Career shift

三阪洋行 / Misaka Hiroyuki   元車いすラグビー選手|現在:

足跡のない場所に踏み出し、道を切り拓く 元車いすラグビー日本代表・三阪洋行(後編)

Profile

 

三阪洋行(みさか・ひろゆき)
1981年大阪府出身。高校生の時にラグビー練習中の事故で頸髄を損傷し、車椅子生活となる。入院中に車いすラグビーと出会い、 わずか四年後には最年少で日本代表に選出された。2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンと 三大会連続でパラリンピックへ出場。ロンドン大会では当時の日本最高位である4位入賞を果たす。 引退後は日本代表のアシスタントコーチを務め、2016年リオデジャネイロパラリンピックでは日本初となる銅メダル獲得、2018年にオーストラリアで開催された世界選手権での初優勝に貢献。自身の経験を生かし、障害者への認識・理解を促進する活動にも取り組んでいる。著書に「壁を越える~車いすのラガーマンパラリンピックへの挑戦~」(山川出版社)

東:
元車いすラグビー日本代表・三阪洋行さんへのインタビューもいよいよ最終回となります。今回は高校三年生の時のラグビーの練習中に頸髄を損傷する事故に遭われ、車椅子生活を余儀なくされた三阪さんが車いすラグビーと出会い、周囲に甘えてしまっている自分を変えるために家族の猛反対を押し切り、単身で命をかけてニュージーランドへ四ヶ月の留学をなさったところからお話を伺ってまいります。

 「ここにいる!」を伝える大切さ

小松:
障害者である自分をサポートしてくれる周囲に甘えてしまっている自分を変えるため、誰も助けてくれない環境を求めてニュージーランドへ留学なさったわけですが、どのようなご経験でしたか?

三阪:
元々は誰にも甘えられない環境を求めて留学したのですが、振り返ってみると色々な人と出会い、助けてもらえました。ホームステイ先も語学学校も決まっていませんでしたし、チーム練習に参加させてもらえるのかすらわからない状況で、ホテルを一週間だけ予約していただけだったのですが、たまたま入ったレストランで働いていた日本人に語学学校を紹介してもらい、ホームステイ先を決めていなかったことで、たまたま空き部屋が出来た車椅子製造会社“メルローズ”のフィリップ・メルローズ社長のご自宅に住ませてもらい、所属するチーム“カンタベリー”も紹介してもらえることになりました。 

東:
どちらも事前に準備していたら出会えなかったであろう人たちですね。

三阪:
そうなんです(笑)中古車を買いにいけば、たまたま日本人ディーラーのお店で安く買えたり、様々なご縁に恵まれて一週間で生活の基盤を作ることが出来ました。

小松:
まさに奇跡。ドラマのシナリオのようですね。

三阪:
本当に奇跡的な出会いの連続でした。最初の一週間での様々な出会いがなければ、路頭に迷っていたかもしれません。

東:
早々に環境が整い、いよいよ本格的な留学生活が始まったわけですが、最初はとても苦労なさったそうですね。

三阪:
そうですね。トレーニングはついていくのがやっとで、言葉も通じず自己主張をしないので置物扱い。トレーニングが終わってからも無視され、一人になることもありました。語学学校では自分の能力よりも高いレベルのクラスに入れられてしまい、全然ついていけませんでしたし、ホームステイ先でも私以外全員英語が出来るので会話に入ることが出来ず。語学学校でも車いすラグビーのトレーニングでもホームステイ先でも一人という生活が一ヶ月続きました。

小松:
孤独な日々が一ヶ月も続いたのですね・・・

三阪:
そんなある日、体調を崩して学校を休んだ時に、ニュージーランドへ来てから随分と時間が経ったにも関わらず、何も出来ていない、何も変わっていない自分に気づいたんです。

東:
せっかく命をかけて厳しい環境に飛び込んだにも関わらず、何も変化がないと思ったんですね。

三阪:
日本を出る時に「変わってきます!」と大見得を切ったのに、四分の一が過ぎても何も変わらない自分に焦り、このまま帰国するわけにはいかない!と思い、行動を変えました。

小松:
どのような行動を取られたのでしょうか?

