね。

初瀬:
渡嘉敷勝男さん(ボクシング元WBA世界ライトフライ級王者)の娘さんが知り合いだったので、お父さんに20キロ減量する方法を聞いてもらったら「そんな無茶な減量したら、ボクシングだったら死ぬかもしれないよ」って言われたそうです(笑)。

小松:
ボクサーが90キロ級から66キロ級に減量するなんてとんでもないですよね。

初瀬:
いや、これまで僕は試合に向けて増量するために無理やり食べていたので、ボクサーのように絞った身体を更に絞り切るのとは異なり、体重を落とすのはそんなに難しくないと思っていたんです。

小松:
なるほど・・・それでは、次の大会にも66キロ級で臨まれるのでしょうか?

初瀬:
そうですね、66キロでは負けてしまったので次は60キロ級に挑戦しましょうかね(笑)。

東:
それは流石に命に関わります(笑)。

小松:
一人のアスリートとしてだけではなく、障害者雇用を創造する会社の経営者という顔を持ってのチャレンジ、決してご無理のないようにしてくださいね。

 障害者雇用と産業保健のコンサルタントという仕事

東:
続いて“アスリート”としての初瀬さんではなく、“経営者”としての初瀬さんについても聞かせてください。まずは「ユニバーサルスタイル」の事業についてお教えいただけますか?

初瀬:
はい、「ユニバーサルスタイル」の主な事業は障害者の就業・転職のサポートや企業への障害者人材紹介など障害者雇用コンサルティングを始め障害者のキャスティングや講演・セミナー・研修です。現在、約300人の障害者にご登録をいただいていて、年間10〜20人ほどの雇用をお手伝いしています。ちなみにリオデジャネイロパラリンピックに出場した選手の中にも弊社がサポートした選手が5人いて、2人はメダリストになりました。

小松:
世界トップレベルのパラアスリートの方もご登録なさっているのですね。

初瀬:
そうですね。様々な障害がありながら一生懸命スポーツに励んでいる人を応援したいという企業の方は多々いらっしゃるのですが、どこにどんな人がいるのか、どうすれば雇用出来るのか分からないことも多いので、その橋渡しをするのも私のミッションだと考えています。

東:
「スタイル・エッジMEDICAL」でも代表取締役を務められていますよね。

初瀬:
よくご存知で(笑)。「スタイル・エッジMEDICAL」は弁護士、公認会計士、税理士、行政書士といったいわゆる“士業”の方のコンサルティングをおこなっている「スタイル・エッジ(代表:金弘厚雄)」のグループ会社です。スタイル・エッジの理念は「80億の人生に彩りを。」で、80億は全ての人種&国籍の人ですからもちろん障害者も含まれており、パラアスリートという私のパーソナリティーを活かして一緒にやれることがありそうだということで、グループ会社として主に企業の健康経営をサポートする事業をしています。

小松:
もう少し詳しく事業内容をお教えくださいますか?

初瀬:
そうですね、簡単に言いますと、企業における産業保険に関する課題をヒアリングし、①嘱託産業医の派遣、②衛生委員会の立ち上げ&運営サポート、③各種健康増進イベントの企画&運営、④障害者雇用に関するサポート、⑤ストレスチェックの実施サポート、⑥マッサージ師&トレーナーの派遣、⑦出張集団予防接種サ−ビス、⑧社内託児所の設置サポート、⑨医療顧問サービスなどを提供することで、社員の方々がより健康に楽しく会社に来られるようにし、離職率・休職率を下げる「産業保健のコンサルタント」です。

小松:
メンタルヘルスや予防医学の観点から社員を守り、健康で安心して働ける職場づくりを実現する“健康経営”は、現在、企業に最も必要とされている要素の一つですよね。

東:
現役のパラアスリートで、障害者雇用コンサルティング企業の経営者でもあり、様々なスポーツ連盟・協会の理事を務めている初瀬さんの強みが最大限に活きる事業内容ですね。

初瀬:
そうなんです(笑)。私自身の障害者というパーソナリティーとアスリート人脈に加えて、親会社であるスタイル・エッジが士業の幅広いネットワークを持っているので、産業医のご紹介から健康増進イベントや講演会への最適なアスリートなどのアサインから企画・実施、障害者雇用についての課題解決や各種サポート、マッサージ師・トレーナーの派遣、各種事業の医療顧問など産業保健に関するあらゆることを一貫してサポート出来るんです。

