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岡田友梨 / Okada Yuri   元女子レスリング選手|現在:

“最強”で“最高”な先輩との日々 元女子レスリング日本代表・岡田友梨(旧姓甲斐)(中編)

Profile

 

岡田友梨(おかだ・ゆり)
1984年生まれ。滋賀県出身。元レスリング日本代表。人生の20年間を格闘技(柔道・レスリング)に没頭。鍛えた肉体を美しく見せる服をつくるために選手時代から素材や着こなしを研究し、引退後起業。筋肉のボリューム対策と着痩せに特化した女性用アパレルブランド「KINGLILY(キングリリー)」を取り扱うKINGLILY株式会社の代表兼デザイナー。企画からデザイン、訴求、販売までを自社で行う。着痩せテクを得意とし、専用インスタグラムはフォロワー7万人を突破。着痩せの情報交換と交流に特化したオンラインサロンは立ち上げから1年半、毎月約150名が所属し運営中。着痩せ監修の企業オファーも個人で受けている。座右の銘は「強く、美しく」「YES I CAN」。死ぬまでの目標は、アスリートのセカンドキャリアのロールモデルの一人になることと、自分の意思や価値観で自分の生きがいややりがいを決められる大人を一人でも多く増やすこと。

東:
元女子レスリング日本代表・岡田友梨(旧姓甲斐)さんへのインタビュー、今回は中編になります。

小松:
前編は、現在代表取締役兼デザイナーを務められている筋肉のボリューム対策と着痩せに特化した女性用アパレルブランドを展開する“KINGLILY(キングリリー)株式会社”のお話が中心でしたが、今回は岡田さんとレスリングとの出会いから現役時代のお話を伺ってまいります。

 人生が変わった、二人との出会い

東:
岡田さんがレスリングを始めたのは高校生からだそうですが、きっかけは何だったのでしょうか?

岡田:
元々は柔道をやっていたんです。小学一年生の頃に警察官の父親の影響で始めて、とにかく大好きだったので猛烈な量の練習をしていたら、中学一年で初めて全国大会に出場。最終的には全国で三本の指に入るくらい強くなったのですが、周りの期待がどんどん大きくなるにつれて、それを重荷に感じるようになってしまったので、中学で辞めてしまったんです。

小松:
柔道を辞めて、高校からはレスリングを始めようと考えられたのでしょうか?

岡田:
いえ、格闘技やスポーツからは離れて、普通の女の子になりたいなと思って、ギャルになりました(笑)

東:
ギャルですか?! それはまた極端に生活が変わりましたね(笑)

岡田:
それまでは柔道ばかりやっていたので、その反動からか、丈の短いスカートに髪を染めて、毎日友達とカラオケをして遊び回っていました。

小松:
楽しかったですか?

岡田:
最初は楽しかったんですけど、一週間で飽きちゃいましたね(笑)
柔道は練習で積み重ねたことが結果として出ますが、ギャルをやっていても何も残らないし、つまらないなと思ってしまったんです。

東:
確かにギャルとしての生活は“楽しいだけ”なのかも知れませんね。

小松:
それで、改めて柔道に戻ろうと?

岡田:
高校に柔道部はあったのですが、そんなに強くはなかったので、柔道をやるのであればここではないなと思っていたある日、入学前から監督に誘われてはいたものの、話半分に聞いていたレスリングをちょっとやってみようかなと思って。同じ格闘技だし、何も目指すものがなく高校生活を送るのも嫌だなと思って、練習に参加するようになったんです。

東:
元々柔道を続けるつもりでは無かったわけですから、特に強豪校でもないですものね。そこでレスリングにのめり込んだのですか?

岡田:
最初は柔道ほどハマりませんでした。女子が少ない工業高校だったこともあり、女子のレスリング部員は私一人。毎日男子と練習していたのですが、初心者ばかりだったので今ひとつ燃えることが出来なくて。男子と女子とはいえ、私は小学一年から中学三年まで九年間の柔道経験があって、実力も全国トップクラスでしたので体力的にも勝っていますし、組み負けないですからポイントも取れて、競技としては面白いなと思いましたが、正直、暇つぶし程度にしか考えていませんでした。そんなある日、監督からちょっと至学館大学(旧・中京女子大学)へ練習に行って来いと言われまして。

東:
至学館大学!元レスリング全日本女子ヘッドコーチの栄和人さんが監督を務め、吉田沙保里選手や伊調馨選手を始め世界一の選手がズラリと揃った至学館大学へですか?
いくら柔道の実績があるとは言え、特に強豪というわけでもない高校の、レスリング初心者の一年生部員である岡田さんがどうして至学館大学の練習に参加させてもらえることになったのでしょうか?

