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2025.02.15
競技生活の中で手に入れたモノを次の世代に。もがき続けた元Jリーガー・狩野健太の新たな決意
選ばれし者だけが立つことができる特別な舞台で、15年間、もがき続けてきたアスリートがいます。
元Jリーガーの狩野健太さんは、つい先日引退を発表し、サッカー指導の道へ進むことを発表したばかり。
幼少期から天才と称され、高校サッカー界の名将・井田勝通監督をして“10年に1人の逸材”と言わしめた才能は、Jリーグという華やかな舞台の中で、眩く輝いたり、時には輝きを失いそうになりながらも、力強く15年間を走り抜けました。
日本を代表する選手たちとのレギュラー争い。
度重なる怪我。
思い描いた結果を手に入れらない葛藤の日々の中で手に入れたものとは?
「まさに、いまが人生の大きな転機」という狩野健太さんは、これまでの経験を武器に、自らの未来を切り開くべく、新たな道を歩みはじめました。その決意に迫ります。
Profile
狩野 健太(かのう けんた)1986年5月2日生まれ。
静岡県出身の元プロサッカー選手。東海大一中時代は15歳以下日本代表に選出され、高円宮杯で全国準優勝を成し遂げる。静岡学園高校では1年生からレギュラーの座を掴み、絶対的な司令塔として活躍。高校卒業後は、数々のオファーから横浜F・マリノスに入団。中村俊輔選手など、日本を代表する選手たちとレギュラー争いを繰り広げた。その後、2013年には柏レイソルに移籍し、ヤマザキナビスコカップ(現JリーグYBCルヴァンカップ)で優勝を果たす。2016年に活躍の場を川崎フロンターレに移し、J1制覇に貢献した。2018年から2020年まで徳島ヴォルティスに在籍。先日、現役を引退するとともに、サッカーの個人レッスン事業を開始することを発表した。
公式サイト:https://kenta-kano.com
「一番になりたい」。そう思い続けてプロの道へ

――狩野さんはサッカー王国・静岡県のご出身だそうですが、どのようなきっかけでサッカーを始めたのでしょうか?
小学校1年生の時に、遊びの延長で地元のスポーツ少年団に入ったのがきっかけです。
ちょうど1993年にJリーグが開幕して盛り上がっていた頃でした。
父がやっていた野球にも興味はありましたが、もともとサッカーが盛んな地域ですし、Jリーグの盛り上がりもあったので、自然な流れでサッカーを始めました。
――狩野さんといえば、「天才」というイメージがありますが、小さい頃はどのようなお子さんだったのでしたか?
いわゆる「ジャイアン」のようなタイプでした(笑)。
とにかく負けず嫌いな性格だったので、サッカーに関しては「何がなんでも一番になりたい」という気持ちが強かったです。
チームでも選抜チームでも、とにかく自分がいる環境で一番になりたいと思ってやってきました。
だから、世代別の日本代表などにも選ばれたりしていましたが、僕にとってはそれも当たり前のことだったような感覚です。
――多くの選手は、「上には上がいる」ということにどこかで気づかされると思いますが、狩野さんがそのような選手に出会ったのはいつ頃だったのでしょうか?
小学生の時に、全国選抜で家長昭博選手(現・川崎フロンターレ所属)と一緒にプレーする機会があったのですが、彼を見たときは、凄く上手いなと感じ、刺激を受けたことを覚えています。
ただその当時から負けたくないという気持ちはずっと持っていました。
――プロサッカー選手を目指そうと意識し始めたのはいつ頃ですか?
「一番になる」ことだけしか考えていなかったので、いつから目指したかと聞かれるとわからないんですよね。
おそらく、Jリーグをはじめて見たときから、プロになることしか考えていなかったというのが正しいかもしれません。
ただ、高校在学中に、Jリーグのチームに練習参加させてもらう機会に恵まれた時には、“プロになりたい”ではなく“プロになる”と既に決めていました。
――「プロになると決めていた」というのが面白いですね。
いまだから言えることかもしれませんが、当時は、自分の未来を信じて疑わなかったのが良かったんだと思います。
未来って不確定なはずですが、それを自分で決めつけてしまうという感覚は、何か目標を達成する上では、すごく大切なことなんじゃないかと思っています。
――少し話は戻りますが、高校ではサッカーの名門・静岡学園高校に進学されました。印象に残っていることはありますか?
当時、井田監督からは「健太は才能はあるけど練習はしない」と言われてきました。
周りからも「努力しなくてもできちゃうよね」と言われることが多かったんですが、実は影では練習をしていました。
練習しないとできませんからね(笑)。
当時から、努力は人に見せるためにやるものではなく、結果を出すためにやるものだと思っていました。
だから監督やコーチに向けて自分をアピールするのは、あまり得意じゃなかったですね。
国内最高峰の環境の中で感じた大きな壁

