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松下浩二 / Matushita Koji   元卓球選手|現在:

「本当にやりたいこと」を意識して生きる 元卓球日本代表・Tリーグチェアマン・松下浩二(中編)

Profile

 

松下浩二(まつした・こうじ)
1967年8月28日生まれ(51歳)、愛知県出身。愛知県桜丘高等学校―明治大学卒業後、90年協和発酵、93年日産自動車、95年グランプリ、97年ミキハウスを経て、05年から再びグランプリ所属。93年日本人初のプロ卓球選手となる。スウェーデン、ドイツ、フランスの欧州3大リーグを経験後、02年中国リーグに初参戦した。4大会連続五輪日本代表(1992年~2004年)。07年、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科修士課程取得。ヤマト卓球株式会社代表取締役社長(2009年~2017年)。株式会社VICTAS取締役会長(2017年~2018年6月)。現在、一般社団法人Tリーグチェアマン。

東:
元卓球日本代表・松下浩二さんへのインタビュー、中編の今回はトップアスリートとしてどのようなご経験をなさってきたのかについて伺ってまいります。

小松:
松下さんが初めて卓球に出会ったのはいつでしょうか?

 卓球との出会い

松下:
小学3年生の時です。中学生の兄が卓球部で、部活が終わって帰宅した後にも近所の卓球場で練習していまして。両親が送り迎えする際に僕も一緒についていって、兄の練習中に父や双子の弟と遊び半分で始めたのをきっかけに、徐々にのめり込んでいきました。

東:
のめり込んだ理由は何だったのでしょう?

松下:
単純に面白かったのと、子どもながらに自分に向いていると思いましたね。ボールの威力はまだまだ弱かったですが、長くラリーを続けることが出来ましたし、卓球場に来ていた大人を見ていても自分の方が強いんじゃないかなって思っていました。自分で言うのも何なのですが、始めた頃からセンスがありましたね(笑)

小松:
大人でも子どもでも自分の得意なこと、上手く出来ることは楽しいですものね。

東:
その後、松下さんはセンスがあるという言葉を証明するかのように小学生時代に豊橋市内の大会で優勝。中学、高校ではシングルスで全国大会の決勝戦に進出するなど大活躍なさいますが、何故これほどの好成績を残すことが出来たのでしょうか?

松下:
家の近所にあった桜丘高校がたまたま卓球の強豪校で、兄が入部したことをきっかけに監督に誘っていただき、小学生の頃から毎日のように高校生と一緒に練習させていただいたのが大きかったです。

小松:
年上の強豪選手たちと毎日練習出来る環境が、飛躍的に実力を伸ばすことにつながったのですね。桜丘高校での練習では、生涯のライバルであり後のパートナーでもある同級生・渋谷浩選手との出会いもあったそうですが。

松下:
はい、彼はお姉さんが桜丘高校だった関係で時々練習に参加していたのですが、何度対戦しても全然勝てなくて。同世代でこんなに強い選手がいるのかと驚きました。

東:
渋谷さんのご両親はどちらも卓球の全日本チャンピオンで、まさにサラブレッドなのだそうですね。

松下:
そうなんです。彼は小学1年生から卓球を始めたのですが、小学6年生の時に父親が明治大学の監督に就任した関係で、毎日大学生と練習していたのだそうです。

小松:
小学生の頃から大学生と練習なさっていたんですか!
それは強くなるわけですよね・・・

東:
渋谷さんは中学1年生から全国大会に出場し、三連覇を達成。高校時代にも2年連続で三冠に輝くなど、同世代の絶対王者として君臨していましたが、松下さんとの対戦成績はどうだったのでしょうか?

松下:
中学、高校の6年間は全国大会で彼を倒して優勝するのを目標に頑張ったのですが、四度決勝戦で対戦し、全て負けてしまいましたので、いい思い出はありません(笑)

小松:
その後、渋谷さんとはシングルスではライバルとして切磋琢磨しながらも、ダブルスではパートナーとして国内外の大会でともに戦う間柄になりましたね。

東:
松下さんと渋谷さんのペアは1996年のアトランタオリンピックで5位入賞、1997年の世界選手権では銅メダルを獲得。全日本卓球選手権における同一ペアでの優勝記録(7回)はいまだにやぶられておらず、記録にも記憶にも残る名コンビとして日本卓球界の歴史にその名を刻んでいます。

小松:
渋谷さんとは現在でも交流があるのでしょうか?

