2025.02.20

仕事と競技の両立で“相乗効果”を生み出す。アルティメット・田村友絵が、働きながら成長し続ける理由

“円盤美女”と呼ばれ、業界のカリスマとして日本アルティメット界を牽引し続けている田村友絵さん。

2014年のクラブチーム選手権に出場して以降、常に日の丸を背負い、日本代表として世界の舞台を経験。

現在は強豪クラブチーム「MUD」に所属し、活躍を続けています。

とはいえ、国内にアルティメットのプロチームはないため、働きながら競技活動を続けていかなくてはなりません。

田村さんも、平日は朝から出勤し、夜にトレーニング、土日でチーム練習を行う日々を送っています。

それでも「仕事と競技の両立には、得なことしかない」と、田村さんは話します。

今回は彼女に、デュアルキャリアを実践しながら、一流選手への階段を駆け上がることができた、その理由を伺いました。

Profile

田村 友絵(たむら ともえ)1990年3月生まれ
東京都出身のアルティメット選手。

幼少期から様々なスポーツを経験し、中学・高校ではバスケットボールに打ち込む。成蹊大学でアルティメットに出会い、主に「ハンドラー」と呼ばれるポジションでプレー。2014年には日本代表に初選出され、WUCC世界アルティメットクラブチーム選手権大会・MIX部門8位に入る。それ以降、日本代表の常連となり、2016年にWUGC世界アルティメット&ガッツ選手権大会・ウィメン部門で4位、2017年には第10回ワールドゲームズ(男女混合)で5位と結果を残す。所属する「MUD」ではキャプテンを務め、2019年の全日本アルティメット選手権では6年ぶり6回目の優勝に導いた。現在は、健康製品を扱うメーカーの営業アシスタントとして働きながら、競技活動を継続し、“円盤美女”としてアルティメットの普及・発展に尽力している。

大学で出会った「アルティメット」の魅力

―― アルティメット界で日本を代表するプレーヤーであり、現在は強豪クラブチーム「MUD」に所属している田村さん。競技を始めたきっかけを教えてください。

アルティメットとの出会いは、大学1年生の頃。一緒に入るサークルを探していた友達から、「アルティメットやらない?」と誘われたことがきっかけです。

それまでは中学・高校と6年間はバスケットボールをしていて、全国大会を目指し、東京の強豪校でプレーしていました。

でも、バスケは高校の3年間で燃え尽きてしまって。

高校卒業後は他のスポーツをやろうと考えていたので、ちょうど良いタイミングでしたね。

ただ、実際にやってみると、フリスビーをうまく投げられなくて(笑)。

私、自分で言うのもアレですけど、何でもそつなくこなせるタイプなんです。

だから競技の難しさに直面した時に、逆に「うまくなりたい!」と火がつきました。

それから本格的にアルティメットに打ち込むようになり、サークル自体も週5で練習していたので、楽しみながらも一生懸命取り組んでいたと思います。

―― そもそも、アルティメットとはどのような競技なのでしょう?

簡単に説明すると、アルティメットは7人制のフライングディスク競技。

7人ずつ敵、味方に分かれ、一枚のディスクをパスしながら“エンドゾーン”と呼ばれるフィールドの端を目指し、そのエリア内でディスクをキャッチすると得点となります。

アメフトのボールをフリスビーに変えたスポーツ、と言えばイメージしやすいと思います。

試合時間は、前半後半合わせて約100分。

その中で縦100メートル、横37メートルのフィールドを走り回るので、かなりの体力を要します。

―― 想像以上にハードなスポーツなのですね。その中で、実際に体験して「面白い」と感じた部分はどこですか?

“スロー(投げること)”の技術が上達していく瞬間でしょうか。

というのも、私は「ハンドラー」という、主にゲームメイカーとしての役割を担うポジションを務めていて。

自分でディスクをキャッチして得点するというより、パスして得点をアシストする感じですね。

風の影響を計算しなければならないので難しいですが、スローのコントロールが上達していくうちに、どんどん競技の面白さに取り憑かれていきました。

加えて、アルティメットは体力・技術だけじゃなく、巧みな戦術をたてる「知力」も重要なスポーツ。

戦略的にフェイントをかけながら、パスを受けるスペースを作ったり、ディフェンスがわざとスペースを作ってパスカットを狙うなど、その駆け引きも大きな魅力の一つです。

一度離れて気づいた“競技の楽しさ”

―― 大学から競技を始めて、すぐに活躍されていったのでしょうか?

