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根木慎志 / Negi Shinji   元車椅子バスケットボール選手|現在:

日の丸に向かって 元車椅子バスケットボール日本代表キャプテン・根木慎志(後編)

Profile

 

根木慎志(ねぎ・しんじ)
高校三年生時に突然の交通事故により脊髄を損傷。知人の紹介にて車椅子バスケットボールと出会う。2000年シドニーパラリンピックでは、男子車椅子バスケットボール日本代表チームのキャプテンを務める。現在は、「出会った人と友達になる」をテーマにスポーツを通じて誰もが違いを認めて素敵に輝く社会を目指す活動を行っている。
【所属】
公益財団法人 日本パラリンピック委員会運営委員
一般社団法人 アスリートネットワーク 副理事長
日本財団パラリンピックサポートセンター 推進戦略部
「あすチャレ!」プロジェクト ディレクター

 弱小チームが日本一へ

東:
根木さんが車椅子バスケで日本代表になるまでのお話を伺いたいのですが、まず根木さんが所属されていたチームって、どんなチームだったんですか?

根木:
奈良県で活動していた奈良ディアという名前のチームですです。ディアは英語で「鹿」って意味ですよね。奈良の鹿です(笑)。
チームに入った時に、親には「すごいバスケットボールのチームに入れた!」って豪語したんですよ。先輩も強いし、「全国制覇だ」って言ってるし。
最初の頃は、すごいチームに入れたなって、本当に嬉しくてね。
そこから近畿予選大会になりました。もちろん僕は試合に出れません。すごい試合するんだろうな〜ってワクワクしてたら、1回戦で聞いたこともないチームにダブルスコアー(倍の得点)を取られてボロ負けするんですよ。その時気づくんです、「やばい、俺すごい下手なチームに入ったのかもしれない」って(笑)。

小松:
全国制覇の意気込みに実力が伴っていなかった(笑)。

根木:
はい。それでその後に行われた決勝戦見たら、僕らのチームをボコボコに倒したチームよりもさらに強いチームが決勝で戦っているんです。先輩達もそのプレー見て「すげー」って言ってましたよ(笑)。

小松:
目指す頂上は、はるか遠いことを、その時知ったんですね。

根木:
でも先輩達は全国制覇する、って言ってるし、例の可愛いマネージャーは選手たちにめちゃめちゃ怒ってるんですよ(笑)。それで、この人たち結果はボロボロだけど、気持ちは本気なんだなって思ったんです。

東:
根木さんが、試合に出られるようになったのはいつ頃なんですか?

根木:
僕はバスケを始めて1年半位、22歳の時にレギュラーになったんです。そしてその時に全国大会に出れたんです。最初の全国大会は負けちゃいましたけど、翌年にまた出場できて決勝まで行きました。結局それからうちのチームは3連覇したんです。

東:
急成長した要因はあるんですか?

根木:
コーチしてくださっていた方が、天理大学でラグビーをしていた方なんですよ。しかもそのコーチは高校と大学で全国制覇もしていました。「自分はスポーツで日本一になったので、そこから学んだ色々なことを伝えていきたい」って話していました。

小松:
バスケで根木さんのポジションは?

根木:
僕はずっとポイントガードなんですよ。だからシュートする役ではないんです。障害が重い方ですし、背もわりと小さいので、ゴール下でボールを取り合うセンターなどのポジションはできないんです。

 遠すぎる日本代表

東:
そのチームで日本一になった後は、何を考えていたんですか?

根木:
日本代表を狙っていました。たしか23、4歳の時に、日本代表の選考合宿に呼ばれたんですよ。メチャメチャ走らされたのを覚えていますが、結局僕は選考から落とされてしまったんです。全然僕なんて、日本代表には及ばず、レベルが違ったんです。それが最初のソウルで開催されたパラリンピックでした。
前に、僕を車椅子バスケに誘ってくれた先輩の話しをましたよね、その先輩は選考会で選ばれて、ソウルに行ったんです。僕の最高のロールモデルでした。

東:
根木さんの人生を変えた、ターニングポイントの先輩ですね。

根木:
はい。僕はソウルには落ちましたが、次のバルセロナ五輪には絶対行きたいと思っていました。でも実力はまだまだでしたけどね。結局バルセロナ五輪の選考では、最終まで残ったんですけど、結局ダメでした。

小松:
そしてまた不屈の魂でチャレンジを繰り返します。次は1996年のアトランタ五輪ですね。おいくつの時でした?

