Career shift

大木卓也 / Ooki Takuya   元パラサイクリング・タンデムスプリント選手|現在:

障がい者からトップアスリートまで 全ての人を健康に 元パラサイクリング・タンデムスプリント日本代表・アテネパラリンピック銀メダリスト 大木卓也

Profile

 

大木卓也(おおき・たくや)
1980年茨城県笠間市生まれ。自転車競技の名門校である茨城県立取手第一高等学校にて競技を始める。2004年アテネパラリンピック・パラサイクリング男子タンデムスプリント銀メダリスト。※健常者パイロットとして出場。日本では二人目のパラリンピック健常者メダリスト
2009年競輪学校卒業間際の練習中に落車し、脳に腫瘍が見つかり選手生命を絶たれる。2019年3月に骨盤にフォーカスしたインソールを企画開発販売する会社「IRERUDAKE株式会社」を立ち上げた。

東:
今回は、2004年に開催されたアテネパラリンピックのパラサイクリング・タンデムスプリント競技で銀メダルを獲得なさった大木卓也さんにお話を伺います。

小松:
障がい者の自転車競技であるパラサイクリングは障害の種類によって大きく4つに競技クラスが分類されており、タンデムスプリントは視覚障害を持つ選手のクラスで、二人乗り用の自転車の前に健常者(パイロット)、後ろに視覚障害者(ストーカー)が乗っておこなうトラック競技です。大木さんは健常者のパイロットとして弱視の葭原 滋男(よしはら しげお)選手と組んで、アテネ大会に出場なさいました。

東:
元々大木さんは競輪選手になるために努力なさっていたのですが、ところが、二度も止むを得ない理由でその道が途絶えてしまいます。

小松:
当時の決断を迫られた瞬間のお話も是非お聞かせ願いたいのですが、まずは現在のお仕事について伺っていきたいと思います。

東:
現在の大木さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、IRERUDAKE(いれるだけ)株式会社で代表を務めておられますので「C」の領域でのお仕事をなさっているということになりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

 ブランド名「DAKE」に込めた思い

小松:
早速ですが、現在のお仕事についてお聞かせください。

大木:
はい、主な仕事として“IRERUDAKE株式会社”の代表取締役として、“DAKE(だけ)”という健康のための商品を企画開発・販売するブランドを2018年11月に立ち上げ、現在ブランド商品第一号として、足裏から身体のバランスを整えるインソール「IRERUDAKE」を販売しています。

東:
DAKEというブランド名には、どのような意味が込められているのでしょうか?

大木:
健康になるために必要なものを“◯◯するだけ”の誰でも簡単に取り扱える商品を扱うという意味が込められています。年齢や性別、障がいの有無や競技レベルに関わらず、健康は幸せな生活を送るための根幹だと思いますので、全ての人が笑顔の絶えない素敵なライフスタイルを送っていただけるような商品を開発するために事業を立ち上げました。

小松:
素晴らしい思いをお持ちなのですね。
いつ頃からこちらの事業の構想をお持ちだったのでしょうか?

大木:
この事業を立ち上げる前は自転車販売の仕事に携わっていたのですが、その頃からです。  

東:
どのようなお仕事を?

大木:
スポーツ自転車関連商品の販売です。

小松:
自転車販売から現在のお仕事にシフトなさったきっかけがあればお教えいただけますか?

大木:
以前の仕事をしている時に原因不明の頭痛に悩まされるようになって、どうにか治したいと解決策を探してみたのですが、なかなか見つからず・・・。
現役時代に首の骨を折るなどの怪我をしてきたので、それが影響しているのだろうとは思うのですが、そんな時に知人から身体のバランスを整えれば様々な痛みがなくなるという話を聞いたことがきっかけなんです。

東:
身体のバランスを整えるために使用したのがインソールだったのですか?

