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2025.02.20
大切なのは、最後までやり切ること。ファルカオFC代表・大久保翼が示す、未来の切り拓き方
「プロの選手になりたい」
その競技に対して真剣に取り組む方ならば、誰しもが追いかける夢です。
しかし、レベルの高い領域に足を踏み入れ、大きな壁に阻まれると、挫折を味わい第一線から退く方もいるのではないでしょうか。
その時、次に進むべき未来が見えるかどうかが、その方の人生を左右します。
今回お話を伺った大久保翼さんは、「一つのことをやり切ったからこそ、次の未来は拓ける」と言います。
大久保さんは、大学卒業後に関西1部リーグを2チーム渡り歩き、引退後は地元の埼玉県久喜市に『一般社団法人ファルカオフットボールクラブ』を立ち上げ、指導者としてセカンドキャリアを歩み始めました。
現在は、関東1部リーグのさいたまSCで現役復帰し、高いレベルでの選手と指導者の両立を目指し活動しています。
そんな大久保さんに、自身のサッカー人生を振り返ってもらいながら、やりたいことに対する意識の持ち方、次のステージに進むために必要なことを伺いました。
Profile
大久保 翼(おおくぼ つばさ)1989年6月4日生まれ
埼玉県出身のサッカー選手。青森山田高時代には、高校2年時に高校サッカー選手権で優秀選手に選出。その後、全日本高校選抜、U-18日本代表にも選ばれ、世界の舞台を経験する。高校卒業後には、国士舘大学に進学。関東大学選抜を経験し、インカレ出場を果たすも、夢であったプロ入りは果たせず、大学卒業後には関西1部リーグ・アミティエスポーツクラブに入団。働きながら選手活動をするデュアルキャリアを実践し、2年後には同リーグのバンディオンセ加古川へ移籍。翌年に現役を引退し、地元の埼玉県久喜市で『一般社団法人ファルカオフットボールクラブ』を設立。2016年には関東1部リーグのさいたまSCで現役復帰し、選手と指導者の両方でさらなる高みを目指す。
センターバックで花開いた青森山田高時代

―― 現在は地元の埼玉県久喜市に『一般社団法人ファルカオフットボールクラブ』を立ち上げ、指導者として活動されている大久保さん。サッカーを始めたきっかけを教えてください。
幼稚園の頃、よく体育の指導をしに来る体操のお兄さんに「君、体も大きいし、足も速いからサッカーやってみたら?」と言われたのがきっかけで、ボールを蹴り始めました。
小学校からは地元のサッカー少年団に入ってプレーし、卒業後は力試しに大宮アルディージャのジュニアユースのセレクションを受けたんです。
しかし、一次試験で落ちてしまって…。
自分の実力のなさを突きつけられた僕は、クラブチームには入らず、中学校の部活動でプレーすることを決めました。
それでも悔しい思いはあったので、中学3年間は“なにくそ精神”でずっと自主練に励んでいましたね。
―― その努力は、中学時代には実を結んだのでしょうか?
いえ、中学のサッカー部もレベルは高くはなく、先生も全くサッカーを知らない方でしたので、県大会にも出場することは叶いませんでした。
ただ、中学2年時に強豪の青森山田高校出身の外部コーチが来てくださって、そのつながりで同高の練習に参加させていただけるようになったんです。
それもあって、個人としては埼玉県トレセンに選出されるまでには上り詰めることができました。
そして中学卒業後は、セレクションにも受かったので、青森山田に入学することができたんです。
―― 一気にレベルの高い環境へと身を置くことになったわけですね。実際に青森山田のサッカーを体験した時はいかがでしたか?
もうレベルが違いすぎて、自分の予想を遥かに超えた世界でした。
周りの選手の試合における判断スピード、パスの速さが中学までとは圧倒的に違くて。
目を慣らすまでにめちゃくちゃ時間がかかりましたね。
それにバリバリの体育会系だったので、挨拶、規律、就寝時間など、その全てが決まっていて、自由というものが存在しませんでした。
なので、いかに理不尽なことを受け入れて、自分の中で消化して行動できるか。
そういう部分でも試行錯誤していた3年間でもありましたね。
その中で、高校2年時からFWからセンターバックにポジションを移したことで、出場機会を増やすことができました。
はじめはヘディングすらまともにできなかったのですが、早朝に先輩たちが起きる前にグラウンドに行ったり、夜遅くに自主練をしたりして、自ら率先して練習時間を作っていくことで徐々にセンターバックとしての自分を確立していくことができたんです。
すると、同年の高校サッカー選手権で優秀選手に選ばれまして。
それを機に、僕のサッカー人生は大きく変化していきました。
そのまま全日本高校選抜やU18-日本代表にも選ばれ、海外遠征なども帯同させていただいて。
「あれ、俺でもやれるんだ」みたいな。
努力は必ず報われるじゃないですけど、評価してくれる人はいるんだなって。
その頃から自信を持てるようになり、さらにサッカーに対して時間を費やすようになりましたね。
挫折から見出した新境地