いえ、チーム自体はあまり強くはなかったので、すぐに結果を残すことは難しかったです。

高校までクラシックバレエや、帰宅部だった人たちの集まりでしたから(笑)。

大学1年時に出場した全日本大学アルティメット選手権では、最下位から2番目の順位でした。

それでも強くなるために選手全員、一生懸命に練習したので、大学4年時の同大会では5位にまで成績を伸ばすことができたんです。

結果が出た瞬間は喜びもひとしおでしたし、本当に周りに恵まれていたなと思います。

―― 4年間で相当な努力をされたのですね。ちなみに、大学4年時には大阪開催の2012年世界選手権の日本代表候補に選ばれたんですよね?

はい。

ですが他の選手たちの意識の高さ、世界で戦うことに対する気持ちの強さを感じた時に、「私はここに居てはいけないな」と、代表選考を辞退しました。

当時、アルティメットを続けていた理由は、単純に競技が楽しい、ただそれだけでした。

だから、アルティメットに人生をかけている方々と同じフィールドに足を踏み入れるのは失礼だな、と。

そう思ったんです。

―― やはりどの競技においても、代表入りを目指す選手たちは、“日の丸を背負う”ことに対する想いは人一倍強いですもんね。大学卒業後はどうされたのでしょう?

保険会社に就職し、営業をしていました。

はじめは社会人チームに入って競技を続けようと思っていたのですが、練習日である土日は仕事が忙しかったので、一度、アルティメットからは離れたんです。

―― そうだったのですね。では、競技の活動を再開されたのはいつ頃ですか?

約1年半後です。

ある時、大学でアルティメットサークルに誘ってくれた友達に、「人数足りないから、試合に出てくれない?」と言われて。

基本的に土日は営業で外を回っていたのですが、一応、エントリーだけ済ませていたんです。

そうしたら、たまたま当日は仕事がなく、試合に出場することができました。

久しぶりにアルティメットをプレーしたら、もうめちゃくちゃ楽しくて(笑)。

それを機に、土日が休みの仕事に転職することを決めて、2014年から再び競技を始めたんです。

新しい仕事は、健康製品を扱っているメーカーの営業アシスタントで、現在も続けています。

世界で得た自信が、代表選考会への“挑戦力“を生み出した

―― 転職し、社会人チームに所属されてからは、どういったスケジュール感で動かれていたのですか?

平日は朝9時に出社して、18時に仕事が終わります。

その後は必ずバナナを食べてからジムに向かい、トレーニングを終えたら帰って寝る、という感じです。

お腹が空くとトレーニングが最後まで持たないので、バナナは必須です(笑)。

土日は基本的にチーム練習か、大会に出て試合をすることが多いですね。

―― バナナはちょっと笑いました(笑)。アルティメットは、どのような大会が行われているのですか?

国内だと、一般社団法人日本フライングディスク協会が主催する、全日本アルティメット選手権という大会がありまして。

各地区の予選から始まり、勝ち上がったチームが本戦、そして決勝戦へと進むことができます。

海外ですと、ナショナルチームで戦う世界選手権に、男女混合形式(ミックス)のみで行われるワールドゲームズ、そしてクラブの世界一を決めるクラブチーム選手権があり、この3つが主な世界タイトル戦となります。

いずれも4年に一度の開催なので、選手たちが大会にかける想いは強いですね。

その中で、2014年にはクラブチーム選手権がイタリアのレッコで開催されたのですが、私はミックスの部門で初めて日本代表に選出していただきました。

成績は8位と悔しい結果に終わってしまいましたが、個人的にはすごく大きな手応え感じることができたんです。

―― というと?

