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2017.09.20
「想い」を持って生きる。野球・田口竜二
野球をやめたいと思ったことは、一度だって無かった。投げることが楽しい。大好きな野球。絶対に、プロになる。
それなのに、プロの世界で野球が“苦痛”になっていた。昔のように燃える気持ちは、どこかに消えてしまっていた。
田口さんの経験は、私たちに「想い」の大切さを教えてくれます。
Profile
田口 竜二(たぐち りゅうじ)1967年1月生まれ
元プロ野球選手。都城高校時代に甲子園に出場し、桑田真澄投手と投げ合う。卒業後はドラフト1位で南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)へ入団。引退後、同チームの用具係、営業職を経て、現在は白寿生科学研究所に勤務。人材開拓課にてスポーツ選手のセカンドキャリア支援などを手掛けている。
INDEX
野球をやる、自分自身の責任で選んだ道に後悔はない
―― 田口さんは広島県ご出身なんですね。広島といえばやっぱり東洋カープですね。
そうですね。
幼い頃の私の夢はまさに広島東洋カープの選手になることでした。
ただ、柔道家の父親の影響で、小学生になってしばらくは柔道をやっていたんです。
身体は大きかったし強かったので、県内で負けることはありませんでした。
父の夢は、私が柔道のオリンピック選手になることだったんです。
―― ということは、野球はいつ頃からスタートされたんですか?
小学4年生からです。
体格の良さもあって5年生のときにはすでにレギュラーとして試合に出ていました。
県大会で準優勝もしましたね。
中学でも野球をやって、推薦で都城(みやこのじょう)高校に進みました。
超名門と言われている中京高校を含めて何校もオファーをもらいましたが、父の兄(伯父さん)に「都城で野球をやってくれないか」とお願いされたんです。
伯父さんはちょうど都城高校の近くに住んでいて。野球が大好きな人なので、自分の傍で野球をやって甲子園を目指して欲しいと言われました。
中京高校に行くつもりだったので悩みましたが、私は「柔道選手としてオリンピックに出る」という父の夢を叶えられなかったので、少しは親孝行になるのかもしれないと都城高校を選んだんです。
―― 中学生でその選択の仕方は大人ですね。今でも間違ってなかったと思いますか?
どこに決めても間違ってなかったと思います。
自分で一歩踏み出した道は、すべて正解。
選んだものは自分自身の責任ですし、過去に対して後悔はしません。
体の故障、病気、それでも野球をやめたいと思わなかった
―― 高校に入学後は、やはり早くからレギュラーを獲得されたのでしょうか。
いえ、体の故障が多くて。
足を怪我したり、肺気胸になってしまったりと。
だからなかなか試合に出してもらえませんでした。
野球は上手いけれど、監督としては心配な選手だったんだろうと思います。
でも、モチベーションは下がらなかったし、気が腐ることも一回も無かったですね。
「今までの人生で野球をやめたいと思ったことはありますか?」と聞かれることがあるんですが、私が「やめる」という考えをしたことは引退をするときのみです。
実際に選手生活を終えるとき以外、一度だって野球をやめたいとはならなかった。
監督やコーチにどれだけ叱られても、先輩から殴られても。
自分で決めてこの場所にいるんだから、何が起きたっていいんだと。
野球をやめるために都城に行ったんじゃなく、プロになるために私自身が選んだ道。
だから、ネガティブにならず前を向いていました。
高3の春夏の甲子園では試合に出場をして、PL学園と対戦しました。
桑田真澄投手と投げ合うと球のコントロールや速さが群を抜いているし、清原選手は今まで聞いたことの無いような豪快な音でボールが飛んでいく。
ああ、こういう人たちが天才なんだと痛感しました。
正直、それまで自分のことを天才だと思っていたんですが、全然違うなと。
プロに入ってからはさらに、自分なんて平凡だなと気付きました。
― 高校卒業後、ドラフト一位で南海ホークスへ入団。輝かしいプロ生活かと思いきや、実際は少し違ったようです。
念願のプロ野球選手になったあとにぶつかった壁
―― 現役生活はどのくらい続けられましたか?
