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髙山樹里 / Takayama Juri   元ソフトボール選手|現在:

ソフトボールとの出会い  ソフトボール・髙山樹里(中編)

Profile

 

髙山 樹里(たかやま・じゅり)
小学校 1 年からソフトボールを始める。名門・埼玉栄高校 3 年時には国体で優勝、その後、日本体育大学-豊田自動織機と進み、ともにエースとしてチームの勝利に貢献。また、数々の国際大会に出場し、アトランタ、シドニー(銀メダル)、アテネ(銅メダル)と 3 大会連続の五輪出場も果たしている。得意のライズボールを武器に上げた五輪通算 8 勝は、現在でも五輪最多勝記録となっている。 2009 年 7 月ボブスレー競技(女子 2 人乗り)でバンクーバーオリンピック出場を目指すことを発表。その後スケルトンに転向し冬季オリンピック出場を目指した。
現在は各地でソフトボール教室を行ないながら NPO 法人ソフトボール・ドリーム理事、日本車椅子ソフトボール協会会長などの役職を兼務している。 2017 年愛知県で車椅子ソフトボールチームを設立し、自身は監督を務める。

 きっかけは開会式だった

小松:
東さんは髙山さんの現役時代、マウンドでの姿を覚えていますか?

東:
はい、もちろんです。ソフトボールの選手といえば髙山さん、というイメージです。

髙山:
いえいえ、そんなことないですよ。(笑)

小松:
ソフトボールをはじめたのはいつから?

髙山:
子どもの頃、町内会のソフトボールチームがありまして、近所のお姉さんに誘われたのがきっかけで出会いました。自分たちのチームは子どもの数が多かったので、男の子と女の子、それぞれチームがありました。
女の子のチームが女の子チームと戦うには、県大会に行かないと戦えなかったんですね。だから普段は男の子のチームと試合をしていましたね。

小松:
最初からポジションはピッチャーでしたか。

髙山:
いや、最初小学校 1 年生の時は捕手や野手をやっていまして、ピッチャーやりはじめたのは小学校 3 年生からです。
私は子どもの頃、神奈川県の横須賀だったんですけど、結構当時はソフトボールのチームが多かったんですね。横須賀にはたしか 1 チームしかなかったように記憶していますが、三浦市など他の市にも女の子のソフトボールチームがありました。

東:
小さい頃からソフトボール 1 本だったんですか?

髙山:
水泳もやっていました。あと小学校からスキーをやったり。親がスポーツ好きだ ったんですね。父が野球と柔道と陸上をやっていて、母が卓球をやっていたんですよ。
私には弟がいるんですが、弟はソフトボールをやったり、わんぱく相撲やったり、中学生からは柔道をやってましたね。
弟は柔道が結構強くて、2000 年のシドニーオリンピックの時は、弟とオリンピ ックに行くというのが一つの目標だったんですよね。彼はナショナルチームに入れて頑張ってたんですけど、当時は大きな存在がいました。そうです、篠原信一さんです。篠原さんには勝てなくて弟はオリンピックダメだったんですね(笑)。

小松:
ソフトボールという競技に集中し、全力を投じようと決意したきっかけは?

髙山:
私の頃は、ソフトボールがオリンピックの競技になかったので、水泳でオリンピ ックに行きたかったんです。幼少期に TV で流れていた開会式を見て、私もこうやってオリンピック会場で歩きたいなぁ、って思ったのがきっかけです。

小松:
多くのオリンピアンやパラリンピアンを取材する機会がありますが、それぞれの選手には「トリガー」があります。オリンピックを意識し、目指すトリガーです。それが髙山さんの場合は、オリンピックの開会式の光景だったんですね。

髙山:
はい、ちょっと斬新ですね。でも開会式に出たかったんですよ(笑)。

 教えられるよりも、自分の試行錯誤が成長につながる

東:
オリンピックとソフトボールがリンクしたのは、いつなんですか?

髙山:
それがまったくリンクしてないんですよ。ずっと水泳に打ち込んでいたんですが、小学校 5 年生の時に、当時は水泳もソフトボールもやっていたんですが、ソフトボールの全国大会に選抜で選ばれて出場したんです。
ソフトボールをすると、水泳の記録が伸びない。それがソフトボールへの分岐点かもしれませんね。全国大会に呼ばれたので、水泳の記録が全然ダメになってしまったんです。水泳に打ち込んでいた時は、スクールでは一番レベルの高いクラスで高校生と泳いだりしてました。でも、水泳は好きだったんで、中学 3 年生の終わり頃までやっていました。

小松:
本格的にソフトボールの道を歩み始めたのは高校時代ですか?

髙山:
はい、本気で打ち込み出したのは、埼玉栄高校に入れてもらってからですね。ご存知の通りあの高校はソフトボールの強豪校です。もちろん中学生の時も、全国狙って練習してたんですが、「競技」という意味でソフトボールを意識しだしたのは、高校に入ってからですね。
自分はどうしたいのか? どういう風に投げたいのか? そういう意識が生まれたのが高校時代でした。

小松:
埼玉栄高校は、髙山さんをピッチャーとしてスカウトしたのですか?

髙山:
いや、それがですね、バッティングが見込まれて入ったんです。一応ピッチャーやっていたから投げることはできるんですが、他にもいろんなポジションやってて、中学の時はピッチャー兼セカンド、みたいな掛け持ちだったんですよね。最後はピッチャーをやってました。でも高校ではバッターとして選ばれたんです。でもね、私実はバッティングって嫌いなんですよね。面白さがわからないんです(笑)

東:
でも、バッターって爽快感ないですか?