根木:
僕は32歳になっていました。これはラストチャンスだと思ったので、今まで以上に全力で頑張ったら、最終選考まで残ったんです。

東:
おー!ついに、ですね!

根木:
はい、日本代表って最終的に14人+補欠が2人選ばれるんです。最終選考が終わってしばらくすると僕に電話があって、結果的に僕は、補欠として選ばれるんです。

東:
補欠に選ばれた人って、オリンピックには参加できるんですか?

根木:
単刀直入に言うと、できないです。代表選手に怪我人が出て、代表を辞退しないとメンバーになれません。だから落ちたのと一緒なんですよ。すごい悔しくてね、「何がパラリンピックだ!」って吐き捨てていた自分もいました。悔しいからパラリンピック中継も見ていませんでしたし。あのころは腐りきってましたよ。練習行っても体育館でぼーっとしてました。体育館に行ったのに、練習もしないで時間を潰してました。家にすぐ帰ると嫁さんに不審に思われるから、どこかで時間潰して、家帰って汚れてもない練習着を洗濯機にすぐいれたりしていましたね。嫁さんは、僕がくさっていること、わかっていたと思います。

東:
女性はそういうところ鋭いですからね。

根木:
それからしばらく経ってから、たまたまパラリンピックの開会式がニュースで流れたんですよ。ライブでは悔しくて観ることができなかったその映像を観た時、震えが止まらず、悔しさの涙があふれました。
Vサインをしている代表メンバーが輝いていて「すげえな! でも俺は選ばれなかったのか」って思って、心底、悔しさが戻って来たんです。その悔しさのあまり、オリンピックやパラリンピックまで否定して、「何がバスケットボールや、こんなもん辞めてやる」って思ったんです。

東:
同じ競技者として、その気持ち、よくわかります。

根木:
僕はバスケの練習しながら、子ども達に講演活動していたんですよね。そこでチャレンジの素晴らしさとか言ってたくせに、自分は、代表落ちて、諦めて、悔しくて、パラリンピックから逃げていた。子どもたちをの時間を過ごす中で、はじめて「俺は一番、情けないやんか!」と、気づけたんですよ。その時には、涙が止まらなかったですよ。

小松:
そこでまた新たな決断をするんですね。

根木:
はい。ある日、僕は嫁さんの方を向いて、「俺パラリンピック行くからよろしくね」って言ったんです。多分嫁さんは「何を血迷ったことを」みたいに思ったんじゃないかな(笑)。チームメイトはじめ、周りもみんな信用しませんでした(笑)。12年間頑張ったのに無理だったんだから、もう無理だよって空気がありました。同じ時期に、チームの方は、少し雰囲気が違いました。その頃3連覇した後の低迷期で、「ここからみんなで頑張ってまた全国制覇しようぜ!」という空気だったんです。
そんな、「頑張るぞ!」というチームの士気を僕自身も鼓舞しながら、本気で日の丸を付ける意味について考えたんですね。その時までの僕は「日本代表」になることが目標だったんです。それが最終ゴールだった。でもよく考えると、目標はジャパンのユニフォームを着ることではない、それを着て戦って勝つことだって、気づいたんです。

東:
そこからどうはい上がっていったんですか?

根木:
まず、もう一度嫁さんに「俺、パラリンピックへ出場するから」と言いました(笑)。そして、4年後パラリンピックにいくなら、何をするべきか、と考えたんです。それを明確にしようと思った。そこで僕は、もう一度1から体を鍛え直したんです。
そして1996年にアトランタ五輪が終わって、日本に選手達が帰ってくる頃を見計らい、代表のヘッドコーチへ電話をしました。

小松:
なんと言ったのですか。

根木:
アトランタ五輪の車椅子バスケ日本代表は9位だったんですけど、コーチに「お疲れ様でした」と伝えて、僕も頑張ります、と告げたんですよ。そしたらコーチは「代表選考は惜しかったな。でもこれからも頑張れよ!」って言ってくれて。僕はその時、「4年後、行くのでよろしくお願いします!」って宣言したんです。

東:
コーチはどういうリアクションでした?

