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初瀬勇輔 / Hatsuse Yusuke   元柔道選手|現在:

絶望の中で見つけた光 視覚障害者柔道との出会い 元パラリンピック柔道日本代表選手・初瀬勇輔(中編)

Profile

 

初瀬勇輔(はつせ・ゆうすけ)
1980年長崎県生まれ。北京パラリンピック・柔道日本代表。長崎県青雲高校から中央大学法学部を卒業後、大手人材派遣業テンプホールディングス(現パーソルホールディングス)のグループ企業・サンクス・テンプ(現パーソルサンクス)を経て、2011年に障害者雇用を創造する会社『ユニバーサルスタイル』を立ち上げ、独立。日本では希有な「障害者雇用コンサルタント」としての活動と並行して視覚障害者柔道の選手としても活躍。全日本視覚障害者柔道大会90キロ級、同81キロ級で合計10度の優勝を果たしたほか、2008年には北京パラリンピック90キロ級に出場。現在は、日本パラリンピアンズ協会や日本視覚障害者柔道連盟の理事としても活躍しながら、現役選手として、2020年の東京パラリンピック出場を目指している。

小松:
今回は、現在、東京パラリンピックを目指す現役のパラアスリートであり、複数の企業の経営者やスポーツ連盟・協会の理事職を兼務するなど幅広くご活躍の初瀬さんが、今日に至るまでの経緯からお伺いしていきます。

東:
まずは、人生の中でも最も大きな転換点だとおっしゃられている、視力を失った際のお話から聞かせていただけますか?

初瀬:
はい、私は視神経に障害が起こり、視野が狭くなる“緑内障”という病気で、全く何も見えない訳ではありませんが、中心の視野がほとんど無いために、文字が読みとれなかったり、人の顔が分からなかったりするんです。東さんくらい身体も声も大きければはっきりと分かるのですが(笑)

東:
すみません、いつもうるさくて(笑)

初瀬:
いえいえ(笑)。

小松:
初瀬さんが、最初に視力に異変を感じたのは19歳の頃だそうですが。

初瀬:
はい、私は長崎県出身で学年250人のうち100人が医師に、40人が東京大学に進むような青雲高校という地元では有名な進学校に通っていたのですが、卒業後に弁護士になるために東京大学法学部を目指し、浪人していた19歳の時にまずは右目が見えなくなってしまいました。

東:
いきなり見えなくなってしまったのですか?

初瀬:
今思えば、徐々に症状が進行していたのかもしれませんが、普段は両目を使っているので気づかないんですよね。いつの間にか右目は、わずかな視野が残るのみとなっていたんです。

小松:
右目がほとんど見えないというハンディキャップを背負ったにも関わらず、弁護士になる夢を諦めずに挑戦を続けた初瀬さんは、3浪の末に中央大学法学部へ入学。しかし、そこでさらなる試練が訪れます。

東:
司法試験を目指して学ぶ大学2年生・23歳の初瀬さんは、“緑内障”によって残った左目の視力も失ってしまいます。

初瀬:
何か見えにくくなってきたなと思い、病院に行ったら「緑内障です」と診断されまして。緑内障は眼圧が高くなるので、最初は眼圧を下げるための目薬を処方されたのですが、効果が見られず、入院して手術をすることになりました。異常に気づいてから2、3週間ですかね。

小松:
あっという間に、だったのですね。

初瀬:
そうですね。それまでは左目は見えていたので、そんなに悲壮感はなかったんです。かなり見えづらくはあるのですが、文字を書いたりも出来ていましたし、この時も自分で入院と手術に必要な手続きをしました。

東:
不安だったでしょうね・・・

初瀬:
もちろん不安でした。担当の先生から手術前に「弱っている神経が耐えられるかわからないけれど、今手術しないと光の有無すらわからなくなる」と言われていましたし。結果、手術は成功したのですが視神経を痛めてしまい、両目ともに視力を、正確に言うと視野の中心部分を失ってしまいました。例えば、周辺の視野で何となく「人がいるな」ということは分かっても、顔は見えない。中心が見えないと動くに動けないし、外に出るのも怖いという状況になってしまったんですね。

小松:
19歳で右目、23歳で左目の視力を失うという度重なる試練に対して、当時の初瀬さんは何を思われたのでしょうか。

初瀬:
手術を終えて、自らの現状を把握した時のショックというか喪失感は大変なものでしたね。“絶望”という言葉が最も近いかも知れません。この時、高校時代の同級生はすでに大学を卒業してそれぞれの道で活躍していました。私は母子家庭に育ちましたので、お金を稼いで母親に楽をさせたくて、社会的に成功するために自らの努力で道を切り拓こうという思いが強かったんです。右目の視力を失ったとしても、それを乗り越えて弁護士になるために必死で頑張ってきたのに、自分の努力とは関係のないところでその夢を取りあげられたような気がして・・・

東:
心が折れてしまってもおかしくない苦境に立たされた初瀬さんですが、家族や仲間に支えられる日々の中でかけがえのないものに気がつき、立ち直ることが出来たそうですね。

