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秦アンディ英之 / Hata Andy Hideyuki   元アメリカンフットボール選手|現在:経営者

こだわりを持って行動し、新たな価値観を創り出す。総合格闘技「ONE」代表・秦アンディ英之の、強い組織づくりの“原点”

スポーツの一流選手を見ていると「継続は力なり」という言葉を思い出します。

しかし、思うような結果が出なければ、それまで一生懸命続けた努力も、途中で投げ出してしまう人もいるのではないでしょうか。

それほど努力の継続は、何事にも難しいということです。

今回お話を伺った、秦アンディ英之さんは「結果が出なくても逃げなければ、その経験は次の将来に必ず生きる」と力強く話します。

アンディさんは日本とアメリカを行き来しながら、高校・大学とアメリカンフットボール選手として活躍し、大学卒業後は社会人クラブ「アサヒビールシルバースター」で日本一を経験。現役引退後は、ソニーや調査会社のニールセンスポーツ等でスポーツビジネスに携わり、2019年からはアジア最大の総合格闘技団体「ONEチャンピオンシップ」の日本代表取締役社長として、日本の総合格闘技界を盛り上げています。

そんなアンディさんに、自身の競技人生を振り返ってもらいながら、努力を継続する上で大切なマインド、スポーツで培った経験の生かし方について伺いました。

Profile

秦アンディ英之(はた あんでぃ ひでゆき)1972年10月5日ベネズエラ生まれ、アメリカペンシルバニア州フィラデルフィア育ちの元アメリカンフットボール選手。 明治大学ではアメフトの明治大学グリフィンズに所属し、副主将兼主務として活躍。大学卒業後の1996年にはソニーへ入社し、働きながら明大のコーチを1年間務める。翌年には社会人アメフトリーグ「Xリーグ」に所属するアサヒビールシルバースターに3年契約で入団。契約最終年となる1999年には自身初の日本一を経験する。1999シーズンを最後に現役を引退。同社には2012年まで在籍し、FIFAとのトップパートナー シップ等、全世界を束ねるグローバル戦略の構築を担当。その後は、スポーツ専門の調査コンサルティング会社ニールセンスポーツの日本法人の代表を経て、2019年1月から総合格闘技団体「ONEチャンピオンシップ」日本代表取締役社長に就任した。

  周りから“宇宙人扱い”も…国の文化の違いで苦しんだ中学時代

―― 現在はアジア最大の総合格闘技団体「ONE チャンピオンシップ」の日本代表取締役社長をされているアンディさん。もともとはアメフト選手でしたが、競技を始めるきっかけは何だったのでしょう?

私はベネズエラ生まれなのですが、父の転勤により、小学生時代はアメリカに住んでいたんです。同国はスポーツを何でもやらせてもらえる環境だったため、野球やバスケ、ゴルフにテニス、そして水泳と、数々の競技を経験しました。その中にはアメフトもあり、物心ついた時から自然と始めていましたね。

―― では、その頃にはアメリカでプロ選手として活躍することを夢見ていたのですか?

そうですね。ただ当時は、数ある競技の中でも特に野球が好きだった、ということもあり、アメフトより野球でプロになること考えていたと思います。小学校6年生までは地元のリトルリーグに入って、プレーしていました。ですが、中学から父の仕事の都合で日本に引っ越すことが決まり、野球を辞めることを余儀なくされたんです。

―― 日本で野球を続けることはできなかったのでしょうか?

最初は続けようと思っていました。ただ、中学に入る前の1985年3月、NCAA(アメリカ大学スポーツ協会)男子バスケットボールトーナメントで、私の地元・ペンシルベニア州にあるビラノバ大学が優勝しまして。それに感化された私は、野球部ではなくバスケ部に入ることにしたんです(笑)。1年でも時期がズレていれば、そのまま野球を続けていたかもしれませんね。

―― 本当に入学直前で、絶妙なタイミングですね(笑)。部活に入って、日本とアメリカのスポーツ文化の違いについて何か感じる部分はありました?

スポーツ以前に、そもそもの文化や考え方が違いすぎました。自分の意見を主張したいという思いが強いアメリカに対し、日本は基本的に謙虚で静かな人が多い。だから自己主張しても生意気に思われ、挙げ句の果てには宇宙人扱いされました。部活動においても、型にはまった指導方針が浸透していたので、アメリカで自由にスポーツを楽しんでいた私にとっては、日本の文化に馴染んでいくことは大変でしたね。

  道から逸れ、目標を見失うも「スポーツが救ってくれた」

―― その後、日本の文化に慣れていくことはできたのでしょうか…?