根木:
ちょっとビビってました(笑)。2年後の世界選手権があるから、まずはそれを頑張れって言われたんですが、「それも頑張りますが、4年後も頑張ります」って頑なに言いました(笑)。

東:
「行きたい」じゃなくて「行く」と言う言葉に、根木さんの決意をこめたんですね。

 パラとバスケを通して、一番伝えたいこと

小松:
そして2000年開催のシドニーパラリンピックに向けて、根木さんの挑戦がはじまります。ソウル五輪が1988年でしたから、それから数えると、4大会に渡るチャレンジとなりました。

根木:
どんな目的で自分が行動するか、これが明確になりました。練習量も増えて肉体的にはとても辛かったです。でも精神的には楽しくて、楽しくて仕方がありませんでした。自分にはボキャブラリーが少ないので、うまく言葉にできませんが「迷いがなくなった」と表現したらいいんですかね。トレーニング一つ取っても意味を見出して取り組んでいましたし。会場をどうやって沸かせばいいか、というイメージもしていました。

小松:
そして根木さんはついに日本代表に選出され、キャプテンになりますね。

根木:
コーチは最終選考の後、最初に連絡をくれたんです。それで「みんなにキャプテンを決めさせようと思っているんだけど、俺はお前をキャプテンに推薦しようと思っている」って言ってくれたんですよ。

東:
なんて返事をしたんですか?

根木:
「いや、僕なんて遅咲きのルーキーですよ」って言ったんです(笑)。代表メンバーが全員決まって、コーチが「キャプテンは根木にしようと思っているんだけれど、どうだ?」ってみんなに聞いたら、みんなが「最初から根木さんに決まってるじゃないですか」って言ってくれて。

東:
根木さん、すでにキャプテンとしての仕事をなさっていたんでしょうね。

小松:
そしていよいよ、念願のパラの舞台です。どんな光景でした?

根木:
1回戦の相手は地元、開催国のオーストラリアでした。オーストラリアは前回のアトランタ大会で優勝している強豪チームの上に、完全アウェーでの試合でした。でも、優勝したチームと戦えたことは喜びでした。前半は1点差だったんですが、緊張もあって、最終的にはダブスルコアで負けてしまいましけどね。

小松:
根木さんのお話を伺って、悔しくて諦めて、でも人はそれからでも挽回できるのだと分かりました。

根木:
僕を支えてくれている友達が頑張っているとか、入院している時も車椅子の人が頑張っている姿にも影響を受けましたし、アトランタの開会式を見て、参加者が輝いているのを見たり、それらを通して「人間のすごい力」というのをいいタイミングで見られたから頑張れたんじゃないですかね。
シドニーを目指したときには、「今度は僕が逆にみんなに頑張る姿を見せる立場なんだ」と思えた。だから、五輪に出れたのかもしれませんね。

小松:
人生には思いがけない出来事があり、混乱がある。けれど、仲間がいて、目指すものがあれば、必ずそこにたどり着ける、ということですね。

根木:
その通りです。パラリンピックのパワーはすごいですよ。でも僕はそれが全てじゃないとも思っています。僕が一番伝えたいのは、人間の可能性や友達の力、こういうことを伝えていきたいんです。

 どんな人も社会には役割がある

小松:
少々お話は変わりますが、根木さんのお仕事の話について聞かせてください。

根木:
今はですね、PwC(プライスウォーターハウスクーパース)というところに所属しています。監査法人の会社ですね。

小松:
お給料もそこから?

根木:
はいそうです。他にも社団法人の理事長やったりしています。

東:
現役時代はどんなお仕事を?

根木:
現役の時は、会社員やりながら選手活動していました。最初は関西OA学院というところに所属して、次に木村レッカーというクレーン会社に所属していました。現役時代は、バスケの選手活動は理解していただきつつ、でも遠征が入ると穴を開けてしまったり、職場の皆さんには助けていただきました。仕事で一生懸命頑張ると、現場で頼りにされますし、責任も生まれます。もちろんバスケの活動は応援してくれますが、仕事とバスケのバランス取るのは難しい時期もありました。

小松:
最初の就職は?

根木:
病院を退院して、職業訓練校行った後ですから、23歳の時ですかね。訓練校に1年ほど行きました。

東:
訓練校では、どんなことを学ぶんですか?

根木:
当時はワープロが発売されたばかりでしたので、ワープロの勉強したり、簿記検定で2級とったりしました。でもいざ就職となると、大企業は全部落ちて、結局地元の関西でパソコン教室の仕事があって、パソコンは得意で教えられたんで、そこに就職しました。

小松:
それが関西OA学院ですね。実際、生活はいかがでしたか?

