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桧野真奈美 / Hino Manami   元ボブスレー選手|現在:

悪いのは、中途半端な自分だと知った 元ボブスレー日本代表・桧野真奈美(中編)

Profile

 

桧野真奈美(ひの・まなみ)
1980年北海道帯広市生まれ。小中学校時代はスピードスケート選手。高校からは陸上に取り組んでいた。スピードスケートと陸上競技人生では何度も怪我をし入院と手術を繰り返す生活を送る。19歳の時にボブスレーに出会い、アジア人の女子として初めてのオリンピック出場を果たす。2006年トリノオリンピック、2010年バンクーバーオリンピック日本代表。全日本選手権8連覇。オランダチームにも加わり競技生活を送った。現在は北海道帯広市の社会医療法人北斗北斗病院に所属。

 全てはボブスレーに繋がっていた

東:
今回は桧野さんの競技歴から伺っていきたいと思います。北海道の大自然の中で生まれ、多くのオリンピアンを輩出してきた帯広で育った桧野さんですが、最初に取り組んだのはボブスレーではなく、スピードスケートだったそうですね。

桧野:
はい、帯広は昔からスケートが盛んな地域で、私も小学1年生から競技としてスケートに取り組み始めました。

小松:
冬になると校庭に水を撒いてスケートリンクをつくるのだと伺いました。

桧野:
はい、帯広市内の小中学校では冬の体育の授業で小学生はスピードスケート、中学生になると男子はアイスホッケー、女子はフィギュアスケートに取り組むのが普通で、みんな自分専用のスケート靴を持っていますし、それぞれに専門的なクラブチームに所属したりもしています。私はスピードスケートを選んだのですが、入ったクラブが数々のオリンピック選手を輩出している名門チームだったんです。

小松:
オリンピック選手、たとえばどなたでしょうか?

桧野:
私が所属していた頃には、長野オリンピックで金メダル&銅メダル、ソルトレイクシティオリンピックで銀メダルを獲得した清水宏保さんを始め、スピードスケートの日本代表選手の半数以上が所属していました。実際にオリンピックで活躍している選手を間近に見ながらトレーニングする環境のおかげで、チームの誰もが“大きな夢”というよりも“現実的な目標”としてオリンピックを捉えていたように感じます。

東:
まさにエリートアカデミー、凄まじい環境ですね。

小松:
中学生になると陸上競技にもチャレンジなさいましたよね。走るのが得意だったのでしょうか?

桧野:
いいえ、全然得意ではないです(笑)。スピードスケートのトレーニングの一環として、陸上部で中距離走(800メートル)に取り組んでいました。高校に進学してからは本格的に陸上競技を全力で取り組みましたが、友人関係も楽しんでいた感じでしたね。陸上一筋というわけではなく、放課後や休日にルーズソックスを履いて友達と出かけたり、ごく普通の女子高生としての生活も楽しかったです。(笑)。

小松:
ピアノにも取り組まれていたそうですが。

桧野:
はい、まだ幼稚園にいた5歳の時から18歳ぐらいまでレッスンに通っていました。スケートや陸上に力を入れるようになってからは全然通えなくなってしまったのですが、それでも快く受け入れてくれる先生で、大好きでした。スケートや陸上のトレーニングの合間に、大好きな先生の前でピアノを弾くことは良い気分転換にもなりましたし、そういうスタンスで続けさせてくれたことに心から感謝しています。

東:
なるほど、一つの競技に打ち込むだけではなく、様々な経験をされてきたことが、明るく穏やかで、ある意味ではアスリートらしからぬ桧野さんのパーソナリティーを形成したのかもしれませんね。

桧野:
そうですね。今振り返ると、スケートも、陸上も、ピアノも、経験してきた全てのことが、ボブスレーに、そして現在の私に繋がっていると感じます。

 怪我を乗り越えて

小松:
桧野さんの競技人生を振り返る中で、最初の大きなターニングポイントとなるのが、高校3年生時の怪我です。右膝前十字靭帯断裂という大怪我を負い、陸上やスピードスケートをトップレベルで続けるのを諦めることになるわけですが、その時のお話を聞かせていただけますか?

桧野:
あれは、高校3年間の陸上部での活動の集大成となる試合を翌月に控えたある日、体育の授業でマット運動をおこなっていて、回転運動の際に膝を逆に回してしまい、靭帯を切ってしまったんです。

東:
陸上のトレーニング中ではなく、体育の授業中に・・・。悔やんでも悔やみきれなかったでしょうね・・・。

桧野:
あの時は、崖から突き落とされたような気持ちになりました。スケートに比べれば、陸上ではそんなに良い成績を残せていたわけではありませんが、当時、私が一番大切に考えていたのが陸上で、高校生活を締めくくる最も大切な試合を前にこんなことで大怪我をしてしまうなんてと、情けなくて、悔しくて。

小松:
辛かったでしょうね。お気持ち、お察しいたします。

桧野:
でも、私はこの怪我を経験することで、大切なことを2つ学ぶことが出来ました。

東:
大切なことを2つ、それは一体なんでしょう?