―― その頃から「プロになりたい」という意識が芽生えた。
はい。
それまでは漠然としか考えていませんでしたが、選抜や代表に呼ばれるようになってからはJリーグの舞台を頭の中で具体的に描くようになりました。
高校卒業後はすぐにプロ入りしたかったので、ベガルタ仙台の練習に参加させていただきました。
しかし、「今の君では即戦力としては無理だね」と言われてしまって…。
正直、僕の家庭はあまり裕福ではないので、できればプロでお金を稼いで親に楽をさせてあげたかった、という気持ちはありました。
でもベガルタの方にハッキリと断られたので、逆に「確かに俺って課題点が多いよな」と弱さを認め、切り替えることができたんです。
それで以前より声をかけていただいていた、国士舘大学に進学することを決めました。
―― 大学での4年間で力をつけてからプロを目指そうと考え直したわけですね。実際にその夢を叶えることはできたのでしょうか?
いえ、結局プロ入りを果たすことはできませんでした…。
この4年間を振り返っても、大学3年時からレギュラーとして定着し、一つ上の先輩で元日本代表DFの塩谷司さんと一緒にセンターバックを組ませていただきながら、さまざまな経験をすることができました。
それに毎日、食事・睡眠・練習その全てをプロになるためだけに費やし、他のことは一切何も考えずに過ごしてきたんです。
それでも、プロになることはできなかった…。
一度、湘南ベルマーレの練習には参加しましたが、契約までには至らず。
その時に「あ、俺、プロに行けないんだ…」と現実を突きつけられた感じがしましたね。
―― プロ入りが閉ざされた後は、どうされたのでしょう…?
大学を卒業する2ヵ月前に、関西1部リーグのアミティエスポーツクラブから熱心に誘っていただいたので、そこでお世話になることを決めました。
当初は正直、企業スポーツというものを少し甘く見ていた自分がいたのですが、実際にプレーしてみると、社会人チームはすごくレベルが高くて。
練習環境もよかったですし、天皇杯にも出場することができたりと、不満は何一つありませんでした。
それと社会人チームなので、午前中は練習、午後はスクールの指導者として働いていたのですが、ここでの経験もすごく大きかったんです。
自分の中にスクールビジネスのノウハウが蓄積されていくに連れて、選手として活動している時に監督・コーチの立場になって物事を考えられるようになり、よりベンチからの指示をピッチ上で体現できるようになりました。
この頃から選手とコーチを両立することに「向いてるかも」と思い始めて、指導者への道も考え始めたんです。
“次世代”に経験の還元を。地元への「恩返し」の想いを胸に

―― では、その頃にはクラブを立ち上げることも見据えて活動していたでのですか?
そうですね。
具体的に決めたのは、社会人3年目、同じ関西1部リーグのバンディオンセ加古川に移籍した時です。
ここでは障害者の方の生活をサポートするデイサービスのような仕事をしながら選手活動をしていました。
その際、空いている時間を利用して起業するための準備を進めていたんです。
当時は起業に関する知識が何もなかったので、資料を探して調べたり、知り合いの起業家に「クラブを立ち上げるにはどうすればいいですか?」と聞いて回っていました。
そして翌年、26歳になる年にクラブを退団すると同時に現役を引退。
「地元に恩返しをしたい」という想いから、久喜市に『一般社団法人ファルカオフットボールクラブ』を立ち上げたんです。
―― ユニホームを脱ぐ際には、未練はありませんでしたか?
正直、めちゃくちゃありました。
自分で言うのもアレですが、サッカーに対する想いは誰にも負けなかったし、日本一練習してきた自負もあります。
でも、そのために費やした時間が戻ってくるわけではありません。
それに、それまで応援してくれていた親や友達の顔が浮かんでくるんですよ。
「絶対にプロになれよ」って言ってくれていたのに、その期待を裏切ってしまった…。
そういう気持ちもあったので、地元に帰ることを少し躊躇したこともあります。
ですが、できることは全て行動に移したので「やり切った」と心から言えますし、それでも無理だったのですから、自分の中では納得し、整理することができました。
それに僕が経験してきたことを、次世代のサッカー少年たちに還元できれば、何か少しでも彼らの人生の役に立つかもしれない。
それを実践するなら絶対に地元だと、この想いは揺るぎなかったですね。
―― 大久保さんの場合、努力して周りに評価された成功体験と、プロ入りを果たせなかった挫折経験の両方があるからこそ、どちらに縛られることのない柔軟なコーチングができるような気がします。実際に起業してからはいかがでしたか?
はじめは生徒もいなくて、お金もなかったので、久喜市にあるカフェでアルバイトしながら運営をしていました。
毎日、朝の9時から夜の12時まで働いて、帰ってからは自主制作のチラシを朝の5時まで一軒一軒撒いていく、という過酷な生活を送っていましたね(笑)。
でも、高校・大学で校則が厳しく理不尽な経験をしてきたことが良い方向に働いて、そういった大変な日々を「楽しい」と感じていた自分がいたんです。
「眠いなぁ」「面倒くさいなぁ」と思いつつも、この努力を積み重ねれば、絶対に次のステージに行けるなって。ポジティブに捉えることができました。
つらいことを乗り越えられれば、サッカー以外のことにも生きてくるんだなと、そう感じた瞬間でもありましたね。
そして、2年目からは徐々に口コミ評判も広がり、初年度とは比べられないくらいに生徒が増えていきました。
それに伴ってコーチも仲間に入ってくれて、4年目の今ではスクールを毎日開けるほどに拡大することができたんです。
一つのことを「やり切った」と思えるくらい突き詰めてほしい