大木:
いえ、最初に身体バランスを改善し、頭痛を改善してくれたのは別の治療法だったのですが、その時の経験がインソール“IRERUDAKE”の開発につながっています。

小松:
どのような治療法だったのでしょう?

大木:
歯の噛み合わせを改善することで頭痛が治るという話を妻の先輩から聞いて、試しに先輩に噛み合わせを調整してもらったら本当に痛みがとれたんです。

東:
噛み合わせ、ですか?

大木:
はい、歯の噛み合わせが全身のバランスを司っていて、噛み合わせが改善されると頭の位置まで変わって、バランスが修正されて、様々な痛みが改善されることが分かったんです。
僕の妻は歯科医なので詳しく聞いたところ、一般の歯科業界には浸透していない特殊な技術だったようで最初は半信半疑でした。しかし、さらに詳しく調べてみたところその技術の素晴らしさを理解して、結果、現在、妻は噛み合わせ治療を軸として茨城県つくば市に開業しました。

 歯科医の妻と二人で事業を展開

小松:
それはいつ頃のお話だったのでしょう?

大木:
今から三年前、2016年頃です。僕が噛み合わせの治療をしたのが三十二歳で、インソールとの出会いは更に二年後くらいになります。

小松:
自らの頭痛の症状改善のためにまず噛み合わせ治療のことを知って、奥様にそれを伝えられたことで新たな事業が生まれたわけですね。

大木:
あれだけ悩んでいた頭痛がどんどん良くなっていったので、その素晴らしい治療をより多くの方々に伝えたいと思って事業化に踏み切りました。

小松:
奥様が歯科医をなさっていたことも運命的ですね。

大木:
そうなんです。また、調べていくうちに噛み合わせを通じて身体のバランスを改善する技術は、スポーツにおけるコンディショニングにも活かせることに気づきました。
そこで、トップアスリートの身体のバランスについてより詳しく調べていく中で、インソールに出会ったんです。

東:
なるほど、そこでインソールに繋がるわけですね。

大木:
例えば、自転車競技の選手は前傾姿勢になるため猫背になってしまうことが多く、私も引退後までずっと治らずに困っていたのですが、とあるインソールを使用したところ猫背がきれいに治ったんです。「これはすごい!」と感動して、身体バランスの改善という面で調べてみたところ明確な理由が見つかったので、妻は噛み合わせ、僕はインソールを活用して多くの方々の身体バランスを改善することで、健康になっていただく事業を立ち上げようと考えました。

小松:
インソールを使用するだけで猫背が治るだなんて素晴らしいですね!
普通のいわゆる“中敷き”との違いをお教えいただけますか?

大木:
足裏は身体の全体重を支えている部分ですが、多くの人が足に合わない靴を選ぶことで、身体の歪みを自ら作ってしまっています。IRERUDAKEには中足部に特徴的な3つの膨らみ(特許申請中)があって、内側、外側、横の3点で身体の軸をサポートする仕組みになっています。これを履くことで、一気に骨盤が整って体のバランスが安定するんです。

東:
(サンプルを使用してみて)なるほど、確かに安定する感じがしますね!

 去年、念願の商品を作ることができた

小松:
IRERUDAKEの生産はどちらでなさっているのですか?

大木:
工場は中国です。今後は日本で作っていきます。

東:
初めに大木さんが出会ったインソールも中国で作られたものだったのでしょうか?

大木:
いえ、それは国産のオーダーメイドで20万円くらいのものでした。これを使用すると杖を使わなければ歩けないような方々でも瞬時に歩けるようになるんです。

小松:
インソールを使用するだけでそんなに変わるものなのでしょうか?

