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河合純一 / Kawai Junnichi   元競泳選手|現在:

ギャップを埋めれば、必ず目標にたどりつく 元パラリンピック競泳日本代表・河合純一 (中編)

Profile

 

河合純一(かわい・じゅんいち)
1975年生まれの(43歳)の元競泳選手。バルセロナから6大会連続でパラリンピックに出場し、金メダル5個を含む計21個のメダルを獲得。日本パラリンピアンズ協会会長、スポーツ庁スポーツ審議会委員、独立行政法人日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部開発課主任専門職、早稲田大学非常勤講師など様々な役職に従事している。2016年、IPC(国際パラリンピック委員会)パラリンピック殿堂入り。

 闇の中でもベストの選択を

東:
早速ですが、今の河合純一というキャリアを築いた根底にある「競泳」との出会いについて教えてください。

河合:
5歳の頃に、近所のスイミングスクールに通い出したのがきっかけです。その後1年ぐらい通って25メートル泳げるようになって、「水泳って楽しいな」と感じるようになり、小学校3年生ぐらいからバリバリ泳ぐようになりましたね。

東:
河合さんは生まれた時から左目の視力がなく、右目だけ少し見えるか見えないかという状態でしたよね。ご両親もそれを理解しているのに、なぜ水泳をやらせたのでしょうか?

河合:
右目は0.1ぐらい見えていたので、他人との接触が少ない水泳ならできると思ったのではないでしょうか。水泳だけではなく、小さな頃は割となんでもやっていました。あまり上手ではなかったですがソフトボールもやっていましたし。その頃は、自分が周りの人より見えにくいという意識がなかったんです。何せ、生まれた時から右目が0.1しか見えず、一度も両目がはっきり見えることを経験していないわけですから。後に「他のみんなにはもっと遠くまで見えているらしい」ということが徐々にわかってくるのですが、それまでは自分の状況が不便だとか不自由だなんて考えもしなかったです。それが子供の強みかもしれませんね。

小松:
目の症状は、それからどうなったのでしょう。

河合:
中学に入る前ぐらいから、徐々に視力が低下していきました。医者から明確に言われたことはありませんでしたが、だんだん見えにくくなっているな、とは感じていましたね。

小松:
そして、15歳の時にわずかに残っていた右目の視力も失い全盲となり、東京にある筑波大学付属盲学校高等部に進学されますね。

河合:
はい。当時、私は静岡に住んでおり、東京の盲学校の情報を入手するのは非常に難しかったのですが、母方の叔父や、中学校時代に担任だった先生が協力してくださったおかげで。この頃(1990年)はインターネットも全く普及していませんでしたのでとても助かりましたし、ここで大きく人生が変わったと思います。

小松:
中学時代から水泳の才能を発揮されていたんですか。

河合:
いえ、中学時代は、県大会で決勝に残るぐらいのレベルで、水泳がただ好きなだけの選手でした。負けず嫌いではありましたけどね。

東:
そんなどこにでもいる選手だった河合さんが、盲学校在学中の1992年にバルセロナパラリンピックに出場し、銀メダルと銅メダルを獲得します。当時は17歳ですが、一体どのような変化があったのでしょう?

河合:
中学卒業時に親元を離れ「東京へ行く」という選択をしたことが全ての始まりでした。15歳で全盲になり、将来について色々と悩んだ結果、東京の盲学校へ進むのが自分にとってベストの選択ではないかと考え、受験し、進学出来たことで様々な可能性が広がりました。あの時、東京に出てきていなければバルセロナにも行けなかったと思います。静岡にいた頃はパラリンピックの存在自体を知りませんでしたから(笑)

小松:
高校には水泳部があったんですか?

河合:
はい。偶然、僕が高校に入学する1年前に、水泳の指導者が赴任してきて水泳部が創部されたばかりでした。

小松:
入部当初から、河合さんの記録ならパラリンピックを目指せると言われていたのでしょうか。

河合:
いえ、どうすればパラリンピックの代表に選ばれるのかすら、よくわかっていませんでした。1991年当時は、厚生省がパラリンピックを担当し、障害者スポーツが完全に福祉の分野に棲み分けされていた頃で、世間的には障害者の自立支援のための福祉活動としてスポーツを実施しよう、というような立ち位置でしかありませんでしたから。

東:
勝敗を争う競技スポーツというよりも、リハビリテーションに近い扱いだったのでしょうか。

河合:
そうですね。競技というよりは、国際交流のツールとしてスポーツを使っているという位置づけで、勝敗は二の次という面もありました。当時はパラリンピックへ参加するための費用を国が3分の2、地方自治体が3分の1負担することになっていましたが、地方自治体によってはパラリンピックに関する予算をほとんどつけておらず、どれだけ競技成績が良い選手でもパラリンピックに参加出来ないという場合もありました。

東:
競技成績ではなく、そういった事情が優先されていたんですね。

 夢の舞台から学んだことと、新たな目標

河合:
バルセロナパラリンピックには、東京都から10名の選手が出場したのですが、そのうちの5名が水泳選手でした。予算の少ない他の自治体であれば、出場は難しかったかも知れません。

小松:
もし河合さんが静岡に残ったままだったら?

