Career shift

根木慎志 / Negi Shinji   元車椅子バスケットボール選手|現在:

絶望の先にあるもの 元車椅子バスケットボール日本代表キャプテン・根木慎志

Profile

 

根木慎志(ねぎ・しんじ)
高校三年生時に突然の交通事故により脊髄を損傷。知人の紹介にて車椅子バスケットボールと出会う。2000年シドニーパラリンピックでは、男子車椅子バスケットボール日本代表チームのキャプテンを務める。現在は、「出会った人と友達になる」をテーマにスポーツを通じて誰もが違いを認めて素敵に輝く社会を目指す活動を行っている。
【所属】
公益財団法人 日本パラリンピック委員会運営委員
一般社団法人 アスリートネットワーク 副理事長
日本財団パラリンピックサポートセンター 推進戦略部
「あすチャレ!」プロジェクト ディレクター

 2020年東京パラリンピックに向かって

小松:
今回は、2000年にシドニーパラリンピックで、男子車椅子バスケットボール日本代表キャプテンとして活躍された根木慎志さんです。

東:
根木さんはPwCのメンバーファームであるあらた監査法人にて勤務しながら、アスリートネットワーク副理事長、日本パラリンピック委員会運営委員、日本パラリンピアンズ協会副理事長、Adapted Sports.com 代表、日本財団HEROsアンバサダー、日本財団パラリンピックサポートセンター戦略推進部「あすチャレ!」 プロジェクトディレクターをはじめ2020東京オリンピック・パラリンピックの成功に向けて多岐にわたる活動を行っていらっしゃいます。 

小松:
現在の根木さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、あらた監査法人やアスリートネットワーク副理事長のお仕事が「C」、Adapted Sports.com 代表や日本パラリンピック委員会、日本パラリンピアンズ協会のお仕事が「B」、様々な講演活動やメディア出演は「D」と「A」以外の領域でご活躍なさっていることが分かります。本日は様々なお話を伺えますことを楽しみにしております。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

根木:
どうぞよろしくお願いします。

小松:
現役時代は日本代表として活躍されていた根木さんですが。招致に尽力された東京パラリンピックが、いよいよ来年開催ですね。改めてどう思われますか?

根木:
そのことだけで何時間でも話せてしまいます(笑)。あと約500日ですね(※2019年2月現在)。準備がラストスパートに入っているところで、自分自身は毎日ワクワクしながら過ごしています。
嬉しいのは、日に日に周囲のみなさんのパラリンピックへの意識が高まっていて、その変化のスピードが上がってきていることです。僕はよく講演で学校に行くのですが、子どもたちのパラリンピックやパラアスリートへの考え方や見方も変わりはじめているので、それは嬉しいですよ。

東:
その変化とは、具体的にはどういうことでしょうか?

根木:
テレビをつけると、オリパラのCMをやっているじゃないですか? CMの中で車椅子バスケットボールとかフェンシングとか、水泳とか、選手たちの映像が流れていて、パラ選手の競技シーンが自然と目に入ってきますよね。今までパラリンピックの競技って、そんなにテレビで大々的に報道されることが少なかったのですが、プレオリンピックイヤーの今年、多くの人たちが知ることになり、興味を持ってくれています。みんな、パラ選手を「かっこいい」と言ってくれます。今回の東京オリンピックパラリンピック開催で注目光を浴びるようになったからこそで、とてもいいことだと思います。

小松:
学校の講演は:どのぐらいのペースで行かれているんですか。

根木:
年間140校ぐらいです。ちょっと恥ずかしいので、100校位と書いておいてください(笑)。

東:
1年で140校! ものすごい数ですね。

根木:
最初は、日本財団パラリンピックサポートセンター主催のイベントが100校前後だったんですけどね。アスリートによる社会貢献活動をする団体「HEROs」というのがあるのですが、そちらのイベントなどを含め個人で3、40回位、その他のイベントが2、30位です。

東:
私もこの「HEROs」のメンバーで、根木さんとご一緒しています。学校での講演が圧倒的に多いですが、主に小学校ですか?

根木:
小中学校が多くて、高校にも行かせていただいています。

小松:
生徒たちはどのような様子ですか。

根木:
今ではおかげさまで、パラリンピックの元車椅子バスケ日本代表が来るのを楽しみに待ってくれている子どもたちがたくさんいて、行くと大騒ぎしてくれます。ちょっと前までは、「いったいどんな障がいの人が来るんだろう?」という雰囲気の方が強くて、生徒たちも先生たちも緊張して戸惑う方もいました。でも僕って、東さんも知っての通り、めっちゃ明るいキャラクターじゃないですか(笑)。さらに、実際に車椅子バスケをやってるところを見てもらったり、体験してもらったりすることで、生徒との距離が一気に縮まるんですよね。そういう状態になった後で、講演をするんです。

小松:
子どもたちも、車椅子バスケを体験できるんですね。 

根木:
はい、競技用の車椅子が用意できる場合は、実際に子ども達とゲームをしますよ。

東:
僕も経験したことがあるのですが、最初はすごく難しいんですけど、それも含めて楽しいですよね。

根木:
確かに難しいですよね。多くの人って、できないから嫌だって感じるじゃないですか。でもできない、難しい、それが当たり前なんです。だからこそもっと上手になりたい、できるようになりたい、と思う。それがアスリートの精神だと思うんです。子ども達にやってもらう時も、最初は難しいと言っている子が、途中から面白い、と目を輝かせるんですね。試合をして負けたら「悔しい」と言うし、勝ったら「楽しい」と言うし。

小松:
実際、車椅子に乗り、ボールを持って、パスを交わしシュートをしてみないと、車椅子バスケがどんなものなのかわかりませんね。

根木:
はい、車椅子バスケは、テレビでもたまに流れますが、実際やってみると見るのとは大違いで。ボールに手を伸ばしても、思った以上に届かないんですよ。車椅子を操る難しさも、乗れば体感できますからね。選手たちは簡単にやっていますけれど、実際は結構テクニックが必要ですからね。

小松:
子どもたちのための講演会はいつ頃からはじめたのですか。

根木:
実は、講演会とか体験会をやりだしたのは、パラリンピックに出る前からなんです。20代からやっていました。実は、僕が車椅子バスケでパラリンピックに出場したのは36歳なんですよ。遅咲きでしょう(笑)。

東:
地道に普及活動をされてきた根木さんにとって、2020年東京パラリンピックは感慨も大きいでしょうね。子どもたちにどのようなことを伝えていますか。

根木:
僕ね、東京にパラリンピックが来ようが来るまいが、同じ活動をやっていたと思うんですね。けれど、今回東京で開催されることになって、パラへの認知の広がり方がこれまでとはまったく違うことを実感しています。だからこの熱気を、車椅子バスケの普及に使いたいなと思うし、同時にパラリンピックがどんなに素晴らしいものかということも、伝えていきたいんです。

