2025.02.20

つねに“その先”を見据えて目標を掲げる。箱根ランナー・五ヶ谷宏司が実践する、「今」が一番楽しいと思える生き方

あなたは、どんなことをしている時に「楽しい」と感じますか?

趣味、仕事、恋愛、人によってさまざまだと思います。

しかし、年齢を重ね、ふと人生を振り返ってみると、「あの頃が一番楽しかったな」と回想する人も多いのではないでしょうか。

そんなとき、過去ではなく「今の自分が一番楽しい。輝いている」と思えるようになってほしいと話すのが、元マラソンランナーの五ヶ谷宏司さん。

五ヶ谷さんは専修大学時代、4年連続で箱根駅伝に出場し、JR東日本ランニングチームに所属して以降はマラソンランナーとして活躍され、サブテンも達成されました。

現在は、子ども向けランニングスクール『BEAT AC TOKYO』を立ち上げ、ジュニア期を中心とした育成に力を注いでいます。

今回は、そんな五ヶ谷さんに箱根駅伝での秘話や社会人時代のデュアルキャリア、そして今後のスポーツ界の未来のカギを握るジュニア期の育成について伺いました。

Profile

五ヶ谷 宏司(ごかや こうじ)1988年2月生まれ。
千葉県出身の元マラソン選手。

高校から陸上競技を始め、大学は専修大学へ進学。チームの中心選手として活躍し、箱根駅伝4年連続出場を果たした。大学卒業後は、実業団選手としてJR東日本に入社。1年目からマラソン競技に挑戦し、2011年びわ湖マラソンで新人賞を獲得。その後も、2012年シカゴマラソン7位(日本人1位)、2013年北海道マラソン優勝、2015年ベルリンマラソン9位(日本人1位)と実績を積み重ね、2015年東京マラソンでは日本人3位の2時間9分21秒で自身初となるサブテンを達成した。入社4年目から引退までの7年間、キャプテンとしてチームを牽引。10年間実業団選手として活躍をし、2020年3月をもって現役を引退する。同年4月1日からは、株式会社BEAT SOCIAL SPORTSを設立し、子ども向けランニングスクール『BEAT AC TOKYO』をスタート。同日には、母校である専修大学陸上競技部外部コーチにも就任し、経営者ならびに指導者としてキャリアを歩んでいる。

「一番速いからこそ、一番練習する」。劇的に走る能力が開花した理由

―― 専修大学時代は4年連続で箱根駅伝に出場し、実業団チームでもマラソンランナーとして活躍された五ヶ谷さん。陸上を始めるまでの経緯を教えてください。

実は、小学1年〜中学3年生までの9年間は陸上ではなく、サッカーをしていました。

ただ当時は太っていて、中学1年時の体力測定では1500メートル走で学年で30位にも入れませんでしたね(笑)。

それぐらい足が遅かったんです。

でも背が伸びると同時に痩せてきて、急に足が速くなったんですよ(笑)。

中学3年時のメインである夏の大会が終わった後には陸上部に声をかけられて、駅伝大会に助っ人として参加しました。

すると、予想以上に結果がよかったので、スカウトされたこともあり、高校は専修大松戸高に進学したんです。

ここから僕の陸上競技人生がスタートしました。

―― 高校でもサッカーを続けようとは思わなかったのですか?

中学2年まではそう思っていました。

サッカーは好きでしたし、チームメイトと一緒にプレーするのが楽しかったので。

でも周りに上手い人はたくさんいましたから、Jリーガーを志すまでには至らなかったですね。

それに専修大松戸高というのは、僕らからするとすごく憧れの高校だったので、そこにスポーツ推薦で入学させてもらえる、というのも本格的に陸上を始める一つのきっかけでした。

―― 高校から陸上競技を始めるとなれば、大変なことも多かったのではありませんか?

はじめは本当に大変でした。陸上部には県内外からトップランナーが集まっていましたし、単純に走るだけの毎日がキツかったです(笑)。

中学までずっと球技をしていましたから。

慣れるまでには時間がかかりましたけど、走りはみるみる速くなっていったので、自分がどんどん成長できることがすごく楽しかったですね。

高校3年間でインターハイには出られませんでしたけど、全国都道府県対抗駅伝で高校生でエントリーさせてもらえました。

補欠登録ではありましたが、高校から駅伝を始めて、ここまで成長できるとは想像もしていなかったので、本当に嬉しかったですね。

―― 一気に実力が開花した要因というのは、ご自身の中ではどう分析されていますか?

