Career shift

池田信太郎 / Ikeda Shintarou   元バドミントン選手|現在:

アスリートの経験を活かし、ビジネスパーソンとして 成長していきたい 元バドミントン日本代表・池田信太郎

Profile

 

池田信太郎(いけだ・しんたろう)
1980年生まれ。福岡県出身。5歳からバドミントンを始める。筑波大学→日本ユニシス株式会社→株式会社エボラブルアジアに所属。2006年&2008年全日本総合選手権優勝(男子ダブルス)、2012年全日本総合選手権優勝(混合ダブルス)。2007年に開催された世界選手権では日本男子初のメダルを獲得。2008年北京オリンピック出場。2009年に日本人初のプロ契約を締結。同年に混合ダブルスに転向し、2012年ロンドンオリンピック出場。2015年9月に現役を引退し、現在はフライシュマン・ヒラード・ジャパン株式会社でシニアコンサルタントとして活躍。世界バドミントン連盟アスリートコミッションメンバー。東京2020オリンピック、パラリンピック組織委員会ACメンバー。

小松:
今回は元バドミントン日本代表の池田信太郎さんにお話を伺います。池田さんは2007年に世界選手権の男子ダブルスで日本人初のメダル(銅)を獲得。2008年の北京、2012年のロンドンと2大会連続でオリンピックに出場なさった名選手です。

東:
2009年にバドミントン選手としては日本人初のプロ契約を締結。同年に結成した女子バドミントンの人気選手・潮田玲子さんとの混合ダブルス“イケシオ”は大きな注目を集めました。

小松:
バドミントン界のパイオニアとして長く活躍なさってきた池田さんですが、引退後はビジネスの世界でも大活躍。フライシュマン・ヒラード・ジャパンでシニアコンサルタントを務めながら、複数の有名企業の顧問もなさっておられます。

東:
フライシュマン・ヒラードはアメリカのセントルイスに本拠を置く世界最大級のコミュニケーションコンサルティング会社で、事業の目標達成に企業とともに取り組む会社です。

小松:
また、トップアスリートのキャリアを生かし、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会のアスリート委員のメンバーも含めて幅広い活動にも従事なさっていますね。

東:
現在の池田さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、フライシュマン・ヒラード・ジャパンや企業顧問は「C」、東京オリパラ組織委員会のお仕事は「B」、解説者やキャスターなどは「D」とそれぞれの領域でご活躍なさっていることが分かります。

小松:
バドミントンの競技スキルや競技団体と最も近い「A」の領域以外でのお仕事をなさっているのですね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

 引退後にもドラマチックな人生を

東:
選手を引退なさった後も様々な領域でご活躍の池田さんですが、現役の頃から将来についてのビジョンをお持ちだったのでしょうか?

池田:
特に明確なビジョンがあったわけではありませんが、引退してもドラマチックな人生を送りたいとは思っていました。

小松:
ドラマチックな人生、ですか?

池田:
はい、単にお金を稼ぐための仕事をするのではなく、オリンピックに負けないくらいの何かを見つけて、常に追いかけていたいという気持ちがありました。人生をかけてオリンピックを目指し、過ごしてきた日々は精神的にも肉体的にも本当に大変でしたが、最高に充実していたので。引退後もオリンピックに負けないような目標を見つけ、それを達成するために頑張りたいと思っていました。

東:
オリンピックを目指すようなトップアスリートの多くが同じような考えを抱きながらも、なかなかオリンピックに負けないような目標を見つけられずに悩んでいるように感じますが、池田さんは引退後、すぐに新たな目標を見つけられたのでしょうか?

池田:
そうですね、比較的スムーズに見つけられたように感じます。

小松:
池田さんがあまり悩まずに済んだ理由は何でしょうか?

池田:
そうですね、まずはプロ選手として活動していく中で、自らの価値を企業へ売り込み、対価を得るということを経験していたということが大きいのと、大学生の頃からビジネスマインドを持っていたことが挙げられると思います。Yahoo!オークション(現ヤフオク!)が流行った時にも単にオークションを楽しむのではなく、これから物流の革命が起きるのだと受け止めて、今後、運送会社が利益を拡大していくだろうけれども、国の規制次第だな・・・と考えてみたり。今思えば、様々な出来事をビジネス的に見る習慣がついていましたね。

小松:
慧眼ですね。そのような視点は、いつ、どのように養われたのでしょうか。

池田:
読書です。起業家の方の物語が好きで、ビジネス書を読んでいた影響が大きいと思います。

東:
ビジネス書や経済誌を読むトップアスリートは珍しいですよね。読書をする場合にもスポーツノンフィクションやエッセイ、小説が多いと思います。もちろん、小松さんの作品は多くのアスリートが愛読しています。

小松:
光栄です(笑)ビジネスの視点を持って物事を考える以外に、心がけていたことはありますか?