 スポーツ少年が見た奈落と光

東:
熱い思いで車椅子バスケの魅力を広めている根木さんですが、アスリートとしての根木さん、車椅子バスケをはじめたきっかけのことを教えてください。

根木:
僕は生まれが岡山県で、3歳で奈良県の大和高田市に引っ越しました。小学校時代は柔道をやっていて、全国大会に出場していたんですよ。その後、中学時代は水泳に転向し奈良県記録を出したり、高校ではサッカーをやっていました。スポーツ大好き少年だったんですよ。

小松:
根っからのアスリートですね。

根木:
はい。でも、高校3年の時に交通事故に遭ってしまいました。その時には、もうスポーツはできない、最悪だって、塞ぎ込んでいたんです。
入院中の僕の病室に、ある日、車椅子乗っている人が現れて、笑いながら「バスケットするか?」と言ってきたんです。その時の自分は「なんでこの人、車椅子に乗っているのに笑っているんだろう?」と冷めた目で見ていました。絶望していた僕は、何に対しても興味が湧かなかったし、将来いいことなんて何もないだろう、と思ってましたからね。

東:
大変でしたね。

根木:
車椅子で生活する、障がい者として生きていくなんてネガティヴなことしかない、っていう考えだったし、周りに希望を持てるようなポジティヴな情報もなかったんです。そりゃそうですよね、当時の僕の周りには、障がいを持っているのに活躍している人の話なんて入ってきませんでしたから。おまけに家族は全員泣いていましたしね。

小松:
その病室に現れた人をきっかけに車椅子バスケに出合ったんですね。

根木:
ええ。最初「なんだこの人?」って警戒したほどでした(笑)。でもその人が僕に車椅子バスケの話をしている時、ギラッギラに輝いているんですよ。その人の話を聞いていたら、だんだん興味を持って来て、それが始めるきっかけになりました。

東:
根木さんは長い間、アスリートしての活動と同時に、ライフワークとも言える講演を続けてらっしゃいます。講演をはじめたきっかけというのは?

根木:
病院を退院してから、バスケをガンガンやっていたんですよ。スポーツってやっぱりすごいなって思いながら。それと同時に、車椅子の生活をしながら、やっぱり車椅子の生活って大変だな、社会のバリアがあるなって、感じたんです。そんな時に、ある先生が僕に「講演してみないか」と言ってくださったんですよ。

小松:
学校の先生といいますと?

根木:
中学校時代の恩師で、山本先生です。先生の言葉に従い講演をすることにした僕は、当初は、どんな話しをすればいいのか分からなかったんです。そしたら、その先生は、車椅子生活がいかに大変か、障がい者が日常生活を送るのがどんなに困難か、そんなことを話せば、障がい者理解につながるだろう、と言ったんです。「根木、お前はこれから人に助けてもらって生きていかなければならない。障がい者がどこでどう困るかを周りの人に伝えない」と、先生は僕に言いました。

東:
根木さんはどう思われたんですか?

根木:
確かに先生の言うことは間違ってない、先生の言っているのが現実な部分もある。でもなんか変だなと(笑)。だから即答で「それはおかしい」と文句をいいました。でも文句を言ったんですけど、「先生の言うことも一理あるしなぁ」と自問自答しながら、講演会に行ったんです。

小松:
迷いながらも講演へ向かったんですね。講演会場ではバスケットをされたんですか。

根木:
今は実演しますけど、その頃はパフォーマンスをしなかったんです。到着するとね、会場が障がい者を迎える暗い感じでね(笑)。司会の先生も「今日はわざわざ車椅子の根木さんが頑張って来てくれました」と言って、暗い雰囲気の中で話さなくちゃいけないくなったんですよ(笑)。雨の日は傘をさせないから大変だし、階段は使えない、と、山本先生のアドバイスに従い、困難に次ぐ困難を強いられる僕の話を聞いて、泣いてる人もいるんですよね。

東:
皆さん、根木さんの現状に同情したんですね。

根木:
「障がいを持っている人がどんなに大変かよくわかりました。根木さん、そんなに辛い話しをしてくれてありがとう!」みたいになって。僕も周りの人に理解してもらってよかったなって思ってて。その後、その講演の評判を聞きつけた人が増えて、依頼が増えていきました。

小松:
そう聞いているだけでも、涙が溢れます。

根木:
そうでしょう。子どもたちも暗くてね。でもね、そんな講演を何度かやっていて、講演しながら「やっぱり、どこかスッキリしないなぁ」って思う自分がいたんですよ。

 きっかけは子どもの一言だった

東:
どこがスッキリしなかったんですか?

根木:
僕ね、講演やりながらバスケの練習もしていたんですよ。もちろんバスケは初心者で、全然ゴールにボールが入らない。でもその一方で、チームの先輩たちはガンガンにシュートを決めている。また同時に、病院で入院している時には車椅子の人が少なかったけど、車椅子バスケの周りには、車椅子で生活している色々な年齢の人がたくさんいるんですよ。それらの光景を見て、「人間ってすごいな、人間の可能性っていっぱいあるんだな」と思い、そのすごさを、あの人たちは車椅子バスケを通じて体現してるんだな、って気づいたんです。

東:
人間の可能性、ですか。もう少し詳しく教えていただけますか?

根木:
ある日のことです。僕は自分の車椅子を持っていなかったんで、先輩から借りた車椅子を講演の時に持って行ったんです。すると、その学校の先生が「子どもたちが喜ぶから、車椅子で動くところを見せてくださいよ」って言ってくれたんですね。それで僕は、車椅子に乗ってビューンって走ったんですよ。そしたら子どもたちが「すごい! かっこいい!」って言ってくれたんです。

小松:
車椅子に乗っている根木さんを「可哀想」ではなく「かっこいい」と言ってくれたんですね。どういう気持ちでした?

根木:
今まで、かっこいいとか言われたことないじゃないですか。講演に行って話す内容も「障がい者はこんなに大変だ、こんなことが困る」みたいな話ばかりでしたから。でも子どもたちに、車椅子乗っている姿見せたら「カッコイイ!」と言われて衝撃でした。その後の講演で「今はチームのレギュラーになれてないけど、強くなってパラリンピックに出たいんだ」みたいな話をしたら、子どもたちが「僕も根木さんみたいになりたい」って言ってくれたんです。

東:
根木さんがこの明るさを発揮するきっかけは子ども達だったんですね。

根木:
それまでは僕が可哀想な人で、周りがサポートする人だと思っていたんですが、バスケの力が「憧れの存在」に変えてくれたんですよ。
それまで僕は、障がい者に対する理解を深めてもらおうって講演をしていて、それで十分だと思っていたんです。もちろんそれも大切ですし、絶対伝えないといけない。でもそれだけじゃないんです。車椅子の人たちは困ることもあるけれど、一人の人間です。生活が大変だけれど、楽しいことも知っている。それは絶対伝えなくちゃいけないなと。それに気づかせてくれたのが子どもたちなんです。

東:
それはおいくつ位の頃ですか?

根木:
僕が22歳位の時です。

小松:
高校3年の時に事故に遭われ、前途が絶たれたと思った頃の記憶は残ってますか?