桧野:
1つは、何不自由なく学校へ行ったり、ご飯を食べたり、友達と遊んだりすることは、決して当たり前ではないということ。もう1つは、どんなに辛くても「今」やらなければ後悔するということです。
それまでの私はサボり癖があり、「まだ出来るけれど、残りは明日にしよう」と、トレーニングや宿題などのやらなければいけないことをよく先延ばしにしていたのですが、大好きだった陸上やスケートが、怪我によって一瞬で出来なくなってしまったことで、出来るうちにもっと真剣に頑張っておけば良かったと後悔したんですね。この経験から、どんなに面倒で、嫌いなことでも、いつ出来なくなってしまうか分からないから、全てのことに感謝して、後悔のないよう「今」を大切に頑張らなければいけないということを学びました。

小松:
全てに感謝し、後悔のないように「今」を大切に頑張る。素晴らしい考えです。この後、ボブスレーと運命の出会いをするわけですよね。

桧野:
はい、高校卒業後、学校の先生を目指して北海道女子大学短期大学部(現・北翔大学短期大学部)へ進学したのですが、選手発掘テストをきっかけにボブスレーの世界へ足を踏み入れることになりました。

東:
選手発掘テスト、現在では各競技、全国各地で開催されていますが、当時は珍しかったと思います。受験したきっかけは何だったのでしょうか?

桧野:
きっかけは本当にたまたまなんです。大好きな陸上やスケートを怪我で続けられなくなった時にボブスレーの選手発掘テストのお話を伺って、連盟の方に紹介された映画「クール・ランニング(1993年に公開されたカルガリーオリンピックに出場した南国ジャマイカのボブスレーチームの実話を元にしたコメディ映画)」を見て、これなら自分にも出来るかも知れないと思い、やらないで後悔するよりも、やって後悔したほうがいいと考えて受験したんです。

東:
クール・ランニング、大好きな作品です!確かにあれを見ただけであれば簡単に出来るのではないかと思ってしまいますが、実際には・・・

桧野:
全然違いますよね(笑)。

小松:
テストはどのような内容だったのでしょう?

桧野:
ボブスレーは瞬発力とパワーを求められる競技ですので、10〜20メートルという短い距離を速く走るとか、立ち幅跳び、ベンチプレス、スクワットや、200キログラムのソリを全力で押すといった内容でした。結果、合格ラインを越えていたのかテスト終了後に声をかけていただき、そこから本格的にボブスレーを始めることになりました。

東:
いよいよボブスレー選手として始動したわけですね!初めてソリに乗った時の感想はいかがでしたか?

桧野:
そうですね、映画「クール・ランニング」の舞台は1988年のカルガリーオリンピックなのですが、当時はボブスレー連盟の資金に余裕があったのか、まずはカルガリーで経験を積んできなさいと言われて、いきなりカルガリーのボブスレーコースでトレーニングをさせていただくことになったんです。不安と緊張の中迎えたトレーニング初日、最初に滑った選手が派手に転んで救急車で運ばれていきまして・・・それを見た瞬間「あ、これをやるのは無理だ」と感じました(笑)。

小松:
ものすごいスピードですものね。怖くはないのですか。

桧野:
天候とコースにもよりますが、ボブスレーは最高時速が150〜160キロのスピードが出る競技ですから、もちろん非常に怖かったですが、特に詳しい説明もなく、いきなりソリに乗せられて滑らされていました。当然ながらソリをどう扱えばどう動くのかもわからない中で、せっかくカルガリーにまで来たのだからと1週間は頑張ってみたのですが、結局諦めてしまいました。

東:
無理もないですよね。

桧野:
ただ、ふと周りを見ると、同世代の他国の選手たちは、命を削るようなギリギリの滑りをしながらも、とても楽しそうだったんですね。それを見た時に、「私、負けたな。」と思いました。他国の選手たちに対してではなく、私は自分自身に負けてしまったな、と。この時の悔しい思いが、私が本気でボブスレーに取り組むようになった原点かも知れません。

 運命の日に学んだこと

小松:
カルガリー遠征を経験し、本気で競技に向き合い始めた桧野さんは、その後、竹脇直巳さんという方との出会いで、飛躍的に成長なさいました。竹脇さんについてお話を聞かせていただけますか?