根木:
はい、もちろん大変ですよ。でも当時車椅子バスケの選手はみんなそうでしたよ。遠征費も必要だし、合宿の前は残業するので練習できないんですよ。今でもそういう境遇の元で活動している人って多いと思いますよ。

小松:
PwCはどのような活動をされているんですか?

根木:
この会社は障害者雇用の走りのような活動をしています。

小松:
その活動は何年ぐらい?

根木:
8年ぐらいです。それから1度辞めた後に、今度は事務長までやったんです。150人ぐらいの会社でした。

小松:
それはどういった会社だったのですか。

根木:
看護ステーションとデイサービスの会社で事務長をやっていました。最初は10人ぐらいの会社だったんですよね。シドニー五輪で僕のサポートをしてくれた理学療法士さんが起業されたんですよ。でも組織として上手に回ってないから、「事務長やってくれませんか?」って頼まれたんです。最初はそれを聞いて、「そんな仕事、僕は専門家でないので、できません」ってお断りしたんですよ。そしたら「会社をまとめるキャプテンみたいな仕事です」って言われたから、キャプテンだったらできますって言って引き受けたんです(笑)。そしたら最終的にその会社、20人だったのが150人になりました。

 家族–妻が気づかせてくれたこと

小松:
仕事でも、様々な普及活動でも活躍され、ご家族の理解やサポートがないと大変ですよね。

東:
根木さんは何歳でご結婚を?

根木:
30歳の時で、4つ下の嫁さんと結婚しました。出合ったのは地元の洗車場です。僕も嫁さんも洗車していたんですが、まだ出会っていない嫁さんが、僕の方をめっちゃ見てるんですよ。目が合って、挨拶して、彼女が車のルーフを拭くのを手伝ってくれて、それで連絡先を交換して、付き合うようになるんです。後で分かるのですが、嫁さんは看護師で、車椅子の患者さんを診ていたそうなんです。足が動かなくても運転できる車があると聞いていて、それが洗車場で目の間に現れたから、見ていたのは僕じゃなく、僕の車を見たいと思っていたそうなんです(笑)。

小松:
運命の出会い(笑)。車椅子であることが結婚のハードルにはならなかったのですね。

根木:
妻のお母さんに会いに行った時、僕はバスケやってます、結婚したいです、幸せにします。って話をしたんですよね。そしたらあちらのお母さんが「あなたはとっても素敵な人で、チャレンジを厭わず頑張っていることはわかる。でも私もこの娘の親なので、どの親も娘のことを一番に考えている。だから車椅子のあなたが私の娘を幸せにする、と言われても、言葉で伝えられてもそれはわからない。だから『ありがとう』とは正直に言えない」と、正直に言われたんですよ(笑)。「この人めちゃめちゃ正直に言うな」って思いましたけど(笑)。でも「あなたを信用してないわけではない。結婚は娘が決めたことだから、私は結婚するなとは言わない」って言ったんです。

小松:
素敵なお母さんですね。根木さんがこの人を奥さんにしたいと願った一番のポイントは?

根木:
面白いエピソードがあるんです。嫁さんと昔、車でデートしてた時のことです。喉が乾くと、僕は車を自動販売機の横に止めて、嫁さんにジュースとかコーヒーを買ってきてもらうんですよね。何回か繰り返した時、突然嫁がブチ切れたんですよ。

東:
え!? なんでですか?

根木:
「あんたなぁ! 何命令しとんのや!」って(笑)。「もちろん私が降りて買いに行った方が速いのはわかるけど、私だって仕事で疲れているし、10回に1回くらい自分で買いに行ったらどうなん!!」って言うんです(笑)。「俺も仕事と練習で疲れてるんやだけどなあ……」って思ったんだけど、この人の言っていることって、間違ってないよな、って思ったんですよ。いや、めっちゃ正しい、って。僕のことを一人の人間として公平に見てるよな、って。

小松:
奥さんはフラットな意識をお持ちですね。世話をする側とかされる側とか、そういう境界線を持たない方ですね。お友達と一緒ですね。。

根木:
はい、全然そういうのはないですね。

東:
息子さんもいらっしゃいますよね。今おいくつですか?