小松:
視覚障害者であるという己のパーソナリティーを強みに変えて、障害者の雇用をサポートする事業を通して障害者が活躍できる場所を創出することと、予防医学の事業を通じてすべての人が健康で、笑顔の絶えない社会の実現を目指すために日々活動する初瀬さん。
誰もが羨むような活躍ぶりですが、大学2年生の時に視力を失った時には人生に絶望感を味わい、就職活動では100社以上に履歴書を送るも、面接に進めたのは2社、内定は1社という苦難の日々を経験なさって、現在があります。

東:
弁護士になるために東京大学を目指していた初瀬さんが視力を失い、絶望の末に視覚障害者柔道に出会い、パラアスリートとしてどのようなキャリアを歩んできたのかについて伺っていきたいと思います。

小松:
現在、東京パラリンピックを目指す現役のパラアスリートであり、複数の企業の経営者やスポーツ連盟・協会の理事職を兼務するなど幅広くご活躍の初瀬さんが、今日に至るまでの経緯からお伺いしていきます。

東:
まずは、人生の中でも最も大きな転換点だとおっしゃられている、視力を失った際のお話から聞かせていただけますか?

初瀬:
はい、私は視神経に障害が起こり、視野が狭くなる“緑内障”という病気で、全く何も見えない訳ではありませんが、中心の視野がほとんど無いために、文字が読みとれなかったり、人の顔が分からなかったりするんです。東さんくらい身体も声も大きければはっきりと分かるのですが(笑)

東:
すみません、いつもうるさくて(笑)

初瀬:
いえいえ(笑)。

小松:
初瀬さんが、最初に視力に異変を感じたのは19歳の頃だそうですが。

初瀬:
はい、私は長崎県出身で学年250人のうち100人が医師に、40人が東京大学に進むような青雲高校という地元では有名な進学校に通っていたのですが、卒業後に弁護士になるために東京大学法学部を目指し、浪人していた19歳の時にまずは右目が見えなくなってしまいました。

東:
いきなり見えなくなってしまったのですか?

初瀬:
今思えば、徐々に症状が進行していたのかもしれませんが、普段は両目を使っているので気づかないんですよね。いつの間にか右目は、わずかな視野が残るのみとなっていたんです。

小松:
右目がほとんど見えないというハンディキャップを背負ったにも関わらず、弁護士になる夢を諦めずに挑戦を続けた初瀬さんは、3浪の末に中央大学法学部へ入学。しかし、そこでさらなる試練が訪れます。

東:
司法試験を目指して学ぶ大学2年生・23歳の初瀬さんは、“緑内障”によって残った左目の視力も失ってしまいます。

初瀬:
何か見えにくくなってきたなと思い、病院に行ったら「緑内障です」と診断されまして。緑内障は眼圧が高くなるので、最初は眼圧を下げるための目薬を処方されたのですが、効果が見られず、入院して手術をすることになりました。異常に気づいてから2、3週間ですかね。

小松:
あっという間に、だったのですね。

初瀬:
そうですね。それまでは左目は見えていたので、そんなに悲壮感はなかったんです。かなり見えづらくはあるのですが、文字を書いたりも出来ていましたし、この時も自分で入院と手術に必要な手続きをしました。

東:
不安だったでしょうね・・・

初瀬:
もちろん不安でした。担当の先生から手術前に「弱っている神経が耐えられるかわからないけれど、今手術しないと光の有無すらわからなくなる」と言われていましたし。結果、手術は成功したのですが視神経を痛めてしまい、両目ともに視力を、正確に言うと視野の中心部分を失ってしまいました。例えば、周辺の視野で何となく「人がいるな」ということは分かっても、顔は見えない。中心が見えないと動くに動けないし、外に出るのも怖いという状況になってしまったんですね。

小松:
19歳で右目、23歳で左目の視力を失うという度重なる試練に対して、当時の初瀬さんは何を思われたのでしょうか。

初瀬:
手術を終えて、自らの現状を把握した時のショックというか喪失感は大変なものでしたね。“絶望”という言葉が最も近いかも知れません。この時、高校時代の同級生はすでに大学を卒業してそれぞれの道で活躍していました。私は母子家庭に育ちましたので、お金を稼いで母親に楽をさせたくて、社会的に成功するために自らの努力で道を切り拓こうという思いが強かったんです。右目の視力を失ったとしても、それを乗り越えて弁護士になるために必死で頑張ってきたのに、自分の努力とは関係のないところでその夢を取りあげられたような気がして・・・

