Career shift

大林素子 / Oobayashi Motoko   元バレーボール日本代表|現在:

昔の名前が邪魔をする 元バレーボール日本代表・大林素子

Profile

 

1967年6月15日生まれ。東京都小平市出身の元バレーボール選手。現役時代は182㎝の長身を活かして、日本代表のエースアタッカーとして1988年ソウル大会、1992年バルセロナ大会、1996年アトランタ大会と三大会連続でオリンピックに出場。1995年からは日本人初のプロ選手としてイタリア・セリエAでもプレーした。1997年に引退後は、スポーツキャスターとしてバレーボール中継の解説を担当するほか、タレントや女優等マルチに活躍。
東京都小平市立第二中学校 → 八王子実践高等学校 → 日立 → アンコーナ(イタリア・セリエA) → 東洋紡オーキス日本スポーツマスターズ委員会シンボルメンバー、日本オリンピック委員会・環境アンバサダー、福島県・しゃくなげ大使、環境省チャレンジ25キャンペーン応援団、日本バレーボール協会広報委員、観光庁「スポーツ観光マイスター」

東:
様々なアスリートの現役を終えた“その後の人生”に迫るインタビュー連載“表彰台の降り方。〜その後のメダリスト100〜”。今回は、元バレーボール日本代表・大林素子さんにお話を伺います。

小松:
大林さんは、名門・八王子実践高校在学中に日本代表に初選出。1985年に開催されたワールドカップで国際大会デビューを果たすと、182cmの長身とサウスポーを活かした攻撃で日本のエースアタッカーとして活躍。1988年のソウル大会、1992年のバルセロナ大会、1996年のアトランタ大会と三大会連続でオリンピックに出場なさいました。

東:
1995年には日本人初のプロ選手として、イタリア・セリエAでもプレー。センター、セッター、レフトの後ろをコートの右端から左端まで走り抜けて打つブロード攻撃は“モトコスペシャル”と呼ばれ、多くのファンに愛されていました。

小松:
1997年に引退されてからは、スポーツキャスターやタレント活動、女優業、バレーボール中継の解説者、日本バレーボール協会の広報委員や日本財団HEROsアンバサダーなど幅広い分野でご活躍されています。

東:
現在の大林さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、スポーツキャスターやタレント活動、女優業などが「C」の領域、バレーボール中継の解説者などが「D」の領域、日本バレーボール協会などスポーツに関わる団体でのお仕事が「B」の領域と、現場での指導以外の三つの領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

 元々の夢に挑戦する

小松:
大林さんは、元トップアスリートとは思えないほど“スポーツ”以外の領域でマルチにご活躍なさっていますが、どのような経緯で現在のキャリアを築かれたのでしょうか?

大林:
確かにアスリートのセカンドキャリアとしては少々変わっているかも知れませんが、バレーボール選手以外の元々持っていた夢に、引退してから挑戦しているんです。

東:
どんな夢でしょう?

大林:
舞台の上でお芝居をしたり歌ったりして、自らを表現することです。
幼い頃から歌手になるのが夢で、宝塚歌劇団などのミュージカルや音楽番組を見ながら家の中で歌や踊りを真似ていたので。

小松:
バレーボール選手として素晴らしいキャリアを築いた後に、改めて昔からの夢を叶えるための挑戦をなさっているなんて、素敵ですね。

大林:
ありがとうございます。ただ、現役時代の名前やイメージに足を引っ張られる部分もあるお仕事なので、なかなか難しい部分もあるのですが。

東:
なるほど。競技で実績を残していればいるほど、あくまで“元アスリート”が演技をしているという風に見られてしまって、純粋な演技力や歌唱力などで判断されるのは難しい部分もあるのでしょうね。

小松:
日本において、アスリートは道を極めると言いますか、“競技ひとすじ”のストイックなイメージが求められている面もありますから。

大林:
私の他にもアスリートで引退後に「女優になりたい」「歌手になりたい」と考えている人はいらっしゃるとは思うのですが、現役中はもちろん、引退後にもなかなかそれを言えないですし、言ったとしても理解されないですよね。

東:
現役中であれば、「余計なことを考えてないで競技に集中しろ!」、引退後には「今さら遅い!」とか「畑違いだから無理!」などと言われてしまいそうです。

大林:
身近な人では、アテネオリンピック競泳銀メダリストの田島寧子さんも引退後に昔からの夢だった女優を目指していましたが、オリンピアン・メダリストのイメージが大き過ぎたのでしょうか?違う夢を見るのを周りが何となくイメージしにくいのか受け入れてもらえないように感じていました。

小松:
女優は様々な役を演じるお仕事ですから、その人のパーソナリティがあまりに前面に出過ぎると、物語そのものに入り込みづらくなってしまいますものね。

東:
役柄ではなく、“オリンピックメダリストの◯◯が演技をしている”という目で見られてしまうと辛いですよね。俳優を本業となさっている方でも、一度ハマり役が出来てしまうとそのイメージの払拭に苦労なさる場合があると言いますし、良くも悪くも“自分”役しか出来ない方もいらっしゃるそうですから。