根木:
21歳になりました。小さい頃はサッカーやってたんですよね。僕は「バスケしてくれたらなぁ」って思っていたんですけど、僕が強制するのも、ちょっと違うじゃないですか。
ところが中学になったらバスケやるって言い出したんです。「バスケとサッカーは全然違うぞ」って僕が言ったら、「本当はバスケがやりたかったんだ。でもお父さん日本代表やんか。比べられるのも嫌やし、俺はバスケ上手いと思うけど、お父さんの息子やから」って言うんですよ。嬉しいこと言ってくれるなって思いました(笑)。

小松:
息子さんに、お父さんがなぜ車椅子なのかを、説明しましたか。

根木:
息子が免許を取って、車に乗り出した時に話しましたね。自分は免許とって1ヶ月で事故で怪我をしたからな、って話をしました。「お父さん、車椅子生活も悪くないけどな、ちょっと心配してるよ」って(笑)。するとそれを聞いていた嫁さんが、「家族の中に、車椅子2台あったら邪魔でしょうがない、そやから、ならんといてや!」と息子に笑って言っていましたよ(笑)。

小松:
根木家は明るいですね。素敵です。

東:
そういうふうに笑い飛ばせるのって、信頼関係あってこそですよね。

根木:
はい、本当にそうですね。

 「人間ってすごい」を伝えていく

東:
今、たくさんの団体の役職に就いてらして、毎日忙しくされていますよね。中心となっているのはどんな活動ですか?

根木:
中心でやっているのが、日本財団パラリンピックサポートセンターという団体で、「あすチャレ!」のディレクターをさせてもらっています。2015年にこの財団ができて、2020年の東京大会に向けてパラスポーツを盛り上げるミッションがあるんです。この団体ができる前に、事務局長から連絡をいただいて、この団体が7つ位の事業をしているのですが、その中の1つが「教育」だったんですよね。パラリンピックを通した教育プログラムを探している中で、僕の名前が出てきたそうで、インタビューも受けました。その頃はオファーを受けませんでしたが、2020年に東京でオリパラが決まって、財団のオファーを受けることにしたんですよ。

小松:
具体的にはどういうことをされるんですか?

根木:
体験型の教育プログラムなんですが、パラリンピックの選手がすごい! とかではなくて、人間の可能性ってすごいんだ、ということを伝えていきたんです。究極的には、地域の色々な障がいを持つ方が講演できるようにしたいなとも考えています。

東:
色々なアスリートの中でも、根木さんに群を抜いて多くの講演依頼が来る理由が分かります。
話は変わりますが、根木さんが今のアスリートに不足していると感じている部分があれば教えてください。

根木:
アスリートになるきっかけって色々ですよね。僕だったら例の可愛いマネージャーとか(笑)、あと兄弟がやっていたから、友人に誘われたから、とか人によって様々です。でもきっかけはなんであれ、アスリートって、そこから自分の意志で競技をするはずなんですよ。

小松:
自分の意思でない選手もいる、と?

根木:
否定的な意味でだけ言っているわけではないのですが、日本のスポーツ界って、ある種「仕組み」中で完成されていますよね。用意された枠組みの中で全力で何かをやっている人たちが多いですよね。「可能性」とか「スポーツの価値」というものは、用意された枠の中で見つけていく、という仕組みになっています。
たとえばある競技があったとして、それは先輩がいたり、チームがあったりするもので、まったくゼロから切り開いていくというものではありません。
分けるつもりはありませんが、でも現実的には、障がい者スポーツってまだまだ浸透が足りないから、自分たちでチームを作ったり、練習場所を探すなど、まずスポーツができる環境を整えていかないとダメなんですね。そういうことを切り開いていく強さって、障がい者スポーツの選手は持っているんですよね。

小松:
まだまだ環境の整備が必要なんですね。

根木:
スポーツ選手は、自分の愛しているスポーツに対する思い入れは平等に強いですよ。でもパラの選手はそういう「環境を変えていきたい、もっとよくしたい」という思いは、人一倍強いんじゃないかと思います。環境の面などで苦労されている人が多いですからね。用意された場所でスタートするのと、場所から作り上げていくのでは、やっぱり差が生まれますからね。

小松:
根木さんは自ら道を切り開く力を持っていますね。

根木:
いや、逆に、それがなかったら僕の未来は開けなかった、と言えますね。だから結果として、道を切り開いてきた茨の道は、ありがたかったのかもしれません。

東:
僕が最も印象に残ったのは、介護の会社で事務長を務め、キャプテンとしての経験を活かし、マネジメントをしながら従業員を20人から150人に増やした話です。アスリートが社会人としてのキャリアを形成する上で、周りとコミュニケーションを取りながら、協力して物事を進められるという強みを活かせるのではないか、という可能性を感じました。