東:
心が折れてしまってもおかしくない苦境に立たされた初瀬さんですが、家族や仲間に支えられる日々の中でかけがえのないものに気がつき、立ち直ることが出来たそうですね。

 母の愛、そして心優しき友

初瀬:
そうですね、視力を失ったおかげで気づけたことがたくさんありますし、本当に多くの方々に支えられてきました。特に最愛の家族である母には救われました。私が絶望の中で本気で「死にたい」と伝えた時に、「死んでもいいよ。そのかわり、私も一緒に死ぬから」と言われて。その時に、目が見えても見えなくても親の愛情は変わらないことを実感して、こんなに愛してくれている母親に対して、親不孝をしてはいけないと考えを改めることが出来たんです。

小松:
…………記事で拝読いたしましたが、涙なしには読み進められませんでした。

東:
僕も二児の父親ですから、親が子どもを思う気持ちは理解出来るつもりですが・・・その時のお母様の気持ちを考えると胸が痛みます。また、学生生活を送るうえでは、友人のご協力もあったそうですが。

初瀬:
はい。春休みの全ての時間を使い、一ヶ月間泊まり込みで大学の履修手続きから障害者手帳の申請まで面倒を見てくれた磯招完(あきひろ)さんと、二年間に渡り大学への送り迎えから郵便物の整理までしてくれた池山晋也さんという二人の親友がいなければ、大学を卒業することなんてとても出来ず、今の私はありません。

東:
素晴らしい友人にも恵まれていたのですね。

初瀬:
実は磯さんや池山さんとは予備校時代からの付き合いなのですが、目を悪くするまではそこまで仲が良かったわけではありませんでした。もし、私が逆の立場だったら同じことが出来たか・・・。二人には本当に心から感謝しています。

小松:
お母様やご友人の温かいサポートに助けられながら、手術から1年半の時が経過。4年生になり、卒業を目の前に控えた初瀬さんでしたが、周囲が次々に進路を決めていく中、自分には何が出来るのか悩み、焦燥感を募らせていたそうですね。

初瀬:
はい、何とか日常生活を送ることは出来るようになりましたが、この先何をすればいいのか分からずに不安な日々を過ごしていました。何かやりたい、でも、目が見えない私に一体何が出来るのだろう?と悩んでいた時に、友人から何気なく「柔道をやってみたら?」と言われて。その時に目の前が一気に開けた感じがしたんです。柔道なら、出来るかもと。

 視覚障害者柔道との出会い

東:
ふとしたきっかけで、中学、高校の6年間取り組んでいた柔道に7年ぶりに挑戦することになったわけですが、通常の“柔道”と“視覚障害者柔道”の違いについて教えていただけますか?

初瀬:
はい、視覚障害者柔道の選手は見えないことが前提ですので、しっかりと組み合ってからスタートするという違いはあるのですが、あとは特に変わりません。

小松:
見えない状況で組み合い、投げ合うことに恐怖心は抱かなかったのでしょうか?

初瀬:
確かに最初は怖いと感じることもありましたが、外と違って畳の上には段差がないので思い切り動けますし、柔道をしている間は人とフラットに接することが出来たのがとても心地よかったんです。

東:
人とフラットに接する、ですか。

初瀬:
はい、視覚障害者は生活の中の至るところで、目が見えないことによって、頼み事をしたり、謝らなければいけない場面に遭遇するのですが、畳の上で柔道をしている間は何に遠慮をする必要もなく、平等に戦えることが本当に楽しくて。

小松:
畳の上という自分を思い切り表現する場を見つけた初瀬さんは、高校時代に長崎県大会で3位になった実力をいかんなく発揮し、初めて出場した全日本視覚障害者柔道大会90キロ級で見事優勝。その後、国内では無敵の存在となり、北京パラリンピックへの出場を果たされることになります。

東:
視覚障害者柔道との出会いが、初瀬さんの人生を大きく変えていきましたよね。

初瀬:
そうですね。全日本大会で初めて優勝した際に、会場へいらしていた皇太子殿下にお言葉をかけていただいたんですが、その時に人生が大きく動き出していく感覚を味わいました。その後、日本代表の強化合宿にも招集されるようになり、それまでは毎日何をすればいいか悩んでいた私にどんどん予定が入るようになったんです。本当に人生がガラリと変わりました。

小松:
そして、28歳で迎えた北京パラリンピック。どのような感想をお持ちになりましたか?