東:
いつもニコニコ明るくしている今の根木さんを見ていると、絶望していた時期があったなんて信じられませんが、そんな経緯があったんですね。

根木:
もちろん、あります。あの絶望があったから、今があったと言えますね。

小松:
絶望が深ければ深いほど、希望へ向かうエネルギーも強くなりますね。そして絶望を知っていることは、人生においてはアドバンテージになる。

根木:
はい、そうですよね。それはどのスポーツでも同じですよね。チャレンジしたけれど叶わなかった時の悔しさ、真剣に向き合っていた時の絶望を経験した人間は強いと思います。正面から絶望と向き合えるから、「次はどうしよう」という気力も湧いてきますから。
僕は18歳で怪我をしましたが、その年まで一生懸命生きてきて、事故に遭遇して自分の力ではどうすることもできない状況になり、後悔し、歯がゆい思いもしました。今自分の身にふりかかっていることを理解するのにも時間がかかりました。

小松:
今では子ども達の前で、アスリートの素晴らしさを伝え、パラリンピックを盛り上げる活動で大活躍している根木さんが誕生するまでのストーリー。そのあたりから聞かせてください。

 暗闇を照らした、一筋の光

小松:
根木さんは18歳の時、交通事故を起こされて脊椎損傷を負われたのですね。

根木:
はい、僕が高校3年の冬のことです。免許を取ったばかりの僕は、その日レンタカーを借りて、同じクラスの仲の良い友達の家へ行こうとしていたんですよ。普通の、何の変哲もない、まっすぐな道を走っていたんです。免許取り立てで、まだ運転下手くそだったからでしょうか、緩やかなカーブだったのに、ハンドル操作を誤ってしまって。正面から木に激突して、フロントガラスから放り出され、乗っていた車が僕の体の上に覆いかぶさったんです。

小松:
意識はあったのですか。

根木:
うっすらと。シューッと車がと通り過ぎる音が聞こえました。あと、水滴が地面に落ちる音が聞こえて、あれ、これってテレビのドラマでよく見るやつだ、ガソリンが漏れていて車が爆発するのかもしれない、どうしようって思っていました。その後にようやく通行していた車が、横転している僕の車に気が付いてくれて救急車が来たんですよ。

東:
細かい部分まで、はっきりと覚えているんですね。

根木:
はい、救急隊員が来て大丈夫か?と聞いていたこととか、「レスキュー呼ぶ」なんて声も聞こえました。後から聞いた話だと、待ち合わせの場所になかなか現れない僕と徒歩で迎えに来た友達たちが、事故現場に来て、下敷きになっていた僕を助け出すための作業に参加してくれたそうです。そこから近くの病院に運ばれました。脊椎損傷で、腰と背中にずっと痛みがありました。

小松:
搬送されてからは、痛みとの闘いだったでしょうか。そして、病院のベッドでじっとしてるしかないんですね。

根木:
耐えがたい痛みでした。大怪我ですからね。体が思うように動かないので、寝返りもできません。今みたいに高性能のマットやベッドがあるわけではないので、体を特殊な機械を使いサンドイッチ状に挟んでひっくり返して、仰向けとうつ伏せを繰り返すんです。

小松:
交通事故を起こしても、骨折などであれば、手術をして、リハビリなどをして、社会に復帰するというのが流れのはすです。ところが、それが叶わない。そう、気づく瞬間があったのですか。

根木:
自分では怪我が治れば歩ける、もとの生活に戻れる、と思っていました。入院して間もなく脊椎損傷を医師から告げられていた親は、僕に本当のことを言いませんでした。これは後から聞いたんですが、父親が真実を僕に告げる係になったらしいんです。事故から何日経っても、すごく痛みが続いていて、痛み止めを打ってもらって過ごしていた頃に、父親から最初の軽い宣告を受けました。
「ひょっとしたら右足がちょっとダメかもしれない」と。
すごく激痛が走っている時に告げられるんですよ。だから「この痛みがなくなるなら、片足なくなってもいい」って思うんですよね。その位の痛さなんですよ。まあ、そういう状況下で言うのも、父親の作戦だったのかもしれませんけどね。また別の日になると、父親はまた激痛で辛い時に、「もう片方の足もダメかもしれない」って言ってくるんですよね。そんな日々を過ごしていると、自分の体のことですから、だんだんわかってくるんですよ。感覚もありませんからね。ああ、もう歩けない身体なのかなって。

小松:
ショックだったでしょうね・・・・・・。

根木:
ショックでしたが、本当なのか?と思い気持ちもあって、杖をついて歩く練習をしたりもしました。当時は今ほど社会がバリアフリーでなかったですから、車椅子で生活するという発想がなかったんですよ。リハビリの先生が、装具があるからトレーニングしますか?って言うのでやってみました。でも、すぐに車椅子でないと移動できない、と分かっていったんです。

東:
リハビリも大変でしたか?

根木:
はい。それと寝たきりだったんで、まずちゃんと座れるのに3、4ヶ月かかるんですよ。ずっと寝たきりの人って、貧血になるのですぐ起き上がれなくて、少しずつしか起き上がれないんです。

 運命の競技との出会い

東:
車椅子のトレーニングを兼ねて、外出したりはしましたか?

根木:
最初は嫌だったんですよ。友達が病室に来てくれて、部屋でワイワイするのはよかったんですけどね。外に出ると、友達以外もいるじゃないですか。その頃僕は、車椅子に乗ることはネガティブにしてか思っていませんでしたから、見られるのが嫌だったんですよ。車椅子の人に失礼な話ですが、車椅子の人は歩けない、「車椅子=歩けないことの象徴」みたいに思っていたので、恥ずかしかったんですよ。

小松:
そんな中、根木さんを車椅子バスケに誘ってくれた方と出会うんですね。

根木:
はい、僕をバスケに誘った人は、僕が入院していた病院で、僕が入院していた10年ほど前に入院されていた元患者さんなんです。その方は、高校の時にバイクで事故して、車椅子になってしまったんです。
今では個人情報保護があるので、ありえないですが、当時は緩かったんですよね(笑)。その先輩の所属していたチームに、僕の情報が入ったらしいんですよ。「高校卒業前にスポーツやっていた奴が怪我して車椅子になったぞ」って。僕の家族が泣いてる時に、チームメイトたちは合宿やってて「新しい高校生が入ってくるぞ、ヤッター!これで全国制覇だ」みたいに、人の不幸で盛り上がっていたそうなんです(笑)。
それで、その先輩が「お前(僕と)年齢が近いから、病院の先輩だし行ってこい」ってことになって、僕に声をかけたんだと、後から聞きました。

小松:
それで、突然チームに入らないか、と?