根木:
雇用してくださった人は、僕の強みを見抜いたんですね。日本代表のチームワークを作っていく方法ですからね、基本的に組織だったらこのやり方をやれば上手くいきますよ。

小松:
話は変わりますが、漫画『リアル』の井上雄彦さんとの出会いを教えてください。

根木:
確か井上さんはあの作品を2000年よりちょっと前から描いていたらしいんですが、2000年ちょっと前に、今の日本代表のヘッドコーチである及川晋平さんや、講談社の編集担当・市川さんが「実は車椅子バスケを題材にした漫画を描きたいっていう漫画家いるんですよ」と話を聞いたのがきっかけです。

東:
井上雄彦さんのことはご存じだったのですか?

根木:
いや、僕漫画あんまり詳しくなくて、井上さんのことを知らなかったんですよ。「SLAM DUNK」も読んでませんでした。だから井上雄彦さん?誰それ?あ、「SLAM DUNK」って、何回か観たことあるかもな、くらいのレベルで(笑)。それで、及川晋平さん経由で、車椅子バスケの選手のリアルな話を描きたいから、色々エピソードを書いて欲しいって言われて書いたりしていました。
それで、僕が伝えたエピソードをベースに井上さんが漫画にするんですけど、その描写がすごかった。

東:
脊髄を損傷した青年の病院のベッドの上での様子、車椅子からの視界、ボールをパスする難しさ、チームのメンバーの心の内など、根木さんのリアルな体験でもあるんですよね。

根木:
僕ら選手は何人かで円卓で井上さんと話す機会もいただいたんですけど、自分のリアルな言葉をプロである井上さんは絵で描くんですよね。僕らが喋ったエピソードを、井上さんは自分なりの解釈で絵にするんですよ。

小松:
あの漫画で車椅子バスケットボールに対する理解が進み、興味が広がりました。

根木:
本当そうですよ。

 ライフワークは、どんな人とも友達になること

小松:
根木さんは今でもコートに?

根木:
今はプレーはしてないです。自分が伝えるべきことを、講演会などを通して子どもたちに伝えることがメインです。

小松:
根木さん子どもたちに伝えたいこと、将来のビジョンについて聞かせて下さい。

根木:
僕は講演で子ども達に、「自分は出会った人と友達なるのが僕のライフワークだ」って話しているんです。というのも、僕はこの社会が、誰もが違いを認めて輝ける社会にしたいなと思っていて、それに必要なのが「友達になる」ことなんです。初めて病室で車椅子の先輩が僕に「バスケしようぜ!」って言った時も彼は輝いていたし、クラブチームの人たちも輝いてたし、パラリンピック見た時もみんな輝いていた。そして車椅子バスケというスポーツに出会って、自分の可能性を発揮することができました。そして日本代表としてパラリンピックに出場できたんだけれども、選手だけじゃないんですよ輝いてるのって。応援している人も、近所のおっちゃんおばちゃんもみんな輝いている。それを認められる社会になりたいし、それを伝えるのが僕のミッションです。

東:
さて、改めて根木さんの活動を“その後のメダリスト100 キャリアシフト図”に当てはめると、あらた監査法人やアスリートネットワーク副理事長のお仕事が「C」、Adapted Sports.com 代表や日本パラリンピック委員会、日本パラリンピアンズ協会のお仕事が「B」、様々な講演活動やメディア出演は「D」と「A」以外の領域でご活躍なさっていますが、2020年の東京オリパラ終了後にどのような活動をなさっていくのか非常に楽しみです。

小松:
根木さんの活動を通じて日本中の誰もが輝ける社会になってほしいです!

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
最後に、競技名を使わないで、根木さんご自身を自己紹介してください。

根木:
はい、めっちゃ輝いている根木慎志です。めっちゃ面白い関西人です(笑)。

小松:
今日はありがとうございました。東さんが、泣き虫なことが分かりました(笑)。

東:
根木さんには何度もお目にかかっていますが、個人的な過去の話しを聞いたことがなかったので。感動しました。

根木:
イヤー、良く喋った(笑)!楽しかったです。ありがとうございました。

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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