 出来ないを理由に挑戦しなければ、いつまでも出来ない

池田:
依頼されたお仕事はなるべく断らないようにしていましたね。例えば、畑違いのテーマで講演してくださいと依頼され、ファーストインプレッションで「面倒だな、やりたくないな」と感じたとしても、これが出来れば自分のキャパシティが大きくなる、成長出来ると判断すれば、受けていくことを意識していました。

東:
これまでにやったことがなくて出来ないことを、出来ないからといって挑戦しなければいつまでたっても出来ないままですからね。スポーツでもビジネスでも失敗を恐れずに挑戦することで、失敗と成功を繰り返しながら少しずつ出来るようになっていくものですが、一度頂点を極めたトップアスリートは失敗することを恥ずかしく思い、なかなか挑戦出来ないことが多いようにも感じます。

小松:
新たな世界で挑戦する時には、最初は失敗して当然ですよね。とてもスマートな印象のある池田さんですが、失敗したことはあるのでしょうか?

池田:
もちろんありますよ(笑)事業内容を説明するためにパワーポイントで作った資料がプレゼン当日にパソコンから消えてしまった事もありましたし、資料の印刷を忘れていて、焦ってキンコーズで印刷したら高級用紙で大金がかかり、泣きそうになったりとか(笑)

東:
そうなんですね!池田さんが焦ったり取り乱したりする姿を見たことがないので、意外です(笑)

小松:
色々なご経験をなさったからこそ、今があるのですね。

 自分ならではの“バリュー”を“対価”に変える

東:
改めて現在の池田さんのなさっているお仕事を整理するとどうなるでしょうか?複数の企業に関わっていらっしゃいますよね?

池田:
最も時間を使っているのはフライシュマン・ヒラード・ジャパンでのシニアコンサルタントで、エボラブルアジア、エアトリ(旧DeNAトラベル)、AuB、ITOKINでは顧問を、2019年3月20日にオープンする(取材は2019年1月28日に実施)GAP認証レストラン・グランイート銀座ではプロジェクトディレクターを務めています。

小松:
改めて伺うとものすごい数ですが、どのような働き方をなさっているのか具体的にお聞かせ願えますか?

池田:
フライシュマン・ヒラード・ジャパンでは、事業戦略やPRストラテジーを考え、それぞれにマッチしたソリューションを提供し、事業の目標達成に企業とともに取り組んでいます。様々なパートナーとともにクライアント企業の持っているアセットを顕在化させ、長期的なプランでPRするための広告やイベントを企画して、世論形成していくのが仕事です。
その他の企業では僕のバリューに対して価値を感じていただき、顧問としての対価を支払っていただいています。

東:
僕も池田さんと同じく、元サッカー日本代表の鈴木啓太さんが代表を務める腸内細菌解析ならびに関連製品開発事業等をおこなっているAuBで顧問を務めていますので、会議などでご一緒するのですが、池田さんの幅広い知見とシンプルかつクリティカルな提案にはいつも驚かされています。いつ頃からこのようなスキルを身につけられたのでしょうか?

池田:
いえいえ、まだまだ成長出来ると思っていますが、プロ選手として活動資金を調達するため様々な企業に営業をしていた際に、様々な企業の経営者と交流を持たせていただき、その中で徐々に自分の価値や提供できるソリューションに気づいていきました。

小松:
経営者は孤独な存在でもあるので、高い目標に向かい自己研鑽を重ね、結果を残してきたトップアスリートに対して敬意を払い、信頼なさるのでしょうね。

東:
同感です。僕も現役選手の頃からハンドボール経験者の経営者や、同郷である石川県出身の経営者との交流を通じて学んだことが現在の仕事に活きていますし、人は“これが出来ます!”より“これをやってきました!”を信用しますので、アスリートには強みがあると思います。

小松:
これをやってきました、ですか?

東:
はい、アスリートとしての経験や実績を“一生懸命頑張ってきたので、ハンドボールがとても上手です!”と定義するのではなく、“高い目標を設定して、それを達成するための努力を継続し、数々の挫折を克服しながら日本を代表する実力を獲得し、世界の舞台で戦ってきました!”とすれば、人として信頼されるスキルになりますし、それこそがトップアスリートの持つコア・バリューなのだと思います。

小松:
なるほど、競技の実力や成績ではなく、積み重ねてきたプロセスをバリューにするということですね。

東:
池田さんは、選手時代にスポンサーだったエボラブルアジアがDeNAトラベルを買収する際に、エボラブルアジアの大石崇徳会長と以前から交流のあったDeNAの南場智子会長を直接お繋ぎし、エアトリの誕生に大きく貢献なさるなど、ご自身のバリューを活かして、他の人にはなかなか真似の出来ないような働き方をなさっています。

