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2018.02.20
真のアスリートとして自分に打ち勝つ。水泳・中村真衣
元オリンピック選手、競泳の中村真衣さん。
オリンピック2回、世界選手権5回、国体10回。輝かしい戦績を残されてきましたが、もう泳ぎたくないと思ったこと、プールを見るのさえ嫌になったことがありました。
じゃあ、今はもう水泳から離れてしまったの?
いえ、離れるどころか、現在はそれを仕事にされているんです。「大好きな水泳を楽しみたい。泳ぐことの楽しさを周りに伝えたい」と。
彼女に、いったいどんな変化があったのでしょうか。
Profile
中村 真衣(なかむら まい)1979年7月生まれ
元競泳選手。アトランタ五輪にて背泳ぎ4位。2000年、大学3年生で出場したシドニー五輪では、銀と銅の2つのメダルを獲得。2002年に日本水泳界初となるプロスイマーに転向。引退後はスイミングアドバイザーとして全国各地を飛び回り、水泳教室や講演会、日本オリンピック委員会(以下、JOC)主催のイベント出演などを行っている。
INDEX
とっさの一言が水泳人生の転機に
―― シドニー五輪では女子100m背泳ぎで銀メダルを獲得された中村さん。でも、小学6年生まではバタフライの選手だったそうですね。
そうなんです。
4歳で水泳を始めて、バタフライのタイムや順位がどんどん良くなっていったので、自然に。
ただ、小学6年生のときにある転機があって背泳ぎに変わったんです。
―― 転機、ですか?
地元新潟のJSS長岡スイミングスクール(以下、JSS長岡)でトップ選手コースに入ったんですが、バタフライの練習がきつくて。
選手コースなんてもう嫌だ、バタフライなんて泳ぎたくないと言ってだんだんスクールを休みがちになってしまったんです。
そうしたら心配したコーチから家に電話があり。
バタフライの練習がつらくて行きたくないと正直に話したんです。
「どうしたら練習に来れるのか?」と聞かれ「種目を変えたい!」と。
「どの種目だったら頑張れそうだ?」と聞かれて、とっさに口から出たのが背泳ぎでした。
―― そうだったんですね。どうして背泳ぎだったんでしょう。
練習の最後によく“ノーブレス”というメニューをやるんです。
25mを息継ぎなしで5、6本ほど泳ぐっていう地獄のような苦しい練習内容で。
クロール、平泳ぎ、バタフライは水に顔をつけて下を向いて泳ぐので、息継ぎをすると必ずバレちゃいますよね。
でも、背泳ぎは上を向いて泳ぐので呼吸をしていても分からないんです。
もちろんズルはしていないでしょうけど、一番最初に終わるのは背泳ぎの選手たち。
それが羨ましすぎて!
(一同笑い)
小学生ですからそんな子供っぽい理由で背泳ぎがいいって言ったんです(笑)
バタフライでは新潟県内でトップだったんですが、背泳ぎでは強い選手が何人かいました。
しかし背泳ぎでも、もっと速く泳ぎたい、周りに勝ちたいという想いでどんどん練習するようになって。
負けず嫌いの性格を存分に発揮しましたし、ノーブレスの練習も何とかこなせるようになりました(笑)
どんどん水泳が面白くなって、夢中になっていったんです。
― そうして、めきめきと頭角を現していった中村さん。2000年、大学3年生で出場したシドニー五輪で、銀メダルを獲得します。
大きな挫折で気づけた水泳への想い
―― 華々しくご活躍されていた中、引退を考えたきっかけはあったのでしょうか?
2004年のアテネオリンピックに向けての代表選考会で代表落ちしたときです。
2000年のシドニーで銀メダルを手にすることができて、よし、2004年のアテネで金メダルだと私自身はもちろん周りも意気込んでいました。
それなのに金メダルどころか出場すらできなかった。
ショックと申し訳ない気持ちで、水泳関係者と会うこともプールを見るのも嫌になってしまいました。
いっそのこと水泳をやめてしまえば、この苦しさから解放されるのかなって思ったんです。
「現役引退」を本気で考えたのはそのときが初めてでしたね。
今振り返るとただの逃げなんですけど……。
でも、それくらい大きな挫折だったんです。
―― 応援してくれる方がいるからこそ、申し訳なさもありますよね。選考会が終わって、すぐに引退されたのでしょうか。
いえ、引退したのはもう少し後で。
2007年です。アテネオリンピックに出場できないと決まってもう水泳をやめようと思ったので、しばらく練習からも離れていたんです。
その期間に色々な人に会って話をしていたんですが、ある方の言葉が強く響いて。
「引退はいつでもできる。でも、引退をしてから選手に戻ることはとても大変。もし水泳をやりたい気持ちが1%でもあるのなら、今は引退の時じゃない!」と。
その言葉を言われ、私は水泳が嫌いなんじゃない。
オリンピックの代表に選ばれなかったという現実から逃げたいだけ。
本当は水泳をやりたいんだって気付いたんです。
当時、24歳。それまでずっと私はアスリートとして生きてきたつもりでした。
大学を卒業してプロの道でひたすらに頑張ってきて。
でも、今のままじゃ真のアスリートとは言えないなって思ったんです。
周りの期待に応えるだけじゃなく、自分のためにも水泳に向き合う
―― 真のアスリートじゃない、というのは……?