三阪:
まず、何がいけなかったのか自己分析をしました。結果、車いすラグビーでも、語学学校でも、ホームステイ先でも、“出来ないことを恐れて前に出ていかず、自ら孤独を選んでいる自分”に気づいたんです。

東:
死ぬ気で覚悟して来たはずなのに、出来ないことを恐れてしまっていたのですね。

三阪:
そこで、英語が話せなくて言葉が伝わらないことや車いすラグビーの実力が不足していることは覚悟の上で来ているのだから、伝えるための努力をしながらとにかく後悔しないように一生懸命やろうと気持ちを切り替えて、丸坊主にしたんです。

東:
出た! 体育会的発想(笑)

小松:
自らにも周囲にも目に見える形での変化を起こすことで気持ちを切り替えられたのですね。

三阪:
はい(笑)丸坊主になった自分の姿を鏡で見て、よし!変わった!と切り替えて、ひたすら周囲とコミュニケーションをとって、自らをアピールするようにしました。語学学校でも、車いすラグビーのトレーニングでも、身振り手振りでコミュニケーションを取って、しつこいくらいに「俺はここにいますよ!」と伝えたんです。
すると、周りが徐々に興味を持ってくれるようになって、ランチに誘ってくれたり、ディスカッションで意見を言えるようになったりしました。

東:
出来ないことを恥じて、孤独を選んでいる人の周りには人は集まってこないですが、出来ないながらも出来るようになるために頑張ろうと行動している人の周りにはその人を応援したいと思う人たちが集まってきますものね。出来ないことは問題ではなく、失敗を恐れて挑戦しないことこそが問題なんですよね。

小松:
ビジネスの場面でも同じですが、自己アピールは日本人が苦手なことの一つですね。

三阪:
おっしゃるとおりで、多くの日本人は自己主張することを苦手にしていますが、自らの存在や考えを示さなければ誰も振り向いてはくれないということを学びました。

東:
何を考えているか分からない人とは仲間になれないですものね。

三阪:
時には自分をさらけ出しすぎて、酔っ払って車椅子から転げ落ちたりもしましたが、そういう部分も含めて周囲から許容されるようになりました(笑)

小松:
自らをさらけ出すことで“仲間”になれたのですね。

東:
その後、留学を終えて日本へ帰国することになるわけですが、ニュージーランドでの四ヶ月で何が得られましたか?

三阪:
一番大きなものは“自信”です。留学する前は周囲の人から「出来ない」「無理だ」と言われていましたが、紆余曲折がありながらもやりきることが出来ました。
それまでは障害を持っている自分が嫌いで仕方なくて、自分自身の障害や考えを隠そうとしていたのですが、そんなことをしていても意味がないと考えられるようになりました。
障害や出来ないことを隠すのではなく、周りに伝え、理解してもらうことで日々生きていくことがとても楽になりましたし、もっと出来ることがある、もっと色々なことが出来るようになりたいと自分自身に期待が持てるようになり、自分を信じられるようになりました。ニュージーランドでの経験は、挑戦することって楽しいな、自分には無限の可能性があるなと感じさせてくれました。

小松:
自分を信じることが出来れば希望が持てます。自分を信じられるようになるための行動を積み重ねた素晴らしい四ヶ月だったのですね。

 「本物」に触れることの大切さ

東:
ニュージーランドから帰国後はどのような行動を?

三阪:
今後のキャリアのことを考え、実家には戻らずに関東で暮らすことにしました。

小松:
どのようなキャリアを思い描かれていたのでしょうか?

三阪:
まずは車いすラグビーの日本代表になろうと。当時のニュージーランドは車いすラグビーでも世界一で“オールブラックス”ならぬ“ウィルブラックス”という愛称で、試合前もオールブラックスと同じく「ハカ」(マオリ族の民族舞踊)を踊るんです。

東:
ウィルブラックス、かっこいい名前ですね!