小松:
それは素晴らしい業績ですね!顧問を務めていらっしゃる他の企業でも、ご自身のパーソナリティーや繋がりを活かして、バリューを発揮なさっているのでしょうね。

東:
以前にエボラブルアジアとエアトリの会長を兼務なさっている大石会長とご一緒させていただいた際にも、池田さんのおかげで本当に助かっているとお話なさっていました。

池田:
それは嬉しいですね。アスリートとしてのスキルやスポーツ界や経済界における人脈をどのようにクライアント企業の利益に繋げるかが、顧問として求められていることだと思いますので。

小松:
自らにどのようなバリューがあり、何に対価が支払われているのかを理解することはビジネスパーソンにとっても重要なことですよね。
グランイート銀座のプロジェクトディレクターはどのようなお仕事なのでしょうか?

池田:
グランイート銀座は、農業において食品安全・環境保全・労働安全などの持続可能性を確保するための生産工程管理の取り組みである「GAP(Good Agricultural Practice:農業生産工程管理)」の認証を受けた食材をライブキッチンスタイルで提供するビュッフェダイニングです。
GAPはオリンピック・パラリンピックの食材調達基準にもなっており、こちらをクリアしなければ選手村などで国産農産物が十分に提供出来ないのですが、高い審査料や厳格な生産管理が求められることもあり、2017年時点で大会組織委員会が定めた認証の取得率が約1%(約4500農家)と危機的な状況でした。そこで、認定NPO法人GAP総合研究所代表理事でグランイート銀座プロジェクト総合プロデューサーを務める武田泰明さんとともにオリンピアンとしての経験や知見を活かして、プロジェクトに関わっています。

東:
2020年の東京オリパラは単なる国際スポーツ大会ではなく、日本を国際的にPRする場でもありますから、国産農産物を使用した“和食”をトップアスリートを始め世界中の方々に味わっていただく機会を逃してはもったいないですよね。

池田:
僕が出場した2012年のロンドン大会の選手村では英国産の食材が提供出来ず、輸入品に依存したということもありましたので、東京では同じ轍を踏まないようにと国や自治体が審査料を助成するなどの後押しをしています。

東:
1964年の東京大会では、国立競技場を始めとする競技場、東海道新幹線や首都高速道路などの交通機関、数々の宿泊施設などのインフラが整備され、カラーテレビが普及するなどの大きな変化がもたらされました。2020年の東京大会は、英語やその他の外国語を含めた様々なバリアフリー環境や観光施設に加えて、安全で美味しい国産農産物や和食文化を海外に届けるための環境が整備されると良いですよね。

池田:
はい、オリパラは国民一丸となって様々な社会課題を解決するための千載一遇の好機だと思いますので。

東:
本当にそう思います。このインタビュー企画でも、セカンドキャリアで活躍しているアスリートの情報をシェアすることで、社会で活躍出来る人材を増やし、労働人口減少という社会課題の解決に貢献したいと考えています。

小松:
トップアスリートとして培ったスキルと幅広い人脈を活かし、様々な企業でご活躍なさっている池田さん。バドミントン選手としての経験にフォーカスしてお話を伺っていきます。

東:
池田さんが現役時代にどのようなことを考え、どのような行動をとっていたのか。そして、それがその後の人生にどう繋がり、活かされていくのか。お話を伺うのが楽しみです!

東:
トップアスリートとしての側面についてお話を伺ってまいります。

小松:
まずは競技を始めたきっかけからお聞かせいただけますか?

 スポーツ万能の天才少年

池田:
僕がバドミントンを始めたのは、出身地である福岡県岡垣町で父が運営していた“岡垣ジュニアクラブ”というクラブで、まだ物心がつく前からラケットを振っていました。

小松:
お父様がバドミントン選手だったのでしょうか? 

池田:
いえ、父は高校で剣道をしていた普通の会社員で、元々バドミントンの選手だったわけではありません。

東:
バドミントン選手ではないのにバドミントンクラブを運営なさっていたのですか?

池田:
はい。会社の同僚とバドミントンをする機会があり、経験者にこてんぱんにされてしまったのをきっかけにのめり込んでしまい、ついにはボランティアでジュニアのクラブまで設立してしまったようです。

小松:
ものすごい行動力ですね!

池田:
簡単に出来るだろうと思っていたバドミントンでボロボロに負けたのが相当悔しかったらしく、本気で練習しているうちに競技の魅力に気づき、バドミントンを通じて子どもたちを育成するためのクラブを立ち上げて、岡垣町からオリンピック選手を輩出しよう!と考えたそうです。その第一号が僕になっちゃいましたけど(笑)

東:
池田さんのお父様に勝った同僚の方が岡垣町初のオリンピック選手が生まれるきっかけだったと(笑)

小松:
ところで、池田さんは子どものころからスポーツ万能だったと伺いましたが、バドミントンも最初から上手だったのでしょうか?