徐々にではありますが、中学3年生の頃には適応することができました。ただ、文化の学び方は決していい形ではなかったかもしれません。というのも、理不尽なことが多く、いわば「空気を読む」ことが至上の日本的なルールの中で過ごすことに限界を感じてしまって…。中学3年時にバスケ部を辞めてしまったんです。その時に、僕と同じ感性を持った友達が15人ほどいて。学校に行かずに、彼らと一緒に過ごすようになりました。

客観的に見れば、社会のレールから外れてしまっていたのかもしれません。ですが、その15人の仲間からは、筋論や上下関係、仲間を大切に想う心を教わりました。それは現在の格闘技の仕事において重要な、“武道の精神”にもつながってくることでもあります。だから私にとって、彼らは一生の宝物。日本の文化に適応できたのも、彼らから得た学びが大きいんです。

―― その15人の仲間は、アンディさんの恩人であり、心の支えでもあったのですね。その後はどうされたのでしょう?

当時は部活も辞め、将来の目標を見失っている状態でした。なので、まずは新たな目標設定をするべく原点回帰し、ずっと好きだったスポーツを再び始めることを決めたんです。はじめは野球をすることも考えましたが、その時はアメフトへの興味が強かったので、アメフトができる高校をいくつか受験することにしました。

しかし、中学3年時に半年間勉強していなかったことが祟って、志望校は全て落ちてしまったんです。なので二次試験で受かった神奈川の桐光学園に入学し、アメフトに似ているラグビー部に入りました。すぐにアメフトをすることは叶いませんでしたが、目標となって再び前に歩を進めさせてくれたスポーツの存在は、本当に大きかったですね。

  大学から再び日本へ。祖国の文化を学ぶために

―― ラガーマンとしての高校時代はいかがでしたか?

当時の桐光学園はそこまで強くはなかったので、他の強豪校には敵わず、大会でも3回戦に進むのがやっとでした。それでも久しぶりにスポーツができて、本当に楽しかった。加えてラグビーの魅力を知ることができる、とてもいい機会でしたね。

その中で、高校2年時に再び父の転勤が決まり、アメリカに戻ることになりました。4年かけてようやく日本にも慣れてきましたが、中身はまだアメリカ人だったので、本場でアメフトができることへの喜びはひとしおでしたね。

ただ、やはりアメリカにとってアメフトは国技。アジアに住んでいた選手を、簡単に受け入れてはくれませんでした。最初のミーティングでも自己紹介もさせてもらえず、誰からも相手にしてもらえない。ひたすら悔しい気持ちでいっぱいでしたね。

―― 人種の壁を乗り越えることはできたのでしょうか…?

ある練習の時に2メートル超えの選手をタックルで倒し、選手としての力を見せることでどうにか認めてもらうことができました。「おっ、あいつやるじゃん」みたいな感じで(笑)。それ以降は徐々に出場機会が増え、高校3年時にはレギュラーとしてプレーすることができたんです。そして高校卒業後も、アメリカの大学に進学してそのままアメフトを続けるつもりでした。ですが1990年、湾岸戦争が起きたことで大きく考え方が変わったんです。

―― というと?

戦争が起こったことで、自分のルーツについて考え始めたんです。例えば、アメリカは「人種のるつぼ」と言われ、多数の民族から成り立っています。その中でアフリカ、アイルランド、ドイツなど、それぞれが自分たちのルーツを大事にしている国なんです。その時に日本のことについてよく聞かれていたのですが、あまり答えられない自分がいて…。「もっと日本人としてのアイデンティティを持たなければいけないな」と。さらに日本の文化を学ぶ必要性を感じたんです。だったら、大好きなアメフトを通じて勉強したいと思い、高校卒業後は日本に戻り、同競技の強豪である明治大学に進学しました。

  日本とアメリカ、両方の“文化の特徴”を生かす。大学で得た教訓

―― 今度はお父さんの仕事は関係なく、ご自身の意思で日本に戻られたわけですね。明大はアメフトの伝統校ですが、実際に入られてみていかがでしたか?

