Career shift

中村多聞 / Nakamura Tamon   元プロアメリカンフットボール選手|現在:

コーチとして、経営者として 元プロアメリカンフットボール選手・中村多聞

Profile

 

中村多聞(なかむら・たもん)
元プロアメリカンフットボール選手。幼少期からNFLプレーヤーになることを夢見てアメリカンフットボールを始め、紆余曲折を経て、大学時代にスカウトされた三武ペガサス球団に入団し、東日本社会人2部リーグでプレーする。1993年にジュニアパールボウル敢闘賞を受賞。その後、サンスターファイニーズに移籍。1997年、NFLヨーロッパのトライアウトに合格。日本人初のRBとしてドイツのライン・ファイヤーに所属し、1998年シーズンにNFLヨーロッパ優勝を経験。同年NFLグリーンベイ・パッカーズのキャンプに召集される。帰国後は、Xリーグのアサヒ飲料チャレンジャーズでプレー。エースRBとして2000年、2001年のリーグ連覇に貢献し、2000年の西日本春季社会人選手権(グリーンボウル)、米国遠征のピッグスキンインターナショナル、社会人選手権(ジャパンXボウル)、日本選手権(ライスボウル)ではいずれも最優秀選手に選出される。河川敷、大学3部リーグからNFLまで、全てのレベルでプレーした日本でただ一人の選手。現在はハンバーガー店経営とプロコーチが生業。大学生の娘を2人持つ父親。趣味はクラフトビールイッキ呑みとMotoGP(ロードレース世界選手権)観戦。将来の夢はお金持ちになって10キロ痩せて携帯電話を解約して連続した休暇を取って旅行して毎日遊ぶことを考えてレストランで値段を見ずに注文できて電車に乗らなくて良い人間になること。子供の頃の夢はNFLのスター選手になること。と思い出しただけで腹が立つとのこと。

東:
今回は元プロアメリカンフットボール選手の中村多聞さんにお話を伺います。中村さんは1997年に日本人ランニングバックとして初めてNFLヨーロッパのトライアウトに合格。ドイツのライン・ファイヤーに所属し、1998年にはNFLヨーロッパで優勝を経験なさいました。

小松:
同じ年のシーズン終了後にはNFLのグリーンベイ・パッカーズのキャンプに召集され、帰国後は日本の社会人アメリカンフットボールリーグ「Xリーグ」のアサヒ飲料チャレンジャーズでプレーし、2000年&2001年のリーグ連覇に大きく貢献。
社会人選手権(ジャパンXボウル)、日本選手権(ライスボウル)ではいずれも最優秀選手に選出されたまさに日本を代表するアメフト界のスーパースターです。

東:
河川敷からNFLまであらゆるレベルでアメフトを経験された日本で唯一無二の選手でもありますね。

小松:
現在の中村さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、早稲田大学やノジマ相模原ライズ等のコーチが「A」の領域、西麻布の飲食店「ゴリゴリバーガー TAPROOM」の経営が「C」の領域、共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン「週刊TURNOVER」でのライターとしてのお仕事が「D」の領域と複数の領域でお仕事をなさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

 考えるより動け!を若い人に伝えたい

小松:
中村さんは、日本のアメフト黎明期を支えてこられた重要人物の一人だと思うのですが、旧知の間柄である東さんから見て、中村さんのどういった部分を最も魅力的に感じていらっしゃいますか?

東:
そうですね、数え上げればきりがありませんが、「河川敷からNFLまでを経験してきた」という中村さんの経歴が最も魅力的だと思います。僕も弱小チームからハンドボールを始めたので、レベルは中村さんにはとても及びませんがシンパシーを感じますね。それと、人間としての強さがかっこいいと思います。「ゴチャゴチャ細かいこといわんで、とりあえず動いたらええやん!」とバシッと言い切れる強さが本当に男前なんですよね。

中村:
ありがとうございます(笑)

東:
悩んでいる時間なんて無駄。そんな時間があったらとりあえず行動してみる。それで出来なかったら諦めればいいというシンプルな哲学にも惹かれます。

小松:
確かに中村さんのプロフィールを拝見すると、様々な経験をされていますが、もしダメだったら別の選択肢をすぐに選んでいらっしゃいますね。それが中村さんにとって人生の時間を無駄にしない方法だったのかもしれませんね。

東:
いちいち折れたり塞ぎ込んだりしないんですよね。そこが僕は素敵だと思います。

小松:
現在は複数のアメフトチームのコーチを務めていらっしゃるんですよね。

中村:
はい、早稲田大学とXリーグのノジマ相模原ライズ、その他不定期にクリニックを開催して所属チームに関係なく若い選手たちを指導しています。トップリーグは2019年から8チームになるのですが、ノジマ相模原ライズはその中に入っているので強豪チームではありますね。

小松:
チームでは戦術をご指導されているのでしょうか?

中村:
いえ、戦術ではなくランニングバックのポジションに特化した個人向けのテクニカルコーチを担当しています。私は全体を見るのはあまり得意ではないんです。相手の戦術を読み取って作戦を考えたり、それをチーム全体に伝えて練習や試合に活かすことよりも、どちらかといえばチームのコーチが決めた作戦を試合の時に確実に遂行できる選手を作る方が得意です。

東:
コーチはボランティアなのですか?

中村:
いえ、決して多くはないですが、一応ギャラをいただいています。日本一を目指しているチームはモチベーションが高く理解も早いですし、指導しがいがありますので、いつも楽しくやらせてもらっていますね。

 本気の奴には本気でぶつかる

小松:
指導する上でのポイントは何でしょうか?

