Career shift

大木卓也 / Ooki Takuya   元パラサイクリング・タンデムスプリント選手|現在:

主役を目指さないアスリート 元自転車タンデムスプリント日本代表 アテネパラリンピック銀メダリスト 大木卓也 (後編)

Profile

 

大木卓也(おおき・たくや)
1980年茨城県笠間市生まれ。自転車競技の名門校である茨城県立取手第一高等学校にて競技を始める。2004年アテネパラリンピック・パラサイクリング男子タンデムスプリント銀メダリスト。※健常者パイロットとして出場。日本では二人目のパラリンピック健常者メダリスト
2009年競輪学校卒業間際の練習中に落車し、脳に腫瘍が見つかり選手生命を絶たれる。2019年3月に骨盤にフォーカスしたインソールを企画開発販売する会社「IRERUDAKE株式会社」を立ち上げた。

東:
元パラサイクリング・タンデムスプリント日本代表・大木卓也さんへのインタビューも今回が最終回となります。

小松:
後編となる今回は健常者として出場したアテネパラリンピックでのお話から競輪への再挑戦、今後のビジョンなどについてお話を伺ってまいります。

 本当にやりたかったこと

小松:
競輪学校の入学試験に五年連続で失敗。年齢制限によって競輪選手の夢を諦めざるを得なくなったところで、パラサイクリング・タンデムスプリント競技のシドニーパラリンピック金メダリストである葭原(よしはら)滋男選手とともにアテネパラリンピックを目指すことになったわけですが、何か気持ちの変化はありましたか?
※パラサイクリングは障がい者の自転車競技。障害の種類によって大きく4つに競技クラスが分類されており、タンデムスプリントは視覚障害を持つ選手のクラスで、二人乗り用の自転車の前に健常者(パイロット)、後ろに視覚障害者(ストーカー)が乗っておこなうトラック競技

大木:
「競輪選手にならなければ」と必死に頑張ってきた五年間と比較すると、ものすごい解放感があって楽しかったです。

東:
解放感ですか?

大木:
はい。振り返ってみると、一年目、二年目と入学試験の失敗を重ねる度に、“合格したい”から“合格しなければならない”へと気持ちが変化して、どんどんプレッシャーが増していったように感じます。

小松:
自らの“やりたいこと”をやっているのではなく、周りの期待に応えるために“やらなければならないこと”をやっていたと。

大木:
そうですね。年齢制限のおかげでもう競輪学校に挑戦しなくてもいいと思って、スッキリしたのかも知れません。この時に改めて自分が何になりたかったのかを考えて、子供の頃から大好きな自転車で走る仕事をしたかっただけで、競輪選手になりたかったわけではないことに気づいたんです。

東:
なるほど。競輪選手に“なりたい”ではなく“ならなければいけない”という気持ちで挑戦していたので、無意識にブレーキがかかってしまい、練習では出せていた合格タイムが試験ではコンマ5秒届かずに不合格を重ねてしまったのかも知れませんね。

小松:
周囲の期待によって、頑張らざるを得ない状況に追い込まれてしまうことはアスリート以外にもままあることですが、苦しい時間をお過ごしになられたのですね。

東:
アスリートでもビジネスパーソンでも、周囲の期待に応えなければならないという気持ちが強すぎると心が毀れてしまうことがありますよね。
普段から自らが何のために努力しているのかという目標設定を明確にし、現在の自分の状況を客観的に見られるような機会を定期的につくることが必要だと思います。

小松:
メンタルヘルス、アスリートはもちろんビジネスパーソンにも大切ですね。

東:
はい、客観的に自分を振り返るためにも、短くて構わないので日々感じたことや考えたことを日記やメモなど文字にして残しておくと良いのではないかと思います。

 健常者としてパラリンピックへ

小松:
パラサイクリング・タンデムスプリント競技は、二人乗りの自転車の前に健常者である大木さんが乗り、後ろに視覚障害者である葭原さんが乗るわけですが、どのような点がポイントなのでしょうか?

大木:
二人三脚のような競技ですので、最も大切なのは二人の呼吸を合わせることです。ペダルをこぐタイミングを合わせなければスピードが出ませんので。

東:
どのようなトレーニングをなさっていたのでしょう?

