Career shift

松下浩二 / Matushita Koji   元卓球選手|現在:

リーダーのありかたとは? 元卓球日本代表・Tリーグチェアマン・松下浩二

Profile

 

松下浩二(まつした・こうじ)
1967年8月28日生まれ(51歳)、愛知県出身。愛知県桜丘高等学校―明治大学卒業後、90年協和発酵、93年日産自動車、95年グランプリ、97年ミキハウスを経て、05年から再びグランプリ所属。93年日本人初のプロ卓球選手となる。スウェーデン、ドイツ、フランスの欧州3大リーグを経験後、02年中国リーグに初参戦した。4大会連続五輪日本代表(1992年~2004年)。07年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程取得。ヤマト卓球株式会社代表取締役社長(2009年~2017年)。株式会社VICTAS取締役会長(2017年~2018年6月)。現在、一般社団法人Tリーグチェアマン。

小松:
今回は日本人初のプロ卓球選手・松下浩二さんにお話を伺います。松下さんはバルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネと4度のオリンピックに出場。国内だけではなく、スウェーデン、ドイツ、フランスの欧州3大リーグと中国リーグでも活躍した「日本史上最強のカットマン」として知られています。

東:
現役時代の2001年に卓球選手のマネジメント会社“チームマツシタ”を立ち上げ、2009年の現役引退後には国内有数の卓球メーカー“VICTAS”の代表に就任(ノジマTリーグ専務理事就任に伴い退任)。現在は2018年に開幕し、話題を集めている“Tリーグ”の初代チェアマンとして、卓球をさらにメジャーな競技にすべく日々様々な活動をなさっています。

小松:
現在の松下さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、Tリーグのチェアマンが「B」、チームマツシタの代表は「C」、解説者などのメディア出演は「D」とそれぞれの領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
競技の指導現場ではなく、リーグ運営や選手マネジメントの分野で手腕を発揮なさっていますね。

 卓球プロリーグを目指して

小松:
2018年に将来の完全プロ化を視野に入れた卓球の新リーグ「Tリーグ」が開幕し、世間の注目を集めています。現在の状況はチェアマンから見ていかがですか?

松下:
まだ始まったばかりですから何とも言えない部分も多いですが、まずはスタート出来てよかったなという感じです。

東:
両国国技館で開催された女子の開幕戦を観戦に伺いましたが、会場内外で多くの工夫がなされていて、観客に楽しんでもらいたいという意識が感じられました。様々な演出によって試合が華やかになり、メディアへの露出が増すことで選手たちのモチベーションも上がっているのではないでしょうか?

松下:
そうですね。選手はもちろん運営に関わるスタッフも新たなリーグを盛り上げるために一丸となって頑張ってくれていますね。

東:
リーグを盛り上げるといえば、卓球選手は若手からベテランまでインタビュアーに対するコメントが非常に上手いイメージがありますが、何故なのでしょうか?

松下:
ナショナルトレーニングセンターやJOCエリートアカデミーでメディア対応のトレーニングプログラムを受講していることが影響していると思いますが、本当に良くやってくれています。

小松:
メディア対応のトレーニングプログラムについては他競技の選手も受講なさっていると思うのですが、卓球選手は当たり障りのない内容を話すばかりではなく、時にアドリブで面白いコメントをするなど際立った“コメント力”をお持ちだと思います。

東:
選手一人ひとりから“Tリーグ”と“卓球”を盛り上げていこう!という熱い気持ちをひしひしと感じますよね。

小松:
松下さんはご自身が現役の頃に求めていた「世界のトッププレーヤーが集い、国内800万人とも言われる卓球愛好者の皆様にワクワクしていただけるような場」を体現するためにこのリーグを立ち上げたそうですが、いつ頃からこのような構想をお持ちだったのでしょうか?

東:
僕が松下さんに初めてお会いした2009年には、すでにプロリーグの構想をお持ちになり、具体的な行動を始めていらっしゃいましたから、かなりの時間と労力をかけておられますよね。

松下:
そうですね、私が現役の頃はいわゆる実業団リーグで、卓球一本でご飯を食べていこうと考えている選手はほとんどいませんでした。中学、高校と一生懸命卓球をやって、良い大学に進んで、良い会社に就職して、会社で働きながら卓球を続けて、現役を引退したらビジネスパーソンとして一生懸命働く、という人生プランしか描けていない選手が多かったと思います。

東:
競技をしながら仕事もしているので、選手を引退した後の雇用が保証されている“企業スポーツ”の典型的な例ですね。

小松:
そんな中、ゼロからリーグをつくり、初代チェアマンに就任なさったわけですが、ご苦労も多かったのではないでしょうか?

松下:
苦労ですか・・・今振り返ると本当に紆余曲折がありましたが、プロリーグをつくることは日本卓球界において絶対に必要なことだと昔も今も信じていますし、最初の立ち上げに関わるなんてなかなか出来ることではないですから、全てが良い経験です(笑)

東:
松下さんの苦労を人に見せないお人柄、本当に素敵です。

 肩書きなんて「役割」にすぎない

小松:
チェアマンの業務について、具体的にお教えいただけますか?

