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2025.02.20
周りの支えがあるからこそ、夢は叶えられる。レスリング・井上智裕が、リオ五輪を通じて学んだ「感謝することの大切さ」
感謝。
それは一見、当たり前にのことのように思えます。
ですが、感謝すべき人の存在や、感謝すべき行為に気づけていないこともあるのではないでしょうか。
アスリートがふと振り返えると、監督・コーチや裏方のスタッフ、ファンや友達、そして家族と、多くの“支え”が存在することに気がつきます。
今回お話を伺ったのは、FUJIOHに所属するレスリング選手・井上智裕さん。
国内トップクラスのレスラーである井上さんは、2012年の全日本選手権で初優勝を飾ると、その後の2014〜2015年では同大会で連覇を達成。
2016年のリオデジャネイロ五輪では66キロ級で5位に入賞するなど数々の好成績を残し、現在はオリンピアンとして現役を続けながら普及活動に力を注いでいます。
そんな井上さんは、「周りからの応援や支えがあるからこそ、人は夢を叶えられる」と話します。
今回は、ご自身の競技人生を振り返ってもらいながら、周りにいる“支え”に気づき、「感謝をすることの大切さ」について伺いました。
Profile
井上智裕(いのうえ ともひろ)
1987年7月17日生まれ。兵庫県神戸市出身のレスリング選手。兵庫・育英高校からグレコローマンで活躍。日本体育大学を卒業後、母校・育英高に就職し、教員の傍ら2012年ロンドン五輪を目指すも、国内選考会を兼ねた全日本選手権で敗退し、一度は引退を決意した。それでも同年の全日本選手権で初優勝を果たしたことを機に、現役を継続する。2013年には育英高校を退職し、三恵海運に入社。2014年、2015年の全日本選手権を連覇し、翌年3月のリオ五輪予選にて優勝を果たし、本大会出場権を獲得。しかし迎えた2回戦で第1ピリオド2分07秒テクニカルフォール負け。敗者復活戦を勝ち上がり3位決定戦に進出したが、判定負けを喫し、銅メダルを獲得することは叶わなかった。2017年には三恵海運を退職し、FUJIOH(富士工業)に入社。2019年12月の天皇杯で敗れ、東京五輪出場の夢は絶たれたが、現在も現役を続けながら競技普及活動に力を入れている。
INDEX
はじめは「嫌いだった」レスリングで、五輪出場を志すまで

―― 2016年リオデジャネイロ五輪に出場され、現在もFUJIOHに所属しながら現役を続けている井上さん。レスリングを始めたきっかけを教えてください。
競技を始めたのは小学校1年生の頃。
もともとレスリング経験のある父が、教員として勤務している高校に小学・中学生を対象としたクラブチームを作り、道場に半強制的に連れて行かれたことがきっかけです(笑)。
はじめは全くやる気がなかったですね。
格闘技なので痛いですし、練習もつらかったので、嫌々やっていました。
でも、父からは「小学校を卒業するまでは続けなさい」と言われていたので、そこまでは継続する覚悟を決めたんです。
今思えば、物事を途中で投げ出さないように、という教えだったのだと思います。
―― レスリングを「楽しい」と感じ始めたのはいつ頃ですか?
試合で結果を出せるようになってからですね。
小学1〜2年生の頃は出場した大会は全て初戦敗退していましたが、3年生になった頃から少しずつ勝てるようになってきて。
ただ、僕には兄と姉、弟が一人ずついて、当時は4兄弟全員がレスリングをしていたのですが、僕が一番弱かった。だから「向いてないな」と。
楽しさは感じ始めていましたが、競技を好きになることはできなかったんです。
だから、小学校卒業を迎えた際は、正直「やっと辞めれる」という気持ちはありました。
でも、その頃には、ある程度の結果はついてきていましたし、他にやりたいこともなかったため、卒業以降も続けていくことに決めたんです。
中学では、部活動が必修だったので、柔道部に入りながら、並行してレスリングの練習をしていました。
中学1年時には、ちょうど2000年のシドニー五輪が開催されていたので、部員全員集まって柔道競技を観戦していたんですが、同時にレスリングの試合もしていて、その時に初めて同競技が五輪種目であることを知りました。
当時はまだネットがそこまで普及していない時代だったので、五輪どころか、日本のトップ選手すら知らなかったですね(笑)。
でも、そこで初めてレスリング選手として「五輪に出たい」「日本一になたい」と思うようになったんです。以降はもう、迷うことなく競技と向き合うようになりました。
弱さを受け入れ、前に進む