 オリンピックと同じ場所で、同じ日の丸を胸に

初瀬:
最初は単にオリンピックと同じ会場で試合が出来る大会という感じで、日本代表のジャージや選手村の環境にワクワクしていただけだったのですが、“鳥の巣(北京国家体育場)”での開会式で超満員の観客の空から降ってくるような拍手と割れんばかりの大声援の中、日の丸を胸に行進したことで、本当の意味で日本代表としての自覚と誇りが身についたように思います。

東:
試合では、僅差の判定で惜しくも1回戦負けとなってしまいましたが、当時所属なさっていた大手人材派遣業テンプホールディングス(現パーソルホールディングス)のグループ企業・サンクス・テンプ(現パーソルサンクス)から企業をあげた支援を受けていたそうですね。

初瀬:
はい、当時のパラアスリートを取り巻く環境は現在と比較すると雲泥の差があり、日本代表として出場する国際大会にかかる費用も個人で負担するのが普通でしたから、私は非常に恵まれた立場でした。私自身も2007年にブラジルで開催された世界選手権に出場するために50万円程度の自己負担をしました。

小松:
50万円の自己負担金とはかなりの高額ですね・・・

初瀬:
友人などのカンパもあって何とか工面は出来たのですが、お金のことで頭を下げるのはあまり気持ちの良いものではありませんよね。

東:
しかも、個人的な理由で旅行をするわけではなく、日本を代表して世界大会へ出場するための費用ですからね。

 パラアスリートの金銭事情

初瀬:
2020年の東京オリパラを控えている現在は、障害の有無を問わずにアスリート雇用が一般化していますし、国からも多額の補助金・助成金が出されているので、競技に関わるお金をアスリートが負担することはほとんどありませんし、大卒の一般社員より中卒のパラリンピアンのほうが高収入を得ている企業まで存在します。

小松:
東京オリパラに向けて、国や企業をあげてアスリートを支援しているのですね。このような状況の変化は、2013年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されることが決定してからなのでしょうか?

初瀬:
そうです。それまでは全くといっていいほどパラスポーツやパラスポーツに資金が集まることはありませんでした。2008年の北京パラリンピックに出場したパラリンピアンの中で企業からアスリート雇用としてサポートを受けていたのは私含めてわずかだったと思います。

小松:
当時は車椅子テニスの国枝慎吾さん(グランドスラム男子車椅子部門歴代世界最多優勝記録保持者)も大学の職員で、活動資金を負担しながら競技生活を送っていたそうですね。北京パラリンピックで金メダルを獲得してプロ宣言(現在はユニクロ所属)しましたが、それ以前には彼は「自分がテニスをするために親にどれだけお金を負担させるのだろう」と悩み、一旦引退しています。

初瀬:
パラ競泳の河合純一さん(バルセロナからロンドンまで6大会連続でパラリンピックに出場し、5つの金メダルを含む21個のメダルを獲得)もそうですが、競技成績に関わらず自ら活動資金を負担しながら競技を続けるのが普通でした。私は本当に恵まれていたと思います。

東:
河合さんが会長で初瀬さんが理事の日本パラリンピアンズ協会でも奨学金制度がありますよね?

初瀬:
はい、協会では障害のある若手のアスリートや、これからパラリンピックを目指すけどまだまだ競技力としては足りていない方で資金的にもまだまだ満たされていないような方々へ何か助けてあげられないか、何か手伝ってあげてさらに次世代のパラリンピック、協会を引っ張っていくようなリーダーを育てたいという想いがありました。そこにスタイル・エッジがとても共感してくれて「80憶の人生に彩りを。」という理念にも合致するため、協会とスタイル・エッジが協力して奨学金制度「ネクストパラアスリートスカラーシップ(NPAS)」を立ち上げました。これは、単純に強くなるためだけの奨学金ではなく、将来的にパラの世界でリーダーになってもらえる人を育てるための奨学金制度になります。

東:
現在、東京オリパラに向けて多くのアスリートが活動資金や競技環境に配慮した雇用の面で様々な手厚いサポートを受けていますが、それが今後も続くのかについては不透明な部分があります。言い方は悪いかも知れませんが、2020年以降に“スポーツバブル”、“アスリートバブル”が弾けることも考えながら、競技団体はスポーツそのものの、アスリートは自分自身の価値をより高めていく必要があるように思います。

 “見えない”人には働く場所がない

小松:
ここで少し時計の針を巻き戻します。初瀬さんは就職活動の際にかなりご苦労なさったと伺ったのですが、その時のお話を聞かせていただけますか?