――そんな努力が実り、高校卒業後は、鳴り物入りで横浜F・マリノスに入団されました。数々のオファーの中で、なぜ横浜F・マリノスを選んだのでしょうか?
当時の横浜F・マリノスはJリーグを2連覇中で、在籍している方たちも日本を代表する選手ばかりでした。とにかくレベルの高い環境で勝負したいと考えてチームを選びました。
――実際に入団してみていかがでしたか?
想像をはるかに超える世界でしたね。
みんな本当に上手くて驚きました。
いま考えると、技術で劣っていたというよりは、頭の回転スピードに大きな違いがあったのだと思います。
最初の1年間は、練習でもミスばかりで、自分のプレーどころじゃなかったですね。
次第に自信も失ってしまい、パスも回って来なくなりました。
1年目から活躍している同期の選手もいたので、くすぶっている自分に対してもどかしさを感じたこともありました。
――最初から試合に出られるクラブを選択するという考えはなかったのでしょうか?
うーん、試合に出ている選手を羨ましく思ったこともありましたし、そういう選択も「あり」だったのかなと頭をよぎったことはありましたが、いくら試合に出られなくても移籍したいと考えたことは無かったです。
このチームで絶対に結果を出してやるって常に思っていました。
――やはり簡単に通用する世界ではないんですね。その後、どのようにしてプロの世界に馴染んでいったのでしょうか?
環境に慣れていったという面もあり、3年目から、徐々に自分の求めるプレーができるようになってきました。
しかし、うまく行き始めた矢先の2008年に、内側側副靭帯を損傷してしまい長期離脱してしまったんです。
さらにケガからの復帰戦で、今度は第五中足骨を折ってしまいました。
ケガのリハビリに費やした5か月間は本当に辛かったですね。
――その後怪我を克服し、2009年はチーム内でレギュラーを獲得し、ようやく才能が花開いた時期だったように感じますがいかがでしょうか?
レギュラーとして試合に出る機会が増えてきましたが、その翌年の2010年に、海外で活躍していた中村俊輔選手が復帰し、再び控えに回ることが多くなりました。
当時の木村和司監督(元サッカー日本代表)からは、期待されていたことはわかっていましたが、一方で、「なんで試合に出してくれないんだよ」ってずっと思っていましたね。
監督からは「俊輔に代わる選手はお前しかいない。ここを乗り越えれば世界も目指せるぞ」と発破をかけられたこともありましたが、中村俊輔選手と比較されることに葛藤があり、うまく自分をコントロールできていなかったように思います。
好きでいられることの価値を知る

――大きな壁にぶつかりながらも、前に進んできたわけですね。狩野さんはその後、8年間在籍した横浜F・マリノスを離れ、柏レイソル、川崎フロンターレへと移籍されました。
横浜F・マリノスから戦力外通告を受け、柏レイソルに入団しましたが、在籍した3年間のうち、1年半は怪我でプレーできなかったんですよ…。
悔しい気持ちを上手くコントロールできなくて、焦る気持ちから、過度に練習をしてしまい怪我を繰り返すという悪循環に陥ってしまいました。
ちょうどこの頃から、もっと自分の体と向き合おうと考えて栄養士を付けて勉強するようになりました。
また、その後移籍した川崎フロンターレでは、入団後は、開幕戦からスタメンを勝ち取ることができ、少しずつ感覚も戻ってきて手応えを感じ始めていましたが、ここでも痛み止めを飲み、我慢しながらプレーしていた反動で足首の痛みが我慢できないほどになり、手術を受けざるを得なくなりました。
やはり、チャンスを逃したくなかったし、結婚もして「もっとやらなくては」と焦りを感じてしまっていたのだと思います。
――怪我に悩まされながらも、約15年間も日本のトップカテゴリーで生き残ってきました。厳しい世界の中で生き残るために必要なことはなんだとお考えですか?
とにかく好きでいられるかだと思います。
好きなことをやれるのが一番の武器になると思います。
僕も怪我でプレーができなかったり、心が折れそうな時は何度もありましたが、それでもサッカーが大好きだったのでここまで踏ん張ってこられたのだと思います。
それは周りの先輩方を見ていてもそう感じますね。
例えば中村憲剛さん(現・川崎フロンターレ)には今も相談に乗ってもらったりしますが、サッカー好きを通り超していて、1つ質問すると10になって返ってきたりします(笑)。
また、プロの世界に入って間もない時に、静岡学園の先輩でもある三浦知良さん(現・横浜FC)にお会いする機会があったとき、「サッカーに対して失礼があってはいけない」と言われたことがありました。
あのカズさんの言葉だけに、凄く心に響き、よりサッカーと真摯に向き合うきっかけになりました。
引退してからの方が長い人生。競技の中で学んだことを整理する