―― そこから本格的にレスラーとしてのキャリアが始まったのですね。高校進学後はいかがでしたか?
中学卒業後は父が教員を務めている兵庫県の育英高校に進学しました。
練習する環境は小学生の頃から変わりませんが、自分で練習方法を考えたり、ビデオを観て研究するようになりました。
というのも、父はもともと強制的に練習をさせるのではなく、自主性を重んじる自由な指導体制を敷いていたので、僕らは自分で考えてメニューをこなしていくスタイルが当たり前だったんです。
それによって、自分がやりたい練習をできたので、高校2年時には2004年JOC杯全日本ジュニアオリンピック選手権のカデットの部で優勝することができました。
その辺りから、さらに「世界で勝ちたい」という気持ちが芽生えていきましたね。
―― それでレスリングの名門・日本体育大学に進学したわけですね。
はい。
ですが日体大は練習内容も、周りの選手たちも、それまでとはレベルが違いすぎて、全然ついていくことができませんでした。
正直、高校時代は部内では僕が一番強く、それゆえ楽しく競技に打ち込むことができていたのですが、逆に大学では、けちょんけちょんにやられてしまって…。
全国レベルの厳しさを痛感しましたね。
―― 挫折を味わった、ということでしょうか…?
いえ、挫折とは少し違うんです。
もちろん悔しい気持ちはあります。
でも、僕は昔から弱い選手だったので、自分で強いと思ったこともないですし、「負けてもともと」という考えで試合に臨んでいたんです。
そうすることで、たとえ全力を出し切って負けたとしても、「仕方ない」と受け入れることができる。
だから挫折を経験して立ち止まることもなく、前に進み続けて来られたのだと思います。
大学では思うような成績は残せませんでしたが、五輪に対する想いは変わることなかったので、当時で一番開催が近い2012年のロンドン五輪を目指し、大学卒業後もレスリングを続けることを決めました。
一度夢絶たれるも、五輪に向け再挑戦「まだできる」

―― 自分の弱さを認め、逃げずに突き進むことは簡単にできることではないので、とても勇気のいることだったように思えます。大学卒業後はどのように競技を継続されていったのですか?
母校である育英高校に就職し、教員の傍ら、レスリングの練習を続けていました。
父の背中を見ていたというのもあり、もともと指導者になりたい気持ちがありましたから。
スケジュールとしては、僕は非常勤講師だったので、月曜日から水曜日に授業を固めてもらい、その間は早朝に同校のレスリング部の生徒と朝練をして、日中は授業。
そして放課後も生徒に指導をしながら一緒に練習をする、という流れで日々を過ごしていました。
木曜日から日曜日は、東京に行って日体大の学生と練習をしていましたね。
―― すごいハードスケジュールですね…。その中でロンドンへの切符を手に入れることができたのでしょうか?
当時、自衛隊体育学校に在籍していた、藤村義選手にどうしても勝つことができず、ロンドンへの夢は絶たれてしまいました…。
社会人になってからは全日本選手権や国民体育大会で常に3位以上に入るようになり、実力も向上してきていたので、本当に悔しかったです。
―― そこから、すぐにリオデジャネイロ五輪に気持ちを切り替えることはできましたか?
いえ、その時は4年後のことを考えることはできず、「もう五輪を目指せる選手ではないな」と一旦そこで引退したんです。
厳密に言うと、趣味の延長としてレスリング自体は続けていたんですけど、日本代表を目指すような第一線の舞台では戦わない、という意味合いで「引退」と。
ですが、ロンドン五輪閉幕直後の全日本選手権で初優勝することができまして(笑)。
「あ、俺、まだできるんだ」と。
それでもう一度、挑戦してみようと考え直し、五輪を目指して復帰を果たしました。
デュアルキャリア、食生活改善を経て得た「感謝」の五輪切符