松下:
彼は現在、卓球メーカーのタマスに所属しているので試合会場で会ったりはしますが、腹はあまり割らないですね(笑)彼とは大学が同じで、日本代表でもずっと同部屋でしたから気を遣うような関係ではないのですが、お互いにライバルとして「あいつには負けたくない」という気持ちを持ち続けているように思います。

東:
選手として対戦することは無くとも、人生のライバルとしてお互いを意識し合う関係なのですね。

 文武両道の大学時代

小松:
続いて、渋谷さんともチームメイトとして過ごした明治大学時代のお話を伺います。
まずは、明治大学を選んだ理由をお教えくださいますか。

松下:
当時は明治大学が圧倒的に強く、日本代表選手のほとんどが明治大学の現役かOB選手だったことと、幼い頃から渋谷五郎監督(渋谷さんの父親)と交流があり、事あるごとに誘ってもいただいていたので、早い時期から明治大学に進もうと決めていました。

東:
明治大学ではトレーニングはもちろん、学業のほうでも大変なご苦労をなさったそうですが。

松下:
1年生の時に日本代表チームに選ばれたため、強化合宿や海外遠征で授業を休まなくてはいけないことが多くなり、単位を取得するために必死で時間をつくって授業に出席し、勉強と競技を両立させる日々が続きました。

東:
日本代表に選ばれるような学生でも全く優遇措置がなかったのですか?

松下:
学部によっては試合や遠征などで授業を欠席する際にはその旨を事前に伝えれば出席扱いになる場合もあったようですが、私が在籍していた文学部では全くもって優遇されませんでした。

小松:
まさに“文武両道”の日々を過ごされたわけですね。

松下:
そんなに格好のいいものでもないですけどね(笑)きっかけは、とある先生に大会出場のため授業を欠席するので、出席扱いにしてくださいと頼んだ際に「大学はスポーツをする場所ではなく様々なことを学ぶ場所で、この授業で学ぶことは卓球ではないので大会に出場することは出席の代わりにはならない」と言われたことです。最初は少し頭に来たのですが、よくよく考えてみるとおっしゃる通りだなと。それからは卓球部に所属していることも日本代表として活動していることも一切伝えることなく、通常通りに勉強で単位を取るために授業に出席しながら、卓球で学生日本一や日本代表として国際大会で活躍することを目指すという学生生活を過ごしました。

東:
確かにおっしゃるとおりではありますが、日本の大学における体育会はそのような考えを元に練習時間や大会日程が設計されているわけではありませんので、口で言うのは簡単ですが、かなり大変だったのではないでしょうか?

松下:
必死でしたよね。明治大学でのトレーニングは夕方六時から九時まで三鷹で実施していたのですが、キャンパスは永福町と御茶ノ水に分かれていて、大会出場や海外遠征の関係で出席が不足したり、試験を受けさせてもらえなかったりで単位を落としてしまうと、あちこち移動しなければならず、授業に出席するために練習に参加出来ない日も増えてしまいした。

小松:
他の卓球部員の方々も同じような学生生活を送っていらっしゃったのでしょうか?

松下:
私の同期は8名だったのですが、全国大会で優秀な成績を残していた渋谷さんと私の双子の弟以外の6名のうち4名が私と同じ文学部に在籍し、同じような生活を送っていました。その中にはTリーグに所属する“T.T彩たま”の柏原哲郎社長や増毛製品やウィッグ、ヘアケア製品を製造販売大手のスヴェンソンと卓球用品メーカーのVICTASの二社を経営している兒玉義則社長、福井県で会社を経営している寺下社長がいます。

東:
松下さんを含め、錚々たる方々が揃っていらしたのですね。

松下:
日本一を目指して日々厳しいトレーニングに取り組みながら、“アンチ体育会系”とも言える文学部で単位や出席、試験など勉強のことでは誰一人頭を下げることなく戦い抜いた強者たちです(笑)