大林:
おっしゃる通りで、アスリートとしての名前や実績が大きければ大きいほど、お芝居の邪魔をしてしまう部分があるんです。どうしても“元選手”として見られてしまいますよね。

東:
アスリートの場合は、同じく他のジャンルからお芝居に挑戦なさっているミュージシャンや芸人の方などともまた違ったイメージを持たれているように思います。「余計なことをせずにスポーツに関わることだけやっておけばいいのに」的な。

大林:
ただ、元競泳オリンピアンの肩書をおもちのミュージカル俳優・藤本隆宏さんのようなケースもありますから。彼はソウルとバルセロナの二度オリンピックに出場したトップアスリートですが、現役を引退後に劇団四季に入って、現在ではミュージカルを中心にテレビドラマなどでも幅広く活躍しています。

小松:
2012年に放送されたNHKの大河ドラマ「平清盛」にもご出演なさっていましたね。

大林:
彼の場合は、元オリンピアンだという事実を出さないようにしてきたのか、戦略は分かりませんが、本当に私が一番目指す場所にいらっしゃる方で、今では色々な話をする仲間でもあります。

東:
本業が“元オリンピアン”ではなく、世間では“俳優”と思われているということですね。

大林:
もちろん、彼と同じにはなれないことは分かっていますし、私は私なりにこれまでに誰も歩いて来たことのない新しい道をつくってきていると思ってはいますが、やはり憧れますよね。

小松:
大林さんに憧れている方々もたくさんいらっしゃると思いますし、今、切り拓かれている道も素晴らしいと思います。

東:
パイオニアであり、オンリーワンの存在ですよね。

大林:
前例がない分、叩かれることも多いですけれどね。

小松:
先駆者であり、開拓者だからこその苦しみなのでしょうね。

 誰よりも頑張る

小松:
女優としての活動について、もう少し詳しくお聞かせいただけますか?

大林:
これまでに三十作品以上に出演させていただいていますが、二十九歳で引退して、三十九歳までの十年間は“大林素子本人役”やバレーボールを題材にしたドラマや映画が主でした。本当は本格的なお芝居や歌に対する思いが強かったのですが、なかなかオファーをいただくことが出来ず、女優としてのお仕事よりスポーツキャスターやバラエティ番組への出演が多かったです。

東:
自分がやりたい仕事と、周りが求める仕事とのギャップに苦しむ日々だったのですね。

大林:
そうですね。ただ、色々なお仕事をやらせていただく中で得られた“気づき”も多くて。例えば、F1を中心としたモータースポーツのキャスターのお仕事を十五年ほどやらせていただいた経験は、仕事において大切にすべきことを気づかせてくれました。

小松:
大林さんが、モータースポーツのお仕事に関わってきた中で気づいた“仕事において大切にすべきこと”とは何なのでしょうか?

大林:
取材と勉強を誰よりも頑張るということです。モータースポーツはかなり専門的な知識が求められるある意味特殊な世界なので、キャスターを務めることになった時に、メディアや番記者、スタッフの方々にご挨拶をしても最初の頃は無視されたりしていました。私に聞こえるように「バレーの人に何がわかる?」と言われたこともありますし。

東:
閉鎖的な部分があったのですね・・・

小松:
私がサッカーを取材し始めた頃にも同じような経験をしたことがあります。
「素人の女に何がわかる」と。

大林:
今ならどの業界にもありがちな洗礼だと分かりますが、当時は悔しくて。どうすれば中に入っていけるのだろうと思って、とにかく行動しました。

東:
具体的にどのような行動をなさったのでしょうか?

大林:
まずはモータースポーツ業界のことを知らなければならないと思い、自分の仕事に関わる全ての方からお話を伺うことにしました。サーキットに年間六十〜七十日くらい足を運んで、ピットレポーターの先輩のご自宅に訪問させていただいたり、工場へ出かけてメカニックやエンジニアの方々からお話を聞いたり。そんなことを二年、三年と続けていくうちに、周りが色々と教えてくれるようになっていったんです。知らないのは当たり前。だから教えて下さいと素直に言えるのを強みにして、キャスターとしての意地で頑張りました。

小松:
大林さんが本気でモータースポーツの仕事に取り組んでいることが伝わったのですね。

大林:
今振り返ると、いきなり優しく受け入れてもらえなくてよかったと思います。上辺だけの知識を元に、適当にその場を盛り上げるような仕事をしていたら、現在の私はありませんから。
あまりにのめり込み過ぎて、カーレースの国内A級ライセンス“MFJ PITCREW LICENCE”を取得したり、2001年には女性のみのレーシングチーム「大林アタッカーズ」を結成して、監督として鈴鹿1000km(1966年から2017年まで鈴鹿サーキットで開催された自動車の耐久レース)に参戦したりもしました(笑)

東:
もの凄いのめり込み方ですね(笑)

小松:
本気になられた時のエネルギーが凄まじいです。

大林:
当時はプライベートでも年に四十日〜五十日ぐらいはサーキットに通っていましたし、命がけでモータースポーツのお仕事に取り組んでいました。ただ、心の中では「いつになったらドラマや歌のお仕事をさせてもらえるんだろう」とも思っていました。たまにマネージャーに確認しても「オファーはありません」としか言われなくて(笑)本当にやりたいお仕事が出来ていない現実を忘れられるようにモータースポーツのお仕事に没頭していた面もあると思います。