松下:
一言で言うと、何でも屋です。チケットの販売、試合や選手のプロモーション、参画するチームの経営基盤をつくるためのサポートに至るまで、様々な業務に携わっています。

東:
多岐に渡る業務内容ですが、世間の思う“チェアマンのお仕事”のイメージとは少々異なるように感じますね。

松下:
サッカーのJリーグやバスケットボールのBリーグのチェアマンのイメージとは違うかも知れません。組織をマネジメントしていくうえでは役割分担を明確にすることも大切ですが、Tリーグは立ち上がってからまだ2年も経っていない、会社に例えると「零細のベンチャー企業」です。スタッフも30名くらいですから、私を含めそれぞれが種々雑多な業務に取り組んでいます。ベンチャー企業はトップが必死で走り続けないと潰れてしまいますので(笑)

小松:
小さな組織の場合、確かにリーダーが現場で動くことも必要ですよね。でも、時としてそれがワンマン運営になってしまう可能性もあると思うのですが。

松下:
はい、そこは理解していますが、このぐらいの規模の組織であればリーダーがそういう動きをしなければ伸びていかない部分があります。200名から500名の組織になれば、自分だけでは対応出来なくなるので右腕左腕を置いて任せなければならなくなるのでしょうが、100名くらいまでなら目が届くので、組織がその位の規模になるまでは自分が先頭に立って動かなければと考えています。

東:
このような考えを持たれるのは、国内有数の卓球用品メーカーである株式会社VICTASで経営者を務められた経験があってこそなのでしょうね。

松下:
経営者としての経験は確かに大きいかも知れませんね。“チェアマン”は組織におけるトップというイメージをお持ちになられるかと思いますが、Tリーグではあくまで“役割の一つ”に過ぎません。目的を同じくする仲間が集まる中で、上も下もなく、それぞれの役割をしっかり全うしながらお互いに助け合いましょうという組織の中での役割の一つが“チェアマン”なのだと考えています。もちろん、リーダーに求められる外交的な活動や政治的な交渉、様々な会での挨拶回りなども大切な仕事ですが、泥臭い実務的な仕事もこなしていかなければ、現段階の組織は回らないと考えています。

小松:
組織のリーダーとして、卓球界の内外における政治的な交渉を進めていくうえでは、選手としての実績やご人脈が活きている部分もあるのではないでしょうか?

松下:
そうですね、選手時代の繋がりに助けられている部分は多いです。いつもお願いしてばかりで心苦しいのですが、有り難いことに色々な方にお話を聞いていただけています。

東:
松下さんだからこそ、という部分は様々な面で非常に多いでしょうね。Tリーグの設立は、選手としての実績や経営者としてのご経験に加え、大学院でスポーツマネジメントを専門的に学ばれた松下さんでなければ実現出来なかったと思います。例えば、世界的なプロ経営者が莫大な資金を投下して、いかに費用対効果を説いたとしても周囲が協力してくれるとは思えません。皆さん、松下さんが描いた「夢」や「ビジョン」に賛同して協力しているのだと思います。

松下:
確かに費用対効果のみで見られると厳しい部分がありますので、夢やビジョンについて語り、それに賛同していただき、実際に形にしていくことに私の責任があるのだと考えています。また、選手に対しては、元選手として実際にプレーしている選手たちの気持ちを理解出来る部分を活かしていきたいと考えています。

小松:
夢やビジョンを伝え、賛同と協力を得ていく中で、思うようにいかないこともあったと思うのですが。

松下:
もちろんたくさんありました。自分の考えがすんなり通ってくれれば、世の中の誰も悩まないですから(笑)

 日本卓球「冬」の時代

小松:
たとえばどんなご苦労があったのでしょう?

松下:
まず、Tリーグが設立された背景からお話すると、卓球がオリンピックの正式種目になったのは1988年のソウル大会からですが、2008年の北京大会までの20年間、日本は一つもメダルを獲得出来ていませんでした。1950〜60年代には荻村伊智朗さんや伊藤繁雄さんらが世界選手権を制するなど日本は世界有数の卓球強豪国だったのですが、1980年代に入り、徐々に他国に押され始めるとあっさり抜き去られ、2000年代に入ると世界ランキングで10位以下になってしまい、瞬く間に差を広げられました。

東:
原因は何だったのでしょうか?

松下:
日本の卓球が勝てなくなった一因に、プロリーグの不在が挙げられます。きっかけは卓球がオリンピックの正式種目に採用されたことですが、各国はオリンピックで良い成績を上げるために、選手、コーチがフルタイムで練習出来る環境を整えていきました。

小松:
選手、コーチがフルタイムで練習に集中出来る環境とは、プロリーグとプロ選手が存在する環境ということですね。

松下:
はい、ご存知ではない方も多いかも知れませんが、世界中に卓球のプロリーグが存在していて、ドイツには世界最高峰との呼び声高い“ブンデスリーガ”があり、スウェーデンやロシアにもそれぞれプロリーグがあります。極め付きは2000年に中国で始まった“超級リーグ”で、年収「億超え」のスター選手が何人も在籍し、凄まじい盛り上がりを見せています。

東:
夢のある世界ですよね。日本人選手でも福原愛選手や水谷隼選手が海外のプロリーグで活躍していましたね。

松下:
北京オリンピックでは、福原愛選手を中心とした女子団体と水谷隼選手を中心とした男子団体がともに大会前の世界選手権でメダルを獲得しており、大きな期待がかかっていたのですが、男子はドイツに準決勝でやぶれ、女子は3位決定戦で韓国にやぶれてしまい、日本の卓球界にこのままではいけないという危機感が生まれました。

小松:
男子準決勝のドイツ戦、大接戦だったのを覚えています。

松下:
そうですね、あと1ゲーム取れれば銀メダルだったのですが・・・。
日本卓球界全てが悔しい思いを味わった北京大会の後、日本卓球協会の理事会で当時の大林剛郎会長から「今後オリンピックでメダルを獲るためには、日本にもプロリーグが必要なのではないか?」というお話が出て、プロジェクトチームが結成されることになりました。それが“日本卓球リーグ発展プロジェクトチーム”で、私もそのメンバーの一員として活動することになったのが始まりです。

東:
プロジェクトチームはその後“プロリーグ設立検討委員会”、“プロリーグ設立検討準備室”へと発展していきました。サッカーのJリーグ設立と同様のステップを踏まれていったのですね。

松下:
はい。ただ、プロジェクトチームの結成当初は、卓球業界の中だけで話し合いが進んでいたためなかなか前に進むことが出来ず、目立った成果を出すことが出来ないまま、あっという間に三年が過ぎてしまいました。その後、外部の方々にもメンバーに入っていただき、様々なアドバイスをもらいながら進めることになったのですが、それでも順風満帆とはいかず、とにかく時間がかかりました。

小松:
あっという間の三年間。いったい何に最も時間がかかったのでしょうか?