根木:
ええ、いきなり「バスケせえへん?」と言われました。僕はその頃、車椅子バスケという競技を知らなくて、「なんだこの人?」って思ってて。でも「車椅子でもスポーツできるんだ」と少し興味は持っていました。でも「障がい者の人が、バスケットボールみたいな激しいスポーツできるのかな。どうせお遊戯みたいな感じなんじゃないか?」って思ってました。すごく激しいスポーツだということを、後から知りますが。

小松:
リハビリの一環として、軽い運動みたいなものと思ってらしたんですね。

根木:
最初だけは。僕を勧誘する人はガッチリした体格だし、なんだか表情も楽しそうだし。「この人とバスケには、何か秘密があるに違いない」って思っていました(笑)。そしてさらに、僕の心をさらに動かした出来事が起きます。

東:
え!? なんですか?気になる!

小松:
なんでしょう?教えてください。

根木:
その人が、めっちゃ可愛いマネージャーを連れて来たんですよ(笑)。それで、その子が「バスケやるとメチャメチャモテるよ」って言うんですよ。その先輩も「めちゃモテる」って言うんです。その先輩はモテそうになかったですけど(笑)。この人がモテるなら、俺どうなるんだろう?って(笑)。久しぶりにその時笑ったんですよ。

小松:
青春マンガのワンシーンですね。

東:
可愛いマネージャーですか!それ以上のモチベーション、ないですね(笑)。

根木:
そこから打ち解けて、「バスケしようや〜」っていう流れになったんですよ。

小松:
初めての練習のこと、その光景は覚えてますか。

根木:
はい。体育館行ったら、車椅子の人がたくさんいて、「うわー、こんな大勢いるんだ」って思いました。その日にボールを触ったんですけど、入院で筋肉が落ちてますから、ボールがすごく重たかったことを覚えています。

小松:
寝たきりの状態から、車椅子でバスケをやろうと決断した根木さんは、全国制覇を目指す練習の大変さを想像していましたか。

根木:
選手達が車椅子でキュッキュと動いてるの見て「この人たちすごいなぁ」って感動しました。普通ならそこで「すごい」だけで終わりますよね。でも僕はその時「人間ってすごいな」って心から思えたんですよ。僕も同じ車椅子だけど、今の僕にはあんなことできない。でも同じ人間だから、練習すれば絶対同じようにできるはずだ、って思って必死にリハビリをしました。想像していた以上に、車椅子を操って、パスを送り、シュートを打つ動作は、大変で、へとへとでしたが、胸に希望があるから頑張れましたね。マネージャー、見ていたしね(笑)。

 かけがえのない人たちに支えられ

小松:
事故からどのぐらいの期間入院していたのですか。

根木:
約1年半です。20歳の誕生日ちょっと前まで入院していました。入院中は色々ありましたけど、嬉しかったことは、仲の良い友達が毎日お見舞いに来てくれたことです。ローテーションを組んで、代わる代わる毎日ですよ。必ず誰かが来てくれていたんです。

東:
毎日ですか。それはすごいですね。

根木:
これは後から聞いた話なんですが、なんで彼らが毎日来てくれてたのか?
僕は、彼らが来た時は気丈に振る舞って、楽しそうにしていたんですよ。でもどこから聞いたのか、僕が夜、不安で泣いていることが、彼らの耳に入ったそうなんです。当時はメールなんてなかったので、僕が入院していた病院から一番近い友達の家が基地になってたらしいんです。

東:
基地、ですか。どういうことですか?

根木:
その友達の家のカレンダーに、次は誰が病院に行くって名前を書いて、順番に僕が入院していた部屋に来てくれた。「根木を励まそう!」みたいな態度で病院へ来たら、僕も身構えるし、気を遣うじゃないですか。だから全然そういうそぶりはなくて、ただ「おー」とと言いながら病室へ遊びにくるんですね。
大学行ったやつは授業終わってから、またはバイトの合間に、就職したやつは仕事帰りに、1年365日来てくれて、部屋にある御菓子をぱくぱく食べて、冷蔵庫のドア勝手に開けて、ジュース飲みながら「今日どうだった?」みたいな話をお互いするんです。僕は当時、彼らの本心を知らなかったから「お前ら、俺の部屋に飯食いに来ているだけだろ!」って思った時もありました(笑)。
でも実は、彼らの本当の目的は、冷蔵庫の中のジュースでも食べ物でもなかったんです。って東さん泣いてる?(笑)

東:
泣いてません(涙)。

小松:
素晴らしい友情ですね。

根木:
もっとすごいエピソードがあるんです。彼らは定期的に、僕のところにくる前に集まって「根木ミーティング」をしてたらしいんですよ。その時に僕の将来の話になったそうなんです。まだ18歳、19歳の頃ですよ。僕はこれから仕事もないだろうから、僕のためにみんなで稼いで、小遣いあげたり、家を建ててあげたりしないといけないな、みたいな話になったらしいんです。そのための貯金の計画も立てたそうです。

東:
ものすごい友達ですね……。

根木:
めっちゃいい話だと思いません?まだ家建ててくれてないですけど。まあ僕の方が儲かってますからね(笑)。まあそれは冗談として、そんなことまで彼らは考えてくれていたんです。

小松:
そこまで考えてくれる友人は、人生で何人も出会えませんね。

根木:
本当にそうですね。もう一つあるんです。これは僕が一番仲のいい奴の話なんです。彼らの話を受けて、そいつが「根木が可哀想だってみんな言ってるけど、ホンマに可哀想なのかな?」って言ったそうなんですよ。

東:
どういう反応でした?

根木:
そんなことを言った彼は、みんなから一斉攻撃を受けたそうです(笑)。「今までできたことが、事故でできない体になった根木が、可哀想じゃないってのはどういうことや!」って喧嘩になったそうなんです。
でもその彼は、「根木は前から俺たちの友達だし、何も変わってない。もちろんできなくなったことはある。根木ができないことは、俺たちが手伝ってやればいい。家建ててやるとか、小遣いあげるとか言ってるけど、俺たちもまだ親に食わせてもらってる身分じゃないか。これから一生、俺たちは24時間、根木といっしょにいるのか?そんなことできないだろう」って言ったんですよ。

東:
……言葉が出ません(涙)。

根木:
東さん、涙もろい(笑)。
彼はこう続けたそうです。「根木の最近の目を見てみろ。バスケに出会って変わったじゃないか。早く退院しようとリハビリ必死だろ。それを応援するのが友達やろ?」って。「根木も頑張っているんだから、俺たちも頑張らないと。もちろん根木は、今までと同じようなことはできないかもしれない。でもたとえば居酒屋で階段しかなかったら、根木のこと担いでやればいいだけだろう」と、そんなふうに言ってくれたそうです。

小松:
根木さんのお友達に会いたくなりますね。

 心がバリアフリーな友人たち

根木:
彼らの話はまだあります(笑)。これは僕がまだ外に出たくない気分だった時の話なんですけどね。僕の友人の先輩が、モトクロスのレースをやっていて、それを見に行くという口実の元、友人達が僕を連れ出したんです。
でも奈良から鈴鹿サーキットって、けっこう距離あるんですよね。だから彼らは、僕を連れ出す前に、現地に行って車椅子で入れるトイレがあるか調べてくれたり、僕の担当医に緊急時のことを聞いたりしてくれて。そして「根木は多分、行こうと行っても、行かない」って言うだろうから、当日無理やり連れて行こうってことになったんです(笑)。当日僕は案の定「行かない!」って言いましたけど、叩き起こされて無理やり鈴鹿へ連れて行かれました(笑)。