基礎の反復を重要視するチームであることは日本に戻る前から分かってはいましたが、実際に入部してみると、予想以上の厳しさを感じましたね。昔からスピードフットボール重視のチームなので、防具を付けさせてもらえず、永遠と走っていたことを今でも覚えています。入部当時は80キロあった僕の体重が、一気に60キロ台にまで落ちてしまうくらいでした(笑)。

試合自体は1年目から出させてもらっていたのですが、2年目に怪我をしてしまって。結果的に手術をすることが決まり、1年間を棒に振ってしまいました…。加えてチームとしても関東学生リーグの2部に降格してしまい、部内の雰囲気も悪くなって、みるみる勝てなくなっていったんです。

なので大学3年時には、もう一度チームを作り直し一部昇格を果たしました。誰に聞いても、当時のチームは「めちゃくちゃ強かった」と答えるくらい勢いがありましたが、後半戦からは一転して、ほとんど結果を残すことができなくなりました。何故かというと、2部に落ちたことによって強豪に対する“勝ち癖”がなくなってしまい、強いチームに競っただけで満足してしまっていたからです。最終的に、なんとか1部残留を果たすことができましたが、「このままでは1部では勝てない」と、喜びより危機感の方が強かったですね。

―― では、大学4年目には強豪として復活するために、何か対策をされたのでしょうか?

まずは強豪としての気持ちの持ち方を知るために、甲子園ボウルなどで優勝していた世代のOBの方々に会いに行きました。お話を聞いていくと、やはり勝つことへのこだわりが、当時の僕らとは全く違ったんです。そういった先輩たちからの言葉をヒントに、「絶対的な勝利主義でやっていく」ことを理念に掲げ、副主将兼主務として大学最終年のリーグ戦に臨みました。

結果的に優勝はできませんでしたが、チームとして多少なりとも勝ち癖を取り戻せたのかな、と思います。ただこの4年間を振り返って、悪く言えば、伝統的なしきたりなど、日本の文化を吸収しすぎてしまった。欧米での思想・経験をうまく絡ませて、いいバランスでアメフトと向き合うことができなかった。そこが悔しさであり、一番の教訓でもありましたね。

大学卒業後の1996年は、そこで辞めるとなると悔いが残るので、ソニーに就職。1年間のコーチ期間を経て、翌年から社会人アメフトリーグ「Xリーグ」に所属する「アサヒビールシルバースター」に3年契約で入団したんです。

  初の日本一によって生まれた“2つの価値観”

―― アサヒビールシルバースターと言えば、社会人アメフトの名門中の名門。学生時代とはまた違った次元での学びがあったのではないですか?

そうですね。はじめに驚いたのは、選手はそれぞれ自主的に動き、練習は軽く合わせる人が多かった、ということ。クラブチームなので、選手たちは仕事をしながら、火・木・土・日曜の夜に集まって練習するのですが、ほとんどの選手が軽く流していて。当初は「なんで全力で練習しないんだろう」と疑問を抱いていました。

その理由が分かったのは、入団2年目の秋。他の選手たちは裏でかなりの努力をしていて、全体練習では頭の整理をしている、ということを知りました。ベテランの方々は努力を周りに見せないので、すぐに気づくことができなかったんです。そのことを理解できないまま、僕はこの年の春には足首を骨折して戦線離脱。加えて「仕事が忙しい」を言い訳に、練習すら満足にできていませんでした。のちに干されて試合に出られなくなるのですが、今思えば当たり前の結果だったんです。

―― リーグ自体はプロではなくても、選手たちの競技に取り組む姿勢はプロとしての在り方そのものだったのですね。

はい。彼らの努力に気づいたとき、自分自身に腹が立ち、本当に悔しかった。そして、このまま「ずっと好きだったアメフトを、こんな形で終わらせるのは嫌だな」と思い、契約最終年は全てをかけて臨むことに決めたんです。

まず入団2年目の365日を振り返り、1日ずつ何をしたのかノートに書き出しました。すると、いかに自分がアメフトをサボっていたのかが分かってくるんですよ。例えば、仕事が終わって帰宅したら「寝る前に30分くらい走れるじゃん!」とか。出張先にせっかくウエイトルームがあるのに、全くトレーニングをしていない、とか。あるいは外食に行ったら、ついついお酒を飲んでしまう、など。一つひとつの行動に選手としての自覚が足りていなかったんです。