大木:
はい。身体のバランスというのは、それだけ大切なんです。まだあまり知られていませんが。

東:
20万円となると、インソールとしては少々高額だというイメージがありますね。

大木:
そうですね。僕自身、素晴らしい商品だと思ったので販売を始めたのですが、なかなか購入していただけませんでした。実際に試していただくとほとんどの方に効果を実感していただけるのですが、20万円だとお伝えした瞬間に目の色が変わりますね。

東:
ちょっと違う商売とも捉えられかねない価格ですよね(笑)

大木:
そうなんですよね(笑)結局、そのインソールを扱っている会社は倒産してしまったのですが、商品自体は素晴らしく、本当に困っている人に届けたいと思っていたので、自転車関係で付き合いのあった中国のエージェントに聞いてみたら出来ると言ってもらえて。その後、一年間試行錯誤して、去年やっと納得のいくものが出来ました。それが“IRERUDAKE”です。

小松:
ちなみにIRERUDAKEの価格はおいくらなのでしょう?

東:
お高いんでしょう?(笑)

大木:
1足(2枚)15,000円です。

東:
おお〜、随分とコストダウンに成功なさいましたね!

大木:
ありがとうございます(笑)

 競輪選手への道が途絶えて、セールスマンへ

小松:
大木さんはIRERUDAKE株式会社の代表取締役の前には自転車に関わるお仕事をなさっていたと伺いました。その時のことをお教えいただけますか?

大木:
海外から輸入した自転車を小売店に卸す企業でセールスマンを務めていました。僕は紆余曲折を経て二十九歳で競輪選手になることを断念したのですが、その年の秋に入社しました。何度かトップセールスを記録したこともあるんですよ。

東:
トップセールスマンだったんですか? 凄いですね!
セールスをする際に心がけていたことがあれば教えていただけますか?

大木:
無理やり売りつけるのではなく、お客様の要望をしっかりとヒアリングした上で、自らの選手経験に基づいたアドバイスや商品説明をしながら販売するようにしていました。

小松:
なるほど、アスリートの強みを存分に活かしてセールスをなさっていたのですね。誰から購入しても同じ自転車であれば、大木さんというトップアスリートから買ったほうが貴重なアドバイスがもらえるわけですから「どうせ買うなら大木さんから」となりますもの。

東:
お客様が自転車に詳しければ詳しいほど、経験者ならではのセールストークに説得力を感じたでしょうから、トップセールスという結果も偶然ではないと思います。
自転車以外のスポーツ用品を他競技のアスリートがセールスする際にも同じことが言えるのではないでしょうか?

小松:
トップアスリートとしての実績や経験を、セールスの際の信頼に繋げていくことは様々なジャンルで実施出来そうですね。

東:
さて、インソールを中心に歯科医を務める奥様とも連携しながら身体バランスを整えることで多くの人たちを健康にするための事業を進めているビジネスパーソンとしての大木さんのお話を伺いましたが、トップアスリートとしての歩みについて伺ってまいりたいと思います。

小松:
大木さんと自転車競技の出会いから競輪選手への挑戦、パラサイクリングに関わるようになったきっかけなどについて詳しくお話を聞かせてください。

大木:
宜しくお願い致します。

東:
大木さんと自転車競技の出会いから競輪選手への挑戦、パラサイクリングに関わるようになったきっかけなどについて伺ってまいります。

 自転車大好き少年の日々が始まる

小松:
まずは大木さんが自転車競技を始められたきっかけを教えていただけますか?

大木:
小学四年生の頃にマウンテンバイクがブームになって、僕も買ってもらったのが始まりです。ある日、ふと思い立って、自宅から片道50キロある東海村まで三時間かけて行ったのですが、それを祖母が褒めてくれたのが嬉しくて。

東:
マウンテンバイクやBMX、流行りましたよね!
しかし、小学四年生で50キロ先まで自転車に乗って行くとは・・・

大木:
あの辺りは地形がフラットなので、それくらいの距離は自転車で行く方も珍しくはないんです。自転車専用のコースもたくさんありますし。

小松:
それにしても凄い体力だと思います。

大木:
今にして思えば向いていたのかも知れません。また、祖母に褒められたのが嬉しかったこともあって、自転車が大好きになりました。

東:
ちょっとした成功体験や誰かに褒められたことがきっかけで何かを好きになる気持ち、とても良く分かります!

