Career shift

里谷多英 / Satoya Tae   元フリースタイル・スキーモーグル選手|現在:

勇気をもって、居心地の良い場所を離れる フリースタイル・スキーモーグル金メダリスト・里谷多英(後編)

Profile

 

1976年北海道札幌市生まれ。小学校五年生の時に父親の勧めでモーグルを始め、小学校六年生時に初出場した全日本選手権で初優勝。1991年(中学二年生)から全日本選手権で六連覇を達成。1994年、自身初のオリンピックとなったリレハンメル大会で11位。続く1998年の長野大会で冬季オリンピックでは日本人女子として初めての金メダルを獲得。国民的スターとなる。2002年ソルトレイク大会では、冬季オリンピックでは史上初の日本人女子二つ目となる銅メダルを獲得。その後、2006年トリノ大会、2010年バンクーバー大会にも出場し、五大会連続でオリンピックに出場。2012−2013年シーズンのワールドカップ出場が叶わず、ソチオリンピックへの道が絶たれたことで2013年1月に現役引退を発表。同年2月23日、福島県猪苗代町のリステルパークで開催されたワールドカップで、引退セレモニーが行われた。現在は株式会社フジテレビジョン(以下、フジテレビ)総合事業局にてイベント事業に携わっている。

東:
元フリースタイル・スキーモーグル選手の里谷多英さんへのインタビューもいよいよ今回が後編となります。

小松:
前回の中編では、競技を始めたきっかけから引退の理由、セカンドキャリアやメディアに対するお考えについてお話を伺ってまいりましたが、最終回となる今回は、引退後の生活について、深掘りしてお話を聞かせていただきます。

 金メダリストというキャリアパス

東:
里谷さんは、長野オリンピックの後、一度は選手を引退するという決断をなさったわけですが、指導者になる道は考えたことがなかったのでしょうか?

里谷:
最初はスキー界に残って仕事をするのが自分にとっていいのかなとも考えていました。
これまで生きてきた世界ですから気持ち的にも楽だろうとも思いましたが、自分の性格的にあまり指導者には向いていないことも分かっていました。
今後、どうしようかと考えていた時にフジテレビからお誘いをいただいて、当時の全日本スキー連盟の方にご相談したところ、スキーを続けるのなら大企業に所属したほうがいい。絶対に受けるべきだと勧められたんです。

小松:
冬季競技は、用具はもちろんトレーニング施設の使用料や海外遠征などに多額の費用がかかるので、大企業に所属して、それらを負担してもらえるような環境で競技を続けるべきだというアドバイスをいただいたわけですね。

里谷:
おっしゃる通りなのですが、私は本当にありがたいことに環境に恵まれていて、それまでも様々な企業に支援していただいていて、活動資金に不自由すること無くスキーひとすじの生活を送ることが出来ていましたので、競技をするための環境が整備されているという点にはさほど魅力は感じませんでした。ただ、フジテレビと言えば非常に人気のある大企業で、金メダルを獲得していなければ絶対に私が入社することは出来ないだろうと思って、競技は引退するので一般社員として入社させてくださいとお願いしたんです。

東:
“一芸入社”ではないですが、オリンピックの金メダルを“キャリアパス”として活用なさったわけですね。

里谷:
結局、やっぱり競技を続けさせてくださいとお願いすることになるんですけれどね(笑)
これまで約十五年在籍していますが、ほとんどの期間、スキーばかりをしてきました。

小松:
それが、里谷さんにしか出来ない“オンリーワン”のお仕事だったわけですから。
数々の大会で素晴らしい実績を残すことで、会社に貢献なさってきたのだと思います。
二度と味わえない“充実感”

東:
現役時代と現在の生活では、どちらが充実していますか?

里谷:
比べるものでもないとは思いますが、やはり大きな目標に向かって必死に頑張っていたという意味では現役時代の方が充実していたと思います。

小松:
大きな目標というのは、オリンピックでの金メダルでしょうか?