中村:
私は「心から上達したい」と本気で願っている選手にしか指導しません。そのため、本人が本気で上達したいのかを試す期間を結構長く設けています。しばらく付き合ってみて、「本気で上手くなりたいと思うなら俺もそのつもりでいくけれど、そうじゃなければ俺もそれぐらいの力具合でいくからな」と伝えて、互いに納得した選手だけに指導しています。

東:
相手の本気度を確かめているんですね。

中村:
その通りです。選手が頑張れない時に「頑張れ」なんて言っても意味がないし、やる気を出させるのは自分の仕事ではありません。本当に日本一上手い選手になって試合で大活躍したいなら、そのマインドを築く部分は人に頼るなというのが私の考えです。

小松:
ということは、中村さんの指導はスキルに特化されているんですね。

中村:
そうですね。私は現役を退いてから10年ぐらいコーチの仕事は一切やらずに飲食業だけやっていたんですね。専門誌にコラムを書いたりはしていましたが、定期的にチームや選手を見るような指導はしていませんでした。

東:
それはなぜですか?

中村:
コーチをして欲しいという依頼は以前からあったのですが、まあ一言で言うと安売りしたくなかったんですよ(笑)私しか持っていない知識や技術というのがたくさんあるのはわかっていたので。安く売るくらいなら面倒くさいしやりたくないなと思っていたんです。周りには「俺が指導するなら1200万円が最低ライン、そっから入札や」と言っていまして(笑)それ以上払えないのなら、今はやる気がないと伝えていたんです。こちらも貴重な知識と技術を教えるので、対価はきちんと払って欲しいと思っていましたから。

小松:
確かにそうですよね。中村さんだからこそ知っている知識や技術がありますから、そこに然るべき対価を求めるのは当然です。

中村:
でも、ある時に酒巻清治さんというハンドボールの指導者(元ハンドボール男子日本代表監督)とお会いして、「なんや君、アメフト界で何もしてないのか、それはあかんど! 君みたいな経験をしてきた奴が後輩を指導せんでどないするねん!やんなさい!」との指導を受けまして。
そう言われると私も「そうですか、はい!わかりました!やります!」っていうタイプなんで(笑)

東:
意外と素直なんですね(笑)

小松:
現在はどのぐらいのペースでご指導なさっているんですか?

中村:
早稲田は毎日、相模原ライズは土日です。

東:
ということは、休みなしで毎日ご指導なさっているんですか?

中村:
休み無しというか、アメフトを指導するのは仕事と思ってないんです。ライフワークのようなものなので。

 自分がいいと思ったものしか信じない

東:
中村さんはコーチ以外にも飲食業をなさっていますよね。

中村:
昔所属していた実業団チームのクラブハウスの横にあった空き地で手弁当で作ったバー「タモンズバー1号店」から始めて、何店舗か経営しています。

東:
タモンズバー1号店のお話は面白いですよね(笑)あとで詳しく聞かせてください。

小松:
現在は六本木に飲食店を出されていますよね。

中村:
はい、2016年7月にオープンした「ゴリゴリバーガー TAPROOM」というハンバーガーとクラフトビールを中心としたお店です。自慢の「ゴリゴリバーガー」は野菜が一切入ってません。分厚い肉が3枚挟まった「ゴリゴリバーガー3×3」が人気です。

東:
ハンバーガーづくりの修行などはなさったんですか?

中村:
いや、全くしてないです(笑)細かくノウハウを学んで「どうやったら儲かるのか?」「どうしたら人気が出るか?」なんて考えちゃダメなんですよ。自分が「これは大好きや!」と心から思えるものを提供する。肉だけのハンバーガーなんてハンバーガーじゃない!と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも私は素人なので、既成概念をぶち壊すつもりでやっています。“自分が食べて美味しいものをつくる”、これに徹底的にこだわりました。

東:
お店にはよく顔を出されるのですか?

中村:
現在はお店に立って実際に接客するというよりは裏方の仕事を担当したり、お店で開催されるミーティングや友人との飲み会に出席している感じです。スタッフのみんなが本当に一生懸命やってくれているので、感謝しています。

小松:
もともと飲食業に興味があったのですか?

中村:
プロ選手としてアメリカやヨーロッパでプレーしていた時から将来は飲食業をやりたいなと思っていたので、日本と海外を行き来しながら現役中に友人と一緒にお店を作ったんです。最初は1998年頃に大阪で開いたスポーツバーでした。当時はスポーツの映像を流しながら酒を飲むというスタイルのお店は日本にほとんどなく、“スポーツバー”という概念そのものが珍しかったと思います。

小松:
確かに昔はなかったですね。

中村:
その後、2007年に現役を引退するのですが、そのタイミングで東京・六本木にも鉄板焼きのお店を出しました。そのお店を運営しながら思いついたのが、今のハンバーガー店です。大阪店で試行錯誤し、お客さんの反応がよかったレシピを主軸として、鉄板焼き店を改造してハンバーガー店にしたんです。

東:
なるほど。コーチ業に飲食店経営。多方面で活躍される中村さんですが、アメフトとの出会いのお話から聞かせてください。

東:
アメフトとの出会いからお話を伺ってまいります。

小松:
小学生の頃のアメフトとの出会い、中学校での恩師との出会いから社会人チームに入団するまでのお話を中心に様々なお話を伺います。

 厳しいのが当たり前、と思っていた少年時代

中村:
私、実は一人っ子で早生まれでA型というヘタレの典型的なパターンなんです(笑)
弱くならないように厳しく育てたと親は言ってますけどね。

東:
全然ヘタレの面影はありませんけどね(笑)

小松:
ご両親は何かスポーツをなさっていたのですか?

中村:
父は水泳の選手でした。

小松:
それで幼い頃にスイミングクラブに通っていたのですね。

中村:
はい、細かい記憶はないのですが、二歳からスイミングクラブに通っていたようです。

小松:
お父様が水泳をなさっていて、ご自身も習っていたのに水泳選手の道を考えなかったのは何故なのでしょう?

