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中村多聞 / Nakamura Tamon   元プロアメリカンフットボール選手|現在:

自分の弱さを知り、鍛える。その繰り返ししかない。 元プロアメリカンフットボール選手・中村多聞(中編)

Profile

 

中村多聞(なかむら・たもん)
元プロアメリカンフットボール選手。幼少期からNFLプレーヤーになることを夢見てアメリカンフットボールを始め、紆余曲折を経て、大学時代にスカウトされた三武ペガサス球団に入団し、東日本社会人2部リーグでプレーする。1993年にジュニアパールボウル敢闘賞を受賞。その後、サンスターファイニーズに移籍。1997年、NFLヨーロッパのトライアウトに合格。日本人初のRBとしてドイツのライン・ファイヤーに所属し、1998年シーズンにNFLヨーロッパ優勝を経験。同年NFLグリーンベイ・パッカーズのキャンプに召集される。帰国後は、Xリーグのアサヒ飲料チャレンジャーズでプレー。エースRBとして2000年、2001年のリーグ連覇に貢献し、2000年の西日本春季社会人選手権(グリーンボウル)、米国遠征のピッグスキンインターナショナル、社会人選手権(ジャパンXボウル)、日本選手権(ライスボウル)ではいずれも最優秀選手に選出される。河川敷、大学3部リーグからNFLまで、全てのレベルでプレーした日本でただ一人の選手。現在はハンバーガー店経営とプロコーチが生業。大学生の娘を2人持つ父親。趣味はクラフトビールイッキ呑みとMotoGP(ロードレース世界選手権)観戦。将来の夢はお金持ちになって10キロ痩せて携帯電話を解約して連続した休暇を取って旅行して毎日遊ぶことを考えてレストランで値段を見ずに注文できて電車に乗らなくて良い人間になること。子供の頃の夢はNFLのスター選手になること。と思い出しただけで腹が立つとのこと。

東:
元プロアメリカンフットボール選手の中村多聞さんへのインタビュー、中編の今回はアメフトとの出会いからお話を伺ってまいります。

小松:
小学生の頃のアメフトとの出会い、中学校での恩師との出会いから社会人チームに入団するまでのお話を中心に様々なお話を伺います。

 厳しいのが当たり前、と思っていた少年時代

中村:
私、実は一人っ子で早生まれでA型というヘタレの典型的なパターンなんです(笑)
弱くならないように厳しく育てたと親は言ってますけどね。

東:
全然ヘタレの面影はありませんけどね(笑)

小松:
ご両親は何かスポーツをなさっていたのですか?

中村:
父は水泳の選手でした。

小松:
それで幼い頃にスイミングクラブに通っていたのですね。

中村:
はい、細かい記憶はないのですが、二歳からスイミングクラブに通っていたようです。

小松:
お父様が水泳をなさっていて、ご自身も習っていたのに水泳選手の道を考えなかったのは何故なのでしょう?

中村:
やる気はあったのですが、身体が硬くて向いてないなと。肩が硬いと種目が背泳ぎとクロールに限定されてしまうんですが、この二種目は手足が長くないとトップレベルでは勝負出来ないので、水泳で上にいくのは厳しいという現実を突きつけられたんですよね。

東:
なるほど、トップレベルで勝負出来ないから、別の道を志したと。他にも小学生では珍しい水球にも取り組まれていましたよね。

中村:
はい、私の通っていた大阪府堺にある浜寺水練学校というスイミングスクールの水球部で小学校三年生の頃からやっていました。確かに小学生で水球をするのは珍しいかも知れませんが、ジュニアオリンピックの大会もあって、私は主力選手ではありませんでしたが、5年生では全国3位、6年生では優勝して日本一になりました。

東:
凄いですね!

小松:
水球部のトレーニングはとても厳しいものだったそうですが。

中村:
水球でボールをコントロールしながら移動することを「ドリブル」と呼びますが、顔を上げたままクロールするんです。厳しい時にはこれを全力で1万メートル、つまり50メートルプールを100往復するんです。120秒で1往復の1インターバルで三時間以上やるんですよ。

東:
小学生の頃に1万メートル泳いでいたのですか!

小松:
そんなに厳しい練習の日々が続いていて、ゲームをやったり漫画を読んだり、友達と遊びたいという気持ちにならなかったのでしょうか?