東:
大林さんは、ご自身のネームバリューを活かして、何の苦労もなくたくさんのお仕事に恵まれて、とても軽やかにセカンドキャリアを歩まれているイメージがありましたが、そんな思いで過ごしていらしたのですね・・・

大林:
ミーハーに見られてしまいがちなんですよね(笑)TVの現場では役割があるのであえてそう演じてコメントをしたり、ボケたりもしていますが・・・本当の私ではなかったりしますからね。

小松:
いえいえ。F1を始めとするモータースポーツはもちろん、お笑いについてもとても勉強なさっていることが伝わります。

大林:
そうおっしゃっていただけると、とても嬉しいです。モータースポーツやお笑いの解説や審査員をさせていただく際には、ジャンル自体については当然ですが、そこで活躍している人たちの人間性や歴史を徹底的に調べるようにしています。

東:
どうして人間性や歴史を調べるのでしょうか?

大林:
レーサーや芸人の方々の魅力を最大限に伝えるためです。同じパフォーマンスでも、その人たちのことを何も知らずに見るのと、どんな家族構成で、どんな人生を歩んで来て、どんなことを考えて取り組んでいるのかを知った上で見るのでは、全く見え方が違ってきます。バレーボールで解説者を務める時でも同じなのですが、徹底して“人”にフォーカスし、様々な情報を伝えることで、より一つひとつのプレーに感情移入してもらえるように心がけています。私自身が取材される時に「身長何cmですか?」から質問されるのと、「先日の試合のあの表情はなぜ?」と聞かれるのとでは、別に差別しているわけではありませんが、対応が変わってきますからね。やはり、その人となりを知り、リスペクトを持った上でインタビューに臨みたいというのが私のポリシーです。

小松:
素晴らしいですね。大林さんのお仕事に対する矜持を感じます。

大林:
ありがとうございます。ただ、自分に厳しくするのは構わないのですが、周囲に対しても厳しい要求をしてしまう部分があって、悩んでもいます。
ここまで押し付けてはいけないとは思いながらも、日々葛藤していますね。

東:
若い頃から世界の頂点を目指して努力を積み重ねてきた大林さんと同じレベルの努力が出来る人は稀だと思いますので・・・
ただ、それを周りに要求してしまう自分を客観的に見て、悩まれているところが大林さんの優しさですよね。

小松:
今回は、バレーボール選手を引退なさった後のお話を中心に伺ってまいりましたが、バレーボールを始めたきっかけから日本代表選手としてのご活躍など現役時代のお話についてお聞かせいただきたいと思います。

大林:
宜しくお願いします。
(つづく)

小松:
バレーボール選手を引退なさった後のお話を中心に伺ってまいりましたが、バレーボールを始めたきっかけから日本代表選手としてのご活躍など現役時代のお話についてお聞かせいただきたいと思います。

 人生を変えたファンレター

東:
大林さんがバレーボールを知ったのは小学四年生の頃、テレビで再放送されていたバレーボールのアニメ「アタックNo.1」を見たのが最初だったそうですね。

大林:
はい。私は幼い頃から身体が大きくて、それが原因でいじめに遭っていました。周りから“ジャイアント素子”とか“デカバヤシ”と言われて、自殺を考えるくらい悩んでいました。

小松:
酷いですね・・・

東:
周りは気軽にからかっているつもりでも、言われたほうは深く傷つきますよね・・・

大林:
そんな時に、「アタックNo.1」を見て、これまでコンプレックスに感じていた背の高さが武器になるスポーツがあるのだと嬉しくなって、中学になったらバレーボール部に入ろうと決意したのがきっかけなんです。

小松:
中学校に入学して、いよいよバレーボールを始められたわけですが、いかがでしたか?

大林:
それが最初の頃は全然楽しくなくて(笑)中学に入学した時点で170cmあって、身体は大きかったのですが、全然体力がなかったので練習についていけなくて。サボってばかりでしたし、もちろん試合でも活躍出来ませんでした。

東:
中学生の女子で170cmあれば、体力が無くてもある程度は活躍出来そうですが。

大林:
私、実は運動が苦手なんです(笑)中学での体育の成績は“3”でしたから。

小松:
まさか!とても意外です。

東:
そんな大林さんが本気でバレーボールに取り組むようになった出来事が、中学二年生の頃にあったそうですね。

大林:
中学二年生の時にバレーボールの雑誌を読んでいたら、日本代表チームの中心メンバーが所属していた日立バレー部の練習場が地元の小平市にあると書かれていて。私は当時、日立でプレーしていた江上由美(現・丸山)さんのファンだったので、サインが欲しくてお手紙を書いたんです。そして、二歳上の中田久美さんのことも知り、いつかそこでプレーしたいと憧れの場になりました。

小松:
中田久美さん、現バレーボール女子日本代表監督で、史上最年少の十五歳(中学三年生)で日本代表に選ばれたレジェンドですね!