池田:
先程お話ししたように父は普通の会社員でしたから、特にバドミントンの英才教育を受けたわけではないのですが、気づいた頃には何でも出来ましたね。小学生の頃には「オレって天才!」と思っていましたから(笑)

東:
なるほど(笑)。天才少年・池田信太郎は、他の選手と比較して何が違ったのでしょうか?

池田:
嫌な言い方をしますね(笑)。簡単に言うと、シャトルをコントロールする技術と、相手の動きを予測することに長けていました。コート上の狙ったところにシャトルを落とすことはもちろん、ゲーム展開を二、三手先まで読んだ上で、自分が有利になるようにコートの中で相手を動かしていくといった戦略的なプレーが無意識に出来ていましたね。

小松:
小学生にして、ゲームを支配する術をお持ちだったのですね。
特に英才教育を受けたわけでもないのに、なぜそのような選手になれたのでしょう?

池田:
小学生の頃は周りの先輩がやっていることを見て、自分もやってみたいという好奇心から新しいことにどんどんチャレンジしていました。特に必死で努力したという印象はなく、ゲーム感覚で楽しみながら一つひとつ目標をクリアしていった結果、様々な技術や思考力が身についていったように思います。

東:
まさに“努力は夢中に勝てない”。誰かにやらされていたのではなく、自らの意志で目標を設定し、それを達成するための行動を積み重ねてきたと。

池田:
そうですね。その時の喜びや達成感が現在まで繋がっている気がします。

 常に“プラス1”の努力を

小松:
バドミントン選手として、初めて挫折を味わったのはいつ頃でしょうか?

池田:
中学校に入ってすぐですね。僕は身体が小さく細かったので、小学生の頃には技術や戦術でゲームを支配出来ていたのが、体格差によってパワーで圧倒されるようになり、それまで勝っていた人にも簡単に負けるようになってしまいました。

東:
悔しかったでしょうね。どのように体格差を克服したのでしょうか?

池田:
結局、中学生の間は克服出来ませんでした。県内でベスト8に入ることが出来ず、全国大会にも出場出来ませんでしたし。県でトップの選手が他県の有名高校に引き抜かれていく中、地元の高校へ進学することになりました。

小松:
進んだ九州国際大付属高校で才能を開花させたわけですが、きっかけは何だったのでしょう?

池田:
1年生の時に出場したインターハイです。自分自身は全然勝てなかったのですが、準決勝や決勝戦を観戦した際に、どんどん熱気に包まれていく会場の雰囲気に圧倒されて、自分もこんな舞台で試合がしたいという目標が出来たのがきっかけです。それからは、本気で自分の弱いところを分析し、克服するための練習メニューを自ら考えて練習に臨むようになりました。

東:
最高の舞台を経験したことで、明確な目標が出来たのですね。具体的にはどのように行動が変わったのでしょうか?

池田:
それまでに1日にスマッシュを20本打っていたとしたら、25本打つようにするなど、常に与えられた内容に「プラス1」することを意識してトレーニングするようになりました。

小松:
小学生の頃と同じように、与えられた練習だけではなく、目標達成に向けて自ら考え、行動するようになったのですね。

 筑波大学進学と12連敗

小松:
その後、池田さんの快進撃が始まります。高校2年生時の全国高校選抜大会で個人としてはシングルスで3位、団体戦ではチームを2位に導いて、全国トップクラスの選手として名門・筑波大学へ進学なさいました。

東:
ここから順風満帆に競技生活を送っていくのかと思いきや、再び壁にぶつかったそうですが。

池田:
高校生の頃、大学生の試合を見ていた時には、パワーでは劣るかも知れないけれど、技術やゲームの組み立てでは負けていないので、十分勝負出来るだろうと分析していました。ところが、いざ大学で対戦してみると技術や戦術を凌駕するスピードとパワーが存在するのだという現実を思い知らされることになりました。

小松:
そんなに違うものなのですね。

池田:
大学1年生で出場したシングルスでは春のリーグと秋のリーグで1勝も出来ずに12連敗。2年生になって、同じく12連敗している選手と戦ってやっと勝つことが出来たというくらい(笑)。1,2年生の頃はとにかく試合に出れば必ずといっていいほど負けていました。

東:
どうやって、スピード&パワー不足を克服したのでしょうか?