東:
100社以上に履歴書を送って、面接まで進めたのが2社だと伺いました。

初瀬:
そうですね、ざっと120社くらいは落ちました(笑)。ほとんどの企業に書類選考で落とされてしまい、面接までたどり着けませんでした。企業としては障害者雇用促進法の関係もあり、障害者を採用したいというニーズはあるのですが、視覚障害者は別でしたね。

小松:
視覚障害者を活用するノウハウが企業になかった、ということなのでしょうか。

初瀬:
そうですね、車椅子の方や四肢障害者の方であれば活躍の場もイメージしやすいですが、私は会ってももらえなかったので。改めて目が見えないことはしんどいなと感じました。

東:
再び、視覚障害の壁にぶつかったわけですね・・・

小松:
そんな中、唯一内定をくれたのが、先程も少しお話に出た大手人材派遣業“テンプホールディングス”グループ企業で、障害者を専門に雇用する特例子会社“サンクス・テンプ”でした。

東:
“サンクス・テンプ”で知的障害のある多くの社員とともに働いた経験が、現在につながる大きな財産になったそうですが、“サンクス・テンプ”でのお仕事を経て、“ユニバーサルスタイル”を起業し、経営者として活躍なさっていくお話から伺わせていただきます。

小松:
大苦戦した就職活動を経て入社した“サンクス・テンプ(現パーソルサンクス)”でのお仕事からお話を伺っていきます。

東:
100社以上にエントリーシートを送った中で、2社しか面接まで進めず、1社しか内定を得られなかった初瀬さんが、どのようにして経営者としてご活躍するに至ったのか。

小松:
まずは“サンクス・テンプ”の事業内容からお聞かせいただけますか?

初瀬:
“サンクス・テンプ”は大手人材派遣業“テンプホールディングス(現パーソルホールディングス)”のグループ企業で、障害者を専門に雇用する特例子会社です。当時は200名の従業員のうち約180名が障害者で、障害のある方々に仕事を通じた活躍の場を提供しながら、社会的に自立してもらうことを最大の使命としていました。

東:
従業員のほとんどが障害者という企業だったのですね。

初瀬:
そうなんです。入社当初は派遣会社や特例子会社が何なのかも理解しておらず、とりあえず居場所があってご飯が食べていけそうという意識でした(笑)。ところが、入社してから1週間が経過した頃、初めて配属された部署で私を指導してくれるはずだった方が突然退職してしまい、仕事の内容も全く分からないまま彼の仕事を引き継ぐことになってしまいまして。

小松:
その方はどのような業務を担当なさっていたのでしょうか?

初瀬:
知的障害者の方の指導とマネジメントです。

東:
入社一週間の視覚障害者が、知的障害者の指導とマネジメントを担当することになったわけですね!
相当大変だったのではないでしょうか?

初瀬:
そうですね、普通に考えると出来るわけがありませんので、まずは知的障害者の方に仕事内容を教えてもらうことから始めました。

小松:
どのような仕事内容だったのでしょう?

初瀬:
社内休憩スペースに設置したカフェコーナーでコーヒーを販売したり、廃棄する書類を回収してシュレッダーで裁断するなどの仕事ですが、知的障害者の方について職場を回っていく日々の中で、事あるごとに“見えない自分”を思いやり、サポートしていただいたことで、私自身が知的障害者の方に抱いていたイメージが変わりました。

東:
当初はどのようなイメージを抱かれていたのでしょうか?

初瀬:
今にしてみれば、漠然とではありますが、“普通の仕事”をするのは難しいのではないかというイメージがあったように思います。

東:
正直にいえば、私もそうですね。
“普通の仕事”という言葉自体もそうですが、知らず知らずのうちに知的障害者の方に対する“バリア”をつくってしまっていたかも知れません。

初瀬:
自分自身が視覚障害者に対する“バリア”に苦しんできたというのに、情けないですよね。
この時に、知的障害者の方々と一緒に仕事を進めていく中で、彼ら一人ひとりの能力や思いを知り、コミュニケーションの取り方を学んだ経験は現在でもかけがえのない財産となっています。