大林:
はい。ただ、ものすごく人気があったので、普通に書いてもサインはおろか本人に読んでもらえるかも分からないので、色々と考えて、江上さんではなく監督の山田重雄さん(※注1)宛にお手紙を出したんです。
※注1:バレーボール女子日本代表監督として1968年メキシコオリンピックで銀メダル、1976年モントリオールオリンピックで金メダルを獲得。1974年世界選手権と1977年ワールドカップでも日本代表を金メダルに導き、世界初の三冠を達成した名監督。2006年バレーボール殿堂入り。

東:
どうして山田監督に?

大林:
選手より監督のほうが手紙をもらう数は少ないでしょうし、監督には申し訳ないのですが、読んでもらえる確率が高くなると思って(笑)また、監督から頼んでもらえば選手もサインを書いてくれるんじゃないかなと考えたんです。

小松:
なるほど、賢いですね(笑)どんな内容のお手紙を書かれたのでしょうか?

大林:
「小平市立第二中学校二年の大林素子といいます。176cmで左利きでバレーボールをしています。将来は全国大会に出場して、オリンピック選手になりたいです。どうすればなれるか教えてください!」と書いて、最後に「P.S. 選手のサインをください」と入れたんです。

東:
凄い!!!どうすれば自分に興味を持ってもらえるのかを徹底して考えたうえで、本来の目的である選手のサインはあくまでついでのように思わせている完璧な内容です!恐ろしい中学生ですね(笑)

大林:
手紙には自宅の住所と電話番号を書いていたのですが、後日、山田監督から直々に電話がかかってきて「そんなに背が高くてバレーボールをやっているのなら、一度練習を見学に来なさい」と言ってくださって。

小松:
運命の歯車が大きく動き始めましたね。

大林:
バレーボール部全員で見学に行ったのですが、江上由美さんを始め森田貴美枝さん、三屋裕子さん、中田久美さんなど1984年のロサンゼルスオリンピックで銅メダルを獲得することになる錚々たるメンバーが揃う中、私は練習にも参加させていただけることになって。

東:
単なる身長の大きな中学生が、一通の手紙を送ったことによって世界でも最高のレベルの選手たちと一緒に練習出来ることになったのですね。

大林:
山田監督の指示で、ロサンゼルスオリンピック銅メダルメンバーの小高笑子さんのポジションに入れていただいて、中田久美さんのトスでスパイクを打たせてもらえたのですが、空振りしてしまい、睨まれて怖かったことを覚えています(笑)

小松:
その状況では、緊張しますよね(笑)

大林:
確かに緊張もしましたが、私と二歳しか違わない中田さんのプレーには大きな衝撃を受けました。こんなにもレベルが違うのかと。練習が終わった後は、皆さんにとても優しくしていただいて、サインをしていただいたり、一緒に写真も撮影してもらいました。お手紙を書いてよかったなと満足していたところで、山田監督からかけられた言葉が私の人生を変えました。

東:
どんな言葉をかけられたのでしょうか?

大林:
「君の練習を見ていたけれど、正直、このままではオリンピックには出られない。本気で行きたいのであれば、明日からウチの練習に参加しなさい。そうすれば、次のオリンピックには出られるかもしれないよ」と言われたんです。それからは、毎日学校の部活が終わってから日立の練習に通わせていただくことになったんです。

小松:
人生が変わりましたね。

 春高バレーのアイドルに

東:
中学校の部活動と日立での練習を両立する日々はかなりキツかったのではないですか?

大林:
死ぬほどキツかったですが、頑張りましたね。あれだけ練習が嫌いでサボってばかりいた私が、一日たりとも休みませんでしたから。絶対に上手くなってオリンピックに出るんだ!という気持ちで一切妥協しませんでした。

小松:
日本一の選手たちに囲まれている環境が、大林さんを変えたのですね。

大林:
もし、バレーボールを辞めてしまったら、またいじめられてしまうかも知れないとも考えていました。結果を出さなければ、居場所がなくなってしまうという思いが強かったんです。幼い頃にいじめられた経験は未だに忘れられなくて、それが、私が努力することが出来る理由なのだと思います。

東:
いじめていた側はすっかり忘れてしまっているのでしょうが、いじめられていた側の心の傷は一生癒えない場合がありますから、一つひとつの言葉や行動に思いやりを込めないといけませんね。

小松:
その後、大林さんは中学を卒業し、名門・八王子実践高校に進学。当時、フジテレビがゴールデンタイムで中継していた“春の高校バレー(※注2)”など数々の大会で活躍して、アイドル的な人気を獲得なさいます。
※注2:全国高等学校バレーボール選抜優勝大会。1970年から2010年までの四十一年間開催された高校バレーボールの大会で、夏のインターハイ、秋の国体と並ぶ高校バレー界三大タイトルの一つ。2011年から全日本バレーボール高等学校選手権大会に名称変更されている。

大林:
八王子実践高校は、私が入学した年には全国大会で三冠を獲るような強豪校でしたが、私が中心選手として戦った春の高校バレーでは二位と三位でしたし、インターハイも優勝と三位、三年生時の優勝は国体の一度だけですので、負けの多い高校生活でした。長身のサウスポーで、名門校の選手だったので、実力以上に注目をしてもらえたのだと思います。