18歳から25歳まで、7年です。
でも、全然ダメでした。それまではプロになるという想いで一生懸命に野球をやっていたけれど、プロになれて「想う」が「思う」に変わってしまったんです。
勝てればいい、とりあえず一軍に行ければいい、と。
監督やコーチに指示されたこと以上のことはやらず、練習が終わると飲みに行くような毎日を過ごしていました。
スケジュールもすべて決められているから、何も考えずにその「船」に乗っていればいい。
船の漕ぎ方も教えてもらえるから、どうやって舵を取るといいのかなって自分で試行錯誤する必要も無いわけです。
そういう世界の中で、私はロボットのようになってしまいました。
目標や強い信念を持ってやるということが無くなってしまったんです。
活躍する選手は、考えることができる人でした。
自分で「こうしよう」と決めて、とことんやってみる。
継続もするし、改善もする。
よく練習する。
最後にはコーチも根負けするくらいの情熱を持っている。
やれと言われることをただやるだけの選手はたいてい衰退するし、成功した人は見たことがありません。
―― 何となくやってしまうと決してよい結果を出せないですよね。少しずつ引退も意識されたのでしょうか。
プロ入りして4年目くらいですね。
星稜(せいりょう)高校からレベルの高いピッチャーが入団して、こいつには勝てないと悟ったんです。
自分自身もフォームは定まらないし、何をどうすればいい球を投げられるのかもう分からなくなっていて。
あんなに大好きだった野球なのに苦痛でしかなかった。
昔のように「俺のボールを打ってみろ!」と燃えるような気持ちでマウンドに立っていた自分は、いつの間にかどこかに消えていました。
5年目、6年目と何とかやって、7年目で監督にやめさせて欲しいと自ら伝えました。
そうしたら「お前、コントロールはいいから、バッティングピッチャーの仕事をやらないか」とその場で言われたんです。
引退後のことはまったく考えていなかったし、このまま仕事が出来るんだったらいいじゃないかと、迷わずに決めました。
ただ、投げるだけだと面白みが無かったので、日本一を目指すことにしたんですよ。
誰が見てもコントロールがいいし打ちやすい。
そういうバッティングピッチャーになろうと。
想いを込めるとフォームがどんどん良くなっていくんですよね。
現役時代より熱を入れて練習していたし、周りも驚いていました(笑)
― バッティングピッチャーとして活躍し、3年後。なんと、新しく就任した監督の声がけによって、田口さんは現役に復帰します。
一度は引退するも現役復帰、自分で考えて野球と向き合うキッカケに
―― 日本一のバッティングピッチャーになるという目標があった中で現役復帰の誘い。心が揺れてしまいそうですが……。
迷いましたね。
自らの意思で引退したし、私の生き方として男に二言はあってはならない。
復帰の選択は果たして正しいのかと考えました。
ただ、チャレンジできるなら逃げたくなかった。
以前とは違って自分で考えて野球に向き合えるようになったし、一生懸命やってみてダメなら仕方ない。そう思ったんです。
結局、復帰をしてすぐに靭帯を切ってしまい、選手生命が怪しくなりました。
痛み止めを飲んで周りに気付かれないようにして頑張ってはいたんです。
でも、薬に頼らなければ5mのキャッチボールも難しくなってしまって。
29歳で完全に引退をしました。
その後、用具係や二軍のマネージャーを経て、営業として福岡ドームで仕事をしているときに今の職場である白寿(はくじゅ)生科学研究所の副社長との出会いがあって。
37歳くらいのときですね。
話をしているうちに「一緒にやりませんか」と誘ってもらったんです。
これまでの経験で痛感した何事も「思う」でなく「想う」気持ち
―― 高校卒業からずっと南海ホークスにいらして、まったく新しい世界に行くことはどんな気持ちでしたか?