岡田:
レスリング部の顧問の先生がたまたま栄監督の先輩で「女子の指導法がわからないので、ちょっと面倒を見てもらえないか?」と頼んでくれたんです。それが栄監督との出会いでした。

小松:
あまりに運命的な出会いに、ぞくぞくしてしまいます。

岡田:
私が高校一年生の時に週休二日制が導入されたこともあって、それから土日は至学館高校(旧・中京女子大学付属高校)へ出稽古をさせていただけることになり、練習に明け暮れる日々を過ごすことになるのですが、そこで、私の人生に大きな影響を与えることになる選手と出会ったんです。

 世界最強の“強さ”と“弱さ”

東:
岡田さんの人生に大きな影響を与えることになった選手とは、どなたなのでしょうか?

岡田:
小原日登美(旧姓・坂本)先輩です。

小松:
2012年ロンドンオリンピック女子レスリング48kg級の金メダリストで、数々の国際大会でも優勝なさっている女子レスリング界のレジェンドですね。

岡田:
はい、私が出会った1999年は、日登美先輩が高校三年生にして全日本女子学生選手権51kg級と全日本選手権で優勝。翌2000年にはアジア選手権と世界選手権で優勝して、2001年には世界選手権で連覇を達成するまさに全盛期の頃で、その存在に大きな衝撃を受けました。

東:
どういった部分に衝撃を受けられたのでしょうか?

岡田:
とても同じ人間だとは思えなくて。誰にも倒せない崇高な存在というか、何といいますか、人類ではなく、ゴリラのような(笑)

東:
こらこら(笑)

岡田:
とにかく同じ人間、同じ女性でこんな人がいるんだ、ここまで人間は強くなれるんだと思って、人生観が変わったんです。実際に組んだこともあるのですが、三十秒、いや、十秒と立っていられなくて。戦って、生きて帰れたことが不思議なくらいに強いんです。

小松:
世界の頂点に実際に触れて、その強さに衝撃を受けたわけですね。

岡田:
その時に思ったんです。「この人を倒す最初の人間になれたら、めちゃめちゃかっこいい!」って(笑)そこから本格的にレスリングの練習にハマったんです。

東:
世界の頂点に触れ、全く歯が立たなかった時に、心が折れてしまうのではなく逆に奮い立ったわけですね。

岡田:
それからは必死で練習に取り組んでいたのですが、平日は自分の高校で練習をしているので、至学館高校の選手とはどんどん差が開いていってしまって。出稽古に行く度に至学館の選手たちが強くなっているのを実感していたので、早く至学館大学(旧・中京女子大学)に進学して、毎日強い相手と練習をしたいと考えていました。

小松:
高校時代は怪我の影響もあり、目立った成績を残せなかったにも関わらず、栄監督にレスリングに対する真摯な姿勢を評価された岡田さんは、念願叶い至学館大学へ入学なさったわけですが、その頃、目標としていた小原選手は心身のバランスを崩してしまっていたそうですね。

岡田:
はい、私を選んでくれた栄監督に恩返しをするためにも、「私が絶対、日登美先輩を倒す最初の人間になるんだ!」と思っていたのですが、私が入学した時、先輩は“うつ”になっていたんです。

小松:
小原選手が長いトンネルに入られていた時期ですね・・・
女子レスリングが初めてオリンピックの正式種目になったのは2004年のアテネ大会からですが、小原選手が主戦場としている51kg級はオリンピック種目では無く、妹である坂本真喜子選手がエントリーしている48kg級か、その上の階級である55kgで予選に出場しなければならないことが決まりました。ご両親に「姉妹が争う姿は見たくない」と言われた小原選手は55kg級にエントリーすることになるのですが、その階級には後に“霊長類最強女子”と呼ばれ、オリンピック三連覇の偉業を達成する吉田沙保里選手という大きな壁が立ちはだかっていました。