三阪:
ウィルブラックスは2004年のアテネパラリンピックで金メダルを獲得するのですが、私が留学したのは2002年だったので、後に世界一になるトップ選手たちと一緒に練習出来ていたんです。当時の車いすラグビー日本代表は海外遠征を重ねられる状況ではなかったので、世界レベルの戦術やトレーニングなどの情報を持っている人はほとんどいませんでした。この強みを活かせば日本代表のメンバーの一員になれるかもしれないと思い、国内で最もトレーニング環境の整っている場所を探した結果、関東で一人暮らしをすることを選びました。

小松:
その後、三阪さんは2003年に最年少で日本代表に選出されましたが、日本代表としてのデビュー戦がウィルブラックスとの対戦だったそうですね。

三阪:
はい、日本代表に選ばれて最初の大会が千葉県で開催されたアジア・オセアニア選手権だったのですが、ウィルブラックスとの最終戦で初めてスターティングメンバーとして出場しました。

東:
ものすごいドラマですよね。
初めての代表戦、緊張しませんでしたか?

三阪:
それが全然。他のチームメイトは世界最強のウィルブラックスが目の前で「ハカ」を踊る姿に緊張しているように見えましたが、私にとってみれば何度も対戦したり一緒に練習した仲間が踊っているだけですから(笑)

東:
仲間が踊っているだけ(笑)

三阪:
チームや選手の特徴や癖も知っていたので、上手く試合で活かせるなと思ってわくわくしながら試合に臨みました。実際の試合でも自信をもって落ち着いてプレー出来たことを評価していただき、その後、日本代表に定着することが出来ました。

小松:
ニュージーランドでの留学経験のおかげで、世界最強のチームに臆すること無く戦うことが出来て、それが日本代表選手になることにつながったわけですね。

東:
リスクを恐れず踏み出した成果ですね。

 過去を振り切り、今を愛する

小松:
日本代表に定着した三阪さん、ついに夢の舞台に出場することになりますね。

三阪:
はい、2004年のアテネパラリンピックですね。

東:
パラリンピックへの出場が決まった時、どういう気持ちでしたか?

三阪:
実は、車いすラグビーに出会ってからパラリンピックへの出場が決まるまでは、怖くて健常者のラグビーを見られなかったんです。

小松:
怪我をした事故を思い出してしまうから、でしょうか?

三阪:
いえ、車いすラグビーよりも健常者のラグビーの方が面白い、やっぱり健常者のほうのラグビーをやりたいと思ってしまうのではないかという怖さがあったんです。

東:
大好きだったラグビーによって、また過去を振り返ってしまうことが怖かったのですね。

三阪:
はい。でも、日本代表選手としてパラリンピックへ出場することが決まった時に気持ちが変わりました。パラリンピック出場が決まった2003年の年末、怪我をしてから一度も行っていなかった実家から五分の場所にある花園ラグビー場へ久しぶりに行くことにしました。胸騒ぎを感じながらエレベーターに乗って、目の前に広がるグラウンドを見た時に、すごく穏やかな気持ちになって、もう大丈夫だと思いました。今の自分は健常者のラグビーをすることは出来ないけれど、車いすラグビーをプレー出来ているし、車いすラグビーを愛していることに改めて気づきました。

東:
その時の三阪さんの気持ちを考えると涙が出そうになります・・・
今回のインタビュー企画は、アスリートが現役選手というキャリアから“引退”という転機を経て、新たなキャリアへシフトした後の人生について伺っているのですが、後天的な障害をお持ちのパラアスリートの方は、健常者から障害者になられたという転機があります。これまでに出来ていたことを振り返り、出来なくなってしまったことを嘆き悲しみ悔やむのではなく、今出来ることやこれから出来るようになりたいことに目を向けて、出来ない自分を楽しみながら前向きに人生を歩んでいくことが大切だということは、アスリートのみならず全ての方々のキャリアに共通して言えるのではないでしょうか。

 2020の舞台で、表彰台の真ん中へ

小松:
アテネパラリンピックを終えた後も、三阪さんの挑戦は続きます。アテネ大会で最下位に終わった悔しさを胸に北京パラリンピックに向け、世界との実力差を埋めるためにニュージーランド・カンタベリーへ移籍。日本代表では最年少ながらキャプテンとして世界選手権へ出場し5位に。北京大会出場後にはオーストラリア・サウスオーストラリア・シャークスに移籍し、ロンドン大会で史上最高の4位という成績を残された後、選手を引退なさいました。

東:
三大会連続でパラリンピックへ出場なさったわけですが、三阪さんにとってパラリンピックとはどのような大会でしたか?