―― 大久保さんのお話を聞いていると、スポーツでの経験をしっかりと仕事に生かせている。その逆も然りで、その都度得た学びを必ず次のステップで成功するための力にしていますよね。その生き方は、デュアルキャリアの価値の大きさを示しているように思えます。
そうかもしれませんね。
これは社会人一年目での経験談なのですが、スクール事業と選手活動って、すごくリンクしているなと感じていて。
というのも、普段サッカーを教えていると、僕が休日に選手として試合に出場する時に、生徒たちがわざわざ応援に駆けつけてくれるんですよ。
スタンドから「先生〜頑張って!」って。
その声を聞くと「頑張ろう」と思えるし、スクール事業もさらにやりがいを感じながら取り組むことができる。
また、コーチングを経験することによって「人に対する伝え方」を学ぶこともできました。
僕はそれまで、自分の言いたいことを考えなしに話したり、逆に意見されるとカチンと頭にきてしまったりと、喧嘩っ早い選手でして(笑)。
でも社会人として組織に属して、先輩やお客さんなどたくさんの方々と接するようになってからは、今まで「本当に自分が伝えたかったことを伝えられていなかった」ことに気づいたんです。
それ以降、何かを要求する時は、相手のことを認めてあげた上で自分の意見を言う、ということを意識するようになりました。
今のスクールでの指導においても、たとえ生徒がミスをしたとしても否定的な発言はせず、相手を尊重し、認めてあげる。
周りから見ればミスでも、本人は何か意図を持って行動したはずなので、その考えを理解した上でアドバイスをしていく。
こうした方法を念頭に置きながら指導しています。
それによって子供たちにも僕らの想いが伝わり、どんどんチャレンジしてくれるようになりました。
企業での経験によって、アスリートとしても、一人の人間としても成長することができましたね。
―― それを踏まえて、これから社会に出ていく体育会学生に向けてアドバイスをお願いします。
自分の経験談としては、何をするにも、まずは一つのことをやり切ってほしいです。
次のステージというのは、やり切ったからこそ見えてくるもの。
サッカーじゃなくても、どんな競技や仕事でもいいのですが、何か心から挑戦したいことが芽生えたら、その瞬間に取り掛かって、とことん突き詰めてください。
その先に、また違った景色が見えてくるはずです。
自分に嘘をつかず、心の底から「やり切った」と思えるくらい、一つのことに真剣に取り組んでいけば、それを評価してくれる人は必ず現れるはずです。
それを信じて、どんどん行動に移していってほしいなと思います。
取材後記

このインタビューで、大久保さんの一言ひとこと、そしてその力強い真っ直ぐな眼差しに、心を動かされました。
この世界に、一つのことを心の底から「やり切った」と思える人は、どれだけいるでしょう。
そう考えたら、彼こそ“本物のプロフェッショナル”なのではないかと、筆者は思うのです。
そして、大久保さんには新たな夢があります。
それは、『一般社団法人ファルカオフットボールクラブ』が、生徒たちが卒業しても、いつでも帰ってこれる場所になること。
気軽にボールを蹴りに来てもいいし、結婚して生まれた子供を連れてきてくれたっていい。
この場所に関わった人たちにとってのホームになることが、大久保さんが描くこのクラブの在り方なのです。
サッカーが大好きな子供たちのために、そして地元・久喜市のために。彼の挑戦は、まだ始まったばかりです。

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大久保 翼Tsubasa Ookubo
現役サッカー選手/
一般社団法人ファルカオフットボールクラブ代表
取材・文・写真/瀬川泰祐(スポーツライター)
著者Profile
瀬川 泰祐(せがわ たいすけ)
1973年生まれ。
北海道旭川市出身の編集者・ライター。スポーツ分野を中心に、多数のメディアで執筆中。「スポーツで繋がる縁を大切に」をモットーとしながら、「Beyond Sports」をテーマに取材活動を続けている。
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