大木:
それで、中学二年生の冬にロードレーサーを今までに貯めたお金で買って、競技として本格的に自転車に取り組むようになりました。

小松:
その後、大木さんは自転車競技を続けられる環境を求め、茨城県立取手第一高等学校(以下取手一高)に進学なさいますね。

 自転車競技の名門高校に入学

大木:
茨城県の高校で自転車競技部があるのは取手一高だけだったのですが、全国大会で優勝もしている強豪だったので、ここしかない!と思って決めました。

東:
それだけの強豪校であれば、トレーニングはかなり厳しかったのではないでしょうか?

大木:
もちろん厳しかったです。耐えきれずにやめてしまう人も多くて、入部当初10人いた部員が、最後は3人になっていました。

小松:
大木さんのご自宅から取手一高までは電車で一時間半程度。日々の通学は大変だったのではないですか?

大木:
毎朝四時過ぎに自宅を出て、夜十時に帰宅する日々でしたが、今にして思えばそれに付き合ってくれていた両親が一番大変だったと思います。毎日お弁当をつくって、僕を起こして車で駅まで送迎してくれていましたから。

東:
僕も当時は気づきませんでしたが、高校時代を始め学生の頃には本当に両親に支えられました。感謝あるのみですよね。二年生の時には自転車で通学なさっていたそうですが。

大木:
高校一年生の時に落車して鎖骨と首の骨を怪我してしまってから、一時目指していたものが無くなってしまってふらふらしていたら大会に出させてもらえなくなってしまって。このままではいけないと思い、通学の時間も練習にあてようと自転車で通い始めました。

小松:
電車で一時間半かかる距離を自転車で・・・
それとは別にトレーニングもなさるわけですから、凄まじい練習量ですね。

大木:
効果はてきめんで、いつのまにか強くなっていました(笑)

小松:
取手一高にはアテネオリンピック自転車競技で銀メダルを獲得なさった長塚智広さんなど卒業後に競輪の道に進まれた先輩がいらっしゃいましたが、どのような進路を考えていらしたのでしょうか?

大木:
僕としては競輪選手になりたい気持ちと大学に進学したい気持ちの間で揺れ動いていたのですが、いくつかいただいていた大学からのお誘いをうちの母が全て断ってしまって(笑)。

 競輪選手を目指したものの、その道は険しかった

小松:
お母様はなぜそのようなことを?

大木:
わかりません(笑)でも、うちの母は僕に競輪選手になってほしいという思いが強かったようです。

東:
珍しいですよね。大体ご両親が「とりあえず大学には行きなさい」で、子どもが「プロに挑戦したい」というパターンが多いように思いますが。

大木:
それで、卒業後には大学に進むのではなく、競輪選手になるために競輪学校への入学試験に挑戦したのですが、五年連続で合格することが出来ずに挫折しました。

小松:
競輪学校に入学するにはタイムトライアルに合格することが必要だと伺いましたが、内容をお教えいただけますか?

大木:
一年に一度、200mと1000mのタイムトライアルを実施するのですが、200mはクリア出来るのですが、どうしても1000mが苦手で。練習では合格タイムを出せるのですが、本番では毎回コンマ5秒くらいの差で不合格になってしまって・・・
競輪学校へ入学出来るのは二十三歳までというルールがあって、高校を卒業してから五年目の試験で不合格になったことで、年齢制限に引っかかってしまうので諦めざるを得なくなってしまいました。

東:
1000m走ってコンマ5秒、本当にわずかな距離ですよね。

大木:
10mあるかないかです。

小松:
年に一度の入学試験以外にはどのような生活を送っていらしたのでしょうか?