他の選手に敗れてオリンピックの代表を逃しただけでなく、「水泳が好き」「泳ぎたい」という自分の意思からも逃げている。
ライバルだけでなく自分自身にも負けようとしていたんです。
そんな理由で戦うことをやめるなんて、真のアスリートじゃないなと。
ものすごく悔しさを感じてきて。
確かにアテネオリンピックの代表にはなれなかったけれど、今の自分には勝つことができるはず。
そのためには目の前の壁を乗り越えて、自分自身の気持ちにも水泳にも向き合うべきだなって思いました。
シドニーではメダリストになったので、高い結果を求められるでしょうし、重圧もありました。
でも、自分のためにやっていこうと決めたんです。
周りの期待に応えようとするだけじゃなく、私自身が「水泳をずっと続けてきてよかった」「水泳に出逢えてしあわせだ」と思えるように。
プールに戻って練習を再開しました。
― 自分にとっていい水泳をする。その想いを持って再スタート。2007年の世界選手権を終えて、正式に引退をされました。
マネージャーと二人三脚で全国で水泳教室ができる環境を整えていった
―― 引退されて、まずは何から取り組まれたのでしょうか。
当時、27歳だったんですが、何をやるべきなのか正直分かりませんでした。
きっと地元の長岡に戻って、JSS長岡でコーチをするんだろうなと思っていました。
水泳の世界しか知らない私にとって、引退後の道はそれしかないのだろうと。
そんなときに今のマネージャーに出会いました。
そのマネージャーから「真衣さんなら色々なことができるはず。それに色んなチャンスもあるでしょう。東京を拠点に頑張ってみたらどうですか」と言われました。
正直、何が自分に出来るのか分かりませんでしたが、拠点を長岡から東京に移したんです。
まず、水泳教室からスタートしました。
今でこそ普通になっていますが、それまでは引退した選手がイベントなどで水泳教室をやるなんていう事例はほとんどなくて。
マネージャーが指導のノウハウを教えてくれて、全国で教室ができる環境を一緒につくってくれました。
そんな道があるなんて知らなかったので、とてもありがたかったです。
―― 新しい道を、一歩、また一歩と進まれてきたのだろうなと思います。
今、スイミングアドバイザーとして幅広く活動させてもらっています。
江崎グリコさんにサポートしていただきながら全国各地で水泳教室や各種イベントを開催しています。
また、B&G財団(「国民の心とからだの健康づくり」を推進している公益財団法人)にも関わっているので、各市町村にあるB&G海洋センターのプールでも同じように水泳指導をさせていただいています。
その他にもスポーツ関連の講演や、JOCが主催するオリンピアンを呼んだイベントなどにも参加させてもらっていますし、日本水泳連盟の生涯スポーツ委員、新潟県水泳連盟の理事、日本マスター水泳協会の理事なども。
本来、講演やイベントって旬の選手を使うことが多いんです。
引退して10年以上も経つ私に声をかけていただくことは本当にありがたいですし、とても貴重な経験をさせていただいていると思っています。
だからこそ、皆さんの心にも何かを残せるよう、ひとつひとつのお仕事に感謝を忘れずに取り組んでいます。
海外アスリートたちは競技人生、その後の人生全体をしっかり考えている
―― 現役アスリートって引退後を考えておくべきなのでしょうか。それとも考えずに競技に全力投球すべきか。中村さんはどう思われますか?
