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池田信太郎 / Ikeda Shintarou   元バドミントン選手|現在:

最も負けたことのあるオリンピアン 元バドミントン日本代表選手・池田信太郎(中編)

Profile

 

池田信太郎(いけだ・しんたろう)
1980年生まれ。福岡県出身。5歳からバドミントンを始める。筑波大学→日本ユニシス株式会社→株式会社エボラブルアジアに所属。2006年&2008年全日本総合選手権優勝(男子ダブルス)、2012年全日本総合選手権優勝(混合ダブルス)。2007年に開催された世界選手権では日本男子初のメダルを獲得。2008年北京オリンピック出場。2009年に日本人初のプロ契約を締結。同年に混合ダブルスに転向し、2012年ロンドンオリンピック出場。2015年9月に現役を引退し、現在はフライシュマン・ヒラード・ジャパン株式会社でシニアコンサルタントとして活躍。世界バドミントン連盟アスリートコミッションメンバー。東京2020オリンピック、パラリンピック組織委員会ACメンバー。

東:
元バドミントン日本代表・池田信太郎さんへのインタビュー、前編では主にビジネスパーソンとしての側面について伺いましたが、中編の今回はトップアスリートとしての側面についてお話を伺ってまいります。

小松:
まずは競技を始めたきっかけからお聞かせいただけますか?

 スポーツ万能の天才少年

池田:
僕がバドミントンを始めたのは、出身地である福岡県岡垣町で父が運営していた“岡垣ジュニアクラブ”というクラブで、まだ物心がつく前からラケットを振っていました。

小松:
お父様がバドミントン選手だったのでしょうか? 

池田:
いえ、父は高校で剣道をしていた普通の会社員で、元々バドミントンの選手だったわけではありません。

東:
バドミントン選手ではないのにバドミントンクラブを運営なさっていたのですか?

池田:
はい。会社の同僚とバドミントンをする機会があり、経験者にこてんぱんにされてしまったのをきっかけにのめり込んでしまい、ついにはボランティアでジュニアのクラブまで設立してしまったようです。

小松:
ものすごい行動力ですね!

池田:
簡単に出来るだろうと思っていたバドミントンでボロボロに負けたのが相当悔しかったらしく、本気で練習しているうちに競技の魅力に気づき、バドミントンを通じて子どもたちを育成するためのクラブを立ち上げて、岡垣町からオリンピック選手を輩出しよう!と考えたそうです。その第一号が僕になっちゃいましたけど(笑)

東:
池田さんのお父様に勝った同僚の方が岡垣町初のオリンピック選手が生まれるきっかけだったと(笑)

小松:
ところで、池田さんは子どものころからスポーツ万能だったと伺いましたが、バドミントンも最初から上手だったのでしょうか?

池田:
先程お話ししたように父は普通の会社員でしたから、特にバドミントンの英才教育を受けたわけではないのですが、気づいた頃には何でも出来ましたね。小学生の頃には「オレって天才!」と思っていましたから(笑)

東:
なるほど(笑)。天才少年・池田信太郎は、他の選手と比較して何が違ったのでしょうか?

池田:
嫌な言い方をしますね(笑)。簡単に言うと、シャトルをコントロールする技術と、相手の動きを予測することに長けていました。コート上の狙ったところにシャトルを落とすことはもちろん、ゲーム展開を二、三手先まで読んだ上で、自分が有利になるようにコートの中で相手を動かしていくといった戦略的なプレーが無意識に出来ていましたね。

小松:
小学生にして、ゲームを支配する術をお持ちだったのですね。
特に英才教育を受けたわけでもないのに、なぜそのような選手になれたのでしょう?

池田:
小学生の頃は周りの先輩がやっていることを見て、自分もやってみたいという好奇心から新しいことにどんどんチャレンジしていました。特に必死で努力したという印象はなく、ゲーム感覚で楽しみながら一つひとつ目標をクリアしていった結果、様々な技術や思考力が身についていったように思います。

東:
まさに“努力は夢中に勝てない”。誰かにやらされていたのではなく、自らの意志で目標を設定し、それを達成するための行動を積み重ねてきたと。

池田:
そうですね。その時の喜びや達成感が現在まで繋がっている気がします。

 常に“プラス1”の努力を

小松:
バドミントン選手として、初めて挫折を味わったのはいつ頃でしょうか?

池田:
中学校に入ってすぐですね。僕は身体が小さく細かったので、小学生の頃には技術や戦術でゲームを支配出来ていたのが、体格差によってパワーで圧倒されるようになり、それまで勝っていた人にも簡単に負けるようになってしまいました。

東:
悔しかったでしょうね。どのように体格差を克服したのでしょうか?