東:
全ての全国大会で三位以上の成績だなんて、とんでもなく凄いと思いますが。

小松:
野球で言えば、大林さんと同級生の“KKコンビ(桑田真澄さん&清原和博さん)”のいたPL学園高校のようなイメージですよね。

大林:
当時の菊間監督の口癖は「二位もビリも一緒だ」で、優勝以外には価値がないという考えでしたから。優勝以外の表彰状やメダルはどこにあるのかも分からないくらいで。

東:
頂点のみを目指している人にしか理解出来ない価値観があるのでしょうね。

小松:
高校バレー界のスター選手になった大林さんは、高校三年生時に日本代表に初選出。1985年に開催されたワールドカップで国際大会デビューを果たし、翌1986年には日立に入団。日本リーグでも活躍し、1988年に開催されたソウル大会で初めてオリンピックに出場なさいます。

東:
しかし、中学生の頃から憧れて、ついに辿り着いた夢の舞台で、大林さんは厳しい試練を味わうことになります。

 試練の日々

小松:
大林さんが初めて出場なさったソウル大会。バレーボール女子日本代表は初出場で金メダルを獲得した1964年の東京オリンピック以来、初めてメダルを獲得することが出来ませんでした。
当時は、現在とは比較できないほどバレーボール、特に女子日本代表の人気が高かったですが、負けた時のバッシングは凄まじいものがありましたね。

大林:
大げさではなく二度と日本に帰れないと思いました。“東洋の魔女”以来、バレーボール女子日本代表チームは常に金メダルを期待される存在でしたから、私たちの代で初めてメダルを持って帰れなくなってしまって、ファンの皆様はもちろん、協会や会社の方々、日本代表の先輩方に合わせる顔もありませんでしたし。

東:
四年後、1992年のバルセロナオリンピックではさらに順位を下げて五位。
1994年にはプロ契約をめぐる問題で、日立を解雇されるなど試練の日々が続きましたよね。

小松:
1994年の7月に、日立バレー部に所属する他の八選手と共にプロ契約を求めて会社に辞表を提出。上層部との話し合いを経て一旦は撤回したものの、11月のVリーグ発足翌日に吉原知子さんとともに日立を解雇された件ですね。宜しければ、経緯をお聞かせいただけますか?

大林:
1992年のバルセロナオリンピックでの五位という結果と、1993年に開幕したJリーグの盛り上がりを受けて、これからは日本のバレーボールも実業団ではなくプロ選手が集まるプロチームになっていかなくては世界で戦っていけないと考えた日立の選手が私を含めて九人いて。当時の私たちは社員として身分が保証されていましたから、もっと厳しい環境に身をおきたいという思いがあって、会社に辞表を提出して、プロ選手として契約してもらえるようにお願いしたんです。

東:
当時は国際的な競技力、国内での人気ともにサッカーよりもバレーボールのほうが上に位置していましたが、このままでは今後衰退してしまうという危機感をお持ちだったのですね。

大林:
おっしゃる通りです。ただ、会社としては企業スポーツですから、急に九人が同時に辞められるのは困る。今シーズンの終了後にプロ契約を考えるから一シーズン待ってほしいと言われたので辞表を撤回したんです。そのシーズンは“日本リーグ”から“Vリーグ”に変わる年で、11月29日に発足記念パーティーが開催されて、私はそこで挨拶もさせていただいていたのですが、翌日に私と吉原知子選手だけが呼び出されて、いきなり即日解雇処分を言い渡されたんです。

小松:
他の選手はお咎めなしで、二人だけだったのですね・・・

東:
見せしめのような意図もあったのかも知れませんね。抵抗はしなかったのでしょうか?

大林:
いきなりのことで、しばらくは状況が理解出来ませんでしたよね。一方的に書面を渡されて、午後三時以降は体育館への立ち入りを禁止すると言われて。吉原選手は寮に住んでいたのですが、その日のうちに荷物をまとめて出ていくようにと命じられました。「シーズン終了後にプロ契約を考えると言ってくれていたじゃないですか」と訴えても、「そんなこと言いましたかね」と、とぼけられてしまって。これまで、何から何まで会社任せでバレーボールのみに集中する生活をしてきたので、大事な約束事は書面に残しておかなければならないだなんてことは知る由もなく・・・言った言わないの口約束など通じない“社会の恐ろしさ”というものをまざまざと思い知らされました。

小松:
当時は多くのメディアがこの問題を取り上げましたが、大林さんたち選手の言い分は全く聞き入れられませんでした。言葉に出来ないくらい辛い思いをなさっていたのでしょうね・・・

大林:
権力のある人こそが正しいのような世界を初めて知り、メディアに叩かれまくって、悪者にされてしまって、世間全体が敵になりましたから。本当に理不尽だと思いましたし、あの時に感じた悔しさや辛さは一生忘れられません。ただ、今では当時に比べれば、ちょっとした仕事のトラブルなんて大したことないと思えるようにはなりました。最低最悪の経験をしているので、この先何があっても耐えられる自信はあります(笑)

東:
たくましいですけれど、少し、切ない強さですよね。

小松:
日立を解雇された大林さんは、吉原選手とともに海外でのプレーに活路を見い出します。
当時の世界最高峰リーグであるイタリア・セリエAでの活躍を経て、選手生活を終えた後のお話を伺ってまいりたいと思います。

東:
宜しくお願い致します。

大林:
宜しくお願いします。

東:
バレーボールとの出会いから高校時代のご活躍、日本代表として出場したソウル、バルセロナの二度のオリンピックの後、プロ契約をめぐって日立を解雇されたところまでお話を聞かせていただきました。

小松:
日立を解雇された後、当時の世界最高峰リーグであるイタリア・セリエAへ挑戦なさったところからお話を伺ってまいりたいと思います。

 キング・カズの言葉に後押しされた

東:
日立を解雇された後は、どのような生活をなさっていたのでしょうか?