自分で言うのもアレですが、めちゃくちゃストイックに練習していたからだと思います。

朝は一番に部室に行って体を動かしていましたし、練習でも誰よりも長い距離を走っていたので。

メニューとしては60分ジョグ、90分ジョグというのがあるんですけど、周りと同じ時間ではなく、必ずプラス10〜20分は長く走っていましたね。

高校3年時にはエースだったこともあり、「自分はもうチームで一番速いのに、一番練習しないのはおかしい」という気持ちが強くなっていました。

誰よりも練習しているという自負は持っていましたね。

当時の顧問の先生からも「お前の練習量は異常だった」と今でも言われます(笑)。

箱根駅伝出場への意識を強めた“山の神”との出会い

―― チームでトップになっても天狗になることなく、「誰よりも練習したい」という気持ちを持ち続けるのはなかなかできることじゃないと思うので、本当にすごいですね。当時は、すでに箱根駅伝出場を目標に掲げていたのでしょうか?

そうですね。

ただその中で、「誰と箱根駅伝を目指すか」というのは僕の中で重要でした。

というのも、中学までは団体競技であるサッカーをやっていたので、チーム意識というのはかなり強く持っていたからです。

それに一緒に練習するパートナーが心を許せる人なのか、逆にすごくストレスがかかる人なのかで全然違います。

だから高校時代、僕はキャプテンだったんですけど、信頼の置ける副キャプテンを担っていた選手が専修大学に進学するということが、同大に入る大きな決め手でした。

彼がチームメイトだと心強いですし、「一緒に箱根駅伝を目指したい」気持ちも強かったので。

加えて、僕より圧倒的に速い同級生が5〜6人は入る、という情報も専修大に進む大きな理由でもありました。

やはり、箱根駅伝を目指す上で自分より速い選手がいないと行く意味がないですし、なにより楽しくありません。

もちろん「レギュラーが取れるのか」という不安は出てきますが、近くに高い壁が多く存在するほど、それを追いかけ、成長できる楽しさがある。

だから全国クラスのランナーが何人もいる環境も、僕の中では大きかったですね。

―― 「どこでやるか」より「誰とやるか」。スポーツだけじゃなく、ビジネスシーンにおいても重要なことのような気がします。実際に専修大に進学されていかがでした?

めちゃくちゃキツかったです(笑)。

監督も厳しい方でしたし、1年を通して丸1日完全なオフはほぼありませんでしたから。

毎朝5時起きで掃除や朝練をしていたので、「この生活を4年間、日数換算すると1,000日以上も過ごすのか」と考えたら、もう耐えられなくて。

入寮当初は1〜2週間で辞めようと思っていました(笑)。

それでも徐々に力も付いてきて、夏合宿の頃には1年生の中では一番速くなり、10月に行われる箱根駅伝予選会に参加できる12人のメンバーに入ることができたんです。

予選会でも約600人中22位、チーム内でも3位とかなりの好成績を残すことができました。

監督からも「お前、箱根の往路で使うからな」と大会直後に言っていただきました。

さらに1週間後には、ナイキさんがシューズやウエアなどのサポートをしてくれることが決まって、もうめちゃくちゃ自信がつきましたね。

―― 五ヶ谷さんの成長速度には本当に驚かされます。大学1年生ですぐに箱根駅伝に出場できた時の心境はどうでしたか?