池田:
結局、中学生の間は克服出来ませんでした。県内でベスト8に入ることが出来ず、全国大会にも出場出来ませんでしたし。県でトップの選手が他県の有名高校に引き抜かれていく中、地元の高校へ進学することになりました。

小松:
進んだ九州国際大付属高校で才能を開花させたわけですが、きっかけは何だったのでしょう?

池田:
1年生の時に出場したインターハイです。自分自身は全然勝てなかったのですが、準決勝や決勝戦を観戦した際に、どんどん熱気に包まれていく会場の雰囲気に圧倒されて、自分もこんな舞台で試合がしたいという目標が出来たのがきっかけです。それからは、本気で自分の弱いところを分析し、克服するための練習メニューを自ら考えて練習に臨むようになりました。

東:
最高の舞台を経験したことで、明確な目標が出来たのですね。具体的にはどのように行動が変わったのでしょうか?

池田:
それまでに1日にスマッシュを20本打っていたとしたら、25本打つようにするなど、常に与えられた内容に「プラス1」することを意識してトレーニングするようになりました。

小松:
小学生の頃と同じように、与えられた練習だけではなく、目標達成に向けて自ら考え、行動するようになったのですね。

 筑波大学進学と12連敗

小松:
その後、池田さんの快進撃が始まります。高校2年生時の全国高校選抜大会で個人としてはシングルスで3位、団体戦ではチームを2位に導いて、全国トップクラスの選手として名門・筑波大学へ進学なさいました。

東:
ここから順風満帆に競技生活を送っていくのかと思いきや、再び壁にぶつかったそうですが。

池田:
高校生の頃、大学生の試合を見ていた時には、パワーでは劣るかも知れないけれど、技術やゲームの組み立てでは負けていないので、十分勝負出来るだろうと分析していました。ところが、いざ大学で対戦してみると技術や戦術を凌駕するスピードとパワーが存在するのだという現実を思い知らされることになりました。

小松:
そんなに違うものなのですね。

池田:
大学1年生で出場したシングルスでは春のリーグと秋のリーグで1勝も出来ずに12連敗。2年生になって、同じく12連敗している選手と戦ってやっと勝つことが出来たというくらい(笑)。1,2年生の頃はとにかく試合に出れば必ずといっていいほど負けていました。

東:
どうやって、スピード&パワー不足を克服したのでしょうか?

池田:
まずはフィジカルを強化することを目指しました。僕は身長174cmなのですが、大学入学時には体重が59kgしかなくて本当に細かったんです。北京オリンピックの時には66kg、ロンドンオリンピックの時には69kgでしたから、当時は圧倒的に筋力が不足していました。
ただ、それを克服しようと必死でトレーニングをしていく中で、無茶をしたこともあって、上腕二頭筋の断裂や手首の腱鞘炎で手術を受けたり、足を肉離れしたり・・・うまくいかない日々が続きました。

小松:
課題を克服するため、満身創痍でもがいていたのですね。

池田:
必死で努力しているのに結果が出ず、度重なる怪我にも悩んでいました。今振り返れば、気持ちばかりが先走り、オーバーワークだった面もありましたが、当時の僕を知る人は、のちに日本代表になってオリンピックに出場するなんて想像も出来なかったと思います。日本中に“オリンピック選手・池田信太郎”を倒したことがある選手がいますし、こんなに負けたことがあるオリンピアンはなかなかいないと思います(笑)。

東:
池田さんが活躍すればするほど、池田さんに勝利した思い出話で美味しいお酒が飲める人が増えるのかも知れませんね(笑)

 ダブルスの才能を見出され、飛躍する

池田:
怪我に苦しみながらも努力を続けた姿勢を評価してもらえたのか、大学3年生でキャプテンに就任し、インカレで12年ぶりの団体優勝を達成。個人としてもようやく大学で戦えるフィジカルが身につき、もっと上の舞台でプレーを続けたいという目標が出来ました。

小松:
その後、4年生時のインカレでは個人で準優勝。全日本選手権にも初出場し、卒業後に実業団チームの日本ユニシスに入団なさるわけですが、その経緯にも様々な紆余曲折があったそうですね。

池田:
そうですね。元々実業団でプレーを続けたいという希望があったのですが、4年生の夏くらいまで採用してくれるチームが無くて。教員免許を取得していたこともあり、母校の女子部(九国大付属高校(女子部)にも誘われていたので、バドミントンは大学で終わりかなと半ば諦めていたのですが、全日本選手権でのプレーを評価していただき、日本ユニシスに育成選手として採用されることになりました。

東:
池田さんが女子部の監督になっていたら、生徒は大騒ぎだったでしょうね(笑)

池田:
いえいえ(笑)。実はインカレの前に自ら日本ユニシスにアプローチした際には一度採用を見送られていたのですが、全日本選手権を観戦しに来ていたインドネシア人コーチのカレル・マイナキさんが僕の才能を見出してくれて。

小松:
どんな才能を見出してくれたのでしょう?