小松:
今では、これらの経験がユニバーサルスタイルなどでの障害者雇用に関する事業を進めるうえで大きな強みとなっていますよね。

初瀬:
そうですね。本当にご縁に恵まれていると思います。

 「0.5+0.5=2.5」にする働き方

小松:
知的障害者以外にも、聴覚障害者の同僚との出会いによって学ばれたことも多かったそうですね。

初瀬:
はい、猪野康隆さんといって、デフバレーボール(聴覚障害者バレーボール)の日本代表としてデフリンピック(聴覚障害者の総合スポーツ大会)に3度出場している選手でしたが、私がパラリンピックに出場するかしないかくらいの時期に一緒に仕事をしていました。

東:
そんなトップアスリートの方も所属なさっていたのですね。

初瀬:
そうなんです。猪野さんは耳が聞こえないので電話は出来ませんが、パソコンで書類を作成するのは得意、私は目が見えないので書類はつくれませんが、企画の立案が得意で電話も出来る、と言った具合に互いの短所を補いながら、長所を活かせるような働き方をしていました。

小松:
まさにチームプレーですね。

初瀬:
また、私は彼との仕事を進めやすくするために拙いながらも手話をおぼえ、彼は聴こえないのですが唇の動きは読め、発声も出来るので、よりコミュニケーションが取りやすいようにと、目が悪い人がおぼえたての手話を使い、耳が悪い人が聞き取りづらい言葉を喋っているという訳の分からない状況で、楽しく仕事をしていました(笑)。

東:
お互いを思いやりながら仕事を進めていたんですね。楽しそうな風景が目に浮かびます。

初瀬:
この時に、障害者が一人で仕事をすると0.5人分にしかならないかも知れないけれど、二人で協力すれば2.5人分の力を発揮することも出来るのではないかと思えたんですね。

小松:
障害者に限らず、お互いの苦手な部分を補い合い、得意な部分を活かしながらチームで最高の成果が出せるように働くという考えは、これからの社会で非常に大切なことですよね。

 探してもなければ、つくる

小松:
その後、初瀬さんは2011年にサンクス・テンプを退職。ユニバーサルスタイルを設立し、経営者となるわけですが、いつ頃から起業しようと考えていらっしゃったのでしょうか?

初瀬:
最初に考えたのは就職活動の最中です。何通履歴書を出しても全く相手にしてもらえなかった時に「世の中に自分の出来る仕事はないかも知れない。自分の仕事を自分でつくらなければ食べていけない」と思ったんです。その時に、同じように悩んでいる障害者のために“障害者の仕事をつくる仕事”をしたいと思い、ビジネスプランを考えたりしていましたね。

小松:
“障害者の仕事をつくる仕事”という発想が素晴らしいですね。

初瀬:
今振り返るとビジネスプランだなんてとても言えたものではなく、現在の事業とも全然違うのですが、とにかく将来に対する不安と危機感がありましたね。

小松:
周囲に原因を求めるのではなく自ら道を切り拓く姿勢、尊敬します。

初瀬:
いえいえ。私はそうする他に生きていく術が見つからなかっただけなんです。障害者になるということは、出来ないことが増えて、人生の選択肢が減るということでもあります。
例えば東さんは選択肢がめちゃくちゃ多いですよね。健康な身体があって、アスリートとしての実績とビジネスに活きる人脈もお持ちで、何でも出来るし、何をしても生きていけるじゃないですか。ただ、何でも出来ることがその人の強みにつながっているのかといえば、必ずしもそうだとは言い切れない部分もありますよね。

東:
おっしゃっていること、とてもよく分かります。

初瀬:
私は“見えない”状況になったことで出来ること、出来ないことが明確になったからこそ、早くから人生において成し遂げたいことの選択と集中と覚悟が出来たのだと思います。
ただ、障害者が自らそれに気づき、実行することがとても難しいことも分かっているので、当時の私のような悩みを持っている方がいたら、どんな状況になろうとも選択肢はあるのだということを伝えたいんです。少なくなったかも知れないけれど、決してゼロではないと。

東:
何でも出来るのだけれど、何もしない人にならないように気をつけないといけませんね。

小松:
初瀬さんがユニバーサルスタイルを設立なさったのは30歳の時でした。
“30歳”という年齢には何かこだわりがあったのでしょうか?