中村:
やる気はあったのですが、身体が硬くて向いてないなと。肩が硬いと種目が背泳ぎとクロールに限定されてしまうんですが、この二種目は手足が長くないとトップレベルでは勝負出来ないので、水泳で上にいくのは厳しいという現実を突きつけられたんですよね。

東:
なるほど、トップレベルで勝負出来ないから、別の道を志したと。他にも小学生では珍しい水球にも取り組まれていましたよね。

中村:
はい、私の通っていた大阪府堺にある浜寺水練学校というスイミングスクールの水球部で小学校三年生の頃からやっていました。確かに小学生で水球をするのは珍しいかも知れませんが、ジュニアオリンピックの大会もあって、私は主力選手ではありませんでしたが、5年生では全国3位、6年生では優勝して日本一になりました。

東:
凄いですね!

小松:
水球部のトレーニングはとても厳しいものだったそうですが。

中村:
水球でボールをコントロールしながら移動することを「ドリブル」と呼びますが、顔を上げたままクロールするんです。厳しい時にはこれを全力で1万メートル、つまり50メートルプールを100往復するんです。120秒で1往復の1インターバルで三時間以上やるんですよ。

東:
小学生の頃に1万メートル泳いでいたのですか!

小松:
そんなに厳しい練習の日々が続いていて、ゲームをやったり漫画を読んだり、友達と遊びたいという気持ちにならなかったのでしょうか?

中村:
もちろん遊びたい気持ちもありましたけど、「スポーツとはそういうもんや」と思っていました。学校だって好きなことや楽しいことばかりじゃないですけど、行かなきゃいけないと思っていましたし。勉強なんて本来は鬱陶しいものですが、でもそれを拒否する権利なんて私の子どものころはなかったんですよ。嫌だな、辛いなぁ、と思いながらも学校や練習には休まずに行っていましたね。

 アメフトとアメリカに出会って

小松:
小学生の頃は水球に取り組んでいた中村さんですが、アメリカンフットボールとの出会いはいつ頃だったのでしょうか?

中村:
小学校4年生の時に「フットボール鷹」という漫画を読んで、その中に出てくるキャラクターのカッコよさに感激したんです。それで「アメフトってかっこいいスポーツだな」と思ったのがきっかけですね。その前にもテレビでNFLの映像が流れていたのを見ていたので、アメフトという競技の存在は知っていたのですが。

東:
NFLがテレビで放送されていたんですか?

中村:
放送してましたね。とにかく衝撃的な映像でした。O・J・シンプソン、テリー・ブラッドショー、ジョー・ネイマスというものすごい選手がいて、中でもクォーターバックのジョー・ネイマスが金髪で葉巻をくわえて、高そうな毛皮を着てきれいなお姉ちゃんと一緒にオープンカーに乗っている映像に惹きつけられました。

東:
そこですか(笑)しかし、色々な意味ですごい時代ですね(笑)

中村:
当時の日本では、たとえばプロ野球なら畳の部屋で王貞治さんが刀を振って紙を切るみたいな映像が流れていましたからね。私は「野球よりもアメフトだわ」って思っていました。
当時の私はアメリカに対する強い憧れがありました。小学校3年生の頃、「ポパイ」という雑誌があって、その雑誌にはアメリカのおもちゃの最新事情とかファッションが載ってて、子どもには刺激が強すぎるぐらいの、むちゃくちゃカッコイイ情報がたくさん掲載されていたんです。当時、「ポパイ」は確か隔週で刊行されてたんですけど、親に頼んで定期購読していたんです。

小松:
アメリカ文化と出会ったきっかけは何だったのでしょうか?

中村:
近所に6つ年上の兄貴分のような存在の人がいたんです。彼も私と同じ一人っ子で、どこかでアメリカンフットボールという存在を知ったんでしょうね。ある日突然「フットボールを買いに行くぞ!」って連れていかれて。スポーツ用品店を何軒も回ったのですが、当時アメフトのボールなんて店舗に置いていませんでしたから、注文したんです。一週間ほどしたらボールが届いて、キャッチボールをやったんです。

東:
アメフトのボールでキャッチボールをするのって、難しくないですか?

中村:
もちろん最初は全然うまく投げられないですよ(笑)でも、やっているうちに徐々にコツをつかんで投げられるようになって、そうすると私も自分のボールが欲しくなって、淀屋橋のミズノの本店に行ったら売ってたんですよ、NFLのボールが。それで購入してまたハマリましたね。

小松:
ここに中村さんが、当時綴った作文がありますので、ちょっと引用させてください。
「ぼくは、将来、アメリカン・プロ・フットボーラーになりたいと思っている。けれども、野球とちがって アメリカン・フットボールを、みんな、あまり知らない。ぼくも、パスとか やろうと思っても、相手がいないから、ぜんぜんできない。京都の小学校では、アメリカン・フットボールクラブがある。そんな小学校はいいな。野球のチームみたいに、フットボールのチームが、この学校にあればいいのにな。そして、今はできないけど、高校になるとアメリカン・フットボールクラブに入って正選手になって、インターハイに出場して、大学では甲子園ボウルに出場したいと思う。これは、思っていることだから、できないかもしれないし、できるかもしれないことだ」

東:
これはいつの作文ですか?

中村:
たしか小学校の卒業文集ですね。

小松:
小学校の時にアメフトはプレーなさっていたのですか?

中村:
本格的にはやっていません。ただ、関西フットボール協会(西日本アメリカンフットボール協会副会長)の古川明さんという方がいて、西宮球技場で開催されていた社会人の試合と試合の合間に“少年少女アメリカンフットボールスクール”というのを開催していたんです。その模様が新聞に掲載されていて。それを私の母親が見つけて、そこで体験したのが最初です。確か小学校4、5年生の頃でした。

東:
生まれて初めてのアメフト体験はいかがでしたか?

中村:
いいなぁ、こういうスポーツがしたいなと思いました。

小松:
その後、中村さんはアメフトの名門校である関西学院中学への進学を目指しますね。

中村:
はい、当時から関西学院といえばアメフトで有名でしたから、どうしても行きたかったんです。さっきお話した小学生向けのスクールを開催していた古川さんも関西学院出身ですし、関学の試合はその頃からしょっちゅう観に行っていました。親に聞いても「最高の大学やで、一番有名だし、かっこいいし、頭もいいし。関学行くんやったら学費おごったるわ」みたいに言われていました(笑)結果として関学には進めなかったんですけどね。

 恩師との出会い

東:
第一希望である関西学院ではなく清教学園に進学したことで、中村さんの恩師である板橋先生との運命的な出会いがあったわけですから、人生は面白いですよね。清教学園にはアメフト部はあったのですか?