河合:
出場すら出来なかったでしょうね。

東:
高校時代は寮生活だったそうですが、親元を離れての生活はいかがでしたか?

河合:
そうですね。高校時代、3人部屋での寮生活の日々は、自立心を養い、障害を受け入れるマインドを徐々に培ってくれた貴重な時間だったと思います。

小松:
過去の河合さんの記事を拝見すると、視力がだんだん弱くなっている時、なんとかこの視力で留まらないか、症状が進行しないで欲しいと思う気持ちと、やっぱり受け入れなくてはいけないのかなと思う気持ちと、葛藤があったとつづられていました。そんな青年期に、水泳は河合さんの生きる活力になっていたのでしょうか。

河合:
バルセロナパラリンピックに出場することで、自信を持てたことは大きかったですよね。

小松:
バルセロナでメダルを取った時はどういう気持ちだったんですか?

河合:
もちろんとても嬉しかったのですが、最初に銀メダルを獲った後、もっといい色のメダルが欲しいと思い頑張ったのですが、結局金メダルが獲れなくて悔しかったことのほうが印象に残っています。また、日本での障害者の水泳大会にはすごく暗いイメージがありましたが、パラリンピックはまさに「お祭り」で、1ヶ月前に同じ静岡県出身の岩崎恭子さんが金メダルを獲得した同じ会場で自分も泳げたことや、開会式の雰囲気を味わえたのはとても刺激的でしたし、素晴らしい経験になりました。

小松:
10代に経験された、上京、出会い、そしてバルセロナ。これが河合純一さんを形作ったんですね。このステップを駆け上がり、バルセロナで悔しい思いをし、その経験が次に繋がったのでしょうか?

河合:
はい、バルセロナでの悔しさが次への原動力でしたね。

東:
喜びよりも悔しさのほうが大きかったと。バルセロナパラリンピックに出場し、メダルを獲得して帰国した後、周りの目や反応は変わりましたか?

河合:
パラリンピックの報道はほとんどされていない時代でしたから、あまり何も変わりませんでした(笑)。日本では新聞ですら取り上げていませんでしたし、パラリンピックという言葉すら9割の人が知らない時代でした。

東:
世界的な大会で素晴らしい結果を残したにも関わらず、ほとんどの人に知られていない。その知名度の低さには、悔しい思いもなさったのではないでしょうか。

河合:
バルセロナのあるスペインではパラリンピックが非常に盛り上がっていて、これぞパラリンピックのあるべき姿なのだと感じていたのですが、日本におけるパラスポーツやパラアスリートの価値はまだまだそういうものなのだろうと諦めていました。

小松:
バルセロナの後、河合さんは1996年のアトランタ、2000年のシドニー、2004年のアテネで金メダルを獲り、2012年のロンドンに出場なさった後、現役を引退されますよね。その後、日本におけるパラリンピックの注目度が変わってきている実感はありますか?

河合:
そうですね。現役の頃には少しずつ認知度が増しているのかなあというぐらい印象でしたが、私が現役を引退した翌年の2013年に2020年の東京オリパラ招致が決まり、大きく風向きが変わりましたよね。私が初めてパラリンピックに出場してから27年の時が過ぎ、今、オリパラを控えた東京がようやくあの時のバルセロナの盛り上がりに近づいてきた気がしています。27年前に僕が感じたあの感動を、今の子どもたちと世界から日本を訪れるパラアスリートたちに体験してもらえるようにするのが2020年に向けた僕の目標です。

 目標は、ロンドン五輪を超えること

小松:
河合さんが最後に出場したロンドンは、パラリンピック発祥の国・イギリスでの開催でした。他の都市と比べて、何か特別なものはありましたか。

河合:
イギリスの人たちからは、パラリンピック開催に対する誇りや、パラアスリートへの深いリスペクトを特に感じました。そんなロンドンでの経験を2020年の東京に活かし、ロンドンを超えるような大会にしたいと思っています。

東:
東京オリパラを、ロンドンを超えるような大会にするには何が必要なのでしょうか?