それらを改善すべく、2年目の冬から本格的に体づくりを始めました。その甲斐あって一気に体は大きくなり、筋力の数値も上昇。3年目の1999年春からは、すぐに試合に出られるようになりました。そして、最後にはアメフト人生で初めて日本一になることができたんです。その時に気づかされたのは、「ここまで努力をしないと優勝できない」ということ。逆に「ここまでやれば優勝できる」ということも学びました。この2つの価値観は、僕の人生の価値観を一気に変えるほど大きな財産となりましたね。

―― アンディさんにとって、1つの成功体験を得ることができたわけですね。

そういうことです。この価値観については、個人競技でも、団体競技でも同じことが言えます。前者は「個」が練習すれば結果が出るのはもちろんですが、後者においても、それは「個」の集合体。一人ひとりが努力し、それが集まったとき、本当の意味での強い組織が出来上がる。要するに、「個」がしっかりしていないと組織は強くならないんですよ。だから組織として結果が出ていないのは、「個」が努力を怠っているに他ならない。戦略云々じゃないんですよ。この強い組織づくりは、「ONE チャンピオンシップ」の日本代表取締役社長を務めている現在もなお、“原点”として心に刻まれています。

  スポーツを通じて学び得た経験は、その後の人生の糧になる

―― では、そういった現役時代に得た学びは現在の仕事にも生きている、と。

はい。やはり組織をつくるということは簡単なことではありません。その際に、「個」をどう育てていくのか。団体に所属する次世代の選手にしても、ONEの従業員にしても、そこには重点を置いて取り組んでいていますね。特に前者においては、スターをやヒーローを育成していかないと、ONEを全国に根付かせていくことは難しい。

2019年には3月、そして10月とONEの大会を両国国技館で開催させていただきましたが、まだまだ日本中にイメージが広がっていないのが現状です。そこに一人でも多く、話題性のあるスター選手が誕生していけば、さらなる発展と普及を目指すことができると思うので、次世代の育成は急務ですね。

それでも、実際に会場に足を運んでくれた方々は、みなさん本当に楽しんでくださいっていた。それについては、すごく手応えがあるので、あとはいかにONEの存在を知ってもらえるか。加えて、国内での大会の実施を継続して行える環境の構築が必要になってきます。今年の10月には国内3度目の大会が決まっておりますので、今はそこに向けて、引き続き選手育成・アプローチを続けていこうと考えています。

―― 楽しみにしております! 最後にこれから社会に出ていく体育会学生たちにアドバイスをお願いします。

スポーツは嘘をつかないので、努力をすれば次第に結果が伴ってくる面もありますし、逆にどんなに努力をしても改善・成長できないこともあると思うんですよね。ここで大事なのは、もし結果に結びつかなくても絶対に逃げない、ということです。結果から逃げてしまうと、いつまで経ってもアスリートとしても、一人の人間としても進化することはできません。

成功しても、失敗しても、その経験値というのは、どんなことより価値があります。それによって自分を見つめ直したり、次に繋げていくことができる。それがスポーツの醍醐味だと思うんですよ。だから学生時代、スポーツを通じて学び得た経験は、その後の人生においても大事にしていってほしいですね。

  取材後記

「一つひとつの行動にこだわりを持ってやっていけば、物事をまた違った目線で見ることができ、新たな価値観が生まれてくる」と話すアンディさん。

現在、ONEの発展・普及に向けて全力で取り組むそのパワフルな姿からは、現役時代に失敗や挫折に直面しながら得た学び・経験が、いかに大きかったのかが伺えました。

取材時に、たまたまONEの社内に顔を出していた平田樹選手、アンディさんが次代を担うスターとして期待を寄せるひとり。こういった選手を輩出し、国内における格闘技熱をさらに作り出していく。

アンディさんたちの活躍によって近い将来、日本の格闘技界がどのように進化していくのか、楽しみで仕方がありません。

実は筆者も、昨年10月の記念すべき第100回大会「ONE:CENTURY 世紀」を観戦しました。そこには、実際に現地で観た人にしか分からない興奮と、一試合一試合、それぞれから生まれる感動の物語がありました。

今年の10月に開催される「ONE チャンピオンシップ」。ぜひ一度、その“熱”を生で体感し、新たな格闘技の世界を堪能してみてはいかがでしょうか。

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取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)

著者Profile 瀬川 泰祐(せがわ たいすけ) 1973年生まれ。 北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「スポーツで繋がる縁を大切に」をモットーとしながら、「Beyond Sports」をテーマに取材活動を続けている。 公式サイト | note | Twitter

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