2018.02.07

プライドを捨てられる心の強さを持つ。サッカー・阿部祐大朗

「高校生までは、自分を天才だと思っていました。」
そう言われても不思議ではない、華々しい阿部さんの十代の経歴。

高校生でプロサッカー選手としてデビュー。
しかしその後、暗黒の9年間を過ごし、引退。
ウェディング業界へ転身後、現在はカード会社に勤務されています。

全く違うフィールドへ移ることができたのは、
「プライドを捨てられたからだ。」と阿部さんは言います。

本当に捨てきったのでしょうか。
阿部さんの秘めた野望は、まだまだありそうです。

Profile

阿部祐大朗(あべ ゆうたろう) 1984年10月生まれ

元プロサッカー選手。桐蔭学園高校3年生のとき、特別指定選手として横浜F・マリノスからJリーグデビュー。U-20W杯日本代表、モンテディオ山形、北信越1部のフェルボローザ石川、ガイナーレ鳥取を経て引退。9年間のプロ生活ののち転身し、ウェディングプランナーを経て、現在はカード会社の法人営業として活躍中。

プロサッカー選手になって初めて直面した壁

―― 5歳でサッカーに出会い、高3で横浜Fマリノスへ。サッカーを始められたきっかけは何でしたか?

子どもの頃、サッカーをやっているいとこが私の実家に居候をしていました。

それで自然に一緒にボール遊びをするようになったのがきっかけです。

小学校3年生のときにJリーグが発足したんですけど、それを見てサッカー選手になりたいと、その時からすでに将来はプロを目指していました。

小学校のサッカーチームへ入って選抜となり、ぶつかった壁もなく、中学1年生のときに3年生の試合や全国大会に出ていたりして「自分は天才か」なんて思っていました(笑)

―― プロへ行くまでは挫折がなかったんですか?

U―16の日本代表に選ばれるなど、順調そのものでした。

クリスティアーノ・ロナウドがいたチームに勝ったりもして。

今でもプロで活躍している長谷部誠選手もいましたが、当時はそこまでの選手ではないと(笑)自分が一番だと思っていました。

アジア予選で得点王になり、Jリーグだけでなくスペインリーグを目指そうとしていたんです。

でも、今振り返るとそれが弱かった部分かもしれません。

―― 弱かった部分とはいったい……?

感覚でプレイできてしまっていたし、試合に出られない人の気持も分からなかったんです。

監督にも生意気に意見して、相手チームと喧嘩をしたりしていました。

そこで調子に乗っていたせいか、プロになってからは「メンタルが弱い」と指摘されましたね。

―― 高校生のときに横浜F・マリノスの特別指定選手としてプロデビューされるんですよね。

横浜F・マリノスへは、それまで育ててくれたので入団を決めました。

同期には安貞桓(アン・ジョンファン)や久保竜彦(くぼ たつひこ)なども。

ほかのチームですが、同世代には長谷部選手もいて、まさに本人の著書のように“心を整えて“力を付けていましたね。

当時は中村俊輔選手のパフォーマンスがピークのころで、中田英寿選手の凄さにも圧倒されていました。

岡田監督でマリノスが最強に強く、優勝したりしていた時代です。

自分の力は通用せず、プライドは相当ズタズタにされて、活躍ができませんでした。

チームを去り職を失ってやっと目が覚めた

―― 豪華メンバー揃いの中、どうやって立ち上がったのでしょう?

立ち上がろうと向き合わなかったんですよ。

調子に乗ったどうしようもない人間でした。

岡田監督は「どんなに下手でも、向き合ってくるやつは絶対に見捨てない。」って言ってくださっていたのに、初めて感じたサッカーの壁にしっかり向き合いませんでした。

高校の同級生などと遊びに行き、何もできなくなってしまう状態になりましたね。

ほんとにプロ最初の2年間は、特に苦しかったです。

でも、引退することを当時は考えませんでした。

それで、J2リーグのモンテディオ山形にレンタル移籍するしかなくなったんです。

―― どういう気持ちだったんでしょうか?