身体が大きな外国人選手相手だと、私たちは小回りが利くので、スプリントで抜き去ることができたんです。

もちろん技術はまだまだ足りない部分が多かったのですが、「私でも、世界を相手に通用するんだ」と自信がつき、より日本代表として戦う意欲が湧きました。

それで前回は辞退した、2016年に行われる世界選手権の代表選考会に、今度は自ら参加しようと心に決めたんです。

それに伴って、同年4月から東京の強豪クラブチーム「MUD」に活動の場を移し、さらに厳しい環境に身を置くことも決断しました。

連覇逃すも…「敗戦」で芽生えた新たな覚悟

―― その頃には、大学4年生の頃とは代表に対するモチベーションは全く違うものになっていたのでしょうね。実際に参加されて、代表選考会はどうだったのでしょうか?

おかげさまで、最後まで選考に残ることができました。

この2016年の世界選手権は、前回の2012年には日本が優勝していたので、私たちにとっては連覇をかけて臨む大会。

それでも特にプレッシャーを感じることはなかったですし、クラブチーム選手権で手応えも得ていたので、優勝を目標に自信を持って本戦に臨んだんです。

しかし、フタを開けてみれば、準決勝でコロンビアに敗れ、3位決定戦でもカナダに敗北…。

最終的に4位という結果に終わり、優勝どころか表彰台に立つことすら叶いませんでした。

―― 何が起こったのでしょう…?

まず、コロンビアは前回大会で日本に敗れていたこともあり、チームの戦術をすごく研究されていたんです。

さらに、日本のいい要素を自チームに取り入れ、もともと高い身体能力に加え、テクニックも増し、かなりの強豪へと進化を遂げていました。

逆に私たちは、前回大会からだいぶ世代交代をしており、若く、経験の浅いチームになっていて。

しかも「前回王者である日本はめっちゃ強い」と思い込んで試合に臨み、はじき返されてしまった。

その瞬間、「どうしよう…」「もう優勝できないんだ…」とかなりショックを受けてしまったんです。

そのまま3位決定戦に進みましたが、チーム全員が気持ちを切り替えることができず、カナダにボロボロに負けてしまいました。

私はもともとプレッシャーを感じるタイプではないのですが、後にも先にも、緊張し、身体が震えたのはこのカナダ戦だけかもしれません。

誰でも簡単にできる“オープンスロー”という投げ方があるのですが、この試合で投げた時には目の前の地面に突き刺さりましたから(笑)。

その瞬間、「あ、緊張してるんだ」って気づきましたね。

緊張に関して言うと、これは余談ですが、以前、試合の前後に「交感神経」と「副交感神経」を測定してもらったことがあったんです。

高いパフォーマンスを発揮するには、両方が同じくらい活発に働いている状態が理想らしいのですが、私はどちらもすごく低くて。

「リラックス状態が強すぎる」「この数値は、よだれが垂れるレベルだよ」ってめちゃくちゃ言われたんです(笑)。

何が言いたいかというと、これほど緊張感とは縁遠い性格の私が、固くなったカナダ戦のプレッシャーは半端なかった、ということです(笑)。

でも、この経験をしたことで、「日本一、いや、世界一を取るまではアルティメットをやり続けよう」。そういう目標というか、強い覚悟が芽生えました。

苦しみを乗り越え掴んだ「日本一」の栄冠

―― 今年、2020年はリベンジのシーズンなわけですね。ただ、世界選手権直後は敗戦のショックから、気持ちを切り替えるのは難しかったのではないですか…?

大会終了後には国内で日本選手権があったのですが、私含め、世界選手権に出場していたMUDのメンバーは、気持ちを切り替えられているつもりでいました。

ですが、代表に選ばれていない選手たちからすれば、そういう風には全く見えていなかったらしくて。

「切り替えられてないんだったら、素直にそう言えばいいじゃん!」ってハッキリ言われてしまったんです。

でも、そのおかげで「ハッ」と目が覚めて、しっかり気持ちを整えて試合に臨ことができました。

―― メンバーのちょっとした変化も気づいてくれる、素晴らしいチームメイトですね。田村さんは2018年からMUDのキャプテンに就任され、昨年の日本選手権では優勝を果たされました。チームの主将として、この2年間で心がけたことを教えてください。

当たり前のことかもしれませんが、相手の話を聞く、深層心理を知る、ということは心がけました。

やはりクラブチームなので、それぞれ働いている職場は違うし、歩んできたキャリアも違う。

だから一人ひとり、チームのことや試合のことに対してどう思っているのか、そこをしっかり把握する必要がありましたから。

それに「キャプテンは必ず2年はやる」と決めていました。

というのも、私が就任する前年は、日本選手権の順位が4位と、それまで常に優勝争いを演じていたチームがガクッと成績を落としたんです。

その原因は、やはり世界選手権での敗戦にあって。

私含め選手によってはまだ気持ちが落ち着かず、心がバラバラな状態が続いていました。

だから2年かけてチームの強さ、そして団結力を取り戻そうと考えたのです。

―― 具体的にどのような施策を講じたのでしょう?