松下:
日本卓球実業団リーグとの調整ですね。こちらは三年どころか五年の時間がかかりました。

東:
五年ですか・・・大変な労力でしたよね。

松下:
新たなことを始めるにはそれだけの時間がかかるものだと今なら言えますが、当時は本当に大変でした。日本人選手がだんだん強くなってきていたので、「プロリーグなんてつくらなくても、今のままでいいのでは?」という声もありましたし。

小松:
選手が強くなってきたのは、海外のプロリーグに挑戦し、活躍していたからこそだと思うのですが。

松下:
おっしゃるとおりです。当時、福原愛選手や水谷隼選手は世界と伍して戦うことが出来ていましたが、その強さは“属人的”なもので、日本卓球界の環境によるものではありません。たまたま幼い頃から卓球ができる環境が用意され、両親や専属コーチのバックアップ体制があったから世界で戦える選手になれただけなんです。

東:
日本卓球界の強化システムが生み出した選手たちではないので、再現性に乏しいですよね。

松下:
1977年に開幕した実業団リーグの選手たちは企業内の“ビジネスパーソン”で、卓球以外にも日中にはやらなければならない仕事があります。必然的に他国と比べても練習時間が少なくなってしまいますし、チームの予算や存続も企業の業績に大きく左右されてしまいます。かつて58あった実業団チームも2017年時点では26にまで減少していました。継続性のあるプロ卓球リーグをつくることは、選手の強化はもちろん、引退後のコーチや後進の育成などのキャリアパスの整備にもつながり、卓球における“生態系”をつくることで卓球業界全体を活性化させ、競技全体の勝利、普及、資金のレベルを向上させるうえで必要不可欠だと思います。

小松:
1993年に開幕したサッカーのJリーグと同じですね。実業団レベルだったサッカーをプロ化することで海外から有名選手を招聘し、観客を入れてスター選手を生む。そのスター選手に憧れた子どもたちがこぞってサッカーを始め、いつしかW杯に出場するのが当然というまでに日本のサッカーは強くなり、多くの人と大きなお金が動く産業になりました。

松下:
逆を言えば、それが出来なければ日本の卓球の強さは一部選手に依存する一時的なものになりかねない。つまり、1980年代以降の冬の時代を繰り返す可能性があるんです。
ただ、こうした考えをただ押し付けていても物事は進みません。日本実業団リーグや日本卓球協会の理事の皆様、卓球ファンや卓球の愛好家の皆様にご理解いただくために、プロリーグが単に競技力を高めるための手段ではないこと、卓球というスポーツを通じて社会に貢献すること、若い選手を育成すること、子どもたちに夢や希望を与えることなどの目的があるということを何度も繰り返し、粘り強く丁寧に説明し続けてきました。

小松:
とても根気の必要なお仕事でしたね・・・

松下:
幾度となく話し合いの機会を設け、説明を重ねた結果、2016年12月に開催された日本卓球協会の理事会で、ついに新リーグの設立が承認されました。

東:
北京オリンピック後に最初にプロリーグの話が出てから、およそ八年の月日を経てやっと承認までたどり着いたわけですね・・・。
僕はハンドボールのプロリーグが必要だと考え、実業団リーグである日本ハンドボールリーグ機構にマーケティング部を新設することを提言し、初代部長として活動した結果、自らの力不足に気づき、ハンドボールから離れた経験があります。自分では出来ることは全てやりきったと思っていたのですが、松下さんほどの実績や経験が無いにも関わらず、周囲に対して丁寧に説明を重ね、理解してもらうための努力をしていたのかといえば全く不足していました。今、振り返ると本当に恥ずかしく思いますし、諦めずに夢を実現なさっている松下さんを心から尊敬します。

松下:
いえいえ、私もTリーグもまだまだ道半ばですし、東さんは若いですからこれからですよ。

東:
ありがとうございます!もっと精進致します。

小松:
日本を代表する卓球選手から、完全プロ化を目指す新リーグのチェアマンとして日々忙しくご活躍なさっている松下さんですが、いったいどのように卓球に出会い、どんな選手生活を送ってこられたのでしょうか。
松下さんのトップアスリートとしての側面について伺っていきたいと思います。

松下:
宜しくお願いします。

東:
トップアスリートとしてどのようなご経験をなさってきたのかについて伺ってまいります。

小松:
松下さんが初めて卓球に出会ったのはいつでしょうか?

 卓球との出会い

松下:
小学3年生の時です。中学生の兄が卓球部で、部活が終わって帰宅した後にも近所の卓球場で練習していまして。両親が送り迎えする際に僕も一緒についていって、兄の練習中に父や双子の弟と遊び半分で始めたのをきっかけに、徐々にのめり込んでいきました。

東:
のめり込んだ理由は何だったのでしょう?