東:
55kg級は、吉田選手以外にも56kg級の世界王者である山本聖子選手もエントリーしていて、まさに世界一の超激戦区でしたよね。私は山本選手と交流があったので、当時は何とか階級を増やせないものなのかと本当にやるせない気持ちでした。

小松:
そのような中、小原選手は、2001年の世界選手権で連覇を達成した後に痛めた左膝を回復させるために選手生命をかけてメスを入れたものの、思うような結果が出ず、怪我を押して出場した2002年の全日本選手権で、吉田沙保里選手に開始わずか二十五秒でフォール負けしてしまったことで心が折れてしまい、深い“うつ”状態になってしまっていたそうですね。

岡田:
私が至学館大学に入学したのはその頃(2002年)で、日登美先輩はまだ練習には参加なさっていたのですが、ものすごく痩せてしまっていて。そんな状態でも、私は日登美先輩を選手として尊敬していましたし、人間としても大好きだったのでいつも一緒にいて、全てを学ぼうとしていました。日登美先輩は“うつ”にも関わらず、相変わらずものすごく強くて、練習でも勝ちまくるし、筋力トレーニングをすれば凄まじい重量を挙げるのですが、自分は弱いのに、周りがわざと負けてくれているのだと思いこんでしまっていて。

東:
オリンピック出場へのプレッシャーや妹や家族への思いに加えて、怪我と敗戦のショックによってものすごいマイナス思考に陥ってしまっていたのでしょうか・・・

小松:
その後、医師に“うつ病”と診断された小原選手は療養のため青森県八戸市の実家に戻ることになりましたね。

岡田:
はい。私は日登美先輩のことが大好きだったので、療養なさるために青森の実家に帰ることになった時にはレスリングのことは忘れてとにかくゆっくりと休んでほしいと伝えたのですが、先輩がいなくなってしまってからは私も心に穴が空いてしまったのか病気になってしまって、半年ぐらい実家に戻っていた時期があったんです。

東:
そんなことがあったのですね・・・どのような病気だったのでしょうか?

岡田:
きっかけは皮膚の疾患です。頭部に雑菌が入ってしまって髪が半分以上抜けてしまったのですが、外見上のコンプレックスにもなりましたし、栄監督がせっかく期待して入学させてくれたのに、一年生のうちにこんなことになってしまったのが情けなくて。授業料を支払ってくれている両親にも申し訳ないと落ち込み、悩んでいるうちにどんどん“うつ”が進んでしまって。

小松:
新たな環境での慣れない生活と、憧れであり目標であった小原選手の“うつ病”でショックを受けていたところに皮膚の疾患が重なってしまったわけですから、心が疲弊してしまったのかも知れませんね。

 オリンピックをあきらめた瞬間

小松:
実家に戻られている状態からは、どのように立ち直ったのでしょうか?

岡田:
日登美先輩が、私を“うつ”から救ってくれたんです。

東:
ご自身の“うつ病”の療養のために八戸に戻られていた小原選手に救われたとは、一体どういうことでしょうか?

岡田:
“うつ”が治りきらず、髪も生え揃わない状態ながら、このままではダメだと意を決して大学に戻ったものの、しばらくはまともに練習にも参加出来ず、心が折れそうになっていた時に、日登美先輩が妹である坂本真喜子選手の専属コーチとして大学に戻ってこられたんです。

小松:
2003年の全日本選手権で初めてやぶれた坂本真喜子選手が、オリンピックに出場するために、お姉さんである小原選手に「私一人では勝てない。また戻ってきて一緒に練習してほしい」とお願いしたことで、選手としてではなくコーチとして大学に戻られることになったそうですね。

岡田:
そうなんです。日登美先輩が戻ってきて、坂本真喜子選手のパートナーとして一緒に練習することになったのをきっかけに、少しずつ“うつ”から快復していくことが出来ました。

小松:
坂本真喜子選手のコーチに就任することは小原選手を救うことになったと伺っていましたが、岡田さんも救われていたのですね。

岡田:
私はとにかく日登美先輩と一緒にいられることが嬉しくて。その後、日登美先輩は再び現役に復帰して、55kg級で北京オリンピックを目指したのですが、またも吉田沙保里選手に敗れて引退。ただ、選手は引退なさったのですが、日本代表のコーチとして海外遠征などに帯同なさっていて、私も指導していただいていました。私は日登美先輩がコーチだった時期の成績が最も良くて、伊調千春選手をやぶって全日本選手権で優勝したのもこの頃です。

東:
岡田さんが小原さんを慕う気持ち、とても伝わります。

小松:
その後、小原選手は妹である坂本真喜子選手の引退を受けて、2009年に岡田さんと同じ48Kg級で現役に復帰なさいましたよね。

東:
いよいよレスリングに本格的に取り組んだきっかけである小原選手とロンドンオリンピックの出場権を懸け、同じ階級で争う立場になれたわけですが、どのようなお気持ちだったのでしょうか?

