2017.09.15

一瞬一瞬を本気で生きる。サッカー・三橋亮太

「三橋さん!そろそろ時間です!」

取材を終えたのは、乗る予定をしている電車の発車3分前。
サッカーへの愛情をたっぷりと語ってくださいました。

Profile

三橋 亮太(みつはし りょうた)1987年8月生まれ

元プロサッカー選手。尚美学園大学を卒業後、AC長野パルセイロ、アルティスタ東御(とうみ)にてプレー。引退後は株式会社I.D.D.WORKSを立ち上げ、サッカー選手のマッチングサイト『PLAY MAKER(プレイメーカー)』の運営や、地域の農作物の消費拡大と子どもの運動機会の増進による、地域活性を目的とした『かいぶつのたねプロジェクト』などに取り組む。

サッカー選手になれると信じていた少年時代

―― 三橋さんはいつからサッカーを始められたんですか?

小学生からです。鹿島キッカーズという相模原市のスポーツ少年団に入りました。

父親と同じ職場だった方がそこの監督をやっていて。

お父さんコーチが集まるアットホームなチームでしたね。

―― その頃から、将来の夢はサッカー選手になることだったんでしょうか。

もちろん。チームの中で一番上手かったし、「なりたい」というより「なれるだろう」って勝手に思い込んでいました。

外に出てみればもっと上手い人なんていくらでもいるし、僕なんてきっと高いレベルじゃなかったんですが……。

どこかそんな感覚でした。

中学では相模原FCという地域のクラブチームでサッカーをやって。

推薦で横浜商科大学高校に進みました。

誰よりも早く推薦をもらえたので、中学生からすると優越感なんですよね。

周りから「アイツすごいな」なんて言われると嬉しいじゃないですか。

部では副キャプテンを務めました。

厳しい環境に身を置くために勇気を出してチャレンジしてみる

―― 高校生にもなると戦うチームの幅も広がりますし、レベルの差も見えてきますよね。それでも「自分はプロになる」という感覚でしたか?

そうですね。

というか、僕、プロになれないという選択肢から目を背けていたんです。

いいプレーをした、強豪校に勝った、そういうプラスの情報は自分の中に蓄積をする。

でも、相手に通用しなかった、自分より上手い選手がいる、そんなマイナスの情報はシャットダウン。

客観的に見ることも一切しなかったんです。

都合の悪いものを入れてしまうと自信がなくなるという考えが無意識にあったんでしょうね。

高校に入るときもそう。

自分より高いレベルの人がいる学校に行くのが嫌だった。

だから、自分を評価してくれるならそこにするという感じで決めたんです。

―― なるほど。ぬるま湯って気持ちがいいですもんね。

ただ、在学中にプロから声がかからなくて、そこで初めて自分自身と向き合うんですよね。

上手い人たちがいる世界に飛び込んでみようというチャレンジ精神が芽生えて。

最初にアクションを起こしたのは専修大学のセレクション。

ただ、ギリギリまで悩みました。

大学付属の高校だったので同級生とそのままやった方が楽しめるかもしれない、でも、自分より上手い人たちに囲まれて成長したほうが良いのは分かっているって。

葛藤しましたね。

手続きを済ませたのは締め切り30分前。外の世界に出てみるという選択は、僕にとって初めてでした。

当時のセレクションは1試合ごとにチーム分けが行われて、ひとつ上のチームにあがったときの「よしっ!」っていう嬉しい感覚は今でも覚えていますね。

結局、専修大学には入れなかったんですが、関東大学サッカーリーグ校であることがひとつの指標だったので、関東2部だった尚美学園に行くことにしました。

現実を突きつけられ至った結論、一度夢を捨てる

―― 前向きなチャレンジ、いいですね。大学でのサッカー生活はどうでしたか?