まだ20歳くらいのときでしたけど、もう、死のうかとまで思いましたね。

山形での仕事は雪かきから始まりました。

コート整備から全てを自分たちで行う必要があって、J1とはぜんぜん違う。

最初1ヶ月間は、プライドが捨てられませんでした。

今までの環境との差が激しくて。

サッカーに対しては紳士に向き合うようになりましたが、目に見えた結果は得られませんでした。

プロになって4年目、22歳のときに山形もクビに。

―― もうあとがなくなったように思えますが……。

そこで初めて目が覚めました。

何しろ職がない状態です。

いろんなところで手当たり次第、トライアウトを受けました。

しかし、声がかかりませんでした。

結局、石川県の北信越地域1部リーグのフェルボローザ石川へ行きましたが、スポンサーの離脱により給料未払いのまま2か月で潰れてしまったんです。

お金に困って派遣会社に登録して墓石掃除の仕事をしましたが、派遣会社も給料未払いのまま潰れてしまって(笑)

踏んだり蹴ったりでしたが、頂点を取ってきたプライドも内心あるわけです。

まだ行けるのではという気持ちもありましたから、知り合いのコネを使ってプロの練習に参加させてもらいました。

するとJ2の徳島ヴォルティスでの練習で、高校時代以来のいいプレイの感触がちょっと戻ったんですね。

持ち前のガッツでプロ最後のガイナーレ鳥取は3年間プレイしました。

引退してまずはじめにやったことはパソコンのブラインドタッチの練習

―― そこで引退を決めたのですね。何かきっかけはあったのでしょうか。

山形時代から付き合っている彼女がいまして。

帽子屋さんの子で、練習後に通って婦人用の帽子をムダに買っては私の母に送って。

母からは不思議がられていました(笑)

それで付き合うようになり、徳島ヴォルティス時代には結婚も考えていました。

だからサッカーをいつやめようかと常に頭にはあったんです。

ただもうその頃には、サッカーを楽しめなくなっていたんですね。

思うようなプレイができず、納得もしていかなかった。

試合に出られないとプライベートもつまらない。

お昼には練習や筋トレが終わりますから、そこからパチンコにいったりお酒を飲んだりしてしまう。

これではダメだと、引退を決意しました。

―― 現役中には、引退後のことは考えていましたか?

賢い人は投資をしたり、サッカースクールの経営などをしたりしていました。

ただ自分は「他のことは一切しない」と決めていたんです。

だから、サッカー以外のスキルは何もなく、27歳でプロサッカー選手を引退してから、まずやったのはパソコンのブラインドタッチからでした。

―― サッカーに関する仕事に就こうとしそうですが……。

まずはサッカーのコーチの給料を調べたんです。

あとは解説者とか色々あるんですが、サッカーでは食べていけないと思いました。

そこで「一度サッカーでプロになれたのだから、他の世界でもプロになれるはず」と、ビジネスの世界でセカンドキャリアを歩むことを考え始めたんです。

ビジネスで一番関心があることはなんだろうと考えたときに、好きなファッション関係の方にまず会いに行きました。

ただ、何の実績もない人間といきなりは会ってくれないだろうと、おしゃれな格好をして、受付の人にも社長の友達のふりをしてアポ無しで社長に会いに行きました(笑)

結論、会ってくれたんですけど「中途採用を普通に受けてください」と。

その後も、求人サイトに登録して色々な会社の面接を受けました。

その中で最初に受かったのがブライダル会社だったので、そこに決めたんです。

初めて受かったブライダル会社へ就職、手取り20万円からのスタート

―― 最初に受かったこと以外に、決め手はありましたか?

あとは、人のために生きるのが素敵だなと思ったことも入社の決め手でした。

でも初日に出社したら、あまりにキツくて抜け出そうかと思いましたけどね。

歳下の上司からはボロカスに言われて、元Jリーガーだからモテると思っていたら全然そんなことなく(笑)

―― サッカー選手の時代と最も違った点は、どこだったんでしょうか。

やはり労働時間の長さ。

朝は9時から夜は遅いときで23時くらいまで、接客仕事なので立ちっぱなし。

お昼には練習が終わっていたサッカー時代とは全然違うので、慣れるまで大変でした。

でも自分で決めたことですし、すでに結婚して家族もいましたから、がんばれました。

手取りは20万円くらいでしたけど、9年間のサッカー人生経験があるわけだし、そこは踏ん張りましたね。

―― やりがいはどういうところに感じていましたか?