大木:
競輪場などでアルバイトをしながらトレーニングをしていましたが、ほとんど収入は無く、家族にも随分迷惑をかけてしまいました。

東:
競輪学校の入学試験を受験するための年齢制限が設けられていることは、僕は素晴らしいと思います。五年間挑戦してもダメなら諦めなければならない制度があることで、次に進めますから。プロの世界は努力したからといって、必ず報われるわけではないですし、才能がなければ生きていけない世界です。残酷なようですが。どうしても諦めきれずに頑張っている人に諦めざるを得ない状況をつくってあげることも、人生の限られた時間を大切にするためには必要なのではないかと思います。

大木:
そうですね。あるスポーツ強豪校では、二年生の時点で今後試合に出場出来ないであろう選手の引退試合を実施するそうです。
初めに聞いた時には残酷だなと感じたのですが、淡い期待を持たせ続けることなく、試合に出場するのは無理だということをはっきりと伝えて、それでもここで競技を続けるかどうかを選ぶ機会を与えているそうです。

小松:
試合に出られなくとも続けるかどうかの選択肢を与えていると。

大木:
はい、ですからその学校の応援席にいるのは、次は自分が試合に出場しようと思って応援している下級生か、試合には出場出来ないと分かっていても自分自身の意志でチームに残り、誇りを持って応援している上級生なので、燻っている生徒が一人もいないと聞きました。

小松:
ともすれば非情とも捉えられかねないですが、これこそが本当の優しさなのかも知れませんね。

大木:
生徒もご家族も納得なさっているようです。

東:
僕は以前は「諦めなければ夢は叶う」と言って来たのですが、最近では言わないようにしています。「諦めてしまうまで夢は終わらない」や「夢は叶わないかもしれないけど、努力を続けていれば近づくことは出来る」とは言いますが。
競輪の場合は二十三歳という年齢制限がありますが、サッカーや野球では地域リーグや独立リーグなどの下部組織で、プロとは名ばかりの苦しい生活を送りながらもプレーを続けることが出来る状況があります。アスリート自身が自らのキャリアを設計していかなければ、競技中心の生活を送り続けたうえで、引退後の人生で困ってしまう事例が増えてしまうのではないかと心配な部分もあります。

小松:
学生であれば“卒業”という節目がありますが、社会人になると自ら決断し、節目をつくらなければなりませんものね。

 パラサイクリングとの出会い

東:
年齢制限によって競輪選手になる夢を断念した大木さんですが、とある方からのお声がけでパラサイクリングへのお誘いを受けることになりましたね。

大木:
2003年の11月に五回目の試験に失敗した後、12月に高校卒業後から所属していたクラブチームの監督からパラサイクリング・タンデムスプリントのパイロットとして、葭原(よしはら)滋男選手とアテネパラリンピックを目指してみないかと誘われて。
※パラサイクリングは障がい者の自転車競技。障害の種類によって大きく4つに競技クラスが分類されており、タンデムスプリントは視覚障害を持つ選手のクラスで、二人乗り用の自転車の前に健常者(パイロット)、後ろに視覚障害者(ストーカー)が乗っておこなうトラック競技

小松:
葭原選手はシドニーパラリンピックの同競技で金メダルを獲得なさった名選手ですね。
パラサイクリングやタンデムスプリント競技のことはご存知だったのでしょうか?

大木:
はい。前回のシドニーパラリンピックでの葭原選手の活躍も知っていたので、二つ返事で引き受けることにしました。元々は競輪選手になれなくなってしまったので普通に就職しなければいけないと考えていたのですが、バイトを二つ掛け持ちしながら一年間パラサイクリングに取り組むことにしました。

東:
競輪選手になれなかったことで、パラサイクリングに出会えた大木さん。
健常者として出場し、銀メダルを獲得なさったアテネパラリンピックについてのお話から伺っていきたいと思います。