中村:
もちろん遊びたい気持ちもありましたけど、「スポーツとはそういうもんや」と思っていました。学校だって好きなことや楽しいことばかりじゃないですけど、行かなきゃいけないと思っていましたし。勉強なんて本来は鬱陶しいものですが、でもそれを拒否する権利なんて私の子どものころはなかったんですよ。嫌だな、辛いなぁ、と思いながらも学校や練習には休まずに行っていましたね。

 アメフトとアメリカに出会って

小松:
小学生の頃は水球に取り組んでいた中村さんですが、アメリカンフットボールとの出会いはいつ頃だったのでしょうか?

中村:
小学校4年生の時に「フットボール鷹」という漫画を読んで、その中に出てくるキャラクターのカッコよさに感激したんです。それで「アメフトってかっこいいスポーツだな」と思ったのがきっかけですね。その前にもテレビでNFLの映像が流れていたのを見ていたので、アメフトという競技の存在は知っていたのですが。

東:
NFLがテレビで放送されていたんですか?

中村:
放送してましたね。とにかく衝撃的な映像でした。O・J・シンプソン、テリー・ブラッドショー、ジョー・ネイマスというものすごい選手がいて、中でもクォーターバックのジョー・ネイマスが金髪で葉巻をくわえて、高そうな毛皮を着てきれいなお姉ちゃんと一緒にオープンカーに乗っている映像に惹きつけられました。

東:
そこですか(笑)しかし、色々な意味ですごい時代ですね(笑)

中村:
当時の日本では、たとえばプロ野球なら畳の部屋で王貞治さんが刀を振って紙を切るみたいな映像が流れていましたからね。私は「野球よりもアメフトだわ」って思っていました。
当時の私はアメリカに対する強い憧れがありました。小学校3年生の頃、「ポパイ」という雑誌があって、その雑誌にはアメリカのおもちゃの最新事情とかファッションが載ってて、子どもには刺激が強すぎるぐらいの、むちゃくちゃカッコイイ情報がたくさん掲載されていたんです。当時、「ポパイ」は確か隔週で刊行されてたんですけど、親に頼んで定期購読していたんです。

小松:
アメリカ文化と出会ったきっかけは何だったのでしょうか?

中村:
近所に6つ年上の兄貴分のような存在の人がいたんです。彼も私と同じ一人っ子で、どこかでアメリカンフットボールという存在を知ったんでしょうね。ある日突然「フットボールを買いに行くぞ!」って連れていかれて。スポーツ用品店を何軒も回ったのですが、当時アメフトのボールなんて店舗に置いていませんでしたから、注文したんです。一週間ほどしたらボールが届いて、キャッチボールをやったんです。

東:
アメフトのボールでキャッチボールをするのって、難しくないですか?

中村:
もちろん最初は全然うまく投げられないですよ(笑)でも、やっているうちに徐々にコツをつかんで投げられるようになって、そうすると私も自分のボールが欲しくなって、淀屋橋のミズノの本店に行ったら売ってたんですよ、NFLのボールが。それで購入してまたハマリましたね。

小松:
ここに中村さんが、当時綴った作文がありますので、ちょっと引用させてください。
「ぼくは、将来、アメリカン・プロ・フットボーラーになりたいと思っている。けれども、野球とちがって アメリカン・フットボールを、みんな、あまり知らない。ぼくも、パスとか やろうと思っても、相手がいないから、ぜんぜんできない。京都の小学校では、アメリカン・フットボールクラブがある。そんな小学校はいいな。野球のチームみたいに、フットボールのチームが、この学校にあればいいのにな。そして、今はできないけど、高校になるとアメリカン・フットボールクラブに入って正選手になって、インターハイに出場して、大学では甲子園ボウルに出場したいと思う。これは、思っていることだから、できないかもしれないし、できるかもしれないことだ」

東:
これはいつの作文ですか?

中村:
たしか小学校の卒業文集ですね。

小松:
小学校の時にアメフトはプレーなさっていたのですか?

中村:
本格的にはやっていません。ただ、関西フットボール協会(西日本アメリカンフットボール協会副会長)の古川明さんという方がいて、西宮球技場で開催されていた社会人の試合と試合の合間に“少年少女アメリカンフットボールスクール”というのを開催していたんです。その模様が新聞に掲載されていて。それを私の母親が見つけて、そこで体験したのが最初です。確か小学校4、5年生の頃でした。

東:
生まれて初めてのアメフト体験はいかがでしたか?