長くはない人生の中で「一緒にやろう」と言われることが、いったい何回あるんだと思ったんですよ。
私に何も能力が無かったら、そんな言葉かけてはもらえない。
自分という人間がどこまで通用するのか試してみようという気持ちでした。
入社をしてもうすぐ13年目になりますね。
人材開拓課という部署で、独立リーグや球団、高校などを回っています。
―― 日々たくさんの選手たちにお会いされていると思います。彼らに伝えていることで、田口さんが一番大切にしていることを教えてください。
そうですね、やっぱり「想い」です。
やっていることに対してどういう気持ちを込めているのか。
何となくやっている、やらされている状態だと、嫌なことがあったときに逃げてしまうから。
私の経験を交えて、何事も「思う」じゃなくて「想う」になっていないと無駄に過ごしてしまうよっていう話をしますね。
しかも、その時間は二度と戻ってこない。
あとは、勇気。
失敗したらどうしようとか、安定していないといけないとか、そういう守りの姿勢じゃダメ。
よく考えて欲しいんです。
競技をやっているときに安定なんて頭にあっただろうかと。
若い子たちに「君たちは野球をやっていてどういう瞬間が嬉しかった?」と聞くと、「試合で優勝したときです」「目標を達成したときです」「レギュラーになれたときです」と話してくれるんですよ。
それって全力で挑戦したからこその結果ですよね。
勇気を出して、挑戦して、頑張っていた自分がいた。
でも、そういうものを味わえなくなる安定志向になっていく。
本来の自分とは違う方向に進んでいないか、間違っていないかって問うて欲しいんです。
目標を達成することが嬉しいっていう人生を歩いてきたなら、それを貫いて欲しい。
セカンドキャリアにしてもそうですよね。
それがアスリートとしての本来の生き方じゃないかなって。
社会に出て困るのは自分自身、そのために勉強も周りを見ることも必要
―― セカンドキャリアに関して、野球界の課題はどういうところなんでしょう。
野球界のセカンドキャリア課題は大きくふたつあると思っています。
選手側と指導者側。まず選手側は、野球しかやっていないというネガティブ思考から始まっていく問題。
これもできない、あれもできない、俺は何もできないと負のスパイラルにはまってしまうこと。
指導者側は、考える選手を育てないという問題。
「野球のことだけ頭に置いておけ」と教えてしまうと、周りを見なくていい、勉強はしなくていい、他のことは何も考えず監督やコーチにとにかく従えばいいと選手は思ってしまいがち。
でも、社会で困るのは本人です。
選手本人の意識も、指導者の教育方法も変えていかなければいけません。
そうじゃないとセカンドキャリア課題はずっとそのままだろうと思います。
スポーツと人生のふたつの軸で考える環境が必要になってくるんです。
―― 最後に、田口さん自身のモットーを聞かせてください。
人のためになること。
今の自分が果たして人の役に立てるのかどうかを常に考えていますし、そういう人間でいることが夢を実現できる一歩だと思っています。
目の前の人のために自分がやるべきことを考えると、もっと力を付けなきゃとか、人脈を広げようとか、さらに知識をつけるべきだなと気付くんです。
自分の未熟さに向き合いますし、学びの連鎖によって夢や目標に近付いていけるんですよね。
取材後記
取材後、あらためて「思う」と「想う」を調べてみたんです。思うとは、自分の頭の中だけで考えること。想うとは、対象となるもの・人に向き合って考えること。
田口さんもずっと、野球というものを真剣に考えていました。愛していました。
そこにはとても強い「想い」がありました。ひとまず勝てればいい、とりあえず一軍になれたらいい。そう「思う」に変わってしまった瞬間、上手くいかないことが多くなりました。
私たちは、目の前の競技、就活、仕事に、心を込めているでしょうか。自分の頭の中だけで、何となく考えてしまってはいないでしょうか。プロを経験し、葛藤されたからこそ、田口さんのメッセージは力強く響きます。
「私は日々こう考えています、こうやって生きていますと掲げるものがあるからこそ力強い行動ができる。そのためにもやっぱり「想い」は欠かせません。目の前のことに対して心を込めるからこそ、指針となるモットーが見つかりますから。」

田口 竜二Ryuji Taguchi
元プロ野球選手
現在:人材開発・教育
白球徒然 ~HAKUJUベースボールスペース~
(田口さんの野球コラムが掲載されています)
https://goo.gl/PtefQY
株式会社白寿生科学研究所
http://www.hakuju.co.jp/
取材/アスリートエージェント 小園翔太
取材・文・編集/榧野文香
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