――素晴らしいエピソードですね。これまで話を聞いていると、決して順風満帆な選手生活ではなかったと思われます。昔の自分にアドバイスを送るとしたら?
「上手くなりたい」という気持ちだけが先行して、その先のプランが明確じゃなかったですね。登る山をちゃんと決めていれば、もう少し違う競技生活を送れていたかもしれません。
このチームで自分がどうなりたいか、どんな役割を担えるか、といった具体的な目標を持っていれば、そこに向けた“正しい努力”ができたはずなので。
いま振り返ってみると、まだまだやれることはあったのかなと思いますね。
――徳島ヴォルティスで初めてJ2リーグを経験しました。何か心境の変化などはありましたか?
J2は若い選手も多く「成り上がりたい」という願望が非常に強いと感じ、移籍した当初はそのギャップに戸惑うこともありました。
でも、彼らにとっては、J1の舞台でプレーするという明確な目標があるからこその行動だったはずです。
サッカーはチームスポーツです。
組織の中における自分の役割の作り方や、自分という存在のアピールの方法など、それまで僕がやってこなかったことを、彼らは貪欲にやっていました。
J1でプレーしていた頃の僕は、あえてそれを行なってこなかったので、すごく勉強になりました。
また僕自身もベテラン選手として、チームから求められることも大きく変わりました。
その中で自分の存在意義をどう示すか日々考えていました。
――先日、ついに競技生活に区切りをつけ、新たな道をへ進むことを発表されました。新たな道を模索するのは苦しかったのではないでしょうか?
今年に入ってから、ずっと現役を続ける道を模索してきました。
もちろん、このままじゃ終われないという気持ちはありましたし、実際にオファーもいただいていたのは事実です。
でもその一方で、今の社会情勢や、怪我、年齢、家族の生活のことを考えたとき、本当に競技を続けることが正しいのかという疑問は常にありました。
ちょうど昨年末から怪我をしていたので、リハビリをしながら、多くの人と会って話を聞いたり、自分の考えを整理してきました。
本当に自分がやりたいことが何か、自分が今まで身につけてきたことは何か、それを使って何ができるのか、そういったことを必死になって考えた抜いて、ようやくいま結論が出せたところです。
苦しい時期ではありましたが、次にやりたいことを見つけられたことが、何より大きいです。
――次はサッカーのパーソナルレッスンを事業にすると伺っていますが。
はい、幼少期からプロサッカー選手になるまで、そしてプロサッカー選手になってからとこれまで自分が経験してきたすべてのことを子供たちに直接伝えていきたいと思っています。
――どのようなことを伝えていきたいですか?
プロを目指す子供達の心に火をつけていきたいです。
テクニカルなことはもちろんですが、壁にぶつかってもがいていたり、どんな練習をしたらいいのかわからなかったりと、いろんな悩みを抱えている子供に、自分のこれまでの経験を元に伝えて、共に成長していきたいと思っています。
子供たちの人生に寄り添い、成長していく姿を見られたら本望ですしそれがサッカー界やJリーグへの恩返しになると思っています。
――経験を重ねる中で、価値観に大きな変化があったのですね。それでは最後に、これから社会に出ていく学生たちにアドバイスをお願いします。
「自分が思っていることをちゃんと相手に伝える」というコミュニケーションを大切にして欲しいですね。
アスリートの場合は言葉で伝えることが苦手でも、プレーで表現する方法があります。でも社会に出たらそうはいきませんよね。
だから競技生活をしながらコミュニケーション能力を磨いておくと良いのではないかと思います。
この“伝える”ということは、僕のこれからの人生においてもキーワードになってくると思います。
また、どの分野で生きていくにしても、最後は人と人との繋がりが大切だと思います。
僕も沢山の人に支えられてここまで走り続けることができました。
人との繋がりを大切にしながら、次のキャリアを模索していってもらいたいですね。
取材後記

栄光と挫折を知る狩野さんの言葉からは、未来へ向けた強い意志を感じました。
「まだ人生の30%しか終えてないんです。
僕が歩んできたことを、この先にどのように活かすかの方が重要だと思う。
僕と同じような境遇の選手は沢山いると思いますし、そんな人たちの助けになりたい」。
狩野さんの経験が言語化され、多くの人に伝えられる力を身につけたとき、狩野さんの指導現場には、多くの人の笑顔と未来への希望が溢れるのではないでしょうか。
狩野さんが今後、どのような指導をするのか、とても楽しみです。

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取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)
著者Profile
瀬川 泰祐(せがわ たいすけ)
1973年生まれ。
北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「Beyond Sports」をテーマに、スポーツと社会の接点を探しながら取材活動を続けている。
公式サイト
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