大木:
僕たちの競技で使用する距離の走路が静岡県の伊豆の競技場にしかなかったので、茨城県の笠間から通っていました。パートナーの葭原さんが公務員だったので、週末にしか一緒にトレーニングを出来なかったのですが、二人の息を合わせるためにとにかく同じ時間をともに過ごすことを意識していました。

小松:
葭原さんは十歳の頃に目の病気である網膜色素変性症が発覚。その後、走り幅跳びの日本代表選手としてバルセロナ&アトランタパラリンピックに出場し、アトランタ大会では銅メダルを獲得。その後、パラサイクリングに転向してシドニーパラリンピックに出場。1000mで当時の世界記録を更新して金メダルを獲得し、スプリントでも銀メダルを獲得なさった世界的なトップアスリートです。パラリンピックを目指す中で同じ努力を重ねていたとしても、どうしても葭原さんに注目が集まってしまったのではないかと思うのですが、そういった部分でのストレスを感じたことはありませんでしたか?

大木:
全然なかったです。葭原さんのほうが二十歳以上も年上ですし、僕は何が何でも主役になりたいというタイプではないので(笑)

東:
パラリンピックでは、マラソンの伴走など健常者が帯同する競技がいくつかありますが、光が当たるのはどうしても障害者になってしまいます。
大木さんは自らに光が当たらなくとも努力を積み重ねることが出来るというか、人を支えることに喜びを見いだせる方のように思いますね。

大木:
人と競うことに向いていないのかも知れません(笑)

東:
僕もそうなんです(笑)
人を蹴落としてまで、という気持ちになれなくて・・・
そこが一流になりきれなかったところなのだろうなと今にして思います。

小松:
大木さんも東さんも一流なうえに他者を思いやる優しさをお持ちの素晴らしい選手だったということです(笑)

東:
無理やり言わせてしまったみたいで申し訳ありません(笑)
さて、大木さん。
迎えたアテネパラリンピックではどのような感想をお持ちになりましたか?

大木:
月並みな表現になってしまいますが、本当にたくさんの素晴らしい経験をさせてもらいました。開会式では世界最高峰のスポーツイベントの迫力に圧倒されましたし、選手村などそこかしこで健常者アスリートの世界とは全く違った風景を見ることが出来ました。
また、一括りに“障害者”と言いますが、選手や関わる人たちそれぞれに個性があって、みんながとてもフレンドリーで輝いている姿を間近に見たことで、目からうろこが何枚も落ちたように思います。

小松:
競技の面でも見事に銀メダルを獲得なさいました。

大木:
貴重な経験が出来たのではないかと思っています。健常者でパラリンピックのメダルを持っている人はとても珍しいですし、障害者の方々を見る目が変わったことは現在の仕事にも非常に活きています。

東:
競輪学校に合格出来なかったことが結果的に大木さんのキャリアを特別なものに変えたのですね。

小松:
アテネパラリンピックを終えた大木さんは歩みを止めることなく次の挑戦に向かいます。

 忘れ物を取りに行く

東:
アテネパラリンピック終了後、競輪学校の年齢制限が撤廃になったことを受けて、再び入学試験に挑戦することを決意なさいましたね。
一度は競輪選手への思いについて“なりたかった”わけではなく、“ならなければいけない”という気持ちだったと整理なさいましたよね。再び挑戦しようと思った理由は何だったのでしょうか?

大木:
大好きな自転車競技でパラリンピックという世界最高峰の大会に出場して、メダリストにもなりました。これで自転車にはひと区切りをつけようと考えていたのですが、再び競輪選手を目指せる環境が目の前に現れたことで、ここで挑戦しなければ死ぬ時に後悔してしまうと思ったんです。

小松:
初めて自らの意志で競輪選手になりたいと思われた。

大木:
そうですね。初めて本気になったように思います。

東:
結果、大木さんは見事に試験に合格し、競輪学校に入学します。
気持ちの持ちようというのがここまでパフォーマンスを変えるものなのですね。

小松:
念願かなって入学なさった競輪学校。どのような日々をお過ごしになられたのでしょう?