―― そのまま働きながら選手活動をするデュアルキャリアを継続されたのですか?
はい。ただし、職場は変えました。
2013年に育英高校を退職し、東京に戻ってピザ屋でアルバイトを始めたんです。
何故かというと、やはり五輪を目指すなら、母校の日体大のようなレベルの高い練習相手がいる東京を拠点に活動した方がいいと思ったからです。
しかし、就職先が決まらなかったので、ピザ屋でデリバリーを(笑)。
ですが、同年に開催された育英高校の同窓会で、同校のレスリング部OBで当日の同窓会副会長をされていた三恵海運の社長が、僕が退職したとき、心配して父に「息子はどうしてる?」と連絡をくださって。
「仕事がないままレスリングを続けているなら援助するよ」と言ってくださったんです。
それから僕の選手活動をサポートしてくださることになりました。
こうして、アルバイトは続けながらも、2013年10月からは三恵海運の所属選手として、翌年3月まで活動させていただいたんです。
―― では、2014年4月からは三恵海運に正式に社員として入社された、と。
そういうことです。
一応、正社員ではあるのですが、僕は仕事はしない形で競技に専念させていただいていました。
やはり練習に集中できる環境は僕にとって大きかったので、本当にありがたかったです。
ただその中で、リオデジャネイロ五輪出場を目指すにあたり、同大会の新階級が発表されたことに伴って、階級を下げなくてはいけなくなりました。
普段の体重から数えても10〜12キロは減量する必要があり、大会直前に飲まず食わずで過ごして何とか計量をパスできるという状態でした。
―― 毎大会その減量を続けるのは、だいぶ厳しいですよね…。
本当にキツかったです。
そこで、ナショナルチームの栄養士さんに相談して、食生活を変えることにしました。
僕は甘いものが好きなのですが、缶コーヒーも微糖からブラックに変えたり、お菓子やお酒を控えたりと、根本的な部分から見直しました。
すると、見違えるように体の調子がよくなりました。
まぁ、大会後のリバウンドはすごかったですけど(笑)。
ただそれからは、国内の大会では常に勝つことができて、2016年3月のリオ五輪のアジア予選で優勝し、晴れて五輪代表の座を掴むことができたんです。
僕一人では辿り着けなかったと思うので、会社や栄養士さんには本当に感謝の言葉しかありません。
メダルに手は届かずも…周りからの応援の大きさ感じたリオ五輪

―― 念願だった五輪の舞台。当時の心境、ぜひ聞かせてください!
もう、ここまで来たら「やるしかない」と。
その気持ちだけでしたね。緊張することもなく、いつも通り試合に臨めていたと思います。
しかし、フタを開けて見れば、初戦で第1ピリオド2分07秒テクニカルフォール負け…。
あっという間に金メダルの夢が消えてなくなってしまったんです。
その瞬間、真っ先に周りの方に対して「申し訳ない…」という気持ちが湧き出てきました。
試合には家族や親戚が応援に駆けつけてくれていたのですが、リオまでの移動費や宿泊費といった金銭的な面はもちろんのこと、それ以前に、僕のためにわざわざ会場に足を運んでくれている。
その行為に対して、ものすごく感謝の想いを抱いたと同時に、期待に応えられず申し訳ないという気持ちが、一気に湧き出てきたんです。
―― でも、まだ敗者復活戦がありますよね?
はい。
だからすぐに気持ちを切り替えました。
相手は2015年の世界王者と格上の相手でしたが、勝てる確率が0.1%でもある限り、その可能性にかけて全力で立ち向かおうと決めていました。
試合は、終盤までリードされる厳しい展開でしたが、ラスト20秒でポイントを逆転し、そのまま勝つことができたんです。
その直後、僕はすぐに見ることはできませんでしたが、携帯にものすごい件数のLINEやメールが送られてきていて、現地の家族や応援団の方からも「次も頑張れよ!」と声をかけてくださって。
「あぁ、これが五輪なんだな」と。
周りの応援や反響によって、この舞台の大きさをさらに実感しましたね。
ですが、3位決定戦は判定負けを喫してしまい、銅メダルを獲得することができませんでした。
その瞬間も「申し訳なかった」という気持ちが強かったですね。
ただその一方で、「やっと終わった…」という開放感と達成感もあって、試合後のメディアのインタビューで自然と涙が溢れてきたんです。
当時は自分でも何で泣いているのか分かりませんでしたが、無意識のうちに五輪という舞台の雰囲気や周りの方々の支え、期待の大きさが背中にのしかかっていたのかもしれません。
周りの人たちに感謝を。井上が次世代に伝えたい想い