小松:
宜しくお願い致します。

大木:
宜しくお願い致します。

小松:
健常者として出場したアテネパラリンピックでのお話から競輪への再挑戦、今後のビジョンなどについてお話を伺ってまいります。

 本当にやりたかったこと

小松:
競輪学校の入学試験に五年連続で失敗。年齢制限によって競輪選手の夢を諦めざるを得なくなったところで、パラサイクリング・タンデムスプリント競技のシドニーパラリンピック金メダリストである葭原(よしはら)滋男選手とともにアテネパラリンピックを目指すことになったわけですが、何か気持ちの変化はありましたか?
※パラサイクリングは障がい者の自転車競技。障害の種類によって大きく4つに競技クラスが分類されており、タンデムスプリントは視覚障害を持つ選手のクラスで、二人乗り用の自転車の前に健常者(パイロット)、後ろに視覚障害者(ストーカー)が乗っておこなうトラック競技

大木:
「競輪選手にならなければ」と必死に頑張ってきた五年間と比較すると、ものすごい解放感があって楽しかったです。

東:
解放感ですか?

大木:
はい。振り返ってみると、一年目、二年目と入学試験の失敗を重ねる度に、“合格したい”から“合格しなければならない”へと気持ちが変化して、どんどんプレッシャーが増していったように感じます。

小松:
自らの“やりたいこと”をやっているのではなく、周りの期待に応えるために“やらなければならないこと”をやっていたと。

大木:
そうですね。年齢制限のおかげでもう競輪学校に挑戦しなくてもいいと思って、スッキリしたのかも知れません。この時に改めて自分が何になりたかったのかを考えて、子供の頃から大好きな自転車で走る仕事をしたかっただけで、競輪選手になりたかったわけではないことに気づいたんです。

東:
なるほど。競輪選手に“なりたい”ではなく“ならなければいけない”という気持ちで挑戦していたので、無意識にブレーキがかかってしまい、練習では出せていた合格タイムが試験ではコンマ5秒届かずに不合格を重ねてしまったのかも知れませんね。

小松:
周囲の期待によって、頑張らざるを得ない状況に追い込まれてしまうことはアスリート以外にもままあることですが、苦しい時間をお過ごしになられたのですね。

東:
アスリートでもビジネスパーソンでも、周囲の期待に応えなければならないという気持ちが強すぎると心が毀れてしまうことがありますよね。
普段から自らが何のために努力しているのかという目標設定を明確にし、現在の自分の状況を客観的に見られるような機会を定期的につくることが必要だと思います。

小松:
メンタルヘルス、アスリートはもちろんビジネスパーソンにも大切ですね。

東:
はい、客観的に自分を振り返るためにも、短くて構わないので日々感じたことや考えたことを日記やメモなど文字にして残しておくと良いのではないかと思います。

 健常者としてパラリンピックへ

小松:
パラサイクリング・タンデムスプリント競技は、二人乗りの自転車の前に健常者である大木さんが乗り、後ろに視覚障害者である葭原さんが乗るわけですが、どのような点がポイントなのでしょうか?

大木:
二人三脚のような競技ですので、最も大切なのは二人の呼吸を合わせることです。ペダルをこぐタイミングを合わせなければスピードが出ませんので。

東:
どのようなトレーニングをなさっていたのでしょう?

大木:
僕たちの競技で使用する距離の走路が静岡県の伊豆の競技場にしかなかったので、茨城県の笠間から通っていました。パートナーの葭原さんが公務員だったので、週末にしか一緒にトレーニングを出来なかったのですが、二人の息を合わせるためにとにかく同じ時間をともに過ごすことを意識していました。

小松:
葭原さんは十歳の頃に目の病気である網膜色素変性症が発覚。その後、走り幅跳びの日本代表選手としてバルセロナ&アトランタパラリンピックに出場し、アトランタ大会では銅メダルを獲得。その後、パラサイクリングに転向してシドニーパラリンピックに出場。1000mで当時の世界記録を更新して金メダルを獲得し、スプリントでも銀メダルを獲得なさった世界的なトップアスリートです。パラリンピックを目指す中で同じ努力を重ねていたとしても、どうしても葭原さんに注目が集まってしまったのではないかと思うのですが、そういった部分でのストレスを感じたことはありませんでしたか?

