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2025.02.20
ワクワクする方へ。プロフットサル選手・諸江剣語がその一歩を踏み出した時に訪れた変化
「自分を変えたい」。
これまでの人生の中でこう思ったことがある方は、どれくらいいるでしょうか?
Fリーグ・フウガドールすみだのキャプテンをつとめ、“ピッチ上の監督”と言われるほど高い戦術眼とリーダーシップでチームを牽引する諸江剣語さん。
しかし、これまでの競技生活は決して順風満帆ではありませんでした。
一昔前の彼を知る人は「別人のように変わった」と口を揃えて言います。
彼はどのように変化して、いまの地位を築いたのか。
その歩みに迫ります。
Profile
諸江 剣語(もろえ けんご)1987年2月23日生まれ。
石川県金沢市出身の現役プロフットサル選手。小・中学生時代は、石川県金沢市のチームに所属。高校時代は、サッカーの超名門「静岡学園高等学校」で3年間を過ごす。高校卒業後はフットサルに転向し、石川県リーグでプレーする。2006年のFUTSAL地域チャンピオンズリーグ(フットサルの地域リーグ上位チームによる全国大会)での活躍が評価され、名門プレデター浦安(現バルドラール浦安)に移籍。2009年にはフットサル日本代表に招集され得点も記録している。2010年に関東フットサルリーグのFUGA TOKYO(現フウガドールすみだ)に移籍し、FUTSAL地域チャンピオンズリーグ5連覇、2013年には全日本選手権準優勝など数々のタイトル獲得に貢献。2014年にチームはFリーグに参入、翌年には日本代表へ返り咲くなどプレーヤーとしての実績を積み重ねてきた。昨年にはFリーグ通算200試合出場を達成するなど、現在もフットサル界のトップ選手として活躍している。
公式サイト:http://kengo.kataru.jp
静岡学園高校で思い知らされたレベルの違い

―― 諸江選手はサッカーの名門「静岡学園」でサッカーをしていましたが、サッカー選手としてはどのような経歴をお持ちなのでしょうか?
小学生の時に友達の影響でサッカーを始めて、毎日のようにボールを蹴っていました。
中学では地元のクラブチームに入って、北信越代表にも選ばれ、上を目指してチャレンジしたいと思い、高校は親元を離れて「静岡学園」に進学させてもらいました。
当時の静岡学園は、1年生チーム・Cチーム・Bチーム・Aチームとカテゴリーが4つに分かれていて、100名以上の部員が在籍していました。
入学してすぐAチームに上がる人もいましたが、僕は1年生チームで何とか試合に出場できるレベル。激しいチーム内競争の中で、悶々とした日々を過ごしていました。
それでも努力し続けたことが実を結び、高2の途中からAチームに上がることができました。
その年の全国高校サッカー選手権のメンバーに選ばれましたが、ベンチを温めたままチームは県大会で敗退。
そして最高学年になり「ここが勝負だ」と意気込んでいましたが、才能のある1年生にポジションを奪われてBチームに降格してしまいました。
ポジションも転々としていましたし、いま考えれば、可も不可もないようなプレイヤーになってしまっていたのかなと思います。
そして最後はAチームへ昇格することもできずに引退を迎え、僕の高校サッカーは終わりました。
―― 強豪校での切磋琢磨した日々は、苦い経験もあったのですね。
はい。
ただ唯一自慢できることは、朝5時半から7時までの朝練を一度も休まなかったことですかね(笑)。
自分より上手い選手がたくさんいたので、レギュラーを取るために必死の毎日でした。
昨年までJリーグでも活躍していた狩野健太選手が同年代にいたのですが、彼のような選手がプロになるのだろうなと感じたことを覚えています。
―― 朝練が5時半からとはさすが名門校ですね…(笑)。狩野健太選手のどのような所から、違いを感じたのでしょうか?
技術面はもちろんのこと、それ以上にメンタルの部分で僕とは違うレベルだなと。
当時の僕は明確なビジョンを持ってなくて、心の奥底では「プロになるのは難しいだろうな」と思っていました。
彼の場合は常に自信に満ち溢れていて、言葉にも力がありました。
プロになることが当然で、その先を見ていたように感じましたね。
今なら少しは共感できますが、当時はその自信が僕には持てていなかったですね。
フットサル転向後の挫折。そのとき支えてくれたもの