小松:
ある意味“戦友”のような関係ですよね。歳をいくつ重ねても薄れない絆があるのではないでしょうか。

松下:
はい、今回のTリーグの設立に際しても、チームのオーナーを引き受けてくれたり、リーグのスポンサーになってくれたりと大学の同期には本当に助けられています。

東:
そんなにご苦労なさったのであれば、大学を卒業する時にはものすごい達成感があったでしょうね。

松下:
達成感というか、二度とやりたくないと思いました(笑)3、4年生になる頃には少しは自由な時間も出来ましたが、人生の中でも最もきつい時期だったかも知れません。

 競技に命を懸ける“プロフェッショナル”

小松:
続いて、日本代表選手としてのお話を聞かせてください。松下さんが初めて日本代表として国際試合に出場したのは大学1年生時に北朝鮮で開催された平壌オープンだったそうですね。

松下:
はい、日の丸をつけて戦うことは卓球を始めた頃からの憧れだったので、とても嬉しかったですね。平壌オープンのメンバーに選ばれた時は、まだまだ日本代表候補の一人という立場だったのですが、大会で世界の中堅クラスの選手たちに勝利したことが認められ、その後、日本代表に定着することが出来るようになり、1987年にニューデリーで開催された世界選手権のメンバーに選んでいただきました。

東:
その後、1988年のソウルオリンピックから卓球がオリンピックの正式種目に選ばれると、松下さんは1992年のバルセロナからアトランタ、シドニー、アテネと四大会連続でオリンピックに出場なさいました。オリンピックの舞台から、松下さんが感じたこと、学んだことがあればお教えいただけますか?

松下:
オリンピックというイベント全体に関しては、世界最高峰のスポーツの祭典であり、参加する意義のある素晴らしい大会だと感じましたし、卓球選手としての視点では海外の選手と自分との意識の違いを感じました。

小松:
松下さんと海外の選手では何が違ったのでしょうか?

松下:
簡単に言えば、“プロ意識”です。試合へ臨む姿勢や一つひとつのプレーへの集中力を間近で見て、働きながら片手間で卓球をやっていては勝てないと感じました。

東:
卓球を仕事にしている選手と、仕事をしながら卓球をしている立場と環境の差を実感なさったのですね。

松下:
大学4年生の時に当時の卓球強豪国だったスウェーデンに一年間留学した際にも“覚悟”の違いを感じました。

小松:
スウェーデンで出会った選手からはどのような“覚悟”を感じられたのでしょうか?

松下:
プロフェッショナルとして、命を懸けて卓球に向き合う覚悟です。当時の私はどちらかといえば“文武両道”に誇りをもって卓球に取り組んでいましたから、スウェーデンで出会った選手たちが命がけで卓球に向き合っている姿を見て、本当に強くなるためには人生を懸ける覚悟が必要なのだと感じました。日本にもプロ卓球選手が活躍するプロリーグが出来るといいのになと思いましたね。

東:
Tリーグ構想の原点ですね。

 自らの強みを最も活かせる場所で戦う

小松:
明治大学をご卒業後、松下さんは協和醗酵工業(現・協和発酵キリン ※2019年5月現在)に入社し、同社の所有する実業団卓球チームへ入部なさいました。業務とトレーニングを両立させる生活はいかがだったでしょうか。

松下:
卓球部員として活動しながらも、どうせだったらトップにならなければと社長を目指して本気で仕事に取り組んでいましたが、徐々に職場の先輩や同僚との違いに気づかされまして。周りはみんな一流大学出身の非常に優秀な方々で、仕事に関するあらゆる能力が私とは全然違いました。最初は社長になる!と意気込んでいたものの、月日が経過するごとに「これは部長どころか課長にもなれないのではないか?」と自信を喪失してしまいました(笑)

東:
協和醗酵工業といえば大企業ですから。業種的にも専門的な知識を身につけることが必要とされますので、新人は特に時間をかけて覚えなければなければならないことが山積しているにも関わらず、世界で勝つことを目指した厳しいトレーニングにも取り組まなければいけないとなれば、いくら“文武両道”を目指して頑張ったとしても、流石に時間が足りないですよね・・・

松下:
仕事がうまくいかない日々に思い悩むようになるとともに、卓球でも良い成績が残せなくなってしまい・・・。今思えば、どちらも中途半端でした。仕事で社長になるにしても、卓球で世界で勝つにしても、どちらかに命がけで取り組まなければ実現出来ないなと。

東:
頂点を目指すにはどちらかに集中し、人生を懸けなければいけない、と感じたのですね。

松下:
そうですね。そこで自分の人生において強みを最も活かせるのは、自らの人生を懸けるべきなのは仕事と卓球どちらだろう?と考えに考えて、卓球を選びました。

小松:
相当お悩みになったでしょうが、決め手は何だったのでしょう?