松下:
単純に面白かったのと、子どもながらに自分に向いていると思いましたね。ボールの威力はまだまだ弱かったですが、長くラリーを続けることが出来ましたし、卓球場に来ていた大人を見ていても自分の方が強いんじゃないかなって思っていました。自分で言うのも何なのですが、始めた頃からセンスがありましたね(笑)

小松:
大人でも子どもでも自分の得意なこと、上手く出来ることは楽しいですものね。

東:
その後、松下さんはセンスがあるという言葉を証明するかのように小学生時代に豊橋市内の大会で優勝。中学、高校ではシングルスで全国大会の決勝戦に進出するなど大活躍なさいますが、何故これほどの好成績を残すことが出来たのでしょうか?

松下:
家の近所にあった桜丘高校がたまたま卓球の強豪校で、兄が入部したことをきっかけに監督に誘っていただき、小学生の頃から毎日のように高校生と一緒に練習させていただいたのが大きかったです。

小松:
年上の強豪選手たちと毎日練習出来る環境が、飛躍的に実力を伸ばすことにつながったのですね。桜丘高校での練習では、生涯のライバルであり後のパートナーでもある同級生・渋谷浩選手との出会いもあったそうですが。

松下:
はい、彼はお姉さんが桜丘高校だった関係で時々練習に参加していたのですが、何度対戦しても全然勝てなくて。同世代でこんなに強い選手がいるのかと驚きました。

東:
渋谷さんのご両親はどちらも卓球の全日本チャンピオンで、まさにサラブレッドなのだそうですね。

松下:
そうなんです。彼は小学1年生から卓球を始めたのですが、小学6年生の時に父親が明治大学の監督に就任した関係で、毎日大学生と練習していたのだそうです。

小松:
小学生の頃から大学生と練習なさっていたんですか!
それは強くなるわけですよね・・・

東:
渋谷さんは中学1年生から全国大会に出場し、三連覇を達成。高校時代にも2年連続で三冠に輝くなど、同世代の絶対王者として君臨していましたが、松下さんとの対戦成績はどうだったのでしょうか?

松下:
中学、高校の6年間は全国大会で彼を倒して優勝するのを目標に頑張ったのですが、四度決勝戦で対戦し、全て負けてしまいましたので、いい思い出はありません(笑)

小松:
その後、渋谷さんとはシングルスではライバルとして切磋琢磨しながらも、ダブルスではパートナーとして国内外の大会でともに戦う間柄になりましたね。

東:
松下さんと渋谷さんのペアは1996年のアトランタオリンピックで5位入賞、1997年の世界選手権では銅メダルを獲得。全日本卓球選手権における同一ペアでの優勝記録(7回)はいまだにやぶられておらず、記録にも記憶にも残る名コンビとして日本卓球界の歴史にその名を刻んでいます。

小松:
渋谷さんとは現在でも交流があるのでしょうか?

松下:
彼は現在、卓球メーカーのタマスに所属しているので試合会場で会ったりはしますが、腹はあまり割らないですね(笑)彼とは大学が同じで、日本代表でもずっと同部屋でしたから気を遣うような関係ではないのですが、お互いにライバルとして「あいつには負けたくない」という気持ちを持ち続けているように思います。

東:
選手として対戦することは無くとも、人生のライバルとしてお互いを意識し合う関係なのですね。

 文武両道の大学時代

小松:
続いて、渋谷さんともチームメイトとして過ごした明治大学時代のお話を伺います。
まずは、明治大学を選んだ理由をお教えくださいますか。

松下:
当時は明治大学が圧倒的に強く、日本代表選手のほとんどが明治大学の現役かOB選手だったことと、幼い頃から渋谷五郎監督(渋谷さんの父親)と交流があり、事あるごとに誘ってもいただいていたので、早い時期から明治大学に進もうと決めていました。

東:
明治大学ではトレーニングはもちろん、学業のほうでも大変なご苦労をなさったそうですが。

松下:
1年生の時に日本代表チームに選ばれたため、強化合宿や海外遠征で授業を休まなくてはいけないことが多くなり、単位を取得するために必死で時間をつくって授業に出席し、勉強と競技を両立させる日々が続きました。

東:
日本代表に選ばれるような学生でも全く優遇措置がなかったのですか?

松下:
学部によっては試合や遠征などで授業を欠席する際にはその旨を事前に伝えれば出席扱いになる場合もあったようですが、私が在籍していた文学部では全くもって優遇されませんでした。

小松:
まさに“文武両道”の日々を過ごされたわけですね。

松下:
そんなに格好のいいものでもないですけどね(笑)きっかけは、とある先生に大会出場のため授業を欠席するので、出席扱いにしてくださいと頼んだ際に「大学はスポーツをする場所ではなく様々なことを学ぶ場所で、この授業で学ぶことは卓球ではないので大会に出場することは出席の代わりにはならない」と言われたことです。最初は少し頭に来たのですが、よくよく考えてみるとおっしゃる通りだなと。それからは卓球部に所属していることも日本代表として活動していることも一切伝えることなく、通常通りに勉強で単位を取るために授業に出席しながら、卓球で学生日本一や日本代表として国際大会で活躍することを目指すという学生生活を過ごしました。

東:
確かにおっしゃるとおりではありますが、日本の大学における体育会はそのような考えを元に練習時間や大会日程が設計されているわけではありませんので、口で言うのは簡単ですが、かなり大変だったのではないでしょうか?

松下:
必死でしたよね。明治大学でのトレーニングは夕方六時から九時まで三鷹で実施していたのですが、キャンパスは永福町と御茶ノ水に分かれていて、大会出場や海外遠征の関係で出席が不足したり、試験を受けさせてもらえなかったりで単位を落としてしまうと、あちこち移動しなければならず、授業に出席するために練習に参加出来ない日も増えてしまいした。

小松:
他の卓球部員の方々も同じような学生生活を送っていらっしゃったのでしょうか?