池田:
まずはフィジカルを強化することを目指しました。僕は身長174cmなのですが、大学入学時には体重が59kgしかなくて本当に細かったんです。北京オリンピックの時には66kg、ロンドンオリンピックの時には69kgでしたから、当時は圧倒的に筋力が不足していました。
ただ、それを克服しようと必死でトレーニングをしていく中で、無茶をしたこともあって、上腕二頭筋の断裂や手首の腱鞘炎で手術を受けたり、足を肉離れしたり・・・うまくいかない日々が続きました。

小松:
課題を克服するため、満身創痍でもがいていたのですね。

池田:
必死で努力しているのに結果が出ず、度重なる怪我にも悩んでいました。今振り返れば、気持ちばかりが先走り、オーバーワークだった面もありましたが、当時の僕を知る人は、のちに日本代表になってオリンピックに出場するなんて想像も出来なかったと思います。日本中に“オリンピック選手・池田信太郎”を倒したことがある選手がいますし、こんなに負けたことがあるオリンピアンはなかなかいないと思います(笑)。

東:
池田さんが活躍すればするほど、池田さんに勝利した思い出話で美味しいお酒が飲める人が増えるのかも知れませんね(笑)

 ダブルスの才能を見出され、飛躍する

池田:
怪我に苦しみながらも努力を続けた姿勢を評価してもらえたのか、大学3年生でキャプテンに就任し、インカレで12年ぶりの団体優勝を達成。個人としてもようやく大学で戦えるフィジカルが身につき、もっと上の舞台でプレーを続けたいという目標が出来ました。

小松:
その後、4年生時のインカレでは個人で準優勝。全日本選手権にも初出場し、卒業後に実業団チームの日本ユニシスに入団なさるわけですが、その経緯にも様々な紆余曲折があったそうですね。

池田:
そうですね。元々実業団でプレーを続けたいという希望があったのですが、4年生の夏くらいまで採用してくれるチームが無くて。教員免許を取得していたこともあり、母校の女子部(九国大付属高校(女子部)にも誘われていたので、バドミントンは大学で終わりかなと半ば諦めていたのですが、全日本選手権でのプレーを評価していただき、日本ユニシスに育成選手として採用されることになりました。

東:
池田さんが女子部の監督になっていたら、生徒は大騒ぎだったでしょうね(笑)

池田:
いえいえ(笑)。実はインカレの前に自ら日本ユニシスにアプローチした際には一度採用を見送られていたのですが、全日本選手権を観戦しに来ていたインドネシア人コーチのカレル・マイナキさんが僕の才能を見出してくれて。

小松:
どんな才能を見出してくれたのでしょう?

池田:
ダブルスプレーヤーとしての才能です。僕はこの頃シングルスとダブルスの両方でプレーしていたのですが、カレルさんから「君はダブルスに集中したほうがいい。技術があるから」と背中を押してもらって。それで社会人1年目からダブルスに専念することになったんです。

東:
ダブルスとシングルスではどのような違いがあり、どういった部分が池田さんに向いていたのでしょうか?

池田:
ダブルスはペアを組む選手との相性や戦術によって1+1を3にも4にも出来ます。僕は体格的に恵まれていないので、シングルスで真正面からスピードとパワーを競い合うより、パートナーの力を引き出しながらゲームを組み立てて戦うほうが向いていたのだと思います。

小松:
日本ユニシスへの入団からダブルスに専念するまで、カレルさんとの出会いが選手としての大きなターニングポイントになったのですね。

東:
ダブルスに専念した池田さんは筑波大学の先輩である坂本修一選手と初めてペアを組んだ2005年1月の韓国オープンでベスト8に進出すると、2006年の全日本総合選手権で初優勝、2007年の世界選手権では当時の世界ランキング2位だったマレーシアペアとの激戦に勝利し、日本人として史上初の銅メダルを獲得するなどの快進撃を見せます。
いくらダブルスに向いていたとはいえ、同じ選手がいきなりここまで変わるものなのでしょうか?

池田:
単にダブルスに向いていたということ以外にも、優秀な選手たちに囲まれて、世界のトップレベルを知るコーチによる最先端かつ非常にハードなトレーニングを毎日出来る環境も大きかったですよね。また、カレルさんにはバドミントンの技術面ばかりではなく、アスリートとしてのあるべき姿や、人生観についてもご指導いただきました。

小松:
カレルさんのみならず、筑波大学時代の恩師である阿部一佳(かずよし)教授の影響も大きかったと伺っています。

 恩師に教えられた“アスリートとしての在り方”

小松:
阿部先生はいわゆる“体育会系”の指導者ではなかったのだそうですね。

池田:
はい、ラケットバットが専門で、ラケットはどうのように振ると力が最大化できるのか、などバドミントンの指導者というより“科学者”でした。技術的な要素を理論的に言葉で説明してくれたので、考えてプレーする習慣を身につけることが出来るようになりました。

東:
◯◯をするためには☓☓しなければいけないから△△を鍛えなければならないので◎◎というトレーニングをする、といったように技術やトレーニングを言語化して説明するスキルは、アスリートとしての経験をビジネスに活かす際にもとても重要だと思います。
阿部先生には“トップアスリートとしての在り方”についてもご指導いただいたそうですが。