東:
そこまでしてくれる友達って、なかなかいませんよね。

根木:
「サービスエリアのここには、車椅子用のトイレがあるから、ここで休憩な」とか勝手に決まってて(笑)、そんなことまで気を遣ってくれてたんです。

小松:
昔は車椅子用のトイレも少なかったですよね。

根木:
そうなんです。彼らはそれを事前に調べてくれていて。モトクロスの会場に到着したら、あの競技って怪我する人多いから、杖ついてたり車椅子の人も結構いたんですね。それ見てちょっと気が楽になったことを、今でも思い出します。。
それで、あちこちの会場に移動して、レースを見たんですけど、場所によっては、移動するのに友達が僕をおぶってくれたんですね。でも、おぶられる方も掴まらないと落ちちゃうので、結構疲れるんですよ。まだそんなに体力回復してなかったですし。

東:
確かに。

根木:
そしたら友達が怒って「おい根木、しっかりつかまれ!」って「俺はおぶってやるけど、お前もしっかり捕まってろ!」って言うんですよ。その時、必死に両腕でつかまりながら、本当に嬉しかったんです。

小松:
怒ってくれたことが嬉しかった。

根木:
ええ。「お前が歩けないから、俺はお前のこと背負うけど、お前はお前でできることやれ!」って言ってくれたんです。それで僕、ドキっとしたんです。

東:
どうしてドキっとしたんですか?

根木:
それまで、僕の足のことには触れないように気を遣って、優しい言葉だけかけてくれた友達が、そういうことを言いだしたからです。もう嬉しくて涙が出たんです。後ろで車椅子を持ってくれていた奴らもいたんですよね。当時の車椅子って病院からレンタルしている車椅子で、すごく重かったんですよ。それを何人かで交代で持ってくれてね。「一日車椅子持ってマメできたわ! でもええけどな」って言ってて、「ええけどな」って言いながら文句言ってて(笑)。「俺らも車椅子持ってるんだから、お前も頑張れ」って言うんですよ。それ聞いて俺、嬉しくて泣いちゃって。

小松:
素敵なエピソードですね(涙)。そのグループは何人だったのですか。

根木:
8人です。年上もいるんですけど、ほとんど同級生です。最近はみんなバラバラで忙しくしてて。僕が退院してから10年ぐらいは、毎年正月に集まっては、この話してはみんなで「ええ話しや」って泣いてました(笑)。

東:
周りの友人の支えがなかったら、今の根木さんはいなかったかもしれませんね。

小松:
大きな事故から、親友達の支えや、車椅子バスケとの出会いを通して希望を見出した根木さん。ここから、日本代表への道を歩み始めます。

 弱小チームが日本一へ

東:
根木さんが車椅子バスケで日本代表になるまでのお話を伺いたいのですが、まず根木さんが所属されていたチームって、どんなチームだったんですか?

根木:
奈良県で活動していた奈良ディアという名前のチームですです。ディアは英語で「鹿」って意味ですよね。奈良の鹿です(笑)。
チームに入った時に、親には「すごいバスケットボールのチームに入れた!」って豪語したんですよ。先輩も強いし、「全国制覇だ」って言ってるし。
最初の頃は、すごいチームに入れたなって、本当に嬉しくてね。
そこから近畿予選大会になりました。もちろん僕は試合に出れません。すごい試合するんだろうな〜ってワクワクしてたら、1回戦で聞いたこともないチームにダブルスコアー(倍の得点)を取られてボロ負けするんですよ。その時気づくんです、「やばい、俺すごい下手なチームに入ったのかもしれない」って(笑)。

小松:
全国制覇の意気込みに実力が伴っていなかった(笑)。

根木:
はい。それでその後に行われた決勝戦見たら、僕らのチームをボコボコに倒したチームよりもさらに強いチームが決勝で戦っているんです。先輩達もそのプレー見て「すげー」って言ってましたよ(笑)。

小松:
目指す頂上は、はるか遠いことを、その時知ったんですね。

根木:
でも先輩達は全国制覇する、って言ってるし、例の可愛いマネージャーは選手たちにめちゃめちゃ怒ってるんですよ(笑)。それで、この人たち結果はボロボロだけど、気持ちは本気なんだなって思ったんです。

東:
根木さんが、試合に出られるようになったのはいつ頃なんですか?

根木:
僕はバスケを始めて1年半位、22歳の時にレギュラーになったんです。そしてその時に全国大会に出れたんです。最初の全国大会は負けちゃいましたけど、翌年にまた出場できて決勝まで行きました。結局それからうちのチームは3連覇したんです。

東:
急成長した要因はあるんですか?

根木:
コーチしてくださっていた方が、天理大学でラグビーをしていた方なんですよ。しかもそのコーチは高校と大学で全国制覇もしていました。「自分はスポーツで日本一になったので、そこから学んだ色々なことを伝えていきたい」って話していました。

小松:
バスケで根木さんのポジションは?

根木:
僕はずっとポイントガードなんですよ。だからシュートする役ではないんです。障害が重い方ですし、背もわりと小さいので、ゴール下でボールを取り合うセンターなどのポジションはできないんです。

 遠すぎる日本代表

東:
そのチームで日本一になった後は、何を考えていたんですか?

根木:
日本代表を狙っていました。たしか23、4歳の時に、日本代表の選考合宿に呼ばれたんですよ。メチャメチャ走らされたのを覚えていますが、結局僕は選考から落とされてしまったんです。全然僕なんて、日本代表には及ばず、レベルが違ったんです。それが最初のソウルで開催されたパラリンピックでした。
前に、僕を車椅子バスケに誘ってくれた先輩の話しをましたよね、その先輩は選考会で選ばれて、ソウルに行ったんです。僕の最高のロールモデルでした。

東:
根木さんの人生を変えた、ターニングポイントの先輩ですね。

根木:
はい。僕はソウルには落ちましたが、次のバルセロナ五輪には絶対行きたいと思っていました。でも実力はまだまだでしたけどね。結局バルセロナ五輪の選考では、最終まで残ったんですけど、結局ダメでした。

小松:
そしてまた不屈の魂でチャレンジを繰り返します。次は1996年のアトランタ五輪ですね。おいくつの時でした?

根木:
僕は32歳になっていました。これはラストチャンスだと思ったので、今まで以上に全力で頑張ったら、最終選考まで残ったんです。

東:
おー!ついに、ですね!

根木:
はい、日本代表って最終的に14人+補欠が2人選ばれるんです。最終選考が終わってしばらくすると僕に電話があって、結果的に僕は、補欠として選ばれるんです。

東:
補欠に選ばれた人って、オリンピックには参加できるんですか?

