2017.09.19

「今」と「未来」を繋げるように考える。レスリング・永田克彦

いつか、やってみたいことがありますか?今はまだできないけれど、環境が整えば、本気を出せば、そのうちできるはず、そう思っていますか?

“いつか” “そのうち” そういう未来。
いったいどうしたら手に入れることができるのでしょうか。

アスリートとして生きる永田さんは教えてくれました。「自分を更新し続けることです」と。

Profile

永田 克彦(ながた かつひこ)1973年10月生まれ

レスリング選手、総合格闘家。2000年シドニーオリンピック銀メダリスト。2004年アテネオリンピックにも出場。警視庁を退職後、新日本プロレスの実業団チーム「闘魂クラブ」に所属した。現在は格闘スポーツジム『レッスルウィン』を主宰し、幅広い層に格闘技の楽しさを教えている。

オリンピックは「憧れ」から「目標」に変わる

―― いつもここで格闘技などを教えていらっしゃるんですね。レスリングを始めたのはいつからですか?

高校生からです。

オリンピックなどの影響もあって今でこそ幼少期から始める人が多いですが、僕らの時代は高校からというパターンが一般的で。

スポーツ少年団もそこまで盛んじゃなかったし、競技人口も少なかったですからね。

ただ、僕は小学生の頃からレスリングをやりたいと思っていたんです。

ちょうどプロレスの黄金期だったので、テレビで試合を見てかっこいいなと。

たくましい選手たちのように強くなりたいなって憧れていたんです。

でも、住んでいる地域にはそれこそ少年団もクラブも無かったですし、同い年でレスリングをやっている人の話を聞いたこともなくて。

それでもどうしてもやりたかったので、高校では絶対にレスリング部のある学校に行くと決めていたんです。

高校での一番いい戦績は県大会3位でした。花が開いたのは大学に入ってからでしたね。

―― 伊調選手の4連覇もあって、レスリングはリオ五輪で注目されましたね。大学は日本体育大学(以下、日体大)に進まれたそうで。

実は、大学までレスリングを続けるなんて思っていなかったんです。

昔からやりたかったレスリングをようやく高校でスタートして、正直、自分はすぐに強くなれるだろうっていう感覚でした。

ずっとプロレスの試合を見ていたし、戦うイメージは充分にできていたので、本気でやったら誰にも負けないだろうって。

でも、実際にやってみると想像をはるかに超えてきついんです。

体力も足りていないし、運動神経も人より優れているわけじゃなかったので……。

進学校の高校でもあったので、強豪校に比べたら練習もそこまでハードじゃなくて。

ごく普通の選手がごくごく普通の練習をやっていれば、結果も当然出ないですよね。

このままで終わりたくないという気持ちがどんどん膨らんで、大学でも続けることにしたんです。

日体大を選んだのはシンプルに一番強い大学だったからです。

2年生の終わり頃から成績を残せるようになって、3年生のときに学生チャンピオンになりました。

オリンピックが「憧れ」から「目標」に変わった瞬間でもありましたね。

オリンピックの切符を掴むため社会人でもレスリングを追求

―― 卒業後も警視庁でレスリングを続けられます。今後のキャリアを考えて大学で引退を悩むアスリートもいますが、永田さんは迷いなかったですか?