中村:
いいなぁ、こういうスポーツがしたいなと思いました。

小松:
その後、中村さんはアメフトの名門校である関西学院中学への進学を目指しますね。

中村:
はい、当時から関西学院といえばアメフトで有名でしたから、どうしても行きたかったんです。さっきお話した小学生向けのスクールを開催していた古川さんも関西学院出身ですし、関学の試合はその頃からしょっちゅう観に行っていました。親に聞いても「最高の大学やで、一番有名だし、かっこいいし、頭もいいし。関学行くんやったら学費おごったるわ」みたいに言われていました(笑)結果として関学には進めなかったんですけどね。

 恩師との出会い

東:
第一希望である関西学院ではなく清教学園に進学したことで、中村さんの恩師である板橋先生との運命的な出会いがあったわけですから、人生は面白いですよね。清教学園にはアメフト部はあったのですか?

中村:
いや、ありませんでした。なので、とりあえずサッカー部に入りました。

小松:
板橋先生は、大阪体育大学でアメフトをなさっていたのですよね。でも、中村さんはそのことは知る由もない。どういう展開があったのですか?

中村:
当時の板橋先生は新任で、私は中学一年です。お互い知らない者どうしだったんですが、ある日板橋先生が体育館で一人で黄昏ていたんです。その時の板橋先生は大阪体育大学アメフト部のジャージを着ていたんです。背中に「51」って書いてあったんですよ。それで私は「大阪体育大学の副キャプテンで、一番小っちゃいセンターやんけ」って先生に言ったんですよ。先生は驚いて「なんやお前俺のこと知ってんのか?」って言うから、「知ってるわ、俺はメンバー表全部見とるからな」って伝えたんです。

東:
漫画みたいな展開ですね!

中村:
当時の私はまだまだ子どもでしたから敬語も使えていない状態で、タメ口で「今ボール持ってる? 車にある? 取ってきてや! キャッチボールしようや」って話しかけて(笑)
それから1ヶ月位経った時に「俺NFLに行きたいんやけど、アメフト教えてや」って先生にお願いして、それからことある毎に職員室に会いに行っていました。

小松:
新入生と新任教員、当時の板橋先生は22、3歳ぐらいですよね。

中村:
はい、そのぐらいです。それで、先生とキャッチボールをやっていたんですが、休み時間にしか出来ないんですよね。それも、学校に何も言わないでやっていたら、問題になりそうになったので、「ほな先生の家に連れて帰って教えてや」って言ったんです。

東:
なるほど・・・サッカー部に入部したのはなぜですか?

中村:
サッカーはキックの練習になるかなと思って。将来、NFLに行くときにランニングバックでダメだったら最悪キッカーで!と考えていたんです。
板橋先生は実家住まいだったんですが、よく練習しに行って、泊まらせてもらって朝も練習したりしてました。

東:
どのようなことを教わっていたのでしょうか?

中村:
板橋先生はセンターだったんですが、センターというポジションでのテクニックも学びました。だから本当はセンターのポジションもできたんですが、現役時代に「できる」ことは黙っていました、自分の役割が増えてしまうので。

小松:
先生からは具体的にパスの投げ方とか、そういうスキルを学んだのですか?

中村:
いや、テクニックは学びませんでした。もっと基礎的な、体を鍛えることとか、フットボールに対する心がけなどを学びました。テクニックは後からいくらでも身につきますからね。
例えば仰向けになって首だけ持ち上げてテレビ1時間見ろ、とか言われていました(笑)。普通の人なら3分ぐらいしかできないんですよ。今の学生にもこの練習は取り入れています。あとはとにかく食べろと指導されました。体を大きくすることがマストだと。
それと、私の通っていた学校は真面目な生徒が多い学校だったので、態度の悪い私はすぐ職員会議でネタになってたみたいで、先生が教えてくれました。「また今日も職員会議でお前の話になってたぞ」って言うんですよ。中高一貫だけど、高校からアメフト部のある高校に行った方がいいとも言われましたが、先生には「フットボールなんて身体を鍛えておいたら、後から色々できるから、とりあえず今は物事の分別を学んどけ」と言われて、そっちの指導を受けていました。
板橋先生には色々お世話になったんですが、去年亡くなってしまったんですよね。

