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2018.04.20
自分の可能性をかけてチャレンジしよう。バドミントン・池田信太郎
「日本初」「日本人初」
池田信太郎さんの経歴の多くには、この言葉が輝きます。
中には「誰もやったことがなかった」「誰もなし得なかった」ことではなく、
「誰もやろうとしなかった」こともあります。
池田さん自身も常にフロンティア精神で
突き進んできたわけではありません。
しかし、大きな決断の際には、
それが未開・未踏の領域であったとしても
「成功してみせる」との強い意志を持っていたといいます。
決して、順風満帆とはいえない選手生活。
その「強い意志」とはどこから生まれてきたのでしょうか。
Profile
池田信太郎(いけだしんたろう)1980年12月27日生まれ。
元バトミントン選手。北京・ロンドン、2回のオリンピックに出場。2007年、世界選手権で日本人初のメダルを獲得。2009年には日本初のプロ選手に。2015年に現役引退。現在は世界バドミントン連盟アスリートコミッションメンバーとしての活動の他、さまざまなプロジェクトで活躍している。
INDEX
小学校から大学まで、違う環境でバトミントンをするうちに気づく自分の成長
―― 幼少の時にバドミントンを始められたそうですが、きっかけは何でしたか? またそれ以降、大学へ進学されるまではどのような選手生活だったのでしょうか?
地元(福岡県遠賀郡岡垣町)で親がバトミントンクラブを主催していたので、そこで5歳からプレーを始めました。
小学生の頃は、技術だけで勝てるため割と強く、九州で3位になったこともあります。
しかし、中学生になると技術だけでは勝てなくなってきました。
体型的に線が細かったことがかなりのハンデになっていたと思います。
全国中学校バドミントン大会(全中)に進むには県大会8位入賞が条件なのですが、どうしても8位には入れず、結局全中には出場できずに中学時代は終わってしまいました。
―― それでも、高校は強豪校へ進まれたと伺っています。
福岡の中では強豪でした。
しかし、全中へ出場するほどの選手は県外の強豪へ進学していました。
高校では、一年生の時からインターハイに出場させていただきました。
その際に試合を左右する重要なポジションを任せてもらうことで、「団体」を意識するようになり、自分が勝つことの「責任」を強く感じるようになりました。
―― その後、筑波大学に進まれました。
チーム皆で勝利に向かうことの重要性は理解したものの、理不尽な上下関係には嫌悪感を抱いていました。
それもあり、大学は筑波大学を選びました。
筑波大では勝つためには何が効率的かを徹底して考えます。
一年生が誰よりも早くきて掃除して、練習後も片付けを全部する。
考えてみれば非効率です。
皆で使ったのだから皆で片付ければいい。
もちろん、最低限の礼儀は必要だと思いますし、先輩には敬意も払いますが。
日本代表入りは意外にも社会人になってから
―― 大学時代から日本代表が視野に入っていたのでしょうか。
代表に選ばれるには全日本選手権に出場する必要があるのですが、全日本は社会人、学生共通で、学生の場合はインカレでベスト8に入る必要があります。
中学の時と同様になかなか成績が残せず、4年生のときに2位に入ったのが初めてでした。
大学の時は、100%努力したとはいえません。
振り返ると足りなかったと思います。
九州から筑波に来て、環境も新しくなり、新しい出会いもあり、普通の大学生と同じような生活も送りたかったのです。
アルバイトなどもしていました。初代表に選ばれたのは、社会人になってから。24歳の時でした。
―― 選手としては、遅咲きだったというわけですね。
実は、大学から社会に出る際、一度選手としてのキャリアを終わらせようと思っていたのです。
一般の学生と同じく、3年生の夏くらいから就職活動を始めるのですが、その時点で全日本にも出られておらず、選手としての就職が難しい状況でした。
その後所属することになる日本ユニシスも、4年生の夏に自分からアプローチした時には断られました。
教員免許を持っていたので、母校の教員になってバドミントンに何かしら関わっていきたいと、選手での就職から方向転換を考えていたのです。
実際に、採用のお話もいただいていました。
タイミングが合わず実現には至らなかったのですが。
それでもバドミントンに関わっていたい思いは強く、大学の先輩が大阪でクラブチームを立ち上げるとのことで、そこでお世話になることになっていました。
しかし、4年生の12月にインカレで2位になり、全日本に出場して状況が変わったのです。
全日本での試合を日本ユニシスのインドネシア人コーチが見て、「彼は強くなるよ」と人事に掛け合ってくれ、私の入社が決まったとのことでした。