松下:
私の同期は8名だったのですが、全国大会で優秀な成績を残していた渋谷さんと私の双子の弟以外の6名のうち4名が私と同じ文学部に在籍し、同じような生活を送っていました。その中にはTリーグに所属する“T.T彩たま”の柏原哲郎社長や増毛製品やウィッグ、ヘアケア製品を製造販売大手のスヴェンソンと卓球用品メーカーのVICTASの二社を経営している兒玉義則社長、福井県で会社を経営している寺下社長がいます。

東:
松下さんを含め、錚々たる方々が揃っていらしたのですね。

松下:
日本一を目指して日々厳しいトレーニングに取り組みながら、“アンチ体育会系”とも言える文学部で単位や出席、試験など勉強のことでは誰一人頭を下げることなく戦い抜いた強者たちです(笑)

小松:
ある意味“戦友”のような関係ですよね。歳をいくつ重ねても薄れない絆があるのではないでしょうか。

松下:
はい、今回のTリーグの設立に際しても、チームのオーナーを引き受けてくれたり、リーグのスポンサーになってくれたりと大学の同期には本当に助けられています。

東:
そんなにご苦労なさったのであれば、大学を卒業する時にはものすごい達成感があったでしょうね。

松下:
達成感というか、二度とやりたくないと思いました(笑)3、4年生になる頃には少しは自由な時間も出来ましたが、人生の中でも最もきつい時期だったかも知れません。

 競技に命を懸ける“プロフェッショナル”

小松:
続いて、日本代表選手としてのお話を聞かせてください。松下さんが初めて日本代表として国際試合に出場したのは大学1年生時に北朝鮮で開催された平壌オープンだったそうですね。

松下:
はい、日の丸をつけて戦うことは卓球を始めた頃からの憧れだったので、とても嬉しかったですね。平壌オープンのメンバーに選ばれた時は、まだまだ日本代表候補の一人という立場だったのですが、大会で世界の中堅クラスの選手たちに勝利したことが認められ、その後、日本代表に定着することが出来るようになり、1987年にニューデリーで開催された世界選手権のメンバーに選んでいただきました。

東:
その後、1988年のソウルオリンピックから卓球がオリンピックの正式種目に選ばれると、松下さんは1992年のバルセロナからアトランタ、シドニー、アテネと四大会連続でオリンピックに出場なさいました。オリンピックの舞台から、松下さんが感じたこと、学んだことがあればお教えいただけますか?

松下:
オリンピックというイベント全体に関しては、世界最高峰のスポーツの祭典であり、参加する意義のある素晴らしい大会だと感じましたし、卓球選手としての視点では海外の選手と自分との意識の違いを感じました。

小松:
松下さんと海外の選手では何が違ったのでしょうか?

松下:
簡単に言えば、“プロ意識”です。試合へ臨む姿勢や一つひとつのプレーへの集中力を間近で見て、働きながら片手間で卓球をやっていては勝てないと感じました。

東:
卓球を仕事にしている選手と、仕事をしながら卓球をしている立場と環境の差を実感なさったのですね。

松下:
大学4年生の時に当時の卓球強豪国だったスウェーデンに一年間留学した際にも“覚悟”の違いを感じました。

小松:
スウェーデンで出会った選手からはどのような“覚悟”を感じられたのでしょうか?

松下:
プロフェッショナルとして、命を懸けて卓球に向き合う覚悟です。当時の私はどちらかといえば“文武両道”に誇りをもって卓球に取り組んでいましたから、スウェーデンで出会った選手たちが命がけで卓球に向き合っている姿を見て、本当に強くなるためには人生を懸ける覚悟が必要なのだと感じました。日本にもプロ卓球選手が活躍するプロリーグが出来るといいのになと思いましたね。

東:
Tリーグ構想の原点ですね。

 自らの強みを最も活かせる場所で戦う

小松:
明治大学をご卒業後、松下さんは協和醗酵工業(現・協和発酵キリン ※2019年5月現在)に入社し、同社の所有する実業団卓球チームへ入部なさいました。業務とトレーニングを両立させる生活はいかがだったでしょうか。

松下:
卓球部員として活動しながらも、どうせだったらトップにならなければと社長を目指して本気で仕事に取り組んでいましたが、徐々に職場の先輩や同僚との違いに気づかされまして。周りはみんな一流大学出身の非常に優秀な方々で、仕事に関するあらゆる能力が私とは全然違いました。最初は社長になる!と意気込んでいたものの、月日が経過するごとに「これは部長どころか課長にもなれないのではないか?」と自信を喪失してしまいました(笑)

東:
協和醗酵工業といえば大企業ですから。業種的にも専門的な知識を身につけることが必要とされますので、新人は特に時間をかけて覚えなければなければならないことが山積しているにも関わらず、世界で勝つことを目指した厳しいトレーニングにも取り組まなければいけないとなれば、いくら“文武両道”を目指して頑張ったとしても、流石に時間が足りないですよね・・・

松下:
仕事がうまくいかない日々に思い悩むようになるとともに、卓球でも良い成績が残せなくなってしまい・・・。今思えば、どちらも中途半端でした。仕事で社長になるにしても、卓球で世界で勝つにしても、どちらかに命がけで取り組まなければ実現出来ないなと。

東:
頂点を目指すにはどちらかに集中し、人生を懸けなければいけない、と感じたのですね。

松下:
そうですね。そこで自分の人生において強みを最も活かせるのは、自らの人生を懸けるべきなのは仕事と卓球どちらだろう?と考えに考えて、卓球を選びました。

小松:
相当お悩みになったでしょうが、決め手は何だったのでしょう?