池田:
身なりについてはよく注意されましたね。「バドミントンは紳士のスポーツだから、シャツをズボンの中に入れなさい」「髪の毛を染めてはいけない」「パーマかけてはいけない」と、かなり厳しく指導されていました。ただ、当時の僕は若く、目立ちたい気持ちもあり、色々な着崩しに挑戦してみたり、スパイラルパーマヘアーにしたりしていたのですが、とある国際大会の会場で呼び出されて「この会場には世界のトップレベルが集まっているが、一人でもお前みたいな頭や格好をしている選手がいるか?トップになりたければ、バドミントンの実力だけではなく人間としての実力も磨きなさい」と叱られて。

小松:
問答無用、頭ごなしに禁止するのではなく、言葉で説明し、納得させる指導方法だったのですね。

池田:
他にも、試合の時に大きな声を出して相手を威嚇いかくするような弱い人間になるなとか、トップアスリートとしての立ち振舞や在り方、品格について考えさせられました。

東:
現在の池田さんのある意味アスリートらしからぬスマートな佇まいは大学時代の阿部先生のご指導の賜物なのかも知れませんね。

小松:
恵まれない体格に幾度となく悩まされながら、その度に課題を克服し、ついにはダブルスプレーヤーという“天職”を見つけ、大きく飛躍し始めた池田さん。
初出場した北京オリンピックと“イケシオ”として臨んだロンドンオリンピックでのお話から今後の目標についてまで伺っていきます。

東:
初出場した北京オリンピック、潮田玲子さんとペアを組んで出場したロンドンオリンピックでのお話から日本人初のプロ契約と現役引退、現在のお仕事まで伺ってまいります。

小松:
様々な挫折を乗り越えて、いよいよ迎えた夢の舞台・オリンピック。周囲の期待を一身に背負った池田さんでしたが、結果は納得のいくものにはなりませんでした。

 実力を出せなかった初めてのオリンピック

小松:
バドミントンでオリンピックに出場するには、日本代表に選ばれるだけではなく世界ランキングで16位に入る必要があります。北京オリンピックを控えていた当時の池田さんの世界ランキングは9位でしたが、2007年にマレーシアで開催された世界選手権で世界ランキング2位の地元マレーシアペアをやぶり日本男子史上初の銅メダルを獲得。2008年の全英オープンでも日本男子21年ぶりのベスト4という成績を残しており、メダル獲得を有力視されての大会となりましたね。

池田:
そうですね。JOCの強化指定選手の中でもレスリングの吉田沙保里選手などと同じAランクの待遇も受けていましたし。まだまだ発展途上ではあるものの、その分ハマった時の爆発力には凄まじいものがあったので、メダル獲得を現実的な目標として臨みました。。

東:
しかし、結果は初戦敗退。試合時間は27分と、あっという間に終わってしまったオリンピックの舞台。今、振り返ってみると、どんな印象をお持ちですか?

池田:
北京オリンピックは初めて出場したオリンピックですし、大会そのものの雰囲気については楽しむことが出来ましたが、試合に関しては良い思い出がないですね。

小松:
まさかの結果、原因は何だったのでしょう?

池田:
心の準備が不足していたことに尽きます。北京での初戦、対戦相手は世界選手権でやぶったマレーシアのペアでした。世界ランキングでは彼らが上位でしたが、対戦成績では互角。最後に対戦した世界選手権では相手のホームで勝利していましたので、苦手意識も全くなかったのですが、序盤で連続失点して先行されてしまった時に、普段なら落ち着いて立て直せるのに焦ってしまい、ヤバい、こんなはずじゃない、せっかく日本から応援に来てもらっているのに、勝たなきゃ、と思っているうちに試合が終わってしまいました。

東:
試合中にも関わらず、集中出来ていないですよね。本来であれば、起こってしまった過去や試合結果という未来にとらわれず、“今”何をすべきかに集中しているはずなのに。

池田:
そうですね。これまでに出場してきたどの国際大会よりも勝たなくてはという思いが強すぎたのかも知れません。大会が始まる前から出場が決まれば祝賀会や壮行会があり、メディアへの露出も段違いに増えますし、応援してくれる人も増えました。ただ、当時の僕は皆さんの期待と応援を力にすることが出来ず、プレッシャーに変えてしまったように感じます。

小松:
日本におけるオリンピックとその他の国際大会の報道格差は非常に大きいですよね。2020年の東京大会では地元開催ということもあり、より多くのアスリートが想像も出来ないほどの大きなプレッシャーを受けながら戦うことになるのでしょうね。

東:
2020年に出場する選手の皆様には、地元でのオリンピック開催という一生に一度あるかないかのビッグイベントに現役選手として挑戦出来るという幸運を活かし、多くの期待や声援をプレッシャーではなく大きな力に変えて、日頃のトレーニングの成果を存分に発揮してほしいですね。

 “イケシオ”結成とプロ宣言

小松:
オリンピックを目指すようなトップアスリートは4年のサイクルで競技人生の継続について考えることが多いと伺います。北京オリンピックを終えた後の池田さんはいかがだったのでしょうか?