入社したいと一度はアプローチした会社だったので、もちろん嬉しかったですが、選手としてやっていけるのは2〜3年が限度とも思いました。
期間が見えたことで、その間に何がなんでも強くなってやろうと決めたのです。
実際に、大学を卒業してからの22〜23歳で急に強くなったと自分でも思っています。
強くなる人は向上心と取り入れる柔軟な姿勢がある
―― 日本代表など、バドミントンで上を目指すにはどのようなことが必要なのでしょうか。
日本代表を10年くらい務めましたが、強くなる人は皆一様に向上心がありました。
試合もただ勝った・負けただけでなく、内容をきちんと振り返り、自分に足りていないこと、これから必要なことを把握し、コーチや周囲の話をよく聞いている。
吸収する姿勢が違っていたと思います。
私も強い人が実行していることは盗んで真似るようにしていましたし、周囲の意見はきちんと聞くようにしていました。
「強くなろう」と思い練習に挑んでいましたが、社会人になってからの練習は本当にきつかったのです。
コート上の実践的な練習が多いと思っていたら、基礎練習(体づくり)などをみっちり行う。
加えて、午前中は一般業務をこなすので、その生活サイクルに慣れるまでには1年くらいかかりました。
―― そこからオリンピックまでの道のりはどのようなものだったのでしょうか。
社会人では一貫してダブルスで戦っていて、一人目と組んでいた22〜23歳の時に一気に強くなった実感がありました。
その後、二人目に組んだ先輩と日本タイトルを取ることができたのです。
そして24歳の時にあったアテネオリンピック以降、日本ユニシスのヘッドコーチだった朴コーチが日本代表の監督に就任したのを機に、私も代表のセレクションに召集されました。
ただ、一緒に組んでいたパートナーは選ばれず、パートナーがいない状況での代表選出でした。
そのため、複数の選手とペア替えをしながら、経験を積んでいきました。
当初B代表としての参加でしたが、先輩選手が怪我でセレクションを離脱したこともあり、A代表の方とパートナーを組んで海外転戦もしました。
最終的にはその方と、ペアを組むことになりました。
ペアが決まってからはオリンピックを目指してひたすら練習です。
オリンピック出場資格は世界ランク16位です。
当時30位くらいからのスタートだったので、かなり高いハードルでした。
幸いにも韓国から優秀なコーチが来てくれました。
当時の強豪国は中国・韓国・マレーシア・デンマークだったのですが、彼らには国内で競争できる環境があって、成長スピードがものすごく早いのです。
そんな彼らと戦って順位を上げていかなければならないのですから、オリンピックのために時間も含め、どれだけ自分の全てを費やせるかにかかっていました。
オリンピックに挑戦し続ける、「引退」は考えていなかった
―― 30位から16位はかなりのハードルですね。オリンピック前年には世界選手権で日本男子初のメダルを獲得し、翌年の北京オリンピックにも無事出場を果たされました。
オリンピック自体はあっという間に終わってしまったのですが。
実は、オリンピック出場に向け、かなり高い壁を乗り越えて成長できたとの実感があったので、成績を残せたら現役を引退するつもりでした。
その時は、早く仕事がしたかったのです。
日本ユニシスで会社員として広報やマーケティングの仕事をしたいと思っていました。
しかし、オリンピックでは初戦敗退と成績を残すことができず。
一旦は現役引退を考えていたので、すぐに「ロンドンを目指そう」とはなりませんでした。
オリンピックが終わって半年くらいは、今後どうすべきか、どうしたいのかと悩みました。
悩んだ結果、ロンドンに向かって挑戦し続けることを選んだのです。
―― ロンドンオリンピックは「イケシオ」として潮田玲子さんとの混合ダブルスでの出場でした。混合へ転向した理由はなんだったのでしょう。また同時に日本初のプロともなられました。その際の心境などはどのようなものだったのでしょうか。
混合ダブルスについては、周囲に求められていましたし、新たなチャレンジがしたいとの自分の思いもありました。
社員契約からプロフェッショナル契約へ変更したのは、退路を断つという気持ちもありましたし、好奇心もありました。
プロになることによって学べることが多いと感じていたことが、決断の理由としては大きかったと思います。
北京オリンピックの時は、会社員として早く仕事がしたかったですが、現役続行を決めてからは、会社に戻るという選択肢はなくなりました。
また、北京の時は「引退」も視野に入れていましたが、ロンドンの時は結果に関わらず「引退」は考えていませんでした。
混合を経験することでプレーの幅が広がり、それを生かして男子ダブルスでどこまでやれるのかを試してみたかったというのもあります。
多くの人を巻き込み大きくスタートさせるプロジェクトを動かしていく
―― そして2015年に引退されました。その時の心境はどんなものだったのでしょう。