松下:
今、決断すれば、日本人として初めてのプロ卓球選手になれるということが決め手になりました。それまで卓球のプロ選手は日本に存在していませんでしたから、第一号になれば卓球メーカーなど様々な方々が応援してくれるのではないかと。

東:
なるほど、プロ第一号とそれ以降では全く価値が異なりますからね。素晴らしいセルフブランディングですね。

小松:
松下さんは1992年のバルセロナオリンピックに出場した後、1993年に協和醗酵工業から日産自動車へ移籍。同年4月に日本人初のプロ契約を締結なさいましたが、周囲はどのような反応をなさったのでしょうか?

松下:
最初にプロ選手になりたいと伝えた時には「卓球でプロ?なにそれ?」「食べていけるわけがない。頭がおかしくなったのか?」と笑われましたね(笑)

東:
当時はそう思われても仕方がなかったのでしょうね。何せ、全く前例が無かったわけですから。

松下:
上司からは「そんなに卓球をやりたければ朝から晩までやらせてあげるよ。試合結果に関係なく給料は貰えるし、引退しても会社に残ることが出来る。こんなに恵まれた環境はないだろう?」と説得もされました。確かにおっしゃる通りでこんなにありがたい条件は無いのですが、それでは気持ちが違うんです。

小松:
気持ちが違う、とは?

松下:
勝負に懸ける気持ち、一つひとつのプレーに懸ける気持ちです。安定した立場で、勝っても負けても何不自由なく競技に集中出来る環境ではなく、勝たなければ食べていけないような崖っぷちの、逃げ場のない環境こそが、私が世界の頂点を目指すために必要だと思ったんです。

東:
まさに背水の陣。退路を断つことで、結果を出さなければ食べていけない状況に自らを追い込んだのですね。

小松:
プロへ転向して初めての全日本選手権、松下さんは見事に初優勝なさいます。

松下:
日産自動車に移籍し、プロ選手になってから八ヶ月。まさに死にもの狂い、命がけで卓球に取り組んだ結果、初めて全日本選手権で優勝することが出来て、ようやく卓球で食べていけるかもしれないという自信を持てました。

東:
スポーツでも仕事でも、人生においては何かを捨て去らなければ、決して得られないものがありますよね。

小松:
その後、松下さんは1995年に日産自動車からグランプリへ移籍すると、同年の全日本選手権で自身二度目の優勝を達成。1996年のアトランタオリンピックではシングルスでベスト16、渋谷選手とペアを組んだダブルスではベスト8に進出。1997年にはマンチェスターで開催された世界選手権の男子ダブルス(渋谷選手とのペア)で三位となり、日本勢の個人戦では十四年ぶりのメダルを獲得するなど大活躍。同年、国内での所属をミキハウスへ変更すると、日本人選手として初めて世界最高峰のドイツ・ブンデスリーガに参戦。1999−2000年シーズンにはボルシア・デュッセルドルフの一員としてヨーロッパチャンピオンズリーグで優勝するという金字塔を打ち立てると、その後もクアラルンプールでの世界選手権で男子団体の銅メダル獲得に貢献したり、日本人として初めてフランスリーグでプレーするなど、道なき道を切り拓くパイオニアとして、伝説的な競技人生を送られました。

東:
大企業の実業団選手という安定した立場を捨てて、日本卓球界史上初のプロ選手として前人未到の挑戦を続けてきた松下さんですが、選手としての実績以外にも、卓球を軸とした“経営者”としての顔もお持ちです。

小松:
いかに松下さんが“トップアスリート”と“経営者”を両立させてきたのか。また“トップアスリート”から“経営者”を経て、“トップリーグのチェアマン”にキャリアをシフトなさってきたのかについてお話を伺います。

小松:
日本卓球界史上初のプロ選手として世界の舞台でご活躍なさってきた松下さんですが、“トップアスリート”としての側面のみならず、“経営者”としての側面についてもお話を伺っていきたいと思います。

 道を切り拓き、後進のための環境を整える

小松:
1993年に協和醗酵工業から日産自動車へ移籍。プロ選手となった後、1995年にグランプリ、1997年にミキハウス、2005年に再びグランプリへ移籍というように複数の企業を渡り歩きながら海外のプロリーグに参戦。日本代表としては1992年バルセロナ、1996年アトランタ、2000年シドニー、2004年アテネと四大会連続でオリンピックへ出場と、輝かしい選手生活を送られてきた松下さんですが、引退を決断なさったのはいつ頃なのでしょうか?

松下:
アテネオリンピックに出場した後は、いつ引退してもいいと考えていました。ただ、当時は日本代表を引っ張っていけるような若い選手が育っておらず、日本代表チームの監督からも、もう少し協力してほしいと言われていたので、現役を続けていました。

東:
そんな中、2007年頃から明治大学の後輩でもある水谷隼選手が頭角を表してきましたね。

松下:
そうですね、水谷選手のような日本代表を背負って立てる選手が現れたことと、自分自身が北京オリンピックの代表に選ばれなかったことなどもあり、2009年1月に引退を発表しました。

小松:
水谷選手は若い頃から松下さんがマネジメントをなさっていましたね。

東:
2001年に松下さんが設立した卓球選手のマネジメントや卓球大会の運営を事業とする会社“チームマツシタ”の所属でしたよね。プロ選手として活動しながら、こちらの会社を立ち上げた目的は何だったのでしょうか?

松下:
自分自身が海外でプロ選手として活動していく中で苦労してきたことを後輩たちには経験させたくないというのが一番の目的です。当時は海外でプレーしなければ強くなれなかったのですが、様々な障害があって、なかなか挑戦するには難しい環境でした。私がマネジメントすることで少しでも障害を取り除き、海外に挑戦し、活躍する選手が増えれば日本のレベルも向上するだろうと。

小松:
実際に海外でプロ選手として活躍している松下さんであれば、選手目線でかゆいところに手が届くマネジメントが出来ますものね。

東:
松下さんが環境を整えた結果、海外に挑戦する選手が増え、現在の日本卓球の隆盛があるわけですよね。

松下:
それだけが要因ではありませんが、少しは貢献出来たかと思います。

 より多くの人に貢献出来る事業を

小松:
現役時代からプロ選手とチームマツシタの経営者の“デュアルキャリア”を実践していた松下さんですが、現役引退後には卓球用品総合メーカー“VICTAS”の代表取締役社長に就任なさいます。なぜここまで次々に新たな挑戦をすることが出来るのでしょう?