根木:
単刀直入に言うと、できないです。代表選手に怪我人が出て、代表を辞退しないとメンバーになれません。だから落ちたのと一緒なんですよ。すごい悔しくてね、「何がパラリンピックだ!」って吐き捨てていた自分もいました。悔しいからパラリンピック中継も見ていませんでしたし。あのころは腐りきってましたよ。練習行っても体育館でぼーっとしてました。体育館に行ったのに、練習もしないで時間を潰してました。家にすぐ帰ると嫁さんに不審に思われるから、どこかで時間潰して、家帰って汚れてもない練習着を洗濯機にすぐいれたりしていましたね。嫁さんは、僕がくさっていること、わかっていたと思います。

東:
女性はそういうところ鋭いですからね。

根木:
それからしばらく経ってから、たまたまパラリンピックの開会式がニュースで流れたんですよ。ライブでは悔しくて観ることができなかったその映像を観た時、震えが止まらず、悔しさの涙があふれました。
Vサインをしている代表メンバーが輝いていて「すげえな! でも俺は選ばれなかったのか」って思って、心底、悔しさが戻って来たんです。その悔しさのあまり、オリンピックやパラリンピックまで否定して、「何がバスケットボールや、こんなもん辞めてやる」って思ったんです。

東:
同じ競技者として、その気持ち、よくわかります。

根木:
僕はバスケの練習しながら、子ども達に講演活動していたんですよね。そこでチャレンジの素晴らしさとか言ってたくせに、自分は、代表落ちて、諦めて、悔しくて、パラリンピックから逃げていた。子どもたちをの時間を過ごす中で、はじめて「俺は一番、情けないやんか!」と、気づけたんですよ。その時には、涙が止まらなかったですよ。

小松:
そこでまた新たな決断をするんですね。

根木:
はい。ある日、僕は嫁さんの方を向いて、「俺パラリンピック行くからよろしくね」って言ったんです。多分嫁さんは「何を血迷ったことを」みたいに思ったんじゃないかな(笑)。チームメイトはじめ、周りもみんな信用しませんでした(笑)。12年間頑張ったのに無理だったんだから、もう無理だよって空気がありました。同じ時期に、チームの方は、少し雰囲気が違いました。その頃3連覇した後の低迷期で、「ここからみんなで頑張ってまた全国制覇しようぜ!」という空気だったんです。
そんな、「頑張るぞ!」というチームの士気を僕自身も鼓舞しながら、本気で日の丸を付ける意味について考えたんですね。その時までの僕は「日本代表」になることが目標だったんです。それが最終ゴールだった。でもよく考えると、目標はジャパンのユニフォームを着ることではない、それを着て戦って勝つことだって、気づいたんです。

東:
そこからどうはい上がっていったんですか?

根木:
まず、もう一度嫁さんに「俺、パラリンピックへ出場するから」と言いました(笑)。そして、4年後パラリンピックにいくなら、何をするべきか、と考えたんです。それを明確にしようと思った。そこで僕は、もう一度1から体を鍛え直したんです。
そして1996年にアトランタ五輪が終わって、日本に選手達が帰ってくる頃を見計らい、代表のヘッドコーチへ電話をしました。

小松:
なんと言ったのですか。

根木:
アトランタ五輪の車椅子バスケ日本代表は9位だったんですけど、コーチに「お疲れ様でした」と伝えて、僕も頑張ります、と告げたんですよ。そしたらコーチは「代表選考は惜しかったな。でもこれからも頑張れよ!」って言ってくれて。僕はその時、「4年後、行くのでよろしくお願いします!」って宣言したんです。

東:
コーチはどういうリアクションでした?

根木:
ちょっとビビってました(笑)。2年後の世界選手権があるから、まずはそれを頑張れって言われたんですが、「それも頑張りますが、4年後も頑張ります」って頑なに言いました(笑)。

東:
「行きたい」じゃなくて「行く」と言う言葉に、根木さんの決意をこめたんですね。

 パラとバスケを通して、一番伝えたいこと

小松:
そして2000年開催のシドニーパラリンピックに向けて、根木さんの挑戦がはじまります。ソウル五輪が1988年でしたから、それから数えると、4大会に渡るチャレンジとなりました。

根木:
どんな目的で自分が行動するか、これが明確になりました。練習量も増えて肉体的にはとても辛かったです。でも精神的には楽しくて、楽しくて仕方がありませんでした。自分にはボキャブラリーが少ないので、うまく言葉にできませんが「迷いがなくなった」と表現したらいいんですかね。トレーニング一つ取っても意味を見出して取り組んでいましたし。会場をどうやって沸かせばいいか、というイメージもしていました。

小松:
そして根木さんはついに日本代表に選出され、キャプテンになりますね。

根木:
コーチは最終選考の後、最初に連絡をくれたんです。それで「みんなにキャプテンを決めさせようと思っているんだけど、俺はお前をキャプテンに推薦しようと思っている」って言ってくれたんですよ。

東:
なんて返事をしたんですか?

根木:
「いや、僕なんて遅咲きのルーキーですよ」って言ったんです(笑)。代表メンバーが全員決まって、コーチが「キャプテンは根木にしようと思っているんだけれど、どうだ?」ってみんなに聞いたら、みんなが「最初から根木さんに決まってるじゃないですか」って言ってくれて。

東:
根木さん、すでにキャプテンとしての仕事をなさっていたんでしょうね。

小松:
そしていよいよ、念願のパラの舞台です。どんな光景でした?

根木:
1回戦の相手は地元、開催国のオーストラリアでした。オーストラリアは前回のアトランタ大会で優勝している強豪チームの上に、完全アウェーでの試合でした。でも、優勝したチームと戦えたことは喜びでした。前半は1点差だったんですが、緊張もあって、最終的にはダブスルコアで負けてしまいましけどね。

小松:
根木さんのお話を伺って、悔しくて諦めて、でも人はそれからでも挽回できるのだと分かりました。

根木:
僕を支えてくれている友達が頑張っているとか、入院している時も車椅子の人が頑張っている姿にも影響を受けましたし、アトランタの開会式を見て、参加者が輝いているのを見たり、それらを通して「人間のすごい力」というのをいいタイミングで見られたから頑張れたんじゃないですかね。
シドニーを目指したときには、「今度は僕が逆にみんなに頑張る姿を見せる立場なんだ」と思えた。だから、五輪に出れたのかもしれませんね。

小松:
人生には思いがけない出来事があり、混乱がある。けれど、仲間がいて、目指すものがあれば、必ずそこにたどり着ける、ということですね。

根木:
その通りです。パラリンピックのパワーはすごいですよ。でも僕はそれが全てじゃないとも思っています。僕が一番伝えたいのは、人間の可能性や友達の力、こういうことを伝えていきたいんです。

 どんな人も社会には役割がある

小松:
少々お話は変わりますが、根木さんのお仕事の話について聞かせてください。

根木:
今はですね、PwC(プライスウォーターハウスクーパース)というところに所属しています。監査法人の会社ですね。

小松:
お給料もそこから?