池田:
メダルを期待されて出場したにも関わらず思うような結果が出せず、これまでに積み重ねてきた努力は何だったのかと悩み、一度は現役生活に終止符をうつことも考えました。元々、オリンピック選手という実績を得たら競技生活には区切りをつけて、その後はビジネスパーソンとして活躍するために、まずは所属している日本ユニシスで広報やマーケティングを勉強したいという考えがあったのですが、時間が経つほどに「オリンピックに出ただけで満足していいのか?まだ納得するまでバドミントンをやりきっていないんじゃないか?」という気持ちが大きくなって。

東:
当初思い描いていた人生設計のとおりに進んでいたのに、何か引っかかりが残ったのですね。

池田:
そんな時に、女子ダブルス日本代表でアイドル的な人気を誇っていた“オグシオ”ペア(小椋(おぐら)久美子&潮田玲子選手。北京オリンピック5位)を解消した潮田玲子選手から混合ダブルスのパートナーになってほしいという依頼があり、新たな挑戦をするのであれば4年間挑戦する意義があると判断して、ロンドンオリンピックを目指す決断をしました。

東:
潮田選手との混合ダブルス“イケシオ”についてはバドミントン界の看板スターだった“オグシオ”の次のスターをつくりたいと考えていた日本バドミントン協会の意向もあったと伺っています。オグシオを解消した潮田玲子選手と、端正なルックスと実力を兼ね備えた池田さんがペアを結成。ともに魅力的な独身の男女となれば、あらぬ噂がたってしまうのもある程度は致し方ないかと思いますが。

池田:
結成当初は実際に興味本位で男女の関係について書き立てられることもありました。バドミントンに注目が集まることはとても有り難いですが、ゴシップ的な扱われ方は望ましくないと思いましたので、ちょうど良い機会だと考え、以前から交際していた女性とペア結成1ヶ月後に結婚し、それを発表しました。

小松:
バドミントンと新たに結成した“イケシオ”ペアへの注目を最大限に集めたうえで、1ヶ月後に結婚を発表し、ゴシップ的な側面を排除するという素晴らしいPRです。

東:
当時から客観的に自らの“バリュー”を理解し、マーケティング的な発想と行動力に優れていたことが分かるエピソードですね。

小松:
混合ダブルスへの転向に加え、日本人初となるプロ契約選手になるという挑戦もなさいましたね。当初は引退後には日本ユニシスでビジネスパーソンとして生きていくことを考えていらしたわけですが、どのような心境の変化があったのでしょうか?

池田:
当初の予定を変更して、更にバドミントンに4年を費やすのであれば、全く違うことにチャレンジしたかったんです。その一つが混合ダブルスであり、プロ契約だったということです。

 プロフェッショナルとは

東:
日本初のプロ契約選手。まさにパイオニアとなられたわけですが、バドミントン一本で生きていく怖さはありませんでしたか?当時、池田さんは28歳。もし、プロにならなければ、4年後のロンドンオリンピックを終えて32歳で引退したとしても、日本ユニシスという大企業で大卒の元オリンピック選手として安定した立場が保証されていたのではないかと思うのですが。

池田:
もちろん、不安はありました。ただ、不安よりもこれまで誰もやっていないことに挑戦出来る環境が目の前にあるのに、挑戦しないという選択肢は僕にはありませんでした。周りからは「バドミントンでプロなんて無理だ」、「怪我をしたらどうするの?」、「バドミントン部が無くなったら?」、「引退後に何をして食べていくの?」など、様々なことを言われましたが、誰も歩いたことのない道を進むわけですから、先がどうなっているのかなんて分かるわけがないじゃないですか(笑)

小松:
何事も出来ない理由を探せば山のように見つかりますからね。ただ、実際にプロフェッショナルとして活動していく中ではご苦労も多かったのではないでしょうか?

池田:
それはもう、苦労だらけでした。特にロンドン後に所属のチームを離れてからは自分で全て環境を整える事で必死でした。これまでのような手厚いサポートを受けることは出来ず、試合に出場するためのパートナー探しも自らやらなければいけなくなりました。

東:
スポンサーセールスも自ら実施なさっていたとのことですが。

池田:
そうですね。最初はマネジメント会社に依頼していたのですが、半年間全く集まらなくて。企業の担当者に冷静にバドミントンや僕の市場価値を判断されてしまうと、スポンサーするメリットを見出してもらえなかったんです。その時に、他人に頼るのではなく、自分自身で直接情熱を伝え、投資してもらわなければならないと考え、拙い資料をパワーポイントで作成し、自らプレゼンするようにしました。

小松:
自らを売り込むという経験はその後の人生にも活きているのではないですか?