―― それが、日の丸を背負って五輪の舞台に立つ、ということなのかもしれませんね。その後は、東京五輪に向けての挑戦が始まるのでしょうか?
そうですね。
はじめはリオ五輪を最後に引退するつもりでしたが、母国開催ということもあり、「もう4年間頑張ろう」と現役を続行しました。
2017年3月には三恵海運を退職して、翌月に、JOCが行っているトップアスリートの就職支援ナビゲーション「アスナビ」を活用してFUJIOH(富士工業)に入社したんです。
それ以降は、週1回午前中だけ会社に出勤して、選手活動について報告。
それ以外の時間は、大学生の時間帯に合わせながら練習や身体のケア、レスリング教室や取材対応といった活動をしてきました。
しかし、2019年12月の天皇杯で敗れてしまったため、東京五輪への夢は絶たれてしまったんです。
―― ということは、現役を退かれる、と…?
いえ、FUJIOHに後続の選手が入社するまでは現役を続けていこうと考えています。
というのも、同社のレスラーは僕しかいないんです。
選手の採用を、僕を最後に止めないでほしいんです。
FUJIOH社員の方々は、週1回出勤した時には「調子どう?」「次の大会も応援に行くね」といつも声をかけてくれますし、レスリングに興味がない人でも僕の存在をきっかけに、わざわざ会場に足を運んでくれる。
本当にフレンドリーで、温かい会社なんですよ。
だからこそ、僕は「この会社のために」という思いを持って活動できてますし、選手としてやりがいのある環境の中で、たくさんの次世代レスラーに頑張ってほしい。その気持ちが強いんです。
それに加えて、完全に競技活動に専念するよりも、週1回でも会社に行くことで、引退後のセカンドキャリアには対応しやすいと思うんです。
ちょっとした報告や、社員とコミュニケーションを取るだけでも、社会人としてのマナーや常識に触れることができますし、それは絶対に競技活動にも活きてくるはず。
それを踏まえて、僕はFUJIOHのレスリング部の発展に向けて少しでも力になりたいんです。
―― それによって、大学生のレスリング選手が入社できる企業の選択肢を増やすことにも繋がりますね。では最後に、その体育会学生に向けてアドバイスをお願いします。
僕が一番伝えたいことは、周りの方々に対して感謝の気持ちを持ってほしい、ということです。
レスリングって特殊で、一応、個人競技ではあるんですけど、相手がいないと練習ができないので、結局は団体競技なんですよ。
でも「自分一人で戦うもの」だと思っている人が多いから、実は周りに支えてくれている人たちがいる、ということに気がつかないんです。
僕の場合は、リオ五輪に出ることができたのも、食生活を変えてくれた栄養士さんがいて、そのメニューを作ってくれた妻がいて、一緒にいてくれたコーチ、そして応援してくれる家族がいた。
僕自身、それに気づいたのは最近なんですけど(笑)。
でもだからこそ、若い選手たちには早い段階で視野を広げて、周りを見てほしいんです。
誰しもが「世界一になりたい」「五輪に出たい」と目標を持っていると思います。
でも、それは一人では達成できません。
若い人たちには、周りの自分をサポートしてくれている方々に感謝の気持ちを持ちながら、夢に向かって頑張ってほしいなと思います。
取材後記

現在は、FUJIOHのレスリング部の発展、競技普及に力を注いでいる井上さん。
これは後日談ですが、4月よりフルタイムで仕事をすることが決まったそうです。
選手としては引退せず、業務時間外で練習をしながら現役を続けていくのだそう。
働きながら競技活動をしていくデュアルキャリアを実践し、新たな挑戦に向けて突き進んでいきます。
そんな井上さんは、アスリートの価値についてこう話していました。
「アスリートは一つのことしかやっていないから、仕事に就いても最初は不慣れで、人によっては覚えが悪いかもしれません。
ですが、逆に一つのことを高いレベルで継続し、成し遂げる。その“努力するスキル”は、アスリートだからこその能力であり、大きな価値なんです」
自身の競技人生で、その価値を示し続けてきた井上さん。
今後もその姿勢は変わることはないでしょう。
新たなステージでの挑戦でもきっと、周りに感謝をしながら努力を続けていく。
そんな井上さんらしいスタイルで頑張っていってほしいですね。

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井上 智裕Tomohiro Inoue
現役レスリング選手/会社員
取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)
著者Profile
瀬川 泰祐(せがわ たいすけ)
1973年生まれ。
北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「スポーツで繋がる縁を大切に」をモットーとしながら、「Beyond Sports」をテーマに取材活動を続けている。
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