 母の愛、そして心優しき友

初瀬:
そうですね、視力を失ったおかげで気づけたことがたくさんありますし、本当に多くの方々に支えられてきました。特に最愛の家族である母には救われました。私が絶望の中で本気で「死にたい」と伝えた時に、「死んでもいいよ。そのかわり、私も一緒に死ぬから」と言われて。その時に、目が見えても見えなくても親の愛情は変わらないことを実感して、こんなに愛してくれている母親に対して、親不孝をしてはいけないと考えを改めることが出来たんです。

小松:
…………記事で拝読いたしましたが、涙なしには読み進められませんでした。

東:
僕も二児の父親ですから、親が子どもを思う気持ちは理解出来るつもりですが・・・その時のお母様の気持ちを考えると胸が痛みます。また、学生生活を送るうえでは、友人のご協力もあったそうですが。

初瀬:
はい。春休みの全ての時間を使い、一ヶ月間泊まり込みで大学の履修手続きから障害者手帳の申請まで面倒を見てくれた磯招完(あきひろ)さんと、二年間に渡り大学への送り迎えから郵便物の整理までしてくれた池山晋也さんという二人の親友がいなければ、大学を卒業することなんてとても出来ず、今の私はありません。

東:
素晴らしい友人にも恵まれていたのですね。

初瀬:
実は磯さんや池山さんとは予備校時代からの付き合いなのですが、目を悪くするまではそこまで仲が良かったわけではありませんでした。もし、私が逆の立場だったら同じことが出来たか・・・。二人には本当に心から感謝しています。

小松:
お母様やご友人の温かいサポートに助けられながら、手術から1年半の時が経過。4年生になり、卒業を目の前に控えた初瀬さんでしたが、周囲が次々に進路を決めていく中、自分には何が出来るのか悩み、焦燥感を募らせていたそうですね。

初瀬:
はい、何とか日常生活を送ることは出来るようになりましたが、この先何をすればいいのか分からずに不安な日々を過ごしていました。何かやりたい、でも、目が見えない私に一体何が出来るのだろう?と悩んでいた時に、友人から何気なく「柔道をやってみたら?」と言われて。その時に目の前が一気に開けた感じがしたんです。柔道なら、出来るかもと。

 視覚障害者柔道との出会い

東:
ふとしたきっかけで、中学、高校の6年間取り組んでいた柔道に7年ぶりに挑戦することになったわけですが、通常の“柔道”と“視覚障害者柔道”の違いについて教えていただけますか?

初瀬:
はい、視覚障害者柔道の選手は見えないことが前提ですので、しっかりと組み合ってからスタートするという違いはあるのですが、あとは特に変わりません。

小松:
見えない状況で組み合い、投げ合うことに恐怖心は抱かなかったのでしょうか?

初瀬:
確かに最初は怖いと感じることもありましたが、外と違って畳の上には段差がないので思い切り動けますし、柔道をしている間は人とフラットに接することが出来たのがとても心地よかったんです。

東:
人とフラットに接する、ですか。

初瀬:
はい、視覚障害者は生活の中の至るところで、目が見えないことによって、頼み事をしたり、謝らなければいけない場面に遭遇するのですが、畳の上で柔道をしている間は何に遠慮をする必要もなく、平等に戦えることが本当に楽しくて。

小松:
畳の上という自分を思い切り表現する場を見つけた初瀬さんは、高校時代に長崎県大会で3位になった実力をいかんなく発揮し、初めて出場した全日本視覚障害者柔道大会90キロ級で見事優勝。その後、国内では無敵の存在となり、北京パラリンピックへの出場を果たされることになります。

東:
視覚障害者柔道との出会いが、初瀬さんの人生を大きく変えていきましたよね。

初瀬:
そうですね。全日本大会で初めて優勝した際に、会場へいらしていた皇太子殿下にお言葉をかけていただいたんですが、その時に人生が大きく動き出していく感覚を味わいました。その後、日本代表の強化合宿にも招集されるようになり、それまでは毎日何をすればいいか悩んでいた私にどんどん予定が入るようになったんです。本当に人生がガラリと変わりました。

小松:
そして、28歳で迎えた北京パラリンピック。どのような感想をお持ちになりましたか?

 オリンピックと同じ場所で、同じ日の丸を胸に

初瀬:
最初は単にオリンピックと同じ会場で試合が出来る大会という感じで、日本代表のジャージや選手村の環境にワクワクしていただけだったのですが、“鳥の巣(北京国家体育場)”での開会式で超満員の観客の空から降ってくるような拍手と割れんばかりの大声援の中、日の丸を胸に行進したことで、本当の意味で日本代表としての自覚と誇りが身についたように思います。

東:
試合では、僅差の判定で惜しくも1回戦負けとなってしまいましたが、当時所属なさっていた大手人材派遣業テンプホールディングス(現パーソルホールディングス)のグループ企業・サンクス・テンプ(現パーソルサンクス)から企業をあげた支援を受けていたそうですね。