小松:
そうでしたか。

中村:
厳しい先生でしたけど、色々なことを学びました。鬱陶しいことも、しんどいことも「はい!」って言って受け入れる練習をしたりしました。少しでも反論する態度をすると「それは負けてる奴の意見や」と言われて、人間の弱い部分、甘えてしまう部分を徹底的に鍛えられました。

 悪いことも本気でやった

小松:
恩師に出会った中学時代から高校時代へ。高校ではどのような生活を送られていたのですか。

中村:
高校2年位からバイクに乗って遊びまわる生活を送っていました。私はアメフトが好きなのと同時に、アメリカのバイク文化にすごく憧れていて、小さな頃から大きくなったら「チョッパー」に乗ろうと決めてたんですよ。それで高校1年から親にローンを組んでもらって、それを返済するためにずっとバイトをしていました。スーパーの検品係とか、スイミングの先生をやってお金を稼いでいましたね。

東:
学校はバイク禁止だったのではないですか?

中村:
もちろん禁止でしたよ。近所の自動車教習所は先生が張り込んでいる日があると聞いていたので、見つからないようにわざわざ滋賀県の教習所まで行って中型免許を取得しました。

小松:
中村さんは、これを目指すと決めたら一直線なんですね。アメフトであれバイクであれ。そのために手段を講じて、諦めない。

東:
高校時代はアメフトよりもバイクを選びましたが、まだアメフトへの夢は諦めていなかったんですよね。それで大学進学を目指すわけですが、そこでは名門の関西学院を目指したのでしょうか?

中村:
いやいや、全然私は関学に行けるほどの成績じゃなかったですから、大阪経済法科大学という大学に進学したんです。

 弱小チームでの経験

小松:
その大学はフットボールは?

中村:
全然有名ではなかったですし、弱小チームです。一応部室はあったんですが、部員もほとんどいませんでした。アメフトって何十人でやるスポーツなんですが、練習を見学しに行っても2人しかいなかったり。

東:
アメフト部には入部したんですか?

中村:
いや、見学に行った際に「その人数やったらあかんな、人数揃ったらまた呼べや」って言って(笑)その後、大学2年の終わり頃に正式に入部しました。

小松:
その間は何をされてたんですか?

中村:
特に何にもしてなかったんですね。学校も行かずに水商売のバイトをしてました。マスターがバーテンやってるの見て、カクテルの作り方を覚えたりして。

東:
その後、アメフトはどうしたんですか?

中村:
メンバーを無理やり集めたんですよ。入学式の時に勧誘して、強制的に名前書かせたら、800人位集まったんですよ(笑)。最後まで残ったのは20人でしたけど、それで3部リーグに加盟したんです。

小松:
試合はどうだったんですか。

中村:
当然全敗です、というか、試合にすらならなかったですね。5試合でタッチダウンがたった2本。1本は私で、相手に取られた得点の合計が300点でしたからね。ゲームとして成立しませんでした。1試合あたり60点取られた計算になりますね(笑)。その後、私が4年生になってから特別推薦枠が増えて、アメフト経験者が2人入ったんですよ。少しチームらしくはなったのですが、それでも全敗でした。それでも7対0とか、24対22というゲームっぽい負け方になったので、少しは実力がつきはじめたのかなと。

東:
決して強いチームとは言えない環境で中村さんはアメフトをなさっていたわけですが、そこからどう這い上がっていったんですか?

 絶対に手を抜くな

中村:
4年生の秋、シーズン終了後に、第一回ジュニアオールスターズが開催されることになったんですよ。私は3部の選抜で選ばれたんですが、2部のメンバーと一緒に紅白戦と言うか練習試合みたいな形式で練習するんです。これはチャンスだと思って、どうやったら目立つかを板橋先生に相談しに行ったんですよ。

小松:
恩師はなんとおっしゃったんですか。

中村:
「ええか、おまえのことなんか、だーれも知らんねんから、メチャクチャやったれ。練習の時は半分の力でとか言われても、全力でバッチバチにいったれ。ほんなら向こうもやりかえしてきよるやろうけど、それでもまたぶっ倒しまくっとけ。どんな時でも誰に何を言われても絶対に手を抜くな。それしか目立つ方法はない」って言われたんです。
それで、その教えを守って全力でプレーしてたら、視察に来ていた社会人チーム・三武ペガサスのメンバーの目にとまって、チームのキャプテンだった楢崎五郎さんから声をかけられて「一緒に日本一になろう!」と言われて、その場で三武ペガサスの入団が決まったんです。

東:
楢崎五郎さんは、中村さんにとってどんな存在だったんですか?