大木:
全然なかったです。葭原さんのほうが二十歳以上も年上ですし、僕は何が何でも主役になりたいというタイプではないので(笑)

東:
パラリンピックでは、マラソンの伴走など健常者が帯同する競技がいくつかありますが、光が当たるのはどうしても障害者になってしまいます。
大木さんは自らに光が当たらなくとも努力を積み重ねることが出来るというか、人を支えることに喜びを見いだせる方のように思いますね。

大木:
人と競うことに向いていないのかも知れません(笑)

東:
僕もそうなんです(笑)
人を蹴落としてまで、という気持ちになれなくて・・・
そこが一流になりきれなかったところなのだろうなと今にして思います。

小松:
大木さんも東さんも一流なうえに他者を思いやる優しさをお持ちの素晴らしい選手だったということです(笑)

東:
無理やり言わせてしまったみたいで申し訳ありません(笑)
さて、大木さん。
迎えたアテネパラリンピックではどのような感想をお持ちになりましたか?

大木:
月並みな表現になってしまいますが、本当にたくさんの素晴らしい経験をさせてもらいました。開会式では世界最高峰のスポーツイベントの迫力に圧倒されましたし、選手村などそこかしこで健常者アスリートの世界とは全く違った風景を見ることが出来ました。
また、一括りに“障害者”と言いますが、選手や関わる人たちそれぞれに個性があって、みんながとてもフレンドリーで輝いている姿を間近に見たことで、目からうろこが何枚も落ちたように思います。

小松:
競技の面でも見事に銀メダルを獲得なさいました。

大木:
貴重な経験が出来たのではないかと思っています。健常者でパラリンピックのメダルを持っている人はとても珍しいですし、障害者の方々を見る目が変わったことは現在の仕事にも非常に活きています。

東:
競輪学校に合格出来なかったことが結果的に大木さんのキャリアを特別なものに変えたのですね。

小松:
アテネパラリンピックを終えた大木さんは歩みを止めることなく次の挑戦に向かいます。

 忘れ物を取りに行く

東:
アテネパラリンピック終了後、競輪学校の年齢制限が撤廃になったことを受けて、再び入学試験に挑戦することを決意なさいましたね。
一度は競輪選手への思いについて“なりたかった”わけではなく、“ならなければいけない”という気持ちだったと整理なさいましたよね。再び挑戦しようと思った理由は何だったのでしょうか?

大木:
大好きな自転車競技でパラリンピックという世界最高峰の大会に出場して、メダリストにもなりました。これで自転車にはひと区切りをつけようと考えていたのですが、再び競輪選手を目指せる環境が目の前に現れたことで、ここで挑戦しなければ死ぬ時に後悔してしまうと思ったんです。

小松:
初めて自らの意志で競輪選手になりたいと思われた。

大木:
そうですね。初めて本気になったように思います。

東:
結果、大木さんは見事に試験に合格し、競輪学校に入学します。
気持ちの持ちようというのがここまでパフォーマンスを変えるものなのですね。

小松:
念願かなって入学なさった競輪学校。どのような日々をお過ごしになられたのでしょう?

大木:
競輪学校のプログラムは一年間なのですが、ひと言で言えば苦しかったです。
最初は仕事もしないで自転車に集中出来るなんて最高だなと思っていたのですが(笑)、競輪選手になるという目標がなければとても乗り越えられなかったと思います。

東:
そんな苦しい日々も終わりに近づき、いよいよ競輪選手になれるという卒業直前。再び大木さんは競輪選手への道を閉ざされてしまいます。

大木:
十一月に卒業を控えた九月、トレーニング中に落車したことをきっかけに脳腫瘍が見つかったことで競輪選手にすることは出来ないと判断されてしまったんです。

小松:
落車していなかったら見つかっていなかったのですか?