初瀬:
はい、当時のパラアスリートを取り巻く環境は現在と比較すると雲泥の差があり、日本代表として出場する国際大会にかかる費用も個人で負担するのが普通でしたから、私は非常に恵まれた立場でした。私自身も2007年にブラジルで開催された世界選手権に出場するために50万円程度の自己負担をしました。

小松:
50万円の自己負担金とはかなりの高額ですね・・・

初瀬:
友人などのカンパもあって何とか工面は出来たのですが、お金のことで頭を下げるのはあまり気持ちの良いものではありませんよね。

東:
しかも、個人的な理由で旅行をするわけではなく、日本を代表して世界大会へ出場するための費用ですからね。

 パラアスリートの金銭事情

初瀬:
2020年の東京オリパラを控えている現在は、障害の有無を問わずにアスリート雇用が一般化していますし、国からも多額の補助金・助成金が出されているので、競技に関わるお金をアスリートが負担することはほとんどありませんし、大卒の一般社員より中卒のパラリンピアンのほうが高収入を得ている企業まで存在します。

小松:
東京オリパラに向けて、国や企業をあげてアスリートを支援しているのですね。このような状況の変化は、2013年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されることが決定してからなのでしょうか?

初瀬:
そうです。それまでは全くといっていいほどパラスポーツやパラスポーツに資金が集まることはありませんでした。2008年の北京パラリンピックに出場したパラリンピアンの中で企業からアスリート雇用としてサポートを受けていたのは私含めてわずかだったと思います。

小松:
当時は車椅子テニスの国枝慎吾さん(グランドスラム男子車椅子部門歴代世界最多優勝記録保持者)も大学の職員で、活動資金を負担しながら競技生活を送っていたそうですね。北京パラリンピックで金メダルを獲得してプロ宣言(現在はユニクロ所属)しましたが、それ以前には彼は「自分がテニスをするために親にどれだけお金を負担させるのだろう」と悩み、一旦引退しています。

初瀬:
パラ競泳の河合純一さん(バルセロナからロンドンまで6大会連続でパラリンピックに出場し、5つの金メダルを含む21個のメダルを獲得)もそうですが、競技成績に関わらず自ら活動資金を負担しながら競技を続けるのが普通でした。私は本当に恵まれていたと思います。

東:
河合さんが会長で初瀬さんが理事の日本パラリンピアンズ協会でも奨学金制度がありますよね?

初瀬:
はい、協会では障害のある若手のアスリートや、これからパラリンピックを目指すけどまだまだ競技力としては足りていない方で資金的にもまだまだ満たされていないような方々へ何か助けてあげられないか、何か手伝ってあげてさらに次世代のパラリンピック、協会を引っ張っていくようなリーダーを育てたいという想いがありました。そこにスタイル・エッジがとても共感してくれて「80憶の人生に彩りを。」という理念にも合致するため、協会とスタイル・エッジが協力して奨学金制度「ネクストパラアスリートスカラーシップ(NPAS)」を立ち上げました。これは、単純に強くなるためだけの奨学金ではなく、将来的にパラの世界でリーダーになってもらえる人を育てるための奨学金制度になります。

東:
現在、東京オリパラに向けて多くのアスリートが活動資金や競技環境に配慮した雇用の面で様々な手厚いサポートを受けていますが、それが今後も続くのかについては不透明な部分があります。言い方は悪いかも知れませんが、2020年以降に“スポーツバブル”、“アスリートバブル”が弾けることも考えながら、競技団体はスポーツそのものの、アスリートは自分自身の価値をより高めていく必要があるように思います。

 “見えない”人には働く場所がない

小松:
ここで少し時計の針を巻き戻します。初瀬さんは就職活動の際にかなりご苦労なさったと伺ったのですが、その時のお話を聞かせていただけますか?

東:
100社以上に履歴書を送って、面接まで進めたのが2社だと伺いました。

初瀬:
そうですね、ざっと120社くらいは落ちました(笑)。ほとんどの企業に書類選考で落とされてしまい、面接までたどり着けませんでした。企業としては障害者雇用促進法の関係もあり、障害者を採用したいというニーズはあるのですが、視覚障害者は別でしたね。

小松:
視覚障害者を活用するノウハウが企業になかった、ということなのでしょうか。

初瀬:
そうですね、車椅子の方や四肢障害者の方であれば活躍の場もイメージしやすいですが、私は会ってももらえなかったので。改めて目が見えないことはしんどいなと感じました。

東:
再び、視覚障害の壁にぶつかったわけですね・・・

小松:
そんな中、唯一内定をくれたのが、先程も少しお話に出た大手人材派遣業“テンプホールディングス”グループ企業で、障害者を専門に雇用する特例子会社“サンクス・テンプ”でした。

東:
“サンクス・テンプ”で知的障害のある多くの社員とともに働いた経験が、現在につながる大きな財産になったそうですが、次回は“サンクス・テンプ”でのお仕事を経て、“ユニバーサルスタイル”を起業し、経営者として活躍なさっていくお話から伺わせていただきます。
(つづく)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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