中村:
テレビに出てていたアメフトのスター選手ですから、会えるだけで「うおー!本物や!」という感じです。そんな楢崎さんに、ウチならいくらでも練習できるし、寮の中にトレーニング室もあるし、もちろん寮に入れるからお金のことも心配しなくていいから大丈夫だよ、と言ってもらえたんですよ。

東:
三武ペガサスの本拠地は東京ですよね。それには抵抗なかったんですか?

中村:
全然ないです。抵抗どころか、逆にありがたかったですよ。就職活動にかけた期間は、1日ですからね(笑)。

 プロのすごさを知りアメリカへ

東:
中村さんはそれまでチームに恵まれなかったかもしれませんが、個人としてはとても高い能力をお持ちだったんですよね。三武ペガサスに入ってすぐレギュラーになったのではないですか?

中村:
まさか。プロは全く次元が違うんですよ。大学卒業する前に、1週間ほど三武ペガサスの練習を体験しにいったんですよ。そうしたら、フィールドを駆けるスピード、プレーの精度、ヒットの力強さ、筋肉の量、何から何まで別次元で、「これは無理だ」と思いました。反応力、つまり止まっているところからパッと動くその瞬発力も、大学時代とは次元が全く違いました。
一緒に体験についてきていた当時の大学のキャプテンも「これは無理やぞ。こんなところでできるのか? お前」って言うんで、「こりゃあかん」と思っていました。

小松:
それでも大学を卒業してすぐに三武ペガサスへ?

中村:
いや、それがですね、実は三武ペガサスの実力を知って、これはもう1年身体を鍛えないと使い物にならないなと思って、アメリカにトレーニング留学したんです。

小松:
アメリカでアメフトの武者修行をされたんですね。

中村:
実はもう一つ、大学の単位を取れなかったので卒業できなかったという理由もあるんですけどね(笑)。あの当時自分は、身体を鍛えることにとても興味があったんです。なので当時はまだ日本に進出してなかったGOLD’S GYMがアメリカにあることを知ってて、アメリカに行って、入会してひたすら毎日トレーニングして、プロテイン飲んで、「強い身体」を作っていました。

小松:
身体を鍛える時には、どなたかに指導していただいていたのですか?

中村:
いや、独学です。知識はありましたから。アメリカのジムはやっぱり日本と全然違うんですよね。毎日世界トップクラスのボディビルダー達を見ながらトレーニングしてましたから、俄然やる気が出ました(笑)。
アメリカにいた頃は、体も鍛えてましたけど、住んでた近くにあった大学の図書館で、英和辞典をフル活用して、競技に関係しそうな本を片っ端から読んでました。戦術や運動指導、生理学、アメフトの歴史とか選手やコーチの自叙伝などを読んでました。

東:
地元にあったNFLのチーム練習も見学されたりしたんですよね。

中村:
はい、タンパベイに滞在していたのですが、地元のバッカニアーズの練習に行って毎日見学してました。練習終わりにグラウンドに入れさせてもらったりもしました。「モースト フェイマス ジャパニーズ プレイヤー!」とかうそこいて(笑)。

小松:
アメリカで得たものは大きかったのではないですか。

中村:
そうですね。一つ大きなことを学んだのは、アメリカ人や外国人って仕事も遊びも本気なんですよ。ボウリングみたいな遊びでも、とても真剣に向き合うなと感じました。だから私も日本に帰ったら、練習も遊びも全て真剣にやろうと思いましたね。

小松:
何事にも真剣になる、というのは、勝負に勝てるメンタルの一つの要素ですよね。

中村:
普通「オンとオフを切り替える」って言いますよね。でもオンとオフを切り替えられない人は、常にオンでいいんだなということを学んで、私もそうしようと思いました(笑)。私の場合、オンとオフのスイッチを入れてから行動を起こすのが難しいんですよ。だから年中オンでいようと決めました。

東:
アメリカでの経験を武器に、ついに中村さんは三武ペガサスへ入部します。社会人、プロでの大活躍のお話は、次回聞かせてください。

中村:
宜しくお願い致します。
(つづく)

次回の「何事も本気で生きる。」(後編)は、5月31日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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