これ以上競技に時間を費やさなくて済むなと感じました(笑)。
ジェットコースターみたいな現役時代でしたが、充実していましたし、やれることは全てやりきったと、後悔はありませんでした。
やっと次のフェーズに行けると。
1mmも現役に戻りたいとは思いません。
プロ契約した時から、選手のいわば「保険」とも言える会社員の立場を捨てていましたし、転職というより、自分で何かを0から作っていくことに興味がありました。
引退前からビジネスにつながる人に会うなど準備をし、引退してからの2年間は、さまざまなプロジェクトに参加して、“社会の枠”に入った時に自分がどこまでできるのかを確かめる期間と捉えていました。
選手時代に貪欲に周囲の秀でている部分を盗もうとしたように、仕事ができる人はなぜ仕事ができるのか、どういった仕事の進め方をしているのかを学ばせていただきました。
そういった意味では、スポーツもビジネスも同じだと感じる部分があります。
今は、プロジェクトを絞っていく時期にきています。
どんな事業でどんな価値提供をしていくのか。
小さく始めて育てていくよりは、多くの人を巻き込んで大きくスタートさせたいと考えています。
それによって、バドミントンの今後にこれまで自分が頂いてきたものを返していければ。
バドミントン選手の引退後のキャリアには、コーチになる、教員になる、行政へいく、所属企業に残るといった選択肢があります。
企業に残ることは、選手にとっていわば「保険」のようなもの。
その保険を放棄する時には、もちろん不安もありました。
しかし「自分の力で絶対に成功してみせる」という強い意志があったので踏み出せたと思っています。
引退後、自分でビジネスを始めようと思ったことも同様です。
大きなものを動かすためには自分の意志が必要不可欠。
また動かせた成功体験が自信になり、さらに強い意志を生むと思います。
自分の可能性をかけてチャレンジしての失敗は、評価や結果がたとえ失敗でも、自分自身にとっては成功だと思っています。
チャレンジした体験を積み重ねて行くことが重要ですし、スポーツではそれができます。
私の場合、大学卒業間際に、教員になることで、一旦は競技人生を終わらせようとしました。
しかし、そこから再度自分の意志で周囲を動かした経験が大きな自信となって、それ以降の決断に関わっていると思います。
引退してもバトミントン、スポーツと関わり続ける
―― バドミントンにこれまでいただいたものを返していきたいとのことでしたが、それも含めて今後の目標や抱負、また後輩に向けてのアドバイスなど聞かせていただけますでしょうか。
引退後、実は子どもたちにバドミントンを教えるアカデミーを立ち上げたいと思っていました。
しかし、考えているうちにバドミントンだけを選択肢とするのは違うと感じ始めました。
他のスポーツにも触れ、選べる環境が必要ではないかと。
どんなスポーツであれ、スポーツというものは人の体力・能力を最大化してくれるもので、教育にとても適していると思います。
なので、バトミントンに限らず、スポーツと教育の文脈で事業ができればとは思っています。
また、大学時代、集客・マネタイズ・ブランディングなど、もっとスポーツマーケティングを学んでおけばよかったと少し後悔しているので、仕事を通じて知識を得てバドミントンの振興に貢献できたらなと思います。
実現の仕方はさまざまですが、今年は形にしていく「実行の年」だと自分の中では位置付けています。
後輩へのアドバイスとして、アスリートは、ゼロを1にすることは得意でも、細かいオペレーションが苦手だったり、自分の考えを不特定多数に伝えることが苦手だったりしますが、それを克服する試みは行った方が良い、と伝えておきたいです。
私もプロになる際、トレーニングとして人前で話す機会をあえて増やしました。
何をどのように話せば人に伝わるのか、内容を構成でき、焦らず話すことによって、自分も他人も俯瞰してみられるようになると思います。
俯瞰して物事を見ることはあらゆる点で役にたちます。
自分で機会を作ることはなかなか難しいので、学校やチームで取り組む価値のあることだと思いますね。
取材後記
「絶対的自信」
何かしら大きなことをなし得たアスリートの方から
話を聞いた際、幾度となく感じたものです。
池田さんの話からも、プロの道、ビジネスの道へ踏み出した時、
その「自信」が垣間見えました。
「スポーツは100%力を注ぐことがあるし、できるんです」
と池田さんは言います。
この「自分の100%を注ぎ込んだ経験」が
生んだ「自信」なのだと感じました。

池田 信太郎Shintaro Ikeda
元バドミントン選手
現在:世界バドミントン連盟アスリートコミッションメンバー等
取材/アスリートエージェント 小園翔太
取材・文/大倉奈津子
池田信太郎オフィシャルFacebook
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