里谷:
そうですね。現在も社会人として目標を持って仕事をしていますが、協賛が一つ決まれば、次。次が決まればまたその次と小さな目標を積み重ねていく日々です。そして、その目標はもちろん自分のためでもありますが、大きく言えば会社のためですから。
オリンピックで優勝するという大きな目標に向かって、自分のために、己を磨くことに全てを懸けて生活する日々の充実感は、この先の人生では決して味わえないのだろうなと思います。

東:
オリンピックのメダルと売上目標の達成とでは、確かにギャップがありますよね。

里谷:
引退してから、目標に向かっている時の“アドレナリン”が出ないんです。
仕事はとても楽しいんですけどね。

小松:
“ゾーン”と呼ばれる状態に入ることも無くなってしまいますものね・・・

里谷:
もちろん、仕事での成功もとても嬉しいのですが、スキーで勝った時ほどの達成感はないですし、最近何が楽しくて生きているのかなと思ったりもしています(笑)

東:
世界の頂点を極めた人ならではの悩みなのでしょうね・・・

里谷:
現役時代とは違って当然なのですが、何か一つ大きな目標を持たないといけないのかなと思う時があります。今は安定したお仕事があって、同僚にも恵まれて、生活に困ることもありません。このまま生きていけば、大きな不安もないのだから幸せな人生だと。そんな風に考えられれば楽なのかなとも思うのですが、そこに安住していて果たしていいのだろうかと考えてしまう自分もいて。

小松:
特に里谷さんの場合は、地元開催で大きな注目が集まった長野オリンピックで金メダルを獲得なさったわけですから。それ以上の目標を掲げて、達成するといった経験をすることは・・・

里谷:
二度と無いんでしょうね(笑)

 どうにかなる

東:
競技生活を通じて学んだことで、現在に活きていると感じるものは何でしょうか?

里谷:
そうですね、私は現役時代、競技成績はもちろんですが、それ以外のことにも一喜一憂し続けてきました。その経験から学んだことは「どうにかなる」です。引退して社会に出る時も最初はとても緊張しましたが、結局どうにかなるだろうと思っていましたし。時にはどうにも出来ないこともありますけれど、それはそれでどうにかなりますし(笑)

小松:
結果を気にせずに腹をくくること、人生において大切ですよね。どんなに追い詰められたとしても、その言葉で一歩進むことが出来ますもの。

里谷:
人生には思い通りにいかないことがあったり、ものすごくショックなことも起きるので、落ち込むこともありますが、いちいち悩んでいてもしょうがないと。
あのレベルで競技を続けてきたからこそ得ることが出来たメンタルは、今に活きていると思います。

東:
心身ともに「あれに比べれば」という経験を持っていることはアスリートにとっての宝物ですよね。
逆に、現役時引退後に困ったことがあれば、教えていただけますか?

里谷:
引退するまでスキーひとすじでアルバイトすらしたことがなかったので、社会に出て働くことがすごく不安でした。パソコンに触ったこともなかったですし。

小松:
三十六歳で初めてスキー以外の世界に飛び出されたわけですものね。

里谷:
ただ、会社の人が「うちの会社も馬鹿じゃないから、里谷さんにいきなりハードルの高いことは求めないから安心して」と言ってくれて。

東:
里谷さんを受け入れるにあたって、しっかりとリスペクトを持ちつつも、徐々に社会人としての仕事が出来るようになるための準備を整えてくれたのですね。

里谷:
私としては即戦力とまではいかなくても、少しでも早く普通の人が出来ることを出来るようになりたいと思っていました。例えばパワーポイントで資料の作成が出来るようになるとか。入社したての頃は何も出来ない自分が恥ずかしくて、本当に焦りました。

小松:
やるからには本気で成長を目指すマインドが、里谷さんらしいですね。

東:
里谷さんは、競技を通じて“出来ない”を“出来る”にするための挑戦をしてきた経験をお持ちですし、頑張り方をご存知ですから。
ただ、里谷さんは新たな世界に挑戦することが出来ましたが、競技の世界にしがみついてしまって、なかなか最初の一歩を踏み出せないアスリートも多いように感じます。
アドバイスを送るとしたら何と伝えますか?

里谷:
まだまだ私も全然出来ていませんので、自分自身に声を掛けることにもなりますが(笑)、やっぱり新しいことに挑戦するのはとても大変だと思うんです。私はモーグルという一つの競技を二十四年間続けてきました。もちろん競技の中で新しいことにチャレンジしたことはありますが、あくまでスキー、モーグルという競技の範疇でしたから。全く違う世界へ飛び出すのは、本当に勇気がいることだと思います。
私も引退後にスキーの外の世界には飛び出しましたが、現在の部署には七年間留まっています。本当は三、四年で部署を異動して、同じ場所に留まらないほうが良いと思うのですが、長くいると居心地が良くなるんですよね。

小松:
置かれた環境に適応し、慣れ親しんでしまうものですよね。

里谷:
居心地が良いということは、言い方を変えれば“楽”だということです。一緒に働いている方々も良い人ばかりなので、居心地がよくて異動届を出さないまま七年が過ぎてしまいましたが、そろそろ勇気をもって新たなチャレンジをした方が良いのだろうなと思っています。

東:
例えば、どのようなチャレンジをお考えなのでしょうか?