―― 高校卒業後にフットサルへ転向し、上京されました。何かきっかけがあったのでしょうか?
18歳の時にフットサルの全国大会に出場しました。
結果は予選敗退でしたが、その時のプレーが評価されて、大会のベスト5に選ばれたんです。
偶然その会場に足を運んでいたセルジオ・サッポ氏(当時のフットサル日本代表監督)に「今すぐ上京するべきだ」と声を掛けてもらって、その1ヶ月後に「プレデター浦安」というチームに移籍しました。
―― 1ヶ月後とは早い決断ですね!?
よく言われるんですが、迷いは全く無かったんです。
目標が無い日々から変化を求めていたのかもしれません。
父親からも「チャレンジしてこい」と背中を押してもらえたことも大きかったです。
高校進学の時もそうでしたが、いつも背中を押してくれる家族には感謝してもしきれないですね。
――「プレデター浦安」といえば、当時の日本フットサル界では最強を誇っていたチームですね。すぐに適応できたのでしょうか。
いえ、全くと言っていいほど、何もできなかったんです。
当時チームには、数多くの日本代表選手が在籍していました。
そんな先輩たちに囲まれながらのプレーで、高度な戦術を学べば学ぶほど、パスを受けるのが恐くなってしまいました。
正直、先輩達の要求に応えることができなくて、練習の途中で泣いて帰ったこともありましたよ(笑)。
ただその原因は、僕のメンタルが弱かっただけなんですけどね。
フットサル選手としての幅は広がっていたとは思いますが、本来の自分の良さを出すことができずに「このままでいいのかな」と日々悩んでいました。
――フットサルを「辞めたい」と思わなかったのでしょうか?
それが不思議なことに、一度もフットサルを辞めたいとは思わなかったんですよ!
途中で投げ出したくなかったんですよね。
ここまで来られたのは自分1人の力ではないし、家族や仲間の支えがあったから。
そんなことを考えると、簡単に「辞めたい」とは言えないですよね。
それに、苦しい時は高校3年間のことを思い出してみるんです。
そうすると、大抵のことは楽な気分になります(笑)。
それほど、静岡学園高校での生活は僕の心の支えになっていますね。
失敗を恐れずに挑戦する心が自分を変える

――現在は「フウガドールすみだ」の中心選手として活躍されています。移籍した経緯を教えて頂けますか?
当時、苦しんでいた僕を救ってくれたのは、今の監督である須賀雄大さんでした。
先輩に誘われて参加した食事会で偶然出会いました。
そのときに「おれが剣語の自信を取り戻してやる。一緒にやらないか」と力強い言葉をもらったことを覚えています。
当時、FUGA TOKYO(フウガトウキョウ。ドールすみだの前身のチーム)は地域リーグに所属していたので、「トップカテゴリーであるFリーグからカテゴリーが下のチームに移籍する意味がわからない」と周囲からは反対されました。
でも、僕にとっては変わるチャンスだったので、迷うことなく移籍を決めました。
FUGA TOKYOに入って一番衝撃を受けたのは、みんなのチャレンジする意識が物凄く高かったことです。
その反面、ミスも多いのですが、僕に必要なのはこれだなと感じました。
須賀監督もそれを見越して、練習試合では「ハーフラインを越えてたら必ずシュートまで行くこと」など僕に制約を掛けることもありました。
始めは上手くいかないことの方が多かったのですが、徐々に自信を取り戻し、東京都選抜、そして関東リーグベスト5にも名を連ねるようになりました。
――大きな転機となる出会いだったのですね!
はい。さらに僕にとってもう一つの転機が、チーム内での役割の変更でした。
シーズンの途中に当時のキャプテンが退団することになり、「フィクソ」というサッカーで例えるとセンターバックのポジションが空いてしまいました。
そんな時に、監督から「剣語、とりあえずやってみてくれないか」と頼まれたんです。
それまでは攻撃的なポジションを任されていたので、「何で僕なのかな?」と半信半疑なところもありましたが、チームのためならと思い、引き受けることにしました。
ただ、僕は守備とパスを捌くだけではつまらないと感じ、「最終ラインからドリブル突破でチャンスメイクできたら面白いんじゃないか」と思い、リスクをとって攻撃を試みるようになりました。
これが意外とハマり、「攻撃的フィクソ」と呼ばれるほど、気付けば積極的なプレイヤーに変わっていたんです。
さらに2017年からはキャプテンを任されることになりました。
こうして役割や責任を持つことで、自らの言動にも変化があり、1人の人間として成長させてもらったことも感謝しています。
――2017年からこれまでキャプテンを務めていますが、どんなことを意識していますか?
チームメイトから認めてもらえるような言動ができているか、常に自分を客観的に見ることですかね。
あとは若い選手がチャレンジしやすい環境を作って、みんなが主張しやすい雰囲気作りを意識しています。
キャプテン像って色々あると思うんですけど、チームや自分にあったやり方を見つけていけばいいんじゃないかと思います。
ただ、「おれについてこい」タイプのキャプテン像に憧れはありますが(笑)。
不安の裏側にあるワクワク感こそが新しい第一歩の力