大木:
落車した後のメディカルチェックで見つかったので落車をしなければおそらく見つからなかったと思います。自覚症状もありませんでしたし。幸い良性の腫瘍だったので手術することもなく回復出来たのですが、組織としては何かあったら責任がとれないので選手として認めることは出来ないと言われました。

東:
紆余曲折を経て、やっと競輪選手になれるはずだったのに・・・納得は出来たのですか?

大木:
初めはとても納得出来ませんでした。別の病院でセカンドオピニオンを受けたりと選手になるために半年間は色々と動きました。ただ、僕の脳腫瘍が見つかってから半年後の2010年3月に高校時代から仲の良かった競輪選手の富澤勝行選手が練習中に車との接触事故を起こし、脳挫傷で亡くなってしまって・・・。2008年9月には競輪の師匠を務めてくれていた親友の内田慶選手が、オールスター競輪で僕が落車したのと同じ第三コーナーで落車して殉職していたこともあり、今、生きていることの意味を改めて考えて、完全に競輪選手を諦めることにしました。

小松:
結果として大木さんは競輪選手になることは出来なかったわけですが、年齢制限を理由に諦めさせられた一度目の断念とは違い、自身がとことん納得のいくまで挑戦して、競輪学校に入学したうえで断念したことはその後の人生において大きな財産となったでしょうね。

大木:
そうですね。本気で挑戦せずに逃げ出した後ろめたさではなく、納得のいくまでやりきったという自信になっています。

東:
困難から逃げずに何かをやりきった経験をその後の人生に活かすことはアスリートが競技を続けてきた中で身につけた大きな強みだと思います。

 身体のバランスを整え、健康寿命を延ばす

小松:
今後の活動に関しては、どのようなビジョンをお持ちなのでしょうか?

大木:
骨盤と噛み合わせ治療を中心に、身体のバランスを整える事業を確立したいと考えています。現在の日本においては、歯科とリンクした取り組みを実施するには様々な壁があることも事実ですが、それを取り払うような枠組みを作り出したいと考えています。

東:
表情を見ているだけで、新たな道に邁進し、充実なさっていることが伝わります。

小松:
さて、改めて現在の大木さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、IRERUDAKE(いれるだけ)株式会社で代表を務めておられますので「C」の領域でのお仕事をなさっているということになりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
今後もご自身が進めているインソール“IRERUDAKE”の事業と歯科医の奥様がなさっている噛み合わせ治療を連携させて、アスリートから高齢者まで全ての方々の身体バランスを整えることで、多くの方々を幸せになさっていくのでしょうね。

大木:
そうですね。アスリートの競技成績の向上や、高齢者の方々の健康寿命を延ばすことで多くの人を喜ばせたいです。

小松:
ここまでお話を伺ってきて、大木さんはご自身が一番になることを目標になさっているのではなく、周りを支え、喜ばせ、幸せにすることを目標に活動なさってきた方なのだと感じました。

東:
僕もそう思います。競輪選手ではなく、パラサイクリングのタンデムスプリントのパイロットという競技に巡り会えたことは本当に運命的な出会いだったのだなと思います。
それでは、最後に“自転車”という言葉を使わずに、ご自身がどういう人間なのか、自己紹介をしていただけますでしょうか。

大木:
王道を通らずにまがりくねった道を遠回りしながらゆっくり進んできたことで、人とは異なる経験をしてきて、それを伝えられるようになった人間です。弱い人の気持ちや痛みを理解出来るので、困っている人に寄り添えます、ですかね。

東:
弱い人の気持ちに寄り添い、弱い人を幸せにしようとしている人、ですね。

小松:
まさにその通り。素敵(笑)

大木:
少しかっこよすぎましたかね(笑)

東:
いえいえ(笑)、本日は誠にありがとうございました。

大木:
こちらこそ改めて自分の人生を振り返ることが出来た貴重な時間になりました。
ありがとうございました。
(おわり)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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