三阪:
開会式から大会運営までさすがは世界最大級のスポーツイベントだと感じました。日本では全国大会でも薄暗い体育館の中で関係者以外の観客がせいぜい二、三十人の前でプレーしていましたが、パラリンピックでは近代的なアリーナで何千人もの観客が大歓声をあげる中でプレーすることが出来ました。一度経験した後はまたあの舞台でプレーしたい、次は勝ちたい、表彰台にのぼりたい、と、より高みを目指して頑張れるようになりました。

小松:
パラリンピックという舞台が大きなモチベーションになっていたのですね。

三阪:
パラリンピックを目指してトレーニングをしていると自分が障害者であるということが頭の中から薄れていくんです。もちろん障害とは向き合いますけれど、自らの努力を披露出来る舞台があるという事実によって、ネガティブな思考を無くすことが出来ました。

東:
2012年のロンドン大会をもって現役を退いた三阪さんですが、2016年のリオデジャネイロ大会はアシスタントコーチとして車いすラグビー日本代表史上初の銅メダル獲得に貢献。2018年8月にオーストラリア・シドニーで開催された世界選手権では決勝戦で地元オーストラリアを下して初優勝し、2020年東京大会での金メダルを期待されています。

小松:
いよいよカウントダウンが始まった2020年東京大会。多くの注目が集まり、大きな期待を背負っての大会になると思いますが。

三阪:
チームの成績も上り調子で、選手たちも非常に高いモチベーションでトレーニングに取り組んでいますが、実は、私は不安しかないんです。世界選手権での初優勝や注目が集まることによる追いかけられる立場でのプレッシャー、自国開催による逆に甘える事もできる環境、内的、外的、様々な要因からどうやってチームを守り、ベストコンディションで大会に臨むかに腐心しているところです。

東:
プレーや戦術面での指導のみならず、期待や注目、慣れ親しんだ環境や声援がアドバンテージではなく、ディスアドバンテージとならないような活動もしていかなければならないということですね。

三阪:
はい。ホームゲームという状況が有利に働くか不利に働くかは表裏一体だということを選手やスタッフはもちろんファンの皆様にも理解していただき、自国開催のメリットを最大限に活かすことが出来れば、結果はついてくると思います。

小松:
2020年、車いすラグビー日本代表が表彰台の真ん中に立つことを信じています。
それでは、改めて現在の三阪さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめてみますと、バークレイズ証券でのお仕事が「C」、日本代表チームのアシスタントコーチが「A」、日本ラグビー協会の安全対策委員会などのお仕事が「B」の領域ということになりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
東京大会の後は、是非ヘッドコーチとして日本代表チームを率いてほしいですし、障害者への認識・理解を促進する活動でもますますのご活躍が期待出来ますね。

小松:
「壁を越える~車いすのラガーマンパラリンピックへの挑戦~」(山川出版社)に続く著書の執筆も楽しみです。

東:
さて、それでは最後に、車いすラグビーという言葉を使わずに自己紹介をしていただけますでしょうか。

三阪:
そうですね・・・足跡をつけてきた人間、ですかね。常に自分がどうなりたいのか、自らの価値をどうすれば高められるのかを考え、誰もやったことのないことに挑戦し続けた、未踏の地に踏み出して、足跡をつけるような人生を歩んできましたから。

小松:
三阪さんが勇気をもって踏み出し、切り拓いた道を通って、後輩たちが金メダルへの歩みを進めているのですね。

東:
2020年がますます楽しみになりました!
本日はお忙しいところありがとうございました。

三阪:
ありがとうございました。
(おわり)

次回は、元プロアメリカンフットボール選手・中村多聞さんです。5月27日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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