根木:
はいそうです。他にも社団法人の理事長やったりしています。

東:
現役時代はどんなお仕事を?

根木:
現役の時は、会社員やりながら選手活動していました。最初は関西OA学院というところに所属して、次に木村レッカーというクレーン会社に所属していました。現役時代は、バスケの選手活動は理解していただきつつ、でも遠征が入ると穴を開けてしまったり、職場の皆さんには助けていただきました。仕事で一生懸命頑張ると、現場で頼りにされますし、責任も生まれます。もちろんバスケの活動は応援してくれますが、仕事とバスケのバランス取るのは難しい時期もありました。

小松:
最初の就職は?

根木:
病院を退院して、職業訓練校行った後ですから、23歳の時ですかね。訓練校に1年ほど行きました。

東:
訓練校では、どんなことを学ぶんですか?

根木:
当時はワープロが発売されたばかりでしたので、ワープロの勉強したり、簿記検定で2級とったりしました。でもいざ就職となると、大企業は全部落ちて、結局地元の関西でパソコン教室の仕事があって、パソコンは得意で教えられたんで、そこに就職しました。

小松:
それが関西OA学院ですね。実際、生活はいかがでしたか?

根木:
はい、もちろん大変ですよ。でも当時車椅子バスケの選手はみんなそうでしたよ。遠征費も必要だし、合宿の前は残業するので練習できないんですよ。今でもそういう境遇の元で活動している人って多いと思いますよ。

小松:
PwCはどのような活動をされているんですか?

根木:
この会社は障害者雇用の走りのような活動をしています。

小松:
その活動は何年ぐらい?

根木:
8年ぐらいです。それから1度辞めた後に、今度は事務長までやったんです。150人ぐらいの会社でした。

小松:
それはどういった会社だったのですか。

根木:
看護ステーションとデイサービスの会社で事務長をやっていました。最初は10人ぐらいの会社だったんですよね。シドニー五輪で僕のサポートをしてくれた理学療法士さんが起業されたんですよ。でも組織として上手に回ってないから、「事務長やってくれませんか?」って頼まれたんです。最初はそれを聞いて、「そんな仕事、僕は専門家でないので、できません」ってお断りしたんですよ。そしたら「会社をまとめるキャプテンみたいな仕事です」って言われたから、キャプテンだったらできますって言って引き受けたんです(笑)。そしたら最終的にその会社、20人だったのが150人になりました。

 家族–妻が気づかせてくれたこと

小松:
仕事でも、様々な普及活動でも活躍され、ご家族の理解やサポートがないと大変ですよね。

東:
根木さんは何歳でご結婚を?

根木:
30歳の時で、4つ下の嫁さんと結婚しました。出合ったのは地元の洗車場です。僕も嫁さんも洗車していたんですが、まだ出会っていない嫁さんが、僕の方をめっちゃ見てるんですよ。目が合って、挨拶して、彼女が車のルーフを拭くのを手伝ってくれて、それで連絡先を交換して、付き合うようになるんです。後で分かるのですが、嫁さんは看護師で、車椅子の患者さんを診ていたそうなんです。足が動かなくても運転できる車があると聞いていて、それが洗車場で目の間に現れたから、見ていたのは僕じゃなく、僕の車を見たいと思っていたそうなんです(笑)。

小松:
運命の出会い(笑)。車椅子であることが結婚のハードルにはならなかったのですね。

根木:
妻のお母さんに会いに行った時、僕はバスケやってます、結婚したいです、幸せにします。って話をしたんですよね。そしたらあちらのお母さんが「あなたはとっても素敵な人で、チャレンジを厭わず頑張っていることはわかる。でも私もこの娘の親なので、どの親も娘のことを一番に考えている。だから車椅子のあなたが私の娘を幸せにする、と言われても、言葉で伝えられてもそれはわからない。だから『ありがとう』とは正直に言えない」と、正直に言われたんですよ(笑)。「この人めちゃめちゃ正直に言うな」って思いましたけど(笑)。でも「あなたを信用してないわけではない。結婚は娘が決めたことだから、私は結婚するなとは言わない」って言ったんです。

小松:
素敵なお母さんですね。根木さんがこの人を奥さんにしたいと願った一番のポイントは?

根木:
面白いエピソードがあるんです。嫁さんと昔、車でデートしてた時のことです。喉が乾くと、僕は車を自動販売機の横に止めて、嫁さんにジュースとかコーヒーを買ってきてもらうんですよね。何回か繰り返した時、突然嫁がブチ切れたんですよ。

東:
え!? なんでですか?

根木:
「あんたなぁ! 何命令しとんのや!」って(笑)。「もちろん私が降りて買いに行った方が速いのはわかるけど、私だって仕事で疲れているし、10回に1回くらい自分で買いに行ったらどうなん!!」って言うんです(笑)。「俺も仕事と練習で疲れてるんやだけどなあ……」って思ったんだけど、この人の言っていることって、間違ってないよな、って思ったんですよ。いや、めっちゃ正しい、って。僕のことを一人の人間として公平に見てるよな、って。

小松:
奥さんはフラットな意識をお持ちですね。世話をする側とかされる側とか、そういう境界線を持たない方ですね。お友達と一緒ですね。。

根木:
はい、全然そういうのはないですね。

東:
息子さんもいらっしゃいますよね。今おいくつですか?

根木:
21歳になりました。小さい頃はサッカーやってたんですよね。僕は「バスケしてくれたらなぁ」って思っていたんですけど、僕が強制するのも、ちょっと違うじゃないですか。
ところが中学になったらバスケやるって言い出したんです。「バスケとサッカーは全然違うぞ」って僕が言ったら、「本当はバスケがやりたかったんだ。でもお父さん日本代表やんか。比べられるのも嫌やし、俺はバスケ上手いと思うけど、お父さんの息子やから」って言うんですよ。嬉しいこと言ってくれるなって思いました(笑)。

小松:
息子さんに、お父さんがなぜ車椅子なのかを、説明しましたか。

根木:
息子が免許を取って、車に乗り出した時に話しましたね。自分は免許とって1ヶ月で事故で怪我をしたからな、って話をしました。「お父さん、車椅子生活も悪くないけどな、ちょっと心配してるよ」って(笑)。するとそれを聞いていた嫁さんが、「家族の中に、車椅子2台あったら邪魔でしょうがない、そやから、ならんといてや!」と息子に笑って言っていましたよ(笑)。

小松:
根木家は明るいですね。素敵です。

東:
そういうふうに笑い飛ばせるのって、信頼関係あってこそですよね。

根木:
はい、本当にそうですね。

 「人間ってすごい」を伝えていく

東:
今、たくさんの団体の役職に就いてらして、毎日忙しくされていますよね。中心となっているのはどんな活動ですか?