大林:
しばらくは部屋で泣いてばかりいました。どうしてこんな目に遭わなければいけないのか、とにかく悔しくて悲しくて。でも、一週間が経つ頃には、そろそろトレーニングをしなければマズいと感じて、同じく解雇された吉原知子選手と一緒にランニングを始めました。

小松:
どん底の精神状態の中で、トレーニングを始められた理由は何なのでしょう?

大林:
あの頃は練習を休むということが無かったので、こんなに長い期間休んだことがなくて不安になったんです。とにかくトレーニングをしなければとランニングから始めました。メディアに追いかけられたりもしましたが、母校の八王子実践高校や、筑波大学でもトレーニングをさせていただいて。そうこうしている間に、イタリアのプロリーグ・セリエAでプレー出来るというお話をいただいて、吉原選手と二人で“アンコーナ”というチームと契約することになりました。

東:
どうして、セリエAだったのでしょうか?

大林:
私が1988年に初めて出場したソウルオリンピックでは三位決定戦で中国にやぶれてしまい四位。バレーボール女子日本代表の歴史で初めてメダルを逃してしまい、その後の四年間、がむしゃらに頑張って挑んだバルセロナオリンピックではさらに順位を下げて五位でした。どうすればメダルを取れるのかと悩んだ末に、オリンピックメダリストたちがこぞってセリエAに所属していることに思い至ったんです。日本代表を強くするには、まずは自分が強くならなければいけない。強くなるには、世界で一番強い選手が集まる場所に行くべきだと考えたんです。

東:
日本人初の挑戦でしたが、不安はありませんでしたか?

大林:
もちろん不安はありましたが、移籍をするか迷っていた時に、当時イタリアでプレーしていたサッカーの三浦知良選手からお電話をいただいて。

小松:
セリエAのジェノアCFCでプレーなさっていた頃ですね。元々親交がおありだったのですか?

大林:
はい、以前から仲良くさせていただいていたのですが、私が日本でバッシングされていることを気遣って、わざわざイタリアから国際電話をくださって。

東:
素敵ですね。どんなお話をなさったのでしょうか?

大林:
「最初に行くのは大変だし、叩かれるかも知れないけれど、結果を出せば全てが変わるから。来た方がいいよ!」と言ってくださって。実際に道なき道を切り拓いてきた三浦さんの言葉には凄く重みがあって、その言葉に押されて「よし、行ってみよう!」という気持ちになれたんです。

小松:
当時はインターネットも普及していませんでしたし、今と比べると海外への挑戦はとてもハードルが高かったですが、三浦選手の言葉で、ハードルをとび越えることが出来たのですね。

大林:
そうですね。もし、日立でプロ選手になれていたら、一生海外には挑戦出来なかったかも知れませんし、今の日本バレーの歴史も変わっていたかも知れませんね。

東:
不思議な巡り合わせですよね。

 待っていても来ないなら、自分で動く

小松:
その後、大林さんはイタリアで五ヶ月間に渡ってプレーした後、帰国。Vリーグの東洋紡オーキスとプロ契約を締結し、日本代表としては三度目の挑戦となるアトランタオリンピックに出場後、1997年の3月に二十九歳で現役生活にピリオドを打たれました。引退を決意なさった理由をお教えいただけますか?

大林:
多くのアスリートと同様、私は現役時代にオリンピックを中心に人生を設計していたんですね。つまり、四年のスパンで物事を考えていたんですが、1996年に私が出場した最後のオリンピックであるアトランタ大会に出場した後、以前から痛めていた膝の調子がどうしても良くならず。競技が出来ないような状態ではなかったのですが、2000年のシドニーオリンピックを考えると、今以上のプレーが出来るようにはならないなと感じて、引退することにしました。

東:
なるほど。四年後のオリンピックに向けて、自らの力が向上することはないと感じたことで、競技を離れる決断をなさったと。引退後のお仕事については考えていらしたのでしょうか?

大林:
先程もお伝えしたとおり、私は幼い頃から歌手になるのが夢でしたので、引退した後は舞台の上でお芝居をしたり歌ったりして、自らを表現するお仕事がしたいと考えていました。ただ、バレーボール選手が引退後にいきなり「お芝居をやりたいです!」と言っても、どこの誰も相手にはしてくれないことは理解していました。ですので、まずは、友人のアスリートが所属していた大手芸能事務所のスポーツ文化部にお世話になってお仕事をさせていただくことにしたんです。

小松:
ご自身が本当にやりたいお仕事ではなく、世間に求められるお仕事から始めようと考えられたわけですね。お仕事のほうは順調だったのでしょうか?