髙山:
ただ手が痛いだけじゃないですか(笑)。しかもバッターで打って走ってアウトになって、息切れしながらまたマウンドに行って投げる……、意味がわからない、本当に嫌いって思っていました(笑)。でも、当たっちゃうから打順 3 番か4 番だったんですよ。

東:
嫌な言い方ですね!(笑) みんな当てたくて必死なのに!

髙山:
高校はバッターで入ったんですけど、ピッチャーやっていた先輩が怪我をしてしまって、代わりに私が投げたことがあって、たまたま抑えられたんです。そこから「髙山、ピッチャーもやったら?」って話になったんです。
高校のソフトボール部のピッチャーは、中学時代にエースで全国大会に行ったみたいな子がいましたからね、私なんて関東止まりで全国行ってませんでしたから。でもいい意味で、ピッチャーとしては 2 番手、3 番手でしたので自分の好きなように練習させてもらったんです。それが徐々に良くなっていった、そんな感じですね。

小松:
そして髙山さんのピッチャーとしての才能が開花します。圧倒的な成績でしたね。

髙山:
実は、最初はたいしたことなくて。私、ドロップ系のピッチャーだったんです。といってもすごく落ちる感じでなくて、ナチュラルに落ちるボールというのかな。スピードもその時は少し速くて、チェンジアップ気味のボールを投げていたんです。でも、私にはこれといった球っていう決め球がなかったんです。
でも、高校の先生が、「これからライズボール、上がるボールの時代だから練習しなさい」って言ってくださって、ライズボールの練習をはじめたんです。手取り足取り指導されることはなく、細かいところはあんまりこだわらずに、独自で考えて、ライズ回転が出来れば上がるはず!とにかく回転を意識してピッチング練習をしていました。

小松:
髙山さんの武器である魔球、ライズボールはそうやって生まれたんですね。コ ーチから習ったわけではなく、自分で考えて身につけたなんて、本当に才能の塊です。
ライズボールを習得して、エースを不動のものにした髙山さんは、以前から投げていたドロップの技術も、独りで身につけたんですか?

髙山:
いいえ。ドロップは自然に投げていました。中学時代に投げていたらドロップになっただけで、ドロップを学んで投げたわけではないのです。

東:
髙山さんのライズボールは凄かった。細かく指導を受けるより、「ボールに回転がかかっていればなんでもいいじ ゃない」と考えて、あんまり細かいコーチのことを聞かずに技術を身につけられた、というのが本当に驚きです。天才だと思います。

髙山:
いや、ただの天の邪鬼だったんです(笑)。「これをやりなさい」って言われて、それをそのままやるのが嫌いだったんです。それに自分の中で上手に変換しないとできない子どもだったんですよ。必死に自分の中で変換して、「言われた通りにはできないけど、こうやってやればいいんだな」ってやって自分に合わせていたと思います。
でも最初は上がっているのもあんまりわからなかったんです。それよりも私はコントロールが悪かったので、コントロールの練習を優先していました。キャッチャーの構えているところに投げる練習ばかりしてて、ライズボールは二の次だったんですよ。
私は本当にコントロールが悪くて、それがコンプレックスだったんですね。だからキャッチャーが構えているところに投げたいな、それを強く思っていました。

 動く前に、まずは目標を決める

小松:
伺っていると、髙山さんはクリエイティブな発想で技術を磨いていますね。誰かに教わるのではなく、自分自身で試行錯誤しながら、求めるスキルを完成させてしまう。トップアスリートはたくさんいますが、こうした手法を確立している方は、異色だと思います。

髙山:
高校の時に、たとえば「目標がここだとしたら、それを達成するためにはどうしたらいい? それを達成するためには、どの段階で自分をどこまで高めればいい?」そんな考えが頭の中に細かくあったんだと思います。

小松:
まだ 15、16 歳ぐらいですよね。当時から考え抜く力があったのですね。

髙山:
すごく一生懸命だったことは確かです。その頃、4 年に 1 度ある世界ジュニア選手権大会というのが 1995 年に開催されることになっていたんです。私は運良くその 4 年に 1 度のサイクルに入れて出場できるチャンスがあったんです。そこに入るのが私の最終的な目標でした。最終的には2番手か 3 番手のピッチャーとして選ばれました。

東:
1995 年というのは、髙山さんが 19 歳、日体大に入られて 1 年生の時ですね。

髙山:
はい、ピッチャーって実は命がけで、ソフトボールって高校まではボールがゴム製なんですが、大学に入ると革製になるんです。ボールが変わると全然違って、高校まで調子良かったのに大学に入ってダメになってしまう、というピッチャ ーって結構いるんですよ。私は逆に良くなったパターンだったんですけどね。

東:
大学の頃のお話も聞かせてください。

(つづく)

 

編集協力/設楽幸生

インタビュアー/小松 成美 Narumi Komatsu
第一線で活躍するノンフィクション作家。広告会社、放送局勤務などを経たのち、作家に転身。真摯な取材、磨き抜かれた文章には定評があり、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラム、小説を執筆。現在では、テレビ番組のコメンテーターや講演など多岐にわたり活躍中。

インタビュアー/東 俊介 Shunsuke Azuma
元ハンドボール日本代表主将。引退後はスポーツマネジメントを学び、日本ハンドボールリーグマーケティング部の初代部長に就任。アスリート、経営者、アカデミアなどの豊富な人脈を活かし、現在は複数の企業の事業開発を兼務。企業におけるスポーツ事業のコンサルティングも行っている。

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