中村:
いや、ありませんでした。なので、とりあえずサッカー部に入りました。

小松:
板橋先生は、大阪体育大学でアメフトをなさっていたのですよね。でも、中村さんはそのことは知る由もない。どういう展開があったのですか?

中村:
当時の板橋先生は新任で、私は中学一年です。お互い知らない者どうしだったんですが、ある日板橋先生が体育館で一人で黄昏ていたんです。その時の板橋先生は大阪体育大学アメフト部のジャージを着ていたんです。背中に「51」って書いてあったんですよ。それで私は「大阪体育大学の副キャプテンで、一番小っちゃいセンターやんけ」って先生に言ったんですよ。先生は驚いて「なんやお前俺のこと知ってんのか?」って言うから、「知ってるわ、俺はメンバー表全部見とるからな」って伝えたんです。

東:
漫画みたいな展開ですね!

中村:
当時の私はまだまだ子どもでしたから敬語も使えていない状態で、タメ口で「今ボール持ってる? 車にある? 取ってきてや! キャッチボールしようや」って話しかけて(笑)
それから1ヶ月位経った時に「俺NFLに行きたいんやけど、アメフト教えてや」って先生にお願いして、それからことある毎に職員室に会いに行っていました。

小松:
新入生と新任教員、当時の板橋先生は22、3歳ぐらいですよね。

中村:
はい、そのぐらいです。それで、先生とキャッチボールをやっていたんですが、休み時間にしか出来ないんですよね。それも、学校に何も言わないでやっていたら、問題になりそうになったので、「ほな先生の家に連れて帰って教えてや」って言ったんです。

東:
なるほど・・・サッカー部に入部したのはなぜですか?

中村:
サッカーはキックの練習になるかなと思って。将来、NFLに行くときにランニングバックでダメだったら最悪キッカーで!と考えていたんです。
板橋先生は実家住まいだったんですが、よく練習しに行って、泊まらせてもらって朝も練習したりしてました。

東:
どのようなことを教わっていたのでしょうか?

中村:
板橋先生はセンターだったんですが、センターというポジションでのテクニックも学びました。だから本当はセンターのポジションもできたんですが、現役時代に「できる」ことは黙っていました、自分の役割が増えてしまうので。

小松:
先生からは具体的にパスの投げ方とか、そういうスキルを学んだのですか?

中村:
いや、テクニックは学びませんでした。もっと基礎的な、体を鍛えることとか、フットボールに対する心がけなどを学びました。テクニックは後からいくらでも身につきますからね。
例えば仰向けになって首だけ持ち上げてテレビ1時間見ろ、とか言われていました(笑)。普通の人なら3分ぐらいしかできないんですよ。今の学生にもこの練習は取り入れています。あとはとにかく食べろと指導されました。体を大きくすることがマストだと。
それと、私の通っていた学校は真面目な生徒が多い学校だったので、態度の悪い私はすぐ職員会議でネタになってたみたいで、先生が教えてくれました。「また今日も職員会議でお前の話になってたぞ」って言うんですよ。中高一貫だけど、高校からアメフト部のある高校に行った方がいいとも言われましたが、先生には「フットボールなんて身体を鍛えておいたら、後から色々できるから、とりあえず今は物事の分別を学んどけ」と言われて、そっちの指導を受けていました。
板橋先生には色々お世話になったんですが、去年亡くなってしまったんですよね。

小松:
そうでしたか。

中村:
厳しい先生でしたけど、色々なことを学びました。鬱陶しいことも、しんどいことも「はい!」って言って受け入れる練習をしたりしました。少しでも反論する態度をすると「それは負けてる奴の意見や」と言われて、人間の弱い部分、甘えてしまう部分を徹底的に鍛えられました。

 悪いことも本気でやった

小松:
恩師に出会った中学時代から高校時代へ。高校ではどのような生活を送られていたのですか。

中村:
高校2年位からバイクに乗って遊びまわる生活を送っていました。私はアメフトが好きなのと同時に、アメリカのバイク文化にすごく憧れていて、小さな頃から大きくなったら「チョッパー」に乗ろうと決めてたんですよ。それで高校1年から親にローンを組んでもらって、それを返済するためにずっとバイトをしていました。スーパーの検品係とか、スイミングの先生をやってお金を稼いでいましたね。

東:
学校はバイク禁止だったのではないですか?

中村:
もちろん禁止でしたよ。近所の自動車教習所は先生が張り込んでいる日があると聞いていたので、見つからないようにわざわざ滋賀県の教習所まで行って中型免許を取得しました。

小松:
中村さんは、これを目指すと決めたら一直線なんですね。アメフトであれバイクであれ。そのために手段を講じて、諦めない。

東:
高校時代はアメフトよりもバイクを選びましたが、まだアメフトへの夢は諦めていなかったんですよね。それで大学進学を目指すわけですが、そこでは名門の関西学院を目指したのでしょうか?

中村:
いやいや、全然私は関学に行けるほどの成績じゃなかったですから、大阪経済法科大学という大学に進学したんです。

 弱小チームでの経験

小松:
その大学はフットボールは?

中村:
全然有名ではなかったですし、弱小チームです。一応部室はあったんですが、部員もほとんどいませんでした。アメフトって何十人でやるスポーツなんですが、練習を見学しに行っても2人しかいなかったり。

東:
アメフト部には入部したんですか?

中村:
いや、見学に行った際に「その人数やったらあかんな、人数揃ったらまた呼べや」って言って(笑)その後、大学2年の終わり頃に正式に入部しました。

小松:
その間は何をされてたんですか?