個人的にも嬉しかったですし、結果的にチームとしてもシード権を獲得できたのでよかったです。

ただ、その時は山上りの5区を走ったんですけど、「もう2度と上りたくない」って思うぐらいキツかったですね。

おそらく、僕に山上りは向いていなかったんだと思います(笑)。

でも実は、高校3年時には箱根駅伝で5区を走ることを頭に描いていたんです。

というのも、専修大入学前に箱根駅伝を観に現地に行って、山上りを近くで観戦し、当時順天堂大学に在籍されていた“山の神”今井正人さんの圧倒的な速さを目の当たりにしました。

その時に「山を上りたい!」と強く思ったんです。

その後、大学に入り、5月頃に関東インカレの打ち上げがあり、そこに今井さんがいらっしゃって。

もう居ても立っても居られず、思い切って「ファンです!僕、今井さんと一緒に走りたいので山走りますね」」って本人の前で言ったんです。

すると、今井さんは「いいよ、待ってるよ」と言ってくださり、実際に箱根駅伝で同じ5区を走る際には「本当に走るじゃん!(笑)」って話しかけてくれたんですよ。

もう感動してしまって(笑)。

今井さんの存在があったからこそ大学1年目から頑張れた部分もあるので、この出会いは僕の競技人生において本当に大きかったですね。

その場限りではなく、“その先”の目標を持ち続ける

―― 五ヶ谷さんのことを覚えてくれていたんですね! それは嬉しすぎます(笑)。その後も箱根駅伝に出場されましたが、大学2年生以降も驚異的な成長を続けていかれるのでしょうか?

いえ、大学2年目は少し天狗になってしまって、思うような走りができなくなってしまいました。

2度目の箱根駅伝も、その時は1区を走ったんですけど、20校中15位で襷を渡してしまい、チームに迷惑をかけてしまいました…。

このままの状態だと、「もう一回死ぬ気でやらないといけない」と感じて。

大学3年生からは気持ちを入れ直し、走ることだけに集中することにしたんです。

その甲斐あって、その年の箱根駅伝予選会では約600人中3位と自己ベストを出して、自分の最高のコンディションに持っていくことができました。

しかし、3度目の箱根駅伝直前の年末に、炭水化物を摂取しようと生パスタを食べたら急性胃腸炎にかかってしまって…。

無理やり本戦には出場したんですが、やはり自分の走りをすることはできませんでした。

その当時、4年生でキャプテンだった高校からの先輩が、大学最後の大会で箱根駅伝初出場だったので何とか有終の美を飾ってほしかったんですけど、僕が足を引っ張ってしまったばかりにいい順位で襷を渡せなくて…。

その先輩は「お前は走ってくれるだけでいい」と言ってくださいましたけど、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

だからこそ、大学4年目は常に気持ちを切らさず、ストイックに競技と向き合い続け、高いアベレージで1年間駆け抜けました。

キャプテンに就任したということもありますが、大学2〜3年目のような悔しい思いはもうしたくなかったので、本当に強い気持ちを持って走っていたと思います。

最後の箱根駅伝は1区を走り、3位という結果でした。

区間賞を狙っていたのでスッキリはしませんでしたが、チームに勢いをつける意味ではいい順位で襷を渡せたので、集大成としてはまずまずよかったと思います。

それに、箱根駅伝にフォーカスを当てて練習をしてきたとはいえ、すでに僕には“その先”があったので、「ここで終わりじゃない。まだ次がある」という気持ちがありました。

だから、悔しさは残りましたが、ネガティブな気持ちにはなりませんでしたね。

―― “その先”というと?

マラソンです。

大学3年生の時にいくつか実業団チームからお話をいただいていて。

それまでは実業団に入るとか、マラソンに転向するとか全く考えてなかったので「断ってください」と大学に話していたんです。

でも監督から「お前は4年目からキャプテンになるのに、そういう気持ちだとチーム自体もガタついてしまう。それでいいのか?」と話をされて。

そこで、まずはどのようなチームからオファーをいただいているのか聞いてみることにしました。

するとその中に、のちに就職するJR東日本の名前がありました。

しかも、たまたま同社の特集をテレビで観ていたら、当時28歳でのちに2012年ロンドン五輪に出場する藤原新さんがチームに在籍していることを知ったんです。

その当時、マラソンで2時間10分台を切っている選手の中で最も若かったのが新さんでした。

「JR東日本に入ったら、そんな速い選手と一緒に走れるんだ」と思った僕は、同社へ入社する意思を固めました。

やはり僕は、前述の通り、「どこでやるか」より「誰とやるか」を大切にしていたので、「新さんと一緒に走りたい」という一心で決めましたね。

でも彼は、僕が入社すると同時に退社し、フリーになったので、同じチームで走ることは叶わなかったんです。

それでも「次はマラソンを走る」という“その先”を見据えていたからこそ、立ち止まらずに歩み続けることができたのだと思います。

一緒に働くことで社員のモチベーションを高め、競技普及・認知拡大につなげていく

―― 本番で全て終わらせるのではなく、その経験や気持ちをしっかり次につなげていたのですね。駅伝からマラソンへの転向はやはり大変だったのではないですか?