松下:
選手をマネジメントしていく事業が軌道に乗り始めた時に、ここまで来れば私以外でも進めていけると感じ、もっと大きな仕事をして社会に貢献したいという思いが強くなったんです。チームマツシタの事業では、自分や家族が何不自由なく食べていくことは出来ますが、それだけではつまらないなと。より多くの方々に対して貢献出来るような経済的な余裕と社会的ステータスを身につけるためにはどうすればいいか考えた結果、卓球用品メーカーだろうと。

東:
なるほど、もう少し詳しく聞かせてください。

松下:
私の強みは“卓球”にあるので、卓球を通じて最もお金を稼げるビジネスは何なのかを徹底的に考えました。選手でもコーチでもないし、卓球ショップも違う。マネジメント業でもないし・・・と、考えた結果、卓球用品メーカーが浮かんだんです。今思えば浅はかな考えだったかも知れませんが、卓球用品メーカーであれば、成功すれば何億円も稼げるイメージがありました。ただ、ゼロからメーカーを立ち上げるのには莫大な資金が必要になりますし、現実的ではないなと悩んでもいました。

小松:
確かに現実的ではありませんね。

松下:
そんな時、以前から親しくさせていただいていた大阪の卓球用品メーカー“VICTAS(当時はヤマト卓球)”の鈴木英幾社長に「私に会社を譲っていただけませんか?」と提案しました。

東:
ものすごいタイミングですね!
鈴木社長は何とおっしゃったのでしょう?

松下:
条件さえクリアしてくれたら、と。

小松:
いったいどのような条件だったのでしょうか?

松下:
簡単に言えば、会社が抱えていた負債や従業員を含めた全てを引き受けてくれれば事業を譲渡していただける、という条件でした。

東:
会社を買収するということなので、何億円もの資金が必要になるお話ですが・・・

松下:
もちろん、私個人ではそんなに多額の資金を用意出来ませんから、出資してくれる方を探す必要がありました。そこで、母校である明治大学卓球部の総監督で増毛製品やウィッグ、ヘアケア製品の製造販売大手“スヴェンソン”の兒玉圭司会長に相談したところ「それはいい話だな!」とおっしゃっていただいて。

東:
そんなに多額の資金がかかるお話をあっさりと・・・松下さんへの信頼あってこそですよね。

松下:
最初は引き受けてくれるはずがないだろうと思っていたので、驚きました。
兒玉圭司会長は大学時代の総監督であるとともに、ご子息で現在“VICTAS”の代表を務めている兒玉義則さんが同期だったこともあり、僕にとって“東京の親父”のような存在なので、断られるにしてもまずは最初にご相談しなければいけないと思い、ダメで元々という感じでお話させていただいたのですが。
VICTASは当時創業80年くらいで、「そんな老舗メーカーをもし無くしてしまえば、卓球業界全体にとってマイナスだろう」と言ってくださって。

小松:
きっと、大学時代から現役引退に至るまでの生き様をご覧になっていて、松下さんにならそれだけの資金を投じる価値があるとご判断なさったのでしょうね。

松下:
2009年の1月に引退し、9月頃に買収の話になり、それからあっという間に事が進み、12月には代表に就任していました。それから7年ほど経営を任せていただいて、振り返れば色々と大変なこともありましたが、売上を13億円から33億円に伸ばすことが出来ました。上場させたいという気持ちもありましたが、また次のことをやりたいなという気持ちのほうが強くなってきて。

 卓球で日本を変える

東:
それが“Tリーグ”ですね。

松下:
はい。私は2010年に発足した“日本卓球リーグ発展プロジェクトチーム”の段階から携わっていたのですが、卓球用品メーカーの代表という立場では利益相反になる部分があり、核心部分に関わることが出来なかったので、同級生で会長の息子でもある兒玉義則さんに次を託して代表を退任することにしました。

小松:
自らが伸ばしてきた売上33億円の企業の代表。しかも、今後伸びていくであろう卓球用品メーカーで上場も視野に入っていたにも関わらず、これからどうなるかも分からない卓球のプロリーグ立ち上げに関わることは非常にリスキーに感じますが。

松下:
そうですね。こういう言い方は語弊があるかも知れませんが、VICTASの代表をしていれば楽だったと思います。事業を通じて社会や卓球界に貢献出来ていましたし、経済的にも何の不満もありませんでした。でも、この国でもっと卓球を盛り上げたい、オリンピックで金メダルを獲ってほしい、それにはどうしても日本に世界のトップ選手が集うプロリーグが必要で、それをつくりたいという思いが強くて。
私が現役だった頃、日本での卓球選手のイメージは「根暗」で、何度も悔しい思いをしてきました。これからは卓球選手のイメージが「かっこいい」になるようなスポーツにしたいんです。そのためにもみんなが憧れるようなプロリーグをつくりたい。これまでの人生の中でもこのプロジェクトが最も大変ですが、必ず実現したいと思っています。

東:
僕たちが若い頃に比べて、卓球や卓球選手に対するイメージは本当に変わってきていますよね。私がよく利用している渋谷の“T4 TOKYO“という複合型卓球施設は、卓球をテーマにしたレストラン&バーや本格卓球スクール、グッズショップに加えてカジュアルに卓球を楽しめるスペースがあって、先日はアスリートを集めて卓球大会を開催したのですが、最高に盛り上がりました。