桧野:
竹脇さんはカルガリー、アルベールビル、リレハンメル、長野と4度のオリンピックに出場したボブスレーの名選手ですが、偶然、当時怪我をしていて海外遠征には行かず長野に残ってリハビリをしていた時があり、たまたま竹脇さんに声をかけていただきました。2週間特訓指導をしていただき、竹脇さんのいう通りにすると、どんどんスピードが出て、どんどん記録が縮まっていき、当時ホームコースにしていた長野で女子のコースレコードを記録するまでになれました。指導方法の大切さを感じるととともに「これがボブスレーか!」という感覚を掴めたように思い、当初の夢だった学校の先生になることは後回しにして、本気でボブスレーでオリンピックを目指すことを決めたんです。

東:
竹脇さんとの出会いとともに日本人としては初めてのボブスレー競技でのオリンピック出場を目指した桧野さん。2002年のソルトレイクシティオリンピックで見事に出場権を獲得したにも関わらず、日本選手団の人数調整という理由で、大会直前にオリンピックへの出場が白紙になったという事件がありました。振り返るのも辛いかも知れませんが、当時はどのような気持ちだったのでしょうか?

桧野:
オリンピックへ参加出来ないと知ったのは長野での最終合宿中で、ソリも送って、あとはソルトレイクシティへ向かうだけという状況でしたので、突然の出来事に初めは何を言っているのか理解出来ませんでした。

東:
そんなに直前のタイミングで・・・あまりに残酷ですよね。

桧野:
正式に参加出来ないことを通告されてからは、悲しみ、悔しさ、怒りなどやり場のない感情を抑えきれずに、3日間泣き続けました。様々な事情もあって、なぜこのようなことになってしまったのかを応援してくれていた家族や友人にさえ伝えられずに本当に苦しみましたが、これを乗りこえた「決意の日」が、私の競技人生における最大のターニングポイントとして、深く心に刻まれることになりました。

小松:
桧野さんの「決意の日」とは、いつだったのでしょう?

桧野:
2002年の2月21日です。オリンピックに出場出来ないことが正式に決まったことを受けて、以前から痛めていた膝を手術をすることにしたのですが、偶然にも本来出場するはずだったオリンピックの試合当日に手術をすることになったんです。

小松:
そんなに運命的なことが・・・

桧野:
当日、手術が終わり、麻酔が切れた頃に時計を見たらちょうど試合が始まる時間で、テレビには、本当であれば私と戦っているはずの選手たちが映っていて、私はそれを泣きながら見ていました。最初は私もここにいたはずなのに何で今こんなところで満足に身体も動かせないんだろうという悔し涙だったのですが、メダルを目指して全力で戦っている選手たちの姿を見ているうちに、すごいなという感動の涙に変わり、次には4年後は私もテレビに映っている側にいたいと思うようになり、泣くのをやめて「次のトリノオリンピックには絶対に出場する」と決意したんです。

東:
ライバルたちの姿を見るうちに涙の意味が変わり、泣くのをやめて、決意したんですね。

桧野:
はい。私の競技人生の中では、競技そのものや、オリンピックの舞台ではなく、この病床での決意の瞬間が一番印象に残っています。あの日の決意があったから何があっても諦めずにオリンピックを目指すことが出来ましたし、この経験をしたからこそ途中で選考に漏れた仲間の事や、オリンピックへ行きたくても行けなかった人の気持ちは絶対に忘れてはいけないんだ。ということを知りました。

小松:
色々なことに巻き込まれ、様々な試練をベッドの上で引き受けて、それでも桧野さんは次に進む決意をされたんですね。本当に生涯忘れられないですよね。

桧野:
絶対に忘れられない日ですね。最初は「なぜ自分が巻き込まれなきゃいけないんだ」と人のせいにしていたのですが、あの日からマインドが変わり、「中途半端な成績では選んでもらえない」と考えるようになりました。出場出来るかどうかの天秤にかけられるぐらいの実力ではダメなんだと。
また、私は3日間泣き続けることで気持ちを整理出来たのですが、今度は応援してくれていた方々が私を思って泣いてくれて。それまでも応援してくれていることに感謝してはいたのですが、本当に辛い時に一緒に涙を流してくれる方々の存在を知って、改めて一人で競技をしているわけではないんだなと実感しました。

小松:
どんな選手にも良い時と悪い時があり、悪い時を乗り越えていくことこそが大切なのだと思います。例え金メダルを獲って英雄になったとしても、怪我をしたり、チームと軋轢があったり、コーチと別れたり、人生には色々なことが起こります。それでも、もう一度頑張ろう!と思えるか思えないかの違いが、その後の結果につながっていくのだと思います。

桧野:
そうなんですよね。あと、どんなに強い人でも、私は、人は一人では何も出来ないのだと思います。人は誰もが弱い部分を持っており、人生には「もうダメだ!」と思える瞬間が時々訪れますが、真っ当に生きていれば、必ず誰かがサポートしてくれると思います。

 自分が変われば周りも変わる

東:
続けて、「決意の日」の後の桧野さんの物語を聞かせてください。

小松:
2006年のトリノオリンピック目指す中で、当時、女子のボブスレーの強豪国であるオランダ人コーチ・Rob Geurts氏の指導を受けることになりましたが、どのようなご縁があったのでしょうか?