池田:
はい、最初は拙い資料を長時間かけて作成し、たどたどしくプレゼンしていたのが、次第にクオリティの高い資料を短時間で作成出来るようになり、プレゼンのスキルも向上していきました。最初はプレゼンするどころかアポイントの取り方も分かっていなかったのに(笑)

東:
池田さんにもそんな時代があったんですね(笑)何でも最初から上手に出来るわけではないので、出来ないことを恥じるのではなく、どんどん挑戦して場数を踏むというのが成長するために大切だというのは、スポーツでもビジネスでも同じなのだと思います。

小松:
アスリートとしての“バリュー”を対価に変えるための行動も自ら実施していた池田さんはまさにプロフェッショナルなアスリートであり、ビジネスパーソンです。

 2020 スポーツ ビジネス

小松:
“イケシオ”として臨んだ二度目のオリンピックとなったロンドン大会。北京大会での忘れ物は見つかりましたか?

池田:
心の準備不足で納得のいくパフォーマンスが出せなかったという過ちを繰り返さないために様々な準備が出来ていましたし、落ち着いて臨むことは出来ていました。結果は予選敗退でしたので満足とは言えませんが、北京と比較すると後悔は残りませんでした。

東:
ロンドンオリンピックを終えた池田さんはその後も現役を続行。2015年9月のヨネックスオープンで現役を引退するわけですが、終盤をむかえた選手生活の中で、2013年3月末の日本ユニシスとの契約終了とその後のフリーランスとしての時間、2015年2月のエボラブルアジアとの契約が大きなターニングポイントなのではないかと思います。2013年の契約終了時に引退なさらなかったことによって、エボラブルアジアと出会い、それが現在の仕事に繋がっているように感じるのですが。

池田:
おっしゃるとおりです。自らが元々所属していた企業とのプロ契約と、元々関わりのなかった企業とのプロ契約は似て非なるものですから、自らのバリューに対する自信にも繋がりましたし、自らのコネクションをどのように活用出来るのかということを改めて考えることが出来るようになりました。

小松:
その後、ビジネス面でもスポーツ面でも様々なご経験を積み重ねてきた中で、いよいよ2020年の東京オリンピック・パラリンピックが開催されることになりますが、現在の池田さんのビジネスパーソンとしての活動分野やバドミントン競技の立ち位置を考えると「持っている」としか言いようがない状況ですね。

東:
世界最大級の国際的なスポーツイベントであるオリンピック・パラリンピックが自国開催される中で、元オリンピックアスリートのコンサルタントとして企業の広告、マーケティングなどに関するソリューションを提供し、事業の目標達成に企業とともに取り組むというお仕事や、GAP認証食材を通じて和食文化や日本の農産物の普及啓蒙にも携わり、男女ともにメダル獲得が期待されるバドミントンにも協会やアスリート委員会としてはもちろん、キャスターや解説者などでも関わる立場ですからね。これまで以上にお忙しくなるのではないでしょうか。

池田:
2020年に向けては、バドミントンに関わることはもちろん、それと同じくらいオリンピック・パラリンピックに関連したマーケットに興味がありますし、自分ならではの貢献をしていきたいと考えています。

小松:
改めて現在の池田さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、フライシュマン・ヒラード・ジャパンや企業顧問は「C」、バドミントンS/Jリーグのアンバサダーや東京オリパラ組織委員会のお仕事は「B」、解説者やキャスターなどは「D」とそれぞれの領域でご活躍なさっていることが分かります。

東:
バドミントンの競技スキルや競技団体と最も近い「A」の領域以外でのお仕事をなさっていますが、池田さんの現在の活動と存在自体がバドミントンやスポーツ全体、アスリートの価値向上に貢献しているように感じます。

小松:
まさにアスリートのロールモデルですよね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
さて、それでは最後の質問になります。これまでにインタビューしてきた全員に伺っているのですが、バドミントンという競技名を使わずに自己紹介をしていただけますでしょうか。

池田:
うーん、難しいですね・・・好奇心と探求心はいつまでも大切にしたいなと思います。

東:
きっとこれからの人生も様々なことに好奇心をもって、どんどん進化なさっていくのでしょうね。五年後、十年後に池田さんがどのような立場でどんなお仕事をなさっているのか楽しみです!

小松:
今後の池田さんのますますのご活躍を確信しております。
本日は長時間に渡り誠にありがとうございました。

池田:
こちらこそありがとうございました。

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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