 障害者雇用の現実を変えるべく、三十にして立つ

初瀬:
そうですね。論語の「三十にして立つ」が頭にあったことや独立起業した同級生に刺激を受けた面もありましたが、最も大きな要因は収入を増やしたかったからですね(笑)。

東:
いや、大切なことです。

初瀬:
北京パラリンピックに出場した後に広報的な役割も果たすようになって、自分では活躍の場も増えてきていると感じていたのですが、給与は入社以来ずっと同額、日給8000円のままだったんですね。

東:
稼働日が20日間だとすると、月に16万円ということですか?

初瀬:
しかも、日給制なので大型連休などがあると更に少なくなりますし、そこから税金や社会保険なども引かれますので、30歳の男性が家族を養っていくには厳しい金額ですよね。

小松:
初瀬さんのような方でも特別扱いはなく、障害者雇用制度の枠内で給与が決められていたということでしょうか?

初瀬:
そうですね。障害者雇用制度をもとに給与体系が設計されていたので、中卒の重度障害者よりも大卒でマネジメントを担当し、パラリンピアンでもある私のほうが給与が低いという状況もありました。

東:
納得がいかず、怒りがこみ上げたりはしなかったのでしょうか?

初瀬:
いえ、怒りはなかったです。正直なところ、正当な労働対価としてそれ以上のお金がもらえるような仕事なのかと考えた場合、違うなと感じていたので。もちろん、単純に言い切ることは出来ないですが、障害者雇用の場合の特例子会社は親会社が国から求められている障害者雇用率2.2%を満たすために存在している部分がとても大きいんです。つまり、親会社が障害者を直接雇用することが難しいから設立するんですね。

小松:
もう少し詳しくお教えいただけますか?

初瀬:
一例として、障害者雇用率2.2%を達成するために軽作業にしか従事出来ない知的障害者を親会社で採用するとします。その方を親会社の規定どおりに昇給させていくと、軽作業しか出来ないにも関わらず高給を支払わなければならなくなり、企業としては負担になってしまいますので、特例子会社を設立し、そちらで採用し、そちらの規定で給与を支払うといったことがおこります。

東:
なるほど、企業が特例子会社を設立するのにはそういう事情があったんですね。

初瀬:
私が在籍していたサンクス・テンプの親会社であるテンプホールディングスは人材派遣会社ですから、従業員と派遣スタッフの合計人数が障害者雇用の母数にカウントされることになります。当時、従業員数が2000人で派遣スタッフが1万人でしたので、2%の障害者雇用率を達成するためには従業員と派遣スタッフの合計12000人に対して240人の障害者を雇わなければならなくなります。人材派遣会社の営業所はだいたい5〜10人が配置されていて、ギリギリの状態で仕事をしていることが多いので、「こんなに忙しいのに障害者をどこに配置して、何をしてもらうの?」という課題が出てきます。そんな時に特例子会社が障害者雇用の中心になるというわけなんです。

小松:
法律の抜け道というか数字のトリックのような印象も受けますね。国の決まりだから仕方なく、障害者雇用率2.2%を満たすためだけに雇用する。そして、自分たちの負担にならないような給与の規定をつくる。

初瀬:
もちろんそうではない特例子会社もたくさんありますが、特例子会社の従業員に求められる仕事は“何事もなくそこにいること”で、“成果を上げること”ではないことが往々にしてあるように思っていました。

東:
やりがいを見つけることが難しい環境ですね・・・

初瀬:
ただ、もっと給与を貰えるところで働きたいと思っても、当時の私はサンクス・テンプでの仕事しか知りませんでしたから、自分が他の会社の仕事が出来るのかなんて分からないですし、雇ってもらえる自信もありませんでした。何せ100社以上に履歴書を送って、採用してくれたのがサンクス・テンプだけだったわけですから。

小松:
人生を変える決断、どのようにくだされたのでしょう?

初瀬:
2011年3月11日の東日本大震災がきっかけです。保証されている明日なんてないのだということを改めて感じて、いつ何があるかわからない中で、後悔しないように自分が本当にやりたいと思っている“障害者の仕事をつくる仕事”をしたいと思って、決断しました。

東:
私自身も2016年3月に18年間勤務した大崎電気工業を退職し、独立する際には後悔のないように生きたいという気持ちが強かったですが、東日本大震災の影響は間違いなくありましたね。

初瀬:
高給を貰っていた東さんと違って、私の場合はリスクも少なかったですけどね(笑)。渋谷の雑踏でたくさんの人が歩いているのを見て、これだけの人が普通に食べていけているのだから、月16万円くらいだったら稼げるんじゃないかなと(笑)。