――フットサル選手は、企業で働きながら競技を続けている選手が多いと思います。諸江さんは、これまでどのような環境で競技を続けてきたのでしょうか?
前職では、スポーツメーカーで4年間働きながら、フットサルとの両立をしていた経験があります。
主な仕事内容は営業で、チームやサッカースクールのお客様を担当して、ウェアの販売などを行なっていました。
初めの頃はお客様と話すのが苦手で、苦労したこともありました。
ただ、僕がプレイヤーということもあって、お客様のとのコミュニケーションの幅も広がり、良い関係を築けたことも多々ありました。
働きながら競技を続けるのは、時間の作り方やコンディションの調整という面では大変ですが、社会を知るという意味でも非常に充実した4年間でした。
――企業で働きながらプレーすることで、仕事にも良い影響があったんですね。その頃はどのようなスケジュールで1日を過ごしていたのでしょうか?また、いまはどのような生活を送っているのでしょうか?
平日は朝9時半から17時半まで働き、20時半から2時間ほどチーム練習をこなしていました。
土日は大体リーグ戦ですね。
入社して1年が経った頃からは会社の理解も得られるようになり、午前中は筋トレや体のケアにあてさせて頂けるようにもなりました。
現在は、以前より競技に専念すべく、午前中にチームの練習に参加し、午後からフットサルスクールを週2回ほど指導し、残りはフィジカルトレーニングや体のケアに当てたり、他の業界の方とお会いしてスポーツ以外の業界のお話も積極的に聞くようにしています。
――現在33歳という年齢ですが、選手としての目標があれば教えて下さい。
いまはチームを勝利に導くことのできる選手であり続けること、そしてフウガドールすみだの一員として、タイトルを獲得することです。
選手として残された時間は限られているので、一日一日を大切に過ごさないといけないですよね。
引退する時にやり残しがあると次のステージでも中途半端になりそうなので、そうならないようにいまは目の前のことに集中し、できる努力をしたいです。
――引退という言葉がありましたが、現役を退いた後のことは考えたりするのでしょうか?
最近、引退という文字をより身近に感じるようになってきました。
具体的にこれがやりたいというより、いまはまだ模索している段階です。
新しいことにチャレンジしたい気持ちは日を追うごとに強くなっているのですが、先のことを考え過ぎて、選手としてブレるようなことがあると元も子もないので、そこは気を付けたいですね。
――それでは最後に、アスリートの後輩達に向けてアドバイスを頂けますでしょうか?
新しいことに挑戦する時、失敗を恐れて不安になることは誰にでもあると思います。
僕もそうでした。
でもその裏側にはワクワク感があるはず。
そこで新しい一歩を踏み出した人だけが成功に辿り着けるのだと思います。
そして、その過程では数多くの出会いがあるはずです。
常に感謝の気持ちを大切に持ちながら、前に進んでいって欲しいなと思います。
取材後記

諸江選手は2017年10月15日に最愛の兄を亡くし、経験したことのない喪失感を味わったといいます。
「兄がいつも見ていると思って日々を過ごしています。兄のような人になるために」。
こう誓う目は力強さと優しさに満ち溢れていました。
挫折と苦悩を乗り越え、感謝を胸に走り続ける諸江剣語選手のこれからに注目したいですね。

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取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)
著者Profile
瀬川 泰祐(せがわ たいすけ)
1973年生まれ。
北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「Beyond Sports」をテーマに、スポーツと社会の接点を探しながら取材活動を続けている。
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