実はそうでもなかったんです。

僕はもともと、大学で1,500メートル、5,000メートル、10,000メートル、ハーフマラソンの中では、最も距離が長いハーフマラソンが一番成績がよかったですし、実業団のスカウトの方からも「絶対にマラソンが向いてる」と言われていましたので。

実際にJR東日本に入社してからも、先輩からは「駅伝とマラソンはちょっと違うよ」と忠告されてはいましたが、監督の推薦で参加させてもらったアメリカ開催のマラソン合宿で、約40日間全く周りのメンバーに遅れることなく走りきることができたんですよ。

その合宿では今井さんや、のちに2016年リオデジャネイロ五輪の日本代表になる石川末廣さんなど、めちゃくちゃ意識の高い選手たちが集まっていたおかげで、マラソンへの意識の持ち方が大きく変わりましたね。

「あんなに有名な選手がこれだけストイックな生活をしているんだから、自分も現状に甘んじてはいけないな」と。

それ以降、自分自身も高い目標設定をした上でレースに臨めるようになり、デビュー戦となる2011年のびわ湖毎日マラソンでは2時間12分07秒という成績で新人賞を獲得。

同年のシカゴマラソンでは日本人1位でゴールし、2015年の東京マラソンでは2時間09分21秒を記録して初のサブテンを達成することができました。

五輪出場という夢だけは叶いませんでしたが、その都度設定した目標を一つひとつしっかりクリアしていけたので、マラソン競技生活を楽しく走り続けることができましたね。

―― 本当に五ヶ谷さんにとっては、切磋琢磨し合える選手、自分より速い存在というのは成長する上で欠かせない要素になっているのですね。ちなみにJR東日本時代は働きながら選手活動をされていたと思うのですが、どのような生活をしていたのですか?

JR東日本のランニングチームは東京の八王子支社勤務となっていました。

僕の場合は1年目は総務部の人事課、2年目は営業部の業務課と、部署を転々としながら。

今年3月に退社したのですが、最後は設備部の企画課に所属していました。

水曜日は1日練習日なので出社はしませんが、それ以外の月・火・木・金曜日は9時半〜14時まで仕事をして、その前後で朝練と本練をやるという感じです。

―― マラソンの練習をしながらも、しっかりと会社員として働かれていたのですね。その中で、企業スポーツだからこそ感じたメリットはありますか?

たくさんあります。

特に感じていることは、応援してくれる方々の存在の大きさです。

僕ら企業スポーツの選手は、プロ野球やJリーグのように全国にファンやサポーターがいるわけではありません。

ですが、僕らにとってはJR東日本の社員、そして八王子支社の同僚が熱烈なファンであり、最高のサポーターなんです。

この方々がいたからこそ、「期待に応えられるように頑張りたい」という気持ちが自然と湧いてきた。

誰にも応援されなかったら、ファンが一人もいなかったら、働いてでも競技生活を続ける意味がないじゃないですか。

僕らに「頑張れ!」と声援をしてくれる方が一人でもいる限り、アスリートは力を出すことができるんです。

職場で共に仕事をして、僕や競技に興味を持ってもらい、観戦・応援していただく。

会社の技術的な部分では戦力になれないかもしれませんが、職場の仕事に対するモチベーションを高める上では多少なりとも貢献はできると思います。

それによって競技普及・認知拡大にもつながるので、働きながら選手活動をするデュアルキャリアのメリットはかなり大きいと感じていますね。

つねに未来に目標を。「今の自分が一番輝いている」と思えるように

―― セカンドキャリアへ踏み出す際も、現役時代から会社という組織の中で多くの人たちと触れ合っていると全然違いますよね。五ヶ谷さんさんは今年の4月から、子ども向けランニングスクール『BEAT AC TOKYO』をスタートさせました。どのタイミングで独立しようと考えたのですか?