中村:
特に何にもしてなかったんですね。学校も行かずに水商売のバイトをしてました。マスターがバーテンやってるの見て、カクテルの作り方を覚えたりして。

東:
その後、アメフトはどうしたんですか?

中村:
メンバーを無理やり集めたんですよ。入学式の時に勧誘して、強制的に名前書かせたら、800人位集まったんですよ(笑)。最後まで残ったのは20人でしたけど、それで3部リーグに加盟したんです。

小松:
試合はどうだったんですか。

中村:
当然全敗です、というか、試合にすらならなかったですね。5試合でタッチダウンがたった2本。1本は私で、相手に取られた得点の合計が300点でしたからね。ゲームとして成立しませんでした。1試合あたり60点取られた計算になりますね(笑)。その後、私が4年生になってから特別推薦枠が増えて、アメフト経験者が2人入ったんですよ。少しチームらしくはなったのですが、それでも全敗でした。それでも7対0とか、24対22というゲームっぽい負け方になったので、少しは実力がつきはじめたのかなと。

東:
決して強いチームとは言えない環境で中村さんはアメフトをなさっていたわけですが、そこからどう這い上がっていったんですか?

 絶対に手を抜くな

中村:
4年生の秋、シーズン終了後に、第一回ジュニアオールスターズが開催されることになったんですよ。私は3部の選抜で選ばれたんですが、2部のメンバーと一緒に紅白戦と言うか練習試合みたいな形式で練習するんです。これはチャンスだと思って、どうやったら目立つかを板橋先生に相談しに行ったんですよ。

小松:
恩師はなんとおっしゃったんですか。

中村:
「ええか、おまえのことなんか、だーれも知らんねんから、メチャクチャやったれ。練習の時は半分の力でとか言われても、全力でバッチバチにいったれ。ほんなら向こうもやりかえしてきよるやろうけど、それでもまたぶっ倒しまくっとけ。どんな時でも誰に何を言われても絶対に手を抜くな。それしか目立つ方法はない」って言われたんです。
それで、その教えを守って全力でプレーしてたら、視察に来ていた社会人チーム・三武ペガサスのメンバーの目にとまって、チームのキャプテンだった楢崎五郎さんから声をかけられて「一緒に日本一になろう!」と言われて、その場で三武ペガサスの入団が決まったんです。

東:
楢崎五郎さんは、中村さんにとってどんな存在だったんですか?

中村:
テレビに出てていたアメフトのスター選手ですから、会えるだけで「うおー!本物や!」という感じです。そんな楢崎さんに、ウチならいくらでも練習できるし、寮の中にトレーニング室もあるし、もちろん寮に入れるからお金のことも心配しなくていいから大丈夫だよ、と言ってもらえたんですよ。

東:
三武ペガサスの本拠地は東京ですよね。それには抵抗なかったんですか?

中村:
全然ないです。抵抗どころか、逆にありがたかったですよ。就職活動にかけた期間は、1日ですからね(笑)。

 プロのすごさを知りアメリカへ

東:
中村さんはそれまでチームに恵まれなかったかもしれませんが、個人としてはとても高い能力をお持ちだったんですよね。三武ペガサスに入ってすぐレギュラーになったのではないですか?

中村:
まさか。プロは全く次元が違うんですよ。大学卒業する前に、1週間ほど三武ペガサスの練習を体験しにいったんですよ。そうしたら、フィールドを駆けるスピード、プレーの精度、ヒットの力強さ、筋肉の量、何から何まで別次元で、「これは無理だ」と思いました。反応力、つまり止まっているところからパッと動くその瞬発力も、大学時代とは次元が全く違いました。
一緒に体験についてきていた当時の大学のキャプテンも「これは無理やぞ。こんなところでできるのか? お前」って言うんで、「こりゃあかん」と思っていました。

小松:
それでも大学を卒業してすぐに三武ペガサスへ?

中村:
いや、それがですね、実は三武ペガサスの実力を知って、これはもう1年身体を鍛えないと使い物にならないなと思って、アメリカにトレーニング留学したんです。

小松:
アメリカでアメフトの武者修行をされたんですね。

中村:
実はもう一つ、大学の単位を取れなかったので卒業できなかったという理由もあるんですけどね(笑)。あの当時自分は、身体を鍛えることにとても興味があったんです。なので当時はまだ日本に進出してなかったGOLD’S GYMがアメリカにあることを知ってて、アメリカに行って、入会してひたすら毎日トレーニングして、プロテイン飲んで、「強い身体」を作っていました。

小松:
身体を鍛える時には、どなたかに指導していただいていたのですか?

中村:
いや、独学です。知識はありましたから。アメリカのジムはやっぱり日本と全然違うんですよね。毎日世界トップクラスのボディビルダー達を見ながらトレーニングしてましたから、俄然やる気が出ました(笑)。
アメリカにいた頃は、体も鍛えてましたけど、住んでた近くにあった大学の図書館で、英和辞典をフル活用して、競技に関係しそうな本を片っ端から読んでました。戦術や運動指導、生理学、アメフトの歴史とか選手やコーチの自叙伝などを読んでました。

東:
地元にあったNFLのチーム練習も見学されたりしたんですよね。

中村:
はい、タンパベイに滞在していたのですが、地元のバッカニアーズの練習に行って毎日見学してました。練習終わりにグラウンドに入れさせてもらったりもしました。「モースト フェイマス ジャパニーズ プレイヤー!」とかうそこいて(笑)。

小松:
アメリカで得たものは大きかったのではないですか。

中村:
そうですね。一つ大きなことを学んだのは、アメリカ人や外国人って仕事も遊びも本気なんですよ。ボウリングみたいな遊びでも、とても真剣に向き合うなと感じました。だから私も日本に帰ったら、練習も遊びも全て真剣にやろうと思いましたね。

小松:
何事にも真剣になる、というのは、勝負に勝てるメンタルの一つの要素ですよね。

中村:
普通「オンとオフを切り替える」って言いますよね。でもオンとオフを切り替えられない人は、常にオンでいいんだなということを学んで、私もそうしようと思いました(笑)。私の場合、オンとオフのスイッチを入れてから行動を起こすのが難しいんですよ。だから年中オンでいようと決めました。

東:
アメリカでの経験を武器に、ついに中村さんは三武ペガサスへ入部します。社会人、プロでの大活躍のお話を、聞かせてください。

中村:
宜しくお願い致します。

東:
社会人2部リーグの補欠選手から本場アメリカのNFLトップチームのキャンプに参加し、日本一のチームでMVPに輝くまでのアメフト選手としてのご活躍と、後に飲食店を経営するに至る原点となった出来事についてもお話を伺ってまいります。

 飲食店経営に目覚める

小松:
社会人チームのフィジカルについていくためのアメリカ修行から帰国された後、三武ペガサスに入った中村さんですが、どのような生活を送られていたのでしょうか?