東:
現在の初瀬さんには及ばないですが、確かに良い給与をいただいていましたね(笑)

初瀬:
まあ、今はもっと稼いでいるのでしょうが(笑)。

東:
いやいや(笑)、話を元に戻しましょう。
結局、初瀬さんは転職ではなく、起業することを選ばれました。

小松:
2011年10月にサンクス・テンプを退職し、障害者雇用コンサルティングを事業とする“ユニバーサルスタイル”を設立。翌年11月には有料職業紹介の免許を取得し、まさに“障害者の仕事をつくる仕事”をなさっていますね。

初瀬:
そうですね。やりたい事を実現出来ていることは本当に幸せだと感じますし、様々なご縁に恵まれたことにも心から感謝しています。

東:
初瀬さんがユニバーサルスタイルを設立してから、障害者雇用の現状は変わったのでしょうか?

初瀬:
先日、政府による水増し問題なども発覚しましたが、企業や社会全体の障害者に対する理解も深まり、全体的に良い方向に進んでいることは間違いありません。

東:
2020年に東京でパラリンピックが開催されることが決まってから、パラリンピアンを中心に障害者がメディアに取りあげられる機会が増えたことも好影響を与えているように感じます。

 見えなくなったからこその“今”に感謝する

初瀬:
おっしゃるとおりですね。これまでは障害者といえば“大変な思いをしている可哀想な人”というだけのイメージだったのが、多くの人たちがパラリンピックやパラアスリートを目にする機会が増えたことで“世界の舞台で活躍する凄い人”というイメージも持ってもらえるようになってきたかなと思います。

小松:
テレビCMや雑誌の広告などにも、パラアスリートが登場する機会が増えていますね。

初瀬:
個人的には、パラリンピックの使命は、障害者の「通訳者」、「翻訳者」の役割を果たすことだと考えています。東京パラリンピックを来年に控えた今、障害者を代表するパラアスリートの言葉は大きな意味を持ちます。だからこそ障害そのものや障害者を取り巻く現実を正しく理解し、誇りをもって堂々と振る舞い、発言してほしいと思います。

小松:
今回、初瀬さんからお話を伺ってきた中で、私が最も重要なメッセージだと感じたのが、「障害者になることは出来ないことが増え、選択肢が減ること。それは選択と集中と覚悟を生むことにも繋がり、一概に悪いことだとは言えない」ということです。これは、アスリートやビジネスパーソンにも同じことが言えるように感じました。人はみな生きていく中で様々な要因によって選択肢を狭められていきますが、それをシンプルになっただけだと前向きに捉え、自らの出来ることに覚悟をもって集中して取り組むことで、いつでも、誰でも人生を輝かせることが出来ると初瀬さんの生き様は教えてくれます。

東:
初瀬さんがもし、何の障害も持たずに弁護士になっていたら、決して今の職業にはたどり着けず、途方に暮れている障害者の方がたくさんいらっしゃったかも知れません。

初瀬:
そうですね、私の会社を通じて仕事に就いた障害者の方々が職場で活躍している姿を見ると、目が見えなくなってよかったな、とも思えるようになりましたね。

小松:
さて、それでは改めて初瀬さんの現在の活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめてみましょう。現役選手としての活動は別として、全日本視覚障害者柔道連盟などの役職は “B”の領域、ユニバーサルスタイルやスタイル・エッジMEDICALでの経営者や講演活動などについては“C”の領域ということになりますね。

東:
障害者雇用の問題を根本的に解決したいという高い志は政治家などにも向いているように感じます。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
それでは最後に、毎回恒例の質問をさせていただきます。“柔道”という言葉を使わずにご自身を紹介してもらえますか?

初瀬:
難しいですね・・・。障害者雇用を通じて多様性を認め合い誰もが活躍できる社会を作ることにチャレンジしている経営者とか、そんな感じですかね。

小松:
とっても素敵です!

東:
流石の締め方、素晴らしいです!

初瀬:
あんまり褒められると恐縮しちゃいます(笑)

小松:
本日はお忙しいところありがとうございました。
経営者としてはもちろん、2020年の東京パラリンピックでのご活躍も楽しみにしております。

初瀬:
ありがとうございます。まずは減量から頑張ります(笑)
(おわり)

次回は、レスリングシドニー五輪銀メダリスト・永田克彦さんです。4月8日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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