それってとても難しいテーマですよね。
現役当時の私は考えていなかったタイプなので、そんな私が偉そうに「引退後を考えておきなさい」とは言えないですが……。
ただ、今の時代はセカンドキャリアという概念も出てきて、引退してからの道が多様になってきましたよね。
選手にとっていい環境になってきていると思うので自分なりに上手に活かして欲しいです。
私たちの時代はそういうものが無かったですし、現役時からセカンドキャリアを考える習慣も、指導する人もいませんでした。
私の周りにいる五輪メダリストでさえ引退後の仕事に悩んでいた方もいますし、プロ野球選手、プロサッカー選手にも次の道がなかなか見つからない人もいると聞いたことがあります。
現実は想像以上に厳しいので、引退前から将来のことを考えていたほうが選択肢が増えるのではないでしょうか。
あと、この点については日本のアスリートは少し甘い部分があるかもしれませんね。
―― 海外ではアスリートたちのセカンドキャリアへの意識がものすごく高いと聞きますよね。
その通りだと思います。
アメリカもそうでした。
というのも、引退した後にJOCのスポーツ指導者海外派遣員として1年間アメリカに留学していたんです。
アメリカは水泳大国なので、練習スタイルや指導方法など選手時代からずっと気になっていて。
海外ではどんな風にやっているんだろうって。
たとえば、水泳のオリンピアンでありながらハーバード大学やスタンフォード大学を卒業して医師免許や弁護士ライセンスを持っている人がたくさんいます。
海外の選手たちはみんな、自分の競技人生だけでなくその後の人生全体をしっかりと考えているんですよね。
だからこそ、日本のアスリートはそこが甘いのかもしれません。
スポーツ推薦で進学したら競技だけやっていればいいという意識を変えていくべきなのかもしれませんね。
「アスリート」という肩書きにただ甘えてしまっては、それこそ真のアスリートとは言えないなと。
現役中も引退後もすべて自分の人生ですから、責任を持てる人こそが本当のアスリートだと思います。
―― 他にもアメリカで気付かれたことはありましたか?
アメリカのコーチが言ったんです。
「私たちの役目は選手たちに水泳を嫌いにさせないこと。いかに楽しく練習させられるかを大切にしている」と。
ものすごく驚きました。
日本では幼い頃から厳しく指導したり、何本も泳がせたりしますよね。
ノーブレスのようなつらい練習もあります(笑)
でも、それで泳ぐことが嫌いになってしまったら、確かに本末転倒だなって。
日本の子どもたちは才能があってもやり過ぎてバーンアウトしてしまうことも多いと思います。
スキルを教えることも必要だけれど、何よりも大切な「楽しさ」を私は忘れてしまっていて。
そのコーチの言葉で思い出すことができたんです。
帰国してからは水泳教室などでの教え方も変わりました。
それまでずっとオリンピックメダリストとして恥ずかしくない指導をしなければならないって必死だったんです。
何かを教えなきゃ、やらせなきゃと。
でも今は、皆さんに楽しんでもらうこと、笑顔になってもらうことを何よりも大切にしています。
マネージャーにも「真衣さんはアメリカから帰ってきて、指導だけでなく表情も変わった。自分自身がとっても楽しそうに水泳に関わっていますね」って言われるんですよ。
カラダを動かす楽しさ、人を笑顔にする指導者でありたい
―― 「楽しい」「好き」というプラスの感情がベースにあると、練習にも積極的になれますもんね。最後に、中村さんのこれからの目標を聞かせてください。
泳ぐことやスポーツを通して、健康でいることや思いっきり笑うことのよろこび、カラダを動かす楽しさを伝えていきたいです。
水泳を通して出逢う多くの方々、子どもからご年配の方まで幅広い世代の皆さんに。
「中村さんが来ると明るい気持ちになるね」「真衣さんっていつも笑顔だから元気になる」そう言ってもらえるような指導者でいたい、いえ、中村真衣としてそういう人間でありたいと思っています。
私は、私自身のカラーを大切にしながら、大好きな水泳を通して皆さんにパワーを届けていけたら、とっても幸せです。
取材後記
「引退して10年、今も素晴らしい毎日を送らせてもらっていることに本当に感謝しています。引退時に何をしたらいいか分からなかった私が、今、たくさんの人とのご縁もあって大好きな水泳を仕事にできていますから。」
そう言ってにっこりと笑う中村さん、本当に嬉しそうで。
ずっとやってきた水泳を仕事にして、今も変わらず大好きでいる。
アスリートとして学んだことを、仕事に繋げて活かしている。
またひとり、素晴らしいビジネスアスリートに出会ったのでした。

中村 真衣Mai Nakamura
元競泳選手
現在:スイミングアドバイザー
中村真衣オフィシャルブログ
https://ameblo.jp/nakamura-mai/
取材/アスリートエージェント 小園翔太
取材・文・編集/榧野文香
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