僕、入部してまずDチームにされたんです。

大学の部活という小さな世界の、たった200人の部員の中で試合に出られない。

しかも一年生の中でも最下位のチームって、絶対にプロになれないじゃんって怖くなって。

ずっと自分を支えてきた根拠のない自信が初めて崩れたんです。

現実を知らされて、サッカーのことを考えると吐くようにまでなってしまって。

翌日に練習のない帰り道だけが、唯一ホッと安心できましたね。

―― 吐くまで……。そこまで落ちてどう抜け出せたのか知りたいです。

一度、夢を捨てました。

サッカーのプロ選手になるという、昔から描いていた夢を。

それまでは「プロ」というものすごく高い目標を、根拠なく掲げていたんです。

あるのは自分なら大丈夫だろうっていう過信に近い自信でした。

それを真っ白にしてみたんです。

大きすぎるビジョンを手放して、ミニマムで現実的な目標を持つようになってから、少しずつ楽になっていって。

ペースを取り戻していきました。

足元を見ることに欠けていたんだって、ようやく気付いたんです。

大きな夢を叶えるためには、まず小さな目標を実現すること。

それを積み重ねていくことなんですよね。

- そして、三橋さんに転機がやってきました。
なんと2か月後にAチームの紅白戦に出ることに。

Dチームの練習後に僕が一人でクールダウンをしていたら、監督が「ケガ人が出た。お前、スパイク持っているか?試合やれるか?」って言ってきて。

もちろん「はい!」って返事をしました。

僕はもう無我夢中に走りました。

トップチームで戦えるなんて夢のような話。

一生懸命にボールを取りに行ったし、相手にガツガツと挑んでいきました。

そうしたら、その姿勢を監督が評価してくれて、2週間後にAチームの公式戦に出場したんです。

ドラマみたいな話ですよね。

そこからずっと試合に出させてもらうようになりました。

Jリーグチームと戦う機会も増えていく中で「もう一度、プロを目指してみてもいいのかもしれない」って少しずつ思えるようになったんです。

小さな目標を大切にして試合に出続けることで、冷静に自分を見られるようになって。

夢を捨てて、真っ白な気持ちで再チャレンジしたからこそ、夢をまた取り戻せたんです。

念願のプロの世界、苦い経験がいまでも自分を支える財産

―― 卒業後はAC長野パルセイロ(以下、パルセイロ)に入団されましたね。どういう経緯だったんでしょうか?

大学4年生の2月にセレクションを受けました。

最初は良い評価をしてもらって、入団して新入団員の中で1人だけ1ケタの背番号をもらって、開幕戦もスタメンで出て。

信州ではテレビ放送もあって、ローカルヒーローのようでした。

試合にも結構出ていたので少し調子に乗っていたかもしれません。

ある日の試合で、僕、38度7分の高熱を出してしまって。

それでも監督は「お前のベストを尽くしてこい」って試合に出してくれたんです。

白熱する中1対0で勝っていたんですけど、自分のミスで失点したら嫌だなっていう弱い気持ちになってしまって。

自ら手をあげて「試合できません」って言ってピッチを出たんです。

僕は逃げてしまった。

そこからです。

公式戦にまったく選ばれなくなりました。

監督は僕の状態を知っていながら、それでも「お前を使う」という男気でぶつかってくれたのに、僕は背いてしまったから。

試合に出られなくなって、どんどん歯車が合わなくなっていきました。

監督からどう評価されているんだろうということばかり気にして。

結果、1年後にクビになったんです。

この経験を忘れることは一生ないし、この先もずっと後悔していくと思います。

でも、それが今社会人としての自分を支える財産であることも間違いありません。

―― そしてアルティスタ東御へ移籍されましたね。ずっとサッカーを続けてきた三橋さんが、引退を考えたきっかけって何でしたか?

アルティスタ東御(以下、アルティスタ)に入団したとき、3年間で個人昇格かチーム昇格ができなかったらサッカーを辞めるって決めていたんです。

選手としてのリミットを自分で設定していました。

結局、「引退」の想いが強くなったのは2年目の最後の試合でした。

ボロ負けしたんです。

その瞬間、自分の中でもうゴールが見えてしまって。

ああ、個人昇格もチーム昇格も難しいなと。

サッカー人生の終わりをその試合で感じて、感情が溢れて、人前にも関わらずわんわん泣きました。

サッカーへの恩返しと今までやってきたことを突き詰める期間としてラスト1年頑張って、現役にピリオドを打ちました。

引退して4年になりますが、サッカーをやっていないっていうのは競技への未練がないんだなって思います。

気持ちよく終えられました。

プロ在籍中に欠かせなかったこと、「次に何をやるか」を組み立てる時間をつくる

―― 引退時には「次どうするのか、何も考えられなかった」という方もいらっしゃいます。三橋さんはどうでしたか?