根木:
中心でやっているのが、日本財団パラリンピックサポートセンターという団体で、「あすチャレ!」のディレクターをさせてもらっています。2015年にこの財団ができて、2020年の東京大会に向けてパラスポーツを盛り上げるミッションがあるんです。この団体ができる前に、事務局長から連絡をいただいて、この団体が7つ位の事業をしているのですが、その中の1つが「教育」だったんですよね。パラリンピックを通した教育プログラムを探している中で、僕の名前が出てきたそうで、インタビューも受けました。その頃はオファーを受けませんでしたが、2020年に東京でオリパラが決まって、財団のオファーを受けることにしたんですよ。

小松:
具体的にはどういうことをされるんですか?

根木:
体験型の教育プログラムなんですが、パラリンピックの選手がすごい! とかではなくて、人間の可能性ってすごいんだ、ということを伝えていきたんです。究極的には、地域の色々な障がいを持つ方が講演できるようにしたいなとも考えています。

東:
色々なアスリートの中でも、根木さんに群を抜いて多くの講演依頼が来る理由が分かります。
話は変わりますが、根木さんが今のアスリートに不足していると感じている部分があれば教えてください。

根木:
アスリートになるきっかけって色々ですよね。僕だったら例の可愛いマネージャーとか(笑)、あと兄弟がやっていたから、友人に誘われたから、とか人によって様々です。でもきっかけはなんであれ、アスリートって、そこから自分の意志で競技をするはずなんですよ。

小松:
自分の意思でない選手もいる、と?

根木:
否定的な意味でだけ言っているわけではないのですが、日本のスポーツ界って、ある種「仕組み」中で完成されていますよね。用意された枠組みの中で全力で何かをやっている人たちが多いですよね。「可能性」とか「スポーツの価値」というものは、用意された枠の中で見つけていく、という仕組みになっています。
たとえばある競技があったとして、それは先輩がいたり、チームがあったりするもので、まったくゼロから切り開いていくというものではありません。
分けるつもりはありませんが、でも現実的には、障がい者スポーツってまだまだ浸透が足りないから、自分たちでチームを作ったり、練習場所を探すなど、まずスポーツができる環境を整えていかないとダメなんですね。そういうことを切り開いていく強さって、障がい者スポーツの選手は持っているんですよね。

小松:
まだまだ環境の整備が必要なんですね。

根木:
スポーツ選手は、自分の愛しているスポーツに対する思い入れは平等に強いですよ。でもパラの選手はそういう「環境を変えていきたい、もっとよくしたい」という思いは、人一倍強いんじゃないかと思います。環境の面などで苦労されている人が多いですからね。用意された場所でスタートするのと、場所から作り上げていくのでは、やっぱり差が生まれますからね。

小松:
根木さんは自ら道を切り開く力を持っていますね。

根木:
いや、逆に、それがなかったら僕の未来は開けなかった、と言えますね。だから結果として、道を切り開いてきた茨の道は、ありがたかったのかもしれません。

東:
僕が最も印象に残ったのは、介護の会社で事務長を務め、キャプテンとしての経験を活かし、マネジメントをしながら従業員を20人から150人に増やした話です。アスリートが社会人としてのキャリアを形成する上で、周りとコミュニケーションを取りながら、協力して物事を進められるという強みを活かせるのではないか、という可能性を感じました。

根木:
雇用してくださった人は、僕の強みを見抜いたんですね。日本代表のチームワークを作っていく方法ですからね、基本的に組織だったらこのやり方をやれば上手くいきますよ。

小松:
話は変わりますが、漫画『リアル』の井上雄彦さんとの出会いを教えてください。

根木:
確か井上さんはあの作品を2000年よりちょっと前から描いていたらしいんですが、2000年ちょっと前に、今の日本代表のヘッドコーチである及川晋平さんや、講談社の編集担当・市川さんが「実は車椅子バスケを題材にした漫画を描きたいっていう漫画家いるんですよ」と話を聞いたのがきっかけです。

東:
井上雄彦さんのことはご存じだったのですか?

根木:
いや、僕漫画あんまり詳しくなくて、井上さんのことを知らなかったんですよ。「SLAM DUNK」も読んでませんでした。だから井上雄彦さん?誰それ?あ、「SLAM DUNK」って、何回か観たことあるかもな、くらいのレベルで(笑)。それで、及川晋平さん経由で、車椅子バスケの選手のリアルな話を描きたいから、色々エピソードを書いて欲しいって言われて書いたりしていました。
それで、僕が伝えたエピソードをベースに井上さんが漫画にするんですけど、その描写がすごかった。

東:
脊髄を損傷した青年の病院のベッドの上での様子、車椅子からの視界、ボールをパスする難しさ、チームのメンバーの心の内など、根木さんのリアルな体験でもあるんですよね。

根木:
僕ら選手は何人かで円卓で井上さんと話す機会もいただいたんですけど、自分のリアルな言葉をプロである井上さんは絵で描くんですよね。僕らが喋ったエピソードを、井上さんは自分なりの解釈で絵にするんですよ。

小松:
あの漫画で車椅子バスケットボールに対する理解が進み、興味が広がりました。

根木:
本当そうですよ。

 ライフワークは、どんな人とも友達になること

小松:
根木さんは今でもコートに?

根木:
今はプレーはしてないです。自分が伝えるべきことを、講演会などを通して子どもたちに伝えることがメインです。

小松:
根木さん子どもたちに伝えたいこと、将来のビジョンについて聞かせて下さい。

根木:
僕は講演で子ども達に、「自分は出会った人と友達なるのが僕のライフワークだ」って話しているんです。というのも、僕はこの社会が、誰もが違いを認めて輝ける社会にしたいなと思っていて、それに必要なのが「友達になる」ことなんです。初めて病室で車椅子の先輩が僕に「バスケしようぜ!」って言った時も彼は輝いていたし、クラブチームの人たちも輝いてたし、パラリンピック見た時もみんな輝いていた。そして車椅子バスケというスポーツに出会って、自分の可能性を発揮することができました。そして日本代表としてパラリンピックに出場できたんだけれども、選手だけじゃないんですよ輝いてるのって。応援している人も、近所のおっちゃんおばちゃんもみんな輝いている。それを認められる社会になりたいし、それを伝えるのが僕のミッションです。

東:
さて、改めて根木さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、あらた監査法人やアスリートネットワーク副理事長のお仕事が「C」、Adapted Sports.com 代表や日本パラリンピック委員会、日本パラリンピアンズ協会のお仕事が「B」、様々な講演活動やメディア出演は「D」と「A」以外の領域でご活躍なさっていますが、2020年の東京オリパラ終了後にどのような活動をなさっていくのか非常に楽しみです。

小松:
根木さんの活動を通じて日本中の誰もが輝ける社会になってほしいです!

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
最後に、競技名を使わないで、根木さんご自身を自己紹介してください。

根木:
はい、めっちゃ輝いている根木慎志です。めっちゃ面白い関西人です(笑)。

小松:
今日はありがとうございました。東さんが、泣き虫なことが分かりました(笑)。

東:
根木さんには何度もお目にかかっていますが、個人的な過去の話しを聞いたことがなかったので。感動しました。

根木:
イヤー、良く喋った(笑)!楽しかったです。ありがとうございました。

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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