里谷:
現在の部署の仕事で言えば、春に苗場でスキーを盛り上げるような音楽イベントを開催したいと考えているところです。毎年、冬に苗場プリンスホテルで開催されている松任谷由実さんのイベントにはたくさんお客様が集まるのですが、その後は閑散期になるらしいので、その時期にイベントを開催して、集客が出来ればと考えています。

小松:
スキー界への恩返しにもなりますものね。

里谷:
大規模なイベントを開催するのには多大なリスクも伴うため、スポンサーをつけて確実に赤字にはならないスキームをつくらなければならず、なかなか大変なんですけどね。
他には、せっかくテレビ局にいるので、BSなどで自分のやりたい番組を企画してみるのも面白そうだなと思っています。

東:
やりたいことを実際に実現するための力をお持ちですから、素晴らしいと思います。

 あんな風になりたいと思える存在

小松:
引退後、新たな世界に踏み出してから、里谷さんを変えた“出会い”があれば、お教えくださいますか?

里谷:
現在私が所属している総合事業局の上司との出会いですかね。著名な方のご子息なのですが、仕事が出来るのはもちろんですが、人を楽しませるのがとても上手で尊敬しています。

東:
あの有名な方のご子息の部下なのですね!

里谷:
はい。引退して、この仕事を始めた頃から営業に同行させていただいて。「こうやって、自分のパーソナリティをコンテンツにして営業出来るのは、俺と里谷くらいだ」と言いながら、お客様のメリットにこだわった資料の作成からプレゼンのやり方まで超一流の仕事を実際に目の前で見せてくださって。

小松:
“著名人の息子”や“金メダリストの里谷多英”という名前で商品やサービスを買ってもらうのではなく、商品やサービス自体の魅力を伝えることの大切さを教えていただいたのですね。

里谷:
そうですね。その方の下で働かせていただくと、とても勉強になりますし、何より楽しいので、ずっと部下でいたいという気持ちがあって、異動届を出せていない部分もあります。

東:
新たな世界に踏み出した時に、最初に尊敬出来る上司に巡り合えたのはとても幸せなことでしたね。

里谷:
あんな風になれるように頑張ろうと思いますし、組織のために貢献したくなりますよね。

小松:
きっと、現在の里谷さんを見て、あんな風になれるように頑張ろうと思っていらっしゃる方もたくさんいると思います。
さて、それでは改めて現在の里谷さんのお仕事を“その後のメダリスト100キャリアシフト図”に当てはめると、現役時代から所属しているフジテレビで勤務なさっているということで「B」の領域でのご活躍ですね。

注1)親会社勤務とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業で一般従業員として勤務していること
注2)親会社指導者とはいわゆる企業スポーツである実業団チームで自らが所属していた企業の指導者を務めていること
注3)プロパフォーマーとはフィギュアスケート選手がアイスダンスパフォーマーになったり、体操選手がシルク・ドゥ・ソレイユのパフォーマーとして活動していること
注4)親会社以外勤務とは自らが所属していた実業団チームを所有している企業以外で一般従業員として勤務していること

東:
今後は生まれ故郷の札幌市がおこなっている2030年冬季オリンピックの招致活動や、全日本スキー連盟のお仕事などにもご活躍の場を広げられるのではないでしょうか。
それでは、今後の夢や目標をお聞かせいただけますか?

里谷:
そうですね、あまりいそいそせずに、のんびり幸せに生きていきたいですね。

小松:
里谷さんは本当に自然体ですが、それが出来るのは地に足がついていらっしゃるからでしょうね。居場所が定まらない人はあくせくしなければいけませんが、里谷さんはしっかりと大地に足をつけながら日々生きているのだと思います。

里谷:
ありがとうございます。

東:
最後のお願いになりますが、競技名を使わずに自己紹介をしてくださいますか?

里谷:
フジテレビの里谷です。イベント事業の企画やチケット販売の営業のお仕事を、周りに恵まれながら楽しくさせていただいています。

小松:
本日はお忙しいところありがとうございました。

里谷:
こちらこそありがとうございました。
(おわり)

次回は、元ハンドボール日本代表キャプテン・永島英明さんです。7月29日公開!

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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