96年に大学を卒業して4年後の2000年、シドニー五輪には絶対に出場したいと考えていたんです。

競技人生の中で最もいい年齢を迎えるし、何としてでもオリンピックへの切符を掴みたいという想いでした。

警視庁のレスリングクラブは自主性を重んじていたんです。

強くなるのも弱くなるのも自分次第。

僕は誰かにやらされるよりも、自ら考えたトレーニングや練習法をやりたいタイプだったので、きっと合っているなと思いました。

シドニーまでの貴重な4年間、ここでみっちり鍛え上げよう、と。

それ以外の進路は考えなかったですね。

当時も今もレスリングを追求することはまったく苦しくないですし、やっていて楽しいことですから。

やめるなんていう選択肢はまったくなかったですし、引退後のことなんて考えもしませんでした。

― 強い想いを持ち、実際にシドニー五輪への出場を果たした永田さん。そして見事、銀メダリストに輝きました。

シドニー五輪銀メダル獲得で周囲の反応が変化

―― メダルを獲得されてどんな気持ちだったのでしょう。何か変化はあったのでしょうか。

もう一度オリンピックに出たい気持ちでした。

世界で勝つということがこんなにも嬉しくて楽しいものなんだって。

魅力を味わったので、また出場したいと強く思いましたね。

あと、変わったのは周りでした。

メダリストになって帰国してみると、自分の存在が世の中に知られるようになっていたんです。

シドニー五輪ではレスリングでメダルを獲ったのは僕だけだったので、余計に覚えてもらいやすかったんでしょうね。

すれ違う人が振り向いたり、電車で指を差されたりして。

オリンピック前とはまるで状況が違って、ものすごく驚きましたね。

―― それから4年後、アテネオリンピックにも出場されましたね。

アテネでは階級の編成が変わったんですよ。

8階級あったのが7つに減ったんです。

僕が出ていた69キロ級は無くなってしまって、出場階級を変えたんですが一次リーグで敗退。

残念な結果となりました。

レスリングから総合格闘技へ転身

―― シドニー五輪のあとのように、「もう一度」という野心は持てましたか?

懲りずにもう一度チャレンジしたいと思いました。

ただ、アテネの翌年からルールが大幅に変わったんです。

これまで自分が一生懸命につくりあげたものが崩れてしまうような内容で、僕はあまり納得できなくて。

いったんレスリングを離れ、2005年に総合格闘技へ転向して大みそかのK-1 Dynamite!!でプロデビューをしました。

32歳のときでした。

そのときはすでに警視庁も退職していて、新日本プロレスの闘魂クラブ(現:プロシードクラブ)という実業団チームに所属していました。

「警視庁なら公務員だし、安定していたのに」と言われることもあるんですが、進むレールはやっぱり自分で敷きたかったんです。

闘魂クラブでもっと自由に活動の幅を広げていこう。

そう決めました。

―― レスリングから総合格闘技。似ているようですが、面白さや大変さ、きっと違うところがあるのだろうと思います。

レスリングと総合格闘技ってまったく違うんですよ。

まず、レスリングは体力的にきついです。

ものすごく高いレベルでパワーを出し続けて戦うので、心肺機能、筋持久力、何よりもスタミナが必要。体力をすべて出し切ります。

一方、総合格闘技のきつさは身体を痛めつけること。

体力はそこまで出し切らなくても、パンチやキックによるダメージは大きいですよね。

パワーは消耗していなくても、急所に入れば一発でノックアウトされますから。

それぞれ違うハードさがあるなと思います。

― そして現在、格闘スポーツジム『レッスルウィン』を主宰。子どもから大人まで、幅広い世代に格闘技を教えています。

格闘技を通じて笑顔になってもらいたい、現役中に格闘スポーツジムをオープン

―― 『レッスルウィン』を立ち上げたのはいつ頃だったんですか?