中村:
入りたての頃はまだまだ下手くそだったんで、毎日夢中で練習してました。

東:
三武ペガサスというのはいわゆる実業団チームですよね。 当時の収入はどのくらいだったのでしょうか?

中村:
そうですね。会社の独身寮に入っていたのですが、学生時代に買ったキャデラックと日産のブルーバード、あとバイクのローンが13万4000円だったので、毎月3000円しか残らなくてね(笑)

小松:
それで生活出来ていたのですか?

中村:
食事が寮で出るので生きてはいけるんですが、それだけではね・・・ということで、2年目のシーズンに飲み屋をはじめたんです。

小松:
え? 飲み屋、ですか? どういうことでしょう?

中村:
社会人1年目のシーズンが終わったある日のことなんですが、クラブハウスの前にあった粗大ゴミ置き場にバーで使われるような天板が捨ててあったんです。当時のクラブハウスには広めの空き地があったので、その天板を使ってバーを作ることを思いついて。

東:
普通の発想ではないですよね(笑)

中村:
ラッキーだったのは、チームの親会社の三武(ミツタケ)は建設業もやっていましたから、建設用の資材がたくさん置いてあって。これを勝手に拝借して、毎日、練習の合間の時間をつかって地面に杭を打ち込んでカウンターを設置して、ベンチシートや棚、壁と天井などをつくっていったんです。後輩達にペンキを塗ってもらったり、ホームセンターに買い物に行ったり、先輩から冷蔵庫をもらったり、近所の料亭からお皿やグラスをもらったりもして。建物が出来たらあとは先輩方の実家で余っているお酒をもらい、ビールを1ケース24缶2980円で買って、バーをオープンしたんです。さてどうなるかなと思ったら、チームメイトやたまたま通りかかった人たちがたくさん来てくださって大盛況になりまして。

小松:
それは凄いですね!何人ぐらいの店だったのですか。

中村:
最初は5、6人ぐらい入れる店でした。初日が大盛況だったので、その売上で翌日またお酒を仕入れて、また売れて、それが続いてカクテルなどのラインナップも増えていきました。ブレンダーももらったので、それでフローズンマルガリータとかを出すまでになりました(笑)

東:
食べ物はどうなさっていたのですか?

中村:
食べ物は出前のピザでした。出前を取ったら私にもピザを食べさせてくれるというのが条件で。電気はクラブハウスから延長コードで引っ張ってきて、携帯電話なんてない時代でしたから、電話は部屋のコードレスの無線が届く距離だったのでそれを使い、お客さんが電話を使う場合には貯金箱に電話代を入れてもらっていました。音楽は有線放送を契約して、部屋のステレオに繋げて、スピーカーケーブルだけ2階の部屋から伸ばしてきて音楽も流してました。

小松:
ステレオもあったんですね。

中村:
スピーカーも拾ってきた大型スピーカーですけどね(笑)。夏は暑いので、もらった壊れかけの扇風機を2台動かしてどうにかしのいでました。おかげさまで毎晩満員で、色々な人が出入りしてたんですが、空き地に人がたくさん集まって騒いでいましたから、警察が注意に来るようになって、最終的には住民からの苦情が本社にいって、店を閉じるよう言われて、やむなく閉店したんです。

東:
伝説のお店ですよね・・・実際に商売をやってみていかがでしたか?

中村:
いやぁ、面白かったですね。お金も儲かるし、東京でアメフト以外の人と新しい出会いがあったことが本当に楽しくて、貴重な経験でした。

 チームの危機

小松:
話は変わりますが、三武ペガサスで初期の頃、アメフトにはどう向き合っていたんですか?

中村:
とにかく下手くそでしたから、思いっきりやることを心がけていました。思いっきりやることの大切さは、今も現役の選手たちに伝えているんです。とにかく思いっきりやれと。なぜかというと、下手くそだとしても思いっきり暴れている人間を捕まえるのは結構大変なんです。私はペガサスに入りたての頃は、技術が追いついてませんでしたから、「今にみとけよ」と思いながらがむしゃらにやっていました。

小松:
でもそういう状態から、将来NFLに行かれるわけですものね。どのようなプランを考えていたのでしょうか。

中村:
いや、もうプランも計画もないですよ。当時の私にしてみたら、NFLに行くのなんて、月とか火星に行くぐらい関係のない話でしたから。
三武ペガサスの2年目は、2部リーグで優勝して、1部リーグとの入れ替え戦に進出することができました。対戦相手は、さくら銀行ダイノスだったのですが、僅差でやぶれてしまったんです。これがきっかけで、多くのメンバーが引退したり退団してしまったんですよ。

東:
それはチームの危機ですね。

中村:
そうなんです。その後チームは4年連続で決勝戦で敗退してしまうんです。私はそこで、このチームでは勝てないと判断して、チームを去る決断をしました。

東:
チームを離れるということは、会社も離れるということになったのでしょうか?