実は、もともと子ども向けのスクールを立ち上げたい気持ちは持っていたんです。

現役を終えた選手はそのまま所属していたチームや大学の指導者になることが多いですよね。

でも僕は今後のスポーツ界を担う子どもたちの将来の役に立ちたい、と思ったんです。

特にジュニア期の指導者は、副業やボランティアで活動されている方はいますが、悪い言い方をしてしまうと、専業として人生をかけて指導に当たっているわけではありません。

ジュニア期は「動きの土台」を作る大切な時期です。

その時に中途半端な指導をしてしまうと、子どもたちの未来に影響してしまうので、ジュニア期から「スポーツの土台となる部分をしっかり指導したい」そう思ったんです。

―― 確かに、子どもの頃から、個々に合った適切な指導を受けられるかどうかによってアスリートとしての将来は変わってしまいますよね。では、具体的にどういった指導、どのような事業を展開されているのでしょう?

ランニングスクールとしては『スポーツの基礎となる「走る」を通して 、将来活躍する子どもを育てていく』ことを方針・理念に掲げ、ジュニア期(U-12)までに正しい体の動かし方を習得してもらえるよう指導しています。

僕自身がランナーだったので、「陸上選手を育てるクラブになってしまうのでは?」と疑問を持たれますが、そうではありません。

「正しい走り方」を教えていきながら、いろいろな動きや球技などを取り入れ、陸上含め各競技に必要なスポーツの力を身につけてもらう。

走ることはどの競技においても、日常生活においても重要な要素なので、スポーツをやっていない方でも大歓迎です。

まだ立ち上げたばかりなのですぐには難しいですが、ゆくゆくはスクール事業を全国展開してコーチの派遣、大型ショッピングモール等でのイベント企画・運営も行なっていきたいと考えています。

そういった家族が集まる施設で企画を実施することができれば、走ることを通じて老若男女、上手い下手関係なく楽しむことができ、一体感が生まれる。

それにより「やっぱりスポーツっていいよね」という形を作っていきたいんです。

それを実現するためにも、とにかく今年1年は軸をブラさず頑張っていきたいと思っています。

―― 応援しております! 最後に体育会学生に向けてメッセージをお願いします。

はい。

学生時代は目の前の試合や大会に全てをかけて臨んでいると思いますが、ぜひ“その先”も見据えて取り組んでほしいなと思います。

何故かというと、ある程度年齢を重ねた時に「あの時が一番よかったな」と思ってほしくないからです。

僕も大学の途中までは箱根駅伝を最大の目標として設定していましたが、社会人からもマラソンでサブテンや五輪といった新たな目標を定めると、箱根駅伝の“その先”がめちゃくちゃ楽しみで仕方がなかったんです。

実際に、実業団の時は常に「今が楽しい」と思えていましたし、「きっと未来はもっと楽しいんだろうな」と希望を持てました。

だから今よりも1年後、5年後、そして10年後でも「今の自分が一番輝いているな」と思えるように、その都度、未来に目標を掲げてみてください。

そういう人間の方が周りからも魅了的に映りますし、人を惹きつける力もあると思いますから。

取材後記

2020年4月から子ども向けランニングスクール『BEAT AC TOKYO』をスタートさせた五ヶ谷さん。

現在は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で屋外でのレッスンは行えませんが、5月6日までの期間限定で無料オンラインレッスンを実施し、翌日の7日からは「子ども、中・高生、市民ランナー」向けに、パーソナルオンラインレッスンをスタートさせるそうです。

詳しくはこちらのホームページをご覧ください。
https://www.beat-ac-tokyo.com/

こうしたレッスンを通じ、ジュニア期のカテゴリーから次世代アスリートを一人でも多く育成していくことで、周りの親や親戚、友達から同僚まで多くの“ファン”を生み出すことができる。

それによって「応援する力で、日本はどんどん盛り上がっていく」と五ヶ谷さんは話します。

そんな未来を想像しながら、彼の活動を応援し続けていきたいですね。

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取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)

著者Profile
瀬川 泰祐(せがわ たいすけ)
1973年生まれ。
北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「スポーツで繋がる縁を大切に」をモットーとしながら、「Beyond Sports」をテーマに取材活動を続けている。
公式サイト
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