37歳のときです。競技をやりながら立ち上げました。

ずっとやりたかったことですし、引退後に慌ててどうこうするよりも、先を見通して良いタイミングで動いたんです。

自分の城というか、道場を持ちたいっていう想いはレスリングをやっていた2003年頃からずっとありました。

ただ、レスリングだけの道場だと集客などが難しいので、具体的にどうしようか悩んでいたんです。

その中で総合格闘技に出会ったので、格闘スポーツジムという選択肢ができたんですよね。

初心者や一般の方も入りやすいように、レスリングも含めて色々なものを体験できるようにしています。

皆さんに伝えているのは「楽しくやる」ということですね。

まずは格闘技を楽しんで、笑顔になってもらいたいんです。

子どもたちに関しては、世界に羽ばたく選手をたくさん育てたいと思っています。

将来どんどん活躍してもらえるように。

レッスルウィンの代表として仕事をしていますが、まだ競技を“引退”はしていません。

毎日厳しい練習をしているわけじゃないので、現役と言えるかどうかは微妙なラインですが(笑)ただ言えるのは、今もアスリートとして生きているということです。

徹底して競技に向き合う職人気質がビジネスにも活きている

―― “現役”でありながら、ジムの代表もされている永田さん。アスリートとビジネスアスリートとしての目標をぜひ聞かせてください。

アスリートとしての目標は自分を更新し続けることです。

2015年、11年ぶりにレスリングに復帰をして全日本選手権に出たんです。

42歳のときですね。そうしたら大会最年長で優勝することができて。

全日本選手権はそれまでに6連覇していたので7度目の優勝でした。

だから、その最年長記録を更新し続けたいんです。

僕自身の記録なので、自分を更新し続ける。

アスリートとしてやるからにはそこを目指したいですね。

仕事としてはレッスルウィンを日本一のクラブ、チームにしたいです。

キッズのクラスも持っていて子どもたちを教えているので、彼ら彼女らをしっかりと育てあげて全国制覇も果たしたいです。

ともに喜べたら最高ですね。

―― 自分を更新し続ける。とても力強い言葉ですね。アスリートとして生きることでビジネスに活きていることはありますか?

うーん……難しい質問ですね。

僕、職人気質なんですよ。

レスリングも総合格闘技も自分が納得いくまでとことん究めたいという想いでやってきました。

それって商売気質とは対照的なので、ビジネスにはあまり合わないんじゃないかって思っているんです(笑)それでも「職人」として徹底して競技に向き合って、かけがえのない財産を得られたことは確か。

アメリカに道場をいくつも展開してビジネスとして成功した人がいるそうなんです。

その方が重視していることは、いかに効果的に宣伝をするか。

指導する内容はどんどんマニュアル化して広告に力を入れるやり方だそうです。

コンビニのフランチャイズのような。

ビジネス的には素晴らしいのかもしれませんが、職人気質の僕には真似できないなと思っていて。

中身の濃さを追求していくことが、やっぱり僕のこだわりなんです。

今、自分のキャリアを活かしてレッスルウィンをやれているので、とことん追い求めて良かったなと思います。

僕にしかない強みを活かして何かをやることは、ずっと昔からの望みだったので。

理想としていた自分自身になれています。

これからもさらに精進していきたいですね。

「現役中」と「引退後」、将来のビジョンは「今」を切り離して考えない

―― 最後に、セカンドキャリアを考える後輩たちへメッセージをお願いします!

セカンドキャリアを考えましょうとよく聞きますが、現役中は競技に必死になっているから難しいと思うんですよ。

練習に試合にと頑張っている中で、“今”を切り離して考えるなんてちょっと無理じゃないかと。

だから僕としては、「現役中」と「引退後」を繋げるようにして考えられるといいんじゃないかと思うんです。

たとえば、競技で身に付けたスキルをうまく使って、金メダルを獲ったことを活かして、将来こういうことをやりたい、と。

野球選手であれば、プレー経験を活かして有名な解説者になりたい、とかですね。

そうやって将来のビジョンを描いた上で競技に打ち込むことができれば、モチベーションアップにもなりますよね。

「今」と「未来」を切り離すんじゃなく、繋がっているとイメージすることが大切じゃないでしょうか。

取材後記

そのうち覚悟ができたら。いつか準備が整ったら。
指をくわえて待っていても、“そのうち”も“いつか”もやってこない。

競技をしていてもそうですよね。“勝利”や“優勝”は、日々の練習やトレーニングを怠らなかった結果。そう。待っている未来は、努力の積み重ねでしかないんです。

明日の自分が後悔しないように。
喜べるように。笑えるように。

「今」と「未来」を切り離さずに、今日の自分を更新し続ける。

永田 克彦Katsuhiko Nagata

総合格闘家
現在:格闘スポーツジム代表


格闘スポーツジム『レッスルウィン』
http://www.wrestle-win.com/

永田克彦 オフィシャルブログ
https://ameblo.jp/nagatawin/

取材/アスリートエージェント 小園翔太
取材・文・編集/榧野文香

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