大林:
ありがたいことにバラエティ番組やスポーツキャスター、バレーボール教室の講師などたくさんのお仕事をいただいて、目まぐるしいくらいに忙しい日々を送らせていただきました。
ただ、本当にやりたいと考えていたお芝居のお仕事は全然いただけなかったですけど(笑)

東:
悩ましいですよね。大林さんは、周りから見るとバラエティ番組でトークをなさったり、スポーツに関わるお仕事をなさっている時がとても輝いていて“天職”に見えるのに、本人がやりたいことはお芝居なわけですから。

小松:
渇望感がありますよね。

大林:
もちろん、やりたいことを実現するために自分でも行動しました。例えば、自らつんく♂さんにお願いして、歌をつくっていただいたり。

東:
当時、人気のあった身長の低いアイドルを集めたユニット“ミニモニ。”に対して、身長175cm以上の女性でユニットをつくろうとメンバーを募集したところ、大林さん以外集まらなかったというつんく♂さんプロデュースの伝説のアイドル“デカモニ。”ですね!

小松:
ご自身で行動なさって、歌手になるという夢を叶えられたのだから素晴らしいです!

大林:
ありがとうございます。ただ、当時はスポーツ選手のくせにチャラチャラするな!というご意見をいただいたり、所属事務所の方針とは違っていたりで、色々と大変な思いもしました。

東:
歌やお芝居が、大林さんが幼い頃からやりたかった夢のお仕事なのだと理解していただけていればまた別の反応があったのかも知れませんが、日本においてはどうしてもトップアスリートは競技ひとすじに道を極めてきた人間で、引退後にもそうであってほしいという世間からの願望があるように感じます。また、アスリート自身もそのイメージに縛られて、自らの仕事や活動の幅を狭くしている部分があるのではないでしょうか。

小松:
このインタビュー企画では、大林さんを始めとするアスリートが、競技を終えた後にも様々な分野で活躍していることをお伝えして、世間やアスリート自身の“仕事”に対するイメージを前向きに変革していきたいと考えていますが、大林さんのキャリアは素晴らしい“ロールモデル”になると思います。

東:
オリンピックに三度出場しているとか、春高バレーのアイドルだったという部分を見るのではなく、現役時代とは全く異なるキャリアを築いていく中で、どのような考えで、どんな行動をなさってきたのかについて注目してほしいですね。

 超一流との出会い

小松:
前編で、二十九歳で引退してから三十九歳までの十年間は“大林素子本人役”やバレーボールを題材にしたドラマや映画への出演が主で、本格的なお芝居の仕事のオファーはいただけなかったと伺いましたが、三十九歳の時に舞台俳優に挑戦なさいましたよね。

大林:
はい。三十九歳の時に自ら出演させてほしいというオファーを出して、舞台俳優としてデビューしました。

東:
最初はどちらにオファーを出されたのでしょうか?

大林:
エアースタジオという劇団です。妹が劇団員と同級生で、観客として舞台に行った際に打ち上げに参加させていただいて。その時に勇気を振り絞って「私、お芝居やりたいんです!」とお伝えしたらみなさんとても驚いて。

小松:
それは驚きますよね。

大林:
では、次の公演に出ます?と、翌年にデビューさせていただいて以来、十三年間ずっと出演させていただいています。

東:
僕も何度か拝見していますが、お世辞抜きで驚くくらい演技が上手で引き込まれます。

大林:
いえいえ、まだまだなんですが、エアースタジオ以外にも、いくつかの劇団で年に二〜三本ほど出演させていただいています。待っていてもオファーが来ないので(笑)、自ら売り込みに行っているんですよ。

小松:
小さな舞台ですと、予算の関係もあって、大林さんにはなかなかオファー出来ないですよね・・・

大林:
蜷川幸雄さんにも手紙を書いて、お会いさせていただいたんです。

東:
中学時代の日立バレーボール部の山田重雄監督と同様に“世界のニナガワ”さんにもお手紙を書かれたのですね!

大林:
はい、私の所属事務所が制作している蜷川さんの舞台に伺い、初めてお会いした時に「大林くん、どうして舞台をやりたいの?」と聞かれて、自分の思いを伝えたところ、二年後に蜷川さんの演出なさっている舞台に出演させていただくことが出来たんです。

小松:
凄いですね!どんな舞台のどんな役だったのでしょうか?

大林:
最初は野村萬斎さん主演の「ファウストの悲劇」です。蜷川さんの舞台では三役、四役をやらせていただくのですが、その時も王妃の役など色々やらせていただきましたし、「盲導犬」では、以前に桃井かおりさんが演じられた役をやらせていただきました。残念ながら、この作品が蜷川さんの舞台への最後の出演になってしまいましたけれど。

東:
蜷川さんの指導は相当厳しかったのではないですか?