松下:
今、決断すれば、日本人として初めてのプロ卓球選手になれるということが決め手になりました。それまで卓球のプロ選手は日本に存在していませんでしたから、第一号になれば卓球メーカーなど様々な方々が応援してくれるのではないかと。

東:
なるほど、プロ第一号とそれ以降では全く価値が異なりますからね。素晴らしいセルフブランディングですね。

小松:
松下さんは1992年のバルセロナオリンピックに出場した後、1993年に協和醗酵工業から日産自動車へ移籍。同年4月に日本人初のプロ契約を締結なさいましたが、周囲はどのような反応をなさったのでしょうか?

松下:
最初にプロ選手になりたいと伝えた時には「卓球でプロ?なにそれ?」「食べていけるわけがない。頭がおかしくなったのか?」と笑われましたね(笑)

東:
当時はそう思われても仕方がなかったのでしょうね。何せ、全く前例が無かったわけですから。

松下:
上司からは「そんなに卓球をやりたければ朝から晩までやらせてあげるよ。試合結果に関係なく給料は貰えるし、引退しても会社に残ることが出来る。こんなに恵まれた環境はないだろう?」と説得もされました。確かにおっしゃる通りでこんなにありがたい条件は無いのですが、それでは気持ちが違うんです。

小松:
気持ちが違う、とは?

松下:
勝負に懸ける気持ち、一つひとつのプレーに懸ける気持ちです。安定した立場で、勝っても負けても何不自由なく競技に集中出来る環境ではなく、勝たなければ食べていけないような崖っぷちの、逃げ場のない環境こそが、私が世界の頂点を目指すために必要だと思ったんです。

東:
まさに背水の陣。退路を断つことで、結果を出さなければ食べていけない状況に自らを追い込んだのですね。

小松:
プロへ転向して初めての全日本選手権、松下さんは見事に初優勝なさいます。

松下:
日産自動車に移籍し、プロ選手になってから八ヶ月。まさに死にもの狂い、命がけで卓球に取り組んだ結果、初めて全日本選手権で優勝することが出来て、ようやく卓球で食べていけるかもしれないという自信を持てました。

東:
スポーツでも仕事でも、人生においては何かを捨て去らなければ、決して得られないものがありますよね。

小松:
その後、松下さんは1995年に日産自動車からグランプリへ移籍すると、同年の全日本選手権で自身二度目の優勝を達成。1996年のアトランタオリンピックではシングルスでベスト16、渋谷選手とペアを組んだダブルスではベスト8に進出。1997年にはマンチェスターで開催された世界選手権の男子ダブルス(渋谷選手とのペア)で三位となり、日本勢の個人戦では十四年ぶりのメダルを獲得するなど大活躍。同年、国内での所属をミキハウスへ変更すると、日本人選手として初めて世界最高峰のドイツ・ブンデスリーガに参戦。1999−2000年シーズンにはボルシア・デュッセルドルフの一員としてヨーロッパチャンピオンズリーグで優勝するという金字塔を打ち立てると、その後もクアラルンプールでの世界選手権で男子団体の銅メダル獲得に貢献したり、日本人として初めてフランスリーグでプレーするなど、道なき道を切り拓くパイオニアとして、伝説的な競技人生を送られました。

東:
大企業の実業団選手という安定した立場を捨てて、日本卓球界史上初のプロ選手として前人未到の挑戦を続けてきた松下さんですが、選手としての実績以外にも、卓球を軸とした“経営者”としての顔もお持ちです。

小松:
次回はいかに松下さんが“トップアスリート”と“経営者”を両立させてきたのか。また“トップアスリート”から“経営者”を経て、“トップリーグのチェアマン”にキャリアをシフトなさってきたのかについてお話を伺います。
(つづく)

次回の『お金ではなく、ともに夢を見る仲間を募る』(後編)は、4月26日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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