池田:
ダブルスプレーヤーとしての才能です。僕はこの頃シングルスとダブルスの両方でプレーしていたのですが、カレルさんから「君はダブルスに集中したほうがいい。技術があるから」と背中を押してもらって。それで社会人1年目からダブルスに専念することになったんです。

東:
ダブルスとシングルスではどのような違いがあり、どういった部分が池田さんに向いていたのでしょうか?

池田:
ダブルスはペアを組む選手との相性や戦術によって1+1を3にも4にも出来ます。僕は体格的に恵まれていないので、シングルスで真正面からスピードとパワーを競い合うより、パートナーの力を引き出しながらゲームを組み立てて戦うほうが向いていたのだと思います。

小松:
日本ユニシスへの入団からダブルスに専念するまで、カレルさんとの出会いが選手としての大きなターニングポイントになったのですね。

東:
ダブルスに専念した池田さんは筑波大学の先輩である坂本修一選手と初めてペアを組んだ2005年1月の韓国オープンでベスト8に進出すると、2006年の全日本総合選手権で初優勝、2007年の世界選手権では当時の世界ランキング2位だったマレーシアペアとの激戦に勝利し、日本人として史上初の銅メダルを獲得するなどの快進撃を見せます。
いくらダブルスに向いていたとはいえ、同じ選手がいきなりここまで変わるものなのでしょうか?

池田:
単にダブルスに向いていたということ以外にも、優秀な選手たちに囲まれて、世界のトップレベルを知るコーチによる最先端かつ非常にハードなトレーニングを毎日出来る環境も大きかったですよね。また、カレルさんにはバドミントンの技術面ばかりではなく、アスリートとしてのあるべき姿や、人生観についてもご指導いただきました。

小松:
カレルさんのみならず、筑波大学時代の恩師である阿部一佳(かずよし)教授の影響も大きかったと伺っています。

 恩師に教えられた“アスリートとしての在り方”

小松:
阿部先生はいわゆる“体育会系”の指導者ではなかったのだそうですね。

池田:
はい、ラケットバットが専門で、ラケットはどうのように振ると力が最大化できるのか、などバドミントンの指導者というより“科学者”でした。技術的な要素を理論的に言葉で説明してくれたので、考えてプレーする習慣を身につけることが出来るようになりました。

東:
◯◯をするためには☓☓しなければいけないから△△を鍛えなければならないので◎◎というトレーニングをする、といったように技術やトレーニングを言語化して説明するスキルは、アスリートとしての経験をビジネスに活かす際にもとても重要だと思います。
阿部先生には“トップアスリートとしての在り方”についてもご指導いただいたそうですが。

池田:
身なりについてはよく注意されましたね。「バドミントンは紳士のスポーツだから、シャツをズボンの中に入れなさい」「髪の毛を染めてはいけない」「パーマかけてはいけない」と、かなり厳しく指導されていました。ただ、当時の僕は若く、目立ちたい気持ちもあり、色々な着崩しに挑戦してみたり、スパイラルパーマヘアーにしたりしていたのですが、とある国際大会の会場で呼び出されて「この会場には世界のトップレベルが集まっているが、一人でもお前みたいな頭や格好をしている選手がいるか?トップになりたければ、バドミントンの実力だけではなく人間としての実力も磨きなさい」と叱られて。

小松:
問答無用、頭ごなしに禁止するのではなく、言葉で説明し、納得させる指導方法だったのですね。

池田:
他にも、試合の時に大きな声を出して相手を威嚇いかくするような弱い人間になるなとか、トップアスリートとしての立ち振舞や在り方、品格について考えさせられました。

東:
現在の池田さんのある意味アスリートらしからぬスマートな佇まいは大学時代の阿部先生のご指導の賜物なのかも知れませんね。

小松:
恵まれない体格に幾度となく悩まされながら、その度に課題を克服し、ついにはダブルスプレーヤーという“天職”を見つけ、大きく飛躍し始めた池田さん。
次回は初出場した北京オリンピックと“イケシオ”として臨んだロンドンオリンピックでのお話から今後の目標についてまで伺っていきます。
(つづく)

次回の「自らの“バリュー”で2020に貢献する」(後編)は、4月19日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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