大木:
競輪学校のプログラムは一年間なのですが、ひと言で言えば苦しかったです。
最初は仕事もしないで自転車に集中出来るなんて最高だなと思っていたのですが(笑)、競輪選手になるという目標がなければとても乗り越えられなかったと思います。

東:
そんな苦しい日々も終わりに近づき、いよいよ競輪選手になれるという卒業直前。再び大木さんは競輪選手への道を閉ざされてしまいます。

大木:
十一月に卒業を控えた九月、トレーニング中に落車したことをきっかけに脳腫瘍が見つかったことで競輪選手にすることは出来ないと判断されてしまったんです。

小松:
落車していなかったら見つかっていなかったのですか?

大木:
落車した後のメディカルチェックで見つかったので落車をしなければおそらく見つからなかったと思います。自覚症状もありませんでしたし。幸い良性の腫瘍だったので手術することもなく回復出来たのですが、組織としては何かあったら責任がとれないので選手として認めることは出来ないと言われました。

東:
紆余曲折を経て、やっと競輪選手になれるはずだったのに・・・納得は出来たのですか?

大木:
初めはとても納得出来ませんでした。別の病院でセカンドオピニオンを受けたりと選手になるために半年間は色々と動きました。ただ、僕の脳腫瘍が見つかってから半年後の2010年3月に高校時代から仲の良かった競輪選手の富澤勝行選手が練習中に車との接触事故を起こし、脳挫傷で亡くなってしまって・・・。2008年9月には競輪の師匠を務めてくれていた親友の内田慶選手が、オールスター競輪で僕が落車したのと同じ第三コーナーで落車して殉職していたこともあり、今、生きていることの意味を改めて考えて、完全に競輪選手を諦めることにしました。

小松:
結果として大木さんは競輪選手になることは出来なかったわけですが、年齢制限を理由に諦めさせられた一度目の断念とは違い、自身がとことん納得のいくまで挑戦して、競輪学校に入学したうえで断念したことはその後の人生において大きな財産となったでしょうね。

大木:
そうですね。本気で挑戦せずに逃げ出した後ろめたさではなく、納得のいくまでやりきったという自信になっています。

東:
困難から逃げずに何かをやりきった経験をその後の人生に活かすことはアスリートが競技を続けてきた中で身につけた大きな強みだと思います。

 身体のバランスを整え、健康寿命を延ばす

小松:
今後の活動に関しては、どのようなビジョンをお持ちなのでしょうか?

大木:
骨盤と噛み合わせ治療を中心に、身体のバランスを整える事業を確立したいと考えています。現在の日本においては、歯科とリンクした取り組みを実施するには様々な壁があることも事実ですが、それを取り払うような枠組みを作り出したいと考えています。

東:
表情を見ているだけで、新たな道に邁進し、充実なさっていることが伝わります。

小松:
さて、改めて現在の大木さんの活動を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、IRERUDAKE(いれるだけ)株式会社で代表を務めておられますので「C」の領域でのお仕事をなさっているということになりますね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
今後もご自身が進めているインソール“IRERUDAKE”の事業と歯科医の奥様がなさっている噛み合わせ治療を連携させて、アスリートから高齢者まで全ての方々の身体バランスを整えることで、多くの方々を幸せになさっていくのでしょうね。

大木:
そうですね。アスリートの競技成績の向上や、高齢者の方々の健康寿命を延ばすことで多くの人を喜ばせたいです。

小松:
ここまでお話を伺ってきて、大木さんはご自身が一番になることを目標になさっているのではなく、周りを支え、喜ばせ、幸せにすることを目標に活動なさってきた方なのだと感じました。

東:
僕もそう思います。競輪選手ではなく、パラサイクリングのタンデムスプリントのパイロットという競技に巡り会えたことは本当に運命的な出会いだったのだなと思います。
それでは、最後に“自転車”という言葉を使わずに、ご自身がどういう人間なのか、自己紹介をしていただけますでしょうか。

大木:
王道を通らずにまがりくねった道を遠回りしながらゆっくり進んできたことで、人とは異なる経験をしてきて、それを伝えられるようになった人間です。弱い人の気持ちや痛みを理解出来るので、困っている人に寄り添えます、ですかね。

東:
弱い人の気持ちに寄り添い、弱い人を幸せにしようとしている人、ですね。

小松:
まさにその通り。素敵(笑)

大木:
少しかっこよすぎましたかね(笑)

東:
いえいえ(笑)、本日は誠にありがとうございました。

大木:
こちらこそ改めて自分の人生を振り返ることが出来た貴重な時間になりました。
ありがとうございました。
(おわり)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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