考えていました。

アルティスタに在籍しているときに起業の準備もしていたんです。

もちろん選手として支障が出ることはやらないけれど、たとえば、朝5時に起きて出勤前の2時間を「次に何をやるか」を組み立てる時間に充てていました。

在籍している4年間、ずっと。

今までにないサッカーに関するサービスで世の中を良くしていきたい。

その想いがパワーになっていました。

面白い仕組みを考えていたし、僕自身がこのサービスに興味があったんです。

このサイトを完成できたら、自分自身にオファーをくれるチームが出てくるかもしれないと思っていましたし、サッカー界のためにも自分のためにもこのサービスを早く作りたい!って。

それがモチベーションになっていましたね。

- そうして、マッチングサイト『PLAY MAKER』を立ち上げた三橋さん。
そこには「フットボーラーたちが夢に向かって行動を起こせるように」という想いがあります。

サッカー界を支えるトップレベル以外のフットボーラーが日本には99.5%の受け皿として必要とされる存在になりたい

―― 『PLAY MAKER』の目指すもの、ぜひ聞かせてください。

エージェントが付かないサッカー選手のベースになることです。

サッカー選手だったら必ず『PLAY MAKER』に登録するよねっていう当たり前の存在になりたい。

僕のやりたいことは、サッカーというスポーツをサッカー界だけでなく、社会の中でさまざまな形で必要とされる存在にしていくことです。

そのために、自分たちの情熱をカタチに変えること。そして情熱に触れられるサービスをつくること。

『PLAY MAKER』に登録した方に、サービスを通して僕やメンバーたちのパッションが感じられるものを提供しなければいけないと常に考えています。

トップレベル以外のフットボーラーが日本には99.5%いて、それって実は大手企業と中小企業の割合と同じ。

大手企業、つまり有名選手たちは自分の進路なんて安泰なんですが、日本のサッカー界ってそれ以外の選手たちへのサービスが圧倒的に足りていなくて。

でも、そういう潜在層は99.5%もいて、サッカー界を支えているんです。

多くの中小企業が日本経済を回しているように。

だから、その99.5%の選手たちにとって必須のサービスにしたいですね。

サイトをつくってから10年で達成したいと考えているので、残り7年。

ひとつひとつのステップを丁寧に踏んで、実現していきます。

今を戦わなければ、結果を出さなければ、一寸先は自分のポジションはない

―― これからが楽しみですね。最後に、サッカーの経験が仕事に活きていることを教えてください。

サッカーで学んだことは僕にとって人生の縮図。

だから、すべて活きているって言えますが、一番は、パルセイロで学んだ「一瞬一瞬を生きる」ことです。

ものすごく強くて競争心も高くて、チームメイトは仲が良いけれど、ピッチに入ると真剣に戦う。

明日の試合に出るために、今この時をやり切る。

そのマインドがみんな一貫していたんです。

パルセイロをクビになってしまって、今を戦わなければ、結果を出さなければ、一寸先は自分のポジションがなくなるっていうことを肌で感じることができたんです。

それは仕事でもまったく同じ。

プロの世界の厳しさを通して、成果を残すことへの姿勢を身に付けられたことは、僕にとって何よりの財産ですね。

取材後記

三橋さんの取材を通して、改めて気づいたことがありました。

手を抜いてみる。怖いから逃げてしまう。その瞬間はとても楽。でも、後悔するのは自分自身だということ。

練習を適当にやって、次の試合で勝てるでしょうか。アスリートの皆さんならもう、気付いているはず。「引退後のセカンドキャリアなんて何とかなるでしょ。」そうして手を抜いた結果がどうなるか、分かるはずです。

一生懸命にやること、思いっきり全力を尽くすことは、未来の自分へのプレゼントなのだと、そんな風に思います。

三橋 亮太Ryota Mitsuhashi

元プロサッカー選手
現在:経営者/サッカー選手支援


『PLAY MAKER』
http://playmaker.jp/index.php

三橋亮太 オフィシャルブログ
https://ameblo.jp/ibspflxxx/

取材/アスリートエージェント 尾崎俊介
取材・文・編集/榧野文香

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