中村:
それが、日本選手権で活躍するという条件で会社に籍を残しながら、当時日本最強のクラブチームへの移籍を認めてくれたんです。ただそのクラブチームが、移籍するなら三武を退社することが必須条件だと言ってきたんですね。なので私は三武を退社してトライアウトを受けたのですが、結果は不合格でした。

東:
退路を断ってトライアウトを受けたのに不合格にされたのですね・・・選手としても社会人としても崖っぷちですよね。

 名門チームでの闘い

中村:
はい、そういうことがあって、関東を離れて大阪に戻ったんです。その時にサンスター・ファイニーズというチームの練習を見学する機会があったのですが、それが縁で、そのチームに入団することになりました。ただ、ファイニーズは関西学院大学、京都大学イズムが浸透したチームだったので、選手の起用方法や役割分担など、規律を理解するのが大変でしたが、コーチの考えをフィールドで発揮するというフットボールを学んで、フットボールインテリジェンスを高めることができました。

小松:
サンスターには社員として入ったんですか。

中村:
いえ、違います。アメフトは、実業団とクラブチームが同じリーグでやっていて、同一企業の社員で構成されているチームもあれば、別々の仕事をやっている社会人が集まってアメフトだけクラブチームでやっていることもあるんです。本業は先生だったり、八百屋さんをやってたりもします。

東:
サンスターでは3シーズンを過ごされますよね。どのような印象をお持ちでしたか?

中村:
関学や京大をはじめ、強豪校のOB達がたくさんいましてね、もともと地頭がいい上にフットボールの複雑で難解なメソッドを何年間も厳しい現場で習って経験している選手達ばかりですから、私みたいな人間が同じ土俵で勝負しても到底かなわないんですよ。彼らと勝負できるのって、パワー、スピード、やる気、フットボールへの愛情と、三武ペガサスで培った根性だけだったんです。

東:
どんなことを心がけたのでしょうか?

中村:
とにかくストイックな生活をこころがけました。毎日ジムに行き、昼休みはグランドで走り、夜もジム帰りにグランドで走り、空き時間はウェイトトレーニング、公園でもスピード系のトレーニング、チーム練習は絶対に休みませんでしたし、食事の質と量をコントロールして、宴会にもほとんどいかず、お酒もほとんど飲まない生活を送っていました。

小松:
アメフトは、インテリジェンスがとても求められるスポーツだと思うのですが、京大をはじめとする頭脳集団の中で、どうやってそこを埋めていったのですか。

中村:
慣れていくと埋まっていったんですね。あとはコーチ側に諦めてもらったのかもしれません「あいつはアホやけど使いたい」と思ってもらうまで努力したんです。

東:
アスリートが現役を引退して、ビジネスパーソンに移行する際に、かなわないことってあると思うんですね。自分はエクセルが使えない、ワードができない、パソコンができないという状況になった時に通常は「出来ないことを覚えていく」という発想になりますよね。でもそうではなくて、その人の強みを活かして仕事に活かすことが大切だなと思うんです。その話に近い部分がありますよね。

 世界最高峰の舞台へ

小松:
その後、中村さんは世界最高のアメリカンフットボールリーグ、NFLにチャレンジします。

中村:
最初のきっかけは日本で開催された第2回のNFLヨーロッパトライアウトです。これにチャレンジしたのですが、自分は上半身が細くて下半身が太いので、その身体をPRするために、大きめのシャツと太ももにぴったり合ったスパッツを履いて、身体がより太く見えるようにして臨んだんです。最終候補まで残ったのですが、あと一歩で落選してしまいました。
悔しくて2回目のチャレンジを狙っていたんですが、その前に所属していたサンスターで1軍として起用されるようになったり、初めてファイナル6(優勝チームを決める大会)に出場できたりしました。

東:
そして2回目のトライアウトで合格するのが、1997年のことですね。

中村:
はい、合格したのはいいのですが、この世界でチャレンジするのか、と絶望感を感じました。

小松:
それはどういうことでしょうか。

中村:
NFLヨーロッパリーグは6チームで実施し、ドラフトで選ばれた人、フリーエージェント、そして僕らのようなテスト生が最初は1チームあたり90人いますので、合計約540人という大人数のアメフト選手が1つのホテルに集まってメディカルチェックをするわけです。ムキムキの男たちが500人裸でいる中で、私みたいなペラペラの身体のアジア人なんていませんでしたから。「絶対無理やん!」って思いましたし、実際に練習でもパワーでは全然勝てませんでした。

東:
中村さんはNFLヨーロッパのライン・ファイヤー(ドイツ)に入団なさったわけですが、入ってみて印象的だったお話を聞かせてください。

中村:
まずはアトランタで開催されたキャンプに参加しました。ライン・ファイヤーは本場アメリカのNFLチームの予備軍だったのですが、フィジカルを含め実力は私よりもはるかに高い位置にありました。でもコーチの指導が上手く、私は毎日右肩上がりで実力が伸びていきました。それでもアメリカ人の壁はとても高くて、これはどんなに練習しても歯が立たないなと。現実をつきつけられたので、たとえ彼らに通用しなくても、彼らのプレーを研究して、少しでも盗むことが出来れば日本で活躍できる選手になれるかもしれないと思ったんです。

小松:
そして中村さんは、NFLヨーロッパでチャンピオンになる経験もされましたね。

中村:
はい、敵地のフランクフルトで開催されたワールドボウル(優勝決定戦)でフランクフルト・ギャラクシーを倒してNFLヨーロッパの王者になりました。日本でアメフトの観客って、多くが企業の動員だったりするのですが、ヨーロッパでは熱狂的なファンがお金を払ってスタジアムに来て、大騒ぎして応援してくれている、あの熱気に包まれたことは自分の人生でも大きな経験でした。もちろん練習の面でも、かなり高度でハードなトレーニングを日々行うことで、日本では絶対に経験できないことに触れることができたんです。

 NFLでの経験を日本のアメフトへ「輸入」する

東:
その頃、初めて日本代表にも招集されますね。

中村:
日本代表に招集していただいたのもいい体験だったのですが、その頃の私にとってより強烈な体験だったのは本場のNFLのキャンプに招集してもらったことです。当時スーパーボウルに2年連続で出場していた世界レベルの強豪チーム、グリーンベイ・パッカーズのキャンプです。
自分はヨーロッパでの体験で「結構自分っていけるかも」って思っていたんですよね。ここで目立ってのし上がったら日本人で初めてアメリカのNFLのチームと契約できるチャンスがあるかもしれない! と調子に乗っていたんです。

東:
確かにNFLヨーロッパにも強いチームや素晴らしい選手が多そうですよね。

中村:
それが、本場NFLの選手はレベルが想像をはるかに超えていたんです。

東:
レベルで言うと、日本のXリーグのトップ選手とNFLのトップ選手ではどのぐらいのレベルの差があるのですか? NFLのトップ選手が社会人だとしたら、日本代表の選手は大学生とか高校生のレベルだったのでしょうか?