まず就任1年目の2018年は、選手たちの気持ちや方向性を一つにまとめていくために、チームの「土台づくり」に注力しました。

前述の通り、一人ひとりに話を聞き、その上で、まとめるためにはどうすればいいのかを考える。

それを繰り返した結果、日本選手権は3位と一つランクアップすることに成功しました。

そして2年目の2019年は、技術力向上をメインに練習し、自分たちのプレーで足りない部分を補っていったんです。

その甲斐あって、昨年は全勝で6年ぶり6回目の優勝を果たすことができました。

本当に嬉しかったですし、みんなのおかげで私自身も成長することができたので、チームメイトには感謝の気持ちでいっぱいです。

「何をやりたいか」ではなく「自分がどうなりたいか」を考える

――近年では、仕事と競技を両立する“デュアルキャリア”を実践するアスリートが増えてきています。田村さんもその一人で、常に働きながらアルティメットを続けられていますが、二足のわらじを履くことに対してどのように考えていますか?

仕事と競技を両立していると、周りから「大変そうだね」と心配されますが、私の気持ちは逆で、デュアルキャリアは「すごく特だな」って感じています。

何故かと言うと、仕事で学んだ知識は競技に、競技で得た経験は仕事に、それぞれ生かされているからです。

例えば、私はもともと人見知りだったのですが、社会に出て職場の方々やお客様を大切にするようになってから、チームメイトと深くコミュニケーションを取り、より相手のことを考えるようになりました。

逆も然りで、チームでキャプテンを務めたことで大人数をまとめる難しさを痛感し、上司の立場や大変さを理解することができています。

仕事と競技、それぞれで様々なことを学び、経験することができる。

もちろん時間的に両立が厳しいことはありますが、トータルで考えたら、本当に得してるなって思いますね。

だからもし、国内にアルティメットのプロチームができたとしても、仕事は手放さず、ずっと両方やっていきたい。

それほどデュアルキャリアを実践することには価値があり、自分がアスリートとして、社会人として成長し続けられる大きな要素になっているんです。

―― 田村さんは実際に、仕事と競技を両立していく中で、世界一を目指せる選手へと成長することができている。まさにデュアルキャリアを体現できているなと感じます。最後に、これから社会に出ていく体育会学生に向けてアドバイスをお願いします。

学生のうちに、将来的に「何をやりたいか」ではなく、「自分がどうなりたいか」を考えておくといいかもしれません。

自己分析して将来像をイメージする、という感じですね。

社会に出たらいずれ起業家になりたい、結婚して家族を持ちたい、何でもいいです。

明確な将来像があるだけで、そのために何をすればいいのかを洗い出すことができ、迷わずに進むことができます。

なのでまだ時間がある今のうちに、ぜひ将来の自分をイメージしておくことをおすすめします。

 取材後記

いつも柔らかい雰囲気で、その場にいるだけで人の心を和ませてくれる田村さん。

取材を通じて、たくさんの笑顔やエネルギーをいただきました。

現在は、今年の世界選手権の代表選考に残るため、日々トレーニングに励んでいます。

そんな彼女に“モチベーションを保つ秘訣”を聞くと、やはり応援してくれるファンの存在が大きいようです。

「本当にありがたくて。少しでも活躍を見てもらえているんだなって思うと、力が湧いてくるんです。まだ選考途中ですが、みなさんの支えを糧に、優勝を目指して頑張ります」

悔しい思いをした前回大会のリベンジを果たし、念願の世界一へ。

表彰台のてっぺんで、この笑顔を再び見れることを、祈っております。

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取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)

著者Profile瀬川 泰祐(せがわ たいすけ)
1973年生まれ。
北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「スポーツで繋がる縁を大切に」をモットーとしながら、「Beyond Sports」をテーマに取材活動を続けている。
公式サイト
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