大林:
はい、本当に大変でしたが、蜷川組で演技をさせていただけたのは、大きな財産です。蜷川さんがお亡くなりになる前にNHKの番組に出演されていて、サプライズで私にコメントをくださったんです。「大林くんが本当に芝居をやりたいなんて、最初は思わなくてね。でもどうも本気だというので、大林くんには普通の役者は無理なので、普通じゃないんだったら日本一グロテスクな女優になればいいんだよね」という内容のことを言ってくださったんです。あの言葉は本当に嬉しかったです。いまだに蜷川さんがおっしゃってくれた“グロテスクな女優”を模索しているところです。

小松:
まさに人間そのものを露わにして演じるポジションですよね。素晴らしいですよね。

大林:
すごく難しいのは分かっているんです。私はおそらく一生女優ではなく、元アスリートやスポーツキャスターの大林素子として見られるのだと思うのですが、いつか、自分も世間も納得する演技をして、女優として認められたいと思っています。

東:
蜷川さんに、ジャンルはともあれ「日本一の女優になれ!」と言われたのはもの凄いことですよね。これまでにも自分は背が高いから、女優は無理だなと諦めてしまった人はたくさんいたのではないかと思うのですが、大林さんはそれを叶えているのが素晴らしいです。

大林:
いや、まだまだです。いまだに関係者の方々には「大林さんがやりたいのはわかりますけれど、身長が高いからねえ」と言われてしまうので。それを覆すには、実力をつけ、実績をつくるしかないんです。

東:
今、その実績を積み重ねているところですよね。

小松:
ただ、これはメディアの問題でもあるのですが、女優としての大林さんのキャリアにはもっとスポットライトが当たるべきだと思います。一流のアスリートから本格的な芝居の世界に入ってご活躍なさっている人は本当に稀有な存在ですから。

大林:
私がつんく♂さんプロデュースでCDを出させていただいたり、蜷川幸雄さんが演出した舞台に立たせていただいて感じたのは、何事も待っているだけではチャンスは来ないということです。もちろん待っていてもチャンスに恵まれる人はいますし、お仕事は需要と供給のバランスで回ります。でも、私にとっての歌やお芝居など、まだ、世間には求められてはいないかも知れないけれど、自らの生涯をかけてでもやりたい仕事があった時には、それは待っていても来ないことが多いので、その時にどう行動するかが、人生においてとても大切なのではないかと思います。

 頂点を目指さずに生きる

東:
大林さんは、現役時代はもちろんセカンドキャリアでも、自らの夢に向かって失敗を恐れずに新たな挑戦を続けていらっしゃいますが、アスリートの中にはなかなか新たな挑戦を出来ない人もいらっしゃいます。何かアドバイスをお願いできますか?

大林:
そうですね、私は必ずしも挑戦し続けなければいけないわけでもないと思います。私の場合はやりたいことがあったので挑戦しましたが、誰もがずっと新たなことに挑戦し続ける必要があるかというと、そこは人それぞれの価値観であり、自由ですからね。競技を引退して、普通に結婚をして、出産してという人生もありますから。現役時代にスポーツに打ち込んで、その後燃え尽きて、燃え尽きてしまった後で「また別のものに打ち込まないといけないのだけれど、何をすればいいんだろう?」という状態になっている人ってたくさんいると思うんです。踏み出したいなら踏み出せばいいし、行けないなら行けないで、別に死ぬ訳ではないですから。でも、アスリート時代、そこに全てを賭けて生きてきたわけですから、同じレベルでというのはなかなか難しいのかも知れませんね。私は元々あったのですが(笑)

東:
これまでに様々なアスリートからお話を伺ってきて感じたのが、オリンピアンやパラリンピアンを始めとするトップアスリートは、当然のように日本一や世界一を目指していて、それを達成出来なかった時には、後悔したり反省したりします。「二位じゃダメなんです」と。でも、他の仕事に置き換えてみると、全然日本一にならなくても食べていけるんですよね。バレーボールで日本で1000番目の実力の選手がバレーボールのみで食べていくことは難しいかも知れませんが、営業や経理やプログラマーで日本で1000番目の実力があれば十分に食べていけますし。トップでなければいけないわけではないというマインドを持つことも大切な気がしますね。

大林:
一番を獲ったことのある人が「普通に生きる」ことを考えるのは、難しいのかも知れません。

小松:
常に誰かと競争して生きていかなくてもいいわけですからね。常に誰かと競争して生きていかなくてもいいわけですからね。

東:
そんな風に考えることで楽になることで、逆に今まで培ってきたものを生かして、自分ならではのポジションを築くことが出来るかも知れませんしね。
さて、それでは改めて現在の大林さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、スポーツキャスターやタレント活動、女優業などが「C」の領域、バレーボール中継の解説者などが「D」の領域、日本バレーボール協会などスポーツに関わる団体でのお仕事が「B」の領域と、現場での指導以外の三つの領域でご活躍なさっていることが分かります。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

小松:
今後、女優としてはもちろん、2020年の東京オリパラでも競技の枠を超えて、スポーツ全体を盛り上げるご活躍を期待しております。

東:
ここで最後のお願いです。バレーボールという競技の名前を使わないで、大林さんの自己紹介をしていただけますか?

大林:
大きくて、いたって普通の精神を持っているおばさんです。

東:
そういう人になりたいと?(笑)

大林:
いえ、“女優”と呼ばれるようにいつかなりたいと、日々思っています。

小松:
いつか必ずそんな日が来ると信じています。
本日はありがとうございました。

大林:
ありがとうございました。
(おわり)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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