中村:
いやいや、月に行くのに垂直跳びで行こうとするのとロケットで行こうとするの位のレベルの差です。社会人と高校生だったら、試合にはなりますよね。XリーグとNFLの選手では試合にすらならないと思いますよ。たとえばNFLのトップ選手に1試合100億円払うから出てくれと頼んだとしましょう。日本の当時のトップクラスの選手500人集めたとしましょう。おそらく試合終わったら、500人全員ボロボロで立てなくなっているはずです。

東:
中村さんは日本人の中でもフィジカルが強いですよね。それでもダメですか?

中村:
私のポジションだと、おそらく前半の半分も持たないと思います。私ぐらいのレベルでトップクラスのNFLでプレー出来るという考えがそもそも間違いなんですね。私はそれほど強い競争相手がいたり、ライバルに勝ち続けて強くなったわけではないですからね。色々大変なことはありましたけど、アメリカのNFLの選手とはレベルが全然違います。

小松:
グリーンベイのキャンプで現実を突きつけられた中村さんは、どういう行動を取ったのですか。

中村:
これはいくら練習しても本場の選手たちには勝てないと思ったので、パッカーズのキャンプは完全に観光に切り替えて、ビデオカメラでミーティングから練習まで全て撮影したんです。そしてその情報を日本のXリーグでいかに活かして活躍できるか、というところにフォーカスを変えたんです。

東:
そして日本に戻って来られてサンスター・ファイニーズからアサヒ飲料チャレンジャーズへ移籍なさいましたよね。そのあたりの経緯を教えてください。

中村:
その頃の私は海外での様々な経験を通じて上達していたこともあり、色々な取材で調子に乗った発言をしてしまっていて(笑)当時のコーチと揉めまして、サンスターをクビになったんです。そんな時に以前偶然に出会ったアサヒ飲料チャレンジャーズの藤田ヘッドコーチとのご縁で、入団させてもらえることになったんです。

東:
そこからアサヒ飲料の快進撃がはじまりますね。エースRBとして2000年と2001年のリーグ連覇に貢献なさって、2000年にはグリーンボウル、ジャパンXボウル、そしてライスボウルで最優秀選手に選ばれました。

中村:
だいぶ下方修正しましたけど(笑)、これでやっと目標が達成できた、という気持ちでしたね。色々なチームでプレーさせてもらいましたけど、今でも仲良くしている昔のチームメイトもいますし、皆が私のことを頼りにしてくれて信用してくれていたのが頑張るためのエネルギーになっていましたね。

小松:
アサヒ飲料でプレーしながら、中村さんは大阪に飲食店を開かれるんですよね。

中村:
そうなんです。大学の同期で、起業をして成功した友達がいるんですが、彼に出資してもらって、共同経営で大阪の梅田駅から遠く離れた雑居ビルの5階にスナックの居抜き物件があり、キャパシティーは12人ぐらいのカウンターだけの店だったんですが、そこに「タモンズバー大阪」を開店したんです。

東:
中村さんの現役引退は2006年ですから、それより前に飲食業をやられてたんですね。

中村:
はい、現在は東京の1店舗のみでやってます。

小松:
本当に中村さんは、コーチ業と飲食業で日々ご活躍されていて、身体が1つでは足りませんね。これからのご活躍も期待しています。

中村:
ありがとうございます。

東:
それでは、改めて現在の中村さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、早稲田大学やノジマ相模原ライズ等のコーチが「A」の領域、西麻布の飲食店「ゴリゴリバーガー TAPROOM」の経営が「C」の領域、共同通信社が運営するアメリカンフットボール専門のウェブマガジン「週刊TURNOVER」でのライターとしてのお仕事が「D」の領域と複数の領域でお仕事をなさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

小松:
今後は更にコーチとしてのお仕事を極められるのか、全く別の新たなお仕事をなさるのか。様々な領域でご活躍が期待されますね。

東:
さて、最後にみなさんにお願いをしている質問をさせていただきます。
アメリカンフットボールという競技の名前を使わないで自己紹介をしてください。

中村:
ただのアホです(笑)というのは冗談で、何でしょうね。
今はフットボールのコーチしかしてませんからね。コーチですかね。

小松:
フットボールはもちろん、人生のコーチですね。
本日は最後まで楽しいお話をありがとうございました。

中村:
ありがとうございました!
(おわり)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

小冊子ダウンロード

タグ:, , , , , , , , , , ,

RANKING

FACEBOOK

TWITTER

INSTAGRAM

小冊子ダウンロード

就活・取材に関するお問い合わせは、
お気軽にご相談ください。

ご連絡いただいた個人情報は、
お問い合わせの回答以外には一切利用いたしません。

お電話でのお問い合わせ

TEL.03-5738-8013

TEL.03-5738-8013

受付時間 平日10:00-17:00

『アスリート・ライブ』運営会社

株式会社アーシャルデザイン www.a-cial.com
TEL:03-5738-8013 FAX:03-5738-8015
電話受付時間 9:00-19:00(土・日・祝日除く)

CONTACT FORM項目は全て必須入力でお願いします。

お名前
お電話番号
メールアドレス
ご用件
メッセージ本文

プライバシーポリシーに同意する。