小松:
卓球は老若男女がお酒を飲みながらでも楽しめ、プロと未経験者が本気で対戦してもほとんど怪我をしないという安全性も備えていますので、”やるスポーツ“としても非常に大きな可能性があると思います。

東:
ビジネスパーソンはゴルフをコミュニケーションツールの一つとして活用していますが、今後は卓球もそうなっていくのではないかと感じています。短時間、省スペース、安価に身体を動かしながらコミュニケーションが取れますし、実際にベンチャー企業の経営者が集って卓球大会を開催することも良くあるのだと伺います。

小松:
小中学生の競技人口も増えているそうですね。

松下:
はい、年齢や性別、競技レベルを問わず卓球のチームが増え、裾野が広がってきているのはとてもありがたいことです。
“Tリーグ”の理念は「世界ナンバーワンのリーグを目指す」ですが、この「ナンバーワン」には色々な意味が含まれています。

小松:
実力が世界一、という意味だけではないのですね。

松下:
はい、実力はもちろん、「強い選手を育成できる仕組みが世界一」だったり、「会場のエンターテインメント性が世界一」など、様々な部分で「世界一の卓球リーグ」を目指しています。また、日本の社会をこのリーグを通じて明るく元気にしたいという思いも持っています。プロの試合を観戦していただくのはもちろんですが、それに加えてご自身で卓球をプレーしていただくことで、日本人の健康増進にも寄与していくという、新しい形のリーグを目指しています。ただ応援し、支えていただくのではなく、トップレベルの試合を観戦し、自分でも体験して、心身ともに健康になっていただけるようなリーグにしたいと考えています。

東:
卓球というスポーツを通じて、日本を幸せにすることが“Tリーグ”の目指すところなんですね。

 失敗を恐れず、やりたいことに挑戦する

小松:
松下さんは卓球を軸にして、自らのやりたいことをどんどん実現なさってきました。時には身の丈を超えた資金が必要なこともあったと思いますが、単にお金のために頭を下げるのではなく、「松下さんの夢に乗りたい!」と感じ、応援してくれる方々を募ってきたという印象がありますが、いかがでしょうか?

松下:
おっしゃるとおりです。お金はもちろん大切ですが、自らの信念を応援してくれる方々がいて、その事業で社会に貢献できるようになれば、後からついてくるものだと思っていますし、信念に共感していただけていないのにお金だけを出してもらっても、お互いにとってメリットが無いと考えています。

東:
お金にファースト・プライオリティーをおいていれば、VICTASの代表を退任して“Tリーグ”のチェアマンには就任しないですよね。

松下:
確かにそうかも知れません(笑)よく「日本で卓球のプロリーグをつくるなんてものすごい挑戦ですね。失敗したらどうするんですか?」と聞かれるのですが、私は全く失敗を恐れていないんです。日本は豊かな国ですから、一度や二度失敗しても死んでしまうことはありません。せいぜいこれまでに買えていたものが買えなくなったりするくらいで、収入に見合った生活レベルに落とせば十分暮らしていけるんです。ですから、自分のやりたいように挑戦すればいいと思います。もし、失敗したとしても一生懸命やっていれば絶対に自分が生きていったり、家族を食べさせていくことくらいは出来ますから。

東:
今の生活レベルから落ちたらどうしようと不安に考え、やりたいことに挑戦出来ない人も多いと思います。以前に松下さんと対談させていただいたことがあるのですが、前日に仕事でトラブルがあり、不安な気持ちを吐露した際に「大丈夫だよ、死にはしないから。何とかなるから終わったことは気にせずに前を向いてやるしかないよ」と言われて、とても救われました。

小松:
失敗を恐れずに挑戦を続けてきた松下さんの言葉だからこそ、胸に響いたのでしょうね。

 2020年・東京オリンピックでさらなる飛躍を

小松:
2016年のリオデジャネイロオリンピックでは、水谷隼選手が男子シングルスで日本人初のメダルを獲得なさいましたが、どういうお気持ちでしたか?

松下:
それはもう嬉しかったですよね。あんなに天才的な選手がオリンピックでメダルを獲れないのはおかしいとずっと思っていましたから。

東:
そして来年、2020年は東京でオリンピックが開催されます。卓球は男女ともに多くのメダルが期待されていますし、世間に競技と選手をPR出来る千載一遇の機会になりますね。

松下:
そうですね。多くの選手に活躍してもらい、その盛り上がりを“Tリーグ”にもつなげていきたいですね。

小松:
改めて、現在の松下さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、Tリーグのチェアマンが「B」、チームマツシタの代表は「C」、解説者などのメディア出演は「D」とそれぞれの領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
これまでの選手としての経験や、マネジメント事業、用品メーカーの代表、トップリーグのチェアマンという経歴を活かして、将来はスポーツ庁の要職など、卓球という枠を超えてスポーツ全体を発展させるためのお仕事に就いていただきたいとも思いますね。

小松:
そして、日本全体を発展させるお仕事にも!

東:
それでは、最後に“卓球”という競技名を使わずに自己紹介をしていただけますか?

松下:
そうですね、いつも夢に向かって一生懸命やらせていただいている、社会に生かされた人間です。

東:
松下さんのお話を伺うと、いつも元気とやる気がみなぎります。
僕もハンドボールのプロリーグを立ち上げられるような人間になるために精進致します!

小松:
本日は大変お忙しいところ貴重なお時間をありがとうございました。

松下:
こちらこそありがとうございました。
(おわり)

次回は、ホッケー日本代表・小野真由美選手です。5月6日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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