岡田:
日登美先輩が現役に復帰してくれたことは本当に嬉しくて、最初は「いよいよ日登美先輩と戦える!私も負けないように頑張ろう!」と興奮していたのですが、オリンピックを目指す日登美先輩の姿勢を見ていたら「オリンピックにはこの人が行くべきなのかもしれない」と思うようになってしまって。

小松:
岡田さん自身ではなく、小原選手が行くべきだと。なぜ、そのように思われたのでしょうか?

岡田:
日登美先輩は、人生でたった一つの夢である“オリンピック金メダル”に対して、言葉には出来ないくらいの苦労を味わってこられました。世界最強の立場でありながらも自らの階級がオリンピック種目になく、妹である坂本真喜子選手に譲りながら、吉田沙保里選手の壁にぶつかり、精神的にも肉体的にもボロボロになりながら、一度は故郷へ戻り、レスリングから離れたもののやっぱり諦めきれなくて、病気を乗り越えて、戻ってこられたわけです。それに比べたら、自分の人生がとても薄っぺらく感じてしまって。

東:
岡田さんの人生が薄っぺらいなんてことは決してありません。

岡田:
いえ、もちろん私も頑張ってはきましたし、絶対にロンドンオリンピックに出場してメダルを獲るんだという気持ちで練習をしていたのですが、ある日、「これだけの苦労を乗り越えてきた日登美先輩がオリンピックの金メダリストとして世間に取り上げられて欲しい」と思ってしまって。その瞬間、闘志が全く無くなってしまったんです。

小松:
小原選手を倒して自らが出場するのではなく、小原選手に金メダリストになってほしいと。

岡田:
はい。そうすると、練習をする理由が自分の中から消えてしまったんです。私は会社からお金をいただいて“仕事”としてレスリングをやっていたのですが、同じ階級のライバルに勝とうとしていない自分に拒否反応が生まれて、レスリングとは違う道を探さなくてはと考えて、引退することを決意したんです。

東:
それはいつ頃だったのでしょうか?

岡田:
2010年〜11年頃だと思います。2012年のロンドンオリンピックの最終選考まで残っていたので、周りからは「なぜ今辞めるの?」と言われましたけど。

小松:
突然の引退は、小原選手の存在が理由だったのですね・・・

岡田:
そうなんです。日登美先輩がオリンピックで活躍すれば、それまで歩んできた人生にもスポットライトが当たります。そうすれば、その生き様がきっと多くの方々に勇気を与えると思いましたし、それは日登美先輩にしか出来ないことだと思っていました。

東:
むかえたロンドンオリンピックでは、小原選手は見事に48kgで金メダルを獲得。オリンピックの前後には多くのメディアに小原選手の生き様が取り上げられることになりました。

岡田:
私は日登美先輩なら絶対に金メダルを獲れると確信していました。圧倒的なオーラを身にまとっていましたから。実際にオリンピック出場を決め、金メダルを獲得して、多くの人たちに感動と勇気を与えている姿を目の当たりにして、私も先輩のように自分にしか出来ないことを見つけて、それに人生を懸けて取り組んで、その結果として誰かに勇気を与えられるような生き方がしたいと思ったんです。

小松:
それが、岡田さんがセカンドキャリアを考えるヒントになったのですね。

東:
岡田さんのレスリング人生は、小原日登美選手という最強の存在との出会いで本格的に始まり、小原日登美選手に最高の存在になってほしいと思うことで終わりを告げたとも言えるのかも知れませんね。

小松:
次回、最終回となる後編では、岡田さんの考えるアスリートのセカンドキャリアや、現在のお仕事について更に深掘りして伺ってまいりたいと思います。

岡田:
宜しくお願い致します。
(つづく)

次回「体型で悩む全ての女性を笑顔にしたい」(後編)は、7月5日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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