河合:
オリパラ開催中にどれだけ前の大会を上回る盛り上がりを実現するのかも大切ですが、オリパラ開催後にどう社会が変わったのか?ということを明確にするのが重要だと考えています。まだまだ表面的な部分を捉えられて、「スポーツが好きな人とスポンサー企業だけが、税金を遣ってお祭り騒ぎをしているのでしょう」という風に世間から思われている部分があると思います。

東:
はい、本当におっしゃる通りで、オリパラやスポーツが素晴らしいものだと感じている方だけではないと思います。

河合:
僕はスポーツ関係者として、そういう世間の視線を自覚しながら色々なことを解決していかなければ、オリパラを成功させることは出来ないと思っているんですね。残念ながら、世の中には様々な原因で体育嫌い・スポーツ嫌いという方が多数いらっしゃいます。そのような方々にも、スポーツやアスリートの価値を見直してもらえるきっかけになればと考えています。

小松:
今この時期って、オリンピック、パラリンピックに対する考え方を「耕す時」だと思います。インフラを造るだけでなくて、マインドを育て上げる時だと感じます。

東:
多くのメディアが、以前にくらべてパラリンピックのことを取り上げるようになりました。パラアスリートにとって、素晴らしい環境なのではないでしょうか。

河合:
そうですね。ただ、僕が現役の頃は、あまり報道されない分、余計なプレッシャーを感じることなく伸び伸びと競技に取り組めたことが良い結果につながったようにも感じます。地元開催のオリパラは一生に一度だと思いますので、今の選手にはプレッシャーを力に変えて頑張って欲しいですね。

 後輩たちに伝えたい「勝つためのメソッド」

小松:
話は変わりますが、私は河合さんが出場されていた2000年のシドニー大会に取材で行っていました。当時水泳といえば、イアン・ソープが活躍していましたが、彼と同じプールで泳いでいたのが河合さんなんですよね。どんな競技であっても、金メダルにたどり着くまでのメソッドや方法論がある。そういうことを報道でも伝えられたらと常々考えています。

河合:
オーストラリアはスポーツに対する考え方がかなり進んでいて、1981年にはオーストラリアスポーツ研究所が設立されています。日本では2015年にスポーツ庁が出来、2019年の夏に新しいトレーニングセンターが完成するわけですが、オーストラリアに比べて30年以上も遅れているんですよね。

小松:
遅れていることを自覚するのは大切ですね。

河合:
はい、遅れていることを自覚し、現状をしっかりと認識したうえで、目指すべき方向とのギャップをどう埋めていくかが重要だと思います。

小松:
テニスだと、ロジャー・フェデラーがチェアテニスの国枝慎吾さんのことを語っています。「僕がもっとも尊敬するグランドスラム獲得者は慎吾だ」と言って世界に向けて発言したんです。これを通して私が思うのは、アスリートの方々は、オリンピアンもパラリンピアンも分けてないのではないですか。

東:
オリンピアンもパラリンピアンも、同じアスリートですからね。

小松:
これまでに圧倒的な結果を残されてきた河合さんが、自ら作り上げた競技で勝つためのメソッドを現在の強化選手に伝えることは出来ないのでしょうか。

河合:
そうですね。本気で伝えようとするならば、長い時間を選手とともに過ごさなければいけないのですが、僕はコーチの立場ではありませんし、そこに割ける時間もないのが現状です。現在のコーチ陣に伝えたことを選手達に伝えてくれればと思っています。

小松:
細かく伝えるのは難しいと思いますが、金メダルを獲るための練習やメソッドというのは、やっぱり過酷なものですよね。

河合:
そうですね。金メダルを獲るのにふさわしいクオリティや練習量があると思います。どういう強度の練習を、どのくらいの時間やるのか。怪我をしないギリギリのところまで自らをどう追い込むのかが重要なんです。メダルを21個獲ったから偉いだなんて僕は全然思っていないし、若い子に何かを押し付けることはないですが、ただ、僕は僕なりの「勝つためには何をしなければならないか」というメソッドを持っていますし、それがあったから勝ち続けられたという自負はありますので、そういう部分は後輩たちに伝えたいですね。

小松:
そんな努力を繰り返して、最終的に2012年のロンドンパラリンピックまで出場されました。

河合:
そうですね。もし、2016年に東京オリパラが開催されていたら、あと4年頑張ったかもしれませんが(笑)

東:
アスリートが今まで必死に取り組んできた競技を自ら終える決断をする時には、理由が必要ですよね。僕は当初2007年度のシーズンを最後に現役を引退しようと考えていたのですが、翌年に生まれ故郷の石川県で日本選手権が開催されることになったので、お世話になった方々や両親への恩返しの意味も込めて、地元でプレーする姿を見せたいと思い1年延長しました。

小松:
体操の内村航平選手も、「2020年が東京でなければ辞めています」とおっしゃっていました。

河合:
自国でのオリパラ開催なんて、50年、100年に1度のチャンスですし、その時を競技人生のピークに近い年齢で迎えられるというのは、アスリートにとって奇跡的なめぐり合わせですので、現役のアスリートには後悔が残らないよう過ごしてほしいですね。

東:
河合さんは、現役スイマーとしてご活躍されながら、次の目標である「教育者」を目指して新しいキャリアを歩んでいくことになります。競技の世界から、どうステップアップをしたのか?
次回はその辺りのお話を聞かせてください。(つづく)

次回の、「結局人は、一人では何もできない」(後編)は3月15日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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