ウェディングプランナーって、4ヶ月くらいのスパンで計画して、結婚式のプランを作っていくんです。

それくらいの長さで一緒に寄り添って、お客さんも喜んでくれるのが醍醐味だと思います。

でも、最初は引き出物を発注し忘れて式当日に間に合わないとか……それは結局、直接買いに走ってなんとかなったんですが……あと、ウェディングって新婦さんの気持ちに寄り添ってあげるべきなのに新郎さんの肩を持ちすぎてしまって新婦を怒らせたことも。

担当を外されたことが2回ありました。

「プライドを捨てられた」ことがビジネスパーソンとして活躍できるようになった理由

―― 聞いているだけで心が折れそうですね(笑)ビジネスの世界に入るときはどういうマインドで、入ったのでしょうか?

自分がビジネスパーソンになれたのは「プライドを捨てられたから」だと思います。

プライドを捨てられるというのが、絶対に人に負けないと思う点です。

もちろんサッカー選手のときは絶対に負けないという思いはあったんです。

でも心は弱かったと思います。

昔の自分を含め、頭を下げられない人はいっぱいいます。

でも、壁を乗り越えられなかった自分の経験がありますから、次こそは逃げてはダメだと思いますし、今は頭を下げられるようになりました。

今も常に能力は足りません。

ただ、サッカーで何度もクビになった経験があったので、仕事があるだけでもいいと思えます。

単純な作業があっても、基礎の反復練習だと思えば何事も取り組めます。

―― 現役時代、もっとこうしておけばよかったと思うことはありますか?

やはりマリノス時代の最初の2年間です。

サッカーに対して紳士に向き合えなかったことが後悔です。

自分に足りていない部分は分かっていたんですよね。

たとえば中村俊輔選手は、全体の練習後も1人グランドに残ってフリーキックの練習をしていました。

でも自分は誰よりも早く帰って遊んでいた。

だからこそ今、ビジネスは本気でやろうと思っています。

サッカーで悩んだらサッカーでしか解決できない、努力を努力と思わない感覚まで極める

―― もし壁にぶつかったとき、今ではどう乗り越えていますか?

サッカー選手のときは、たとえばシュートが入らなかったらボーリングやカラオケなど違うことで発散をしていました。

もちろん遊ぶことは否定しませんが、サッカーで悩んだら、練習をするなどサッカーで解決するしかありませんよね。

ただ、プロになる前には誰よりもボールを自然と触っていました。

そのときは「俺、努力している!」なんて考えていなかったし、いい自分でした。

そんな風に「努力している」と意識しない状態、ずっとこの行為をやっていたいという感覚が理想なのだと思っています。

まだビジネスではそこに達していないので、もっと極めていきたいです。

―― 最後に、今後のビジョンを聞かせてください。

革命を起こして、いつか素晴らしい経営者になりたいです。

今の自分自身に足りないところを成長させて、結果を出したい。

Jリーガー時代の9年間は本当に苦しいものでした。

それまでちやほやされてきている人がほとんどですから、それを断ち切ってもう一度新しいステージへいける人はあまりいません。

自分も、マインドセットの部分はなかなか変えられなかった。

だからこそ、今変えられていることはめちゃくちゃ運がいいと思います。

これからはサッカーに恩返しがしたいですね。

マリノスのスポンサーになれる企業を興(おこ)せるくらいの、素晴らしい人になりたいです。

取材後記

プロサッカー選手から、ビジネスパーソンへ。
プライドを捨て、ここまで異なるフィールドへ転身した方は珍しいと思います。

阿部さんの胸の内には、サッカーへの後悔ではなく、
サッカーボールを触っていたときの
感覚やゴールの快感が、今もリアルに残っている。
そういう印象を受けました。

プライドを捨てる強さを持ちつつ、
根底にあるサッカーを愛する気持ちとバイタリティで
新しいフィールドを切り開いていく阿部さん。

今後、サッカーに恩返しをされる姿が、とても楽しみです。


阿部 祐大朗Yutaro Abe

元プロサッカー選手
現在:カード会社勤務


阿部祐大朗twitter
@abebra

取材/アスリートエージェント 大芦恭道
取材・文/山岸裕一

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