桧野:
アメリカで開催されたワールドカップの際に同じ宿舎になったことがきっかけです。当時、私はアジアから唯一ワールドカップに出場していて、技術・戦術コーチを帯同していないたった一人の選手でもあったのですが、道具のメンテナンスをしていた時に「何か手伝うことはないか?」と声をかけてくれたのがRobでした。その後、会話を交わしていく中で親しくなり、これまでに私が知らなかった様々な技術を教えてもらいました。

小松:
例えばどんな技術だったのでしょうか?

桧野:
より速く滑るためのライン取りや最新の道具などについて、具体的かつ即効性のあるアドバイスをもらいました。Robと話せば話すほど、日本のボブスレーがかなり世界に取り残されていることを実感し、危機感を抱いた私はRobを通じてオランダ代表チームにお願いして合宿へ帯同させてもらったり、Robに日本代表の臨時コーチ務めてもらったりしました。ここで教わった技術や知見が私や日本代表の技術を著しく向上させてくれました。

東:
それが、2006年のトリノオリンピックへの初出場につながったわけですね!

桧野:
そうですね、他にも国際連盟の方々が強力にバックアップしてくださって。当時、日本のボブスレーのレベルは本当に低かったので、Robとの出会いをきっかけに、もっと世界の情報を知らなければ強くなれないと思い、国際大会などの機会があるごとにあらゆる海外のコーチや関係者にまだ拙かった英語で片っ端から質問して回りました。あまりに積極的だったので、「お前は本当に日本人か?」と疑われたこともありましたけど(笑)。

小松:
ものすごい行動力ですね。「決意の日」が桧野さんの行動を変えたのですね。

桧野:
その時に「自分が変われば周りも変わる」ということを学びました。これまでにも同じ機会はあったのですが、何も行動しなかったことによって情報を得られず、レベルアップすることが出来なかったのを、自ら積極的に行動することで、日本の方々はもちろん、海外の方々も助けてもらえるようになり、どんどんレベルアップすることが出来るようになりました。チャンスはいつでも、どこにでも転がっていて、それを活かすのも、無駄にするのも自分の行動次第。本気で動いていれば必ず周りはサポートしてくれるということに気づいたんです。

小松:
その後、トリノとバンクーバー、二度のオリンピックに出場を果たされることになるわけですが、夢の舞台に上がった感想はいかがでしたか?

桧野:
トリノオリンピックの直前にも再び出場枠の問題に悩まされましたが、最終的にアジア女子初、日本女子初のボブスレー競技での五輪出場を果たすことが出来ました。競技が始まり、コースに立った時に「決意の日」からの4年間の日々が走馬灯のように浮かんでは消えていき、「これがオリンピックか。諦めなくてよかったな」と思ったのをおぼえています。その時に、辛かったことは良い思い出になり、お世話になった方々に対する感謝の気持ちで競技をスタートさせ、これを滑り終えたらボブスレーを辞めようと考えていました。

東:
自分に出来ることは全てやりきった。結果がどうであれ、ここで終わりにしようと思えたんですね。

桧野:
はい、そうなんですが、実際にはゴールした瞬間に「このままでは終われない」という気持ちになってしまって(笑)。これまでにもオリンピック以外の様々な国際大会に出場してきたのですが、オリンピックは全くの別世界でした。この舞台で勝つってどういう気持ちなんだろう、勝ちたい!という思いが湧き出てきたんです。これまではオランダをはじめ様々な国の方々に色々な面で助けられながら、メダルを争う“競争相手”というよりは、下手くそだけど一生懸命頑張っている“仲間”のように扱われていたのですが、次は“ライバル”と思われたい。オリンピックに出場することを目標とするのではなく、オリンピックで勝ちたい!という気持ちになり、もう一度4年後に向けて挑戦することを決めました。

小松:
夢の舞台で新たな目標が出来たわけですね。

東:
怪我や理不尽な代表落選を乗り越え、ついにトリノオリンピックという夢の舞台にたち、日本ボブスレー界の歴史を切り拓いた桧野さん。4年後のバンクーバーに向け、さらなる競技力の向上を図っていく中で、活動資金の問題が大きく立ちはだかります。ボブスレーのみならず様々な競技団体が直面する“お金”の問題に桧野さんがどう向き合ってきたのか。次回はその辺りからお話を聞かせていただきます。
(つづく)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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